てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第2回カフェ報告

2011年06月26日 11時02分18秒 | 定例てつがくカフェ記録




「第2回てつがくカフェ@ふくしま」(2011.6.25開催) は 「〈ともだち〉 とは誰か?」 のテーマのもと、14名の参加者で行われました。

まず、自己紹介とともに 「友だち」 という言葉をめぐって、各々の関心について語っていただきました。
中でも、自分が 「友だち」 だと思っていた相手から 「あなたは友だちじゃない」 と言われたという経験談などからは、
「友だち」関係が相互承認に基づくものなのかという論点が浮かび上がりました。
たしかに、「友だち」関係においてはいちいちお互いに 「私たち、友だちだよね?」 と確認し合うことはないでしょう。
その意味で言うと、恋愛関係においては互いに「愛しているよね?」と確認し合わなければ不安であるのに対して、
友だち関係にはお互いに確認し合うことで何かが崩落してしまうかのような不安があるのかもしれないとの意見が出されました。

この不安は、ある参加者の「友だちとは関係を固定化する枠」 という発言と関係するかもしれません。
それによれば、「友だち」とは 「あたたかいもの」 であると同時に、「行動を制限するこわいもの」 だとのことです。
たとえば、友だちと同じ相手を好きになってしまった場合、
「友だち」関係を壊すような抜け駆けをするわけにはいかないと、
自分の恋愛行動にどこかブレーキをかけてしまうそうです。
つまり、「友だち」は行動の選択に際して自由度を広げるものではなく、
むしろその関係性を壊さない範囲で自由を認めるような圧力を強いる存在のようです。
そして、こうした圧力的な関係性がいわゆる「女子校」 特有の「友だち」関係と関連づけて語られたことは印象的でした。
これは男女の友情観の違いとも関連しますが、参加者によれば 「女子校」 での 「グループつきあい」 の排他性は凄まじいまでの暴力性を帯び、そこにおいて単独行動することはその空間での生命の危機を意味するそうです。
しかし、果たしてそれが「友だち」と呼ぶものなのでしょうか。
むしろ、それはその集団内空間で生き残るための 「派閥」 なのではないか。そんな意見も出されました。

また、こうした 「友だち」 関係が暴力性を帯びる背景には、
実際の友だち関係が形成される以前に、「友だち関係とはかくあるべし!」 といった「友だち規範」のようなものがあり、それに束縛されてしまっている面があるのではないかとの指摘も挙げられました。

こうしてみると 「友だち」 とは、何か自分を苦しませる存在や関係性であるかのように思えてきます。
しかしながら、これらの意見に対してある参加者からは、年齢を積み重ねるとともに、
その「枠」 から解放されていくような気がするとの意見が出されました。
その意見によれば、若いころはたしかにこの閉じた 「友だち」 関係の「枠」に苦しんだものの、
年齢とともに少しずつ自分でその相手や関係のとり方を選べる余裕が身につくと、
「友だち」 関係から自由になったように思うとのことです。
つまり、自分が相手とどのような関係性を取りうるかという「自由」 が保障されることが、
「友だち」とは何かを問う際に重要な要素となるというわけです。

さらに、この 「自由」 というキーワードは 「親友」 という概念にとっても重要であることが確認されました。
私たちは数ある友だちのなかでも、格別の存在に 「親友」 という名を宛がいます。
そこにおいて 「親友」 は 「何でも話せる」、「甘えられる」 存在で、
時には互いの壁を突き破ってケンカすることができる 「素をさらけ出せる存在」 といってよいでしょう。
しかし、この「裏表なく自分の素をさらけ出せるのが親友」との定義は、
時として「素をさらけ出せなければ真の友達ではない」というプレッシャーを与える「友だち規範」にもなりかねません。
あるいは、「親友」もまた 「恋人」 のような距離の「近さ」や、
1対1といった関係性において成り立つものであるとすれば、そこには必然的に排他性も備わるでしょう。
しかし、そこに「自由」 というキーワードから読み解くならば、
むしろそれは 「素をさらけ出す/出さない」 自由が保障される関係性こそが「親友」の名にふさわしいということになります。
さらにいえば、そこには相手との自由な距離感が確保された関係性を見ることが可能かもしれません。

ある参加者からは、「友情とは 、二つの人格が等しい愛と尊敬によって一つに結びつくことである」(『道徳形而上学』) というカントの思想が紹介されました。
それによれば、理想的な親友関係とは、友情とは人を引きつける「愛」の「引力」と相手を「尊敬」するがゆえに距離をとる 「斥力」とのバランスにおいて実現するとのことです。
すると、「素をさらけ出す/出さない」自由の緊張とは、この「愛の引力」と「尊敬の斥力」のバランスにおいて実現されるものなのかもしれません。

