てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第12回てつがくカフェ@ふくしま開催のご案内

2012年07月29日 20時13分27秒 | 開催予定
梅雨明けとともに連日猛暑が続き、毎日ぐったりアタマが回りません
「こんな暑いなかでテツガクするなんてテツガクを冒涜しとる!」とは我が恩師の台詞。
アー、夏にテツガクなんてやってられるかー!
というわけにもいかず、アツい夏をアツいテーマで乗り切りましょう!
というわけで、今度のお題はこちら。

テーマ:「愛と恋は何が違うの?」

愛とは何か?
と、いきなりいきたいところですが、
今回はまず恋-愛の異同について話し合いたいと思います。
あんなに燃え上がる恋で結ばれたはずなのに・・・
愛は3年で終わるとか・・・
恋に夢中のあなた!愛に苦しむあなた!
いっしょに恋-愛について哲学的に考え合いましょう。

日時 : 2012年8月25日 (土) 開催時間 16:00~18:00

場 所:A・O・Z(アオウゼ) 小活動室1(MAXふくしま4F)
    
費 用 : ドリンク代 (珈琲100円)

事前申し込み : 不要(直接会場にお越しください)

ご不明な点は下記の問い合わせ先までご連絡下さい。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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てつがくカフェ@ふくしま世話人

第11回カフェ報告

2012年07月22日 08時33分54秒 | 定例てつがくカフェ記録

第11回てつがくカフェ@ふくしまが、アオウゼ福島で開催されました。
テーマは「教育を再生するとは?」です。
つかみどころのない大きなお題になってしまいでしたが、今回もまたご参加いただいた20名の方々には自由な議論を交わしていただきました。


今回は開催ポスターからして、いかにも教育=学校をイメージさせるものが張り出されていましたが、
まずはそもそも教育=学校教育でしかないのかという問いから始まりました。
もちろん、家庭教育や社会教育など教育を学校教育だけに特化できるものではありません。
しかしながら、たとえばフリースクールにはまだまだネガティブなイメージがつきまとうのはなぜなのか。
「公教育」を語る上で両者は表裏一体であり、むしろどちらかがポジであることとネガであることが、「教育の再生」を語る上での指標となるのかもしれません。

また、「教育の再生」が語られ出した背景について次の①~⑤に分けた分析も出されました。
①PISAの結果から引き出されたゆとり教育の失敗による学力低下
②右肩上がりの成長社会から成熟社会への変化
③橋下徹のようなリーダーシップ型の政治家の登場と教育改革(政治的要因)
④財界からの国際競争に勝ち抜くための人材育成の要請(経済的要因)
⑤学校制度や教員への信頼低下

たしかに、こうした背景の下で政治の世界に「教育の再生」は声高に叫ばれてきたということがあります。
しかし、一方で「20年前から教育はおかしかったのではないか」という疑問も投げかけられました。
学力低下が叫ばれるけれど、随分前からも子どもたちが勉強しなくなったといわれていたし、実はそれはいつの時代でも言われてきたということではないかという意見です。
すると、子供が変わったのではなくて大人・社会が変わったことが教育の再生を求める背景になっているのではないかということも考えられそうです。
そもそもなぜ勉強しなければならないのか、そのことをとりわけ学力の低い子にどう伝えられるか。
学校教育に携わる参加者からはそのような問いも投げかけられました。
時代とともに変わったのは子供ではなく社会から求められる学力が変わったとすれば、その習得に対応できない子供にとって学ぶ意味など見出せないのは当たり前でしょう。

しかし、そこには「教育」の意味そのものを取り違えがあるのではないかという指摘も出されました。
そもそもeducationには「もっている力を引き出す」という意味があったものを、明治期に「教育」と訳したところに間違いがあったのではないか。
そのことを福沢諭吉は「発育」と訳したことを引き合いに、「刷り込む」イメージのある「教育」を批判的に指摘する意見が挙げられました。
それによれば、そもそも教師は伸び行く子供の成長や発達を妨げないものとして存在しなければならないのに、そのことを学校では真逆に為されているとしか思えないというわけです。

そこには「公教育とは何か」を問う視点が含まれているように思われます。
それについて、公教育=学校教育を語る際は、常に「国家の求める理想の国民像」と結びつくことが「キモチ悪い」という意見が挙げられました。
国家にとって納税や徴兵など、あらゆる法制度や国家命令に服従する国民は必要不可欠です。
あるいは、何がしかの国家戦略にとって必要な能力を備えた個人をつくり上げることは公教育の使命であることは疑いえません。
その点で「個性重視」といっても所詮、国家が求める範囲内での個性に過ぎないという意見も出されます。
近代教育が近代国家の生成と同時に生まれた歴史背景を踏まえれば、その「キモチ悪さ」の原因が個人の成長発達ではなく、国家の目的に収斂されることにあることは容易に理解できるでしょう。
これについてはさらに、教育は目的論的に語られるべきではないのではないかという意見も出されます。
なるほど、須らく教育的な営みは目的や目標が設定されるものだとされます(特に学校教育は)。
しかし、その意見によれば、何か一つの目的が設定されてそこへ集約されていくことに「キモチ悪さ」を感じるというわけです。
さらに完璧な教育などない以上、何がしかの教育的な営為に合う合わないは個人によって異なるものであるし、それはめぐり合わせでしかないけれど、そうであるにもかかわらずできるだけ多くの子どもにとってよい教育は追及されるべきだとの意見も出されます。
これらの意見には公教育が国家の目的に基づくものであり、それを実体化する学校は子どもの学ぶ力の差異を均一に扱わざるを得ないことへの矛盾が示されています。

