てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第22回てつがくカフェ記録―食べてよい命と食べてはいけない命はあるのか?―

2014年02月16日 08時29分18秒 | 定例てつがくカフェ記録
    
昨日は、日本中で記録的な大雪に見舞われましたね。
そして、ここ福島市もご多分に漏れずに1日中大雪警報が発令され、午後までに40㎝超の積雪量を記録しました。
そんな日に哲学カフェなんてありえないでしょう。
とはいえ、予約制ではないので「誰も来ないんだろうなぁ」と思いつつ世話人たちは会場へ向かいます。
哲カフェを開催した当初は、「世話人二人しか集まらなくても議論はしよう」という精神で始めたものですから、
「その精神が初めて実践されるんだろうなぁ」と思いつつ、降りしきる雪の中を会場へ向かいました。

会場には常連のSさんが「大雪でいわきの自宅に帰宅できなくなった」という理由でいらっしゃっていました。
世話人も合わせて4人。
あとは誰も来ないだろうから「今日は第1回哲学バーだ!」と、いきなりビールから注文してしまいます。
うーんダメにもほどがある……
でも議論はしっかりやろうぜ、という感じで第22回てつがくカフェ開始!
すると、「大雪だから今日はもう店を閉めてきました!」という方や、「仕事帰りにagatoの前通ったら哲カフェの案内が掲示されていたから驚いて寄ってみた!」と、ポツリポツリ参加者が増えていきます。
会津の常連さんからは、「猪苗代方面から行けないから、米沢周りで福島へ向かっています」という連絡が入ります。
市内の方からは、「行きたいのに雪で家から出られないので残念!どうしても話したいことがあったから」と電話口でその内容をお伝えいただきました。
けっきょく、1次会には9名の方々にご参加いただきました。
しかも、2次会はさらに参加者が増え、11名。
3次会にはさらに4名増えるという、異常事態に!
だ、だいじょうぶか!みんな!この大雪のさなか正気か!
というわけで、皆さんの哲カフェ愛に感激させられる1日となりました。
もちろん、議論もまじめに行われました。
今回はSさんの速記録を活用させていただきながら、カフェの議論を報告させていただきます。

さて、カフェ冒頭に、朝日新聞記事「『賢いイルカ』は特別か」を配布させていただきました。
ケネディ駐日大使のイルカの追い込み漁に対する「非人道性について深く懸念しています」というツイッター発言をめぐる論考です。
その中にイルカの賢さ、コミュニケーション能力などの「人間との距離の近さ」がその特別視の根底にあること等が論じられています。
その記事を皮切りに以下の対話がくり広げられました。

「人に近いのがイルカを食べてはいけない条件なのですか?だとすれば人は食べちゃだめなんですよね……。」

「(新聞の記事を読んで)留学生の多い大学院で研修させてもらったことがあるけれど、インドネシアの留学生が豚を食べられない、ということがありました。彼女に対して「豚肉を食べてごめんね」といったら、「文化の違いだから」と言ってもらえたのですが、この態度に寛容だなと感じました。それに対しケネディ大使の発言はは押しつけがましいと感じます。」

「いい実例を挙げて下さいました。これは文化相対主義の問題にもつながりますね。」

「以前に英会話教室に通っていた頃、その教材に、鯨を食べることについて、という題材があったのだけれど、オーストラリア人の先生がその教材を設定した意図を汲み取らずに、自分は鯨料理を食べて育ったので、鯨料理のレシピを持って行ってしまったことがあります。英会話の先生は、文化の違いだね、という趣旨で当日は議論が流れていきました。今思うと恥ずかしいけれど、相対主義と先ほどあったが、 意識して異文化と比べることで初めてその是非を考えることができるのかな、と思いました。」

「犬を食べる文化もあるが、僕は食べられません。それは高い知能を持っているかどうかではなく、身近にペットとして見て育った土壌があるから、食べ物としては見られないからだと思います。知能とかではなく、身近なものが食べられないのではないでしょうか。」

「板橋区にジビエを出す店があって、そこにサル鍋があった。それは食用ではなく駆除されたサルが食材にされているんだけれど、駆除したものは食べてもいいかな、という思いがあります。なんでも食べてみたいという思いもあるし、生態系を維持するためにもある程度の動物を殺していかねばならない分量というものがあるのではないでしょうか。魚屋さんに「生きのいい鯨があるよ」とおしえてもらうことがあるけれど、その時は海岸に打あがってしまった鯨の肉が売られるのだと聞いたことがあるし、わざわざ漁をする場合ばかりではないらしいのです。」


「では、わざわざ漁をするのはいけないのでしょうか?」

「駆除する場合もあれば、鉄砲での狩猟を趣味とする場合もあるでしょう。趣味でも殺してはいいとは思っています。日本人の中で韓国や中国で犬を食べることを批判しているのが理由が分かりませんね。」

「すると、食べてはいけない命はないってことになりますか?」

「食べてはいけない命なんてないでしょう。食べられるものは食べればいいんだし。問題は「人間」を食べてもいいのかという場合かな。」

「なぜ人間はだめなのでしょうか?」

「人間を食べるためには、人間を殺さなければならないからね。」

「人間を食べるのは法律との戦いになるよね。」

「フランス人の恋人を食べてしまったという佐川一政が起こした「パリ人肉事件」っていうのがあったよね。これはカニバリズムの問題になるけれど。」

「それは、けっきょく病気ということになるよね。つまり人間を食べるというのは精神異常者だと。」


「以前、『いのちの食べ方』という映画を観たことがあります。その中で前の牛が泣き叫ぶ場面なんかがあるんだけれど、僕はその映画を見るまでの過程を知りませんでした。同時に、その事実を知って、殺してまで食べる必要はあるのかという思いも生じました。イルカだって殺してまで食べなくてもいいじゃないか、という思いがあるのかもしれません。」

