てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

『愛する人に東横インをプレゼントしよう』 解説

2015年01月28日 08時42分44秒 | 開催予定
来週の土曜日は第6回 「本 de てつがくカフェ」 です。

課題図書は 『愛する人に東横インをプレゼントしよう』(やっぱりぱんつ著・宝島社・単価1,080円) です。



タイトルからして意味不明ですが、東横インをこよなく愛する男性に、

東横インをプレゼントしようと思い立った女性の 「100パーセントの愛の物語」 です。

爆笑しながらほんの1時間余りで読んでしまえる軽めの本ですが、

愛とは何か、家族とは何か、人は人とどう付き合っていくべきか等を深く考えることのできる、

きわめて哲学的・倫理学的な書物でもあります。

今回はぜひこの異色な本を題材に哲学的対話を進めていきたいと思います。

ただひとつ問題は、この本が福島市内ではあまり売られていないということです。

そんなに部数を印刷していないらしく、首都圏を中心に配本されてしまっているらしいのです。

地方に生きる私たちにとってはたいへん残念な事態ですが、

今の時代は本もネットで簡単に入手できますので (こちらをクリック!)、ぜひ購入してご参加ください。

当日はやっぱりぱんつさん御本人も参加してくださいますので、本を持参すればサインをもらえますっ!

とはいえネットを使ってもなかなか入手できないという方もいらっしゃるでしょう。

そういう方々のために、やっぱりぱんつさんと宝島社さんの承諾を得て、

この本の 「解説」 部分をアップすることにいたしました。

実はこの本の解説は、世話人のひとりである小野原が執筆しております。

この解説を読んでいただければ、この本の面白おかしい部分は伝わらないでしょうけれども、

哲学的・倫理学的な部分はある程度おわかりいただけると思います。

最悪、この解説を読んだだけでも今度のてつカフェに参加することは可能だろうと思います。

ぜひ以下の文章を読んでみてください。

読んだらきっとこの本買いたくなってしまいますよ。

そして、みんなと語り合いたくなってしまうはずです。

2月7日 (土) はぜひ東横イン本で哲学カフェを楽しみましょう!



【解説】 理解不能な他者に寄り添うとは

                  小野原雅夫 (福島大学・人間発達文化学類教授)

 日本人というのは自分と相手が同じであることを喜び、同質性に根ざした人間関係を築きたがる傾向があります。似たもの同士、同じ趣味や嗜好、同じ主義や思想を共有し合える者同士こそ、濃厚なよりよい人間関係を築くことができると信じている人が多いのです。それは当然のことかもしれません。たしかにそのほうが互いによく理解し合えるし、ツーカーで話も盛り上がることでしょう。いったんそのような関係が築き上げられたならば、そこでのコミュニケーションは 「以心伝心」 によって可能となります。つまり、いちいち言葉を口にしなくても、互いの心と心で直接に気持ちを通じ合うことができるようになるのです。それは親密な人間関係の理想形といえるでしょう。

 しかしながら、恋愛や結婚の経験がある人にはわかってもらえると思うのですが、始めのうちは 「なんでこんなになにもかも、ぴったり一緒なんだろう♡」 と思っていても、付き合っていくうちに、だんだんと二人の違うところが浮き彫りになってくるということがあります。大ヒット映画 『アナと雪の女王』 でも、アナ王女とハンス王子は出会ったその日に、考えていること、感じていることが似ているね!ということで盛り上がりますが 、ほどなくその恋の真の目的は、アナにとっては幽閉生活からの解放、ハンスにとってはアレンデール国の乗っ取りにすぎなかったことが明らかになり、決別を余儀なくされました。

 長年同じ家庭に暮らしてきた家族同士でも、もちろんなにも言わずにわかり合える部分は非常に多いでしょう。しかしその反面、どうしても理解できない、理解してもらえないということも多々あるのではないでしょうか (アナと姉のエルサのように)。
 このように同じ家族でも、愛し合っている恋人でも、長年連れ添った夫婦であっても、自分以外の人間はすべて 「他者」 であって、自分とはまったく異なるところを持つ別の存在者なのです。しかし残念ながら、「以心伝心」 を尊ぶ日本では、人間関係のそういった 「相違を強調する」 側面に光が当てられることがあまりありません。互いの違いをきわだたせることは 「他人行儀」 だとして忌避されるのです。しかし、同質性にのみ基づいて築かれる人間関係は、アナとハンスの場合のように非常に脆弱です。二人の間で少しでも異質なものが表面化してくると、それによって瞬く間に崩壊してしまいます。どんなに似た者同士に見えたとしても、じつは互いに他者であって、さまざまな面で異なる部分があるのだということまで理解し合った上でないと、確固とした関係を築くことはできないでしょう。

