てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま2022.10.22.「人間はどういう存在か?」

2022年09月21日 18時30分17秒 | 開催予定
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』 ポール・ゴーギャン


てつがくカフェ@ふくしま2022.10.22.
【テーマ】「人間はどういう存在か?」
【日 時】2022年10月22日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンターA会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料 (飲み物は各自ご用意ください)
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/88472935881?pwd=a2tLazZCWTdnb2ZkQTIrd1VidERZZz09
        ミーティングID: 884 7293 5881
        パスコード: FQG1VV

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp






今回は2月に募ったテーマの中から選ばせていただきました。

まず「人間(ヒト)はどのような存在か?」という問いは

現代では人類学※(英: anthropology)を中心として探究されているテーマですが、

もともとは哲学や宗教学などで問われてきたテーマでもあります。

人類学・・・人類とその文化を研究する学問。生物としての観点から人類の起原・形質・進化などを研究する形質人類学(自然人類学)と、文化の観点から研究する文化人類学とに大別される。【精選版 日本国語大辞典】




人間という存在の起源について提唱したダーウィンの『種の起源』から

人間の存在と時間について考察したハイデッガーの『存在と時間』まで

古今東西、様々な学問で多種多様な意見や考えが述べられてきました。



これを機に人間の存在について本を読んだり

大学や図書館に設置してあるPCから「CiNii」(サイニー)などの論文検索で

無料で研究論文を読んだりするのも面白いかと思います。



しかし、てつがくカフェは知識に上下を付けず

お互い対等に何でも自由に語れる場であるため、

本や論文を読んで自身の考えをまとめた上で発表して頂いても結構ですし、

自身の経験や独自の考察から「人間はどういう存在か?」を語っていただいても構いません。

当日参加した皆様と一緒に考えていきたいと思います。



なお、今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加の方は、お申し込みは不要ですが、当ブログに掲載されております、

「てつがくカフェ@ふくしま」当面の開催方針(2020年7月10日現在)】に従い、

マスク着用等のルールを守ったうえでご来場いただきますようお願い申し上げます。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、

上記の「Zoomミーティングに参加する」の下のURLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。



「てつがくカフェ@ふくしま」は

誰でも気軽に対等に、

安心して何でも話し合える場です。

初めての方でもお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2022.9.17. 「自由とは何か?」

2022年09月18日 17時02分32秒 | 定例てつがくカフェ記録
9/17(土)に開催されたてつがくカフェについて

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には11人、オンラインでは8人の計19名の方にご参加いただきました。






「自由とは何か?」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・それでは、本日は「自由とは何か?」というテーマで対話をしていきたいと思います。ブログをご覧になっていただいた方はご承知かもしれませんが、自由というのは哲学の方では非常に昔から、問題になってきたつまり神様がこの世界を、宇宙を創造したのだと、宇宙創造の時点で決められていてその中に生きている私達には自由なんて何もないのではないかという議論が本当にまことしやかに信じられてきたわけで、現代においてもそもそも自由意思というのは幻想にすぎなくて、そんなものは無いというようなこと、全てはいろんなものが決定されているという自然科学の中でもそういう話があって、人間は本当に自由なのか?自由意思なんてあるのか?というのは一つのテーマではあります。そして、近代以降政治的な自由ということで、それまでは封建制と言いますか、専制君主、絶対王政で王様が一切を決めて他の人間は国王のものだった訳ですね。そういった時代から、そうではなくて私達一般の市民にも、自由を寄こせと言うか自由をめぐる闘争というか、近代の歴史の中で少しずつ自由というものが、勝ち取られてきたという意味での政治的自由とか、経済的自由であるとか行動の自由であるとかそういったものが、政治とか政府との関係において、自由というものが言われるようになってきている訳です。他にも、色々なレベルで自由という言葉が聞かれますが、どのレベルで今日の話が展開されるのかというのも、含めましてあとは皆さまの議論に委ねたいと思います。ここからはご自由にご議論いただきたいと思います。

・取り敢えず選択の自由は全員にありますね。だけど情報がいろいろな形で制限されているということがまずあると思います。あとは国家権力というのがありますから、いろいろな暴力装置を持ってるし、そういうのが影響する場合は、大変だけれども選択の自由はあると思います。