「食糧としては間にあっていれば、わざわざ殺してまで食べずに済むかもしれないしね。」

「食糧問題とかいうのではなく、感情的な問題もあるのかなあ、と思う。」

「文学の世界には、武田泰淳の『ひかりごけ』のように、止むにやまれない極限状況下での人肉食を描く世界もあるけれど、現実に飛行機墜落事故や戦時中の気が状況下での人肉食というケースもあったでしょう。」

「人肉食だって、極限状況なら倫理的に責められないでしょうね。」

「 極限状況だったら人肉食もありですよね。だって、時々「この人を料理にしたら美味そうだな」と思うときがありますよ。でも殺してまで食べなくてもいいよね(笑)。」

「たった今、その話を聞いて人間を食べない派に決めました!というのも、 ワタシ、けっこう動物をシメルのが好きなんだけれど、シメルときに動物を怯えさせると肉がまずくなる物質がでるんですよ。だから、怯えさせないようにシメルのが大事なんですね。この理屈からいうと、おそらく人間は死ぬ間際にいちばん怯えるから、美味しくないという結論に達したからです。」

「だいたい雑食動物は美味しくないから、その点でも人肉は美味しくないでしょう。」

「すると、美味しいか美味しくないかというのが、食べてよい生命かどうかの基準になるの?」

「そう。」


「昆虫食もある。どこからタンパク質を取るかは大切ですね。」

「 近所に飼っていたウサギを食べる家があって、日々顔を合わせていたウサギを食べたりしていた。小さい頃はイナゴを食べたりしていた。つまり、何を蛋白源にするかどうかはそこの土地の持っている力に関係するんじゃないでしょうか。」

「そういえば『豚がいた教室』という映画がありましたよね。結論はどうなるんでしたっけ?」

「あれは、けっきょく子どもたちが育てた豚を自分たちでできず、業者に売ってしまうんだよね。」

「自分が育てた動物に愛着がわくと殺しにくいという面はあるだろうね。」

「その話を聞いていて思ったんだけれど、自分の母親が握ったおにぎりは食べられるけれど、友達のお母さんが握ったおにぎりはが食べにくいということを思い出しました。一方で、誰が握ったかわからないコンビニのおにぎりは抵抗なく食べられます。つまり、食べることに関しては自分の領域と全く関係のない領域との間に中間領域みたいのがあって、その領域では食べにくいということが生じるんじゃないかな。逆に、まったく切り離された領域だと抵抗なく食べられるというか。」

「先日『ある精肉店のはなし』という映画の試写会に行ってきたんだけれど、一家で自分で育てた牛をし販売まで手掛ける精肉店のドキュメンタリーで、とてもいい映画だった。その映画の中で、立っている牛をいきなりボコンと一発で額を撲り倒してするシーンがあるんだけれど、衝撃的だったね。」

「映画の中では鎮魂祭をの風景も撮影されています。そこで精肉店の奥さんが「本来なら天寿を全うするはずのものを食べる」と話す場面ががありました。日本人が牛を食べるようになったのは明治からだし、そんなに昔からの文化でもない。確かに食べなくても死なないのに牛を食べる。でも美味しいしなと思うのも事実なんですよね。印象的だったのは、彼女が牛を「殺す」のではなく「ワル」と言うし、鳥は「シメル」と言うことを強調した点です。」


「魚ぐらいなら締めたことがあるが、二つ足、四つ足は締めたことがないんですよ。実は、明日郡山で狩猟免許の講習があるんです。食べて良い、悪い以前に、自分が締めた命を趣味の一貫として(駆除ではなく)、気持ち的に美味しく食べられるんだろうか、ということを体験して、その先に答えがでるんじゃないかな、という思いがあって参加しようと思っているんです。僕らの世代は料理人でさえという場面から離れてしまっているんじゃないでしょうか。サル、牛、それぞれあると思うけれど考えなきゃならないし、でも、その考える土壌がなくなってしまっているんじゃないでしょうか。」

「シメルことに関しては、釣りをやっている人は別になんともないんでしょう?」

「それはいつ食べるかって考えてからシメル。ワカサギなんかは酸素不足で死んでいくし。鮮度のことしか考えていないね。」

「もう釣りはできないなと思ったのは、釣り堀で針が鯉の喉奥にひっかかっているのを取るのが大変で、それに苦しむ鯉を観てもう無理だと思った。」

「ブラックバスとか、食べないのに苦しませてどうするのかと思う時があります。 瞬殺するのが生き物のためなんです。」


「殺すと食べるという議論がが若干くっついていますね。植物も命といえるけれど、殺すとはいわないよね(ベジタリアンはまあいうのかも)。」

「「いただきます」という言葉は、命をいただくということでしょう。」

「食べることがだめなのか、殺すことがだめなのか、殺し方がだめなのか。打ち上げられた鯨は食べていいのかもしれないけれど、追い込み漁はいかん、ということなのでしょうか。」

「たとえばイノシシの罠の猟があって、虎ばさみとかで取るのだが、銃なら一発なんだけれど、銃を持たない人は槍でつついて殺すのが大変。血が噴き出したりして、その場面はけっこう引いちゃいます。それを見て、やるならすぱっとやってやれよ、と思いました。これ以上ないほど獲物を苦しめて、いただきますということにならないんじゃないかな。美味しくいただくためにはの仕方も大切じゃないかな。」