 そうはいっても、自分とまったく異なる他者を理解するのは難しいことです。ましてや理解不能な他者をまるごと受けいれて寄り添うなんて、そうそうできることではありません。私は倫理学者として、また倫理学の教員として、他者理解の重要性や、他者を受けいれ、他者と共存していくことの重要性を説き続けています。しかし、日本的な人間関係 (いわゆる 「以心伝心」 信仰) にどっぷり浸かっている学生たちにこのことを伝えるのは、至難の業だと感じていました。

 ちょうどそんなころ、ネット上で 「愛する人に東横インをプレゼントしよう」 という記事に出会ったのでした。尋常ではないアクセス数を誇り、検索エンジンでおすすめのページとして紹介されていました。タイトルの意味わからなさに惹かれて覗いてみたページには、まさに私が探し求めていた、理解不能な他者に寄り添う実例を見出すことができました。
 
 この記事を書いたのは 「やっぱりぱんつ」 さん。理解不能な他者は、フリーライターの工藤考浩さんです。なんとこの工藤さん、東横インが大好きだというではありませんか。もうすでに理解不能です (笑)。そもそも東横インって、好き嫌いの対象になるようなものでしょうか。
 しかしこの方は、東横インの室内誌は持ち帰ってくるし、東横イングッズは欲しがるし、果ては 「いつか僕が巨万の富を手に入れたら、自分専用の東横インを作るんだ」 と公言するほど東横インを愛しているのです。この人が熱く語れば語るほど、ザーッと音を立てて自分が引いていくように感じるのは私だけではないでしょう。

 ところが、のちにこの方の伴侶となったやっぱりぱんつさんの、この意味不明な趣味に対する寄り添い方が尋常ではありません。やっぱりぱんつさん自身は彼の東横イン愛にまったく共鳴できていないのですが、理解不能なまま丸ごと包み込み、深い愛を捧げています。ふつう人は、他者の意味不明な趣味を見せつけられたとき、驚き戸惑い、そして蔑んだり嘲笑したりするのではないでしょうか。そしてバカにしたり諭したり懇願したりすることによって、自分と同じ真っ当な道に戻してあげようと思うのではないでしょうか。あるいは、よっぽど愛が深い場合には、むしろ自らを犠牲に献げて、自分を相手に同化させ、なんとか相手に合わせて自分も相手と同じものが好きになれるように努力したりするということもあるかもしれません。

 しかし、やっぱりぱんつさんはそういう 「同化の道」 を選びませんでした。やっぱりぱんつさんは、くり返し夫である工藤さんの趣味を 「異常だ」 と言い、「私、東横インに興味ないし」 と一線を引き続けています。しかし、だからといって彼やその趣味を軽蔑するのではなく、その代わりに彼女は、彼のその理解不能な東横イン愛を理解不能なまま、まるごと受容して尊重し、それに寄り添おうとしたのです。その壮大な愛と尊敬の軌跡が、やっぱりぱんつさんのブログに写真入りで綴られていて、私は圧倒されてしまいました。

