てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第5回カフェ ・ 参加者感想

2011年09月25日 13時56分17秒 | 参加者感想
            


「サイトウ洋食店」 さんでの初めての開催となりました。
今回は参加者はのべ12名でしたが、途中での出入りが多く、
しかし、そのたびにそこまでの論点を思い返したりしながら進んでいったので、
とても面白い展開となりました。
いつものように参加者の皆さんの感想をご紹介いたします。


●正義というテーマは今後も折にふれて考えてみたいのでまた宜しくお願い致します。(このような機会がなければ語り合うどころか深く考えることさえなかったであろうテーマでした。)今回からは雰囲気も変わって新鮮でした。楽しかったです。お世話になりました。ありがとうございました。

●今回ほど結果が出ない議題は今までなかったように思います。たくさん出たヒントから自分の中で消化していきたいです。

●議題はいろいろ広がりましたが、結局 「正義」 はどう定義づけるのか、私の中ではいつもそこに戻っていました。正義と言えるものがあるのか、あるいは正義はあると信じたいだけなのか、今のところさっぱり分かりません。多分その部分も人によってそれぞれなので、話がややこしくなっているのだと思います。話のの出発点が見出し難いという印象で、最後まで (そしてこれからも) 苦戦しました。

●今回も概念の問題でまとまらない感じになると思いましたが、ひかく的まとまった感じでおわれたように思います。2回しか出席していませんが、ファシリテーターの進行に感服します。途中からのとびいりはとてもいいです。リフレッシュされた感があって、論点がまとまりやすくてよかったです。

●途中からの参加でしたが、何回かテーマを変えながら哲学カフェを行うということなので、ぜひ次も参加させていただきます。暴力を止めるための暴力にとても興味あります。歴史的に何度も繰り返されていることなので。

●遅くなってすみませんでした。正義の定義が難しいですね。言いたいことを言ってしまって流れを乱してしまったのではないかとちょっと心配です。でも楽しかったです!

●おくれて申しわけないです。次回は遅れないように参ります。正義の定義はむずかしいですね。歴史の中で、その時代の考え方がかわってしまいます。でもきっと、すこしずつすこしずつ正しい事が伝わり、広がると信じたいです。


皆さんどうもありがとうございました。
途中退出、途中参加、まったく問題ありません。
ご自分のご都合に合わせてお越しいただけたらと思います。
今回も楽しく、かつ、深い議論ができたことに感謝申し上げます。
そして、素敵な対話の場とそのあとの美味しい饗宴の時間を提供してくださった斎藤さんに、
改めて心より御礼申し上げます。

次回は10月22日 (土) の14時~17時です。
満を持して福島の原発問題を取り上げようということで、
いつもより長めの時間を取り、場所は福島駅西口駅前の福島ビューホテル3階にて、
少し大きめの会議室を借りて開催する予定です。
「福島で生き続けていくこと」 についてみなさんと一緒に考えていきたいと思います。
多くの方々の参加をお待ち申し上げます。

第5回カフェ報告

2011年09月25日 08時25分30秒 | 定例てつがくカフェ記録
第5回てつがくカフェ@ふくしまがサイトウ洋食店で開催されました。
今回はオーナーである齋藤さんのご協力のもと、初めて本格的なフレンチカフェ(レストラン?)で開催させていただくことができました。
ゆったりしたカフェ空間の中での議論はさらに充実したものになっています。
今回は12名の方々にご参加いただきました。
テーマは「〈正義〉って何だろう?」です。
いつものように参加者から自由に正義に関して思いつくことを挙げていただくところから始めました。

まずは正義は青臭く、まじめで血気盛んなイメージがあるとの意見が出されました。
あまり日常生活で用いる概念ではなく、自分の中では高い位置づけにないという意見です。
たしかに日常で私たちは正義を振りかざすことはあまりないでしょう。
すると、それはどのレベルで用いられるのかという問題が浮上します。
それに対して、正義は戦争や国家レベルで用いられる概念ではないかとの意見が出されました。
その際、正義は悪を排除するために戦うものとして用いられます。
9.11以降のアフガン攻撃やイラク戦争をふり返れば、「対テロ」や「対悪の枢軸」というアメリカの正義が喧伝されたことが思い出されます。
とはいえ、議論の中ではいじめの問題を材料として挙げられるなど、「正しさ」を問う場面が日常レベルでもありうることが示されました。

