てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま特別編5―「小さき声のカノン―選択する人々」―

2015年02月27日 06時59分55秒 | 開催予定
また、あの〈3.11〉がやってきます。
てつがくカフェ@ふくしまでは、この時期に〈3.11〉特別編として震災・原発事故をテーマとした哲学カフェを開催して参りました。
テーマは「いま、健康をてつがくする―福島で人間らしく生きるために―」、「あの日から1年、〈3.11〉で何が変わったか―震災・原発をめぐって―」、「フクシマはどこへ―絶望と怒りの淵から―」、「忘れる力は必要か?」と、その時々の問題意識に合わせて設定して参りましたが、
今回は、これまでとは趣向が異なり、フォーラム福島さんのご協力を得て、なんと、あの鎌仲ひとみ監督の新作映画「小さき声のカノン―選択する人々」を鑑賞し、〈3.11〉以後の福島/日本社会を考える機会を設けさせていただきます。
しかも、この映画は東京と福島で同日に全国初上映となります!
そして、なんと、鎌仲ひとみ監督もこの哲学カフェに参加して、一緒に語り合っていただきます!

この映画は、原発事故後に被曝から避難する人々/避難せずに福島へ残った人々の葛藤を中心に描いたドキュメンタリー作品です。
震災・原発事故から4年が経とうとしているにもかかわらず、「被曝」をめぐっては依然として解決の見通しが立っていません。
しかし、一方で、日常でその話題を口にすることも、ほとんどなくなっているのではないでしょうか。
そこには様々な思いがあるはずです。
この映画には被曝をめぐって葛藤するお母さんたちの「小さき声」が響いています。
この声に共鳴する方もいるでしょう。
他方、そこに不協和音を聴き取る方もいらっしゃるでしょう。
けれど、お互いにその立場立場において、「小さき声」を上げられずにいる葛藤があると思います。
今回の特別編では、各々の立場を超えて、その言葉にならない声を聴き合いながら、この問題をともに考えていく機会としたいと思います。
ぜひ県内外から多くの皆さまにご参加いただければ幸いです。

【日 時】2015年3月7日(土)
    上映時間13:30~15:40・哲学カフェ16:00~18:00 
【場 所】フォーラム福島
【前売り券】1,500円 
 
   ※ 前売り券ご購入の方には、映画には収録されていないインタビューが記録されている特典DVDが付いてきます。
   ※ 前売り券はフォーラム福島でもお買い求めいただけますが、こちらのメールにご連絡を下されば手配できます。
  ⇒fukushimacafe@mail.goo.ne.jp
   ※ 当日券は1,700円で、特典DVDは付きません。

【ゲスト】鎌仲ひとみ(監督)・牧野英二(法政大学教授)
【主 催】てつがくカフェ@ふくしま・フォーラム福島

スゴすぎる哲カフェ愛!―なぜ、哲学カフェに集うのか【その9】―

2015年02月24日 20時55分28秒 | 参加者感想
シリーズ「なぜ、哲学カフェに集うのか」に、ついに冊子提出がありました
なんと、表紙つきです
                  
しかも、図解入りです
                  

こんなに、哲カフェ愛たっぷりのレポートをお書き下さったYさんには感謝感激です

さて、肝心のレポート内容はこんな感じです。
ダイジェスト版でどうぞ


なぜ、てつがくカフェに集うのか?
楽しいからです。
何が楽しいのか⇒自分の欲求が満たされるので楽しいです。

1 他者の考えや意見、体験を知ることで、他者と自分への理解が深まる。
すると、私の世界が広がる。より広い知とより深い理解によって人生の幅が広がる⇒楽しい
この世界が広がったことで別のステージ、別の次元に立つ自分を感じる⇒喜び

2 究明して明らかになると、まさしく明るくよく見えるようになって⇒楽しーい
 軽くなった自分を感じて別のステージ、別の次元に立つ。⇒あー楽しい

3 仕組みがわかると、なーんだそういうことか。となって生きやすくなる⇒あー楽しい
やはり軽くなって、別のステージ、別の次元に立つ自分を感じる⇒楽しっい!

4 わたしという個の知、体験、洞察を話すことで、自分を表現できる⇒楽しい
それが誰かの何かの役に立つことがあるかもしれない⇒楽しい、うれしい

〈自己愛〉たくさんの他者と出会い、他者の考えや体験を聴き、より広い知と深い理解が得られ、いくつもの意識、心の変化を経ながら私が拡大していく。そんな私が好きでそれが楽しい。そんな場が好きで、その楽しい場に出かけていく。1~4が満たされますから、満たされるまで行かなくても、私の知的好奇心や知的興味を遊ばせることができますから、それは楽しいことなのです。喜びです。つまりは、自己愛だと思います。

〈知ることと理解〉
私は自分が存在しているこの世界(見える世界と見えない世界の両方)の全体像を知りたい、把握したいという強い欲求を持っています。
また自分という個をこの世界に表現したい、個を表現することが私のできるこの世界への【宇宙への】貢献の一つだと思っているので、それらを満たす場、喜びを満たす一つの場がてつがくカフェ@ふくしまだと思います。

