てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつカフェ2018.1.20.ポスター完成

2018年01月17日 12時01分06秒 | 開催予定
今週土曜日のてつカフェのポスターが今ごろ完成しました。

とっくに日程もテーマも決まっていたのに、

年末年始の忙しさと感染性胃腸炎のせいで発注が遅れてしまいました。

短期間で仕上げていただいたポスターがこちらです。



ひじょうにインパクトのあるデザインです。

『ガラスの仮面』からのセリフもキャッチコピーに使っていただきました。

はたして人間にとって言語は決定的なものなのか、

ぜひみんなで話し合ってみましょう!

前回までの参加者の皆さまのカンパのおかげで、

コーヒーメーカー代も回収することができました。

今回からは飲み物完全無料化が実現いたします。

コーヒーを飲んで聞いているだけでもけっこうです。

哲学的議論は置いておいて、

ことばに対する熱い思いを語っていただくだけでもけっこうです。

お一人でもお誘い合わせの上でもお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま2018.1.20. 「人間にとって言語は決定的なものか?」

2018年01月10日 18時54分22秒 | 開催予定
皆さま、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

さて、前回は「健全なる精神は健全なる身体に宿るのか?」をテーマに
相当高度な哲学的議論が交わされました。
ロボットやAIの話からデカルト的心身二元論にまで発展しちゃいましたからね。
世話人の思惑どおりというか、こちらの思惑を超えて楽しい対話となりました。

で、そこでの議論を承けて今回は言語について考えてみたいと思います。
身体や物体と異なる精神の本質とは何か、という話の流れの中で、
言語こそが人間にとって決定的なものなのではないかという意見が出されました。

その意見を出したのは世話人の私なんですけどね。
私の人間観を形づくる上で、
『ガラスの仮面』の11巻(舞台「奇跡の人」が描かれた巻)がバイブルだったので、
人間にとっては「はじめも終わりも途中も言葉」であり、
「わたし達が感じたり考えたり知ったり
 それを伝えあったりするすべてが言葉の中にある」という教えは、
私の思想の根幹にしっかり根づいてしまっています。



ギリシア語の「ロゴス」という語が一方で「ことば、言語」を意味しつつ、
それが同時に「理性」という意味でもあるというのはとても素敵なことだと思います。
私は言語こそが理性であり、
精神もまた言語によって初めて存在しうるのだと信じています。

しかし、この私の意見はほとんどの人に受け入れてもらうことができませんでした。
言語なんかなくとも人間の精神は成り立ちうるし、
したがって動物にも精神はあるのだと唱える方もいらっしゃいました。
うーん、そうなんでしょうか。
というわけで今回はこの問題に挑んでみたいと思います。


てつがくカフェ@ふくしま2018.1.20.
【テーマ】「人間にとって言語は決定的なものか?」
【日 時】2018年1月20日(土)
     16:00~18:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B-2会議室
      チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料 (飲み物も無料!)
【事前申し込み】不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp



あいかわらず問いの立て方には文句をつけられそうな気がしないでもないですが、
考えたいのは上で述べたようなことです。
はたしてサリバン先生とともに、
「この世のすべてに対して言葉こそが眼になる」と言い切っていいのか、
それとも、そんな近代的な理性主義的考えはただちに改めるべきなのか、
ぜひ一緒に考え語り合ってみましょう!
「てつがくカフェ@ふくしま」は初参加の方でも気軽に、対等に、
安心して何でも話し合える場です。
皆さまのご来場をお待ち申し上げております。