最後に、「友だち」とはいかにして成立するものなのか、という論点に関して。
参加者の一人は「友だちになってほしい」と言われた経験があるとのことでしたが、
これについては「友だち」とは意図的に作り上げられるようなものではなく、
自然になるものではないかとの意見が出されました。
それについて、また別の参加者からは、「友だち」は同じ苦しみや目的が共有される過程で形成される何かではないかとの意見が出されました。
「戦友」や「同志」といった存在はそのような経験を共有する中で形成されていくものでしょう。
しかし、その一方でまた別の参加者からは、
ある目的が達成されてしまったあとにその関係性が持続しなくなった問題をどう考えればよいかとの問いも出されました。
すなわち、同じ部活動において、同じ職場においてともに共通の目的に向かって協働したもの同士が、
その目的達成後には、その関係も自然と解消されていった状況をそう考えればよいのかといった問題です。
果たしてこの関係性は「友だち」なのか?
これについては利害を共有したもの同士で持続するのは、
「友だち」ではなく「仲間」ではないかとの意見が出されました。
そして「〈ほんとう〉の友だち」とは、そうした利害関係がなくなっても、
なお持続する関係性を指すのではないかというわけです。
では、利害を超えてなお持続可能な 「友だち」 関係が持続する条件とは何でしょうか?
ある参加者によれば、その人への「信用」であるとのことです。

さらにつっこんで、思想も言動も何もかもまったく相反する立場(つまり敵)にある相手を「友だち」とすることは可能でしょうか?
ある参加者からは、それが可能であるためには、その人の思想や言動の「本気度」が条件であるとのことです。
ある人の思想や言動をまったく受け入れられないとしても、
その人が自分の思想や言動を本気でなそうとする限りにおいて、
それは「尊敬」に値するものとして「友だち」関係は可能ではないだろうかというわけです。
しかし、現実においてそれはありうるのでしょうか?
そんな疑問を投げかけつつ、しかしそれは不可能な「友だち」、
つまり来るべき理想としての「友だち」として考えるならば、非常に興味深い考え方であるといえるでしょう。
ちなみにその発言者は 「そうであるがゆえに自分には友だちがいない」 とまでおっしゃっていたことがとても印象的でした。

為された議論は以上に尽きるものではありません。
しかし、残念ですがそのすべてをここに書き記すことはできません。
とはいえ、今回の議論では「友だち」とは何か、
その条件をめぐって参加者の皆さんから重要なキーワードがいくつも提起されながら建設的な議論が展開されたように思われます。
こうした貴重な経験を皆さんで共有しあいながら、次回もまた有意義な哲学的対話を実現していきたいと思います。
ぜひ、次回も多数のご参加をお待ち申し上げます。

なおご参加いただけた皆様にはコメントやメッセージ欄、あるいはメーリングリストをご利用の上で議論を引き続き交わせれば幸いです。
ぜひ、そちらにもメッセージをお寄せ下さい。

第2回カフェ・参加者感想

2011年06月26日 10時34分58秒 | 参加者感想
昨日の第2回「てつがくカフェ@ふくしま」は、14名の方々にご参加いただきました。
ご参加いただいた方々の感想をご紹介します。

●みなさんのお話を伺って、〈ともだち〉の定義が一般とかなりずれている、それが〈ともだち〉のことであまり悩まなかった原因だと気づきました。どうしてあの友達と〈ともだち〉なのか、考えながら参加していました。

●2時間ずっと興味深い話題でした。利害関係とか大学で誰かと一緒にご飯食べないとだめって言うのは、自分が一人でご飯食べてるやつ→友達いない?と思われることがいやという理由で他者から見る自分を飾るために「友達」をつくるんじゃないかと思って終わりました。

●今月は「友だちとは何か」ということで、非常に身近というか生々しいテーマだったので、自分の経験(といっても20数年ですが)を総動員して考えていきました。男女を分けて考えるのを前提にして話は進んだというか、それが当然として主に男性陣が考えていたことも新鮮でした。いまいちばんしっくりくるのは「この人と一生つきあっていくんだろうな」が〈友だち〉です。

●様々な意見を聞いて、どこから“友だち”として考えるかはその人の価値観によって違うのだと思いました。

●途中からの参加でしたが、異年齢の方々がひとつの集団になり議論するという形にとても驚きました。皆さん、違った考え方をお持ちでとても勉強になりました。ぜひ次回も参加したいと思います。

