てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

【緊急!】『天空の蜂』ディスカッション会の内容変更について

2015年08月30日 07時34分24秒 | 開催予定
                                

緊急ですが、今回の『天空の蜂』ディスカッション会につきまして、昨夜、イベント内容に関して以下の点が変更になった旨、主催者である松竹の担当者の方からご連絡をいただきました。


1.登壇者サイドの皆様(江口洋介さん、堤幸彦監督)のディスカッションイベントへの参加は難しいという状況となってしまいました。
ただ、ゲストの皆様からも、是非皆様にご挨拶し、ご意見やご感想を聞けるのは有難いというお気持ちがありますため、会の終盤部分で、堤監督・江口さんともども、皆様へご挨拶できるうな場を設けたいと考えております。(皆様との記念撮影も調整中でございます。)

2.マスコミによるTV撮影も全てなしとなりました。
※ただし公式HPにて、事後にレポート掲載はさせていただく予定です。


江口洋介さんや堤監督とディスカッションできることを目的にご参加申し込みいただいた皆様には、大変残念なお知らせとなってしまいましたが、ご本人たちとお会いすることは可能です。
むしろ、今回は県内各地からこのイベントに多くの中学生~20代社会人の方々にお集まりいただけていますので、開沼博さん(社会学者)の司会のもと、多様な意見が飛び交う中でディスカッションが実現されることは間違いないでしょう。
私は小説の『天空の蜂』を読ませていただきましたが、とてもスリリングで、かつ終盤の展開では「原発とは何か」について考えさせられる仕掛けとなっていることに感銘を受けました。
これが95年に書かれたものとは思えないくらいです。
この小説のおもしろさがどこまで映画に反映されているのか興味深いところですが、その点も含めて、参加者の皆様にお楽しみにいただければ幸甚です。


映画「天空の蜂」上映&ディスカッション会・参加者募集のお知らせ

2015年08月25日 13時17分22秒 | 開催予定

                   

またまたものすごい企画が立ち上がりました!
前回の本deてつがくカフェでゲストとしてお世話になった開沼博さんからのお誘いで、
松竹主催の映画「天空の蜂」上映&ディスカッション会に、てつがくカフェ@ふくしまが協力させていただけることになったのです

しかも、しかもです
主演の江口洋介さんと堤幸彦監督も参加予定なのです
ただし、今回は主催者からの要望もあり、
参加資格は福島県内の中学校・高校・大学に通っていることと、
映画上映とディスカッションの全体を通して参加出来ることが条件となります


社会人の皆様には申し訳ございませんが、なにとぞご理解の上、宣伝を広めていただければ幸いです。
以下、開沼さんからの案内文です。

8月30日(日)、福島駅付近にて、1995年に東野圭吾が原発の事故を扱っていた、予言的作品を原作とした映画「天空の蜂」の上映&ディスカッションの会を開きます。
3・11を経験した福島の生徒・学生が映画を観て何を感じたのか、
これからの福島の未来にいかなる希望を見出すのかなど多様な議論が出る機会になればと思います。
当日は監督の堤幸彦さん、主演の江口洋介さんも議論の場にくる予定です。
原作(東野圭吾『天空の蜂』)を読んでくること推奨。


定員は40名。先着順で定員に達し次第、締め切ります。
当日はメディア(テレビ撮影等)も出入りする予定がありますのでその点ご了承下さい。

具体的なスケジュールは以下のとおり
10時半 開場
11時 上映開始
13時18分 終映・休憩
13時40分 議論スタート
15時すぎ 議論終了

参加料 無料

体的な場所はお申込みいただいた方に、当日の詳細とあわせて、追ってご連絡します。福島駅近くです。
ご興味ある方、ぜひ以下のフォームより必要事項をご記入の上、お申込み下さい。
https://docs.google.com/forms/d/14WEfmCzp-1DU6yg6Afr8-oWAmSP6g-zfKNyltAt4FM0/viewform