では、その際に正義/悪の基準は誰が決めるのでしょうか。
これは絶対的な位置での正義を決めることは可能かという問いを孕みます。
これに対しては、さらに正義の反対は悪なのかとの反問も出されました。
すなわち、誰かが正義を振りかざせばそれに対する正義も立ち上がるのであり、したがって究極的にいえば正義などこの世界に存在しないのではないか。
そんな過激な意見も出されました。
ふり返ってみれば、9.11以降、正義に対して私たちはずいぶんと懐疑的になったように思われます。
これについて、その発端は正義が戦争遂行の「大義名分」として用いられ、自らの行動を正当化するためだけに用いられるようになったことにあるとの意見が出されました。
しかも、その実、当の行為者はそれが正義でもなんでもないと思いながら用いているだけではないかというのです。
たしかに、政治の二枚舌がまかり通っていることへの不信が、「ニセモノの正義」という懐疑をもたらしたというのはその通りでしょう。
けれど、それは裏を返せば本来(真)の正義が存在することを示すものでもあります。

では、本来の正義とは何か?
その意見によれば、それは「自己犠牲」が発生するものだとのことです。
社会保障など観点から見ても、たしかに税金などは自己犠牲による正義の実現といえなくもありません。
しかし、正義がつねに自己犠牲を伴うものだとすれば、それは非常に重いものではないでしょうか。
何より、戦争こそは最大の自己犠牲が強いられるものです。
たとえ、それが洗脳や大義名分による嘘とわかっていたとしても、やはり国家的正義の実現を自己犠牲のもとに強いられる事態であることに変わりはないでしょう。
これに対しては、正義とはみんなが納得しなければ成立しないものではないかとの意見が関係しそうです。
たしかに自己犠牲という立派な行為が正義と結びつくことは直感的に理解できるけれども、誰しもそのような厳格な自己犠牲を強いられることには抵抗を覚えるものでしょう。
むしろ、それを前提としている運営される社会システムというのは、戦争状態がまさにそうであるように、相当破綻しかけているのではないでしょうか。
すると、問題は自己犠牲の許容範囲について共通認識が形成されているかという点が、その社会における正義の実現にとって重要であるということになります。

以上の意見や問題提起を踏まえ、まずは「普遍的な正義はありうるか」という論点から議論は深められました。

まず正義は何のために必要とされるのか。
それは誰かの平和や幸福を守るために必要とされるのだけれども、その範囲が国民という枠で語られる場合、それは国家同士の利害対立という事態を招くことになります。
そこにおいて利害対立するもの同士が共有し合える正義はないことが示されますが、果たして国家の枠組みを超える正義はありうるかという問題があります。

これに関しては、果たして正義の共通理解が可能だろうかという問題が関係します。
宗教や文化の多様性は時としてその障害になるでしょう。
そもそも個人の多様性を考えれば、その利害が一致することなどほとんどありえないというのが、普遍的正義に対する懐疑をもたらします。
けれど、戦争など悲惨な出来事は歴史上数あれど、大きい視点で見れば国家の枠を超えて国際的な差別や暴力は縮減される努力がなされてきているのだから、それは少しずつでも普遍的な正義へ向けて歴史は動いているのではないかとの意見も出されました。
たしかに、タテマエとはいえ正義を根拠に戦争を起こすという国家行為は、あからさまに私利私欲によって戦争を起こすことを国際社会が許容しないようになったことに対応するためだともいえそうです。
その意味で言えば、少しずつではあるけれど共通理解を進めながら普遍的正義は実現していっているのかもしれません。
ただし、それは常に正義を称揚することに警戒しつつ進むことに注意が払われました。
すなわち、わたしたちは正義の内実を疑い、考えながら、求め続けるべきものではないかというわけです。
これに関しては、他者の立場に身を置き換えて考えることが、正義の実現に通じていくのではないかとの意見とも符合します。
これらの意見を踏まえると、普遍的な正義とは挫折しつつも、いつか到達できるだろうと希望されるものということができそうです。
むしろ、その希望があるからこそ、人は正義へ向けて行動しようとするものともいえるでしょう。

一方、そうはいっても歴史は勝者の側に正義を独占させてきたという面があります。
国家間の戦争も勝ち残った側にこそ正義の判定が下されてきました。
テロ行為も失敗すれば犯罪者ですが、反政府行動によって政権の座を奪えば、それは正義の実現と評価されます。