「 でも、一方で『いのちの食べ方』で描かれたようなベルトコンベア式の屠場で、肉牛を苦しめずに機械的にしていくのが、いのちを慈しんでいる光景だとは思えないですね。生命との向き合い方の問題でしょうか。育て方もある。『ある精肉店のはなし』では、一家で育てた牛を自分たちでするんだけれど、そこで奥さんなんかはするまではつらいっていうんだよね。でも、そのつらさも含めて自分が手掛けた生命をいただくことに向き合いながら従事しています。それに対して、屠畜工場ではそのような生命との向き合い方はないのではないでしょうか。」

「知人の乳牛生産家が、体験学習にきた中学生たちが牛一頭一頭に名前を付けてしまったんだけれど、それ以来牛を死なせるのが嫌だなと思うようになってしまったと話していました。乳牛とはいえ、乳がでなくなれば殺すことになりますからね。」

「『豚がいた教室』でもそうでした。最初は付いていなかった豚に児童がピーちゃんと名前をつけちゃってから、豚に対する愛着がわいてしまう。固有名詞がつくとどうしても、その問題が生じてしまうでしょう。」


「食べるのがだめなのか、殺すのがだめなのか、どうなんですかね。」

「たぶん、殺し方とかについて言えば、養殖・工場などで作業的にベルトコンベアで来たモノを殺すのも、最初から命と思ってないんじゃないかな。でも農家とか牧場が育てたものは命が宿っているじゃないですか。固有名詞がつくとまたレベルが違っちゃうけれど、猟師さんが鹿をしとめるときに、ある部位を一発でし止めることに命をかけている知り合いがいて、自分が一番食べるときにいい最適な殺し方をするんじゃないかな。対象に対する命の感じ方の違いがあるんじゃないか、と思います。」

「心のありどころですよね。ライオンはおなかいっぱいなときは狩りをしない。アンデスの聖餐では神の肉だといって生き延びた。植物も動物も命なので、その心の在りどころが大切ではないでしょうか。」

「殺してまで食べる必要がないじゃないかという話がありましたが?」

「必要はないけれど、それで生活している人もいます。捕鯨だってそれに関連する仕事に従事する人は無数にいます。その意味でいえば生活をするために捕鯨は必要だとも言えるでしょう。命をいただいているのだ、と意識したものは食べてもいいのではないでしょうか。」


「人間も他の動物に捕食されるなら、食べていけないものはないといえるでしょう。」

「人間が食物連鎖の王座にいるから偉そうに言っているが、イルカに補食されるのであれば、人間も食べていけないということはないという理屈になります。」

「藤原新也の「人間は犬に食われるほど自由だ」という言葉がある。インドで人間の死体を犬が食べている場面からそういったのだけれど。」

「それはある種の食物連鎖が成立しているなら、という話かもしれませんね。人間も犬に捕食される立場にあるならば、犬を食べる権利がある。けれど、いまや人間は食物連鎖の王にあるわけですから、その論理によると食べてはいけないものがあるということになりませんか?」

「基本的に人間が食べていけない命はありません。ただ、豊かな社会にあっては自主規制があるだけです。自分は食べませんが、他者が食べることを否定はしないわけです。」

「ベジタリアンも自主規制ですよね。」

「インドネシアのエビの取り方(バナメイエビ)と日本人のエビ食に関する教材を授業で扱ったときがあって、日本人のエビ食がインドネシアのや劣悪な労働環境や環境破壊を引き起こす事実を学んだ児童たちが、「今度からインドネシア産のエビは食べないようにします」となっちゃった。でも、それは豊かだから言えるんだよね。

「魚を食べる。手足がないし。エビとかカニとかありがたがるけど、私の中ではカブトムシの仲間。バクテリアも大統領も平等。カブトムシも羽生結弦くんも同じ。生命の前に万物は平等であると、そこまで見えて初めて食べられる生命はあるか否かの話しになる。それが「イルカだから」と限定的に言っているうちは議論の材料として足りないわけです。」


「どこまで食べていいのかは、生命と別に考えてもいいのかなと思います」

「配布資料の新聞記事にもどると、人間にどれだけ近いかというのがあるけれど、並べた時にどこに線引きするかは、文化の問題というか難しいというか、それぞれあるのではないでしょうか。」

「生命維持とは離れたところで食文化があるから、食べたくないモノを食べないという取捨選択も可能だし。」

「食文化の歴史は、壮大な命懸けの実験の繰り返しの成果ですよね。」

「キノコとか無数の人が死んでますよね、人間の先輩たちの遺産の上に今の食文化が成り立っていると思います。そう考えると、食べてはいけない食料はないと思います。ただし、食糧ではなくて生命と考えたときに、「いただきます」と命をいただくという意味でいいんだけれど、今はそれ(命の部分)が見えてしまうと食べられないという人が出てきたという問題があるのではないでしょうか。たとえば、生ハムで豚の足が見えると食べられないという人もいます。」

「だいぶ経済がからみますよね。飽食の時代といっても、世界的に見るとまだまだ食べられない人もいる。」

「生まれる、生きている。それはどちらも「生かされている」のではないか。自分だけでは生きているのではない。他の生命によって生かされいるし、自分もまた他の生命のために存在しているという、そういう謙虚さが必要なのではないでしょうか。」

「いまの意見に共感しました。食っていけない命はやっぱりありません。」

「その命の感覚がなくなっている。」

「まさに。昔年に1回謝肉祭があったけれど、年に1回食べるとか年に1回感謝するとか必要なんでしょうね。」

「足が見えると食べられないという人がいる反面、自分が育ててきた牛を割るという人たちもいます。ここにある肉がどういう由来できたのか、と自覚しているかしないのかが大きいのではないでしょうか。」

「分かっていると食べられないというのと、分かっていて食べるということの違いもあります。自分で獲物を捕る人もいるし、買って食べるしかない人もいるが、機械的にというのではなく、過程をときどき思い出すっていうのがあれば、ただモノとして食べるというのとは違うかな、と思います。」