対話の場で自分や他者の意見や考えが通ることでもなく、また正しいとか、正しくないという議論でもなく、他者や自分が意見や考え、体験を表現することで、その場やそこにいる人々に揺らぎや気づきなどの化学反応が起きる。すると別の次元に立つ、それが楽しい。 

一人ひとりのオリジナルな意見、体験は必ず他者に貢献すると思っています。私は一般的な価値観とは違うものも持っているので、その点でも他者への貢献ができると考えています。私という個が不協和音を入れることで、新しい調和への一助となると思っています。

自分を与える喜び、自分を役立てる喜びがあるのです。

対話の場には、与えることと受け取ることの循環・交歓・交換があるのがいい。これは喜びです。

〈哲学とスピリチュアル〉
哲学をフィロソフィ愛知とみるとき、私が20年近く、宗教とは別なところで、マイペースで探求してきたスピリチュアルな世界と、その意味において同じです。

スピリチュアルな観点では、この世界・人間を愛(無条件な愛)と智(実体験として知ることや、知識、そこから得られた知恵、洞察)で見ます。

私には哲学の愛知とスピリチュアルな観点の愛と智が、おそらく本質的には同じことを意味しているのだろうと思えて、そこにも興味があります。

スピリチュアルな世界は、私たちにはまだ見えない、感じられないと思われている、見えない世界も含めた、幅広い次元を扱ったものです。

スピリチュアルな世界はとても数学的科学的な世界であると私は思っています。

スピリチュアルな見方では
・それぞれの個人はそれぞれの異なる才能(個性、個体差)エネルギー・波動周波数を持っている。
・人が集う時、それぞれがその才能(エネルギー・波動周波数)を持ち寄る。
・その才能(エネルギー・波動周波数)は、他者に貢献する(影響を与える。
・その貢献は多種多様の形をとる。

哲カフェに参加する前の自分より、参加後の自分の萌芽、意識が確実に拡大し豊かで穏やかになりますが、この体験は私にとって素敵な体験であり、楽しいものなのです。毎月その機会を得られることは、とっても“シアワセ”なのです。

スピリチュアルな見方では、1つの個体(人間)を一つの意識体とみるので、私という意識体の意識の周波数が変化して、新しい次元に立つチャンスを得ているのが“てつがくカフェ@ふくしま”という場です。

また、懇親会(2次会)では参加のm名さんの別の側面を見ることができますので、またまた、この世界の豊かさを知ることができて楽しいです。

〈快感を得る〉
・哲カフェで対話し、家に持ち帰り、色々と考えていると、ある時、洞察が生まれます。時々、洞察が私にやってきてくれるのです。
・この洞察まで行けたテーマの時は難しいパズルが解けたときのような快感があるのです。楽しくて愉快で満足な状態のワタシになります。

たとえば、「幸せって何?」の時は
誰かが〇〇〇の時に幸せって感じる。
誰かが△△△の時に幸せって思う。
と発言するのを聴いて、うんうん私もそう思うってうなずいて、相対的なの?って問いが出て。そうなのかなー。どうなんだろうって、普遍的であってほしいよっていう意見も出されて、私もそう思うよ。でもうまくせいりできなくて、グチャグチャしてて…

数日数週間、数か月あるいは数年過ぎたある日、パタパタパタってドアが次々に開くみたいに解けるんです。自分なりに応えに辿り着くんです。
なんだこういうことかー。最高!ってな具合に。

なので、「幸せ」の部分に関しては、ってもすっきりして、そこが明るく軽くなって「幸せ」ってことでは納得のぶれない自分を獲得しているんです。
ある日また揺らぐことがあるかもしれませんが、ひとまず私の輪郭の一部がはっきり見えてくるんです。

〈壊れる快感〉⇒私に合うやり方
・私は頑固な一面を持っています。また一方、柔軟性も持っています。
・私は拡大指向や変化し続けた欲望を満たすには、頑固なワタシを壊す必要があるでしょう。意図せず勝手に壊れますが。
・拡大指向、成長欲求が強くあるので、壊れることが快感になるのかもしれません。
・それぞれがそれぞれの視点を持ち寄り、全体となる。(全体を把握できる)
・それぞれの個体(個性)が集うことで全体が見えたり、新たなものが見えてきたりする(平面から立体的なものへも含め)。
★スピリチュアルな視点では…今回の人生では、私はここをtン等するよ。人生のテーマとしてここを選んだよ、ここが私の今回の人生の課題が達成されるポジションだよ、ということなので、誰一人同じ人はいなくて、70億の人すべてが、それぞれユニークな音罪で、その存在が無条件の愛の下に尊重されます。
・以前、オブジェでてつがくカフェはどう?なんて話が出ました。おもしろい!とその時思いました。私たちが在るこの世界を多面的・多重構造の複雑な世界のオブジェと見なすと、見えるものは体験は、その位置で多様に異なります。
・老若男女、違う環境にいる人々など自分とは異なる個体が集うことで、この世界の多面性が見えてくる。