また、現実の社会においては多数者の利益を優先することが社会的正義にかなっているという面も指摘されました。
社会が危機に瀕しているとき損害は最小限度にとどめるという意味では、最大多数の利益が優先されるというのは社会的正義にかなった判断だともいえます。
すると、正義とは数の多さや多数派の利益にかなうものだということになりますが、言い換えれば、それは力を持つものこそが正義をもちうるということにも通じるでしょう。

こうしてみると歴史の勝者といい社会的多数派といい、正義を称することには何か権力性を帯びるような面も浮かび上がります。
そして、そこでは「弱いものを助ける」という意味での正義の意味は後退しているようにも思われます。
これに関しては、みんな不正だと思っているにもかかわらず誰もその行為を止めないという例として、学校でのいじめの問題も論じられました。
正義なき力は暴力だが、力なき正義は無力であるということもあります。
そうなると、正義を考える上では「力」との関係を議論する必要もあるようです。

これについて、「俺が正義だ」と前もって言うことは正義とは思えないという意見は興味深いものでした。
というのも、それが正義であるか否かという判断は、実はその周囲の人々やあるいは後の時代の人々といった、実行者以外の人々ができる判断であって、その当の実行者が前もって語る瞬間に胡散臭いものになるというのです。
私たちは時として、歴史の勝者や権力者の所業について「不正である」と判断することがあります。
しかも、それは歴史の敗者や少数者の側に立ちながら、より普遍性を帯びた正義の判断を下す場合があります。
たとえば、正義を振りかざしてイラク戦争を開始したアメリカの行動に対し、国際社会の多くは不正の判断を下しました。
その意味で言えば、力の大小が必ずしも正義の判断と一致するわけではありません。
しかし、問題はそのよう不正の判断が国際社会において示されたにもかかわらず、アメリカの軍事行動をとめることはできませんでした。
すると、これは正義の無力だったのでしょうか。

これについては正義の判断は普遍的に共有される可能性があるけれども、その実践の段階になるとそのことが困難になるという面が指摘されました。
それはやはり正義には力の行使が必要とされなければならないということが確認されます。
国家であれば裁判所を中心とした司法権がそれを担わなければならないでしょう。
しかし、その反面、ここには力の行使が正義を損なうという面も指摘されます。
判断において普遍性を帯びていたものが、いざその実現に向けて行動すると不正を帯びるという問題は、やはり国際社会において紛争を中止させるために武力介入する問題において生じるでしょう。
果たして、正義の判断と実践という問題でまたもやアポリアに陥ってしまったように思われます。

今回の議論は普遍的な正義を求めつつも、しかしなぜかそれを語ることへの違和感が入り混じりながら活発に展開しました。
毎度のことですが議論はこれに尽きません。
不正を犯したことに対する正義の回復と死刑の問題、あるいは何を持って公正としての正義を実現できるのかといった問題など、まだまだ語り合うべき課題は数多く積み残したまま終了せざるを得ませんでした。
しかし、正義に関するてつがくカフェは、これを皮切りに具体的なテーマを変えながら引き続き取り組んでいきたいと考えておりますので、今後にご期待下さい。

お忙しい中、ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
回を重ねるごとに議論の密度が濃くなっているように思います。
さらなる活性化を期して、ファシリテータとして技量を磨くことに邁進していきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。

「てつがくカフェ @ サイトウ洋食店」 のポスター

2011年09月24日 01時17分10秒 | 開催予定
                 


いよいよ明日は (いや、もう今日か) 第5回 「てつがくカフェ@ふくしま」 です。

初めて 「サイトウ洋食店」 さんでの開催です。

毎回、カフェの当日のみ会場に貼り出されている手作りポスターの写メを撮ったので、

ブログにも載せておきます。

今までのも写真に撮っておけばよかったな。

第1回は文字のみで、しかも手描きバージョンとかもあり、

ちょっと記録に耐ええない出来でしたが、

第2回以降は大学の大型プリンターを使って初めてのポスター作りに挑戦しています。

プリンター付属のソフトに入っているテンプレートをそのまま使っているだけですが、

今までの夏な感じのデザインから、今度はカフェな感じに変えてみました。

「サイトウ洋食店」 に来ないとこのポスターは見られません。

ぜひ 「サイトウ洋食店」 まで足を運んでみてください。

「サイトウ洋食店」 の場所を知りたい人はこちらをご覧ください。