●楽しかったです。2時間って短いですね。

●なかなか昨日の議論は良かったんではないですかね。俺のなかでは、親友は、なんでも言えるちょっと、甘えがゆるされる存在。友達と親友は、やっぱり違うな。でも、友達の条件ってのを考えれば、友達って何なのか、分かるんだろうね。価値観って話もあったけど、価値観が違っても友達にはなれる。友達になっていてそのあとある点において価値観が違うって思っても、それでもって、さようなら、ってはならないと思う。価値観がおんなじ人で集まっててもつまらないよね。ぬるま湯につかってる感じがする。女子高の話は、想像でイメージしていたよりもキツイ感じがした。
もっと、男性と女性の違いの方を突っ込めたら面白かったかもね。また、次回期待してます。俺は、自己決定による臓器提供とか、興味あるな~。

ご参加いただいた皆様、貴重なご意見ありがとうございました。

〈ともだち〉とは誰か?レジュメ

2011年06月24日 17時43分11秒 | 開催予定
いよいよ明日は「第2回てつがくカフェ@ふくしま」開催です。
明日は、テーマを選ぶに際して世話人たちが話し合ってみたことを、
以下の通りまとめてレジュメにして配布する予定です。
もちろん、これにとらわれない自由な論点を提起していただくことが大切ですが、
参考までに「〈ともだち〉とは誰か?」事前にお考えいただく材料にしていただければ幸いです。


〈ともだち〉とは誰か?

「♪1年生になったら 1年生になったら ともだち100人できるかな♪」
こんな歌のフレーズにあるように、僕たちは「友だち」は大切なものであり、
できればその存在をたくさん得れば人生は豊かになるとの価値観を抱いています。
けれど、その一方で「友だち地獄」(土井隆義)という言葉が示すように、
時として僕らはその関係性に苦しめられる現実もあるようです。
果たして、「友だち」とは「よい」ものなのでしょうか?

また、私たちは「単なる友だち」と「親友」とをどこかで区別しているようにも思いますが、
それは数ある「友だち」のあいだに差があるということでしょうか?
他にも「同士」や「仲間」、「戦友」、「相棒」といった存在もありますが、
いったい、それらのあいだにはどのような違いがあるのでしょうか?

「理想の友情」なんて考えてしまうことも、そのことと関係があるのかもしれません。
太宰治の『走れメロス』は「友情」をテーマにした代表的な文学作品ですが、
他にも夏目漱石の『こころ』や武者小路実篤の『友情』、
井上雄彦の『スラムダンク』などスポ根マンガはもちろん、
哲学者であるキケロやモンテーニュが著した「友情とは何か」も同様のテーマを扱っています。
けれど、理想の友情をテーマにする作品は、なぜいつも「男の友情物語」ばかりなのでしょう?
(私が知らないだけなのでしょうか?)
逆に「女の友情」をテーマにすると雨宮処凛の『ともだち刑』などのように、
残酷な人間関係が描かれがちなように思われます。
「女同士の人間関係は面倒くさい」とは、よく話題にされることです。

しかしその反面、社会において男性が職場以外の人間関係を築くのが苦手とされるのに対し、
女性はわりとどこでも誰とでもうまく人間関係を構築していける能力があるとも言われます。
いったいこの差は何なのでしょうか?
ひょっとすると、ここには男女のあいだで相当異なる友情観が影響しているのかもしれません。
もし、そうだとすれば、いったい「友情」とはなんなのでしょうか?
いや、そもそも私たちはいつから相手を「友」と呼ぶようになるのでしょうか?
言いかえれば、何をもってその人を「友」と呼べるものなのでしょうか?
いったい、〈ともだち〉とは誰のことなのでしょうか?

第2回てつがくカフェ@ふくしま開催のお知らせ

2011年06月01日 21時36分52秒 | 開催予定
第2回てつがくカフェ@ふくしま開催が決まりました。
大震災前に予定されていたテーマを再設定します。
(以前にアップした、フライヤー(By はらだかおる)ももう一度ご覧下さい。)

テーマ 「〈ともだち〉とは誰か?」

友だちと親友はどう違うの?
悪友って何?
男女の友情は成り立つの?
過ちを犯した友だちとは友だちのままでいられるの?
友だちは年齢差関係ないものなの?
何十年も会っていない友だちは友だちと呼べるの?
友だちなんて必要なの?
などなど…

日時:2011年6月25日(土)16:00~18:00

場所:A・O・Z(アオウゼ)大活動室3(MAXふくしま4F)
 ※ 地図・駐車場等のご利用はこちらのURLをご覧下さい。
   
    →http://www.city.fukushima.fukushima.jp/shisetsu/bunka/aoz/index.html

事前申し込み:不要(直接会場にお越しください)
 ※ただし、第2部(打ち上げ)への参加希望者は事前予約が必要なので「メッセージ」から世話人へご連絡をお送り下さい。
問い合わせ先:fukushimacafe@mail.goo.ne.jp(てつがくカフェ@ふくしま世話人)


わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう