てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま番外編―なぜ私たちはてつがくカフェに集うのか?―のご案内

2013年09月26日 23時13分31秒 | 開催予定
てつがくカフェ@ふくしまご愛好の皆様へ

いつもいつもてつがくカフェにご参加下さいましてありがとうございます。
また、ご参加いただかなくても、ご興味がおありの方々も同様にありがとうございます。

さて、てつがくカフェ@ふくしまも初開催以来、早2年半が過ぎました。
開始当時はいつまで持つのかはなはだ心もとない不安がありましたが、ご参加いただけた皆様の熱意により、益々活況を呈しております。

そこで、世話人の小野原と渡部はこの段階で、一つてつがくカフェの意義、もう少しいえば福島でてつがくカフェを開催してきた意義について論文、あるいは書籍という形で考えをまとめてみたいと思っています。

つきましては、いつもてつがくカフェにご参加いただいていらっしゃる皆様の声を聞き取らせていただければ幸いと思い、番外編として「なぜ私たちはてつがくカフェに集うのか?」というテーマの下、話し合える場を設けさせていただきます。

これは通常のてつがくカフェというよりも、世話人たちが皆様に質問をするという形式で、なぜてつがくカフェに集うのか、魅力を持つのかなどを聞きながら、大げさに言えば現代社会におけるてつがくカフェの意義を提示したいという思いがあります。
実に、2年半の間に多様でユニークな方々に多数ご参加いただきました。
その一言一言を聞くにつけ、人間の多様性に驚かせていただいたものですが、こうした現象は現代日本社会に広がりつつあります。
何がてつがくカフェに惹きつけられるのか?
もちろん一度も参加されたことのない方でも全く問題ありません。
てつがくカフェに何を求めているのか、そのことをできるだけ多くの参加者の皆様にお聞かせいただければ幸いです。
また、この日にご参加いただけない方も、もしご都合が合えば別日時の会合を設定することも可能です。
ご不明な点も併せて、下記の問い合わせ先にご連絡くださいますようお願い申し上げます。


開催日時 : 2013年10月20日 (日)14:00~16:00

場 所 : サイトウ洋食店 福島市栄町9-5 栄町 清水ビル2階・℡024-521-2342

参加費 ドリンク代300円

事前申し込み :当日参加は自由ですが、できるだけ事前に参加の意思の有無を下記の問い合わせ先にご連絡いただければ幸いです。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp

第18回てつがくカフェ@ふくしま開催の報告―「結婚?する?したい?しない?」―

2013年09月22日 06時54分19秒 | 定例てつがくカフェ記録
 

第18回てつがくカフェふくしまは、「結婚?する?しない?したい?」をテーマに昨日CafeDining agatoにて開催されました。
今回はオーナーの「はぐちゃん」のご協力で、agatoでの初開催となりましたが、とても素敵な空間で、これぞ哲学する〈カフェ〉といった感じです。
どうしてもAOZ(アオウゼ)の研修室では「お勉強してます」という感じになりますが、agatoはサイトウ洋食店と同様に大人の隠れ家(ではないのですが)的な雰囲気たっぷりです。
そんな素敵な空間に今回はテーマが「結婚」だったせいか、常連欠席の連絡が多い中、なんとこれまで最多に匹敵する24名の方々にお集まりいただきました。
うーん、やはりテーマって大事なんですね。

さて、その結婚についてですが、議論は白熱しました。
まず「パートナーの包容力でまっとうな人生を送れた」という意見を皮切りに、結婚の肯定的な面が語られるところから始まります。
破天荒な人間がパートナーの存在によって自分を受け止められるという経験が、かろうじて自分の存在が許されていることに結びつくことは理解できます。
それが「まっとうな人生を送れた」ということなのではないでしょうか。
このことを「人生の安定」という言葉で言い表した参加者もいますが、その方によれば「安定」が何を意味するかは多重的だといいます。
ある人にとってそれは波風の立たない平穏な人生=結婚を意味するかもしれませんし、逆にそれが退屈と感じる人にとっては波風が立つ人生=結婚であるかもしれません。
雨降って地かたまるという意味の「安定」もあるだろうとも言います。
ちなみに、その発言者は結婚生活を送りながら、40歳にして「これが私の人生なのだろうか?」と、ふと我に返り、現在離婚協議中とのこと。
結婚当初はこういうものかと、子育てに追われながらふと気づくと自分を見失っていた結婚生活とは何か問い直さずにはいられなかったと言います。
パートナーの存在があれば必ずしも安定するわけでもなく、自分の存在とどう折り合いをつけて結婚生活を送れるのか。
そもそもそれは両立しうるものなのか。