・冒頭に主催者が仰ったのですけど、要するにキリスト教的な考え方だと神がこの世を作られた、すべてを取り仕切っているというの中では、自由などありえないと。まぁその通りだと思います。ただ別の意味で、人間というのは根源的には自由ではないのではないかというふうに考えております。と言いいますのは、我々は一人ひとり父と母の間に生まれてくる。つまり、我々の命自体が、他者に依存をしている。ある意味では不自由で、依存しているということはまったく自由ではありえない。生まれてくるのも、人々の中で構成されている、人間に限って言えば。そういう中に放り出されるというか、生きていくわけだから、他人依存ということからすると、自由では根源的にはあり得ないのではないかと。その根本は我々は肉体的な生き物、存在であるというところに来ているのかなと思うんです。ただ、そういうことにあまりこだわってしまうと、多分今日の皆さんの議論したいと思っていらっしゃるのは、例えば基本的人権とか、表現の自由だとかそういうようなことで議論されたいのかなと。それは物凄く意味のあることで私も大賛成なんですが、それも大切なんですけど、その場合自由ということはどういうことか議論されるのかと。やっぱり、人間の行動についての自由という風になってくるのかなと。行動について自由の問題を議論するということになるんだろうというふうに思います。取り敢えずはこんな感想を持ってます。

・今の方が仰ったことで「行動」と言っていましたが、「行為」と言った方が適切ではないのかなと思ったというのが一点です。まぁそれはどうでもいいんですけど、あのブログに書いてらっしゃったことで「今の学生に聞くと自由というのは何でもかんでも、好き放題できるようなことを言う」と、そういう人が多くいると書いてあるのを読んで、あぁそうなんだと思って。ただあんまり、自由ってよく考えなければなんでも好き放題することが自由なんだなと思っちゃうのかなと思いながら、先ほどの方も仰っていた通り、人権とか社会的な自由ということとか、あと行為の自由とかいうのは多分議論としては、ちょっと違った話にもなってくるなと気もするんですね。どっちの話でもいいんですけど、一つは学生の話。何でもかんでも好きなことやるのが自由というのは、端的に間違いですからそれは排除しましょうねと言いたいです。というのは、例えば今から宙に浮いてふらふらと空中遊泳をしたいといっても、そんなことできるわけないですよね。江戸時代に行きたいなと思っても、そんなことできるわけもない。それを先ほどの方が仰った「肉体」というものがあるからということだし、あるいは社会的な制約、自分がいつどんな時代にいるからという制約があるからですし、色んな意味もあります。そういう意味で、完璧な自由なんていうことはまずあり得ないのであって、そういう意味での極端な話というのはちょっと無しですねと言いたいのが一点。さっきから仰っていた中世の神様がすべての原因だから、我々は自由ではないというような昔の考え方というのを因果論による、因果論的なものによる自由かそうでないかという議論だとすると、我々が普通使っている自由というのは理由がついて話しているわけなんで、ちょっと別のものかなと。

・実は今回のテーマも実は考えがまとまっていない状態、それだけ見方、切り口によって自分の中でも自由の捉え方が右に行ったり左に行ったりしている。その中でも問いを出したいと思うのですが、自由とは何かというテーマそのものなんですが、状態としては自由というのはどういう状態なのかな、どう捉えればよいのかなとお答えいただければと思います。

・皆さんの意見も参考になるんですけど、人間というのは社会性を帯びた時から、先ほど誰か言っていましたが、根源的な自由は根本的に有していると思うんですけど、社会的規範とかある程度の自治権の制限のもとに自由というのが認められていると思うんです。例えば憲法とかはっきりとした条文になっていますので、そういう自由というのは憲法で保証されているのが人間の組織性とか公共の福祉を考えると本当の哲学的な自由じゃなくて、社会的な自由というのは我々個人個人によってかなり制限を受けるのが今の時代ではないのかなと思います。

