てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま報告3.11特別編2024「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」

2024年03月31日 12時53分39秒 | 〈3.11〉特別編記録
大変遅くなりましたが、3月9日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には14名、オンラインでは4名の計18名の方にご参加いただきました。









・まず最初第一部ということで、永幡さんご提題いただきます。永幡さんは、ご存知の方はご存知だと思いますが、ほぼほぼ毎回のようにこの「てつがくカフェ@ふくしま」に参加してくださっている常連さんなんですけど、僕の同僚で福島大学の共生システム理工学部において、音響学の専門家でいらっしゃって。3.11の後ですね、ずっと福島市内のあちこちで録音を続けていらっしゃいまして。その音をずっと13年間分撮り溜めてきた記録をもとに今日は提題を発表いただきたいというふうに思っています。

・皆さん、こんにちは永幡です。座って喋るのに慣れていないので、授業とかといても立って喋ってるので立ったまま進めて行きたいなと思っています。今日のタイトルは「沈黙の春ー再考 サウンドスケープの視点から」となります。今映しているスライドの写真っていうのは、これから色々と出てくるところですので、今ここで説明するのは省いていきなり話に入ってきたいんですけれども、話を始めるにあたって多分サウンドスケープという言葉をあんまりご存知ない方の方が多いのかなと思います。ちなみにサウンドスケープという言葉にピンと来る方ってどれぐらいいらっしゃいますか?会場の中でも、極めて少数派なのでまずはその説明からにしたいと思います。「サウンドスケープ」というのは音響学の分野で定義されている言葉なんですけれども、「あるコンテクスト(背景、状況、場面、文脈)の中で個人または人々が近く経験・理解した音環境」という風に、とてもややこしい定義になってます。何故こんなややこしい定義するかというと、古くから音響学の中でその音の問題を考える時に、あんまり人がどう聞いて音を聞いているかどうかってことを意識することなく、機械で測るとか、そういうようなことで、なんか音の環境の事はちゃんと分かったような気になってる時代が長く続いたので、それじゃまずいでしょっていうところから、こういうふうに人が一体どうやって音の関係を聞いてるんだろうかってことにも注目しましょうということで立ち上がったからです。あんまりこの話を長くするとややこしくなってしまうので、ごく簡単なところだけ一言二言説明しておくと、人あるいは人々と音環境との関係性を読み解く分野なんだって思っていただけると、大きな間違いはないだろうと思っています。その音環境っていうのは、物理的な特徴の把握をすることを主としますし、人々っていう部分に関しては心理的あるいは社会的な反応なんかを記録しながら、それらの関係性を見て行きましょうというような研究を普段はしています。このサウンドスケープという概念は元を辿るとマリー・シェーファーという人、2021年に亡くなってしまいましたけれども、カナダの作曲家の方が作り上げた概念だと言えます。言葉自体は、それより前に使ってる人がいるっていう報告が最近色んな所でされてるんですけれども、多分それはそうなんだろうと思いますが、実際にその言葉を学術的な意味づけを初めて付けた人は誰から言うと、このマリー・シェーファーに遡るのが正しいだろうと思ってます。この方はカナダを代表する作曲家でなんですけれども、1965~75年ぐらいまでサイモンフレーザー大学というカナダのバンクーバーの隣町だったと思いますけれども、バンクーバーから電車に乗って行くことができますが、そこで教えて方です。この人の主要な著書というのが『チューニングオブザワールド』は日本があって、日本語では『世界の調律』と訳されておりますが、こんな本です。今、手に入りやすいのはこの一番右側に文庫版と言っても分厚い文庫なので、すごく値段は張るんですけれども、それだけの読む価値はある本だと僕は思っていますけれども、そういう本があります。この話にも少し後で出てきますけれども、もう一個の大事なキーワードは『沈黙の春』です。『沈黙の春ー再考』というタイトルで出てますから、『沈黙の春』なんですけれども、『沈黙の春』っていうのはレイチェル・カーソンという人が書いた本のタイトルです。新潮文庫から出版されていて、今日会場で持ってきてるのは、古いので表紙が違ってますが、中身はどちらも同じです。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』というのは、国際的に環境問題に関心が高まったきっかけの一つと言われていて、いわゆる名著と呼ばれているような本の一冊です。『沈黙の春』というのを読んだ事ある方ってどれぐらいいますか?結構皆さん読んでますね。でも、読んでらっしゃる方もいるだろうと思ったので、持ってきていて今日の話を進めるのに、必要な所だけ少し朗読したいかなと思います。冒頭の部分なんですけれども、「明日の為の寓話」というふうにタイトルが付いています。
(以下朗読部分)


1.明日のための寓話

 アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つ
だった。町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘
がもりあがり、斜面には果樹がしげっていた。春がくると、緑の野原のかなたに、白い花のか
すみがたなびき、秋になれば、カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあやを織りなし、松
の緑に映えて目に痛い。丘の森からキツネの吠え声がきこえ、シカが野原のもやのなかを見え
つかくれつ音もなく駈けぬけた。
 
 道を歩けば、アメリカシャクナゲ、ガマズミ、ハンノキ、オオシダがどこまでも続き、野花
が咲きみだれ、四季折々、道行く人の目をたのしませる。冬の景色も、すばらしかった。枯れ
草が、雪のなかから頭を出している。その実やペリー(奬果)を求めて、たくさんの鳥が、やっ
てきた。いろんな鳥が、数えきれないほどくるので有名だった。春と秋、渡り鳥が洪水のよう に、あとからあとへと押し寄せては飛び去るころになると、遠路もいとわず鳥見に大勢の人たちがやってくる。釣りにくる人もいた。山から流れる川は冷たく澄んで、ところどころに淵をつくり、マスが卵を産んだ。むかしむかし、はじめて人間がここに分け入って家を建て、井戸を掘り、家畜小屋を建てた、そのときから、自然はこうした姿を見せてきたのだ。

 ところが、あるときどういう呪いをうけたのか、暗い影があたりにしのびよった。いままで 見たこともきいたこともないことが起りだした。若鶏はわけのわからぬ病気にかかり、牛も羊も病気になって死んだ。どこへ行っても、死の影。農夫たちは、どこのだれかが病気になったという話 でもちきり。町の医者は、見たこともない病気があとからあとへと出てくるのに、とまどうばかりだった。そのうち、突然死ぬ人も出てきた。何が原因か、わからない。大人だけではない。子供も死んだ。元気よく遊んでいると思った子供が急に気分が悪くなり、2、3時間後にはもう冷たくなっていた。

 自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に
思い、不吉な予感におびえた。裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、
死にかけていた。ぶるぶるからだをふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の
春だった。いつもだったら、コマツグミ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声
で春の夜は明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つし
ない。野原、森、沼地 みな黙りこくっている。

 農家では鶏が卵を産んだが、雛は孵らず、豚を飼っても、何にもならなかった。小さい子ば
かり生れ、それも 2、3 日で死んでしまう。リンゴの木は、溢れるばかり花をつけたが、耳を
すましてもミツバチの羽音もせず、静まりかえっている。花粉は運ばれず、りんごはならない
だろう。

 かつて目をたのしませた道ばたの草木は、茶色に枯れはて、まるで火をつけて焼きはらった
ようだ。ここをおとずれる生き物の姿もなく、沈黙が支配するだけ。小川からも、生命という
生命の火は消えた。いまは、釣りにくる人もいない。魚はみんな死んだのだ。

 ひさしのといのなかや屋根板のすき間から、白い細かい粒がのぞいていた。何週間まえのこ
とだったか、この白い粒が、雪のよう、屋根や庭や野原や小川に降りそそいだ。

 病める世界 新しい生命の誕生をつげる声ももはやきかれない。でも、魔法にかけられたのでも、敵におそわれたわけでもない。すべては、人間みずからまねいた 禍いだった。
 
 本当にこのとおりの町があるわけではない。だが、多かれ少なかれこれに似たことは、合衆
国でも、ほかの国でも起っている。ただ、私がいま書いたような禍いすべてのそろった町が、
現実にはないだけのことだ。裏がえせば、このような不幸を少しも知らない町や村は、現実に
はほとんどないといえる。おそろしい妖怪が、頭上を通りすぎていったのに、気づいた人は、ほとんどだれもいない。そんなのは空想の物語さ、とみんな言うかもしれない。だが、これらの禍いがいつ現実となって、私たちにおそいかかるか 思い知らされる日がくるだろう。

 アメリカでは、春がきても自然は黙りこくっている。そんな町や村がいっぱいある。いっ
たいなぜなのか。そのわけを知りたいと思うものは、先を読まれよ。

(レイチェル・カーソン著『沈黙の春』新潮文庫、新潮社、1974 年。)

というふうに今読んだところなんですけれども、「春が来たが沈黙の春だった。今は物音一つしない。野原は森、沼地、皆黙りこくっている」というところからこのタイトルがきてる訳ですね。これ、なんで鳥も何でもかんでも、皆が黙りこくってしまったか。これは化学物質、農薬とかですね。それをバンバン使うようになって、その結果として生き物がみんな死んでしまった。実際にアメリカで今みたいにすごく本当にそういうような町がある訳ではないんだけれども、タイトルは「明日の為の寓話」と付いてましたけども、色んな所で起きている事をどんどん足し合わせていって、なので全てが同時に起こっているような所ってのはその当時もなかったようですけれども。なんだけれども、一個一個の話っていうのはあるような感じで。今のままほっとくとこうなるよってことを警告したそういう本です。その化学物質で生き物がいなくなった春を描写したので、そこから始まってる。コレだけ今日認識して頂けると、この後の話に付いていけるのかなと思っています。それと、録音を聞いてもらう前にもう一言だけ付け加えてお話しておきたいのがサウンドスケープについて。僕の分野の研究分野において、「沈黙」というキーワードは結構大事なキーワードなんだよってことを人と話したいと思います。『世界の調律』という本の中では、「沈黙(サイレンス)」というのが一番最後の一個前の章にあります。その「沈黙」について色々語られていますが、そこから大事なことを抜き出しておくと「心と精神の落ち着きを取り戻すためには、静寂な時間が必要だ」てのが、「沈黙」を考えるとキーワードです。もう一個のキーワードとして、大事なことは「生命と繋がる概念であり、死と繋がる否定的なものと捉えられる傾向にある」と。だから今の『沈黙の春』というのは、正に後者の方のパターンで書かれている。なので、この『沈黙』には二つの意味があるんだという事をまず最初にお話ししておきたいと思います。今日この後、20分から30分ぐらい音選んで聞いてもらおうと思ってるんですけれども、原発事故後に福島市内の定点観測をずっとしていました。大体同じ場所で音を取っています。その音がどのように変わっていったのかっていうのを、是非聞いていただきたいなと思ってるんですけれども。録音を始めたのが2011年5月1日です。なぜ5月1日かというと、その前日まで福島大学で避難所やってました。避難所を手伝っていてなんか気分が録音しようという気分になってなかったっていうのが一つ。あともう一つは、僕の研究室が酷いことになっていて、今日レコーダー持ってきてますけどこれの風防が見つからなかったんですね。この風防がないと風がちょっと吹いたらもう音は取れません。現実的に取れなかったというのも実際あります。「なんでもっと早く取らなかったんだ」というのを色んな事で色々言われたりするんですけれども、そういう二つの事情から録音始めたのはその辺になってしまいましたという所です。この後、いくつか音を選びながら聞きたいと思います。


~録音再生/10分休憩~

・それでは、第二部の「てつがくカフェ」を始めていきたいというふうに思います。第一部で永幡さんから「福島サウンドスケープ」をご提題いただきました。『沈黙の春』ということに関しても色々とお話いただいたんですが、それを踏まえて13年間振り返るとということで、まずは聞いてみての感想でも構いませんし、最後に永幡さんからいくつか今日皆さんに考えていただきたいテーマみたいなこともやらせていただきましたので、それらもぼんやりと考えていければというふうに思っております。

・今「小鳥の森」を意識してなかったという話が出たんですけど僕はですね、小鳥の森いつ行ったんだったかな?多分(震災から)一年経ってないぐらいで行った記憶があるんですけども、あそこだけはちょっと異様に怖かったっていうか。行って凄く「何かあるなぁ」と感じるぐらい。だから、見えない放射線を感じるぐらい僕はなんか凄くここに長居してはいけないと感じるぐらい。 なんか恐ろしさがあったかなというのは、それを急に思い出しました。

・永幡さんの説明をお聞きして、単純な感想なんですけどタイトルに書いてる「耳で振り返る震災原発事故後の13年間」ということなんですが。これ「耳で13年間を振り返るって難しいなぁ」と思って。結局の所、音だけでは中々理解できないかな。「サウンドスケープだけでは理解しづらいなぁ」と思って聞いてました。要するにサウンドスケープ=音風景と(動画を)見合わせて聞き合わせないと中々理解できないのかなという。そうすると、単純に耳で振り返ると書いてあるんだけど、中々それは理解できなかったかなというのが私の感想。それと「小鳥の森」について今ちょっと話題になってましたけど、私は原発事故前から偶に「小鳥の森」に行ってたんですが、画面に出て小鳥たちの鳴き声が聞こえる場面も出てきましたけど。原発事故前も別に人の出入りってあんまり無かったような場面にしょっちゅう出くわしてたんです。私の行く時間帯が悪かったのかもしれませんが。ということで、人はあんまり出てなかったし、それに対して小鳥は盛んに囀っていたという状況は変わってなかったから画面を見てて、そういう印象を受けました。ただ、場面を見て音と重ね合わせて理解しますと。やっぱり原発放射線の線量が高くて、人手が少なくなったと。その辺はよく理解できたかなと思いますし、あとコロナ禍が始まってからも、あまり外出しなくなったということで人手が少ない場面があってそうだったなという感想です。

・あの「小鳥の森」に関しては、多分時間帯によるんだと思います。あそこはやっぱり学校の研修で行くとか、そういうのが多かったりとか、元々子どもたちがよく行くような場所。子連れで行くような場所だったので、そういう時間帯に行くと常に誰かいるんだけれども。あんまり子どもが来ないような時間帯を狙っていけば確かに。元々少ないと言えば少ないのかもしれないですね。

・貴重な資料ありがとうございました。あんまりよく理解してないので、単純な質問なんですけども、『沈黙の春』だと動物のようなものが沈黙するじゃないですか。水俣も猫から沈黙していくじゃないですか?今回福島の資料を見た時におり、「アレ?沈黙してないじゃないか」というか。「えっ?全然沈黙してないじゃん?」という感じで思ってて。でも、人間は沈黙してるんですけど、そのギャップっていうか。どういう風に捉えればいいのかなっていうのが、今日見せてもらった資料をレイチェル・カーソンの『沈黙の春』とか水俣と比較してギャップが捉え方を教えていただければなと思ったんです。

・基本自由に捉えてもらったらいいなと思ってるんですけれども。僕自身の捉え方としては、レイチェル・カーソンが言ってる『沈黙の春』とは違った沈黙が起こってるんだと思っていて。コロナで起こった沈黙もやっぱりレイチェル・カーソンの言っている事とは違った事が起こっていて。なので、20世紀に起こった『沈黙の春』、あるいは「沈黙」というものと、21世紀に我々が今経験している「沈黙」というのは同列では語れないだろうなと僕は考えています。

・さっきの『沈黙の春』というのは、あれは実際にあったこととまた違うんですか?じゃあ、まず質問で人間もアレだし動物もアレだって『沈黙の春』で、最初説明あったんですけど、あれは実際にあったことなのかな?まずそれ一つね。そして、あとこちらの方も言った通り、私も一番最初「小鳥の森」とか、人はね、あの出てこないんだけども、結局原発もやっぱり科学のアレですよね。それなのに小鳥とか、そういうの沢山鳴いているでしょ?だから、こちらの方も言っているように、私もそこで「アラっ?」て一瞬思ったんですよね。あの原発の近くでなくて、「小鳥の森」はかなり離れているから、鳥は色々飛ぶからね。だから私、最初の一つとあと二つ目の質問は相馬市の原発があった所は、そこの野生の鳥というのはどうなのかしらなと思ったの。「小鳥の森」みたいに騒々しく鳴いてるのかなって。それ2つ目の質問なんですよね。そして、あくまでも。鳥はあくまでも野生だからね。野生だから別にその辺はどうなのかな?例えばだよ、鳥かごに常にね、野生じゃなくて鳥屋さんに売ってる鳥かごにね、売ってるペットセンターで売ってるね鳥をどこを原発の放射線の高い所に置いたら、その辺は野生の鳥と変わるのかな?って。この三つね、私それさすごくね感じたの。その三つの質問ちょっとお願いします。

・まぁ、答えられる方がいらっしゃったらどなたでも。永幡さんいかがでしょうか?