「するのに躊躇するのも人間だが、食べなきゃ生きられないし、食べれば美味しいと思うのも人間でしょう。その逡巡の過程を失ったところに食と生命に対する違和感があるのではないでしょうか。これは、実は過食症と拒食症ってそれと繋がっているように思っています。コンビニで買ってきた食糧を大量に食べてから、すべて吐き戻すという症状は、どこかその食と生命とのあいだが抜けてしまった文化の帰結の一つであると思うのです。」

「人間の都合で食べられるためだけに作られた命は、食べてはいけない命にカウントされてしまいますよね。放牧牛をたべさせてもらったことがありますが、その肉を食べるとどんな飼料を与えたか味で分かります。みんながありがたがっている牛肉は以外と飼料の味だったりするんですよ。飼料を調合して食わせたりする。それがすでに命を冒涜しているみたいな感じがある。食べていい命といけない命というところで意識するのは、大事に育ててつぶす牛だったり、自然の中で虫やコケを食べたものならば全うした命という感じがある。そこに工業製品的命とは違うのかなと思います。」


当初、大雪に見舞われたりや哲学バーになったりと、どうなることか心配されましたが、終わってみれば、かなり危険な議論から食に携わる専門家の意見まで深い議論が展開されました。
今回は常連Sさんのお力を借りて、対話をそのまま採録する報告とさせていただきましたが、いつも以上に哲学カフェがどのような場であるかお伝えすることができたのではないでしょうか。
速記録をしていただいたSさんには心より御礼申し上げます。
また、このような天候不良にもかかわらず、1次会から3次会までおつきあいいただけました皆様には改めて御礼申し上げます。
次回てつがくカフェ@ふくしまは、震災・原発事故をめぐる第4回特別編です。
詳細は後ほどブログへアップしますので、多くの皆様にご来場いただけることを心よりお待ち申し上げます。


朝日新聞県内版でシネマdeてつがくカフェが報じられました。

2014年02月12日 07時18分23秒 | メディア掲載


 ≪拡大版≫☞

2014年2月12日付の朝日新聞福島県内版で、映画『ハンナ・アーレント』を題材にした第3回シネマdeてつがくカフェが報じられました。
しかも、今回の記事は「罪と悪 高校生の哲学って?」という見出しで、参加して下さった高校生に焦点が当てられています。
市内の高校に通う生徒さんとお誘い下さった先生の発言が掲載されていますが、これまで学校現場で見向きもされなかった哲学に注目いただけたことは望外の喜びです。
映画『ハンナ・アーレント』の最終上映では、確認できただけで20人以上の高校生が来場していました。
若い世代の哲学に対する関心度の高さに焦点を当ててく下さった朝日新聞社福島支局の笠井様には厚く御礼申し上げます。
今週2月15日(土)16:00からの第22回てつがくカフェも盛況に賑わいそうです。
どしどし若い世代の参加をお待ちしております。


第22回てつがくカフェ@ふくしまのご案内

2014年02月03日 20時01分25秒 | 開催予定
【テーマ】「食べてよい命と食べてはいけない命はあるのか?」

【開催日時】 2013年2月15日 (土)16:00~18:00
【場 所】 agato(アガト)
     福島市置賜町7-5 パセオ通りアドニード121 2階
      ℡ 024-523-0070

【参加費】 ドリンク代300円
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


今回のテーマは、哲カフェ常連の方からご提案いただいたものです。
そのテーマ設定趣旨については、以下の通りです。

私たちが食べていい命と食べてはいけない命はあるのか。
鯨やイルカを食べる、犬を食べる、馬を食べるなど、文化によって食べていいものといけないもの(食べる習慣があるものとないもの)があるが、異なる食文化を非難するのは妥当か?
あるいは、経済的優劣によって食文化の評価や価値が変わる事実をどうとらえるか。
文化の違いとは別に、例えば、ブロイラーや養豚所の劣悪な環境下の大量飼育は許されるが、フォアグラは虐待になるからいけないという論理の整合性はあるだろうか?
人間は、生きるためには動物などの命を奪わなければいけない。
植物も命を持つと考えれば、毎日口にするすべての食物にもっと意識を向けた方がいいのではないか。
また、それを「食べ物」に加工していく過程や営みも大切にしなければいけないのではないか。

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

てつがくカフェ@ふくしま世話人

第3回シネマdeてつがくカフェ報告―映画『ハンナ・アーレント』―

2014年02月01日 19時02分14秒 | シネマdeてつがくカフェ記録

去る1月26日、映画『ハンナ・アーレント』を鑑賞後に、フォーラム福島さんの会場でそのままシネマdeてつがくカフェを開催させていただきました。
てつがくカフェの参加者数は、なんと驚きの97名です
映画鑑賞者数も約130名と、これ自体スゴイ数字です!
上映開始前には、すでに館内に入りきれない人で行列ができています。
   
 
配布用のてつがくカフェの趣意書は100部しか用意してこおらず、ヒヤヒヤものでした。

   

それにしても、『ハンナ・アーレント』のいったい何が惹きつけるのでしょうか?
映画ではアーレントの生涯すべてにわたって描くというものではなく、1960年代に巻き起こったいわゆる「アイヒマン問題」に焦点が絞られています。
登場人物も絞られており、それだけ問題が拡散されないよう努力が払われていることを窺わせます。
ちなみに、劇中ではアーレントが美味しそうに煙草を吸う場面が多々描かれますが、主演のバルバラ・スコヴァは大の嫌煙家だとか。
それはともかく、カフェでは皆さんアーレントの思想をどこかで学ばれてきたのかと思うほど、見事に彼女の思考を辿るような発言が目立ちました。