(福島大学うつくしまふくしま未来支援センター 特任研究員 開沼博)
主催:松竹
協力:てつがくカフェ@ふくしま


第31回てつがくカフェ@ふくしま報告―「〈おとな〉とは何か?」―

2015年08月23日 10時44分17秒 | 定例てつがくカフェ記録
昨日、「イヴのもり」にて第31回てつがくカフェ@ふくしまが開催されました。
テーマは「〈おとな〉とは何か?」。
参加者は19名。
今回はブログで予告していたように、ネオソクラティックダイアローグの手法を導入しながら、参加者同士の合意を探りつつ「おとな」の在りようを定義していこうと宣言して始めました。
以下その議論の記録です(ただし、記録者の解釈が含まれるので、発言者の意図や内容とずれがあるかもしれませんが、その際にはご容赦ください。)



「では、話し合いの切り口として、大人と成人を一緒にしていいのか、というところから確認させて下さい。あるマサイ族の家にお嫁に行った女性が夫に年齢を聞くと、「わからない」と答えたそうです。そもそもマサイ族には年齢がなく、少年時代と戦士時代、老年時代のどこに属しているかが重要になるのだそうです。そこでは男性だけが大人になる特権を持っていて、男性だけが財産処分権をもっています。日本では年齢で自動的に成年になるけれど、「おとな」になるというのは年齢では決められないものではないでしょうか。」

「大人と成人は複線的に考えられるものではないでしょうか。この時点では「おとな」とは何かわかっていない、成人とは何かはわかっていないので、まず大人の定義をはっきりさせてからその区別を議論した方がよいと思われます。」

「大人と成人とは重なり合いながらも、ちょっとずれる部分があるでしょう。その上で、私なりに定義すると、成人とは自立して責任ある行動を取って社会に貢献することが求められる人。大人は求められるのではなく、能力がある人ということになります。」

「ポイントは「求められる」のが成人で、大人はその「能力がある」というところですね。」

「生物としての大人は生殖能力を持った段階のことを指すならば、当然高校生になれば大人だといえると思います。ただし、社会的な大人はそれとはまた異なるものでしょう。いくら生殖能力が身についたら大人と言ってみても、小学生を大人とは言わないですから。」

「私が、この人大人だなぁと思ったのは、小学校4年生の時にある女の子の友達が「へぇ、あなたはそう思うんだ」という言葉を聞いたときです。大人の部分もあるけれど子どもの部分もあることがその人の個性。年齢は関係ないでしょう。他者には他者の意見があっていいんだということを理屈ではわかっていても、自分のものとしてそれを理解できることが大人なのだと思います。」

「大人って評価的な言葉ではないでしょうか。あの人は大人だよね、という風に。では、大人と評価できる人はだれかというと、人と人との間に立つときに、その場にいる人を共有させることができる人を大人と呼ぶのではないでしょうか。自分自身のことだけでいっぱいいっぱいになっているのは、まだ子どもです。」

「アリエスの『子どもの誕生』という本があるように、「子ども」という概念がある時代から作られたのと同じように、「おとな」という概念もまた、時代や社会に要請された概念に過ぎないでしょう。それについて大人とは何かと問うても、「大人=NOT子ども」という定義の事例をたくさん挙げることはできるけれど、それに意義があるとは思えません。もっと「大人」という概念を絶対化せず、相対化してみればいいのではないでしょうか。」

「それは大人とは何かを問うことは無意味だということでしょうか?」

「いや、無意味とまではいわないけれど。結局、大人も社会の要請によって生まれた概念ではないでしょうか。地域によって大人の定義はずいぶん異なりますし。

「先ほどの発言で成人と大人の区別があったように、大人ってどこか文学的なもののような感じがします。社会的に共有はされている言葉だけれども、その意味は変わりうるものですし、それは社会がつくるものでしょう。その点で、割と「大人」という言葉は肯定的な意味で使われるけれど、本当にそんなにいい意味なのかなと思います。」