これについては事実婚を選択された方から、「相手と対等であること」を求めた結果、その選択に至ったとの意見が挙げられました。
そもそも、パートナーとの関係いおいて「お互いが愛し合っていればいよい」問題なのに、なぜ法律婚によって国家に認めてもらう必要があるのか。
とても潔いし、筆者自身もできればその選択をしたかったので、とても共感したものです。
そして、この選択に共感を寄せる人は、おそらく少なくないのではないでしょうか。
しかし、多くの人はその選択をしません。
なぜか。
それは「社会的な承認」という問題が立ちはだかります。

これはゲイやレズビアンカップルの法律婚を認めてほしいと要求する問題とつながるでしょう。
ある参加者によれば、ゲイ・レズビアンカップルが法律婚による承認を求めるのは、たしかに相続の問題もある一方で、社会的に認知してほしいという要求があるからではないかといいます。
そこには結婚していなければ迫害される歴史がありましたし、そもそもゲイやレズビアンが社会的なカップルとして存在することを排除されてきた歴史性と無関係ではありません。
その意味で法律的なパートナーシップの資格を得ることは、社会的にその存在を承認されることに等しいといえるでしょう

しかしこれは裏返せば、なぜ二人との関係性に社会的な承認が必要なのかという疑問が再び立ち現れます。
筆者自身は法律婚をしていますが、「偽装結婚」と称しています(こういうとパートナーはイヤな顔をしますが)。
それは、ある参加者が的確に述べたように、「世間の目」というもののためだけの選択を意味しています。
結婚していない男女が安穏と一緒に暮らせるほど、田舎の世間は甘くはありません。
カフェの議論でも意見が出されたように、田舎の事実婚への偏見は深刻であり、その差別的視線が子どもへ注がれることも当たり前です。
ある参加者が述べたとおり、「そんなストレスを子どもに与えるくらいならフツーに法律婚すればいいのに。子供がかわいそうだ」ということになるでしょう。
僕自身は、むしろ不当なのは、子供にそんなストレスや自己否定感を与える田舎の価値観の方であり、法律婚者の子だろうが事実婚者の子だろうが、その子自身が自尊心をもって生きられる社会を大人が積極的に構築しなければならないと思います(だいたいフツーって何だよ、という話です)。
が、にもかかわらず、残念ながら、その社会的圧力があることは認めざるを得ない自分もいるわけです。
パートナーシップには相手がいる以上、この圧力に自分一人が耐えていればよいというわけにもいきません。
自分の青臭い思想を貫いて、相手にフラれる覚悟があるほど硬派でもありません。
せめて二人の特異な関係性くらいは世間に放っておいてほしい。
そう思うがゆえに、法律婚を選択せざるを得ない「崩れ」事実婚主義者という意味での「偽装結婚」なのです。

かつて、アナーキストの石川三四郎は年齢の離れたパートナーである望月百合子との関係を、養女にして「娘」と世間に偽装していたことがありました。
いまでこそ「年の差カップル」などという流行語もありますが、当時はそれを世間が許さなかったことへのまさに「偽装結婚」だったわけです。
筆者自身を石川や望月に準えるつもりはありませんが、結婚にそれ以上の意味はないと思っていながら、しかし結果的にその選択が結婚制度を保守することに加担する後ろめたさが残るのも否定できません。
そんな選択を「もっと自由に生きればいいのに」と評されたこともありますが、地方(田舎)で生きるとは、そんな自己矛盾を演じ抜かねばならないということです。

そもそも、ある参加者によれば、結婚制度が「男の財産をどの子どもに相続させるかという目的」のためにつくられたものである以上、男尊女卑や封建的なイエ制度を内包してきた男中心の制度だという歴史性があることは否定できません。
それについて別の参加者から、現在の法律婚制度は中立的で差別的になってはいないのではないか、という反論も提起されました。
なるほど、女性の姓を名乗るのも民法上は認められています。
では、なぜ大半の女性が自分の名字を変更するのでしょうか。
そこにはあたかも「自己決定でしょ」といいながら、そう選択せざるを得ない社会構造が根深く残存する歴史性を考慮しないわけにはいかないでしょう。
それを女性の「自然な流れ」や「自己決定」と称するところに欺瞞が生じるのではないでしょうか。
これは夫婦別姓にすれば男女平等になる、といった議論ではありません。
議論の中でも、たとえば韓国の夫婦別姓制度は、彼の国独特のイエ制度を保持する目的があることが取り上げられました。
その点で、やはり結婚制度が封建的な歴史性を帯びたものであることを考慮して考える必要があるでしょう。