一方、学校教育の矛盾を市場との関係で指摘する意見も見られました。
それによれば、学校において教育はもはやサービスと同一視されているのではないかということです。
そもそも学校には知育・徳育・体育を教える役目があったものの、「学校の塾化」という現象にあっては予備校教育と学校教育の差がなくなっているのではないかといいます。
すぐに結果が見えることを評価の基準にせざるを得ないことは理解できますが、それによって後々伸びる可能性を育てる教育力が学校教育から失われているのも事実でしょう。
数年前に問題となったいわゆる「未履修問題」などは、いわば市場の失敗ともいえる出来事かもしれません。
それによって受験に必要ではなかったかもしれないけれど、「いつか使うかも知れない知識の可能性」を奪われたともいえるのではないか。
そんな意見も出されました。

そうしたなか、教育の再生といっても、誰がそれを求めているかによって教育のイメージは変わるのではないかという意見も出されました。
たしかにそれまでの議論からも、国家=支配層が教育の再生を求める場合、そこにはかつてあったとされる日本人の美徳を強調する徳育や修身の復活を意味することがあります。
一方で、既存の学校制度ではもはや持ちこたえられない層も存在します。
たとえば、増え続ける不登校児童生徒たちは、公教育制度からみ出す層といえるでしょう。
彼・彼女らにとっては、何か現在の学校教育では失われたものを回復する場としてフリースクールのようなインフォーマルな空間を必要としています。
あるいは、以前から存在する自由学園のようなタイプもそうした公教育によって失われた教育」の回復を志向した場と考えてもよいかもしれません。
その例を江戸時代の寺子屋から引用し、「庶民の教育」と位置づけた加者もいます。
いずれにせよ、それらは国家にも公教育にも、そして市場にも取り込まれない「教育」の自律性が確保された場といってもよいでしょうか。
教育の再生を求めるのは国家だけではなく、一般市民から求められるのはどこかそのような意味合いがあるように思われます。
それは、どこか「理想の教育」を想定しているのかもしれません。
教育を営むに際しては「こういう人間であってほしい」と願いながら行うのは万人に共通だからです。

ただし、その場合、何かをモデルにするということは往々にしてありうることです。
そして教育政策の場合、結局モデルといっても外国の教育先進国の物まねにしか過ぎないではないかとの意見も出されました。
PISAショックから学力低下が問題視されると、すぐにフィンランドの教育政策をモデルに倣おうとする流れが起きましたが、
実はフィンランド自体が戦後日本の教育をモデルにしていたという事実が指摘されました。
つまり、各国はそれぞれにいいとこ取りをしながら教育政策を行っているのではないかというわけです。

とはいえ、そのモデルの物まねは果たして無意味であるかといえば、そうとも言い切れないのではないか。
たとえば敗戦直後、日本には「民主主義」という新しい概念が様々な分野に持ち込まれましたが、その教育-学習過程のなかから有意義性を見出そうとする意見も挙げられました。
その意見によれば、当時の人々にすれば、誰もそれが何を意味するかわからないままに、しかし手探りで「民主主義とは何か」を模索したといいます。
それが今では結局擦り切れてしまい、空虚な言葉になりつつあるものの、ある意見によれば、その何かわからないけれど未知の概念をみんなであーでもないコーでもないと模索したこと自体が大事だったのではないかといいます。
そのことを通じて、今までになかった「新しい言葉」を導き出したとき、社会は変わるのではないか。
それは、いま原発事故をきっかけに大きく変われるかどうかを試されている日本社会の火急の課題であるし、その意味において「教育の再生」に通じるのかもしれません。


すると、問題は何を教え何を学ぶのかという点であるのではないか
終盤にさしかかり、そんな問いの投げかけがありました。
これについても各人それぞれが多様な考え方を示します。
ある参加者によれば、やはり義務教育の段階が最も重要であるといいます。
その段階は何か役に立つ知識を覚えこませるというよりも、思考のための手続きを鍛える訓練が必要な段階であり、その段階はいわば遊びを通じて可能になるのであって、むやみやたらと教師が知識を振りかざして覚えこませるべきではないということです。
あるいは、経済格差が教育格差に通じるというのならば、やはり義務教育の拡充こそが最重要課題だとも言います。
別の参加者は、このたびの原発事故に対して県内の小学生の半数近くが「仕方がない」との意識を持つことに対し、やはり幼少期の教育の重要性を指摘しつつ、教師自身も批判精神を持ちながら教育に携わるべきであるとします。
その中で、「教育の中立性」という問題が提起されました。
教員が政治的に中立でなければならないことは教育基本法にも定められています。
しかしながら、原発事故に対して中立を装い教師自らの判断を示さないことは事勿れの無責任ではないのか。
教育において政治的中立とは、政治的支持=服従と同義ではないか。
まさに教育現場ではそのことが問われているかもしれません。