「日本では調整能力があるのを大人というけれど、欧米のように自己主張が強いことが大人とする社会もあるよね。」

「子供っぽい大人や大人っぽい子供もいる。成人の定義はできるけれど大人の定義は非常に多様で、大人として求められる素養はたくさんあるけれど、その場面で変わることはあります。」

「「大人」という言葉自体にいい悪いはないのではないでしょうか。図々しいという言葉はいい意味では使われないけれど、「図る」ことを重ねるという意味ではいい意味でもあるでしょう。それで、言葉の語源を調べてみたのですが、その言葉の中には本質みたいなのが含まれていることに気づかされました。「お」は奥深い、「と」は統合、「な」は格の語源があるそうです。ここからも大人の本質が示されていると思いました。」

「古文にも平安時代にはすでに「おとなし」という言葉が使われていて、「年寄りはおとなしく云々」というくだりはいい意味で使われています。源氏物語でも自分の立場をわきまえて矩(のり)を超えないことを「おとなし」という意味で用いられています。」

「確かに、日本的な大人のイメージですね。」

「『論語』では、「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰えず」とあるように、心の赴くままに行動しても「のり」を超えない境地に至るのは70歳だということになりますね。すると、大人になるというのはけっこう先の話だなぁ。」

「小浜逸郎の定義・分類によれば、「大人」は生物的・社会的・心理的大人の3つの層に分かれているそうです。その上で、心理的レベルで大人を定義してまとめるのは大変だろうなと思いました。でも、人間の場合、生殖能力が身に着いたことだけで大人とは言わないでしょう。というのも、人間の場合は遺伝子を残すだけでは終わらない。産みっぱなしではなく、育てられるレベルまで問われるのが人間です。だから、人間は文化を伝えるという社会的レベルで再生産可能なものが大人ということになるし、それだと議論は進むと思います。」

「意識的に自分を見つめられる段階が大人じゃないでしょうか?」

「それは心理レベルでの大人かな。」

「文化の再生産ということに関していえば、もともと王族ではない下級地主層のジェントルマンが、新興階級としてあえて王族や貴族と同じ振る舞いの仕方を子孫に伝えようとして、子弟に上流階級の徳目を身につけさせようと教育したことも関係するんじゃないのかな。」

「いや、私は徳目の話をしているのではありません。それは心理レベルの話だと思う。」

「うーん、でも身に着けているものをもって初めてジェントルマンとして認められるわけだから、それは大人として認められるということにもなりそうだけどなぁ…」

「文化の再生産という言葉に関して、今の議論は、人類として持続していくために子どもに文化を伝えていくのが教育であるという議論と、上流階級に参入するための資格(資質)を文化として子弟に伝えていくものも教育だという話が混同されています。」

「自分自身のことを離れて、他者のために何かをしようとし始める、他の人の責任を取るということが大人なのではないでしょうか。」

「今の議論に関して言うと、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」を見た世代が大人になってリメイクし、その内容を発展させようとすることは、大人として次世代に責任をもって受け継ぐということになる例だと思います。」

「すると、大人とは何ですか?」

「大人とは次世代に文化を受け継がせる責任を持っているもの、ということになります。」

「どうしても再生産という言葉が引っ掛かりを覚えます。文化が伝えられていくことは大事だけれど、社会には変化も必要でしょう。そうすると再生産という言葉が引っ掛かるのです。」

「大人は文化を再生産するもので、それをブレイクスルーするのが子どもということでしょう。」

「社会的なブレイクスルーの例は?」

「革命です。」

「ロック、パンクの世界では大人は悪いものとして見なします。だから、そういう文化にある人々は社会を壊してしまうから子どもだということになるでしょう。でも、そういう人々が世の中を変える権利を持っている、悪い大人が支配している世の中を変えていくということを彼らは訴えます。だから、子どもは正しいんだけれど弱い、大人は悪いけれど強いという枠組みがあるのではないでしょうか。革命もそういう構図を持っていると思います。」