まず、アイヒマン裁判をめぐって、「彼一人に罪をなすりつけスケープゴート化することで事なきを得ようとするのは、ビンラディン殺害のときと何ら変わらない」との意見から始まります。
これは、「佐藤栄作前福島県知事の抹殺と重なる」という別の意見とも重なりますし、映画の中で問題化された「ユダヤ人(評議会)の共犯性を封じ込めている」ことへの批判的意見とも重なるでしょう。
こうして、まずはホロコーストという大量虐殺に対する<責任>を、一人の人間に還元することでなきものにしてしまおうという民衆の欲望への批判的視線が投げかけられました。

また、昨年10月にアウシュヴィッツへ訪問したという方からは、「この映画とアウシュヴィッツ体験とが重なり、多数者の中で見失われる善悪の区別の危険性」が指摘されました。
いくら正しい判断でも、少数者である限り通用しない無力感をどう考えればよいのか。
それでも「一人ひとり自分で考えて行動することで、そうした全体主義傾向を止められることを若い人に期待したい」とされました。
一方で、なぜドイツでこのような悲劇が起きてしまったのか。
「歴史をふり返ればその原因がわかるのだろうけれども、それでもなぜあのような二度とあってはならぬことが起きてしまったのかという重い問いを抱かずにはいられない」との意見も出されます。

それに対して、やはり福島でこの映画を見る以上、「なぜあの原発事故を事前に止められなかったのかという自責の念に駆られる」という意見も挙げられました。
ここにはやはり誰か一人のせいにして糾弾するだけでは、けっきょく何も変わらない。
「考え続けるのはつらいけれど、そこにおいてこそ出来事以前の責任が問われるのではないか」という問いが投げかけられています。

このようにカフェの冒頭では、ホロコーストにおける<責任>と、原発事故における〈責任〉を重ね合わせた議論が展開されました。
一見、無関係にあるかのように見られますが、実はそこにはスケープゴートとしてのアイヒマンと、原発の責任を東電などのように特定の「悪」に還元することで感情的な浄化を期する大衆の欲望を批判的に検討する議論だったと言えるでしょう。
実際の裁判の舞台では、アイヒマンを残虐で冷酷非道なイメージで仕立て上げようとするハウスナー検事の背後に、ベン=グリオン首相の若きイスラエル国家の統合に、この裁判を利用しようとする意図が孕んでいました。
まさに、アイヒマンはイスラエルの国家統合の生贄に宛がわれたわけです。
アーレントは、この裁判の公正さを損なうような検察側の態度を『イェルサレムのアイヒマン』において批判したわけですが、国民的人気を博すベン=グリオン首相へのこの批判は、彼女がユダヤ人社会を敵に回す要素の一つでもありました。
もちろん、彼女がアイヒマンに責任がないといったわけではないことは自明です。
アーレントは、あくまでこの裁判はアイヒマン個人の犯罪行為を裁くべきであるのに、過剰な裁判ショーと化し裁判はまるでユダヤ民族に対する罪をすべてアイヒマンに還元することでスケープゴートにしようとしている。
その結果、ユダヤ人評議会によるホロコーストへの加担責任は有耶無耶にされてしまったわけです。
それではこの出来事が何によって引き起こされたのか見失うだけでしょう。
カフェ冒頭で挙げられ意見には、このように大衆のスケープゴートへの欲望が大量殺戮の責任を無化させてしまうことへのアーレントの批判と重なりますし、何よりこうした批判的視線は原発事故の経験を端緒としているように思われました。

さて、議論は人間の思考力の問題へ移っていきます。
「この映画を観たことで「われ思うゆえにわれ在り」という言葉を思い出し、思考力が人間の特権であることをあらためて認識した」との感想が挙げられました。
しかしその発言者は、その一方で「上からの命令に黙々と従った戦時中の特攻隊を思い出した」と言います。
「太平洋戦争時、アメリカの工業力が日本の20倍あるという事実を知っていた指導者層もいたにもかからわらず、なぜそんなことができたのか。果たして、それはみんな考えていなかったからなのだろうか?」

これに関しては、「映画の中でアーレントを批判していた人間たちも考えてはいただろう」という意見が出されました。
ただし、それは「共同体の思考」ともいうべきものだったとのことです。
つまり、それは「『仲間の論理』でしか物事を考えられないということであり、アイヒマンの「思考停止」とそれほど大差のない思考法なのではないか」と言うわけです。
映画の中でアーレントを批判する者たちは、彼女の著書を読まずにヒステリックに批判している様子が描かれます。
すると、「こうした読みもせずに批判したり、「知ろうとしなかったこと」にこそ「凡庸な悪」の罪深さがあるのではないか」という意見も出されました。

映画の中ではこのことを「理解」という言葉で表現されています。
「理解することと赦すことは違う」
アーレントは決してアイヒマンを赦したわけではありませんでした。
ただ、なぜあのような虐殺にアイヒマンが加担できたのかを「理解したかった」と言うのです。
その点、アーレントを批判する者たちは知ろうとすること、あるいは理解することへの勇気が欠けていたと言えるかもしれません。
いや、未曽有の事態にあって、その事態を理解する枠組みを持ち合わせていないとき、人々は困惑し、ヒステリックに反応するしかないのかもしれない。
それゆえ、「これはスケープゴートを欲する大衆の思考にも通じているのではないか」。
つまり、「考えていない」というのは、未曽有の事態に対して理解する枠組みがなかったり、あるいは宛がう言葉を持ち合わせていないときに、ひたすら常套句を唱えるしかないことを指すものと言えるかもしれません。