・私一人では、この世界のすべてを体験することができないので他を(私のポジション以外の領域を)他者が体験してくれています。そうした他者がいて、その他者と交わることで席は全体像を露わにすると捉えます。
・70億の人がいるということは、私たちが70億に分化しているということです。70億の存在、70億の目、70億の心があって、全体となり、それぞれがその人ならではの独自な観点からこの世界に貢献しています。
・ですので、逆説になりますが、私たちは一つです。

★「ワンネス」という言葉がスピリチュアルの世界にあります。
綱の結び目の一つひとつが私たちで、すべての人はつながっているんだよ。全員で壮大なネット(織物)を作っているのだよ。というものです。
誰か一人が引き上げると(体験し意識が変化すると)周りも引きがっているのだよ。
一人の気づき、意識の変化は全体の影響を及ぼしているのだよ。
自分の体験気づき意識の変化は全体に影響を及ぼしているのだよ。
自分の体験、気付きを喜べ、そして他者の体験、気づきも喜べ、というものです。


★この世界の仕組みが知りたい、この宇宙のしくみが知りたい、人間の仕組みが知りたい、これで精神世界にはまってしまいましたが、この精神世界に私にしっくり合う答えがありました。そして、それはとても科学的な答えでした。
見える世界と見えない世界(まだ解明されていない世界)の両方の世界を扱う精神世界・スピリチュアルな領域(波動周波数の世界・多次元世界)に私を満足させる答えがありました。
                                                 
スピリチュアルな視点を取り入れたことにより、この世界の仕組みは、はるかに解明しやすくなり、より納得のいくものになりました。そしてなにより人生がより豊かなものに変化してきました。
この私の経験が私独自の観点から誰かのお役にたつことを望んで、哲学とスピリチュアルな世界両者の橋渡しができたらうれしいなと思っています。
また62年間の経験もここ哲カフェでお役にたてたらいいなと思っています。
そして、新しいスピリチュアルな道に要実のある友を募集しています。

〈趣意書〉
てつがくカフェ@ふくしまの趣意書はすばらしいなと思っています。
趣意書を呼んで、気持ちのよさを感じます。
趣意書を読んだとき、特にいいなと思ったところは、
●「自分との内なる対話」⇒私がよくやっていることなので楽しそう。
●「老若男女・社会的地位…対話空間の実現を目指しています」⇒私はこういう空間を求めていたのよねー。楽しそう。
●「種をまくことを目指します」⇒私を表現して、いろんなたねを撒いてこよう。楽しそう。
●「…拡散し、開花していく…」⇒対話の場で生まれた様々な種もまた、いつかどこかで誰かに花開くのは、これは楽しいよね。キャッホー!
●「一人一人御人生を豊かにするものだと考えます」⇒私の①~④が満たされると、心が(魂が)満ち足りますからとても楽しいことなのです。ヤッホー!(命が)喜ぶ。

ですので、
ここで楽しく自分を育てることができる 
ここで楽しく自分が育つことができる
と思ったのです。
ハイデッガーが「人間とは自己の存在を常に了解しつつ、その可能性を企てていくもの」と言っているようですから、私は私の可能性を(私の喜びを)企てて(意図して)いるのだろうと思います。まさしく自己愛ですよね。

今のこの自分が最終地点、慣性系とは思っていないので、毎瞬の「変化こそ私の人生」です。
頑固な部分もありますが、柔軟性もあるので変化を歓迎しています。
自分の変化が得られる「てつがくカフェ@ふくしま」は好きです。

★てつがくカフェ@ふくしまだから行くのであって、他の哲カフェであったら行くかどうかはわかりません。

てつがくカフェ@ふくしまの基本ルールと趣意書がつくるフィールドは、愛にあふれるフィールド(対等、同等の場)
配慮され育まれるフィールド
楽しくて素敵な場だなあと思ってます。

その趣意書とルールのフィールドを次に例えてみました。
世話人のおふたりが、父親と母親になって「私たちが見守っているよ」ってな感じで、大きな水槽を支えて、つつんでそばにいてくれる。
その水槽の中は愛と配慮で満たされている。
杉岡さんがおいしい水をジャボジャボ入れてくれる。
私たちはその中で、それぞれの在りようで泳いでいる。
そして育っている。
お二人は親として、子を育ててくれているのだなぁと思っています。


てつがくカフェ@ふくしまがあることに感謝します。
そこに集うすべての人々にも感謝します。
てつがくカフェ@ふくしまに愛をこめて Y  (完)

やっぱんつさんの哲カフェ参戦記

2015年02月22日 19時17分07秒 | 参加者感想
最近、哲カフェの参加感想をアップしていますが、どれもこれもとても興味深く、何度も何度も読み返しています。
お書き下さった皆さま、あらためて御礼申し上げます

と、思っていたら、なんと、『愛する人に東横インをプレゼントしよう』の著者、やっぱりぱんつさんが、ご自身にご参加いただいた第6回本deてつがくカフェについての参戦記をブログ(やっぱんつ.comm)にアップして下さいました

ご本人の承諾を得て、その一部をご紹介させていただきます。

・・・・・・

「え? あの本が課題図書なの?」とか

「っていうかあの本と哲学が結びつかないんですけど?」とかいう

心配とも混乱ともとれる声が聞こえてくるのだが

(っていうか私もその両方を感じたのだが)

