てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第4回本deてつがくカフェのご案内

2012年12月28日 06時51分33秒 | 開催予定
2012年も残りわずかですね。
今年一年、皆様にはたいへんお世話になりました。
2013年もてつがくカフェ@ふくしまをよろしくお願い申し上げます。

さて、年が明ける前に昨夜、いつものごとく世話人二人が飲みながら次回のテーマについて話し合っていたところ、会場がサイトウ洋食店ということもあり、ふと本deカフェという案が浮上しました。
しかも、課題本はあのサン=テグジュペリの『星の王子様』です。
いつものごとく、あまり選書に深い意味はありませんが、新年最初のてつカフェとしてはなんとなくふさわしい本ではないでしょうか。

                 

ただし、翻訳書は様々なものが出ているようです(世話人・小野原は「『星の王子様』翻訳問題」についてブログに書いたこともあります)。
その点でどの翻訳を選ぶかは難しいですが、翻訳の違いも含めて、名著からさまざまな哲学的解釈を皆さんで話し合ってみましょう。


本deてつがくカフェとは…
「本 de てつがくカフェ」 というのは、あらかじめ課題図書を選定し、事前にそれを参加者全員が読んできて、その作品をもとに哲学的テーマについて語り合う会です。文学鑑賞会とはちがい、作品論や作家論を論じ合うのではなく、その作品が取り上げているテーマについて、哲学的・倫理学的な観点から掘り下げていこうとする試みです。どなたでも自由に参加できます。みんなで読書から哲学してみましょう!

課題図書 : サン=テグジュペリ 『星の王子さま』(出版社は様々です)
       
日 時 : 2013年1月27日 (日) 16:00~18:00

場 所 : サイトウ洋食店
     福島市栄町9-5 栄町 清水ビル2階・℡024-521-2342
    
費 用 : ドリンク代 300円 

参加申し込み :事前申し込みは必要ありません。直接会場へお越し下さい。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


第1回シネマdeてつがくカフェ報告

2012年12月24日 10時54分02秒 | シネマdeてつがくカフェ記録


 

第1回シネマdeてつがくカフェは、伊藤照手監督作品の『声の届き方』を鑑賞して開催されました。
シネマdeてつがくカフェは映画論や作品論ではなく、視聴する映画作品の中から哲学的テーマを見つけながら対話するものです。
今回、会場には伊藤監督ご自身にお出でいただき、18名の参加者とともに活発な議論が交わされました。

まず、伊藤監督からこの映画を撮影した趣旨について説明をいただいた後、40分間の映画作品を視聴しました。
伊藤監督によれば、2011年11月13日に行われた“「さよなら原発1000万人アクション」Inみやぎ”というイベントで、脱原発市民ウォークというものがあったのですが、こうした運動で思いを伝えようと声を挙げ、街を歩いていても、それを見ていた人たちのほとんどがこうしたウォークに対してほとんど無反応、無関心、もしくは敬遠しているように見えたとのことです。
そこで、この伝わらなさはどうして生まれてしまうのか、街の人たちは原発問題やこうした活動をする人たちのことをどのように考えているのかを知りたいと思い、後日ウォークが行われたアーケードで街頭インタビューを行った映像がこの撮影の出発点だったというわけです。



さて、映画に登場する人々の声はとても興味深いものばかりでした。
「原発反対運動をしている人々は自然エネルギーでは産業をまかなえない現実をよくわかってない」という男性のように、ウォークの主張そのものへ違和感を抱く男性の声。
男子学生3人組はウォークやデモに対して「コワイ」というイメージを持っているため近づきにくいといいます。
20年来デモに参加してきたという男性は「デモ自体が一つの雰囲気を作っちゃうので入りにくいのではないか」といいます。
女子学生4人組の一人は「正直自分の意見がはっきりしていないところで、行動には移せない」といいます。
女性二人組みは「過激派の人もいて参加しにくい」、「いままで原発に依存してきたのに、いきなり脱原発というのもどうかと思う」といいます。しかし、その一方で「行動に移せる人たちはすごいと思う」と評価しながら、日本人はけっきょく「他力本願」だと思うとも言います。
ウォークに共感を示す中年男性は「こういうことをする人が少なくなりすぎ。発言する場やパワーを失ってはいけない」といいつつ、「参加したいとは思わない」といいます。「自分にしっくりする別のやり方をとりたい」といいます。