・レイチェル・カーソンの『沈黙の春』はあれ、あのままのことが起こっている所はまず無いと著者自身が書いていて。ただ、色んな所で起こったことを重ね合わせて行くとああいう風な事に、最終的になってくんじゃないかっていう問いかけで書いています。なので、完全に全てが黙りこくった所というのは無いと思います。野生の生き物がどうかという話については、多分世話人とかあれだよね相馬市に近いから、後で補足してもらえればと思うんですけども、基本的に少なくとも耳で聞こえる範囲では鳥は減ってないんではないかと思います。色んな仕事で相馬市の方に行くことあるんですけれども、別に普通に鳥は鳴いているし。あとチェルノブイリの時の記録っていうのは、これもCDが出てるんですけども、やっぱり録音した人が居て。チェルノブイリの場合は、本当にもうチェルノブイリのかなり近くで録音してるんですけれども、やっぱり生き物の声はちゃんと聞こえてるし、むしろチェルノブイリに関しては、人が完全にあの日本以上にその広い範囲に渡って住むことが出来なくなったので、なんか野生の王国になってるというような報告もあるようですから。その意味で例えば、遺伝子レベルで何が起こってるかとかっていうのを厳密調べ始めたら、もしかしたら何かあるのかもしれないですけども、少なくとも耳で聞こえる範囲、目で見える範囲で見る限りにおいては、生き物は生きてますよね。それは間違いないと思います。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま報告3.11特別編2023「変わる世界と変えてはいけないもの-フクシマの未来を想いながら-」

2023年03月12日 20時10分23秒 | 〈3.11〉特別編記録
3月11日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には11名、オンラインでは9名の計20名の方にご参加いただきました。









ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・今日は特別編ということで特別編世話人の方が二人、大森さんと相原さんが来てくださっています。今日のファシリテーターは相原さんにお願いしたいというふうに思っています。それでは相原さん、お願いいたします。

・只今ご紹介いただきました、本日のファシリテーターを務めます相原です。簡単に趣旨の説明をして、それから対話を始めたいと思います。今回のテーマですが、「変わる世界と変えてはいけないもの」というタイトルを付けた訳ですが。それはどういうことかというと、2022年を振り返ってみると、政府の原発政策が大きく変わった訳ですよね。皆さんもご存知だと思いますけど、原発の汚染水を海洋放出すると決定したとか。あるいは、あの昨年の年末に原発を推進するとか、そういう方向に政策が大きく変わりました。振り返ってみると、まだ去年はコロナも続いて私たちの日常生活は、大きく変わっていたという時期ですし。さらに国際状況を見れば、ロシアのウクライナ侵攻も起きていて。まさにその世界が大きく変化する、私たちの日常生活も変わってきている。そんな中でしたけど、国の方針は全く突然の決定だったとそんな風に思ったんですね。国会での議論もほとんどなしに非常に重要な政策が、一方的に決まって行く。そのことに非常に危惧を覚えまして。いろんなものが急激に変わりつつあるけれども、やっぱり変えてはいけないものもあるのではないかと。そういう趣旨で、今回のテーマを決めさせてもらいました。これは2022年の話ですけど、もう少し長い時間の射程で考えても、これは大きなテーマになるのではないかというのが、もう一つの論点ですね。つまり、100年とか200年とかとても長い時間の幅で考えると、やっぱり人類っていうのは、いろんなものを変えてきた。もちろん、それは私たちの快適な生活だとか、豊かな生活のためだったと思うんですけど。自然を変えるとかですね。あるいは、原子力の利用なども変えてきたものの一つになると思うんですけど。そういう形で人類はいろんなものを変えてきたわけですけど。それでもやっぱり何か変えてはいけないものがあるのではないか。ですからテーマは「変わる世界と変えてはいけないもの」というものですけど。短期的には2022年の話ですけど、もう少し長く見れば人類のこれまでの歩みを振り返って、いろんなものを変えてきた、作り変えてきたわけですけど。でも、やっぱり変えてはいけないものもあったのではないか。短期的と長期的の二つの視点で、この問題を考えてみようということです。私からの趣旨説明はここまでにしたいと思いますので、早速ですが意見や発言のある方は挙手をお願いいたします。

・今日世話人をやっておりますが、今回すごく刺激的なテーマをいただいたなと思います。変わる世界を変えてはいけないもので、今進行役から趣旨とその背景について説明がありましたが、実は原発政策というものが去年変わったんだという話があって、なるほどと思って聞いていたんですけれども。二つ考えてみたいなと思ったことがあって。一つは、原発政策ということに関して本当に変わったんだろうかということです。ここ数年で見れば変わったと言うこともできるんですけども、もっと大きな時間を通して見てみるんだったら、むしろ変わってないではないか。だから、変えてはいけないものということなんですけども、変わったのかなと思ったのと。あともう一つは、オバマ大統領があの当選した時に「チェンジ」と言っていて、日本でも聖域なき構造改革というのもありました。要は変わるということが基本的にはいいことだと、僕たちは何か考えるような時代に生きていて。変えてはいけないと叫ぶいうことが、どうなんでしょう、一般的にあまり良くないものなのかなと思って聞いていて、そんな思いがずっとあって。この二つが今全然定まってないんだけれども、原発政策変わったんだろうか?ということ。変わるってことは何かいい事なイメージがあるよねっていうところから、ちょっと皆さんシェアして考えていきたいなと思いました。

・今日変えてはいけないものと書いてあるんですけど、逆に要するに世界は変わっていきますよね。それで今まで変わってきたものを変えるべき、変えなければいけないもの。逆にあるのではないかなと。単純に言ってしまえば例えば、今度日銀の黒田総裁が辞めますよね。彼のやってきた大規模緩和。私はあれなんか、変えなきゃいけないと思っていた。まあ上田さんが出てきてどうなるかちょっと分からんないですけど。あんなあの大量の金を出せば当然、前から思ってたんですけど、要するに株が上がっていく。それによって儲かった人がものすごいいるわけですよね。百倍になったと。まあ、そういうこと、変わってきたことで変えなきゃいけないものもあるのではないかということを一言申し上げたく。

・3.11なので、原発についてさっきお話が出たので。基本的な事実関係を確認して、やっぱりそれは変るべきだったと言うことを確認したいと思うんですけど。まず、あのいわゆる核ごみ問題の送り場所がない。原発を続けていく限り、核ごみが出て、それを処理する場所がない。六ヶ所村問題とかありましたけど、それは一体どうなったんだろうということ。二番目に、日本の原発を軽水炉で、結局熱を水で冷却する原子炉で、それはあの複雑な配管構造を持っているから、スリーマイル島、チェルノブイリ、福島とその他にも隠してる所あるでしょうけど、10年に一回は必ず事故が起きる欠陥炉であるということはだいぶ昔言われた。三つめは、軽水炉が駄目だから高温化するとかナトリウム融塩炉への転換も言われていたんだけど、それもなくなった。あと四つ目は、自然エネルギーの中の小水力発電も言われていたんですけど。日本全国で小水力発電をすれば、原発六機分の電力を作れるというような議論が10年前にあったはずなんですけど。基本的にどこへ行ってしまったんだと。それをこんな単純な事実を見ても、原発政策は変るべきであったと思っています。

・原発がらみで思いつくことを。今汚染された水を放水するかどうか問題になってますけど。これは問題提起なんですけど、これは放水すべきということで今政府の方では今年の7月から放水を始めると言ってますけど。方や放水してはいけないと、変えてはいけないと主張している側もある訳ですね。どちらが正解なのか細かいこと分からないから私は最終結論は持っていないんですけど。そういうことで、さて今の第一原発の汚染水の処理をどうするか?なんて言うことも変えていくべきなのか、あるいはそのままずっと保管しておくべきなのか。議論は分かれるところなのかなというふうな感想を持っています。

・今の汚染水の問題なんですけど、今日最初に置いておくの忘れたんですが、この間の福島大学の岩崎先生という方がですね、地下水の専門家なんですけども、この方が学習会的な発表とかしてくれて、それ聞いてきてすごい面白かったんですね。とにかく今どんどん一日に何万という汚染水が出てきてしまう。それで、なんでそうなるのかっていうのを説明してくださって。汚染水対策をやってるんだけど、それが全然機能してないというか、それやっても全然自体は改善されていなくて。地下水に関する専門家の方々が言ってあの東電相手に言うんだけど、東電は受け入れてくれないというか。これもこの調子で行ったら、本当にあそこはいっぱいになるし、さらにどんどん増えていく。例えば、これ以上の汚染水が増えないようにまずしなきゃいけないんだけど、それはきちんと出来ていないみたいな話があって。これに関して、パンフレットを作ってらっしゃって今日持ってきましたので。この後、そこに置いておきますから、興味ある方はお持ちください。そんなに沢山あるわけじゃないんですけども、今日の人数が足りるんじゃないかなと言う風に思っています。パンフレット一部100円だそうです。後、それに伴って本格的な報告書は1000円なんですけども、それも多分まだ余ってるって言ってたから、あの何らかの方法で欲しい方にはお届けできるかもしれないです。後ほどご連絡ください。

・まとまりはつかないことを言うんですけれども、やっぱり今のお話を伺っていてですね、なんか何も変わってないよねっていう思いがやっぱりすごくしてきて。結局、こちらの不勉強もあるんですけども、原発のことは本当によくわからなくてですね。だから3.11の後のことは、福島にいらっしゃる皆様ほどは切実に多分感じてなかったと思うんですけど。どれぐらい被爆しても大丈夫かとか、どこだったら住んでいいのかとかですね。本当にあの時わからなくて。どの専門家の意見を聞いても分からない。さっきの水を放水するって話もやっぱり同じなんですよね。一方では、もう完全に安全でこれを進めても大丈夫なんだと。騒いでるのは、隣国なんだと。でも他方では今お話をしたようにしていただいたように、福島大の研究者の中で、やっぱり水を流すというのは何の解決になってないんだと。唯一、分かっていることは、その原発問題は解決ができないんだって事はわかるんですけども。あと実際、また分からないところが何も変わっていないっていうんですかね?変わる世界と確かに変わったような気がするんですけど、もう12年前と考えると、本質的には変わってないなような気がするんですけど。分からないってことが、あるなと。そんなこと思ったという感じで。

・さっきその核ゴミ問題とかいって言ったのは、誰が悪いとかではなくて、価値判断をするとかじゃなくてあれだけ明白にダメなことが起こっているのに、およそ十年前もおそらく水俣みたく、また元に戻るだろうなって予感があったんですよ。だから、あれだけ明々白々なことを元に戻している。その能力は何なのかっていうことを、今みたいなことをおっしゃるかもしれないけど、それは何なのかっていうのを考えるのが大事なんだろうなって言う意味で。誰が見てもおかしいって分かるんですよでも。日本人は皆悪人な訳ではないから、その戻している力を知りたいっていう。

・コロナの話なんですけど、この中でみんなの生活とか、会社のあり方やリモートワークとかで変わったんですけども。今年の3月で、マスクなしの生活になるんですか。コロナで変わってた世の中っていうのが、いざマスクなしの世界で。マスクなしでも大丈夫ってなったら、自分たちの生活が戻っていくことが充分考えられるんですけれども。でも、その変わってた世界が元に戻っちゃうせいでなんでしょうか。コロナで学んできたものっていうのが、まだそういうのって忘れられていくんじゃないかっていうのもちょっと思うことがあって。東日本大震災の記憶っていうのもやっぱ同じようなことが起きてるんじゃないかなと思って。実際、僕の周りでもやっぱり原発っていうものがどういうものだったかっていうのを、みんな忘れて結構原発はやっぱりあった方がいいんじゃないみたいな話もする人もいるので。東日本大震災が起こる前の生活にちょっと元に戻そうとする力がすごく働いているのかなって、思ったところではあります。

・あの先ほど世話人の方がおっしゃったことで、ちょっと気になる点だったんです。要するに、原発の状況で廃炉とか汚染水処理の問題で、専門家それぞれいろんなことを言ってて。ある人は放出するべきだと。逆の専門家はそれはいかんとか言っている訳で。ということで、そういう状況が分からないということは、変わってないんじゃないかと確かそんなことをおっしゃったんじゃないかと思うんですけど。ここでやっぱり「分からない」ということで、何が分からないかっていうことを明確にするっていうことが非常に重要だ。分からないことは分からないままにしておくと全然進まないし、変えるべきもの、変えてはいけないものをどうするかっていうことも出てこないんじゃないかな?ということを世話人の方の話から考えたことであります。

・ さっきzoomの方から変わってきた力について、やっぱり元の生活の方がいいよなっていう、スマホセブンイレブンがあれば、極めて快適な生活が最低限できる。日本素晴らしいなあっていう感じに戻れば良いっていう、ちょっと勝手な解釈かもしれないですけど、そういう力があったのではないかっていう話だったんですけど。僕もまったくその通りだなって思ってるんですけど。3.11直後のアンケート調査では、数年間8割、9割は原発廃炉は圧倒的な民意だったはず。多分だから、そこには作為がどっかあった。原発推進する方々の利益のための策略が働いてマスメディアへの方策も働いて、いつの間にか忘れ去られていってしまって。結果としてスマホとセブンイレブンになってるんじゃないかっていう気がするんです。

・今民意って言葉が出てきましたけれども、本当に民意何ですか?要するに、例えば価格的なことを理解した上で、考えた上で出てきたみんなの合意であったんだろうかっていうのはすごく疑問に思っていて。その意味では常に何も変わっていなくて、あの表面的には変わってるんだけれども。なんとなく良さそうとぼんやりを思ったものに対して、それでいいんじゃないという態度で物事が動いていくということに関しては、全くどこでも変わってない。コロナについてだって、結局マスクをつければ、とりあえず周りにうつさないんじゃないか。あるいはうつらないのではないかということに、みんな流されているわけですよね。3月13日からみんなにマスクをつけなくていいっていうから、つけないっていう。だから、その意味では表面的に変わったように見えているだけで、本質的にはなんか全く変わっていない世界を生きていて。なんかそれにつけているような気がするんですけれどもいかがですかね?

・私が知ってるのは教育の現場だけなんですけど。少なくとも教育の現場に関しては、政策の圧力がかかってました。原発の授業をやると妨害されたし。言いにくいけど福島大学に関しても、社会科の先生いますよね。ここ十年社会科教育は実際、原発教育を学生には授業に教えていない。その先生が福島県の教員になる。仮に50人としますよ。50人が先生になって一クラス30人いたとすると1500人。1500人の子ども十年で1万5千人。やっぱそういうことだと思うんですよ。どうして福島大学の教授達はそういうような先生を選び続けるのか?むしろ僕は逆に聞きたい。

・あんまり、そんな大学に求められても困るなあというのが、正直個人的には思いますけれども。教員が教えたことしか学ばないような人を採用する、採用制度がおかしいだけの様な気もしていて。結局、本当に関心がある問題じゃなかったら、きっと授業で聞いたところで身につかないだろうと。だから、福島大学に来たから、だから原発のことを学びなさいみたいなのも、強制的にするのもなんかすごい気持ち悪いと思うし。あの一方で学ぶせないというのもちろん気持ち悪いんだけれども。あの教育の現場でどういう圧力があったのかはよく知りませんけれども、それは常にどの時代でもありますよね。おそらく何をして、何を教えないのかって。そうすると元の話に戻って、結局だから基本のところは何も変わっていなくて。変わっていない中で、本質的なところは変わっていない中で、その本質的なものを変えないために、これは教える教えないみたいなものがまあ、蠢いている可能性はあるかもしれないですけれども。なんかそういうような構造になってるんじゃないでしょうか?

・ご指名ですので、直接答えられるわけじゃないんですけれども。一つは社会科教育の先生が、ずっと選任を取れていないっていう問題があって、ずっと特任で回してる。特任人事っていうのはまあ、要するに学校教員のその現職を辞められた方とか、なんとかっていう方々で。そういう人となると、なかなかどうしても公的公式に近いことが言える人ってなってしまうよねっていう。だからある種、自由に選べなくなっている。こちらにも人事が自由にできなくなってしまっているみたいなことはある。ただにしても、うちの大学だから反原発教育できるような人をとろうっていうふうな、そうはならないかなっていう感じはありますかね。いろんな観点があって、そうそううまくいかない。逆に言うと、そういうあからさま人事をすると、大学からとらないみたいな言われるとこれも非常に困るわけですよね。本当そういうようなとても政治的な判断が入らざるを得なくなるのかなという感じがして。ただ、福島大学は復興をしていくことができるような能力を持つ卒業生を出していきたいっていうこと言っていて。この12年間は、その東日本大震災ならびに第一原発原発事故に関して、それをきちんと学んでいくっていう人を育てようとしています。それが必ずしも反原発にかかるのかどうかはわからないですけど。そんな感じです。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






次回のてつがくカフェは、

4月22日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「この時代をどう生きるか?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

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URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。

会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま報告3.11特別編2022「復興とは何か?-『コロナ禍』と『復興五輪』を考える-」

2022年04月07日 15時33分15秒 | 〈3.11〉特別編記録
3/12(土)に開催されたてつがくカフェについて

報告が大幅に遅れてしまい、申し訳ございませんでした。

大変遅くなりましたが、世話人の石井が報告させていただきます。


今回も会場&オンラインの同時開催となりました。

当日の会場には18名、オンラインでは8名の計26名の方にご参加いただきました。









定刻通り15時からの開催となりました。

今回参加いただいた方の発言につきましては、

記録として文字起こしいたしましたので、

興味のある方は「こちらのページ」をご覧ください。


最終的な板書はコチラ↓







さて、次回は4月26日(土)に福島市市民活動サポートセンターで

シネマdeてつがくカフェを開催いたします。

課題映画は『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』です。

当日は13時から課題映画の鑑賞会、15時からシネマdeてつがくカフェとなります。

オンライン参加の方やシネマdeてつがくカフェのみ参加の方は、

事前に課題映画を鑑賞の上、ご参加ください。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンラインによる参加をご希望の際は、

てつがくカフェのメールアドレスまでご連絡ください。


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てつがくカフェ@ふくしま対話録 3.11特別編2022「復興とは何か?ー『コロナ禍』と『復興五輪』を考えるー」

2022年04月07日 15時23分38秒 | 〈3.11〉特別編記録
※冒頭のてつがくカフェのルールなどの説明部分は省いております。また内容を理解し易くするために整文を行っております。なお、発言者の特定を避けるため誰がどの発言をしたか明記しておりません。

「復興とは何か?-『コロナ禍』と『復興五輪』を考える―」
 2022.3.12(土)15:00~17:00 参加者26名(会場/18名、zoom/8名)


 それでは「てつがくカフェ@ふくしま特別編2022」を始めさせていただきます。本日は「復興とは何か?-コロナ禍と復興五輪を考える―」というテーマを立てさせていただきました。3.11から昨日で11年の月日がたちまして、だいぶ復興したというふうにみんな思っているのかいないのか。昨年は東京オリンピックが開催されました。招致の時から、なんでそんなものを招致しているのだろうと不思議に思ったし、開催に至るまで東京オリンピックをめぐっては色々なことがありましたね。終わってしまえば「良かったね」みたいな感じになってしまっていますけれども、色々な問題があったのではないかと思います。そもそも復興五輪という名のもとに招致がされたわけですけれども、果たして復興のために何か役に立ったのかというような疑問もあります。しかも、2020年からコロナ禍が始まりまして、2020年に本来やるはずだったオリンピックが1年先送りになって2021年に開催されたわけですけれども、2020年よりもさらに感染者が増えているという状態だったわけだし、ほぼだれも日本人はワクチンを接種していない状況で強行された感じでした。僕自身も色々と思うことはありますが、皆さんも色々と考えていることはあると思いますので、ぜひ考えていらっしゃることをお話しいただければと思います。コロナとオリンピックの話を交えながら3.11を思い出して復興について考えていきたいというのが、本日のテーマとなっております。私の方からの説明は以上にしまして、ここからはいつものように対話に入っていきたいと思います。どなたからでも何からでもけっこうです。

 僕は「復興とは何か?」というテーマに惹かれて来ました。初参加ですがよろしくお願いします。僕は双葉町出身です。「復興とは何か?」ということで、双葉町が色々ハード面で、建物とか建てられているのですが、それは本当に復興なのかとか、心の復興とか全然よく分かっていないので、今回みんなどんな復興というのを考えているのかなということをテーマにされているので、話を聞かせていただきたいなと思って参加させていただいた次第です。こういうことが復興だよねと話があれば、僕が「双葉町に戻って何か仕事がしたいな」とか、そんなヒントになれればいいかなと思って参加させていただきました。今日はよろしくお願いします。