一方、アイヒマンはどうでしょうか?
たしかにアイヒマンと言えども、官僚としての事務処理能力という意味での思考力はあったはずです。
アイヒマンだって自分の移送許可を出したユダヤ人の行方は当然知っていたはずです。
すると、「彼だって考え尽くした上で判断した行為だったのではないか」。
そのような疑いが参加者から提起されました。
実際、映画中でアイヒマンは検事に「考えたか?」と問われると、「ええ、もちろん」と答えています。
しかし、これをもってアーレントが「アイヒマンは考えていた」と見なすはずもありません。
すると、彼女の言う「考える」とは、いかなる水準をもって評価できる営みだったのかという問いを避けて通るわけにはいきません。
ここには、アーレントがアイヒマンに見た「無思考」とは何かについて考える必要が求められています。

仮にアイヒマンが「考えていた」としても、彼が一つの民族を絶滅に追いやろうとした事実は否めません。
大量殺戮に加担した最高度の責任者として裁かれなければならないでしょう。
議論は、この思考の問題から次第にアイヒマンの犯した「人類への罪」の問題へ移っていきます。
映画の中では、若い女学生(エリザベス)が「迫害されたのはユダヤ人ですが、アイヒマンの行為は“人類への犯罪”だと?」という質問に対し、アーレントは「ユダヤ人が人間だからです」と答える場面があります。
この言葉の意味についてある参加者から、「なぜ一つの民族を絶滅することが人類に対する罪になるのかというと、それは人類の多様性を否定することへの罪だということではないか」との解釈が提示されました。
また、別の参加者によれば、「「考える」ことが人間性を意味するのだとすれば、「考えることを放棄した」ということがそのものがアイヒマンにとって人間であることをやめるということだったのではないか」とのことです。
ここには「人間とは何か?」という問いと結びつけた、人類に対する罪への解釈が提示されたわけですが、その責任が何に根差しているか考えるうえで興味深いものでした。

もう一点、ここには法的な難問が潜んでいます。
一つは、数百万人の大量虐殺を刑法レベルでは対応しきれないという問題と、第三帝国の法とはいえ、法に従っていた官僚アイヒマンの合法的行為をいかに違法行為として裁けるかという問題です。
つまり、こうした空前の大量虐殺に見合うだけの法概念が未整備だったわけです。
その点で、「アーレントはこうした未曾有の出来事に対しては、新しい法概念でもって裁くしかないとの問題を指摘している」との意見が挙げられました。
ちなみに、「人道に対する罪」という法概念はニュルンベルク裁判において導入されています。
ただしここには法の遡及効果を認めない刑罰不遡及原則に反するとの問題が指摘されてきましたが、アーレントならば人類が予測できなかった出来事に対しては、こうした新しい法概念で裁くことを肯定したでしょう。

そして同様に、「悪の凡庸さ」という概念も全体主義という未曽有の事態を「理解」するための新しい概念だったわけです。
しかし、映画では大量虐殺という事の甚大さと、その動機の凡庸さのギャップを受け入れられない人々が、まさにこの新しい概念を受け入れられないことでアーレントをアイヒマンの擁護者とみなしたわけです。
アーレントの独特な思想というのは、こうした「新しい概念」を見つけ、名指すことに見出されますが、この「新しさ」こそ人々の理解の枠組みを破砕し、戸惑わせるものなのです。

さらに別の参加者は、東京裁判で裁かれる日本人戦犯の態度との比較から、アイヒマンらドイツ人たちは主体的に思考する態度が窺えると言います。
すなわち、日本人戦犯の多くが「私は内心では望んでいなかった」と動機と行為の乖離がみられるのに対し、アイヒマンも含めドイツ人戦犯の多くは内面化された「命令」や「上司」、「法律」に服従した行為として一致しているというわけです。
すなわち、前者が「空気を読む」という文化に代表されるように、周囲の動向が行動基準となっているのに対し、後者は少なくとも「命令」や「法」を内面化することで内面の命法と行為とが一致するという点で、責任を問える主体として成立するということでしょう。

これについて想い起すのは、アメリカの心理学者スタンレー・ミルグラムが行った、通称「アイヒマン実験」と呼ばれる心理実験です。
この実験は、学者の権威に一般市民がどれだけ服従して残虐な行為を行ってしまうかを検証した心理実験です。
驚くべきことに、この実験の被験者のほとんどが、自らの良心に目を塞ぎ、学者の権威に従って残虐な電気ショックを相手に与え続けてしまうことが立証されてしまいます。
ここで注目したいのは、途中でこの実験を拒否する被験者もいたわけですが、ミルグラムによるとその中でも自分の信仰に基づいて拒否するなど、自分の考えで拒否した事例は少数であると言います。
つまり、彼によれば内面化された神の声に従う場合でも、それは権威に従うという服従の構造と何ら変わりはないというわけです。
これは普遍的な道徳法則に服する良心という点では、有名なカントの定言命法にも言及できるかもしれません。
実際、裁判中にアイヒマンは、カントの定言命法の定義について明晰に答えられたと言います。
それがカントの道徳哲学の曲解、誤読、誤用だったとしても、「主体的」という点で彼の行動と奇妙に重なったりもします。
すると、主体的に考え、判断、行動するというのが、いったい如何にして可能であるのかという問いは、ここでもまた留保されるわけです。

また、別の参加者からは、「人類に対する罪に関して「ドイツ人対ユダヤ人」という二項対立の構造で論じているが、実はその単純化がタブーを生み出しているのではないか」との問いが投げかけられました。
これに関して、原発立地自治体に生まれ育った参加者から、事故前に原発を受け入れていた悔恨が示されながら、「実は被害者の中にある加害者性と加害者の中にある被害者性という問題あるのではないか」との指摘がなされました。
これは先に挙げられた「知ろうとしなかった責任」と関連づけられながら、いわば原発被災者の「知らなかった責任」という加害性に言及しながら、アイヒマンという巨悪への加担者の中にある被害者性をも見出そうとする視点です。
我々の問題からすれば、それは東電の中にある被害者性ということになるでしょうか。
後者に関しては心情的になかなか許容しにくいかもしれません。
しかしながら、ここには実はそうした二項対立的でもって物事を単純化して理解しようとする態度が、タブーを生み出し、真実から目を背けさせるのではないかという問いかけが含まれているのです。