「安倍首相は子どもだと思うんですけれど、権力を持っていても考え方が子どもの議員もいるから、子どもが正しくて弱いかと言えば、100%そうだとは言えないですね。」

「政治の世界にいる人は子どもばっかりだと思う。その時の子どもという意味は、何も分かっちゃいないという意味です。子どもの正しさは純粋、自然な感覚ですが、伝統と創造ということに関して言えば、慣習を破るものが子どもの力で、大人は伝統を保守するものでしょう。」

「子どもらしさはいいものだという価値観を引き継いで言えば、子どもっぽさが残っている方が魅力的だというのが日本社会ではないでしょうか。欧米では、子どもは未完成な人間とみる社会であるのに対して、日本社会では子どもらしさは悪い意味では使われない。そこには子どもの可能性に期待するという意味があるように、社会が悪い時ほど子どものイメージがもてはやされるものではないでしょうか。」

「大人の本質を考えると、精神的社会的レベルの座標に自分をおいて自分自身を見つめることができる、意識して自分を見ることができるのが大人かなと思います。距離を取って客観的に自分を見ることができるのが大人なのです。」

「他者の視点でメタ認知的に自分を省みることができるのは大人かなと思う。社会の再生産に関して言えば、社会を変えていくのも結局は大人です。未来の視点で社会を見ていけるのが大人。子どもにないスキル、人格をもっているのは大人ということになりますが、それだけだと単なる文化の再生産になってしまいます。他者の視点で見る力があるからこそ社会を変えていくことができるのではないでしょうか。」

「大人が意図的に「社会を変える」ということではないんじゃないかな。「社会は変わった」というのが歴史の実際ではないでしょうか。大人が社会を変えるというのはどうかなと思います。」

「例えば、ドイツが原発事故を機に原発依存を止めて再生可能エネルギーにシフトしたのは大人の判断でしょう。」

「ドイツの原発の話に関して言えば、社会の良い部分を残しながら改良していくというもので社会の根本的な変化とは言えないのではないでしょうか。社会を根本から変えてしまう革命は、すべてをぶっ壊しながらその先は考えないものです。だから、大人は社会の根幹を変えないために変えるものではないでしょうか。」

「なるほど、社会の根幹を変えるのではない改良主義を担うのが大人であるということですね。それに対して子どもはすべての根幹を破壊しかねない革命的な存在だと。」

「大人は修正主義といってもいいよね。」

「全部が見える位置にいるのが大人で、その中でできる最大のことができるのが大人です。大人ができなかったことを新しい形で生み出すのが子どもです。だから、大人と子どものそれぞれの力の良さという両輪がうまく回って、世界は動いているのかもしれません。」

「大人は子どもに比べると一般に知識豊かで経験豊かであるといえ、大人は大局的に長期的に判断できる存在ということではないでしょうか。」

「大人は未来につないでいくことを担うわけですが、過去に目が向いていないと大人になれないと思います。今の社会が成り立っていることをふり返って自分があることを考えて先につなげることができる存在。子どもにはそれが欠けている。子どもには過去と未来のつながりを感じられないはずなので。」

「子どもと大人というのは年齢的なものではなく、大人的なものと子ども的なものは共存しなければいけない。大人になるためには訓練は必要ですが。」

「議論の冒頭に出てきましたが、大人というものを考える上で根幹にあるのは、自立という言葉ではないでしょうか。心理的なものとは別に、経済的に自立することが大人の必須条件でしょう。そこを探らないと心理的な議論で終始してしまう。必要条件の話と十分条件の話を分けるとすれば、前者の話をしていかないと議論は収拾がつかなくなると思います。」

「経済的自立と言えば、ヒモは大人?」

「専業主婦も大人だと思うので大人でしょう。」

「ニートは?」

「子どもでしょう。」

「病気で入院している人は?」

「能力論で定義すると大人に当たらないかもしれません。」

「メタ認知ができる人が大人という意見に共感できます。改良できる人。子どもは純粋さがあってブレイクスルーできる純粋さはあっても、意識的に選択できません。」

「でも、他者の立場に立って物事を考えるというメタ認知は、ある程度気の利いた小学生でもできますよ。」

「貧しい国で働かざるを得ない子どもたちの方が大人なような気がするので、自分で選べるというのは大人の条件にならない気がします。やむを得ず社会に投げ込まれる分だけ大人な気がするけれど、なぜそういえるのかはわかりませんが。」