 せっかくなのでご自分がお考えになっていることや、何か疑問に思っていることなどをお話しいただければと思いますが。

 僕としては、復興は11年たっても…。建物よりも、「心の復興」と思っています。同級生とか散り散りになっているので、そういった同級生とかを、遠くからでもオンライン上で集めて何か「町おこし」していくというのがいいかなと思っています。あとは「町おこしとは何か?」というのは常に疑問に思っているところでした。駅前とかでよく有名な画家が建物にペイントしてくという取り組みがあったと思うのですけれど、それは否定的に考えています。なぜかと言うと、楽しくないからです。自分の街出身でもない人によって落書きされている街というふうに受け取られてしまうのは、何か個人的に良くないかなと思っています。「落書きするのだったら自分の体に落書きしろ」と、そういう想いで怒り心頭な部分はあります。

 復興は少なくとも字だけ見ると「興」、要するに盛り上がっている状態が再びやって来るという話なので、街の復興というのは理解できなくもないが、心の復興はそもそも本当にあるのだろうかとちょっと疑問に思っています。言葉の選び方としてあんまり良くないような気がしています。心は常に行ったり来たりしているわけで、復興を文字通りに読めば何かハイな状態にずっとなってしまうみたいな感じになってしまう。決してそんなことを願っているわけではないような気がするし、元通りになることを求めているわけでもないような気もする。心の復興という言葉を色んなところでよく安易に使われている気がするのだけれども、もうちょっと本当に目指していることは何なのかという議論が必要だと思います。

 今の心の復興についてですが、僕の考えとしては自分の心が上げ下げされるというのはすごく分かるのですが、震災とかで何か大切な人とか失ってそういう自分の中の悲しい気持ちの一つが、盛り上がるというかプラスに転換されていくのが心の復興なのかなと思います。マイナスな気持ちというか悲しい気持ちを引きずって忘れないのも大切ですが、引きずっていくのではなくて何かそこから頑張ろうとか新しい気持ちに向かっていくことが心の復興なのではというふうに考えます。

 今回の震災で復興という言葉が出されていたのですけれども、今回の復興において原発事故があったことが一番特殊かなと僕は思っています。僕は原発事故によって浪江の人たちからお話を聞く機会がありましたが、やっぱりコミュニティの場所が奪われたとか、自分たちの故郷が無くなったとおっしゃる方が多かった。原発によって地元の人たちのコミュニティの場所が無くなったというのが一番大きかったのかなと思っています。今回の復興に関しては、そういうコミュニティの場所が全然戻らなかったというか、心の拠り所というか心の居場所というところがやっぱり戻る必要があるのではないかと、また中々今回そういうところが戻らなかったことが大きいかなと思っています。

 私は福島市なので故郷を失ったということはないのですが、2年くらい前に北沢町復興団地で浪江の団地の組合長の公演がありまして、復興団地の三階建ての大きな団地の中で隣の人とも声もかけられない。それで声をかけなければとなったが、今までは浪江町の社長の人が見回りで週2~3回来ていたのが、それも無くなって地元の社長になってしまった。それで今はイベントもコロナで出来なくなって。10年たって段々と借り上げ住宅だったり、復興住宅だったり家賃の補助が無くなってきたから家賃が高くなってきて、若い人は出て行ってしまいあとは年寄りだけ残って収入もなくやることも無く、何日も人と喋らないということが起きている。これも2年前の話ですが、「復興フォーラム」を大学の先生等が主催したが、二本松の団地にいた方は復興で大学の先生がやっていたのに行政に今まで何にもできなかったのかなんて、ここまでになるまでになんとか出来なかったのかってことで。NPOの助成も段々と無くなってきてNPOのボランティアする人も段々先細りしている状況で今後その人たちにとっての復興は程遠いなと私なんかは思いました。福島市民だってやっぱり原発事故に対する怒りはすごくあると思うのですが、そういう風な私さえこういう浪江の方とかあっちに避難した人たちはもう本当に怒りがあると思うのだけど、そういうのを表出できないというか話せないというか。話して相手に責任を取ってもらって、それから自分の心の折り合いを付けて前向きに行けると思うのだけれども。前向きになりなさいばっかりで責任はほったらかしでは、なかなか復興はできない。本当に復興するのであれば、もう団地みたいな3階建てじゃなくて、地元の中小企業を使った庭付きの一戸建てぐらいにしろよと私は思うのですけれども、中々今は先も難しい気がしました。

 私はこれまで世話人として何年か前まではそちらに行っていましたが、このコロナでもって昨年今年とオンラインで参加させてもらっています。私自身は、今神奈川に住んでいて神奈川から参加していますが、元々この世話人をされていた小野原さんとの関係でこの会に参加するようになりまして。変な話ですけどこういう事故があったからこの会に参加するようになって、何人かの方と実際知り合うようになったというか。そういう形でコミュニティを作ってきた人間なわけですよ。先ほどから何人かの方がコミュニティの場所が失われてしまって取り戻せないという話がありましたが、確かにそうだなと思うことがあって特にそれに関連しては、今起きているこのコロナですよね。ただでさえコミュニティが作れない、そういう原発事故の影響があって困った状況があるのにさらに今コロナで人と話せない。普通に神奈川にいますけど、それでも中々外出する機会が制限されたりして何気ない会話が出来ない。そういう問題は何というかもちろん原発事故がそこにはあるわけですけど、さらにこのコロナ禍でもってコミュニティを作るというのは非常に難しくなっているのかなとそんなことを少し思っています。

 津波による震災にしろ、原発事故にしろ、要するに福島・宮城・岩手を中心として非常に大きな災害を受けたわけです。それによってインフラ、道路とか通信とかあるいは堤防とかそういうのが崩壊してしまった。あるいは地域の人たちの人的な繋がりが失われてしまった。だから「絆」ということが叫ばれている。あるいは仕事だとか働く場や産業などの非常に大きなダメージ、それから医療だとか福祉だとか教育だとかそういうものが失われてしまった。要するに全般的に今度の災害によってズタズタにされてしまった。もちろん人命2万人以上が亡くなっているわけで、全体的に失われて非常に大きなダメージを受けたわけです。それで復興ということを考えるのですが、どういうことが復興なのか今日副題として「コロナ禍と復興五輪」とありますが、復興五輪の名のもとに競技の種目に福島だとか宮城だとか、色んなところにそれなりに貼り付けてそのスポーツで活躍する人たちを全国民が観て、あるいは災害を受けた地域の人たちが観て、勇気づけられるということを大きく語ったと思うのですが、私の見方としては残念ながらそれが非常に中途半端に終わったと思いました。もちろんコロナ禍ということもあったのですが、復興五輪については復興という役割はあまり果たせなかったのかなというふうに思います。それで全般的なダメージを受けている状態にあるところで、復興ということはどういうことなのかなと考えるわけですが、要するに将来に向けて復興の道筋というか展望が開ける、そういうことが非常に大切じゃないかなと思ったわけでして。そのためにやっぱり、それなりの色んなダメージを受けた分野事の整備計画というのを出来ないと中々具体的に復興への動きは出てこないのではないかなと。例えば福島だと原発の地域、浜通りの被災地のところに世界的な教育施設を作るとか言われていますが、実際は中々11年もたって進んでいないようだし。その面だけを取り上げると復興はいつのことやらというふうに思ってしまうわけです。だから全体としては復興ということを言える場合には、その道筋なり展望が開けることが非常に重要じゃないかなと。もちろん精神的な面でもそうなのですが、そのためにはそれぞれの整備計画、行政とかなんとか主導だと思いますがそういう裏付けが必要じゃないかとここにきて考えた次第です。

 「復興とは何か」ということで、今の方に対して質問するような形になるかもしれないですけれども、例えば戦後復興っていつまでが戦後復興だったのか、どこから先がもはや復興ではないのでないのか、あるいは阪神大震災は復興したと言えるのでしょうか。

 だから例えば阪神大震災ありましたよね。それで「復興と言えるのか」と聞かれましたが、それこそ「復興とは何か」というメルクマールというか。それをハッキリしないと「復興しました」とか言えない。だからそういうものがないと「復興した」とか「復興まだしてない」とかいう判断は、出来ないのではないかなというふうに思うのですが。それでどういうことが復興した状態かということでしたが、例えば戦後復興の話が出ましたけども、政治の流れとして「最早戦後ではない」というようなこと言い出したのは昭和でいうと30年ちょっと過ぎか、その時の理由付けは経済的に自立するようになったアメリカさんの一方的な援助でなくて、ある程度自立が出来てきたということだったように思います。だから阪神大震災にしろ、戦後復興についてはそういうことだったのかなと。そういうふうに言われたわけですけど。それで今回の震災にしろ、復興ということはどういう状態かということですが、私としては具体的にこうなれば復興だよということは中々大変。だから先ほど復興に関する展望、筋道が立つそういうことをみんなが共通的に「あぁ、そういうふうになっているわけだ」とその裏付けとして整備計画、それぞれの整備計画が出来ているということが「復興が始まる」「復興の前提じゃないか」というふうに考えるわけです。これで回答になったかと思います。

 先ほどの質問は「そもそも復興なんてありえない」というような、そういう反語的な質問なのかなと僕は聞いたのですが、そういう意味ではないのでしょうか?

 すみません先ほどちょっと割っていこうとしたのは、話がズレかけていたからなのですが。反語的で言っているというか、一方で復興には展望が必要だと話をしているのだけれども、そもそも復興とは何なのか言葉が曖昧なままでその展望とは多分見ることができなくて。それで復興の展望を考えるのであるならば、そもそも復興がどのようなものであるかということを、ある程度あったうえで展望という言葉を使えないと思います。なので、そもそも言葉遣いのところで問題があって復興がないかどうかってところよりは、僕はむしろそっちの方になんていうか話がうまく回ってないような気がして、それで何か復興というものが「私はこのように考えています。そのうえで、そのために展望が必要です」と言うのであればすごく理解できるのですが。何か曖昧模糊としたものに対して、展望がないと曖昧模糊なものが動かないと言われても、どっちもが曖昧模糊で「何が言いたいのか分からなかった」というのが一番の質問の意図です。

 復興の言葉の解釈みたいなことがあると思いますが、復興ということはある意味では、元に戻るといったそういう意味合いをもっているのかなと思います。元に戻る、さらに何か新しいものを付け加わると私はその2つだと思っている。元に戻る面、何か新しいものが付け加わるという2つの。ということでダメージを受けた色んな分野のことを考えると、例えばインフラの例をとれば防潮堤、堤防とか全部流されちゃったよと、それを元に戻す。そういう面では福島にしろ、宮城にしろ、岩手にしろ、かなり海岸線ずっと整備されて元に戻った以上のことが起こっている。それを一つインフラの面から非常に部分的だけど、復興と言っていいのではないかと思うのですが。あと変な連想なのですが今ウクライナで大変な状況が起こっている。避難民がポーランドに200万以上出て、もう病院から何から学校からみんな爆撃で、非常に攻撃でダメになっちゃう。それでもちろん人々の繋がりなんかも、失われちゃうわけですよね。避難して難民で出ていけば、復興ということを考えたとき、やっぱり難民で外に出ていった人を元に戻るということ、それから人々の繋がりが無くなっちゃうわけだけど地域も人もまた元に戻って希望が持てると非常に抽象的ですけどそんなことなのかなと思いました。

 本当に復興なんてあるのかと愕然としました。まだ11年しか震災からたっていないのに震災の時に感じた恐ろしさとか、テレビで流される方々の苦しさや悩みとか感じていた自分の気持ちは風化してしまったなと思いました。いつも本当に悔しいというか、例えば阪神大震災にしても第二次大戦にしても復興というのが、なんて言のか忘れないことだと思いますね。本当に僕も10年しかたっていないのに色んな記録とかあるけど記憶からは忘れてしまったというか。もう段々残り香かもしれないけど、そういうこれからの人たちに伝えていかなきゃなんないことが復興の一つだと思っています。

 復興と聞いて、整備計画とか道路とか防潮とかの話はものすごい違和感を覚えます。復興のイメージが分からないとかね。10年前にはもう「復興とは何か」とかその時から話をしていたわけですよね。復興税とか作って復興計画するとかずっと使ってきたわけなので、分からないとかは非常に違和感があるなというか。10年間モヤモヤし続けるというのなら分かりますが、今から考えると言われてもちょっと戸惑っているところがあるというか。それと元に戻すというのが分からなくて。どう言ったらいいですかね、元に戻すとはどういうことなのか。この間色んな事があって地域から出て行かれた方がいれば、入ってきた方もおられるし、いろんな関係があると思いますが。私は愛知県にいて、当然ですけど福島の大船町とかから家族で避難されてきた方とか、地元にたくさんおられて、色んな人たちが埼玉とか茨城とか必ずしも福島に戻られたわけではありませんが、それぞれの方の事情で色んな暮らし方をされていますけれども。復興は何て言いますか道路とか整備計画のことなのか、総生産のことでもいいのですがそういうことなのか。元に戻すとか言われても、ちょっと戸惑うというかね。それは復興がいつ終わるとか、どのことなのか私もそんなあれじゃないので。もちろん復興五輪というのはモヤモヤして、こんな何て言うか復興五輪の名のもとに税金で、いわゆる東北以外の色んなところにも施設作るとかね、いわゆるお金使わせてずっとモヤモヤしているのですが、お話を聞きながら中々納得するものも無くて。すみませんなんか感想みたいなことで。

 私は福島ではないので本当の現状は分かりませんが、復興は日本のテレビとかそういったもので取り上げられて、実際に政府とかそういったものが動いて復興という名のもとに何かをしているというふうに報道されている部分というのは、あくまで目に見える部分がきっと多いのではないかと思っています。何かを作るとか、東北の方に資金を使って具体的に何かを作る、何かをやるとかそういう部分をもって復興をしていますという呼び方をしている面が多いなと思うのですが。実際には復興と言うのは心の中のものというか、その個々の人々の繋がりという言葉で先ほどおっしゃっていた方もいたかと思うのですが、繋がりもですが精神的な面の復興の部分が、実際は一番当事者の人たちを支配しているのではないかというふうに、まぁ当事者じゃないのですが私は想像しています。なので、そこの面というのは残念ながらどれだけの期間かかったら、それが修復できるのかとか。そういったことを明確にできることではないですし、また政府とか他の日本の地域の方だったり、世界中の人だったりそういう人たちがそこの部分を何とかしようというふうにしても、なかなか具体的に難しいので。結局は復興と呼ぶときに、もうちょっとインフラも含めた目に見える部分だけを読んでいるに過ぎないと私は理解しています。なので、私の言いたいことの結論の部分としては復興と呼ぶときにそれぞれの人が復興というものをどういうふうに捉えているかということがすごく大切で、いろいろお金を投資して東北をお助けしているので「復興しているでしょ」ということではないという。本当の意味での復興というのは精神面とか、実は全然目に見えない形にならない部分が一番重要であって。復興はもう何と言いますか極端に言うとゴールがないというか。そういうことを知ったうえで、復興という言葉を使っているとまだマシなのではないかというふうに私は思っています。一つだけちょっとお聞きしたいなと思ったのは、可能であれば結構なのですが今ウクライナの難民の方々がたくさん出て、すごく被害状況がすごいことになっていて、残念ながらまだ続きそうな勢いがあるような気がするのですが。東北の方々が受けた被害というものを、根幹は戦争と災害ということで違うのですけどれも、やっぱり今まで慣れ親しんでいた場所から強制的に離れなければならなかったり、家族がばらばらになってしまったとか無くなる方が出てきたりという点では、少し似た点もあるように思いますが。あとは原発のこととかも、共通点が少しあるような気もしますし。そういった点で例えば、私は福島の人間じゃないのであくまでアウトサイダーとして、ウクライナのこととかすごく興味があるというか。ウクライナがもともと好きなので、すごく逐一1日のうちに20回以上ニュースをチェックしていますが。でもそういう私と違った福島の当事者の方というか、すごく色々な意味で痛手を受けた方々、そういう人から見て、ウクライナの今の惨状というか、そういうのはどういうふうに写っていたり、どういう問題点や意識を持っておられたりとかするのかなということを可能であれば聞いてみたいなと思います。非常にセンシティブなとこなので難しければ全くスルーしていただいても私は何とも思いません。

 一番ホットな政治的な課題ですので、それにも関わってくるだろうなと思っていました。少し整理したいのですけれども、最初から出てきている「心の復興」となんというか「物質的な復興」の話を分けるのか。あるいは、そもそも「心の復興」なんて言葉の使い方は大丈夫なのか、そんなこと使っていいのだろうかとそういう問いかけもありました。その二つを分けるというのが一つあったと思います。それと物質的な復興に関しても、こんな言い方して大丈夫か分からないのですが、多分普通に天災の被害があった時にそこから物質的に建物が、あるいは街が復興するという話はある気がします。ただ今回の3.11の場合においては、やはり放射線という原発事故があったからそれを復興することが出来ないというか、正にコミュニティが失われるみたいな話が合ったのですけれども。それが「物質的な復興」という意味でも手つかずというか、どうしようもないというか。そのようなことで、そこでちょっと分けなきゃいけないって部分があるような気がしています。あと心というか、精神的な部分での復興は意味で言うと、ある方は忘れないことと仰っていたけども、やっぱり原発事故の問題があるから忘れないという話になりますが、一般的に言うと例えば戦後復興とか阪神大震災からの復興はどういうふうになるのか分かんないですけど、やっぱり「あったよね」ということが忘れられていった時に「復興したな」という気もしなくもなくって。だから元通りにはなりませんが、それとは別の次元の新しい生活が始まってとなると、「復興した」というか、しちゃったのかなというふうに言えるのかと思います。特に戦争の話もそうだろうし、そして戦後復興はすごく難しいのですが、もちろん戦争によって身内を亡くした人たちというのは多分忘れられないだろうし。だから多分復興とかしないような気もするのですけれども。ただ街並みとかの話であるならば、街並みが再建されれば復興し、そこに新しい生活が始まるのであって、前のことを忘れてしまったら、復興と言えるのかなという気もしたりして。だからいくつか今日まだ出てきていない「復旧と復興」は違う話なので「復旧と復興」「精神的な面、物質的な面」、そしてずっと残り続ける影響みたいなものがあると、これはどうしようもなく復興はできないと物質的においても。そういういくつか分けなきゃいけない部分があるのかなと思って聞いていました。

 正に質問しようと思っていたところですが、只見線が今度復旧しますよね。あれ誰も決して復興と言わないですよね。なので、壊れたものが元通りになる時は、普通多分復旧ですよね。多分復興とわざわざ「興」の字を使っているのは、恐らく盛り上がった状況にもの自体が元に戻るのではなくて、状況として良い状態にあったものを良い状態だと思える状況にする時に多分わざわざ使うのかなという気がしていて。なので、例えば戦後復興の時には、戦前のそのままの街並みに戻そうって発想は全く無くて。東京という街が世界に名だたる都市として、また一線に戻れるところをもって、復興と多分言葉を選んだのだろうと気がしています。それで同じように考えた時に、さて東北地方とはそもそも盛り上がっていたのか。そもそも震災前から人口が多くのとこから減っていて、仙台の一人勝ちみたいなところがあって。それで段々衰退していく。実際福島だって僕が赴任した頃は、福島駅の周りでそれなりもうちょっと店が流行っていた気がするし。それで福島であまり買い物できないから一時期郡山に買い物に行っていたけども、でも郡山が段々衰退してというふうになんかどんどん下がっている状況にあって。さて、そこで「復興とは何か」というのが文字通りに字を見る限り、すごくなんて言うのかな、政治的に良いことを言うためにわざわざその言葉を使っているようにしか見えなくて気持ちが悪いなって、僕はずっと思っていました。