 読後すぐにその感動を学生たちと共有すべく、私の学生向けブログ (「まさおさまの何でも倫理学」 http://blog.goo.ne.jp/masaoonohara) に 「理解不能な他者に寄り添うとは」 というタイトルで寄稿しました。その後、やっぱりぱんつさんは東横インから感謝状を授与され、その顛末を続編 「愛する人と東横イン本社にいった」 としてまとめられました。それを読んだとき、私は矢も楯もたまらず、僭越も承知の上で次のようなコメントを送ってしまいました。
「自分のブログのなかでお二人の記事を紹介させていただいた者です。東横インからの感謝状授与、誠におめでとうございます! ひとつだけダメ出しさせていただくならば、感謝状授与式にはぜひとも 『あの東横イン』 も一緒に参列してもらいたかったです。〈誰も想像しなかった図〉 の一番手前に今回の主役が写っていたらサイコーだったのに。 」 
 じつはこのコメントがやっぱりぱんつさんの目にとまり、今回この本の 「解説」 を書くという大役を仰せつかることになりました。私は、やっぱりぱんつさんとも工藤さんとも、まったく面識がありません。そして宝島社ともなんの付き合いもありません。それなのにある日突然、編集者から研究室に電話がかかってきて、この一大プロジェクトへの参加を要請され、こうしてご一緒することになってしまったのです。インターネットの力によって、こんな仕事に一枚噛ませていただくことになるとは、まったく思ってもいませんでした。はっきりいって私は、東横インが好きだという工藤さんに共感することができないばかりでなく、その人のためにあんな本気の模型を作ってしまうやっぱりぱんつさんのことも、よく理解できません。さらには、たったそれだけのエピソードをもとに、一冊の本を作ってしまおうという宝島社なんて完全に理解不能です (それくらいなら、なぜ私のブログを単行本化してくれないんだっ!)。

 しかしながら、こうして理解できないままこの奇妙な企画に参加させていただくことができました。理解不能な他者に寄り添う機会を与えてくださった皆さまに感謝申し上げます。

 やっぱりぱんつさんと工藤さんが、あのアナとクリストフのように、互いに相いれない部分を持ちつつも、それを受けいれ敬い合って、末永く強固で素敵な関係を築いていかれますことを心からお祈り申し上げます。


2014年9月29日
「東横イン福島駅東口Ⅰ」 と 「東横イン福島駅東口Ⅱ」 を望む自宅にて

第6回本deてつがくカフェ開催のご案内

2015年01月20日 22時06分18秒 | 開催予定
【課題図書】『愛する人に東横インをプレゼントしよう』(やっぱりぱんつ著・宝島社・単価1,080円)
【日 時】2015年2月7日(土)16:00~18:00 
【場 所】南国ダイニングTUKTUK(福島市置賜町7-2アドニード121)




2月のてつがくカフェ@ふくしまは、久しぶりに本を読んで哲学カフェを開催します。
課題図書は『愛する人に東横インをプレゼントしよう』です。
アマゾンの内容紹介によると、

「本書の著者・やっぱりぱんつさんは、24歳のうら若き女性。
彼女の恋人は、ビジネスホテル・東横インの魅力にとりつかれ、東横インを愛してやまない男性。
やっぱりぱんつさんは、そんな恋人のために一念発起し、東横インの精巧な建築模型を制作し、彼にプレゼントしました。
この出来事がきっかけとなり、ふたりはのちに結婚。
さらに、ことの顛末を書き綴ったブログが話題となり、東横インの社長から感謝状が贈られることに……!
これは、24歳の女性が人生をかけた逆プロポーズの物語です!! 」

とあります。
けれど、そもそも「東横インを愛してやまない」なんて、理解不能な嗜好をもつ相手を好きになれるのでしょうか?
仮に好きになることはありうるとしても、その理解不能な相手の嗜好に寄り添いつつ愛を実現するなんて、それこそ理解不能ではないでしょうか!?
なにせ、この本の出版記念イベントのテーマが「理解不能な夫との接し方とは?」ですから。
とにかく、一読すればわかるように、かなり笑えます!
結婚や恋愛、家庭生活。様々な場面で遭遇する他者の理解不可能性を考えるうえでも必読の書です!
実は、小野原はこの本の解説を書いているのですが、その部分も含めて、「他者とは何か?」について考える機会となれば幸いです。

そして、なんと、今回の哲カフェには著者やっぱりぱんつさんご夫妻もご参加していただきます!
ぜひ、多くの参加者の皆様とともに楽しい時間にしたいと思います。


お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

てつがくカフェ@ふくしま世話人

東京新聞にてつがくカフェ@ふくしまの記事が掲載されました!