これは映画の中でいえば、ユダヤ人評議会の責任問題に関係するでしょう。
心情的には、誰もが被害者であるユダヤ人の中に虐殺の協力者がいたとしても、当時はそうしなければ殺されていたかもしれない立場の同族仲間を責めることはしにくいものです。
しかし、事はそんなに単純ではない。
むしろ単純化することで、ことの真相や責任を有耶無耶にすべきではない。
アーレントはこうした仲間や同質集団に閉じた思考態度を解体しようとします。
だからといって、アーレントの思考や態度が世界市民的だというわけではないでしょう。
彼女は自らユダヤ人として攻撃されたときはユダヤ人として抵抗するけれども、ユダヤ人が誤った行動をとったならばユダヤ人として自らの民族を批判すべきだ、という立場を取っていたと個人的には理解しています。
つまり、彼女は「ユダヤ人」というアイデンティティの境界線上に立ちながら、内にも外にも閉じない思考態度を貫いた思想家だったと思うわけです。
そのことがアーレントの立場のわかりにくさだったのでしょう。
その結果として、アーレント自身がユダヤ人の敵とバッシングされていったわけですが。

では、こうした思考に閉じないためには何が必要なのだろうか。
これについて、「政治参加意識(投票率)の向上が考える人を増やすのではないか」との意見が挙げられました。
ただし、これについてはナチスやヒトラーもまた投票によって選ばれた事実から、必ずしも政治意識の向上と思考の深さが結びつくかどうか、留保が必要であるように個人的には思われます。
また、「ある集団を外れると糾弾されような全体主義的環境はどこにでも生み出される」との指摘から、「空気」の問題を指摘する意見も挙げられました。
日本人が「空気を読み」行動し、「水を差す」ような集団の流れに異を唱えることを苦手とする文化と関係づける意見です。
これ自体はナチス政権化のような特別な状況ではなくとも、私たちのふだんの日常に潜む全体主義的要素だというわけです。

さて、カフェ開始から1時間を経たところで世話人・小野原から「思考するための勇気とは何か。思考し続けるためには何が必要か」との問題提起がなされました。
これに関しては「思考の孤独」という言葉をキーワードに、「孤立しすぎると思考停止してしまうのではないか」という意見が挙げられます。
これは仲間と語り合える空間が思考の条件だということを示しています。
たしかに思考は孤独な営みです。
しかし、これを起動するためには他者の存在が必要だということになりそうです。
何より、「『考える』ことが必ずしも正しい答えを導き出すわけはないのだから、その時他者の存在がなければただの独善的な思考に陥るのではないか、そうだからこそ、よりいっそう思考や判断に対して他者の存在は要請される必要がある」という発言が加えられます。
これに関して別の参加者からは、「世間からバッシングを受けながらもアーレントが思考し続けられたのは、ハインリッヒとの夫婦愛があったからだ」とする意見も挙げられました。
このように、思考は他者の存在によって担保されるという考え方がいくつか示されました。

それに対し、集団内で孤立しやすいタイプだと自認する参加者からは、「自分を貫いて心折れそうな時もあったけれど、強い信念と覚悟を持って訴え続けた結果、周囲も受け入れてくれるようになるものだ」という経験談が示されました。
たしかに、映画ではアーレント自身が信念の塊のような人物として描かれています。
しかし、それは自分の考えに固執するという意味での信念というのと、別の意味があるのではないかという意見も挙げられました。
すなわち、その意見によれば「多数派であった自分の意見を少数派の意見へ変えるという意味での『勇気』もある」のではないかと言います。
これに関して言えば、映画の中ではナチスを支持したハイデガーが、戦後、私的には自分の過ちを認めつつ、それを公言できないシーンが想い起されます。
そのハイデガーに向かってアーレントは、「なら、なぜ世間に自分の考えを世間に言わないの?」と問い詰めています。
ここには自らが正しいと思い込んでいた過ちを素直に認めることが、いかに難しいかが示されています。
そしてそれは言い換えれば、「他者の意見を受け入れる勇気」と言ってもよいでしょう。
すると、「考える」とは、自分の信念を貫くという面と、その信念の過ちを認めたらその変更を潔く受け入れられるという面の両極をもつ営みだということでしょうか。
さらに、「この思考の強い人を黙らせてはいけないという意味で、表現の自由が保障されていない社会では思考の強さも担保できないのではないか」との意見も出されました。

これに対し、こうしたある種「思考」の強さを強調する意見に対して、「考えられない人を排除してはいけない」という意見が出されました。
誰しもアーレントほど強くはない。
これは、ユダヤ人評議会の責任追及に対する批判の根底にあった不満でもあったでしょう。
倫理(論理)的にはあり得るかもしれないが、実際その場にいたならば、服従を拒否できたのか?考え続けることはできたのか?
そんな人ばかりではないだろう。
厳しすぎる。倫理的過ぎる。
実際の論争において、アーレントはその場にいなかった者にそんな批判を許す余地はないとも批判されます。
この種の批判は、「戦争経験者でないものに当時の戦争責任を問う資格はない」という形で我が国の戦後責任論で問題化されたこともあります。
さりながら、当事者しかその責任は問えないのでしょうか?
この問題は別の機会に譲らなければなりません。