 何から復興するのかってことで考えると本当に原発とか物質、経済成長でやってきた日本の国策によって、つまり僕ら一人ひとりが大事なものを見失ってしまった部分は絶対あると思いますが。決してものの豊かさとか、お金があるからとかじゃないということを教えてくれたのが、今回の原発事故を伴う震災だったのかなと。そう考えると復興は本当に人間一人ひとりみんな持っている優しい気持ちとか、社会を良くしようとそういう心を復興することかなと思います。

 復興は外から強制するのではなくて、自分から復興したと思う気持ちだと思うのですけれど。もう帰れない人は帰れないのに、福島市の中にも避難の人はいるはずですけど、そういう人と融合しないで分断されているようで。そばにそういう人がいるのに何を考えているかお互い分からないみたいなところがあって、今までは箱モノでいっぱい作っていますけれども、今度からはソフト面で。本当は「3.11は防災の日」ということで休日にして若い人なんかが休めるようにして、おばあちゃん達は墓参りだとかイベントとかに連れて行けるような、そういう日にしなければならなかったと思いますが。ちょっと駅前でキャンドルナイトをやって、それで終わって次の日からは原発のことも復興のことも何も普段の会話の中に入れられなくなっちゃう、言えなくなっちゃうという。そういう状況が私的には感じるのですが。今度ソフト面で話し合う場がある、作っておくとか居場所があるみたいなのがあるとか復興の日とか安心して喋れる、避難の人が喋れる、聞きたい人は福島市民も聞けるというそういう融合するような言葉がソフト面の必要かなと、とっても思っています。

 「復旧と復興」の違いを言われたのですが、具体的に只見線の話が出ました。あれは要するに線路だとか、橋が流されて列車が通れない状態になっています、それが通れるような状態になること、それが元に戻る復旧だと。非常に分かり易くその通りだと思う。それで復興とは何か考えたのですが、先ほど町おこしというようなことを何だがよく分からない、気持ち悪い話がありましたけど。要するに復興とは何かを興す、始めるという意味合いがあるのかなと。何かを始めないと興すということにならないのかなと。そういうことからすると町おこしということで何かをやるというのも、一つ復興に繋がっていくのかなと。例えば町おこしのやり方として、ある街では村では要するに産業としては稲作一本の農業だけ、そういうようなところ、それに近いところ福島県内でもあったし、ありますよね。そういうところが町おこしと言い出して、例えばその村なり町に今まで誰も顧みなかった、例えば文化財があるとすれば、それを使って新しく教育材料にしようとか学校でこういう古い物や由緒あるということを教えるとか。あるいはそういうものを観光の材料にして人々にもっと来てもらう。そういうことからすると町おこしという意味合いからすると非常に意味があるのかなと。別に町おこしという言葉、そういうことで行政なりその街の人たちが一生懸命やるってことに意味があるのかなと思いました。先ほど町おこしが気持ち悪いという話をちょっと私の解釈違うのかもしれないけど、そんなようなふうに聞こえたので一つ復興という「復」という言葉の問題じゃないのですけれど、再びという「再興」と同じようなことなのかなということで、復旧との違いから復興というのは何かを付け加わる、何かを始めないと復興にならないということを感じました。

 今の議論はとっても面白いと思うのですが、そこで復興の「復」はどこにいってしまったのでしょうか。復興の「興」の方は今の説明ですごいクリアだし、一つの在り方として良い解釈だと聞いていたのですけれども。でも復興の方の「復」は復元の「復」ですから、その「復」は今の説明だとどっかにかなり霞んでしまっていて。なので、そこはどこにいってしまったのかという質問です。

 おっしゃる通り。と言うのは多分復興なり再興というのは、前は何かがあったという前提だと思うのですが。ただ、それをあんまり意識しないで言っている。だってある町に産業、米作だけやっていたとしても別にずっと大昔から米作やっていたわけではなくて何かがあったという前提で復興、再興というふうに考えんのかなと。非常に曖昧ですが。またあの復旧、復興とちょっと似たよう議論になっちゃうかもしれない。それでここで思い付きばっかりなのですが、病気のことを例にとると。例えばまぁ私結核に近いようなことを経験ありますけど、そういうことで病気になり色々治療して薬なんか飲んで回復しました。すると心身、体の方はまぁ一応元に戻る。それが、まぁ病気が治るというふうに言われるわけでしょ。そして医者にかかんなくていい。それで体が元に戻るという時の体っていうのは、当然心と体が一緒になっているわけでしょ。そういうことで回復だし、回復にはなった復旧ではあるのだけれども、さらに何かが加わらないと。まぁ今までの復興ということを考えると、この元の体に戻ったということによって、何か今までにない元気が出てくる、やりたいことが出てくる、何か新しいことを始めよう、勉強しようとか思った、そういうことに取り掛かることができる。そして病気が治ったうえに、もう一つ加わった。その状態が復興というようなことになるのかなと、一つのささやかな例ですけど。そんなふうにも思います。

 回復という点で、体が回復すると復興は言葉自体違うと僕は思いますが。福祉業界にいたことがあって、福祉では回復とは言わない。寛解と言います。その人とその体を失った手足とどう向き合って生きていくか。これは回復ではなく、向き合っていく形なので寛解。なので、その復興という漢字に当てはめていく、その街と生きていくという意味では、復興ではなくて寛解という感覚で取り入れて考えた方がいいのかなと僕は思います。

 また言葉の問題。寛解というので、精神疾患等で言う。例えば統合失調症の場合、これは完全に治るということは前提としてないですよね。要するに症状が良くなる。今までのような社会的に非常に支障のあるような状態にならなくて済みますよ。それを寛解状態というふう言っていると私は理解している。

~10分休憩~

 それでは再開したいと思います。復興の話から、復旧と復興とかの話も出てきたとこです。オリンピックの話は少し出ていますけれども、コロナの話がそんなにまだ出ていませんので、コロナ禍のことも絡めながら後半考えていきたいし、途中出されましたウクライナの問題ですね。これについても皆様からお話伺っていければと思っております。それでは後半を再開、復興したいと思います。どなたからでもどうぞ。

 誰宛てという訳でもありませんが、質問からちょっと始めたいのですが。コロナ禍から復興という言葉になりますかね。それとも復旧になりますかね。どっちがピンとくるのでしょうね。なんとなくですが、飲食店の人と話していると決して復興とは言わないような。「せめて元通りにくれ」という言い方をするから、恐らく復旧に近いのかなという、ニュアンスはなんとなく感じているのですけれどもその辺なんかどうなのでしょうねという問いから始めさせてください。

 私もそんな感じです。復興の方にはちょっと傾かないかな。コロナ禍という感染症のウイルスによって病気が蔓延していますが、それが災いでなくなるというだけの話ですよね。だから、なにか新しいことを付け加わるなんていうのは、あまり関係ないかと思います。

 ただ、なんて言うか僕すごく一番は、それこそ収束してくれればベストなわけですけれども。それで十分ベストなわけですが、一方で収束はあり得るのだろうかと。その前に復旧もあり得るのだろうかというのは、すごく不安に思っています。だから僕はすごく原発事故と重ねて考えているところがあってですね。僕がずっと「てつがくカフェ」もマスクしたまんま、そしてコーヒーは出さないみたいなのが、もう永遠に続きそうな気がしなくもないです。なんか嫌な予感がしていてですね、どうなることやらと思っています。

 私は東京から参加しておりますが、今の話で言うと感染症あるいはパンデミックと言うのは、いずれ収束すると僕は思っています。と言うのは、歴史的にどんな感染症も克服してきた人類の歴史というのがありますから。ただそのスパンというのが例えば半年後に消えて無くなるよという短いスパンじゃなくて、多少かかるだろうなと。多分スペイン風邪の時代よりも、一気にパンデミックが広がるとか。それはもうグローバル化して、そういうことのスピードはすごい勢いで広がりましたとかもあって。その分逆に言うと早く静まるのかもしれない、そうでないかもしれないけど。いずれにしても、そんな簡単に収まらないと思います。ただそれでも、10何年スパンの感じで考えていけば、克服できるのではないかというふうに思っています。それに対して原発ですが福島第一原発今双葉町の方とかもいらっしゃるので、あんまりちょっと言いたくないかと思うのですけれども、あれ廃炉にできないと僕は思っていますし、確信しています。というのは国が出した30年、40年で廃炉するというロードマップが遅れに遅れているというのは皆さんご存じだと思いますが。あれが50年延びるとか、100年延びるとかって言ったってデブリ出せますかという感じで、出せないと思います。たとえ万が一、デブリを出したとしてそれどこに持っていきますかと、問題がまた出てくるわけですよ。ですから、結局あれはもう永遠に、攻撃されたチェルノブイリというのは1986年の事故が起こった後に、石棺というかコンクリートで固めましたよね。それが持つのが30年だって言われていたから、30年後の何年か前にその上にさらに第二石棺というのをやりましたよね。それはさらにコンクリートより丈夫だから100年持つと言われています。ただ100年たったらどうするのか何も決まってなくて。多分その上に、さらに未来のもっといい物質で第三石棺を作るのだと思っています。そのように福島第一原発に関しては、周囲がどれだけ除染できるかということはあるし、どれだけ人々が住めるようになるかということがありますけども、あの原発事故自体は到底無くならないし、廃炉には出来ないと思う。だからそこはもうコロナと全く違う。ただ先ほど寛解って話をされていた方がいて「あぁなるほどな」と、復興はこう考えると分かりやすいなと思いました。さっきの方仰ってたように、例えば事故で手足を失いましたと、戻らないといったとしてもそれならそれでそういう生き方として、幸せに生きていくことが出来ればそれは寛解だと、そういうことを考えると非常に分かり易い。原発はもうどうしようもない、放っておくしかないのか、また暴れ出さないように守りつつ固めてくしかないと思うのですけれども。それを抱えながらもどうしたら、人で言えば幸せに生きていけるのかというような道がないのかなというふうに僕は思っております。

 僕も今の話聞いてなるほど、そういう手もあるのかなと思ったのですけれど。前半の話も聞いて思ったことで、僕は静岡から参加していますので福島の復興とはまた違いますが、やっぱり全国でも復興とは言わないけど「興す」ことを求めている。町おこし協力隊とかは全国にいたりとかして、町を「興そう」としている。外部から入って来てくれた人たちがいて、僕もテレビで自分の街の人たちを観てちょっと嫌な変な「興し方」をされていて。勝手にカレーの街にされそうになっていて。誰もそんな望んでない、本当に「そんな街じゃなくていいけど」みたいな。むしろ「この静かな街が好きなのだけど」とか思っています。なんか、その興され方に違和感を覚えて。確かに寛解という考え方で何か違う居心地で、自分たちが住みやすいというか幸せな街なのか、幸せな人生を送れる場所を作るということを考えればいいのになって。なんかそんな無理に興す、盛り上げる必要はないよねというのは感じたので。何かその寛解みたいな違う考え方で出来ればなと確かに思いました。なので、福島だけじゃなくて多分オリンピックが「福島を復興」と言っているのは、日本全体の復興のメタファーにされているというか。そういうのもあるのではないかと、あっただろうなというのはさっきの話を聞いていて思って、そこに暴力性みたいなものは感じました。

 僕は復旧というのは、復興と言うものの中に復旧があるという気がします。ですから、何かあった時まで戻すというのが復旧で、それからその場から少し伸びていくとか。そういう気がするので別に辞典を見て言っているわけじゃないので、想像して言っていますが。それからさっき彼が言ったみたいに、こういうように今なっていくけど、私はそう思わないみたいなね。そこで一番いつも突き当たるのが、多数決というやつですよね。多数決でこういう具合にしていくと。こっちの人も、その辺がどういう具合にやることによって復興というのが、拍手喝采となるのかという気がします。

 今多数決とおっしゃったのは、要するに多くの人がそれを望むないし、賛同するものが復興だってそういう意味での発言でしょうか。

 色々意見はあると思っていて、こういう方がいいとか。そこで最終的に落ち着くのは多数決じゃないかと。ただ僕自身は、あんまりそうは思いたくないです。そういう生き方をしてきたので。ただ、マジョリティの中のマイノリティみたいな感じで、マイノリティも大切にしないといけないというのはありますけどね。

 確かに復興が多数決で決められて、そこは東京オリンピックも多分同じで、多くの日本人は「おもてなし」で万々歳と言っていたのだろうと思いますが。マイノリティの私なんかはモヤモヤしながらそれを聞いていたという。そういうふうになってきた時にやっぱり、そもそも復興は今までの話を聞いていて経済ベースというか、経済成長を前提とした考え方になっているという感じがあって。確かに福島にいてこれだけ人が減っていって、このままでいいのだろうかとすごく不安にはなるのだけれども。そうかと言って、ここが仙台みたいになって欲しいわけでもないし。なんかその上手い寛解的な解決はないのだろうかというのは感じるところではありますね。

 じゃあ復興五輪はなんの復興だったのかと、色々考えていた時に一つだけあるなと思ったのは自民党が復興したのは間違いないと思っています。要するに民主党政権に一回奪われて、それで権力を失ったところから取り返して。それで「日本は良い状態になっています」と言うことはできる唯一の復興が謳えるのは自民党なのかなと思いました。

 僕も復興五輪についてですが、そもそも僕は復興とスポーツを結びつけるのはちょっと無理があったのかなと思っています。村や町とかの中で散り散りになった人を一回集めて何かスポーツ、運動会やってみんなのコミュニティの場を取り戻そうとかだったら、まだスポーツと復興とかは結びつけることはできんじゃないかなと思うのですけれども。世界中の人を集めてスポーツやってそれが復興だって言われても、僕は全然納得いかなくて。スポーツはあくまで僕は気晴らしとか、そういう感じだと思っています。それを最終的には復興オリンピックですらなくなって「コロナ禍の中で頑張ってみんなスポーツやろうよ」みたいな感じになっちゃって。そもそも復興とスポーツを結びつけるのは無理があったのかなと僕は思いました。

 東京にずっと住んでおりますが、東京オリンピックの招致は別に今回が初めてじゃなくてその4年前、あるいはその8年前かもしれないのですけれどもずっとやっていたわけですよね。それで、たまたま色々と招致合戦をして上手くいかなかった。今度こそという時に復興とお題目で付けただけというのは、東京にいればみんな知っているはずだと思います。というのは散々その前から名乗りあげていたわけですから。安倍晋三がまるであのプーチンが「ロシアはウクライナを侵攻してない、攻撃してない」というくらいバレバレの嘘のアンダーコントロールという誰が聞いても噓のことを言って。あれもまともに考えたらアンダーコントロールどころじゃないわけですけども。そういう嘘で塗り固めてきただけの話だと思っています。それで、何が言いたいかというと僕もずっとオリンピック反対で、最初から反対でしたが結局復興の言葉がいいように使われているわけですよね。実際何が起こったかというとオリンピック決まったって時には、福島あるいは東北三県の被災地のために色々人やモノをなくとも作らなければならない、直さなくちゃいけない。モノや人は東京の方に高い金で集められてしまったみたいなこともあり。全然復興でもなんでもない。話がズレましたが、何が言いたいかというと復興の言葉に騙されちゃいけないというか。そんな簡単に復興と言っちゃいけないぞという気が一つあります。それでさっき思いましたが、復興ではなくて先ほど言った寛解の本来の意味というのはちょっと違うかもしれないですけれども、違った概念の新しい言葉がない。混乱している。権力者も、一儲けしようとしている土木会社も、ゼネコンも、我々市民も全員が復興と言っている。それぞれが意味合いの違うことを同じ言葉でまとめているところに、すごくなんかやっぱり今他の言葉無いです。無いので中々これどうしたらいいか難しいのだけれども、そこにすごく罠があるような気がしてならないというふうに思いました。

 最初復興五輪ということで聖火リレーの出発点はみなさんご存じですか。あれ最初は浪江だったわけですよ。浪江という原発が無いところからスタートして、原発をみんなに映してもらおう、知ってもらおうという取り組みだったわけですけどそれはおかしいと。原発事故があるところからスタートしろと、なんだったら原発からスタートしろというふうに国に言ったのですけど。そうした結果Jヴィレッジになったのですけれども。でもJヴィレッジはそれって結局お金なんじゃないかなというふうに思っています。結局自分の要望は通ったから嬉しいですけども。浪江からスタートして復興というオリンピックと重ねて、さらに現状を伝えようとしている風な動きってメディアの作為というか、あるのかなというふうに僕は思っていました。

 Jヴィレッジについては、この間本を読んだのですけれど。原発の設置に反対して30年近く教員の方々とか裁判していて。Jヴィレッジは電力が寄付で作ったということであって。私も相馬にいるのですけれども聖火リレーの時にちょうど、私商工会議所というところにいるのですけれども、ぼんぼりを立てて「桜まつり」をずっと準備していたのですが。聖火リレーが中村神社の参道を通るということで。そこで協賛を頂いた地元商店街の5千円とか1万円とかぼんぼり付けますが、聖火リレーが通るから電通とか大手スポンサーが迷惑だから全部設置できなかったわけですね。そんな高々小さい商店の地域の些細なイベントですけれど、それをやるのに大手スポンサーの気を使ってわざわざ日にちをずらすとか本当ふざけんなと思いまして。全然復興も何にも関係ないというメディアとか大きいスポンサーのイベントとして行われたという。私も最初から反対はしていましたけどいい迷惑でした。

 良い情報でした、初めて知りました。残り30分くらいになってきました。ぜひまだ発言されていない方はですね、色々とこれまでで関わることでもいいですし、関わらなくてもいいです。全然別の方向からでも構いませんので、何でもご発言頂ければと思います。

 復興五輪の話出ていましたけれども、元々スポーツと復興を結びつけること自体がおかしいというご意見もありましたけれども。ただ日本に五輪が来て実現できたのに復興と言う意味合いがどれくらいだか、分からないけれどかなり効いてないこともないのかなと。つまり安倍さんがリオに行って、マリオだかのパフォーマンスをやりましたけれども、あの頃はまだ震災の余韻が残っていて世界もかなり日本は震災を受けて、それをその地域、ダメージを受けた日本を復興するために五輪を誘致するのだということでもってアピールしたわけだけど。かなり「反招致」があったのかなというふうに思わなくもないのですが。ただ実際の五輪が始まってその意味合いがちょっとというか、大分というか薄れてしまったという感じを私受けておりますが。先ほど聖火リレーもコロナと重なって全国各地をつらなく福島から始まって、浪江からですけど。始まって全国各地をリレーするというこれが非常に辞めるところも出て来ちゃったし。リレーを迎えるのもあまり好ましくないみたいなことで、その辺のアピール力もなく非常に弱まってしまったというようなことで。復興の意味合いが減殺されてしまったという。そういうことはあったと思うのですが、IOCにしろJOCにしろかなり復興ということと結び付けてやろうじゃないかということは、少しはあったのかなというふうに私は理解をしておりました。

 今の話よく分からなかったのですが、今の例がスポーツと復興が結びつくということの例として挙げられたという理解でよろしいでしょうか?