さらに、そこから「教える-学ぶ」関係性に話題は展開します。
ある参加者によれば、ケータイ端末機やインターネットなどにより、現在の子どもたちは情報収集能力などかつてないほどに高度化しています。
しかし、実はそれが子どもたちに「万能感」を与えてしまい、教師との差異を見失ってしまうことに危惧を抱くとのことです。
その結果、自分の欲望が満たされないのは、教える側の技術不足であったり責任を転嫁する傾向が生まれないかというわけです。
これは教育のサービス化、市場化とも結びつく問いでしょう。
したがって、その意見によれば、世界というのは自分の思うがままならないこと、世界はあらゆる「差」が存在するということを教える必要があるのではないかというのです。
一方これに対しては、「教える-学ぶ」の関係性が「対等性」で結ばれることを望む声もありました。
そこには生徒が沈黙のまま服従を強いられることへの批判が込められています。
このことを、教育とは希望をともに語り合える関係性であると規定した参加者もいました。
そして、いま教育に求められるのは子どもたちが自分で自分の存在を受け入れられる自己肯定感ではないかという意見も出されました。

ところで、冒頭でも確認されたように、教育=学校教育に限定されるわけではありません。
親、地域の大人たちなど、教育の担い手は様々です。
そしてその担い手自身は、実は人間である以上不完全な存在に過ぎません。
最後に、理想的な教育の実現が困難なのは、その担い手が不完全な人間であることに起因しているのであり、その不完全な人間によって不完全な教育がなされざるを得ない面を反省的に見つめなおす必要があるのではないか、との意見が提起されました。
まさに教育の再生とは、その矛盾とも言える教育の本質をじっと見つめることから始まるのかもしれません。

奇しくも、福島県の教員採用試験日と今回の教育を問うカフェの開催が重なり、その受験後に駆けつけてくださった参加者もありました。
試験が終わればそれで終わるわけではないという教育課題へのあくなき探求の姿勢に感銘させられたものです。
また、次回も多くの皆様にご参加いただけることを楽しみにしております。

第11回てつがくカフェ・参加者感想

2012年07月22日 08時04分33秒 | 参加者感想
昨日の第11回てつがくカフェ@ふくしまは20名のかたにご参加いただきました。
テーマは「教育を再生するとは」。
今回もまたどのような展開になるか先の読めないテーマでしたが、ご参加いただいた方々には次のようなご感想をいただきました。

●視点がたくさんでおもしろかった。教育ということで、みんなそれぞれの立場でよかった。教育する側、受ける側、これからする側がいたことでよかった。

●今回のテーマは話しやすいテーマでした。また同じテーマでもう少し話し合いをしたいと思いました。

●教育学部に希望して、入り、だけど、教師にならなかった自分(なれなかったとも言える汗)の学生時代のもやもやを思い出しました。

●やっぱりモヤモヤした。でも何か1つの答えはそんなにすぐに見つかるものではない、と思った。誰かが言っていたように、教育は「不完全な人間に対して行うもの」であると思ったので、歴史学がずっと真実を追い続けているように、教育学もずっと「よりよい教員」を目指すしかないと思う。

●初参加だったが、あまりにレベルが高くて面食らってしまった。でも自分にはない思考を感じることができてとても楽しかった。また来たいと思う。

●答えはないのでモヤモヤしますがおもしろかったです。考えさせられるテーマでした。

ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
次回もまたよろしくお願いします。

第11回てつがくカフェ@ふくしま開催のご案内

2012年07月02日 18時31分04秒 | 開催予定
梅雨明けももうそろそろですね。
福島の猛暑に備えて頭もリフレッシュ!
というわけで第11回てつがくカフェ@ふくしまが下記の通り開催されます。

テーマ:「教育を再生するとは?」

しばしば政治の世界で「教育の再生」が声高に叫ばれます。
しかし、このスローガンは最近叫ばれ始めたというわけでもなく、いつも叫ばれているような気がします。
いったい教育の〈再生〉とは、教育の何を生き返らせようというのでしょうか。
いや、そもそも教育が生き生きした時代などあったのでしょうか。
あったとすればそれはどんな教育なのでしょうか。
誰にとって生き生きとしたと感じる教育なのでしょうか。
〈教育〉とはいったいなんでしょうか。
そんな問いを皆さんと一緒に考えあいたいと思います。

日時 : 2012年7月21日 (土) 開催時間 16:00~18:00

場 所:A・O・Z(アオウゼ)
小活動室1(MAXふくしま4F)
    
費 用 : ドリンク代 (珈琲100円)

事前申し込み : 不要(直接会場にお越しください)

ご不明な点は下記の問い合わせ先までご連絡下さい。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

てつがくカフェ@ふくしま世話人