・今まで出た中で、二つほど。ブログにもあった学生の自由に対する考え方を憂いているということで、私自由って何なんだろうと、辞書を引いてみたんです。そうしましたら、辞書に難しい言葉で書かれていて、その後に好き勝手にすることみたいに二つぐらいの辞書に書かれているんですね。そうすると若い学生さんたちは、自由って何だろうなと思ったときに、辞書を引く学生さんも一定数いると思うんですね。そうすると辞書に、好き勝手にすることって書いてあったら、「あぁ、そうなのか」と知識として入ってしまいますよね。だから辞書の功罪といいますか、辞書を編集している人にもうちょっと真剣に説明してほしいなというふうに感じました。あと、どういう状態かということを先ほど問いかけられていましたけれども、私の場合は、どんな環境でも気持ちよく自分自身として、漂っていられるという状態が、私にとっては自由なんですね。じゃあ気持ちよく漂っているのは、どういう状態かというと楽だなと、「苦楽の苦がないわ」といった感じとか、「軽さがあるわ」「重くないわ」みたいなのとか、明るさもある。自由を感じるときには明るさもある。それも自分にとって、いい感じの明るさで楽しさもある。気持ちよさもあるんですね。自分が自由に漂っているなと。それで、穏やかさもあるんですよ。だから、自分にとって非常に心地いい感じの時、それをある一つに例えれば、好きな音楽、好きな楽曲を聞いて、好きなリズムで自分のアレンジで歌ったり踊ったりしているような感じとも言えますね。そんな感じです。

・二点ほどしゃべることがあって、福島大学の学生さんについてなんですけど、僕も福島大学の哲学カフェで自由についての話に参加したことがあるんですけども。やはり自由というのがざっくり言ってしまうと何でも好きなようにできるという話が出たんですけど、そういう認識になってしまうのは、分からないから辞書を調べて何でも好きにできるようになるという言葉が出たと思うんですけど。歴史上、自由になるというのが関係していて絶対王政からそれが終わって、今まで縛られたものが無くなって、ようやく自分が好きなようなことが出来ると。制限から離れるというのが自由というのが、今まで学んできたからというのが一番大きいのかなと思っていて。そうなると制限が無くなる、規制が無くなる。それがようやく自由だという意識になってきているのかなと、ちょっとあるのかなって思いました。それでもう一つが何言うか忘れちゃったのですけども、話を変えて制限が必要になってきて、例えばこの話し合いで場でも、自由に話していいといっても人の誹謗中傷はやっちゃ駄目で。やっては駄目なんですけども、正直誹謗中傷したい人からすると、この話し合いの場は不自由になるじゃないですか。
やっぱりそうなってくると、人の認識というか考え方の違いによって、自由と不自由が全く逆になってくるというのがあるのかなって思いました。

・自由とは何かということで自由の定義というか、辞書的な解説というか。そういうことからすると何でもかんでもできることが自由とこれも一つあると。好き勝手なことで好き勝手に生きるとそれも自由といえるかと。学生さんがそういうことを仰ったということなんですが、それはある意味、一面真実を突いているんじゃないかなと。だって、この世の中には殺人ということ、殺すということがある。だから、何でもかんでもできると思っていればこそ、殺人ということも起こってくるのかなと。それがもうそういうことは、そういう自由はもともと無いんだということを世の中の決まりとして、あるいは鉄則としていれば、そういう殺人なんかも起こらないじゃないかと。でも現実には起こっている。だから人間の行為、行動ということではそういう面もあるのではないかという風にも思う。だから自由ということについては、自由の反対語が不自由で、それぞれ自由でないことは不自由だと説明ができる。これでは論法でぐるぐる回るだけであまり生産的ではない訳だけど。要するに、我々が世の中で生きていく場合、人々の間で個として行動する場合には、自由と不自由であることのバランスを取ること。まぁ、それしかないのかなと。だって何でもかんでもできる、好き勝手なことができるということで、嫌いな奴をぶっ殺したり。要するに、自分も生きていけないし、人々もおちおち生きていけないということになってしまいますから、自由というのは常に不自由とバランス、どこに折り合いを見出すかと、ということなのかなということで。その折り合いの見出し方が、まぁ歴史的に文化とかなんか変わっていく過程で、倫理になったり道徳になったり、制度になったり法律になったりということになってきているという。まぁそういうものも、ある意味では自由を規制している。不自由ということを逆に不自由ということも我慢しないと、まぁ人々が全体としては、生きていけないのではないかということになってきているのかなというふうに思っています。

