てつがくカフェ@ふくしま

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てつがくカフェ@ふくしま報告2022.8.20. 「お墓は必要か?」

2022年08月22日 16時20分13秒 | 定例てつがくカフェ記録
8/20(土)に開催されたてつがくカフェについて

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には15人、オンラインでは7人の計22名の方にご参加いただきました。






「お墓は必要か?」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。


【お墓について】
・最近納骨が済んで、一区切りついたなという感想なのですが、そうした経験から最終的なお墓というか弔い場所は必要だと感じた

・お墓をどう考えるか。墓地に石があって仏教の場合は火葬したり、遺骨をお墓に移す。キリスト教の場合は埋葬するなど、宗教によってお墓はいろいろあると思う。例えばチベットとかは鳥葬などがあり、他にも風葬や散骨などの弔い方もある。それぞれがイメージをしてお墓が必要か否か考えるのが先かなと。つまりお墓は何なのか?ということ

・今回のテーマを考えると、違いは何かしらの宗教施設というか、宗教団体なのか市営のものかによって違うので、どう考えるかというのは宗教との向き合い方になるのではないかなと

・墓とは何か?ですが、自分は幼くして我が子を亡くしまして、墓掃除のために毎週通っている。それは自分のためにしているというか、そこに子どもが存在しているわけではないのは分かっていますが、いつまでも愛しているという想いで通っていまして。きっと伝わるだろうと。お墓は心の整理を果たしているのではないかなと

・終戦記念日が近いこともあって、考えたのが戦争でお互いに戦っている人たちについて。殺し合いで自国の兵隊同士は遺体を埋葬したりするが、敵の兵隊が亡くなったときほっぽらかしている。最早お墓どころの話じゃないなという感想です

・墓はいらないというのが自分の意見です。遺体を焼く焼かないとか色々宗教によって違いがありますが、死んでしまったら無だと思っていて。お墓は残された人のためにあるものなのかなと。今までの日本であればお墓が必要ということでしたが、お墓を作らない国もある

【お墓は誰のため?】
・お墓は生きている人のため=主な目的なのかなと思います。たまに亡くなった友人のお墓に行くのですが、それは自分のためなのかなと思っています。あとウクライナ兵のお墓は作るが、ロシア兵は作らないとうのは、ある意味見せしめみたいなものになるのではないかなと感じました

・自分が死んだらどうかというと散骨を希望している。ただ自分の子どもが価値観として墓参りしたいのなら作ればいいかなと思っています

・話を聞いていて思ったのは、生者のための意味合いが強いのかなと。死者のためでもあるのは、それは亡くなった人の意見を伺えないからというか、考えられないわけで。ただ、死んだ側にとってのお墓の意味もないわけではないのかなと思います

・私の父は生前から終活をやっていまして、遺言も財産も土地も全部決めていた。私がやることないくらい葬式もお墓も全て父の願いのまま弔ったので、そうなると亡くなった人のものとしても考えられるのかなと

・子どもの時から墓参りが嫌いでした。夏の暑い中、行かなければならないのが苦痛だった。なので自分の子どもにはそういう思いをさせたくないと思っていて。けれど、嫁ぎ先では先祖を祀る意識が高くて、その考え方に違和感を覚えていて。また名字についても違和感があって、何か家に取り込まれているというか。あと年代によって考え方も違いますし、経済状況も違う。私は亡くなったら、医学生のために解剖に使われてほしい。私の遺体はお墓に戻さなくてもいいという意見です

【死んだらどうなる?】
・今回は非常に興味深いテーマだなと思って参加しました。自分が考えたのは、死んだらどこへ行くのか?ということです。それは今も分からないのですが、生きている人間側がどう捉えるかということかなと。真実は誰にも分からないので、自分自身で墓を用意するとかすると捉え方が変わっていくのかなと思っています。死んだらどうなるかを考えていくと、すごく深い話になるなと。建てられたお墓のある場所にずっといるのか。亡くなった場所にいるのか、飛び回っているのか。大ヒットした曲の歌詞にお墓にはいませんとか言っていましたが、死後結局どこへ行くのか?皆さんの意見を可能ならお聞きしたい

・死んだら何もないというのが私の意見です。骨とかの物質だけが残る。なのでお墓なんかどうでもいいと思っていて 父の墓参りにいかなければならないとは思っていない。また父の魂が見ているとも思っていない。ただ自分の心の整理のためというのは理解できる話なので、何かしらの手段として墓はあるのかなと思っています

・自分が成人式を迎える一週間前に祖父が亡くなった時、葬式やら墓代やらで300万程かかったと聞いて、人が一人死ぬとそんなにかかるのかと当時驚いた記憶がある。その後、新しく建てた祖父のお墓に連れられて供養した際に、そのお墓に自分も入るということを聞かされ、縁もゆかりも無い土地のお墓に入るのかと違和感を覚えた

・日本においてお墓不要論は少数派の意見かなと思う。死者を前にしてそのままにしていたら、腐っていく。それをほっぽっておくわけにはいかない。心の問題というか、納骨をする、供養するということが、魂を考えていることになるのかなと。心と心の交流というか死後の世界や亡くなった方の魂について信じているというか。なので、お墓は死者と生者両方のためと感じている

・亡くなった人が思い出さなくなったら二回目の死を迎えるというのを聞いたことがある。あと葬式やお墓は死んだ人に請求されるものというか、結構な額を払う訳で。何回忌というのも払わないと紙を張り出される。お墓は本当に心をいやす場所ではないという印象です