 いや先ほどからスポーツと復興ということ結びつけること自体が馴染まないのではという話があったのですが。ただそこら辺を馴染ませるという意味合いから日本がリオで誘致する際も復興とスポーツとね、結び付けてアピールしたわけですけどそれが数字的にどうとかわかんないですけど、効果があって競争している4カ国ぐらいでしたっけ、その内日本の誘致が成功したと。その一つの要因にはなっていたのかなということです。

 先ほどの話からすると、「スポーツは復興のためのきっかけに少しはなった」ということでよろしかったでしょうか?

 そういう狙いを持たせたのだと思います。それで少しは効果があったと思います。あるはずだったと。ただコロナ禍ということで聖火リレーなんかも非常にそういう復興という意味合いが削がれてしまったということでは効果は少なくしちゃったのかなということであって、全く無いというふうには思っていないと。

 そうですね。それは僕も思っていたというか、僕が二本松のブドウ農家さんからお話を伺ったのが、オリンピックでコロナ禍になる前ですけども、オリンピックがあれば福島に観客が、外国のお客さんが来てくれて二本松で作ったブドウのワインを飲んでくれれば福島というものを知ってもらえて。向こうに帰っても福島のワインというのを楽しんでくれるのではないかという意味では、それは間違っていなくてオリンピックやったことに意味はあると思います。僕が思っているのが、その頑張ったスポーツ選手の方々には申し訳ないですが、スポーツで勇気づけるというかスポーツというイベントによって復興というのは多分あるかと思うのですけれど、スポーツ自体には全くそういう力は無いと思っています。スポーツをやること自体が復興と結びつかなくて。スポーツイベントで確かに復興はできるかもしれないですが、スポーツ自体には無いかなという意味で発言したのですが。そういう意味ではどう思っているのかなと聞いてみたいです。あのすみません、先ほど発言された方はどう思っていますか?

 今の話で思ったのが、スポーツ自体にその復興とかなんか結び付ける理由とかね、無いのではないかと。それはそうかもしれない。要するにスポーツしている人がどういう目的で、あるいはスポーツ界でどういうことでスポーツを普及しようとしているのかということを考えた時に、こういうことかなって。健全な肉体に健全な精神が宿ると。要するに肉体的、精神的な限界までやってみるという。そういうことが非常にスポーツマンにとっては意味が大きいのではないかと。要するに限界まで肉体、精神の働きをやってみるという。その結果が世界一とかなんとかなると、その辺が本来スポーツの意味ということではないかと思います。ただもう五輪で私は非常にあまりいいなと思っていないのは、国を背負って出ていくそれが非常に強くなっちゃってそういう在り方、私は非常に反対です。

 健全な肉体に健全な精神は宿るのかというテーマで昔「てつがくカフェ」でやったことがあって、そもそも「スポーツと健全な精神性というのも何の関係もないのでは?」みたいなことも昔話し合ったことがあったかなと、ちょっと今思い出しながら聞いておりました。

 僕の発言はスポーツ批判かどうか分からないですけど、正に今回の東京のオリンピックと福島で本当に思ったことが「スポーツしている暇あるの?」みたいな。言ってしまうと、こんなに苦しい思いや悲しんでいる人がいるのに「そんな球蹴ったりしている余裕はない」という人が日本にも世界にもいて。にもかかわらず、それを祭りのようにして観て楽しんでいられない人もいるよねと。そこと今の発言が繋がってくるのかなって、今の僕の言い方は酷く言いましたけど。スポーツと復興とどう繋がってくるのか僕もすごい共感する部分もあります。

 スポーツのすごい人がオリンピックに出る。ただオリンピックは今スポンサーのために作られているみたいな気がするわけですよね。だからIOCのバッハ氏もそっちの方が優先やからね。だからそれがないと出来ないように大きくしたIOCというのも罪というのかな、なにかちょっとしっくりこないですよね。それで復興というのはその辺の人を持ち上げるためにただ付けただけじゃないかと。「それはすごい!」という人もいるだろうし、「なんだ!」という人もいると思う。僕はどうも復興というのは、そういうスポンサーとか、そういう人のためにというわけではないけどお金を払ってくれる人のためになにか付けたのではないかという気がします。

 パラリンピックでウクライナの選手が大活躍しているわけですが。トライアスロンでしたっけ、金メダル独占して。僕も心情的に応援しちゃうわけですよね。パラリンピックのあのウクライナの選手を頑張れと思うわけですよ。それはある意味では、国威発揚みたいなもので。気持ちの上で今のそのウクライナの人達がどれだけパラリンピックを観ているか分からないですけども、観た人が元気づけられるということはあると思います。ですから、そんな意味で必ずしも復興に役立たないというようなことではないと思います。ただ、やっぱりそれに危険な部分があって。ある種のナショナリズムを駆り立てるということはありますんで、それはもろ手を挙げて全部良いとは言いませんけれども。ただある種のスポーツの力というものが、そこに全く役立たないということは無いと思います。いかがでしょうか?

 阪神大震災の時にオリックスが「頑張ろう!神戸」みたいに付けていて、すごく盛り上がっていたのを思い出したのですが。人々を勇気づけることができるかどうかという意味では、間違いなく勇気づけたと思うのですけれども。特に野球が好きな人に対して。けれども、じゃあそれが復興に繋がったのかというのは、なんか別な問題のような気がしていて。あくまでもスポーツの役に立つのは、人の心を勇気づけているだけで復興そのものには必ずしも繋がってないのではないかという気がするわけですね。さっきからずっと考えていたのが、そもそも復興と言いだす人は誰なのかと。権力の無い人が復興の言葉を言い出すだろうかと思いまして。それで、ウクライナ問題もウクライナ側に立つのではなくロシア側に立った時に、恐らくですけれどもロシアはクリミア併合とかしているぐらいですから恐らくソビエトのような強大なロシア帝国を、それこそ復興しようとしているのではないかと見ることもできますよね。それで復興と言い出す人達というのは、なんか良からぬ権力を持っているような人のケースが多いのではないかなと思っています。そうではないケースで復興と言い出して、それが実現した例が歴史的にあるのでしょうかね。そうやって考えていくと、復興と言っている言葉自体がかなり怪しくて。なんか他の言葉を見つけて他の目指すべき目標、最初の方の議論に戻りますが、何を本当に目指しているか。それに対してどういう展望でやってくのかという、新たな作戦を立ててかない限りあんまり幸せにはならない。幸せになるのは自民党だけなのかなという気がしてならない。

 今の方のおっしゃる通りだと思います。私もさっき言った通り復興は言葉がその言葉しかないから、全ての人が復興と言うけれども権力者が使う場合の復興と、被災者が使う場合の復興と、ゼネコンが使う場合の復興と、電通が使う場合の復興は中身が違うわけですから、それを復興と十把一絡げにしちゃうってことは非常によろしくない。これ新しい概念なり、考え方というのを立ち上げていかないといけないと思います。それからもう一つ、最初の方に出ていた復興は心の問題かどうかって議論があったと思うのですけれども、先ほどの話で復興が心の問題に関わっているのであれば、スポーツもそれをケアアップすることは出来るのではないかというくらいの意味ですが、そこに全く完全に否定すること出来ないだろうなというふうに思っています。

 復興五輪はやっぱり何が復興だという気持ちは一時的にあるのですけれど。復興とやっぱり付けたくなりますよね、オリンピックに頭にどうしても。国民を統合しやすいし、乗りやすい。やっぱりこの言葉は金が大量にかかって、それが国の負担にかかってくると分かりつつも復興と言われるともうそっちの方に寄っちゃうというか。あとスポーツをやる選手自体も、頑張ったからいいとは思いますが、銅メダルを取っても「いやまだ私は銅メダルでは満足しません」となって、取った途端に選手の口からそういう言葉が出る。あと金メダル以外は喜ばないといいますか、評価をしないような風潮がどうも蔓延しているような感じがして。だからスポーツ選手が社会貢献だとかしてもらわなくてもと思うのですけれども。スポーツ選手がね、最近口に出ることがみんな同じなような感じがして。ちょっとつまんないなって感じがします。

 費用対効果を考えるとオリンピックは、何百億とか何千億とか知らないけど、それがいつの間にかものすごい金額になって。だったら1兆円くらい使って直接希望者とか外交官みたいな人を福島に招待して、そこで福島の食べ物はこんなに美味しいだって、福島は今そんなに危なくないと直接PRした方がよっぽど良かったと私的には思います。今オリンピックは利権になってしまって、スポーツ選手は頑張っているけどそれは各々でやればいいことで。私なんかはスポーツ選手のために我慢しているみたいな感じがあって、在り方的にはおかしいのではないかと。五輪が始まったから福島の復興は2~3年は遅れたというか。なぜかと言うと、私福島の病院の先生と知り合いで資材が入らないから高騰しているという話を聞いて。人も入らなくて2~3年は五輪のおかげで遅れたということが、東電の廃炉作業員も五輪の方に流れたという話を聞くと本当に復興のためにはなったのかなと思う。費用を考えると勿体なかったという気がします。

 残り10分ぐらいになってきましたが、ぜひ皆さん発言いただければというふうに思います。

 先ほどのお話から似たような感じになっちゃうのですけれども。どちらかというと復興というよりもオリンピックに対する文句になってしまいますけれども、選手が頑張ったかよりもメダル取ったかどうかの方が重要になっちゃって。もう本当にスポーツの精神というのがオリンピックの中に、メディアとかの問題もあるかもしれないですけど「メダルが何枚取れました」「何位でした」ところしか報道しないので「選手がこれだけ頑張りました」という感じは伝わりにくいから、そういう意味ではスポーツの精神からちょっと離れているなと思って。そういう意味ではオリンピックと復興というのはどうしても繋がらないのかなと思いました。もう一つ、大分前に福島で被害あった人からウクライナの方はどう見えるかという話があったと思いますが、震災当時僕も福島に住んでいました。ただ会津の方にいたので津波とか原発とかの被害は、津波はもちろん無くて、原発の被害もそんな大きくなかったのですが。正直他人事として思っていたかというと、その時僕は多分他人事として思っていました。でも津波で流された人とかがいると思うとすごく悲しかったですし。それと同じようにウクライナで人が死んでいると思うとすごく同じように悲しいので。ウクライナからしたらあれは天災でも何でもなくて人災なので。僕は本当に他人事だとは思っていますけれども同じく悲しくは思っています。

 震災から11年たちますが、放射能の話はもう全く会話から消えましたね。これは復興ですかね、気にしなくなった。せいぜい野菜なんかの福島産の柚子となるとまだ出ているのでそれは買わない。あとはこの季節山菜を取りに行けない。山菜がまだ出るので11年たってもまだ行けていません。この時期に「あぁ原発事故のせいだな」と改めて認識しますけども、本当に市中の会話の中から放射能が消えてしまったという想いです。

 福島市内で震災後2週間ぐらいは毎日原発の話だとか、放射能の話だとかを盛んに近所の人としていましたが、山下何某さんが「安全です」と言って回ったらみんな帰ってきて、ホテルにずっといた東部に行っていた人も「大丈夫だ」と帰ってきたら、それから一切原発の話は出来なくなってしまって、なんか政治的な話に取られちゃって。原発の話未だにする人は、あと憲法の話とかする人は特殊な人みたいな、普段の生活からはもう言えなくなったというのが、すごく私も感じています。前は金曜講座が2カ所であって4~5年くらい前から「バカヤロー」なんて怒鳴られたことがあって。「風評被害を増す気か」という意味だと思うのですけれど、今は例えば何とか処理水海洋放出ですけど、害があるか私は分かりませんが風評被害は必ず起きると思います。でもその話をすると「あんた達がそう言うから風評被害は起きる」みたくなんか言われそうであんまり言えないというか。私は大阪湾とか東京湾とか地産地消で半年か一年くらい流して、風評被害が起きるかどうか実証実験して欲しいとFacebookにいつも書いていますが。実際に害が出るかどうかよりも風評被害というのは今流しちゃえば、永遠に流し続けるわけですから、遮断して地下水がどんどん入ってくるわけですから。そこきちんと遮断して、60年くらい保管するとトリチウム半分くらいで害が無くなるから、やっぱりそのくらいはやるとか大阪湾は橋本知事だかあの時流していいって言ってわけだから、交通費はかかるかもしんないけど流してみて。それで風評被害が大丈夫だって言ってから福島県で流せばいいと思っています。

 今日色々お話を聞いて、自分の中で復興の印象がすごく変わって。僕としては他人の目を気にしている言葉のように今日で感じました。例えば復興の言葉を掲げることによってすごい見栄えが良くなるし。逆に使わないと叩かれるような場面も「なんで3月11日にこの番組放送しないのか」とか。そういう叩かれる面もあるだろうし。復興を盾にするような状況とかもきっとあるというふうに今日の話を聞いて感じました。

 1964年のオリンピックの時も皆さんが盛り上がっている中、ちょっと違うなと思ってらっしゃった人がいたらしいようです。そういう人もいらっしゃったみたいで、「戦後まだ20年しかたっていないのにオリンピックなんかやって」と思った人もいらっしゃったみたいで。ただ今振り返ると1964年のオリンピックが『ALWAYS 三丁目の夕日』に描かれている限りでは良かったもののように感じますが「なんか違かったな」という感覚を私たちも今回のオリンピックでそれを覚えておくのが、すごく大事なのかなと思ったりします。先ほどお話にあったオリンピック関係の仕事で人が足りなかったという話で、私もオリンピック関係の仕事を少しやっていたのですけれど、その時確かに職員さんが足りなかったり、資材が高騰したりして「これってオリンピックのためにオリンピックやっているけど、復興の五輪なのか?」と感じることがすごくありました。なので過去振り返った時にこの気持ち、オリンピックがすごく良かったように感じるのですけれど、「ちょっと違かったよね」というのを振り返れたらいいのかなと思っています。他者に誰かに伝えられたり出来たら良いのかなと思ったり。この気持ちをパッケージ出来ればいいのかなと思います。

 最初の方に「忘れないことが復興だ」なんて言葉が出てきましたけれども、今日皆さんが話し合ったことを忘れずに伝えていきたいなというふうに思っております。今日は3.11特別編ということで、皆様にお話しいただきました。来年の特別編はもっと大々的にマスクも無く、出来るようになっていることを心から願ってやみません。それでは本日の「てつがくカフェ@ふくしま」の特別編を閉じさせていただきます。どうもありがとうございました。




てつがくカフェ@ふくしま特別編2021 報告「コロナ禍の中でいま震災・原発事故の〈教訓〉を問い直すー〈3・11〉から10年、私たちは何を聴き、語るべきかー」

2021年03月14日 08時30分00秒 | 〈3.11〉特別編記録
3月13日(土)オンラインで開催された

てつがくカフェ特別編2021について世話人の石井が報告させていただきます。


新型コロナウイルス感染症の影響もあり

ここ最近はオンラインで開催しておりましたてつがくカフェですが、

zoomの様子を録画したり、参加者の発言をメモしたりといった

記録を残すことはしておりませんでしたが、

今回の特別編から参加者の意見を

「マインドマップアプリ」で打ち込みながら

上記ツールを画面共有して進めさせていただきました。





震災から10年という節目の年ということもあって

オンライン開催にもかかわらず

20名の方にご参加いただきました。


ここで参加者の方の発言の一部を抜粋して紹介させていただきます。

【3.11の教訓について】
「果たして教訓は得たのだろうか?」
→震災以降、国や行政、政治家、マスコミ、学者への不信感が増した
→風評被害は、依然としてコロナ禍でもある
→10年間で貧富の格差はさらに拡大した

「教訓とは何か?」
→政府にとっての教訓=「何とか今をやりすごせばいい(問題の先送り)」ということでは?
→個人的な教訓としては、自分が被災者・被害者になったらと考えるようになった
→国際的な教訓として、ドイツなどでは国家レベルでフクシマの教訓を活かしている

「未来に向けての教訓」
→津波に関する教訓は伝えられているが、原発事故に関する教訓が伝えられていない (津波の恐怖は映像や写真で伝えられる=教訓として残る)

【コロナ禍との関係】
「震災との共通点」
→「これはホントなのか?」=政府の発表、マスコミの報道を疑問視 (福島原発で水素爆発が起きたことを政府と東電が情報を隠していた)
→コロナ禍になって震災の話をできる場がなくなった

【震災・原発事故の忘却】
→「忘れてしまわないようにしよう」という想いもあるが、忘れてしまう方にも共感できる
→被災者への接し方として「触れないようにする?/無理にでも聞いてみるべき?」(震災の体験を根掘り葉掘り聞いても良いのかという遠慮)

【温度差の問題】
→普遍的問題 (アイヌ・沖縄・LGBT・在日コリアンetc.)として、当事者・被災者・被災地と第三者には温度差がある
→(震災等の)話の席で居心地の悪さを感じる
→「寄り添う?」という言葉が安っぽく使われてしまっている
→当時から福島に住んでいるが放射能被害だけで、津波の被害はなかった(被災者意識があまりない)



さて、次回は4月17日(土)16時から

福島市市民活動サポートセンターで開催いたします。

また参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症の感染対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。

テーマは「翻訳はどこまで可能か?」です。

それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま特別編4報告

2014年03月18日 22時52分54秒 | 〈3.11〉特別編記録
3月15日(土)13:00より、〈3.11〉について考える「てつがくカフェ@ふくしま特別編4―震災・原発事故3年目の福島から考える―」がコラッセで開催されました。
     
参加者は48名。
震災・原発事故に対する関心の高さがうかがえます。
     

今回は第1部でシンポジウム、第2部で哲学カフェを行う二段構えで開催しました。
第1部では牧野英二さん(法政大学教授)のご著書『「持続可能性の哲学」への道――ポストコロニアル理性批判と生の地平――』(法政大学出版局)を手がかりに、それに対して哲カフェの世話人・小野原雅夫(福島大学教授)と、山本英輔さん(金沢大学教授)、齋藤元紀さん(高千穂大学教授)、石井秀樹さん(福島大学特任准教授)らが報告をする形式をとりました。
司会は相原博さん(法政大学兼任講師)です。
     