「私の子どもは発達障害の傾向があるので週3日しか働けません。だから、経済的自立という点では大人とは言えないけれど、大人になっていないとは言えないと感じます。というのも、自立とは親子の間柄でも対等な人間として自分の意見を言えることができる存在だと思っているからです。すると、経済的自立をもって大人の基準は決められないな。自分で決断ができる意味での自立が大人の条件ではないでしょうか。」

「自分の意思を言って、かつ他者に認められるようになるのが大人だと思います。それに関して言えば、責任を取るということとが大人の定義になると思います。ニートでもその人が犯罪を犯せば、当人に罪を償ってもらいますよね。」

「責任を取れるのが大人というのは腑に落ちますね。」

「なぜか高校球児が大人に見えますよね。白鳳も私より年下だけれど私より大人に見える。それは一つの共同体の中で自立した存在だからではないでしょうか。経済的自立も、この社会の中で自立しているからですが、するとその社会に適応していくことが大人なのだといえます。」

「でも、学校生活に適応している小学生が自立しているといえないでしょう。」

「自立と適応はイコールなんですか?」

「私はイコールだと思います。」

「一応の完成が大人だとすれば、教育しなければいけない対象が子どもです。教育段階を終えた人が大人で、教育を与えられる状態が終わった段階で子どもは終了です。」

「18歳選挙権をもつということは大人として行動しなければいけないということでしょう。大人を創り出すのが学校教育だとすれば、今回の18歳投票権の導入は、高校卒業段階がそのラインであることを鮮明にしたことになる。社会に責任を持たされるということで。だから高校教育の責任は大きいと思います。」

「いや、18歳投票権が認められようが認められるまいが、それ以前から高校教育は社会に出ることを前提に行われていたわけですから、この制度によってより大人になるための責務が重くなるということではないと思います。むしろ、シティズンシップ教育で多様性を育むとか言う割に、その一方で大人になるための教育システムが学校教育に一元化されることの方が問題ではないでしょうか。昔は勉強ができなかったりヤンキーだったとしても、地域の祭りのときに活躍したりおとなの一員として見なされていたと思いますが、地域社会の崩壊や学校化社会の進展とともに、彼らのような存在を受け止める領域が失われるるあるように思われます。その結果、大人を育成する社会システムが単層化しつつある点が危機的だと思います。」

「たしかに、大人として育てたり、大人として認める領域は社会にもっとあったよね。」

「大人になりたい人もなりたくない人も社会的に要請されて初めて大人になるのだとしたら、大人になるって受け身的なものかもしれませんね。」

「そろそろ終了まで残り10分となりました。ここでベタですが、皆さんは大人なのですか、という質問をさせてください。大人だと思うとしたら、なぜそう思えたのでしょうか?」

「今の質問でわかりました。私の場合、周りの親や大人に言われてきたことが自分の言葉で言えるようになったときに、大人になったと思えたのです。」

「今の意見でいうと、小学生のお姉ちゃんが、親に言われることと同じことを妹に説教する場合にも当てはまるのではないでしょうか。」

「いや、実体験を言えているか、おうむ返しで言うのかでは相当違うのではないでしょうか。」

「バイトで初めてお金をもらったとき。自分で稼いだという機会に大人になったと感じました。経済的自立に至ってはいないんだけれども。」

「私の場合は、17歳の時に家を出て大学の寮に入ったときですね。そして、バイトで稼いだときもです。家庭にいるときはわけもなくむかむかしたけれど、自分で生活し始めたときに大人になったと初めて感じました。あと、社会人になったときと、家庭を持って子どもに対して責任を持ったとき。誰かのために責任をもつということが大人になったときに感じたものです。」