一方、こうした法律婚はやはり保守されなければならないという意見も提起されました。
この意見は過日最高裁判所で下された、婚外子の遺産相続に関する違憲判決(裁判長・竹崎博允長官)にふれながら、この判決が法律婚制度への挑戦であり、法的に保護された家族の利益に反するのではないか、とのことです。
この論点はカフェの中でもアツく議論されました。
これまで民法では、婚外子=非嫡出子の財産相続は嫡出子の半分とされてきました。
しかし、そこには事実婚/法律婚という親の選択の結果に対して、なぜ子どもが不利益を被らなければならないのか。
それは不当な差別であり、結果的に事実婚=婚外子を罰することになっているのではないかとの反論が提起されました。
それに対して、それでも法律婚によって自立した経済基盤を築いてきた家族にとっては、それを認められてはどこか正直者が馬鹿を見るような不利益を被るのではないかとの反論が出されます。
この最高裁判決は、一般に時代の変化とともに多様な家族形態を容認するものだと評されています。
すると、結果的には事実婚を容認することにもなるし、実はそれがこれまでの家族制度を揺るがすことへの不安も指摘されています。
ある参加者によれば、事実婚は「夫/妻の義務」を忌避して楽するための選択ではないかという意見も出されます。
すでにふれたとおり、法律婚すれば社会的偏見のストレスを受けずに済むわけだし、下手に変わった家族形態をとらなくてもよいではないか、という意見も挙げられます。
こうした法律婚肯定派の意見は、既存の家族制度の何かが変わることへの拒絶感があるように感じましたが、事実婚を肯定する意見も、すべての人が事実婚すべきだというのではなく、その形態をとりたい人にとって生きやすい社会の在り方を提起しているだけなのだ、ということです。
むしろ、法律婚を保守しようとする意義はどれだけあるのでしょうか。

これについては「子どもの養育責任の所在を明らかにするという点では法律婚の意義がある」との意見が挙げられました。
これは子育てと社会の観点からみると、とても興味深い意見です。
というのも、その発言者によれば「子どもをつくるのは自由で構わないけれど、その養育を放棄されては困る」という点で、やはり法律による確認は必要だからというわけです。
なるほど、ここには事実婚が横行すれば散種するだけ散種して、あとは無責任に養育放棄する男が続出するのではないかとの危惧が見て取れます。
すると別の参加者から、「そうであれば、むしろより一層社会全体が子育てを支えるシステムに進化していくのではないか」という興味深い意見が出されます。
両親が子の養育責任を担うという思想だけが強固に押し固められてきた日本社会にとって、この盲点を突く発想は意外と重要かもしれません。
そもそもその発言者自身が、現在はパートナーと別居状態でありながら、それぞれの親と同居し、二人の子供はそれぞれの家に分けているというユニークな家族形態をとっているそうです。
別居といっても、けっして夫婦仲が悪くなったわけではなく、ある時期に一定の距離をとりながらパートナーシップを生きることは、むしろ良好な関係性を保つ上で大切だとも言います。

実は結婚制度の是非を問う以上に、この「信頼できるパートナー」について参加者の関心の多くは集まったのですが、そこでは「互いに信頼感があって、腹を割って話せて、適度な距離が保てる相手」に出会えるのか、との点が話題に挙げられました。
ある参加者によれば、シングルでいながら結婚はしなくてもいいけれど、こうしたパートナーはほしいということです。
曰く、その根底にはこのまま独身でいることへの将来的な不安があるということですが、突き詰めていくと、そこでいうパートナーシップというのは同性の親友でもよいということになりそうです。
たしかに、子どもがいないがゆえに、老後の生活を一人で生き抜くことはシンドイことはあるでしょう。
ですが、これはそうした境遇にいる者同士が支えあうことで生き抜くことは可能です(筆者の友人たちは冗談半分ですが、一つの集合住宅に集まり老老介護をしようと目論んでいます)。
すると、いわゆる結婚という意味でのパートナーシップとは若干ずれが生じるのではないでしょうか。
それに対して、同性や友人関係とは異なるパートナーシップという点では、「セックスの独占」こそが結婚形態であるという面に注目しなければなりません。
セックスの有無が離婚訴訟に影響を与えることや、いわゆる不倫が損害賠償の対象になることは周知のとおりですが、すると社会的には結婚制度がセックスの独占を保護するという面があるわけです。
結婚制度を保守する立場は、この面を守ってほしいということなのでしょうか。
これで守られる利益とはなんでしょうか?
結婚を考えるうえでこの面は避けられないと思うのですが、筆者が問題提起した割には反応が薄く盛り上がりませんでした…