それはそれとして、「考える」強さをもったものだけに通用する理屈というのは、やはりどこか強者の論理ではないかという疑問は払しょくできません。
ならば、「考えることが苦手である人をどうサポートするかが重要なのではないか」
そうした建設的な意見が提起されました。
こうした問いかけは、それまで考えることの大切さを説く意見が多かった中で、異質な問いかけでありながら、重要な問題を提起しているように思われます。
「考える」ことが人間の尊厳だとしても、しかし実際に考えることが苦手だと感じる人にとって、けっきょくそれは単に責任を課すプレッシャーにしかならないのではないか。

この意見を聞きながら、私はかつて同僚だった教師から言われた一言を思い出しました。
「自分で考えるということができない生徒にとって、君の「自分で考えるのが大切だ」という主張がどれだけ意味あるのかね?それよりも人並みの仕事に適応することに精一杯の人間にとっては、その適応の仕方を教えれば十分なのであって、徒に君の言うような要求をしたら、彼らは混乱するしかないだろうし、そうなれば不幸な人生になってしまうじゃないか。」
この問いに対して、いまだ明快な答えを持っていうわけではありません。
しかし、教育に携わる者にとって、この問いは避けて通るわけにもいかず、実際、教育現場では常に躓きの石になっていると思います。
いったい考える強さ/弱さとは何か。
それは万人に求めるわけにはいかないのか。
「考えない自由」だってあるじゃないか。
実際、3.11直後からしばらくは被災地の人々にとって考えることを強いられるのは、一種の暴力を振るわれることに等しい思いがしたものです。
すると、考えることに人間の尊厳を見出してきたこれまでのカフェの展開を、一度根底から転覆させる必要があったかもしれません。
残念ながら、この疑問はカフェの中で思いつくことができませんでしたが、いずれ別の機会に問い直してみたいものです。

さらに、「自分はいいとして家族に危害が及ぶ可能性がある場合には、どんなに思考や発言を強くしようとしても、その力を奪われざるを得ないではないか」との意見も出されます。
この選択肢のない状況下でのジレンマを、原発事故後の福島に生きる人々に還元してながら、「ここに留まらざるを得ないという選択肢のない状況下で、どうやって思考の強さを持続できるのだろうか」という切実な問題と結びつける意見も出されました。
考えることで疲労困憊。
もう、放射能や原発のことは忘れたいよ。
もっと明るい話をしようよ。
そうした被災の痛手に参っている被災地の3年目は、思考の体力を悉く奪われた段階に差しかかっているのかもしれません。
そこでなお、考える勇気を求めることは酷なのでしょうか?
忘れる力も必要ではないか。
果たして、アーレントならばどう応えるのでしょうか?

こうした思考の強さと弱さをめぐっての議論が深められそうなところで、今回は残念ながらタイムアップとなりました。
当初、100名弱の参加者によって対話を執り行うことはほとんど困難であろうと予想されましたが、しかし初参加の方々ばかりであるにもかかわらず、ご発言いただいた方の多くは、ほかの発言者との異同を踏まえ、言葉同士をつなぐ努力をしながら対話をお楽しみいただけたとの印象を受けました。
まさに、カフェの中でご提示いただいたように、「思考の酵母」は他者によって触発され醸成されるものなのでしょう。

最後に、アーレントの政治思想の核にある「活動action」は、まさに他者とのこうした対話空間での発言speechや行為deedsはによって人間の自由は発現されるものであるし、全体主義とはこの領域の喪失とともに出来するというものです。
その意味でいえば、てつがくカフェのような空間は、まさに全体主義が社会を浸潤することに抗して取り組まれているものともいえますし、そこにおいてできる限り多様な市民の方々にご参加いただけることが、この社会の自由度のメルクマールになるものと考えています。
ハンナ・アーレントは筆者にとって、特別な思いのある思想家ですが、この福島という場において彼女の思想をめぐっててつがくカフェが開催できたことは、個人的にもたいへんうれしい出来事でした。
その意味で、フォーラム福島支配人の阿部さんには感謝してもしつくせませんが、なお今後ともてつがくカフェ@ふくしまは、可能な限りフォーラム福島さんのお力をお借りしながら映画でてつがくできる醍醐味を味わえる企画を実現してまいりたいと思います。
ご参加いただけました皆様には、今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

第3回シネマdeてつがくカフェが福島民友に取り上げられました!

2014年02月01日 00時37分46秒 | メディア掲載
 

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既に「参加者感想」で紹介されましたが、福島民友新聞で第3回シネマdeてつがくカフェが記事として取り上げられました!
福島でも異例の参加者数だったことは、すでに報告した通りです。

さて、昨日は映画『ハンナ・アーレント』上映最終日でした。
その日、ワタクシ(渡部)は授業で教える高校生12名と一緒に観に行きました。
他校の生徒もちらほら散見されます。
いったい、『ハンナ・アーレント』を観ようとする高校生が目立つ映画館など全国にどれだけあったでしょうか!
しかも、哲学的かつ詩的な台詞ばかりだし、ストーリーも難解なこの映画は、ある程度時代背景やアーレント思想を知らないと難しいかなと心配もありました。
しかし、鑑賞後の高校生たちの感想は「難しかった―!けれどすごくおもしろかったー!」というもの。
知的な難しさを味わいながらも、この映画の醍醐味を味わえるというのは、高校生の感性の豊かさと同時に、この映画がいかに成功しているかを物語っている証拠でしょう。
とりわけ、最後のアーレントによる7分間の演説は圧巻だったようです。
これは、アーレントが若い世代にこそ響く思想家であることの証でしょう。

なぜ、いまアーレントなのか?
その理由は若い世代ほど感受していることを思い知らされたものです。