でも実際、てつがくカフェに参加してみるとほんとうに、とにかくほんとうに、

「愛する人に東横インをプレゼントする」という話だけでは収まりきらない、

アカデミックでエキサイティングな対話が繰り広げられ、

私たち夫婦もとっても刺激を受けたのである。

どうエキサイティングだったのか、というと

とにかく話の広がり方が想定外であった。

だって、この本に登場する私たちのような「まったく趣味の違う恋人同士」的な

an・anっぽい浮かれた題材で盛り上がるのかと思ったら、

宗教や人種の違う者同士、などのディープでまじめな話になり、

またなぜ今こうやってテロが起きてしまうのか、

人は人を殺してしまうのか、などなど、

東横インの話から発展したとは思えない題材で盛り上がったのだから、

そりゃ想定外よ。

とはいえ別に、専門的なことや小難しい話をしているのではない。

職業年齢関係なくみんなとにかくひたむきに、

はぐれることなく対話するスタンスなので、

そういった意味ですっごい頭を使うのだが、

でもそれがまた、すっごい楽しいのである。

ほんとうの意味での対話、というのを初めて経験したかも。

休む間なく脳みそが働きますね。

受け取って、考えて、また伝えるのって大変だ。

・・・・・・


やっぱんつさん、ありがとうございました
また、ぜひ哲カフェにご参戦ください

なぜ、哲学カフェに集うのか【その8】

2015年02月19日 21時22分31秒 | 参加者感想
シリーズ・なぜ、哲学カフェに集うのか。
第8弾は、就職のため福島を離れたかつての常連さんからのメッセージです。
実は、彼は世話人の教え子さんでもあるのですが、耳のイタイお話も…

わたしがなぜ、てつがくカフェに集うのか。

私は、幼い頃から物事の細部までなぜ?なぜ?
を連発して親を困らせていた。一緒にニュースを見て為替の情報が流れているのであれば
「なんで毎日レートが変動するの?」「なんで世界は一緒のお金じゃないの?」と小学校入学前から親に聞いてみたり
国会の委員会で強行採決のVTRをみていると「なんでマイクをうばうの」「マイク壊れないの」「マイク壊れたらだれが弁償するの」
「なんで各々の放送局の名前が入ってるの」「マイクひとつで良いじゃん」と今思うと親はよく、そんなのしらないと切り捨てなかったものだ。
もちろん同じ事を小学校でも展開して当時の担任は困り果てて家庭訪問の際「いろんなことは教えなくてもいいのではないか?」
と言われた。

そんな私は、みんなで様々な事を共有したいだけなのに「君は物知りだね」といわれそのような事を話す場所がなくなってしまった。
私は考える事 それを共有・議論することが好きなのにそれができない。
議論しようとするだけで、君は頭がいいから、物知りだから と自分が思ってもいない理由で切り捨てられる。
そんな自分を受け止めてくれる場所がてつがくカフェだったので集うようになった。

てつがくカフェはフェアだ。どんなことでも話せる。年齢も立場も関係ない。
普段、目上の人が考えてることに自分の考えを付け加えたり、アドバイスをしたら生意気だと言われる。
議論をしたいために反対の意見を述べても怒られる。
てつがくカフェはそんなことはない。自分がうまく文章にしきれないことに対しても単語で発すると誰かが補ってくれる。
自分の知識を深めるために自分の考えと対(つい)の人も私はこう思うと言ってくれる事で自分の議論が深まる。
この自分の議論が深まるときこそ快感なのだ。

私は、てつがくカフェ@福島の世話人の方に高校時代、倫理の授業を習っていた。
倫理の授業の点数はすごく悪かった。今もだが、正直昔の哲学者が何をやっていたとか
なにを考えていたとか全く興味がなくて、それをテストのために丸暗記するのが嫌だった。
てつがくカフェで哲学書がテーマの時も本は読まずに参加した事もあった。
昔の人の考えを引用する事は大事で、哲学書を読む人を否定するつもりは無い。
私は、自分が起こっている物事に対して自分自身が考える事が大切だと思っている。
参加者たちと話をする中で考える方法、様々な見方を教えてくれ気付きをあたえてくれる
ものがてつがくカフェだと思い、これからも参加し続けると思う。

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その7】

2015年02月14日 22時35分06秒 | 参加者感想
哲カフェにこんな力があるなんて!
これも参加者の皆さんの力に他なりません!