それはさておき、最後にアラサーの参加者から提起された「結婚で何が変わるのか?」との論点について。
結婚は、相手の親族が付加されるという点で、劇的に人間関係が変わるでしょう。
ある参加者によれば、自分の親とパートナーがどちらも良好な関係でいけるはずだろうと思っていたにもかかわらず、うまくいかないことが予定しない人生の選択(二世帯住宅など)になっていったといいます。
しかし、それが不幸なことかといえば、別の参加者によれば、結婚が親族やパートナーとの親密な関係において生じる困難を乗り越えることで、自分を成長させるかけがえのない出来事であるといいます。
さらに別の参加者によれば、自分とは異質な他者とぶつかる経験や出会いを保障する制度としては肯定できるのではないかといいます。
その参加者によれば、そもそも結婚は放縦な自分を束縛してくれるという面もあり、そこにおいてパートナーと格闘する不自由は決して不幸なことではないとさえ言います。
こうなってくると、自己束縛的な制度としての結婚が何か、自分を成長させるためのものとして肯定されているような意味合いがありそうです(とはいえ、この発言者自身は離婚を考えている人だったりするのですが)。

すると、にわかに「事実婚は家族役割を放棄するお気楽な選択だ」という意見が立ち上がってきます。
しかし、事実婚の選択が決してお気楽ではないことは、参加者の経験から明らかでしょう。
すでにふれたように、不必要な偏見を覚悟して生きることは相当な生きにくさを伴いますし、それが慣習的な家族役割を引き受けないお気楽さとは決して言えないでしょう。
問題は、その人にとって尊厳を保つ選択が、事実婚なのか法律婚なのかはそれぞれに尊重されてよい社会がつくられることではないでしょうか。
同性愛婚も同様です。
カフェの議論全体としては、それぞれ多様な家族形態のがあってよいとの意見に収斂していったように思われますが、それは異質な結婚観/家族観をもつ者同士が無関心にすみわけする相対主義的な社会ではなく、それぞれが尊重し合いながら共存できる多元的な社会が形成さることが大切なのではないでしょうか。
少なくとも若い世代が「偽装結婚」せずに、堂々と多様なライフスタイルに自尊心をもてる社会づくりをしていきたいものです。

2次会、3次会ではさらに過激な議論が展開されましたが、今回もまたユニークな参加者に恵まれたことに感謝いたします。

第18回てつがくカフェ@ふくしま開催のご案内

2013年09月05日 19時21分07秒 | 開催予定
今回のてつがくカフェ@ふくしまは、予告した日といつもの開催場所と異なります。
お間違えのないようご注意ください。


テーマ:「結婚? する? したい? しない?」

開催日時 : 2013年9月21日 (土)
※ コメント欄で9月28日開催と告知しましたが、けっきょく9月21日開催に変更となりました。悪しからずご了承ください。

開催時間 16:00~18:00

場 所 : agato(アガト)
     福島市置賜町7-5 パセオ通りアドニード121 2階 ℡ 024-523-0070

参加費 ドリンク代300円

事前申し込み : 不要 (直接会場にお越しください)

ご不明な点は下記の問い合わせ先までご連絡下さい。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


今回のてつがくカフェのテーマは「結婚」です。
つい先ごろ、非嫡出子(婚外子)の遺産相続分を嫡出子の半分とした民法の規定は違憲とした最高裁判所が、日本の家族制度を揺るがすのではないかとか、いや、新しい家族の在り方を肯定したのだ、など賛否両論が飛び交っています。
その家族制度の根幹をなすのが結婚制度なわけですが、昨今では「婚活」がブームになるなど、結婚を求めるけれどもなかなか結婚できない若者たちの悩みも問題化されています。
しかし、そんなに結婚はいいものなのでしょうか?
「結婚は人生の墓場だ」なんていう方もいらっしゃいます。
そもそも結婚とはなんでしょうか?
結婚に何があるのでしょうか?
今回のてつがくカフェ@ふくしまでは、「結婚とは何か?」をテーマに話し合いたいと思います。

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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てつがくカフェ@ふくしま世話人