ウォークに共感を示しつつ参加しにくいという声。
そこにはウォークの「声」は届いているのでしょうか?
まさに伊藤監督自身がウォークに参加しながら「反応の鈍さ」、「届かなさ」を感じたからこそ撮影に取り組んだわけですが、それについて今回は議論が途絶えることなく進行しました。

まずは映画の感想を含めて、映画の中に含まれる論点を見出していきます。
ある参加者はウォークが行われた仙台市中心街のアーケードの映像を見ながら、「あそこでデモができるんだと驚いた」という感想をもったといいます。
デモやウォークをする上で様々な規制があるのに、あのような繁華街でもデモができるという事実を、周囲の見物人が見ただけで十分伝わったのではないかというわけです。
デモに対するイメージのハードルをさげたという点では、「過激な人々」による特殊な行動というものが、3.11以降の「金曜集会」のように誰でも参加しやすい参加形態になったのではないかとの意見も出されました。
「過激」や「コワイ」というイメージが、デモに対して拒否感を抱かせるものであることは、しばしば議論のなかで触れられたものですが、そうしたイメージを払拭した誰でも自由に参加できる新しいデモ形態に可能性を見出す意見はしばしば耳にしてきたことでもあります。
それは1969年にデモという行動文化がつぶされて以来の、新しい政治参加の形態であり、代議制の限界に変わる直接民主制につながっているのではないかという意見も出されます。

一方で、その文化が失われたおかげで、私たちはデモの意義がよく知らないというのも正直なところではないでしょうか。
それについて「そもそもデモって何?」という疑問が投げかけられました。
かつてデモによって何かが変った歴史的事実はあるのか、効果があるのか。
なんのためにデモはするのかその意味を根本から問いたいという問題提起です。
それに対しては高円寺で展開される「素人の乱」のように
、実際的な政治的効果を生んだ事例が挙げられました。
しかし、実はデモというものは、そうした共感者の数を増やして現実状況を権力的に変える目的をもつものではないのではないかという疑問も出されます。
すなわち、「それまで常識だと思われたことに疑いを投げかける手段」であり、問題をありかを指し示す表現手段としてデモには意義があるとの見方がそれです。
むしろ、それは誰かに向けて表現されるわけではなく、自らのうちから湧き出す思いを表出せずにはおれないという情熱そのものではないかというのです。
そこには、「デモは自分たちの主張を周囲に訴えかけることによって政治を直接的に変える手段」という捉え方ではなく、その主張に対する共感や反発両方を含めて社会に何がしかの反応を生み出すことが、デモの存在意義であるとの視点が含まれているように思われます。

一方、デモに参加している人々全員が何か主張を持っているわけではないとの意見も出されます。
金曜集会のように「ツイッターを見てきた」という「ノリ」で参加したという人もかなり多いのではないかといいます。
これを「祝祭性」というキーワードで表現した参加者がいました。
つまり「まつりごと}=「政」=「祭りごと」としてのデモです。
さらにいってしまえば、この「ノリ」こそがデモの本質であり、主義主張の内容をよく知らずともその祝祭性のうちに魅力を感じて参加していく方が多いのではないかという意見です。
むしろ、そうした参加していく中で様々な人々の考え方にであったり、情報をえることで自分の中のアンテナが広がっていくのではないかという意見も出されます。
いくらSNSのようなコミュニケーション形態が変わろうとも、直接顔と顔をつきあわせながら対話を交わすことには、自分の意見を形成する上で重要な要素が含まれることを指摘する意見も出されました。

しかし、そうはいってもデモには「過激」や「コワイ」といったイメージが伴ことがデモ参加への妨げになっているとの意見が数多く出されます。
デモ参加を躊躇させる「コワさ」とは何でしょうか。
その「コワさ」の背景には、かつての学生運動の過激な暴力性や同質集団にとりこまれる恐怖といった類のイメージがあるのは疑いえません。
これについては若い学生からも、主義主張には賛同できても、旧態依然とした特定団体やその動員によって行われるデモには関わりたくないという嫌悪感が示されます。