「仕事がら子どもと関わるので、そのときは大人でなければいけません。そんな時に自分は大人だと感じます。」

「自分のことを子どもだなぁと思うことがあるけれど、皆さんの話を聴いて自分で選ぶことや経済的自立という考え方でよいのであれば大人の一員かなと思いました。」


ご覧いただきましたように、「おとな」の定義に関して合意を形成するという当初の目論見はみごと破たんし、いつものてつカフェの展開となりました…
あらためてファシリテーターとしての未熟さを痛感させられました。
というよりも、福島の哲学的対話の〈かたち〉が根付いてきたということでしょう。

今回、私自身は皆さんの議論を聞きながら最後にハンナ・アーレントのエッセイ「教育の危機」を想い起したということを述べさせていただきました。
アーレントはそのエッセイの中でこう言っています。

「つねにわれわれの希望は各世代がもたらす新しいものに懸かっている。
しかし、われわれの希望はひとえにこのことを拠りどころとするため、旧いものであるわれわれが新しいものを意のままにしようとし、その在り方を命じようとするならば、われわれはすべてを破壊することになろう。
まさに、どの子供にもある新しく革命的なもののために、教育は保守的でなければならない。
教育はこの新しさを守り、それを一つのものとして新しいものとして旧い世界に導き入れねばならない。
旧い世界は、その活動がいかに革命的であろうと、来るべき世代の立場からすればつねに老朽化し、破滅に瀕しているのであるから。」
(アーレント「教育の危機」259~260頁,『過去と未来のあいだ』所収,みすず書房)


実は、いまから約20年ほど前にこのエッセイを読んだ時分には、フツーの保守的で権威主義的なおっさんがいうようなことを何でアーレントほどの思想家が言うのだろうと訝しく思っていたのですが、年齢と経験を積み重ねるとともに、このエッセイの重要さが身に染みてわかるようになってきました。
そして、この文章の意味が腑に落ちたとき、若い頃と違った私自身になっているのだなぁと気づかされたという意味において、「大人になった」ことを実感させられたものです。
今回の議論の中で出された大人の保守性と伝統文化の伝達、革命的な子ども性という議論は、図らずもアーレントの論と重なり合うものだったと理解しています。
新しい革命的なもののために大人は世界を保守しなければならないということ。
これを担える大人とは何か。
社会的に自立した存在が大人だという議論とはまた別の論点をいつの日かもう一度深め合いたいと思う機会となりました。

第31回てつカフェ・ポスター完成!

2015年08月19日 12時07分32秒 | 開催予定
今週の土曜日 (8月22日)、「第31回てつがくカフェ@ふくしま」 が開催されます。

今回は、18歳選挙権の法案成立にちなみまして、テーマは 「〈おとな〉 とは何か?」 です。

ポスターはこんな感じで夏らしい雰囲気のものを作ってみました。



「Poster Artist」 というソフトを使って作っているのですが、

そのソフトに付属していたテンプレートを使ってポスターを作成しているので、

夏場はよくこのデザインを使っています。

ただし元々のテンプレートはこんな感じの色調でした。



モニターで見るかぎりはこちらの色合いのほうがいい感じなのですが、

大型プリンターで実際にプリントアウトしてみると、

この背景の青い部分がものすごく濃い色になって、全体に暗い感じになり、

夏らしさが微塵も感じられなくなってしまいます。

モニター上で見たものと実際にプリントアウトしたものとでは色味が違ってしまう、

ということは知識としては知っていましたが、

まさか自分がその問題に直面することになるとは思っていませんでした。

そこで背景の色を思い切って明るく変えてみました。

モニターだと背景が明るすぎてうるさい感じに思われるかもしれませんが、

印刷したものを見てみるとこれで十分落ち着いた感じになります。

テーマを表現するための画像としては、このテーマが選ばれるきっかけになった、

18歳選挙権法案の成立を伝える新聞記事と、

「おとな」 を感じさせる画像 (就職、結婚、出産、飲酒・喫煙等) をテキトーに選んでみました。

はたして 「おとな」 とは何なんでしょうか?