わたしにとって、てつがくカフェとは自分のことを知る機会を与えてくれる大切な場所です。

最初に参加したのは、シネマdeてつがくカフェが開催された映画館でした。
冬のハンナアーレントは仕事の都合で観れず、その次の春に行われた「ある精肉店のはなし」を観て、そのあとの参加者の方たちのやりとりを聴き衝撃を受けたのです。
わたしよりずっと若い人も年上の人も、真剣に自分の考えをみんなにわかる言葉で力強く話していました。

わたしは、若いころは勉強が好きなことを恥ずかしいとかカッコ悪いと思い、人に話すなんてもってのほかで、自分のいる世界や未来について真剣に考えたり、世界観や思想などの考えを確立する努力を全くしなかったのです。
それをこのときはとても後悔しました。

一人で映画を観たことも実はその日が初めてだったのですが、終わったあとに感想などを知らない人たちと共有できるということは他に無いことなので、とても魅力的に感じました。

そのあと「人生をやり直すとは」というテーマで、通常の形式のてつがくカフェがありました。
その時はテーマに惹かれて参加しましたが、自分で想像していた以上に、みなさんが活発に意見を出し合っていたので驚きました。

わたしの友人はみんな明るくて、楽しい話にかわいらしく笑い合う人ばかりで、わたしはそれが居心地がいいとずっと思って生きてきたのですが、自分が過ごしてきた時間とは全くかけはなれた空間がそこにありました。

正直言って最初はなじめないだろうなと思いました。
わたしは難しいことはしゃべれないし、学歴もないので頭も良くないし、結局のところここは、人生がやり直せるかやり直せないか教えてくれるわけじゃないみたいだし…と少し暗い気分になったのです。

いま思えば、セミナーではないので答えや指針のようなものを提示されるわけではないところがおもしろいのですが、答えが欲しかったころだったので少しがっかりしました。

でも、てつがくカフェの二時間が終わって、そのまま飲み会に突入したのでなんとなく帰らず居座り続けていたころに、世話人の純さんが初参加ということでいろいろとわたしの話を引き出してくれたので
離婚しちゃったから行くところないので来てみたんです
と話したわたしに対してガハハーと豪快に笑って
「てつカフェへようこそ!!」
と楽しそうに言ったのです。
いまになってみれば、いい気分でニコニコと酔っていただけだろうとわかるのですが、その時はびっくりしたし、とても感動しました。
世間では離婚は珍しくないことでも、わたしはそれが2回目だったので、さすがに人より多いし落ち込んでいたのですが、そう伝えても同情やあわれみや、または好奇の目で見られなかったことが初めてだったからです。

きっとここの参加者の人たちが持っている、他人を判定するフィルターみたいなものが普通じゃないんだなと感じました。
というか、そもそも他人を判定するような目線など持っていない人たちだけが集まっているのかもしれません。
それはすごく貴重なことだと思います。

会が終わるころには、この人たちのところに一緒にいて、わたしが持っている「普通」という感覚から抜けたいなと思うようになりました。

今では参加することに何のためらいもなく、むしろバカなりに話題にきちんと参加できるように数日前からいくつも考えをまとめていくようにしているのですが、当日になると本当に予想できない意見がどんどん出てきて、わたしが考えていたこととは違う方向に進んでいくので事前準備はたいていムダに終わります。
それでも、ひとつひとつが今の自分の毎日にとても心強い光を当ててくれている気がします。

てつカフェに参加するようになって一番変わったのは職業です。
デパートで洋服を売る仕事しかしたことが無かったのですが、資格を取得したので3月から介護職員として福祉施設で働くことにしました。
これは完全にてつカフェの空間や、そこで出会った方たちの影響だと思います。
まだ参加歴は浅いのですが、それでも毎月、この場になじめるように誠実に毎日を消化しようと過ごしてきました。
自分はどう思うか、どう考えるか、脳みそをフル稼動して自分について掘り下げて考えていけば、たどりついた答えが何であろうと必ずわたしを肯定してくれる人たちがいる、それは何にもまさる宝物だと思います。
そのおかげでわたしは自分が本当に求めている新しい道を見つけることができたと思っています。

常連と自ら言うにはおこがましい身ですが、これからも対話を通じていろいろな方と交流を深め、わたしなりの人生観をきちんと構築していけたらいいなと思います。

どうかてつがくカフェがいつまでもこの福島に存在しつづけ、わたしのようにさまよっている人間を導く光でありますように。

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その6】

2015年02月14日 13時43分52秒 | 参加者感想
なぜ、哲学カフェに集うのか?
続々と参加された皆様より、ご回答をお送りいただております。
哲学カフェの意義とは?
皆様の文章を読みながら、日長考え込んでいるところです!


「『てつがくカフェ@ふくしま』にせっせと通う理由」

「てつがくカフェ」という集いが福島市で開催されていることは、新聞か何かで時々目にしていた。
哲学的なテーマについて珈琲片手に話し合うという試みを、面白そうだと感じていたものの、実際に参加するには今ひとつタイミングが合わなかった。
しかし2013年の冬、「てつがくカフェ@ふくしま」が『茶色の朝』を題材に開催すると、やはり何かで目にしたとき、今回はタイミングを言い訳にせず参加した方がいいのではないか、そう思った。

高校の教員をしている僕は、全体主義への警鐘を鳴らすこの本を教材として何度か取り上げたことがあった。
「他人の思考をなぞるのではなく、自分の頭で物事を判断すること」、「社会に違和感を抱いたとき、日常の多忙を言い訳にせず違和感を表明すること」、「自由とは無条件で与えられるものではないこと」。
この本がフランスで出版されたときの社会状況と、日本の社会状況にどこか重なるところがあるように感じていた。
でも、その理由もわからなければ、何をすればいいのかもわからない。
閉塞感と無力感を持っていた気がする。
何かできることはないのか、そう考えていた頃だった。
『茶色の朝』について話し合うらしい。
その本に興味のある人がいるかもしれないし、自分にも何か言えることがあるかもしれない、そう思って出かけた。

