てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第12回カフェ報告

2012年08月28日 20時27分46秒 | 定例てつがくカフェ記録
  

気温35℃を越える猛暑のなか、いつものアオウゼで第12回てつがくカフェ@ふくしまが開催されました。
このような猛暑にもかかわらず、15名の参加者で「愛と恋は何が違うの?」をめぐって活発な対話が繰り広げられました。

いつものように自由な意見を出し合いながら議論が展開されるかと思ったのですが、さすがに今回はテーマがテーマだけに皆さん、なかなか発言しにくい様子です。
そんな中、ある参加者から愛は恋の延長線上にあるのか、それともそもそも別の事柄であるのかを問いたいとの提起がありました。
その問題提起者によれば、愛という場合は家族愛や兄弟愛のようにその対象に広がりがあるのに対し、恋は異性愛あるいは同性愛のように対象が限定されているのだから、それらは別の事柄ではないかとのことです。
あるいは、愛が相手を大切するものであるのに対し、恋は憧れの様に自分中心のものであるとの意見も示されます。
なるほど「愛し合う」という言葉はあっても、「恋し合う」とはあまり言いません。
その意味で言えば、愛が相互行為であるのに対し、恋は一方的であるイメージがあるようです。

それに対して、別の参加者からは、恋が愛に成熟し最終的に結婚や家族に至るというイメージがあるとの意見が出されます。
いわゆるプロテスタンティズムの恋愛-結婚観ともいえるこのモデルは、戦後日本社会に広まったロマンティックラブイデオロギーそのものですが、そのイメージを抱いている人は社会の多数派ではないでしょうか。
ところが、これに対しては別の参加者から、「愛しているがゆえに別れることもある」という意見が出されます。
つまり愛しているからといって、その最終形態が家族であるとは限らないということです。
これもまたあいてのことを考えるならば、別れることが愛の実現であるという利他的な意味が込められています。
その参加者によれば、恋という状態が身体的には胸の辺りに上下前後左右に動きのある感覚であるのに対し、愛はみぞおちの奥に無限の広がりがあるような感覚であるとも言います。
そして恋が自分の中の様々な感情が動き回る落ち着かないものであるのに対し、愛とは平穏で不動の境地であるとのことです。

また、動物に対して恋はしないという問題をどう考えるかという論点も提起されました。
つまり、人間的なものにしか人は恋をすることができないのではないかという問題です。
しかし、これに対しても基本的にペットを手に入れるときに「かわいい」とか「手に入る」感覚に喜びを得る感情は、「恋=請う」という語源からしてやはり恋ではないかとも言えそうです。
したがって、恋とは相手の気持ちがどうにもならないことが前提であり、ないものを欲しがるような状態のことを指し、それゆえに恋は基本的に片思いであるのではないかということになりそうです。

さらに、感情が動き回る恋の状態は、基本的に不安と恍惚が同居するからではないかとの意見も出されます。
これは言い換えれば、恋する過程では自分と相手の関係の中で自分を見つめなおしたり、自分を再構築するがゆえに揺れ動くことと関係するとのことです。
その際、私淑という言葉にあらわされるように、恋とは一方的に相手をリスペクトする営みであり、それはひょっとすれば異性愛や同性愛、あるいは性愛を超えた関係においても実現しうるかもしれません。
ただし、その発言によれば恋の関係は基本的に二人でのゲームのような二人関係で営まれるものだといいます。
これについては、同時複数で恋することは可能か不可能かという議論を巻き起こしました。
参加者の経験談から、男性(女性)の浮気問題など、同時に複数の相手に恋することは可能か、それともそれには限界があるのかといった興味深い論点が深められたものです。
中には、それまで未経験であった同時複数恋愛の経験を経た後、「恋愛は1対1の関係性」という摺りこみが変容させられたと語る参加者もありました。

こうした議論の展開の中、ある参加者からは恋は基本的に「相手にやられてしまうもの」であり、あくまで相手発のものであるとの意見も出されました。
その意味で、恋は自発的というよりは、むしろ自分に先立つ何者かに触発されることを始まりとし、その触発するものに執着してしまう状態ではないかというのです。
それに対して愛は相手のためを優先させる状態だというわけですが、さらにそのことをキリスト教の「無償の愛」(アガペー)にまで結びつける展開になりました。
ただし、
その場合の無償の愛とは、「見返りを求めずに与えるだけの愛は神にしかできない」という宗教上の解釈に躓くとの意見も出されます。
その意味で、「無償の愛」とは理想化された愛であるというわけです。
それに対して、ある参加者は募金やボランティアにはけっして見返りを求めて行っているわけではないのだから、それは十分人間的な行為であるといいます。
たしかに、募金やボランティアが自分の利益となることを見越して行うことに、私たちは偽善性を覚えます。
だからこそ、募金やボランティアに自覚的に自己利益の追求を意識化しないことをわれわれはよしとする文化を持っています。
しかし、厳しく言えば、そのような行為によって満足する自分がいるとすれば、それもまた「見返り」なのではないか。
そのような指摘も出されました。
つまり、「見返り」を自覚しなくとも結果としていかなる満足感も払拭できないことこそ、人間の愛なのではないかということです。
逆説的に言えば、人間は自ら不幸になるために自己犠牲的にならない限り、神の愛に近づくことができないという点で有限性を払拭できない存在だということでしょう。
子どものために自ら死を賭す母親などは、その神の愛に限りなく近いものといえるかもしれません。どうでしょう?