【お墓の役割】
・昔は死んだら共同の山に土葬されていた。自分が子どもの頃は皆がお墓を持っている時代ではなかった。親戚の家に入れさせてもらっていたり、お墓を買う予算を作って引き取るというそういう時代もあった。お墓は作らなければならないという固定観念はあったが、その考えはそんなに古くはないのではと思う。元々仏教でお墓は絶対に必要ということは言っていない。拠り所があったからとか、単純にビジネスとして儲かるからなのかなと。土地も高いし、誰のためにお墓が必要なのかと考えると、それは両方のためじゃないのかなと思う。ただ遠いのでお墓参りに行けないとか来られないというのもある。その時、住職に相談したらお墓の方角に向かって拝むだけでもよいと教えてもらった。要は意識を合わせるというのが、本来の目的なのかなと思います

・心の話や魂の話になっていますが、私は魂はあると思っています。それというのも心霊現象や不思議な体験をしているからで、何と言うか意識はできないけど違う世界にいるというか。その波長を合わせるためのモニュメントとして、お墓があるのかなと思います。亡くなった方と意識を合わせるのがお墓なのかなと

・親しい叔母が亡くなった時、不思議な体験をしまして。私は亡くなったのを知らなかったのですが、叔母が作ってくれた陶器のお人形が食事をしていたら突然風が吹いて倒れまして、その後すぐに叔父から電話があって亡くなったことを知りました。その時、叔母が会いに来てくれたのかなと思いました。小さい頃可愛がってくれて、その後何十年もあっていなかったのですが。それと死は誰にでも訪れるもので、漠然と怖いと言ってられないのかなと思います。死の解釈というか、今後個々に考えていくことが必要になってくるのかなと思います

・死者は遺骨は残すが、現実はその後処理をしなければならない。若い頃はいらないと思っていたがそうは言ってられないというか、段々と変わってきた

・お墓の役割として、効果があるのは親戚筋の大義名分ができるのかなと思います

・お墓も仏壇もそうだが、お線香をあげて煙を見ていると慌ただしい日常から切り離される。なんでも脳波が変わるらしく、別の意識とつながりやすい状態になるそうです。手を合わせると意識をつながりやすくなるとか。あとは、おりんという鐘の周波数も意識と意識をつながりやすい場を作り出す装置というか。三次元と四次元をつなげるための役割としての存在と捉えるのかなと。そう考えるととても良いものなのかなと

・お墓は家族制度の中で守っていかなきゃならないものなのかなと思っています。自分のおばあちゃんがすごく気にしていて、それがすごく重いなと感じます。兄弟が女しかいないので、みんな嫁ぐと墓守がいないというか。自分はお墓参り楽しかった思い出がありまして、山の中に共同墓地みたいな所に行ったり、畑の横にお墓があって、そこにお米を持っていくとか、花を飾っていて先祖がこんなにたくさんいるんだ思った。お墓参りは先祖を知る良いシステムだなと思うが、お墓の問題が絡んでいると難しいのかなと

・先ほど、墓は要らないが墓的な物が必要という話がありましたが、それってどういうものを言っていますか?
→弔うものは必要というか、死者の記憶がある人にとっては必要だろうなと思っています。けれど、それを行うのは例えば、物理的に遺骨がある必要はあるのかとか思っていて。お墓の一番の問題は土地がついてきてしまうことだと思っています。何も土地と縛り付ける必要はないだろうと。自分が今住んでいる家から遠い場所にあるお墓に毎年は行けない。墓移しも墓じまいも面倒で、骨壺持って移動してもよいと思っています

・Twitterのアカウントとか、その人らしさというか考えや思想が知れるので、そう考えると何か図書館の本とかもお墓っぽいなと感じています

・自分の地元は田んぼと墓地しかない場所でしたが、段々と田んぼは無くなって新興住宅地が建てられるようになってきた。けれど墓地は減るどころかむしろ増え続けている。このままだと墓地だらけになるのかなと危惧している。先ほど畑の横にお墓があるとお話しされた方がいらっしゃいましたが、正に自分の地元もそんな感じで、畑や田んぼの中に墓地があって、それを避けるように歪な形で道路が引かれている。墓地を移動することもできないので、区画整理や都市開発の弊害になっている。何かしら圧縮させたり、お墓に代わる別のものを考える必要があるのかなと思います

・亡くなった友人の話で、友人の両親がお墓を建てた訳ですが、もし彼を知る人がいなくなったら世話してくれる人がいないなと思って。故人の好きだった場所にお墓を建てるとかしているが、それに意味はあるのかな思ってしまって。もっと簡易化したものというか、時代や状況に応じてコンパクトにできないのかなと

・故人の想いも大事だとは思いますが、生きている人たちの生活圏を圧迫する形で建てるのはどうなのかなと思っています。例えばアイクラウドのような形を取るとか。スマホが水没して動かなくなった場合でも、ネット上にはデータはあるので、他の機種に変更しても前のデータを読み取れるみたいな形というか。死者のデータがネットに保存されている状態であれば、インターネットに繋いで故人の音声や顔写真などで故人を偲ぶことも可能かなと。わざわざ故人の墓地に行かなくても済むし、土地の問題や維持費などのお金の問題もクリアされるのかなと思います

上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







次回のてつがくカフェは、

9月17日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「自由とは何か?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

該当記事の「Zoomミーティングに参加する」の下の

URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。

会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。


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