「てつがくカフェ」は楽しい。
「てつがく」とひらがなになっているだけあって敷居が低く、専門知識や哲学的知識の多寡を問うわけではないらしい。
よかった。そんな知識はないし。
会場で、木戸銭代わりに幾ばくかの小銭で珈琲代を払う。
幾ばくかの小銭というのもまた、敷居が低くていい。
そして、木戸銭と違って興行を見るのではなく、自分がその一部になる。

約2時間、テーマについて考え、何度かは発言をしてみる。
あらかじめ考えてきたことであったり、その場の流れで思いついたことであったり。
でも圧倒的に、他の参加者の方の発言を聞いている時間が長い。
自分と他の方とでは考え方がこんなにも違うものかと毎回驚き、それが当たり前なのだと今更ながら気付く。
一つのテーマに対して、実に多くの切り口があり、多くの意見がある。
決して共感できないとか、理解できないとかいうことはないのだけれど、それにしてもこの違いはどこからくるのだろうと話を聞きながらつい考えてしまう。
「育った環境が違うから」と山崎まさよしが歌う。
「そうか、おまえは、そこからやって来たのか。」と自分の立場のふるさとを見つけることもある。

結論がないことも気に入っている。
カフェが終わると、会場にあるホワイトボードは(それが電子黒板であったり、時にホワイトボードがなかったりもするが)、僕の意見も含め、その日に出された意見で埋め尽くされる。
でも、結論が出されるわけではない。
そもそも僕自身が、カフェが始まる前よりもずっと混乱している。
自分の意見が揺れ、自分の論拠を疑うようになっている。
心の中で反発を覚えていた他の方の意見に、いつの間にか共感していたりもする。
不思議だ。
でも、その混乱の中、「(どこかが)開いた」、「(何かが)深まった」、そういう感じが間違いなくある。
だから、混乱は不快ではない。

僕は「対話」を、「自分の意見を口にし、意見交換をしながら、自分の考えを確かなものとして深めていく過程」だと考えていた。
でも「てつがくカフェ」の「対話」から思ったことは、他の方の話を聞くことの方がずっと自分の考えを深めるきっかけとなる場合があるということ。
いきおい、自分のささやかな発言も誰かの深まりのきっかけになることを願う。
カフェが終わった後に拍手が自然と起こるのは、もしかして、そういうお互いがお互いを深め合っていくことへの感謝とか、そういうものだったりもするのだろうか。
ファシリテーターが「解散後もずっと考え続けていきましょう。」と言う。
実際にその後も考え続けることが多い。
運転中に思いついた考えを、慌ててボイスメモに録音することもある。
そうすると、一つのテーマに対して、かなり長い時間考え続けていることにもなる。
それなのに、結論は出ないし正答もない。
でも、それでかまわない。
ある物事に対して、性急に結論を出さず、じっくりと時間をかけて考える機会がある。
それは幸せなことかもしれない。

閉塞感や無力感は消えていないし、未だに震災について語ることは難しい。
でも、「どこかが開いた」、「何かが深まった」その感じを求めて、またせっせと「てつがくカフェ@ふくしま」に通う準備をしている。
「ずいぶんはまってるのね。」と、ある女の子に言われた。
そうなのかもしれない。

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その5】

2015年02月14日 12時52分19秒 | 参加者感想
なぜ、哲学カフェに集うのか?
なんだか、だんだん皆さん、文章が哲学的文学的になってきています。
それだけ哲学カフェへの思いが強いということでしょうか?
圧倒されそうです。


3.11の少し前に、『カデナ』という小説を読んだ。
血や土地に基づかない共同体、それどころか政治的スタンスも趣味も異なり利害さえ対立する者たちの共同体は可能だろうか?
保守的論客が「美しき日本の共同体」を賛美したり、サンデル教授が「共通善」を再評価するのとはちがう形で「共同体」を考えたいと思い、友人たちと議論をしていたその時期に3.11が起こった。
その時、人々は「うるわしき共同体」を称揚したが、僕には実感がなかった。

3.11後すぐに、親しい友人が「てつカフェ」を始めた。
それ以前から「てつカフェ」を準備していることも知っており、当初は僕はそれに参加するつもりだった。
しかし、1年もの間、「てつカフェ」に参加することができなかった。
その理由はよくわからない。
震災について、あるいは原発事故について、他人の前で語ることができそうになかった。
これらの出来事は僕を根っこの部分から揺さぶり続けていた。

やがて、僕は僕なりに語らなければならないと思うようになった。
その思いは焦燥に近いものだった。
これまで何のために無数の文学や哲学書を読んできたのか、もしこの時にこの出来事をめぐる言葉を紡ぎ出せないとしたら。
そんな思いにとらわれていた。

福島を去ろうと考えたことは二度や三度ではない。
僕の好きな、美しいふる里は損なわれてしまった。
山や川を見ても、それ以前のようには見ることができなくなってしまった。
しかし、結局僕は福島にとどまることに決めた。