しかし、実はその「コワさ」の正体とは、その特定団体や集団に関わることで貼られるレッテルによって、自分の人生が狂わされてしまうかもしれないという恐怖も含まれているようです。
30代の参加者によれば、学生時代にデモへ参加すると教員採用試験に合格できないという噂がまことしやかに学生のあいだにあったそうです。
実際には合格することができて、その噂がまったく根拠ないものだとわかったわけですが、その参加者によれば、ある団体の主張に同調してデモに参加することは、ある種の社会的レッテルが貼られることへの「コワさ」があったといいます。
さらに突き詰めると、それは対国家的な「コワさ」であることも明らかにされていきました。
ある参加者によれば、先日郡山市で開催されたIAEA国際会議とともに、一部市内の道路がバリケード封鎖されて一般市民が通行できなくなったところがあるそうです。
そして、その当日、郡山市内で開催される予定だった反原発運動デモがその封鎖によって不可能になり、それで行く場をなくしたデモ参加者が屯する状況が生まれたそうですが、そこに私服警官の監視が見られたというのです。
こうした国家権力に対する「コワさ」がせり出してくるのがデモであるとすれば、それは単純に「デモ=過激派」という構図では「コワさ」を理解できなくなります。
参加した高校生からは、何も正しい情報を知らない中で警察ドラマ(たとえば「相棒」や「ストロベリーナイト」など)など場カリ見ていると、公安や国家権力の恐ろしいイメージばかりが増幅させられるのではないかとの意見が出されました。
また、ある大学では大学当局(事務方職員)が特定の学生運動団体との関わりの注意喚起をすればするほど、その恐怖心はまずばかりだといいます。
すると、デモに対する「コワさ」というのは、かつてあった直接的実体的な国家権力の介入というよりは、様々な手段で増幅されるイメージこそが根源にあるというべきかもしれません。
そのことがより深刻になるのは、国家権力が直接的に取り締まったりすることがないのに、勝手に自分たちで作ったイメージによって自主規制してしまうことではないでしょうか。
先にあげた教員採用試験の事例はそのことを示しています。
そのことを日本人の国民性に見出す意見もありました。
その結果、デモに参加しない理由を色々挙げるけれども、けっきょくは「無駄な努力はしたくない」という「ぬるま湯につかっている」現状を肯定する民主主義文化ができあがってしまっているのだといいます。

さらに、デモ参加に対する躊躇が民主主義の成熟と関係するということを、別な視点で論じた意見も出されます。
その意見によれば、アメリカであればデモで逮捕されても、それほど人生に悪影響を及ぼさない文化があるといます。
そのことが就職活動に悪影響を与えることは許されないとの裁判例すらあります。
いっぽう、日本において前科前歴はその後の人生をすべて狂わせるぐらいの重さを与えます。
とりわけ田舎においては、デモで逮捕されたというのは、そこに住めなくなることさえ意味します。
このように前科者に対する寛容度は民主主義の成熟度の問題であり、その保護がない日本社会では間接的とはいえ、かなり大きな表現行為への萎縮効果を与えているというわけです。

こうした民主主義の成熟度の問題は、さらに社会システムの問題としても提起されます。
アメリカの人口に対する自治体数の多さに比べ、日本の自治体数の少なさはその政治体の大きさを示しており、それによって一人あたりの市民が政治に関われる度合いが小さくなります。
つまり市民の政治的決定権が社会構造との関わりで小さくならざるをえず、それによって政治的無力感も増幅されるのではないかというわけです。
たしかに、アメリカにはタウンミーティングなど顔と顔をつき合わせながら、政治を決めていく文化が制度的に確立されている点も大きな違いでしょう。
あるいは、ヨーロッパが革命を通じて「権利は勝ち取るもの」という文化が根付いているところに比べれば、日本が黒船やポツダム宣言のような外圧によって近代化が進められてきたという歴史的背景も無視できないでしょう。
「他力本願」というキーワードが、まさしくこうした背景を通じて、日本の民主主義の本質を捉えた表現だと指摘する意見も出されました。
あるいは、高校生の参加者からの「デモに参加したくても、どうやって参加していいのかわからない」という声は、社会人も含めてこうした文化的未成熟度を的確に表した声ではなかったでしょうか。