2015年01月14日 22時50分06秒 | メディア掲載
新春1月5日付の東京新聞「知でつながる」の第一弾として、てつがくカフェ@ふくしまの記事が取り上げられました
昨年12月に開催されました第28回の「〈信じる〉とは何か?」の際に取材いただいた記事です。
かなり大きく紙面で取り扱っていただき、嬉しい限りです
東京新聞の記者である中村さんによれば、反知性主義がはびこりつつある社会の中で、その灯を守り続ける空間を特集記事にするのだとか。
残念ながら東京新聞は福島で購入することができませんが、数あるマスメディアの中でも一貫した姿勢をとり続ける東京新聞さんに注目していただけたことは光栄です。
取材に来られた中村さんにはあらためて御礼申し上げます。

第6回シネマdeてつがくカフェ報告―「悪童日記」―

2015年01月10日 19時59分47秒 | シネマdeてつがくカフェ記録
昨夜、映画「悪童日記」を鑑賞した後に、そのままフォーラム福島館内を会場に、第6回シネマdeてつがくカフェが開催されました。
参加者は41名です。
平日の夜に、しかもマニアックな作品としては、かなりの入りだったのではないでしょうか。
しかも、今回は数名の高校生も参加し、大人顔負けの発言で会場を唸らせました。
初参加の方もかなり多かったにもかかわらず、議論の内容はかなり高度だったように感じました。



「魅力的だと思った部分と疑問だなと思う部分がありました。冷酷だったり道徳的だったり。そこにもどこか彼らなりの基準というのがあるように感じましたが、それはどこにあるのか。そんな疑問を持ちました。」

「私は今の意見とは逆のことを考えていました。戦争が人間をこのようにさせるのか、人間の本質がこうなのか。悪という言葉とは違うかもしれないけれど、監督は人間の本質を表現したかったのかと悩んだというか、興味を持ちました。」

「戦争という背景は大きいファクターだと思いますね。」

「感想は、彼らは彼らの中での正義があって、それに従って動いている気がしました。」

「その正義ってどんなものだと思いましたか?」

「最後のおばあさんを殺してしまうシーンとか、たしかに本人に頼まれたこととはいえ、彼らには自分たちの意思があって、その時の感情ではなく、行動の『基準』があった気がします。」

「修道院の女中を殺した場面や、お父さんを踏み越えていく場面にも彼らなりの『基準』があった気がしますね。」

「あばあさんに興味がありました。あのおばあさんは魔女ではなくて、実はおじいさんの死を幇助したのかなと思いました。勝手な解釈ですが、この映画は「生きる」というのがテーマで、死にたいという思う人は死なせるし、生きたいと思う人は救っていたのではないでしょうか。」

「基準に関して「生きる」というキーワードが挙げられましたね。」

「おばあさんは自分の娘を「雌犬」と呼んでいる。もしかしたら父親はその娘に性的虐待をしているから父親を殺したのかな。結婚写真を悲しそうな顔で観ている顔からそんなことを感じました。とにかくクエスチョンが多い映画でした。どうしてあの双子が別れられたのかなと思いました。ああいう世界を生きるためにいくつか試練を作っていましたが、やっと生きる力を身につけられたからこそ二人は別れられたのではないでしょうか。皆さんの話を聞かないともやもやしていたものが落ち着きました。」

「私は、皆さんの話を聞きながらますます疑問が深まりました。この映画の中で、靴屋のおじさん以外にイイ人はいたんだろうか。彼以外の人々の姿こそが人間の本質かなと思いました。」

「おばあさんは?」

「おばあさんは映画の中ではおじいさんを殺している設定でしたよね。」

「この映画の中で愛情はどこにあったのでしょうか。あの双子からしたら靴屋のおじさんに対するものは愛情だった。おばあちゃんの愛情も深いものあったけれど。あのお父さんが国境を越えようとしたとき、初めは子どものために自分の屍を超えさせようとしたのかなと思いましたが、お父さんが子供に対する愛情はあったのか、と思うとまた疑問がわいてきてわからなくなりました。」

「お父さんが子どものために自分の屍を超えさせようとしたのではないか、という意見は驚きです。」

「彼らはお母さんが迎えに来た時、なぜ一緒に行こうとしなかったかという疑問もありました。」

「救われない映画だなと思いました。家族って何だろうなということをすごく感じていました。お母さんの愛情というものを信じていたけれど、戻ってきたら違う男や腹違いと思われる妹がいて、お父さんが戻ってきたときは、「本当に戻ってきたのかな?」という不信感があったのではないでしょうか。だから、お父さんが自分たちを捨てたという確信を持った時、父も母にも捨てられた以上、一人ひとりが本当に自分で生きていかなければならないと確信したのではないでしょうか。」