3.11の時に、僕の住んでいる場所で「地域の共同体」は全く機能しなかった。
そのことでかえって、この土を共に踏みしめ、同じ空気を吸い水を飲みながら生きている人々は何らかの形で結びつく必要があると考えるようになった。
濃い結びつきでなくともいい、いや濃い結びつきでないほうがいい。

「てつカフェ」の結びつきはとても緩くていい。
参加しなかった時期にも、友人は僕を誘わなかった。
今でも、「てつカフェ」をここまで継続している友人に敬意をはらいながらも、気ままに参加して、好きなことを好きなように言っている。
議論ではないので、相手を説得したり論破する必要はない。
言いっ放しに近い意見もある。時には、「ちょっと待てよ」と思うことがある。
しかし一方で、議論という形式によっていろいろな大切なコトバが踏みにじられてきたのではないか、そんなことも思う。
「てつカフェ」という、どんな意見にも耳を傾けてみるというスタイルが僕に気づかせてくれたことだ。

蛍が明滅するみたいに、弱くても、そこここに光っては消える共同体が僕にとっての「てつカフェ」である。

なぜ、哲学カフェに集うのか【その4】

2015年02月14日 06時43分06秒 | 参加者感想
なぜ、哲学カフェに集うのか?
その4は文学的に書いてくださった常連さんのご回答です。
3.11。
裸の本当の自分。
寛容性。
それだけで哲カフェのテーマになりそうなキーワード満載です。


「てつがくカフェの寛容性」

ひとは常にマントを被る。
ハリー・ポッターもびっくりの透明マント。
マントでひとは周囲に同化し、被ってしまえばだれにもみつからない。
そうやって多くの日本人は周囲に迎合して生きている。
それが、この社会で生きるためには楽だから。

他方、そのマントの下では大きなひずみが生じるひともいる。
周囲に迎合した自分と、ユニークな自分。
この両者がしのぎをけずり、結果大きなストレスを生む。
でも、日常はそれをやり過ごすことができるのだ。
当たり前のこととして。

しかし、突然の非日常が訪れた。
3.11である。
大きな不安と絶望は、透明マントを引き剥し、本当の自分をさらけ出すことをある意味で強要した。
取り繕う余裕などどこにもない。
本当の裸の自分。
これを隠して生きることがどれほどのストレスを感じることか。
この本当の裸の自分をありのままに受け入れてくれる空間が、てつがくカフェである。

この空間に服はいらない。
正解なんてない。
哲学なんてしらない。
カフェに集った雑多で多種多様な人々が、一杯のコーヒー片手に、その考えのおもむくままに対話し、独白し、傾聴し、そしてその後も考え続ける。

ありのままの自分をてつがくカフェは無条件に受け入れてくれる。
このなんと心地の良いことか。
そして、そこで自分の知らない世界を感じ、吸収することができる。
裸の自分を受け入れられる心地よさと、大学とはことなる知への入り口にたっているという刺激。
それを自然に享受することができる特別な空間がてつがくカフェにはある。

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その3】

2015年02月13日 06時49分48秒 | 参加者感想
なぜ、哲学カフェに集うのか?
第3弾は、「哲カフェの良心」ことワタナベタカユキさんからのお答えです。
実は、ワタナベさんには既に昨年末にこの質問にお答えいただいており、本来であれば最初にアップさせていただかねばならなかったのですが…。
(すみません、世話人の至らなさゆえです…。)
ともかく、メチャクチャ多忙であるにもかかわらず、いつもアツイ思いを柔らかく語って下さるワタナベさんのお人柄が滲み出た文に感動です。


「なぜ、てつがくカフェに集うのか?」 ワタナベ タカユキ

世界には、哲学によってしかできないこと、つかめないものがある、と思っている。
ぼくは20代に、森有正の本などを通して(フランスの精神文化風土へのあこがれを通して)、その哲学が日本には致命的に不足しているという「精神文化的絶望」を堪能(?)した。
その思い(日本人の文化的思考様態?)は、3.11震災によるフクイチ原発メルトダウンで「日本社会の哲学の不足はついにこの破綻の始末に至った」と痛感させられたときまでコトアルごとに新たにさせられ、延延と続き、絶えることがなかった。
(政権交代で唱えられた「新しい公共」に期待を抱いたのだったが、哲学の欠乏および憲法精神の実現を棚に上げてのみせかけ民主主義の思考力はあまりに脆く、未熟なままだった裏目がたちまちにしてほころび、それでも今までになかったことば(ブレーン)が使われたことに何とか望みをつなごうとしていたのだったが....。)
こんなわけで「てつがくカフェ@ふくしま」の産声はぼくにとっては40年がかりの快挙!の意味を持っていた(カフェでも話したとおり)。

で、あらためていま、「なぜ、てつがくカフェに集うのか?」。
まずは、このカフェのありかた(雰囲気)が、期待していたとおりに市民的なもので楽しいからだ──と答えたい。
(先日行われた「ANARCHYでてつがく」──都合で参加できなかったのだが──についてのウェブレポートからはなんだかこれまでになかったような哲学の躍如を感じて地団駄踏む思いだった。)

そのうえで、「クルシイからだ」というのが、やっぱり一番の動機なんだろうなと思う。
不可解のクルシサ、それを晴らしたい。
つまりは、ワレワレの世界と仲間(人類!)のアリサマについてのミライ(を指し示している)であろうはずの真善美(という単純なことばがこれらの思いすべてをくるめて表現している──というほどの哲学をしかぼくは持っていない)をつかまえたい──という想いのクルシサを晴らしたい。
コタエをつかみたい!