・まぁ今のように自由を捉えると、正にその自由は当然制限は必要で、自由には制限が必要なんですけれども。そういう言い方をすると、自由っていうのは保証すべきものということにはならなくなってしまうという気がするんですけど。要するに、守るべきものではなくなってしまうような気がしてしまっていて。つまり、どうやって制限するかっていう話になっていってしまうので、一般に日本人が考える自由ということをそもそも考える必要はないんじゃないかなと、僕なんかは思っていて。てつがくカフェなんかだと、盛り上がってみんな自由に話してもらっていいんですけど、みんなそれぞれの五感というか、自分が使ってきた定義でお互い出し合って話して、そこからなんとかなっていけばいいんですけど。それとは別に、教員養成の方で社会科の先生になろうという人たちに同じような話、自由の話をしなければならない。その場合の自由って、正に基本的人権とか社会的自由の話なんですけども、その話をする時には、まずホッブズという人がいて、彼は完全ある自由、つまり自己保存のためにありとあらゆることをしてもいい自由というのを自然の権利、生まれつきの権利として認めたんだけども、それでいくと結局戦争状態になる。正に殺し合いになるしかない訳だから、そのすべての人権は剥奪すると。剥奪して全部リヴァイアサンにあげましょうねという。そういう意味では正に自由は無しになると。国民の側の自由は無くなるんだというような議論を、そういう組み立てのお話を作ったんですけども。それ以降、寧ろ自由という概念を積極的に使っていこうとした場合の自由というのは、要するにありとあらゆることをしてもよい自由ではなくって、「みんなが自由になれる自由」というところから出発して。それはロックとか、ルソーとかカントとか、その後発展させた政治的自由、あるいは基本的人権として認められた自由であって、それは「みんなが自由であり得る自由」っていうふうに言わざるを得ない。それがあり得るということは、当然みんなが自由でありうる制限がかかってきて。人を殺したい、殺しちゃいけないとうのは、それは相手の自由を奪ってしまう訳だから、相手の自由を奪う自由はない訳で。自由っていうのは、ホッブズの次の段階で完全に変わったんだというふうに思っていて。現代に繋がってきているのは、「みんなが自由であり得る自由」だけしかないんじゃないかなと思っている感じです。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






次回のてつがくカフェは、

10月22日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「人間はどういう存在か?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

該当記事の「Zoomミーティングに参加する」の下の

URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。

会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。



てつがくカフェ@ふくしま2022.9.17.「自由とは何か?」

2022年09月03日 19時03分37秒 | 開催予定
てつがくカフェ@ふくしま2022.9.17.
【テーマ】「自由とは何か?」
【日 時】2022年9月17日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料 (飲み物は各自ご用意ください)
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/82473855932?pwd=cXBVTWhKQlpPUGt5aE9jRTB0a3Fvdz09
        ミーティングID: 824 7385 5932
        パスコード: K3qV0N

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp





今回のテーマは「自由」です。
哲学・倫理学の由緒正しい伝統的な問題です。
しかし、「てつがくカフェ@ふくしま」ではこれまで自由を、
テーマとして取り上げたことはほとんどありませんでした。
「対話のルール」の第1条で、
「『てつがくカフェ@ふくしま』は自由な対話の場です」と謳っているわりに、
「自由」について正面切って論じたことはなかったのです。
あまりにも自明なものだったからでしょうか。
それとも、あまりにも難しすぎたからでしょうか。
今回は参加者の方からの声を承けて、満を持してこの難問に挑戦します。

「自由」というのはいろいろなレベルで問題化可能な概念です。
もともと哲学の世界においては、
人間は自由なのか?、自由意志は存在するのか?、という問いは、
神(=宗教)との関連において長いあいだ大問題であり、
ほとんどの場合、否定的に考えられていました。
全知全能なる神が宇宙を、世界を、そして人類を創造したのであり、
その創造の時点で一切は決定されているという運命論(=決定論)が主流であり、
したがって人間の自由(自由意志)など存在しない、
唯一自由と呼べるのは神のみである、と考えられていたのです。