「悪童日記というくらいなので少年の成長物語だとおもったのですが、双子が別れるのは死ぬより辛いとあったのに、最後は別れた。人間は最後はひとりで生きるものなのだということを表現していたのではないでしょうか。」

「人にこの映画はなんですかと聞かれたときに説明しにくい映画だなと思いました。感想としては、聖書と本を持っていたと思うのですが、場面場面で協会などの宗教的なものが映し出されていましたが、実際、この映画では「神」はどのように扱われていたのでしょうか。皆さんの意見を聞きたいと思います。」

「今の質問に答えるわけではありませんが、戦争で人生を狂わされていく人々について考えさせられました。戦争の狂気に巻き込まれていく中で、少なくとも自分は訓練はしないと思うのですが、その中で人間はどう生きるのかなと考えさせられました。皆さんはその辺のことをどう思っているのでしょうか。」

「狂気という言葉を使われましたが、あの映画の中で正気だったのは、子供たちだけだったのではないでしょうか。彼らはその状況に応じて理性的に判断していました。冷酷というよりは狂わずに正気で、今何をなすべきか選び取っていたものではないでしょうか。「神」、「教会」、「聖書」という言葉を出された人がありますが、そこでほのめかされたのは「偽善」ではなかったでしょうか。神は直接には何もできないわけで、人間そのものの偽善が示されていたのではないでしょうか。哲カフェ前には何を話せばよいかわからなかったけれど、皆さんの意見を聞いているうちに「そうそう」といえるようになった。」

「神に関して問いかけがありましたが、映画の中で聖書を勉強の道具として使っているだけで、宗教的な神なんて存在していないと思います。『汝殺すなかれ』なんて意味がないし、司祭もわいせつなこともするし、この世には完璧なものがない。倫理も道徳もない戦争の中で、彼らが自分たちの中で基準を作ろうとしている姿なのではないでしょうか。」

「テーマは『生き抜く』ということ。生きようとしている兵士は救おうとし、死ぬ意思を表示した人には手を下した。70年前のことなので、現代のような情緒的な家族観とは異なる時代だったでしょう。父や母も切り離したし。宗教的なことに関しては、聖書はテキストでもあるし、司祭はカトリックのゆがんだ形式主義的なこととか、婚姻の許されない文化に性虐待なども描かれているのかなと思いました。」

「始めから子供の強さに触れられていたけれど、むしろ逆に感覚を麻痺させていっているように思えた。そうでなければ生きられず、最終的に二人でいることは束縛になるので、別れざるを得なかったのではないでしょうか。それと戦争が終わった時点で、彼らの正義感は通じるのかと疑問に思いました。正義感や強さを保ち続けるのは難しいなと思いました。」

「感覚的に麻痺させるという話はその通りだなと思いました。学生時代に学んだ養老孟司先生にこの本を勧められたとき、「論文ってこう書くもんなんだよ」と教えられました。私たちは成長するうえで感情を殺しながら成長していくんだよといわれた。解剖学を学んでいましたが、まさにそれは感情を殺して俯瞰的に見ることが大事なんだ、この本の中に書いてあるんだよ、と。」

「『僕ら』という言い方に関して、固有名詞ではなくて、名前でそのキャラクター付けする自分としては入り込みにくい映画でした。なぜ二人が別れていくのがなぜなのかという質問がありましたが、実はそこにキャラ付けが唯一あるところなのではないでしょうか。」

「感情を殺していく中で学んでいくことで理性的な存在となる点はそうだなと思いました。双子のキャラクター、そもそもなぜ主人公はひとりじゃなかったのでしょうか。」

「今、理性と感情という言葉が出ましたが、あの二人の目が野生の動物に見える瞬間があって、お母さんと再会した場面で、二人は言葉を交わさないんだけれど、分かり合う瞬間があって、それが野生的なものと感じました。戦争というものは、日常では覆い隠されているようなもの道徳や偽善がむき出しになるような状況、その中であの二人は理性的といえば理性的だけれど、彼らは強く生きるぞという意志も感じられないくらい自然でした。だから野性的なものを彼らから感じました。」