それぞれのご報告は大変興味深いものでしたし、コメンテータ同士の応答が大変刺激に満ちたものでした。
残念ながら、これらの報告に関して会場とのやりとりに割く時間が足りませんでしたが、いずれ、この内容についてはシンポジストの一人でもあった小野原からまとめた報告文がアップされることでしょう。

ここでは第2部の哲学カフェの議論に限った報告にとどめることをお許しください。
今回の議論は、ホワイトボードが3枚にもわたる白熱した議論が執り行われました。

   
テーマは「忘れる力は必要か?」
震災・原発事故から3年目を迎え、もはやこの出来事が風化に晒されそうになっている問題を提起させていただきながら議論に入らせていただきました。
まずは、「忘れる力の反対はなんだろうか?」という問いかけから、それは「覚えていること」や「記憶していること」と思いがちだけれども、むしろそのように意識的自覚的に覚えていることではなく、忘れていたある衝撃や体験を「思い出すこと」なのではないだろうか、という意見が挙げられます。
人間はいくら覚えていよう、記憶にとどめておこうとしても圧倒的多数は忘れていくものでしょう。
だから自覚的に覚えていようとすることが「忘れる」の反対語だと考えがちですが、その忘却の穴に落ち込んでいた記憶が立ち上がっていくことそのものが「忘れる力」の反対だというわけです。
これが自覚的に立ち上げる能動的なものなのか、ふとある香りを嗅いだ瞬間に記憶が呼び覚まされる受動的なものであるのかは興味深い点です。

別の参加者からは、まず「個人の記憶」と「共同体の記憶」のレベルがあることを分けた上で、「個々人には忘れることは必要だ」、けれども忘れられないものだけが記憶に残っていく一方で、「忘れてはいけない記憶」があるじゃないか、といいます。
これに関して別の参加者は、「責任能力」というものが「忘れてはいけない記憶」に関係するのではないかと言います。
犯罪行為が行われたことを忘れることは、また同じ過ちを繰り返させてしまうのではないか。
責任を問われることは忘れてはいけないというのはこのような意味でも理解できます。

また、その意見に対して別の参加者からは、「出来事」に近ければ近いほど忘れないのではないかとの意見が挙げられました。
この意見によれば、体験したものだからこそ、出来事の意味をよく知るのに「より適切な場所にいる」ことになります。
しかし、その反面で、その発言者は「朝鮮半島の植民地化」などの事実は、わりに忘れやすいものだと言います。
それはつまり、自分の体験から遠いものであるからだし、だからこそ「出来事」の当事者はそれに向き合う責任が生じるものだと言います。
出来事の内部にいる人間は、そのつらさや過酷さを生身で体験しているがゆえに、それを外部の人間に伝える責任があるのだ。
しかし、内部にいる人間がもっともよく知っているというのは本当なのでしょうか?
そもそも「内部」とは何か?
原発事故を「内部」で体験した人間とは誰のことなのか?
原発避難を余儀なくされた地域の人々なのか?
高線量汚染に晒されているにもかかわらず強制避難区域には指定されなかった地域なのか?
ホットスポットが見つかった関東地方の地域なのか?

こうした議論も含めて、しかし「忘れてはならないこと」が未解決のままに残されているのは現在でも変わらないわけですが、そうであるにもかかわらず「考えなくなっている」、「思考を止めてしまっている」、このことそれ自体が「忘れる」ということではないかという意見が出されます。
しかし、それは他方で過酷でつらい経験をいつまでも思い出していては生きること自体が困難になってしまうでしょう。
そうであるがゆえに、「忘れること」は「生きるために」必要なことだと言います。
したがって、個人には「忘れる権利」がある、しかしそれに対して共同体が存続するためには「忘れてはならない記憶」というものが必要だし、その責任はむしろ、先に挙げられた意見とは真逆に、もっとも忘れそうな立場にある「当事者以外の人々」にこそ求められるべきだという意見が出されました。

しかし、出来事の記憶を残すにしても、ただただ個々人の体験を語り続けるだけでは、けっきょく何も残らないのではないか。
それらの出来事を忘れないためには個々人の経験を超えた普遍的な意味をつかむ必要があるのではないかという意見が出されました。
つまり、「出来事の意味」という点において、何を語り残せるかが重要だということです。
人類が経験したことのないような原発事故(たしかに海洋汚染という意味では、チェルノブイリの経験も参照できない環境破壊をもたらした事故と言えるでしょう)は、様々なものを暴露させたのであり、そのことを次のステップに行くためには、忘れてはいけないも普遍的な意味があるというわけです。

その一方で、「忘れる」とは何かに関して、別の参加者は、自宅の周囲におかれた除染後にブルーシートをかけられた汚染土を見るにつけ、やっぱりあの出来事や放射能のことは忘れたいと思っている自分がいるといいます。
にもかかわらず、忘れようとすればするほど、忘れられない。
つまり、能動的に忘れることはできないことに気づかされたと言うのです。
記憶というものは忘れたくないと思っているものほど意外と忘れてしまったり、忘れたいと思っているものほど忘れられないという点で、人間のコントロールの範疇を超えたものなのかもしれません。

あるいは、別の参加者は、失恋の経験を挙げながら、それがつらい経験であることから素敵な思い出に変わることがあるのだから、その出来事そのものに対する「思考を切り替えること」によって、前向きに出来事と向き合えることができるだろうと言います。
したがって、記憶を残しつつも、それによってつらい経験が素敵な思い出に帰られるという点で、「忘れる」とは思考を切り替えることでもあるということになるとのことです。
すると、ある出来事を忘れさせようとする人々は、「別の思考」を持ち出しながら、その時どうとらえたかを別の解釈を導入しながら上書きを施した記憶をもたらします。
そして、その途上において記憶は上書きされながらあるものを捨象させられていくというわけです。

ここまでは、過酷災害に遭った個々人には忘れる権利があるとはいえ、共同体の記憶においては共同体そのものを持続させるための記憶が必要であり、そうした意味あるものとしての記憶は忘れるべきではないという議論が展開されてきました。
学校で地域社会で国家で。それは、いわば「教訓」として物語る形で残されていくということでしょうか。

しかし、果たして「意味がある」記憶だけが残されていくというのは本当でしょうか?
それについて、別の参加者は「痕跡として」記憶を残すあり方もあるのではないかと言います。
痕跡とは何か。
いわば、ラスコーの壁画のように当時からの文脈のある物語のようにではなく、岩壁に刻まれたまま、しかし何かが残されているような記憶の残骸のようなものです。
それについて、その発言者は物語が語られ得るような内部にではなく、記憶を「外側に刻む」や、「意味をはみ出す」という言い方をします。
「意味をはみ出す」とは秩序だった記憶の物語の意味からはみ出すということでしょうか。
あるいは、「忘れるべきではない記憶」といった「意味ある」記憶の部類からはみ出す記憶のことでしょうか。
いずれにせよ、人類の歴史のほとんどは忘却に晒されているわけですから、逆に残された記憶の数々が「意味あるもの」だとすれば、その意味をはぎ取られた、あるいは意味を与えるに値しない記憶を、いかにして残しうるか問題化した点で興味深いものです。

この意見に触発された別の参加者は、その「痕跡」を「万葉集」に見出します。
それによれば、「万葉集」こそ、故郷喪失や死をめぐるトラウマだらけの記憶の集合体であり、その点で柿本人麻呂は挽歌の天才だったと言います。
あるいは戦争遺構のように、意味をはぎ取られたような残骸のようなものこそ「痕跡」というべきものだとも言います。
また別の参加者はこれを受けて、鴨長明の「方丈記」を想い起したと言います。
この世のむなしさをうたったそれらの文学は、まさに誰も語る人がいなくなった共同体の記録を、意識のどこかに歌として根づいていたものを掘り起こすものとして、第1部で論じられた「情感豊かな理性」と結びつくのではないかと言います。

これらは、その点で「意味からはみ出す」ものを救い出すような文学作家だったと言えるでしょう。しかし、他方で、これらの言葉、物語が共同体に回収する危うさはやはり拭いきれません。
これら「意味をはみ出す記憶」たちが、いったん意味ある共同体の物語に組み込まれるやいなや、それらは共同体の存続に都合のよい記憶として利用される恐れがあるわけです。
そのことを古来日本人の心の表現として「万葉集」が、ナショナリズムと結びつく恐れもあるのではないかとの指摘がなされました。
「学び」や「意味」のある記憶は、実はそれ自体が忘却の危うさをはらんでいるのではないか。

そのことについて、文学に携わる別の参加者は、「意味づけることの方が忘却に加担するのではないか」と指摘します。
たとえば、震災・原発事故を「3.11」という一言で名づけることは、それ自体が記号化しており、さらに「9.11」という出来事と言葉のリズムとしても響きあう符牒めいた用いられ方は、言葉によって忘れないようにしながら、その実、私たちの個別的な経験や体験が切り取られているのか疑わしいと言います。
言い換えれば、個別単独である「私」の感覚と異なるものを「3.11」という言葉で記号化することで、ある種の神話化に加担させられているのではないだろうか、というわけです。
むしろ、その発言者にとっては「3.14」(福島第一原発3号機の水素爆発があった日)の方がよほど重要であったとのことです。
すると、「言葉」というのは、ある種の記憶装置でもあると同時に忘却装置でもある両義性を孕むことになります。
これまでの議論が「意味のある記憶」こそ忘れてはならないという展開であったのに対し、「意味を与えること」が逆に無意味とされる記憶を忘却させてしまうということになります。

この考え方に対しては、いくつか反論や疑問が付されています。
その一つは、言葉による意味の記号化は忘却を招くというけれど、けっきょく意味は言葉にしなければ意味がないのではないかという反論です。
というのも、「言葉」とはそもそも共同体の中で成立するものである以上、共同体において忘却を防ぐためには無理やりにでもしないと、けっきょくは「なんとなくの雰囲気」しか残らないのではないかというわけです。
また別の参加者からは、意味づけと記号化がごっちゃになっているのではないかという指摘がなされ、それは「記号化すべきではないという意見なのか、それとも記号化を認めつつ注意せよということを言いたいのか」との問いが投げかけられました。
それに対し、質問を受けた参加者は、言葉による記号化、例えば「東北」という言葉に一括りにされることで、福島や宮城、岩手、あるいは被災の個別性が失われてしまうことを懸念しつつ、むしろ「沈黙」や「語られないこと」に耳を傾けることの重要性を喚起したいと応答しました。

「3.11」という記号化された出来事でも、やはり地震・津波といった「自然」による被災は忘れられることもやむなしだけれども、人災である「原発事故」はそれとは種類が異なり、決して忘れてはいけない出来事であると言う意見も挙げられます。
これは冒頭で挙げられた「責任」と「忘れるべきではない記憶」という問題と関係するでしょう。
また、第一部の「持続可能な哲学」というキーワードと結びつけるならば、こうしてみんなで語り、考え続けることで意味がなくなるような危険を避ける努力が必要であり、その意味で「忘却」の反対は「文化を生み出すこと」であり、「記憶」とは「創造的」な営みであるとの意見も挙げられました。
「創造的」という点では、たとえば「原発観光地化計画」や福島原発跡地を「原発神社」にするなどメモリアル化の創造を通じて記憶を保持しようとする試みに注目してよいのではないかと提起します。

この「創造性」から「傷」というキーワードを導き出す意見も出されました。
「絆創膏」とは「傷」を防ぎ、新たな細胞を創り出して傷口を修復するまで覆う役目があります。
この震災・原発事故によって「人為の裂け目[傷]から見えた自然」、すなわち「人間がコントロールできないもの」が出来してしまったことを踏まえ、この傷口を塞ぐものが、ある種の宗教的なものではないかというわけです。
さらに、その発言者はこの傷を「スティグマ」、つまり聖なるダークな痕跡と名指します。
それは、いまでは普段気づかない傷だけれど、まったく癒えていない。
癒えていない以上、これを塞ぐためにはどうすべきなのか?
震災前にはうまく回っていたように見えた大きな袋の傷口に絆創膏を貼って、昔の形にするか、新しい形にするかが問われているのが今だというわけです。

すると、別の参加者から1,2年目は放射能まみれで早くこの現実をみんな忘れてくれたらいいなぁと思っていたという意見が出されました。
そして、時間の経過とともに周囲の人々が忘れ居ることにしめしめと思っていたとも言います。
商売する人たちにとっても、早く忘れてほしいなと思っていたのではないか。
そんな風に思っていたのだけれども、実際には忘れても問題は継続している以上、最も被害を被る人たちというのは、忘れたことによって汚染された食品を食べてしまったりする人々なのではないだろうかと言います。

このような議論が展開される中、そもそも「忘れる力」という言葉にはやはり違和感を抱くとの意見も挙げられます。
あるいは、「忘れる力」なんて福島に生きる人間に必要ではないと思っていたけれど、この「3.11」を血肉で体験してしまったことから、その考え方が転換してしまっとの意見が出されました。
ふと、そのことが顕在化するとつらくなる時もあるけれど、実は県外に避難したものの苦悩の方が辛いのではないか。
というのも、福島から避難した人たちは、いま、福島がどうなったかも割らないだけでなく、放射能汚染リアリティが消えてしまっているという話を聞くと言います。
だからこそ、ここにいる我々は真正面からこの問題に向き合うべきではないだろうか。
原発事故によってパンドラの函が開き、地獄の蓋が開いてしまったことを私たちは「見てしまった」。
「見てしまった」以上、我々はそれを外に伝える責任がある。
それが「フクシマ」人として生きることを引き受けるということであり、自分と戦いながら伝えていくということではないか、という重い決意が表明されました。

その一方、当事者にも部外者にもなりえない位置にいたという参加者からは、罪悪感を抱く思いが語られながら、言論人・文化人が「〈フクシマ〉に向き合う」や「当事者に寄り添う」とまとめてしまったが故の危うさが感じられるとのはなしが出されました。
言い換えれば、「「フクシマ」を忘れない」ことを利用する人々がいるのであり、それはこの後にさらに大きな出来事があったとき、実はこの出来事がぶっ飛んでしまうのではないか、と言います。
この話を聞きながら、私は以前、研究者である友人から「福島が学問の植民地化にされている」という話を聞いたことを思い出しました。
「フクシマ」が消費されていると言ってもいいでしょう。
震災直後、ある集会で研究者に対して市民が、福島を研究のために消費していることを糾弾した場面があったことも思い出しました。

このことを話題にしたところ、第1部でご報告いただいた牧野さんから、まさにご自分が「3.11」を題材に今回シンポジウムで取り上げられた本づくりに取り組んだことは、「フクシマ」を「商品化した」ことに他ならないことが告げられました。
当事者でもなく、外部から来た人間がこうして被災地を商品化することの苦しさを吐露されながら、しかしそうであるにもかかわらず、少なくともそのことを自覚しながら当事者とともにこの問題を伝え、語り合うことをせずにはいられないことが告げられました。
これに近い思い方は、以前にも東京から参加される別の参加者から伺ったことがあります。
その告白とも言うべき発言に対し、福島に居住する参加者からは現地の人間の本当の想いを知りたいならば、やはり福島に住むべきである、
年に一度来ただけでは被災地の思いなどわかるはずもないのだから、この地に移り住むことを進める発言も出されました。

福島の内と外。
震災・原発事故の経験の有無。
避難した人間とこの地に止まった人間。
こうした区分によって、しかしそれぞれに複雑な罪悪感や苦悩があることは、すでに避難者の思いに触れた発言にも見られました。
果たしてこうした内/外の区別は妥当なのでしょうか?
真にこの出来事の核心にいた人間とは誰のことなのでしょう?
体験した人だけが、真にその出来事の意味を知るものなのでしょうか?
その内部で体験したものだけが出来事を忘れえないのでしょうか?
その人々だけが忘れてもよい権利を持つのでしょうか?
「忘れる力」を問うには、この問題圏を避けては通れないようです。
しかし、最後に牧野さんにご発言いただけた内容は、実はそれまでのモヤモヤした思いを払しょくするかのようなすがすがしさを感じたのは私だけではないはずです。
そのような重い思いを抱きながら、3年もこの特別篇におつきあいいただけたことは、心より敬服する次第です。
牧野さんだけではなく、遠くは金沢から富山、東京から駆けつけていただいたシンポジストの皆様や参加者の皆様に、心より感謝申し上げます。
まだまだ先行きの見えないこの「3.11」の傷跡を記号化するのではなく、個別の思いを忘却に晒さない可能性を、引き続きてつがくカフェ@ふくしまは探究して参りたいと思います。
また、多くの皆様に出会い、語らえることを願っております。

てつがくカフェ@ふくしま特別編3・報告

2013年03月12日 22時46分03秒 | 〈3.11〉特別編記録
   

あの日からもう2年を迎えます。
3.11を明日にひかえた3月10日、てつがくカフェ@ふくしまは法政大学サステイナビリティ教育研究機構との共催で、アオウゼにて東日本大震災・東電第一原発事故をテーマにした第3回特別編を開催しました。
昨年ほど手広く宣伝もしなかったので、それほど人も集まらないだろうと予想していたのですが、それにもかかわらず42名の方々にご参加いただきました。
遠くは静岡、岩手、東京からいらした方もいらっしゃいます。
ありがたいことです。

今回のテーマは 「フクシマはどこへ―怒りと絶望の淵から―」。
実はこのテーマを決めるに際しては、世話人のあいだで議論になりました。
当初、福島組の小野原・渡部からは 「福島は犬死か?」 というテーマの提案がありました。
しかし、これに対して東京組の牧野・斎藤・相原・大森から、そのテーマの過激さについて待ったがかかり、メール上での議論のやりとりを経て、ようやくこのテーマに収まったという経緯があります。
今回のカフェ冒頭では、その経緯について5名の世話人からそれぞれの思いを語るところから始めました。

まず東京組から 「福島は犬死か?」 というテーマ設定には、先の衆院選結果に対する感情的な反応が含まれており、様々な意見を出し合うフォーラムとしての哲学カフェになじまない、「犬死」 の意味の受け止め方が福島県内/外の人々で異なり、そこに距離の問題や言葉のもつ意味のズレ、違和感がある、「犬死」 という言葉は東京に住む人間にとってきつく感じる、犬死はけっきょく生き残ったものの判断である等など、テーマへの違和感が提示されました。
それに対して福島組からは先の衆院選結果へのショックを経て、あたかもフクシマの犠牲がなかったかのような政治情勢、社会的空気に対し、「フクシマの犬死=犠牲を認めよ!」 という意味が込められたこと、しかしその感じ方が果たして福島に住むものとして閉鎖的に感じるだけなのか、県外の声から確かめたい、さらにそれは果たして福島の問題だけではなく日本全体の問題として考えたかったとの意見が提示されました。