何をもって 「おとな」 と言えるのか?

今回はいつものように言いっ放しではなく、できるかぎりの合意を目指してみたいと思います。

ぜひお気軽にご参加ください!

第31回てつがくカフェ@ふくしまのご案内―「〈おとな〉とは何か?」―

2015年08月17日 15時51分11秒 | 開催予定

【テーマ】「〈おとな〉とは何か?」
【日 時】 8月22日(土)16:00~18:00
【場 所】 イヴのもり(福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


いよいよ18歳投票権が法的に認められました。
今後は、それに合わせて、これまで未成年として認められなかったことが、18・19歳にも認められていくことも予想されます。
とはいえ、これまで「子ども」扱いされてきた年齢層が、法律によっていきなり「おとな」扱いされるのもヘンな気がします。
今回はそこに焦点を当て、いったい「おとな」とは何か、何をもって「おとな」と言えるのかを問いたいと思います。

ところで、世話人は、先日東京で開かれましたカフェフィロ主催の「ネオソクラティクダイアローグ」(通称:NSD)の研修に参加して参りました。
これは、哲学カフェと異なり、2日間かけて少人数(約10人)で徹底して合意を探りながら、ある問いに対する一般的なテーゼを対話を通じてつくり上げるという営みです。
2日間思考と対話しっぱなしという、とても贅沢な時間を過ごす中で、あらためて他者と合意することの難しさを経験して参りました。
(これについては後日、ブログで報告があるでしょう。)
いつもの哲カフェでは各人の意見の言いっぱなしを保障し、それほど互いの合意を探ることに執着してきませんでしたが、実は、その点はファシリテーターとしてどうすべきか思い悩んできたのも事実です。
今回のNSD体験は、この課題についてあらためて考えさせられるよい機会となったわけですが、いつもながら思いつきで動く世話人二人は、さっそくこの「合意を探る」ことを重視しながら、今回のテーマについて対話を試みようと思ったわけです。
だからと言って、日本人よろしく空気を読んで参加者の意見になんとなく合わせる必要はまったくありません。
各人が自分の意見にこだわりを持ちつつ、そこに他者との共有点がありやなしや。
今回の哲学カフェでは、この点に重きを置きながら、これまでの対話方法より異質な目的と方法でもって取り組んでみたいと目論んでいるところです(思いつきなので、しないかもしれませんが…)

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

てつがくカフェ@ふくしま世話人


『連続講義 現代日本の四つの危機―哲学からの挑戦―』(講談社選書メチエ)が発売されました!

2015年08月13日 08時42分08秒 | メディア掲載

                    

講談社選書メチエ『連続講義 現代日本の四つの危機―哲学からの挑戦―』(講談社選書メチエ)が発売されました

これは「3.11特別篇」でお世話になっています高千穂大学の齋藤元紀さんが編集された書籍で、現代日本の最先端を行く錚々たる哲学者たちの連続講義録が採録された内容となっています。

著者の中には、やはり「3.11特別篇」でお世話になっている牧野英二さんや、「哲学書deてつがくカフェ」でお世話になった森一郎さんもいらっしゃいます。

何より、世話人・小野原がその著者の一人として顔を連ねております。しかも、「民主主義の危機と哲学的対話の試み」 というタイトルで、まさに、てつがくカフェ@ふくしまの歩みから民主主義と哲学的対話の可能性を論じているのです

哲学的対話に関しては、その他にも「対話としての哲学の射程 ―グローバル時代の新たな哲学運動」として梶谷真司さんが論じられていますが、読むにつけ哲学が現代社会の危機とともに新しい形が求められていることを痛感させられます。ぜひ、ご関心のおありの方はご一読されてみてはいかがでしょうか。