実はこの手の決定論は、神の存在や神の創造が自明視されなくなり、
宗教の影響力が失われてきた近代以降、現代においても、
別の形で根強く残っています。
自然科学は一切の自然現象を自然法則による因果関係によって説明しようとします。
すべての出来事には、それに先行する原因があると考えるのです。
私たち人間の選択や意思決定にも、同様に何らかの原因が先行し、
それによって決められているとするなら、
いくら私たちが主観的には「自由に選択した、意思決定した」と思っていたとしても、
それは幻想にすぎず、客観的には自由など存在しないということになります。
1980年代に行われた神経生理学者のベンジャミン・リベットによる実験は、
指や手首を動かそうとする意識よりも先に、
指や手首を動かすための電気信号が脳内で発生していることを明らかにし、
自由意志が存在しないことが実証されたのではないかと、世界に大きな衝撃を与えました。
(この実験結果をどう解釈すべきかに関してはまだ最終結論が出たわけではありませんが…)

さて、私たちがふだん使う「自由」という概念は、
上記のような哲学的、自然科学的レベルでの自由ではなく、
もう少し常識的な、近代政治哲学の文脈における自由になります。
つまり、自分の行動を他者(特に絶対君主や専制的政治権力等)によって
制限されたり、強制されたりしないこと、という意味での自由です。
世界人権宣言や各国の憲法によって保障されている、
生命・身体・財産の自由や、信教の自由、思想信条の自由、表現の自由、結社の自由など、
一般に「政治的自由」と呼ばれている諸自由や、
幸福追求の自由、職業選択の自由といった「経済的自由」などが、
その具体的な内容となります。
私たち「てつがくカフェ@ふくしま」が拠って立つ「対話の自由」もまた、
こうした近代政治哲学の産物としての自由にほかならないでしょう。
現代の私たちの生活はこうした自由ぬきにはありえませんので、
これらはあって当たり前のように考えがちですが、
ほんの70~80年前にはほとんど認められていなかったものですし、
憲法や政治体制をちょっと変えれば、
今後もいともたやすく失われてしまうかもしれないものです。
これらの自由については自明視せず、繰り返し繰り返し、
その意義と具体的な保障方法に関して考え、議論していくべきでしょう。

ところが、日本人の多くは「自由」というと、
他人や外から一切の制限を受けずに、すべてを自分の思い通りにできること、
というふうに理解しています。
福島大学の「哲学カフェ」の授業では、
例年必ず「自由とは何か?」がテーマに選ばれますが、
そこでもほとんどの学生が、自由とは一切が自分の思い通りになることと捉えており、
したがって法律やルールは自由を束縛するものにほかならず、
ゆえに、本当の自由などこの世に存在しない、とか、
自由を認めたら世界は無秩序になってしまう、などと考えています。
このような稚拙な自由観を抱いているのは、
世界でも日本人くらいのものではないかと私(小野原)は思っていますが、
自由をこのようなものと捉えているかぎり、
前の段落で述べたような近代的な自由の意義が理解されることはなく、
早晩、日本ではあるべき自由が国民自らの手によって放棄されてしまうのではないか、
と恐れています。

さて、今回の「てつがくカフェ@ふくしま」では、
どのレベルの自由に焦点が当てられて話が進んでいくのでしょうか。
「自由とは何か?」について、
「自由な思考」と「自由な対話」をお楽しみいただければと思います。


なお、今回も会場とオンラインの同時開催となります。
会場参加の方は、お申し込みは不要ですが、当ブログに掲載されております、
「てつがくカフェ@ふくしま」当面の開催方針(2020年7月10日現在)】に従い、
マスク着用等のルールを守ったうえでご来場いただきますようお願い申し上げます。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、
上記の「Zoomミーティングに参加する」の下のURLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。


「てつがくカフェ@ふくしま」は誰でも気軽に対等に、
「自由に」安心して何でも話し合える場です。
初めての方でもお気軽にご参加ください。