  

  

これらテーマに込める世話人たちの思いを皮切りに、議論は 「犬死」 をめぐって展開します。
まず、「福島は犬死である」 ことを肯定する意見が出されます。
「そもそも福島が勝ったときなどあるのか? 歴史的に見ても連戦連敗、常に負け続けてきたではないか。
そのことを認めることから始めるべきなのに、あたかも犬死ではないかのように糊塗する風潮に違和感がある。」
この発言は福島在住の方から出されました。
「犬死」 をめぐっては世話人同士の中でも、言葉の意味のズレ (というか溝) がありました。
そして、「フクシマは犬死か」 には 「フクシマは犬死ではない」 という反語的な意味や、「フクシマを犬死させないために」 という未来志向の意味を解読した東京組の見解も出されたのですが、この発言はむしろ、そのような解読すらも不要であり、むしろそのような解読こそ 「犬死」 を見誤らせるのではないかという意味も込められているように感じました。

また、東京組の世話人から提起された 「犬死」 が 「感情的」 という問題提起に対しては、
「このたびの原発事故が理性の限界を露呈したことを認めつつも、「だから理性はダメだ」 なのではなく、それでもなお理性はありうるかという問いを含んだ、むしろ理性を問い直そうとする意味が込められていたのではないか」 との意見が出されます。

さらに、世話人の問題提起の中では 「犬死」 をめぐって福島県内/外との温度差とも言うべき溝を 「ウチとソト」 という言葉が用いられましたが、これに関して東京から参加された方から、
「たしかに東京の人間が福島の人々に向かって 「犬死だよ」 とはいいにくい、けれどこの言葉は東京の人間だからこそ言いたいし、言うべきだ」 との発言をいただきました。
ここには、福島の犠牲が無駄であったという事実を糊塗するかのように、巷では安っぽい 「希望」 や 「がんばろう〇〇」、「復興」 といったスローガンが喧伝されることへの批判的視線が含まれています。
たしかに、被災地の外部の人間が被災者に対して 「キミタチの犠牲は犬死だったのだ」 ということは傲慢の謗りを免れないかもしれません。
にもかかわらず、この発言者が自らの立ち居地と居心地の悪さを引き受けながら被災者と向き合おうとする、覚悟ある姿勢に共感させられたものです。
少なくとも自分の負い目を払拭するためだけに被災地入りして、口当たりの言い言葉だけを並べ連ねるだけの支援者とは位相を異にするのではないでしょうか。

ただし、こうした 「犬死」 ということに対しては、2年間という時間の中でどのように向き合ってきたかは一様ではありません。
ある参加者は、被災直後ではわからなかったが 「2年という月日を経過する中で、だんだん犬死を認定させられていった」 といいます。
一方、2年が経っても 「絶望と怒り」 という感情が収まらないなかで、周囲の楽観的な様子や原発を推進してきた政党の党首が来福した際、福島の人々が手を振る姿を見て、この絶望感が自分ひとりだけなのかといった孤立感に襲われたと発言して下さった方もいます。
この 「怒りと絶望」 あるいは 「犬死」 という無力感は、時とともに癒されることもなければ、時間の経過とともに深まるといった様相もあるようです。

しかし、この 「怒りや絶望」 といった感情は、それが増せば増すほど理解されるかといえば、逆に共感を得られにくくなるといった発言もありました。
この感情を示せば示すほど同情を得られるわけではなく、むしろ被災地外部の人間は引いていってしまうというわけです。
被災者への同情が偽善や欺瞞ではないかと自分を疑う世話人の一人の発言は、このことと関係があるのかもしれません。
人は誰しも悲惨な状況になる人間に同情するものですが、それに過剰に同化してしまうことがどこか嘘っぽさを含んでしまうことへの警戒感というものでしょうか。



こうした3.11以後の福島を 「犬死」 と認定する意見が出される一方で、「犬死ではない」 という意見も出されます。
まず、「3.11以後の福島で過ごす中で 「犬死」 と感じたことはなく、むしろ街づくりや復興をどうしていくか地域課題を解決する活動に取り組む中で生き生きし始める自分がいた」 という福島在住の参加者がいました。
なるほど、3.11以前には考えもしなかったこと、行動もしなかったことが、この出来事をきっかけに自分の中に生まれることを、むしろ恵みものとする発想がここには見て取れます。
あるいは、この出来事を体感したことによって、共感力や愛を得ることができたという発言も同様に、この出来事をポジティブに捉える立場といえるでしょう。

こうした被災地福島を 「犬死」 と指す言葉はけっして一般的に使われている言葉ではありませんが、こうした参加者たちの意見からは、やはりある程度その認識が社会的に共有されていることを窺わせます。

ところが、こうした議論の流れのなかで、そもそもこの出来事以前に 「犬死と思ったことはないのか」 という問いかけが出されました。
「犬死」 という人たちがその言葉に何を込めているのかいま一つわからない。だいたい人間なんて生まれた時点で犬死なのだから 「犬死から始めようよ」。
さらに、その意見には、どこか 「犬死」 という言葉の使われ方には 「うんざり感」 があると付け加えがありました。
不意を衝くこの問いかけに、一瞬会場は固まります。
さらに別の県外参加者からは、「犬死」 からは現状への不満を感じさせられるが、ではその 「怒りや絶望」 の矛先はどこへ向けているのか、むしろ外に向けるよりもどうして福島がこうなってしまったのかを問う視点が大切なのではないか、「どう変わってほしいのか?」 との問いが提起されました。
ここには、ある状況を指し示す言葉として 「犬死」 という言葉の用い方が陳腐化したり、それによって事態が進展しないことを言い当てているように思われます。



こうした問いかけに対して県内からの参加者からは、「福島県外の人々の無関心が広がり、政府は何もしてくれない一方で、じゃあ自分に何かできるかといえば何もできない、デモをやっても変わらない、そんな無力感に陥るとき 「犬死」 を感じないわけにはいかない」 との意見が出されます。
あるいは、あれだけの事故を起こしたにもかかわらず大飯原発が再稼動したとき、やっぱり日本は変わらないんだという無力感を抱いたとの意見も出されました。
加えて、訴える矛先といってもそれがどこなのかもわからないともいいます。

いっぽう、福島で漁業や農業を営む人々が自分たちが徹底して検査をして安全な食品づくりに励みながらも、消費者の 「安心」 は得られないかもしれない、無駄かもしれない、にもかかわらず 「つくり続けていこう」 という農業・漁業関係者の姿を紹介しつつ、「これがまさに 「犬死から始めよう」 ということであり、福島で生きるということは、その引き裂かれつつも、その間のギャップを生きていくということに他ならないのだ」 との意見も出されました。
ただし、それはけっして主体的な生き方ではないのだ、という言葉が印象的です。
つまり、「こんなしなくてもよい苦労を出来事の方から押し付けられたから、せざるを得ず立ち上がったのであって、それがあたかも自ら選んで主体的に構築しようとしたわけではないのだ」 と強調するのです。

別の県内参加者からは、「どんなに 「原発はうんざり」 といわれようとも、そこで生きざるを得ない人間にとって、そのことを問い続けざるを得ない」 との発言がありました。
これらの発言からは、あの日から2年が経つにもかかわらず、この被災状況を言い表す言葉をいまだ私たちは持ち合わせていない、あるいは探し当てていない事態が示されているように思われました。

とはいえ、この出来事に対しては、それがどんなに恐ろしい真実であったとしても、その捉え方が重要ではないかという問いかけが生まれます。
同じ出来事であろうとも、その捉え方次第で前向きになれるかもしれない、そんなことが示唆されます。
すると、ある参加者から原発作業員が発した 「おれたちは歴史の中で生きているんだ」 という一言が紹介されました。
ここには、原発事故の惨事のあとに生きているにもかかわらず、生の実感が滲み出た言葉として考えさせられます。
その意味で、長いタイムラインでこの出来事の意味を考える必要があるのではないかというのですが、
さらにいえば、そこには 「現状をわかってほしい」 という福島の声も突破するかのような印象を受けました。
この惨事を見捨てずに 「わかってほしい」 という思いは福島の人々に共通する声ででしょう。
しかし、この 「わかってほしい」 という承認欲求は3.11固有のものなのか。
そのような問いかけが為されたことに対し世話人 (東京組) から、連帯しようとすればするほど、つまり 「わかり合おう」 とすればするほど、共闘しようとする仲間から拒絶された体験談が紹介されました。
所詮、他者の痛みなど分かり合えるはずもありません。
しかし同時に、「わかろうとしたい」 という引き裂かれた2つの意見のあいだで翻弄されているというのが今の状況ではないか。
だから、もしこの福島の惨事が 「犬死」 であったとするならば、それはこれまでの人生を否定しかねないことになってしまう。
だから 「犬死」 という言葉を用いることに抵抗感があったことが、あらためて提起されました。

議論は拡散しつつ、何度も同じ論点に回帰しながら進んでいきますが、
ちょうどここでカフェタイムの中ほどになり、いったんブレイクタイムが入ります。

休憩後は、本来のテーマである 「フクシマはどこへ?」 に焦点化された議論が展開します。
つまり今後へどのようにつなげていくのか、という方向へ論点が絞られました。
その中に 「ゴールを決める」 ことが重要であるとの意見が提起されました。
ただし、ゴールといっても、現在設定されている 「復興」 というゴールは経済的な政策でしかなく、それはけっきょくは不安定な要素を孕んだものなのだという意見が提起されます。
中にはフクイチ原発を観光資源化するという案も紹介されます。
しかしいずれにせよ、経済でしかゴールを図れないところに発想の貧困さを感じるのであって、むしろ 「教育」 や 「医療」 といったゴールを設定する方がよいのではないかという案も提示されます。
しかし、ゴールを 「教育」 にしたところで、現在福島県政が取り組む教育の復興は、しょせん 「福島は元気だ」 と生徒たちを担ぎ出してアピールさせることで安っぽい 「希望」 や 「復興」 を言い立てるだけで、むしろ現実を覆い隠そうとする方向にしか動いていないではないかとの痛烈な批判が出されます。
「日本の復興なくして福島の復興なし」 などという原発推進政党のPR文句など、福島の原発事故を出汁に、相変わらず 「経済成長」 しか眼中にない、したがって原発再稼動も福島復興には必要だという論理が透けて見えそうです。
つまり、そこには 「教育」 に復興のゴールを設定しようと、福島県政自体が国家に過剰適応するようにしか振る舞えないのではないかとの疑念が拭いきれないわけです。

こうした意見を聞きながら、実は3.11によって新しい問題が生じたわけではなく、これまでずっと日本社会にあった問題が3.11によって顕在化したのではなかったという見方が生まれてきます。
たとえば、ある参加者は 「住民の意見を反映させるチャンネルを我々がもたなかった」 問題を例の一つとして提起します。
その意味でゴールは 「民主主義」 ということになってもおかしくありません。

最後に、福島内/外の境界線は、実は福島内部でも引かれている問題をどう考えればよいのかという点が話し合われました。
この境界線は時間が経てば立つほど 「後ろ向きな定義」 が生まれることと軸を一にしているようです。
その中において、この出来事の 「アーカイブ」 を保存しておくことは重要ではないかとの意見が出されました。
では、それは出来事の社会的な記憶なのか、個人の思いのことなのか、なんのためにアーカイブするのか。
そのような問いに対し、「汚染の中でどう生きるべきか、それに答える倫理が必要なのであり、絶望ばかりしていられない、それは自分の存在証明なのだ」 との答えが示されました。
できれば、出会いたくなかった出来事と出会ってしまったことの意味にどう折り合いをつければよいのか、その問いを生きざるを得ないというのです。

このほかにも果たして 「犬死」 は感情的な問いなのか、むしろ感情と理性が入り混じる中で今回の議論が展開されたことに困惑しつつ、思考が活性化されたとの感想を述べる参加者の方もいらっしゃり、まだまだこのテーマが問いを見つけるだけで精一杯のところにあるような感想を持ちました。
しかし、3時間という長時間もあっという間に過ぎ去るほど、議論は濃密でしたし、論点を深めるよりも行きつ戻りつする参加者の声は、やはり 「対話」 の本来的な営みを存分に発揮するかていだったのではないでしょうか。
そのことを初参加されたFさんの感想を借りて、今回の報告文の締めくくりとさせていただきます。


「今日は哲学カフェに初参加。
友達が真剣にやっていることを知りながら、これまで参加しなかった。
今日は参加してよかった。
進行役の小野原さんの進行役に徹する姿勢に感銘を受けた。
カフェという場に集まった人々を歓待し、人々の声にじっと耳を傾けようとする姿勢。
人々の声は必ずしも一筋縄ではないが、無理に軌道を修正しようとはしない。
話はたち消えになることもあるし、再び違った形でふと現れることもある。
一見対立する話でもいつの間にか寄り添うように響き合う声もあった。
逆もある。
ここに集まる人々は、話がまとまることにあまり価値を置いていない。
これは素晴らしいことではあるまいか。
むしろ、僕やあるいは僕の友人がはなしにオチを作ろうとする姿勢が異質だった。
同じ出席者でも大学の教員が話をまとめようとするのがむしろ不自然に思える。
もちろん、このカフェの後の懇親会で進行役の小野原さんや板書役の純ちゃんの話は堰をきるように飛び出すのだろう。
第二回目のエチカ福島に向けていろいろ考えさせられもした。
僕が進行役をするにしても小野原さんほど禁欲的にはなれないし、誰も僕にそんなことを望まないだろうが、少なくともその場に集まる人たちに対するリスペクトを忘れてはいけないということを確認させられた」

ご参加いただいた皆様、本当にありがとうございました。
てつがくカフェ@ふくしまは、まだまだ続いていきます。
またのご来場をお待ち申し上げます。

てつがくカフェ@ふくしま特別編第2弾報告

2012年03月11日 14時46分00秒 | 〈3.11〉特別編記録
昨日、てつがくカフェ@ふくしま特別編第2弾が無事終了しました。
てつがくカフェはいつでも誰でもどんな発言も限りなく保障する空間です。
それゆえに、どんな人がどれだけ集まるか、どのような話しの展開になるかはまったく予想がつきません。
その意味で偶然性を保障する空間といえるでしょう。
そして今回、その偶然性の空間には福島県内外から約60名ほどの方々がいらしゃいました。
遠くは京都、神戸から参加された方もいらっしゃいました。
なかには、張り紙を見ておもしろそうだからと当日飛び込まれた方も複数名いらっしゃいました。
そうした多様な参加者が混然とする偶然の出会いの中で対話が展開されました。

今回のテーマは「あの日から1年、〈3.11〉で何が変わったか―震災・原発をめぐって―」。
今回は前回の特別編第1弾での参加者の感想を踏まえ、前半は参加者全員ではなく約20名程度のグループを3つに分けて対話を行い、後半は全体での議論を進めるという形式で進められました。
ファシリテーターが対話の交通整理役とはいえ、その個性によって対話空間の様相もまったく異なるものです。
その意味で、各班がどのような展開になったのかは大変興味深いのですが、残念ながら全体の様子を総合的に見る立場のものがいないため、以下では報告者の目から見えた部分のみの記述になってしまうことをお許し下さい。
むしろ、私には見えなかった部分の対話に関しては、ご参加いただいた方々に左欄のコメントにご記入いただくことで、補足・対話の継続をしていただければ幸いと考えております。

【A班での対話の展開】


参加者は18名。その約3分の2は福島県外の方々です。
まず、〈3.11〉以後に何が変わったのだろうかという点について、各人の思いを自由に語ってもらうことから始まりました。
今まで原発に関わろうとしなかった、考えたこともなかった人々の意識は変わったのではないかというのに対し、それに追いつくだけの行政のシステムや対応、社会システムは変わっていないという意見が出されました。
たしかに〈3.11〉以前にも反原発運動はあったけれど、今回の原発事故によって人々の原発に対する意識は変わった、どうにかしなければいけないと思う人は着実に増えている、
しかし、それが社会を変えそうなんだけれど、もう一歩その変えるエネルギーが足りない、
日本人のほとんどはこの出来事によって「変わってほしい」と思っているはずだけれど、勇気を出して何かを変えようという何かが足りない感じがする・・・。
このように変わりそうだけれど、変わるための何かが足りないというもどかしさについて意見が挙げられました。
むしろ、海外で〈3.11〉を過ごされた参加者方や福島県外から参加された方は、思いのほか福島の人々の生活が日常と変わっていないことに驚いたとも言います。

それに対して、むしろこれまでの生活を変えたくないという人々の意識を無視できないとの意見が出されます。
もちろん福島に住む人々にとって、放射能に汚染された地域で生活する不安は払拭できません。
しかし、あの疲弊と不安に満ちた数ヶ月間を思えば、〈3.11〉以前の状態に戻したいというのが福島に生きる人々の率直な願いともいえます。
この日本社会のシステムが「変わってほしい」という思いと、これまでの生活水準は「変わってほしくない」という思いの振幅の差。
これは〈3.11〉以後の〈変わる/変わらない〉ことを考える一つの論点となりそうです。
というのも、それはけっして福島の人々だけの問題ではないからです。

そのことを「変わることへの恐れ」という言葉で表現した発言もありました。
いったい「変わること」が恐ろしいとはどういうことなのでしょう?
これについて、官僚など支配層が自らの権益を損なうことへの恐れであるとの意見も出されました。
しかし支配層だけではありません。
震災直後から相変わらず大食い競争のバラエティ番組を垂れ流し続けるマスコミ、収束していない原発事故の現状を冷温停止宣言する政府などは、実は市民の中にこそいつのまにか何事もなかったかのようにしてしまいたいという欲望が潜んでいることを見抜いた対応だともいえないでしょうか。
言い換えれば、それは現在の生活スタイルを変えたくない生活保守主義の問題です。
しかしその積み重ねが、実は何もなかったかのように「臭いものに蓋をする」という、〈3.11〉以後の社会の風潮として蔓延しているのではないか。
そして、そのことによって結局〈フクシマ〉は忘却されてしまうのではないか。
そんな危機感が議論の中で共有されました。