以下、Amazonの書籍紹介です。ご参照ください。

本書は、2014年9月から2015年1月にかけて高千穂大学で行われた連続講義を基にしたものである。日本を代表すると言っても過言ではない12名の哲学者たちが、一般の聴衆を前に「現代日本の危機」を提示し、その打開策を探る「哲学からの挑戦」の試みは、大きな反響を呼んだ。本書は、熱のこもった会場の模様を再現することを目指し、ライヴ感あふれる口語体による連続講義として編まれる。編集には、現在注目を集めている気鋭の哲学者があたった。
「実学優先」が叫ばれ、「哲学や人文学など不要だ」という暴論まで平気で口にされる現状の中で、「知」の拠点であるはずの大学は、まさしく存亡の危機にある。また、インターネットをはじめとする情報通信技術の発展によって、グローバルな規模でのコミュニケーションは確かに加速したが、逆説的にも、それに比例して「ことば」はただの消費材と化し、思慮ある議論の場は急速に失われつつある。そうして、一見、高度に成熟したように見える社会の背後では、人が生まれて死ぬという「いのち」の事実に対する感性は鈍くなり、世界各地でテロをはじめとする、従来の観念では捉えきれない「戦争」の現実味がかつてなく高まっていることは言うまでもない。
本書は、ここに掲げられた「知」、「ことば」、「いのち」、「戦争」という「四つの危機」を正面から取り上げ、立ち向かおうとした哲学者たちによる真剣な格闘の記録である。歴史を振り返れば、哲学はいつも時代の危機と闘う役割を担ってきた。哲学によってしか打破できない危機があり、哲学によってしか切り拓かれない未来がある。その未来の姿は、本書の中で生きた言葉を通して指し示されている。

なお、本書刊行に際してイベントもあるようです。こちらもご参照くださいませ。

SAITO LAB. BLOG 齋藤研究室 http://blog.goo.ne.jp/eksistenz/e/1e5a8a73746db9a8d3019530a650c03a

『連続講義 現代日本の四つの危機――哲学からの挑戦』(講談社選書メチエ、2015年8月10日刊行予定)刊行ならびに刊行記念イベントのお知らせ

好評を博したあの連続講演が、いよいよ一冊の書物となって帰ってきます。
高千穂大学(東京・杉並区)の「総合科目B」として、2014年9月30日から2015年1月20日にわたり、「危機の時代と哲学の未来」と題して行われた14回の連続講演が、講談社選書メチエのシリーズとして2015年8月10日に刊行されます。タイトルも『連続講義 現代日本の四つの危機――哲学からの挑戦』と一新、「知」、「ことば」、「いのち」、「戦争」という4つのテーマのもとに再編しました。日本の哲学界を代表する12人の哲学者たちが、その思考の限りを尽くして現代日本の「危機」に真正面から挑戦します。どうぞご期待下さい。

執筆者一覧
牧野英二(法政大学教授)/信原幸弘(東京大学教授)/西山雄二(首都大学東京准教授)
梶谷真司(東京大学准教授)/小野原雅夫(福島大学教授)/魚住孝至(放送大学教授)
斎藤慶典(慶應義塾大学教授)/森一郎(東北大学教授)/高田珠樹(大阪大学教授)
澤田直(立教大学教授)/宮崎裕助(新潟大学准教授)/矢野久美子(フェリス女学院大学教授)
齋藤元紀(高千穂大学教授)



また本書の刊行を記念して、2015年9月7日(月)、朝日カルチャーセンター(東京・新宿)にてスペシャルイベントを開催します。本書執筆陣のうち、澤田直、森一郎、齋藤元紀の気鋭の3名が一堂に会し、講談社の互盛央氏の司会のもと、「危機の世界」について徹底的に語ります。「哲学からの挑戦」と呼ぶべき現場が目の前で展開される一夜限りの稀有な時間。2015年5月26日より申し込み開始です。ぜひ奮ってご参加下さい。
お申込み・詳細はこちらから。
https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/4ed8514b-710e-2bb0-0175-553b6d51eddd