こうした愛については、ある参加者がふと街を歩いていると、そこにいる子どもたちが皆「我が子」に思えてしまったという経験が語られました。
これは一種の啓示といってもいいのではないでしょうか。
たしかに3.11の震災を経て、あの出来事を映し出す様々な場面を見て、名も知らぬ人へ共感せざるをえない経験をしたとすれば、それは「人類愛」の啓示とでも呼ぶべき経験ではないだろうか。そのような意見も出されました。

こうした人類愛といった壮大な規模の愛について議論が展開したとき、ある参加者から「それでは愛の強い人は恋ができないのではないか」という問題提起がありました。
当初、愛は恋が発展したものであるというイメージが語られましたが、これまでの議論を経て愛と恋は別物どころか、むしろ対立するものとして立ち現れています。
これは男女愛や同性愛ではなく人類愛という、より高次の愛について論じるからそうなるのだという異論も出される一方、いやそれぞれは別ではなくむしろ行動において利他的であるという意味では同じであるという意見も出されました。
はたしてこの問題を読者はどのように考えるでしょうか?

カフェの終盤、落語の「芝浜」にこそ、究極の愛が立ち現れているという意見が出されました。
ストーリーはさておき、そこには夫の弱さを見つめる妻と、その妻が自分の弱さを見つ直すことが描かれているといいます。
この他者への眼差しと同時に自分の再構築を同時に可能にさせる営みこそが、究極の愛であるという事でしょうか。
さらに母親との関係こそが恋や愛の関係のベースとなるという意見も出されました。
これについては、子育ての愛情のかけ方でその後の人生が変わったり、幼少期にかけられなかった愛情も、必ず事後的にかけ直す事ができるという経験談も補足されました。
たしかに、幼少期の愛情がその人の存在の根底を基礎づけるという事は否定できないでしょう。
しかし、世の中には、その愛情をかけすぎたがゆえに破綻する人もいれば、どのような愛情がその後の振る舞いを決定付けられるかということについては、もう少し丁寧に腑分けして考える必要があるでしょう。
さもなくば、単なる愛情イデオロギーですべてが決定付けられてしまうことになりかねません。
その意味で「愛」をめぐってはまだまだ議論を深める必要があるようです。

今回は幅広い年齢層から様々な個人的な経験談や恋愛観を生々しく語っていただく場面もありました。
そうした個人的なことは語りにくいこともありますが、それが誰にでも伝わるように言葉を磨いていくときにこそ、そして相手に伝わったときにこそ、哲学の力が発揮されるのだと思います。
次回もまた刺激的な対話が実現できることを期待します。 

第12回てつがくカフェ・参加者感想

2012年08月26日 12時02分37秒 | 参加者感想

昨日、第12回 「てつがくカフェ@ふくしま」 がA・O・Zにて開催されました。
参加者は15名。
夏休み中ということもあってか、常連の皆さんからもけっこう不参加の連絡をいただきましたが、
県外から新たな参加者にお越しいただくなど、少数精鋭、熱い議論が交わされました。



テーマは 「愛と恋は何が違うのか?」。
このところ堅いテーマが続いていたのに対して、
もうちょっと取っつきやすいテーマをというご要望にお応えして、
久々の艶っぽい論題となりました。
最初のうちは皆さん様子をうかがう感じでしたが、最終的には非常に突っ込んだ討論ができました。
毎度のことながら結論が出たわけではありませんが、
世話人的には、恋と愛について相当頭のなかを整理できたように思っております。
今回も少ないですが、参加者の皆さまの感想をご紹介しておきます。


●私は恋を一面でとても良いものだと思うし、愛はそんなに絶対的とも良いものとも思ってなかったのですが、色々な方の様々な考えを聞いて、考えが広がったように感じます。

●初めてこのような会に参加いたしました。哲学ということで、どんなことをお話しするのかなーと思っていたのですが、身近な話題で考えやすかったです。おもしろい会だと思います。県外に住んでいるのですが、このような会がいろんな所であったらまた参加してみたいです。

●恋は相手にやられてるに一番共感しました。

●全然てつがくでないことばかり考えてしまって、今日はダメです。執着したいです。つまる恋がしたくなりました。

●恋と愛はやっぱり違うと思います。いろんな意見を聴いて、恋と愛の時間的・空間的な広がりを感じました。でも、どちらも感覚的なものな気がするので、定義するのは難しいかもしれません。


皆さま、今回も熱い討論をありがとうございました。
討論の中身は近々アップさせていただきます。
今後は、9月29日10月27日11月23日12月23日に開催予定です。
9月と10月についてはA・O・Zを取れなかったので会場未定ですが、
テーマや会場が決まり次第、またご連絡させていただきますので、
今回参加できなかった皆さまもぜひお越しくださいますようお願い申しあげます。