「いま野生的な目ということでしたが、かつて哲学の授業で聞いた自然状態だなと思いました。あの映画の社会の中で、戦争という状態の中で秩序のない状況を上手に考えていると思いました。じゃ、戦争がなくなって理性的な状態になれば素晴らしいかといえば、偽善とか抑圧のある社会になってしまうのかなと思いました。善悪の問題に関していえば、靴屋さんだって悪さをしていることだってあるだろうし、一人の人間の中で善悪が混在しているんだろうなと思います。」

「自分の生い立ちと映画の内容が重なったのでさほど驚きもせずに見ていました。先ほどから挙げられている、双子に独自の『基準』があるということは感じませんでした。水汲みと槇わり以外は、割と周りに感化されていたのではないかな。反抗期だったのでは。彼らの訓練と呼んでいるものは自傷にしか見えなくて、その行為によってぎりぎりの理性を保とうとしたのかなと思いました。意外と弱いなと思いました。」

「この双子というのは小学生くらいかなと思いました。彼らはただ学ぶというか、欲求を自覚しているわけではなく、周りを見ながら学習していた気がします。」

「最初は子供と親の視点で見ていましたが、最後は親の視点で見ていました。震災の時、子供を疎開させた親もいて、親は子供を疎開させる方が幸せだと考えるのでしょうが、子どもの方は必ずしもそう思っていません。親はなくとも子は育つし、思うように育たなくてもありかなと思った。すがすがしい映画でした。」

「色々なものがそぎ落とされていて、感情的なものがそぎ落としていて、たとえば愛とはないかとか戦争とは何かとか誘導するものが全くない。だからすごくすがすがしい。ストレートで骨太。疑問もあるけれど、作家の言いたいことは見るものに任されている、生の形自体が放りだされていることがすがすがしいと感じるのだ思います。この作品が書かれているのも80年代から時間も経っているけれど、戦争の時代を伝えるのには、そのくらいの時間が必要なのかなと思いました。」

「解説の方には価値判断を除いて事実のみと書いているんだけれど、それではたして小説が書けるのでしょうか。映画が書けるのでしょうか。」

「離れに兵隊さんが招かれたとき、和解将校がなぜ嫉妬したのですか?」

「映画全般にホモセクシャルな部分も出ているし、強姦の話も出ているし、母親も別な男を作っていたり、母親が性的虐待を受けていたということをにおわせていたし、セクシャリティの観点から描かれている部分が見られました。」

「見ることと聞くことを分けた訓練が重要何だと思いました。言葉がないと相手に伝えられない、見ることだけ聞くことだけでは不十分で、最後は言葉によって結びつく学習をして完成した形で別れたのではないでしょうか。感情的なものを書かずに理性的なもので書くことで、狂気的な理性が完成されたと感じました。」

「映画で描きたかったのは、善なのか悪なのか。」

「善悪を超えて、人間とはこういうものだということをできるだけ正確にありのままに描き切ろうとしているのではないかな。」

「その点で、いまの日本社会に生きる私たちの状況はこの小説の状況に近づいているのかもしれませんね。」

「すごい映画だったな。死がずっと思い出される。色々な死が出てくるけれど、それをたどると人間の本性をざっくばらんにぶっちゃけている。死ぬということを色々な形で物語っている。」

「最後に双子が別れるシーンがあるけれど、一人は今までの場所に残るけれど、一人は過去のことが書かれたノートをもって国境を越えていく姿は、けっきょく過去に縛られているのではないかと思いました。前に進んでいるわけではない。感情がないから、悔しいから前に進もうということがない。もしかしたら彼らは過去に縛られているのではないでしょうか。」


最後に高校生から問いが提起された時点で、残念ながらタイムアップとなりました。
映画を観た後はその映画について思い思いのことを語りたいものですが、とりわけ今回の『悪童日記』は見終わった瞬間に呆然として言葉にすることができないという参加者が多かったように思われます。
けれど、興味深かったのは、今回ほど他の参加者の意見を聞くことによって自分の言葉を見つけることができたという声が挙げられたことはなかったのではないでしょうか。
その意味で、あらためて他者の言葉によって自らの言葉が引き出される力があることを認識させられたものです。
まだまだ話し足りなさそうな方もいらっしゃいましたが、また次回、ぜひ多くの方々にお集まりいただきたいと思います。
フォーラム福島の阿部さまにはあらためて御礼申し上げます。