では、この忘却に抗うためには何が必要なのでしょう?
ある参加者は〈3.11〉によって「自分を変えなきゃ」という意識に変わったといいます。
そこで「変える」とは「自分はいいや」、「自分はもう年齢的に大丈夫」といった視点から脱却しすることを意味します。
この自分という視点から他者とともにという視点へ思考を拡大することは、何かを「変えること」の基本条件ともいえるでしょう。
しかし、これがなかなか社会全体に拡大されない。そんなじれったさを訴える意見も出されました。
このことを相変わらず「おとなしい国民性」は変わらないと表現した参加者もいます。
これだけの理不尽を強いられているのに、なぜ皆おとなしくしているのか。
もう一歩考え方を変える勇気を求める声、無理やりにでもこれまでの生活スタイルや考え方を変えることを訴える声。
「変える」ことへのもどかしさは議論の中で何度もくり返し登場しました。
とはいえ、万人に考え方の変革を強いることはとても困難ですし、ある意味で圧政的であることも否めないでしょう。
これに対しては、むしろ原発事故によって再生エネルギーを事業化しようとする企業の動きもあることは一つの希望に通じる変化だとの意見も出されました。
原発事故によってこのままの社会体制でいいはずがないと思う人がたくさんいても、その変える手段の選択肢がなければ結局何も変わりません。
そこに電力消費者が自分で考えて行動できる選択肢を企業側がどんどん出していければ社会は自ずと変わっていくし、一人ひとりの考え方の道徳的変革を求めるよりも、生活合理性に基づいた無理のない変化が可能になるのではないかというわけです。

また、この原発事故に対する不安や危機感という問題に関して言えば、福島で生活する参加者と県外からの参加者での意識の差についても論じられました。
たしかに、首都圏でも確実に原発や放射能汚染に対する意識が変わった人々も多いとの意見も出されました。
しかし、毎日の生活で覚える不安に関しては格差があるようです。
たとえば、福島県内に住むお二人の女性からは放射能の不安に悩む毎日であったことが吐露されました。
子どもたちの健康不安を最優先に守ることはもちろんだけれど、実際にこれから子どもを生む世代も同様に不安であるし、それに対するケアが何もない。
放射能の数値を毎日チェックして情報を集めるけれども、その数値や科学者の答えや行政の施策によってこの不安が根本的に払拭されることはない。
このまま福島に住んでいてよいのか、ここで子どもを生んでよいのか。
おそらくこの惨事がなければ、こうした生きることそのもに向き合う根源的な問いは生まれなかったかもしれません。
その意味で〈3.11〉以後、人生観や生に対する意識は根本から変えられてしまったといえます。

なるほど、「考えること」からしか物事を「変える」ことは始まらないかもしれません。
けれど、この福島に住むお二人からは、考えても放射能が消えるわけでも現実が変わるわけでもないという、どうしようもない無力感が訴えられました。
さらに、こうした意識は福島を離れた地域(首都圏など)の人々にはない意識であることが、いくつかの意見から確認されました。
すると、ここには危機感に関して「当事者性」や「距離感」というキーワードが浮かび上がります。
たしかに、阪神・淡路大震災のとき離れた地域にいた私たちは、あの出来事を我がことのように考えられはしなかったのではないでしょうか。
しかし、もしそうであるとすれば、〈3.11〉という出来事をめぐっては次第に被災地の外部からは忘れ去られていくことになってしまうのではないでしょうか。

これについて福島市出身で東京在住の参加者から興味深い意見が出されました。
その意見によれば、〈3.11〉以前には「福島」を意識したことはなかったけれど、この出来事によって郷土愛が芽生えたことが変わり、そして距離は離れていてもこの故郷への意識の変化によって、この出来事に関わっていこうという思いが強くなったとのことです。
忘却に抗うためには想像力が必要です。
では、その想像力を生み出すためには何が必要なのでしょうか。
この意見によれば、自分の出自やアイデンティティに関与する事柄であれば、関心を抱こうという想像力が生まれるということになります。
では、逆に言えば、自分のアイデンティティに関係のない事柄に対して私たちは想像力や関心を喚起できないということになってしまうのではないでしょうか。
〈3.11〉以前にも阪神・淡路、沖縄、水俣といった数々の問題が日本社会には存在しました。
それだけではありません。世界を見渡せば、現在もなおシリアの圧制や内戦、貧困に喘ぐ人々は無数に存在します。
しかし、そこに関わること、リアルな問題として意識化するということはなかなかできなかった。
また、そのような問題を〈3.11〉の被災者という立場になって初めて気づかされたという意見も挙げられました。
そのことを「傷」という言葉で表現された意見もあります。
「傷」を負って初めて私たちは、犠牲を強いられている他者の存在に思いが至ったというわけです。
では、私たちは自ら「傷」を負わなければ他者の犠牲への想像力を喚起することはできないのでしょうか。
この問いは開いたままにしておきましょう。

【全体会】

全体会では各班で話し合われたことが報告されました。

●B班

●C班


とてもこれらを集約した全体の対話などできそうにありません。
そこで後半は会場から問題提起を受け、そこに各班の議論が結びつけながら展開することにしました。
まず会場から提起されたのは、「変えるべきことと変えてはいけないことは何か」という論点です。
これについてはまず、変えるべきこととして「自由に対話ができる場所と時間」が挙げられました。
さらに、この意見には、なぜ原発や放射能を語ることがタブー視されているのかという疑問や、報道や行政による「正しい情報」の開示にあらためるべきという意見が関連します。
何かを隠蔽することは知ることによって何かが変わることを恐れるからでしょう。
その意味で言うと、「変わるべきではない」ことの一つに「平穏な日常」が挙げられことは重要です。
これは渡部班でも挙げられた論点の一つでもありますが、しかしこの「平穏な日常」とは実は〈3.11〉以前の異常なエネルギー消費文化の上に成り立っていたことを忘れるべきではありません。
海外から帰国したある参加者によれば、帰国して改めて日本の電気消費量の異常さに気づかされるとのことです。
この「異常」の上に成り立つ「平穏」とは倒錯以外の何ものでもありません。
そしてこの構造は誰かの犠牲の上に成り立つ「平穏な日常」であることを暴露してしまうでしょう。

もしタブーという問題が何かを変えずにおきたい欲望があるとすれば、この犠牲の構造そのものということではないでしょうか。
ある参加者はそのことを、相変わらず日本の官僚機構をはじめ社会の隅々にまで浸透している「台本主義」(形式主義)に示されているといいます。
議事録の有無だけは問題にされるけれども、議事内容に関しては中身を問わない体質。
立場上の発言はするけれども、個人的な意見を示さない体質。
そのことによって、誰も責任を引き受けない社会体質そのものこそが無責任体制が「変えるべきこと」ではないか。
何かを「変えるべき」理由を、この「責任」という観点から根拠づける意見も出されました。

また、何かを変えるためには行動も必要であるという意見も挙げられました。
その際、「変わる」ことと「変えること」についての違いについて論じる意見も出されました。
それによれば、何事も諸行無常のように自ずと「変わる」ものであり変わらないものなどないけれども、「変える」のは、その人の意志が介入していることになります。
たしかに、〈3.11〉以後も何をしなくても社会は変わっていくでしょう。
しかし、そこには少なくとも「否」という意志を示したりすることで、自動的な流れ(それは支配層に都合のいい流れともいえるのではないでしょうか)に楔を打ち込み、流れを「変える」ことになります。
こうした主体性がなければ「変わるべきこと」も変わらないだろう。
そんな意見も出されました。

いや、そもそも「変わるべきこと/変わるべきではないこと」という設定が間違いであって、あの〈3.11〉で犠牲になった人々、そしてこれからその犠牲になるかもしれない人々のことを考えれば、〈変わらざるをえない〉のだという強い意見も出されました。
そもそも〈3.11〉以前が異常な犠牲のもとで成り立つ社会構造であったことを踏まえれば、この出来事から私たちが変われるかどうかが問われているということの重さが伝わってきます。
重苦しい問いや発言が続く中で、では〈3.11〉以後の変化は希望に結びつくのでしょうか?

そのことについて震災後、さまざまな惨事があったけれど、
そして考えたくもないことを考えざるをえなくなったけれど、
ひょっとしたらそれは私たちにとってよいきっかけなのかもしれないと発言してくれた参加者がいました。
平穏な日常では考えもしなかった人生の苦しみ、答えのない問いを考え続けるのは、少なくとも考えない人生よりはましかもしれない。
この発言をしてくれた参加者は13歳です。
哲学カフェはこうした属性を解除して語り合う空間なのであまり年齢にこだわりたくはありませんが、
大人と対等に、かつ堂々と主張する中学生がこの場に自分の意志で参加してくれたという事実は、やはり希望の光の一つといってよいのではないでしょうか。

雪雨が降りしきる悪天候の中、日本各地からわざわざお出でいただいた参加者の皆様は心より御礼申し上げます。
これを機に引き続き〈3.11〉をめぐって考え合っていけることが、福島の希望の可能性です。
誠にありがとうございました。

てつがくカフェ@ふくしま特別編報告

2011年10月25日 00時43分07秒 | 〈3.11〉特別編記録
「いま、健康をてつがくする―福島で人間らしく生きるために―」


今回は上記のテーマのもと、原発事故・放射能汚染の被害が深刻化する福島で「人間らしく生きること」を考える機会となりました。
また、法政大学サスティナビリティ研究教育機構との共催による特別編ということもあり、約50名の方々にご参加いただきました。
テーマがテーマだけに、世話人としてはどのくらいの方々にご参加いただけるのか多少の不安もありましたが、みごとビューホテルの披露宴会場「安達太良の間」は多くの参加者に埋め尽くされました。



はじめに世話人の一人である牧野英二氏より、今回の開催趣旨を説明していただいてから議論に入ります。



なかなか発言しにくい硬い雰囲気のなか、まず切り出されたのはこの逃げ出したくても逃げ出せない福島という放射能にさらされた地において、なお「被曝しながら学べることはないか」との問題提起が為されました。
これに対しては、差別的な社会構造などが類似する水俣病問題から学ぶことが可能ではないかとの意見が出されます。
5年先の発症や賠償対象の線引きによる地域の分断、弱者ほど甚大な被害を受けていく構造など、それは単に医学的な問題ではなく社会構造上の問題であるというわけです。
一方、そこから立ち直った温泉地の令など観光産業の復興に関してヒントを得られる可能性があるなど、なお先行する公害問題からの学びを推奨する声が上げられました。
また、足尾銅山での公害の被害にあった子孫として、いつ発症するかわからない受け継がれた公害病に脅えながら生きる「将来世代の不安」を訴える発言もありました。
いずれにせよ、放射能問題には先行きの見えない不安、将来世代への影響といった点で、これらの事例の深刻な問題と共通します。

また、別の観点からは「健康でない」とはどのようなことかという問いが提起されました。
ここでも、やはり子どもの将来の健康への不安をめぐっての声が上がります。
しかし、それに対しては、「健康な子ども」という規定そのものが「ありのままの生命を否定する」ことに通じないだろうかとの疑問が提起されました。
たしかに、被曝によって障がい児が増加する可能性をもって、反原発の根拠として挙げる意見は根強いものがあります。
しかし、これは裏を返せば、障がい児の存在そのもの否定にも通じてしまいます。
これは被曝によって差別されているものが、無意識に他者を排除する論理をもって自己正当化している事態を浮き彫りにする鋭い指摘でした。

逆に「健康とは何か?」という本題に戻れば、そこには「心/身」の健康という二面性が認められます。
とりわけ、「心の健康」といった場合、それは「家族の機能」の喪失と関係が深そうだということです。
身体の面から健康を考えれば、もちろん子どもだけでも福島から避難した方がいいに決まっています。
しかし、その一方で家族がバラバラにされてしまえば、果たしてその環境で生きる子どもの心は健康といえるだろうか。
心身の健康が単独の個人の問題ではなく、家族との関係において図られなければならない事態がここに浮き彫りにされます。

その意味で言うと、この心/身の結びつきや家族関係が引き裂かれたことそのものが、福島で人間らしく生きること、つまり「健康」が破壊されたということでしょう。
果たして、この分裂の中でなお「健康」などありうるのでしょうか。
このような反問を抱かずに入られません。
そして、この分裂こそが実は「福島から避難するか/福島に留まるか」という苦しい選択にからむ最大の原因であるのです。

さらに、心の健康をめぐっては、避難した福島出身者に対する「いじめ」も話題に取り上げられました。
しかし、興味深かったのは、それはむしろ「いじめられる側」よりも「いじめる側」にこそ、心の不健康が宿っているのではないかとの意見です。
その意味で言えば、「心の不健康」もまた、福島に止まらないものとして日本中に拡散しているのかもしれません。
また、「正しい情報」を知ることが心の健康に通じることも指摘されました。
「自分の目で知ることの大切さ」や「情報源」の違いもまたそのことに関係するでしょう。
その意味で言うと、原発事故当初に政府や御用学者、マスコミが垂れ流した「安全」の連呼が、逆に福島の人々に不安と不信を増幅させたというのはなんとも皮肉なことです。

 

それにしても「正しい情報」とは何でしょうか?
私たちは「マイクロシーベルト」や「ベクレル」という言葉をしょっちゅう耳にしますが、現状に応じて変更される「安全基準」(そんなことがあっていいのか!?)が何なのか、もはや科学的な根拠で安心を得ているわけではなくなっている実態があります。
そうすると、正しい理論が「安心感」をもたらすのではなく、むしろ事実は逆で、自分の「安心感」を正当化してくれる理論だけを信じているのが実際なのではないでしょうか。
すると、やはり個人個人によって異なる放射能に対する危機感、つまり「感覚の違い」が問題の焦点となってきます。

議論の中でもとりわけ発言が集中したのは、この「感覚の違い」にもとづく「温度差」という問題でした。
もちろん、福島から離れた地域へ避難した方からは、その地と福島との危機意識の差も指摘されました。
しかし、深刻なのはむしろ、家族や友人、地域といった身近な場所で生じる「温度差」の問題です。
洗濯物の干し方一つ(外で干すか干さないか)で、自分と「感覚」が近いのか遠いのか確認するという話や、夫婦のあいだで異なる放射能への危機感(これについては男女による感覚の違いも指摘されました)の相違と不信。
特にこれから子どもを作ろうという世代の夫婦のあいだでは、「子どもをつくる/つくらない」ことの判断が分かれる苦悩も吐露されました。
これは避難をめぐって家族内で生じた分裂にも当てはまるでしょう。
この「温度差」によって友情が失われたとの話も出されました。
避難する/しないをめぐって家族・親戚から非難を受けたとの体験も挙げられました。
「心の健康」ということめぐっては、この人間関係の分断という問題が深刻であったことが浮き彫りになりました。

さらに、避難する/しないをめぐっては「負い目」という問題も挙げられました。
ある参加者によれば、福島に残りたかったにもかかわらず、避難させるために迎えにきた親によって、不本意ながら福島から離れざるを得なかったことへの「負い目」が語られました。
その参加者によれば、まさに被爆の地を離れることによって、「何か発言する資格がなくなるような気がした」とのことです。
また、年配の参加者からは原発設置を阻止することができなかったことに対する「負い目」についても語られました。
このように、自らの責任において生じたわけではない「負い目」を強いられていることこそが、まさに「人権を侵害されている」ことに他なりません。

これに関しては「健康で文化的な最低限度の生活とは何か?」という問題提起とも関わってくるでしょう。
「福島から離れてはじめて深呼吸ができた」や「東京の空気がうまいこと」など、空気を吸う、水を飲むといった当たり前のことが当たり前にできなくなってはじめて、わたしたちは「健康で文化的な生活」への問いを抱かざるを得なくなってしまいました。
さらにここでは、首都圏という大多数の「公益」のために犠牲となった福島をどのように考えるべきかという「正義」の問題を問う必要があるでしょう。
公益と人権、犠牲と正義。
このキーワードが「健康」と結びつくことで「人間らしい生」が見えてくるようです。

さて、2時間ほど議論が交わされたところで、いったん休憩に入ります。
その間、世話人によって論点が4つに絞られました。
さらに参加者から意見を加えていただき、次の5つの論点が整理されました。



1.健康/障がい・・・ありのままの生を肯定できないのか?
2.心/身体の健康・・・避難すべきか留まるべきか?+「母」の問題
これに関しては、なぜ母親だけが避難するしないをめぐって決断と負い目に苦しまなければならないのか、といった論点が付け加えられました。
3.健康で文化的な最低限度の生活とは?・・・正義
4.分断された人間関係をどう回復できるか?・・・信頼・安心+自粛ムード問題

これらに加えある学生さんからは、さらに
5.どのように原発問題を教育していけばよいか?
が挙げられました。
そして、後半1時間は主にこの5の論点をめぐって集中的に議論が交わされました。



高校現場で働く教員からは、高校生が「福島出身というだけで結婚できない」という不安を抱えていること、そして、身体感覚でもう原発はいらないと感じていること、さらに進行中の原発事故を果たしてどのように評価し、生徒に伝えるべきか悩むなど、学校現場で感じる子どもたちの実態が挙げられました。
また、ある母親の立場からは、震災後の夏休み宿題として子どもに各家庭の電力メーターから電力消費量を確認する課題が出されたことに、何か思想的なコワさを覚えたという経験も挙げられました。
何か身体的に感じることと、しかし原発をめぐる具体的な教育実践とのズレをわたしたちは感じているようです。

そのような中、福島で教師を志す学生からは、子どもたちに原発の何をどのように伝えればよいのかという問題提起がなされました。
そこには、単に恐ろしい事実だけを伝えるだけでは、子どもに震災や原発のトラウマを残すだけに終始してしまわないか、という深刻な懸念が含まれています。
これに対しては「自分で考える力を育てる」との意見が出されましたが、しかし単に客観的な事実を教えるだけで、子どもが自ら考えるようになるわけではないでしょう。
いったい目を背けたくなる事実をどのように扱い、子どもに伝えていくべきなのでしょうか。
果たして、震災・原発の事実を直視しながら、なおかつ子ども自らが考える力を育成することは可能なのでしょうか。
それに対しては、「どのような社会をつくりたいのか」という視点がなければならないだろうとの意見が出されました。
そこにはいかに目を背けたくなる事実であろうとも、未来への希望を照らし出しながら語り続けなければならないという、教育上の倫理が含まれていたように思われます。

また、こうした学校教育の可能性とは別に、社会教育での可能性を提起する意見も出されました。
その意見によれば、マスコミにおいてこそ情報は観念的になっており、その結果、被災地から離れた首都圏ではリアリティのない中でマスコミ情報に煽られた不安が増幅しているのではないかとのことです。
むしろ、福島という被災の現場においてこそ、その地域の人々は具体的なリスクへの構えや対処方法を地域の取り組みとして実践する中で、ポジティブな活動を生み出していきます。
そして、自分たちの生活は自分たちで決定していくという具体的な実践こそが、地域住民に力を与え、健康に結びついていくのではないかという興味深い視点が提起されました。

毎度のことですが、議論は5つの論点すべてについてふれることはできませんでした。
しかしながら、3時間という長時間にもかかわらず、最後まで熱心な議論が交わされたことは、このテーマに対する参加者の関心の高さを窺わせます。
むしろ、これらの論点は今後継続的にてつがくカフェ@ふくしまでテーマにしながら、継続的に議論して深めていきたいと思っています。

ご参加下さった多くの皆様には感謝申し上げます。ありがとうございました。
またぜひ皆さまとは一緒に考え、対話し続けていければ幸いです。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
またお会いしましょう!!