これについて伊藤監督からは、映画撮影に際して「自分で何かをしなければならない人と無関心な人との断絶がものすごい」との意見が挙げられました。
その人によって情報を得る手段も出所も異なれば、そもそも情報量のちがいがあります。
そうした情報格差も含め、一人ひとり考え方も異なる人々へ「声」を届くとはどういうことか。
伊藤監督によれば、一人ひとり伝わり方は異なるものであり、もちろん全員に届くものなどはないだろうとのことです。
しかし、にもかかわらず最低限度共有できるものを見つけるために、できるだけデモの主張が開けたものにすることが重要ではないかと言います。

それに対して、デモの声が「原発反対」というだけでは届かないのであって、デモに違和感を持つ人々が納得する説明も含めた主張が必要ではないかとの意見が上げられます。
いっぽう、「デモがおかしい」という反応を引き出すだけでも、それは「声」が届いている証拠ではないかとの意見も挙げられます。
そもそも「デモ」とは自分たちの「声」が届かない自覚の上で行われるものではないかという意見も出されます。
伊藤監督からは、仙台のてつがくカフェで上映した際には「声の届かなさがすごく届く」と評されたとのことです。

さて、カフェの終盤、そもそも映画のテーマである「声が届くか、届かないか」というのは重要な論点なのだろうかという問題提起がありました。
そのことを突き詰めると、デモでの主張はある「正しさ」をもってそれを届けようとするわけだけれど、その「正しさ」は時代によって変わるものであり、そもそもそれを届けるかどうかというのは重要なのだろうかとの問いです。
言い換えれば、それは届くか否かを問わずとも、単に表現すること自体が目的ということではまずいのだろうか、との問いです。

これに対しては、すぐに結果画でなくても息を長くしながらやはり届けて行かなければ意味がないとの意見が出されます。
また、それに同意しつつも、やはり「正しさ」の伝え方を反省しなければならないだろうとの意見も出されます。
たとえば、3.11直後に反原発派の情報資料質などのサイトを覗くと、とても素人が読めるような情報提供の形態になっておらず、そこには「こちらの見解が正しいのだから、あとは読み手が勝手読め」という上からの目線が伝わってくるといいます。
そうした反原発派の「声」の届かせ方への無反省も気になるというわけです。
最後に、「正しさを強く主張すればするほど、声は届かないものになってしまう」という意見が出されました。
残念ながらタイムアップとなってしまいしたが、最後の意見は伊藤監督の問題提起を直接的に引き継いだ一言のように思われます。
それにしても、正しさを主張すればするほど声が届かないとはどのような意味なのでしょうか?
引き続き検討に値する問いかけであるように思われます。

今回は仙台からわざわざ伊藤照手監督にお出でいただき、その作品の充実振りを示すように、議論が途切れることなく充実した対話が交わせました。
あらためて伊藤監督には感謝申し上げます。
2012年も残りわずかとなってまいりましたが、会を増すごとに参加者の方々の哲学的な対話が充実していくことに、世話人としても大変刺激を受けております。
2013年もますます刺激的な活動になることを期して、今年ご参加いただけた皆様には心より御礼申し上げます。
そして、ご関心をもちながら未だご参加いただけていない方々には、いつでも誰にでもてつがくカフェ@ふくしまは開かれておりますので、いつでもお気軽にご参加いただければ幸いに存じます。
では、来年もてつがくカフェ@ふくしまをよろしくお願いいたします。

「第1回シネマdeてつがくカフェ」 当日用ポスター

2012年12月21日 18時27分52秒 | 開催予定
明後日の12月23日 (日) に開かれる第1回の 「シネマ de てつがくカフェ」 の、

当日用のポスターを作っていました。

いつも使っている大型プリンターを使おうとしたら、

事務職員さんが使用中でなかなか使わせてもらえなかったりとか、

やっと使えたと思ったら故障してしまったりなど、

数々の苦難を乗り越えてなんとか作ることができました。

いつもは当日のためにのみプリントアウトして、

終わったら丸めて捨ててしまっていましたが、

今日はプリンター故障後に別のプリンターでプリントアウトするために、

わざわざJPGファイルを作成しましたので、

せっかくなのでこちらであらかじめ公開してしまいます。



いかがでしょうか。

クリスマス・テイストのなかにもそれとなくメッセージ性のあるデザインにしてみました。

このポスターの実物を見るためにもぜひ皆さんお誘い合わせの上、

A・O・Z (MAXふくしま4階) の 「シネマ de てつがくカフェ」 にお越しください

第1回シネマ de てつがくカフェのご案内

2012年12月04日 10時33分55秒 | 開催予定
今年最後のてつがくカフェ@ふくしまは、A・O・Z (アオウゼ) の視聴覚室を借り切って、映画を見ながら哲学する 「シネマ de てつがくカフェ」 を開催します。
@ふくしまでは初の試みですが、本deてつがくカフェ同様、一つの作品をめぐって哲学的なテーマを探りながら思考を深めていくものです。
その意味で映画批評でも作品論を語り合う場でもありません。

今回視聴する映画作品は、仙台在住の伊藤照手氏が制作したドキュメンタリー映画 『声の届き方』(約40分)です。
この映画は、一度地理歴史公民科学習研究会で視聴させていただいた作品です。
そこでは 「脱原発デモ」 が、それを見ている側にどのように受け取られているのかをテーマにしています。
「考え方には共感できるが、デモにはコミットできない。」
こうした社会運動に対する違和感を抱く人は、実は少なくないのではないでしょうか。
この違和感とはなんなのか?
社会へ向けて声を上げる人々はどのように自分たちの声を届ければよいのか?
コミュニケーションの問題から社会づくりの問題まで、幅広いテーマが浮上しそうな映画作品です。
この問いを若い映画監督がどのように映像化したのか、ぜひ参加者同士で考えながら話し合ってみましょう。


テーマ作品:『声の届き方』
(日本/2011/日本語/40分 撮影地:宮城県・仙台市/制作:伊藤照手/撮影協力:長谷川あい)

1.開催日時 : 2012年12月23日 (日) 16:00 ~ 18:00

            ※最初の40分間DVDを視聴します!  
            ※伊藤照手監督が一緒に参加します!
2.場所 : A・O・Z (アオウゼ) MAXふくしま4階・大活動室3(変更しました!

3.費 用 : 100円 (珈琲などドリンク飲み放題)

4.事前申し込み : 不要 (直接会場にお越しください)

ご不明な点は下記の問い合わせ先までご連絡下さい。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp



『声の届き方』 伊藤照手

2011年11月13日に行われた“「さよなら原発1000万人アクション」Inみやぎ”というイベントで、脱原発市民ウォークというものがありました。
本作品はこの市民ウォークをもとに様々な人に行ったインタビューを編集したものです。

昨年の原発事故がなければ、私がこうした市民活動に関わることもなかったと思いますが、原発問題に対してアクションを起こし、声を挙げていく人たちを取材していくうちに、彼らの思いに触れ、一緒に活動をしていこうと思うようになりました。

ただ、こうした活動をする人たちと、それを外から見ている人たちの間には、大きな壁があるように思えます。11月13日のウォークでも、思いを伝えようと声を挙げ、街を歩いていても、それを見ていた人たちのほとんどがこうしたウォークに対してほとんど無反応、無関心、もしくは敬遠しているように見えました。
この伝わらなさはどうして生まれてしまうのか、街の人たちは原発問題やこうした活動をする人たちのことをどのように考えているのかを知りたいと思い、後日ウォークが行われたアーケードで街頭インタビューを行いました。
その中で、仙台という土地で脱原発を訴えることの不自由さや、声の届け方、伝え方の難しさなど、いろいろなことを考えさせられました。

私がインタビューした人は限られていて、他にも様々な意見をもった人たちがいると思います。
全ての声を掬うことは出来ないですが、この作品を見てもらうことで、仙台でこのように考えている人たち、こんな活動をしている人たちがいるのだ、ということを少しでも知っていただければと思います。
そして、これからのことを皆で考えていくきっかけになれば、と思います。


≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

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てつがくカフェの進め方については⇒こちら

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