とはいえ、世界の情報化が急速に進み知的成果へのアクセスが申し分ないといえるほどに進んだ現在、コタエならもはや出そろっていると感じることも多い。
だがそれが社会化され市民の知的資本として共有供給され続けるしくみが築かれない限り、世界の現状は、破局破綻のただ中にあってさえ何も変わらないこともまた、わかってしまっている。

ぼくは、フクシマに露呈した破綻は哲学をもってでなければ越えて行けないと思った。
てつカフェの集いを通して、それは哲学を持っている人に共有されている思いだったことを知り、少し気を取り直したと思う。
たかだか趣味のレベルでしかないぼくの考えること(テツガク)が、これらの思いをどれほどかの知へと錬成したとしても、それが世界をつくることにつながるというようなことはないのだが、実は「ひょっとしてないとも限らないゾ」とも思っている。

つまりは、これが「ぼくが、てつがくカフェに集うわけ!」かもしれない。

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その2】

2015年02月12日 20時58分37秒 | 参加者感想
なぜ哲学カフェに集うのか?
今回は、哲カフェの「キムタク」こと、「Hえもん」さんからのご回答です。
気軽にお願いしたのにこんなに重厚なレポートにすぐさままとめて下さるなんて、有り難すぎます!


「なぜ、てつがくカフェに集うのか?」

集うきっかけは、当時同僚だった主催者に誘われたからである(笑)。
とはいえ、一般的に同僚に誘われても気が進まないものもあるし、一度は義理で参加しても二回目以降に足が遠のくイベントだってあるだろう。

常連(自分でそう呼んでいるだけだが…)になるほど足繁くてつがくカフェ@ふくしまに参加しているのは純粋に「楽しい」からだと思う。
ただ、「楽しい」にはいくつかの理由がある。

「楽しい」の1つ目の理由として、自分の知的好奇心が満たされることが当然含まれる。
毎回テーマに沿って対話が進んでいくが、「今回は自分に興味があるテーマである」とか「今回のテーマは興味がない」ということはあまりない。
テーマ設定がうまくいっていることが理由かもしれない(おそらく世話人はかなりの確率でテーマ設定を失敗したと考えるだろうが…)。
自分の中で答えがはっきり見えているものであれば、参加したいと思わないかもしれないが、確信をもって「○○○は×××だ」と言えるものはないから、その答えを見つけたくなる。
てつがくカフェに参加して、他者の考えに触れるたびに自分が考えていたことは次々に変容する。
最終的に答えが出ないものも多いが、それでも参加した前と後では世界が違って見える気がする。
余談ながら、「人はなぜ学ぶのか?」という問いに対して、哲学者の國分功一郎さんは「環世界」という概念を用いて、学ぶことによって世界の見え方、感じ方が変わると言ったことがとても強く自分の心に残っている。
てつがくカフェに参加して、世界の新しい見え方や感じ方を学ぶことは純粋に楽しいと思える。
しかし、新しい見え方や感じ方を手に入れるたびに、今の世の中に対する批判や問題点がどんどん見えるようになってきた。
3.11が起こるまで、社会を批判的に見る人たちに対して、「実際の世の中そうかもしれないけど、自分がそんなに腹を立てて怒らなくてもいいんじゃないか?」という風に思っていた。
わりと世の中を冷ややかに見ていたと思う。
しかし、3.11以降自分の考え方はずいぶん変わった。
3.11以後、世の中が「平穏な日常」に戻ろうと動きを見るたびに「それじゃダメなんじゃないか」という気持ちになった。
そういう気持ちを共有でいる人たちは身の回りでごく少数だった(いるだけマシだったのかもしれないが…)。
震災後、自分が考えていることを他人に伝えることができず、同調圧力に負けていく過程を体験してしまった。
その時感じたのは「戦争ってこうやって誰も責任を取らずに突き進んでいくんだろうな」という感情だった。
普段の歴史の授業で「戦争は愚かしいことだし、絶対にやってはいけない」と思って生徒に偉そうなことを語っていても、いざ戦争が起こったらそれでも自分は今までと同じことが言えるだろうか?という気持ちになった。
てつがくカフェが始まった時期と震災はほぼ同時期だったが、今まで社会のことにあまり関心をもたずに生活してきたが、もっと考えて行動しなきゃいけないんじゃないかと思った。
そんな時、てつがくカフェに参加することはとても楽しいことだった。

2つ目の楽しいは知的好奇心を得る楽しさとは別の対話する楽しさだと思う。
普段私は高校で地理歴史・公民の授業をしている。
たえず世の中のことに興味関心を持ってアンテナを高く情報収集せねばという半ば強迫観念のようなものを持っている。
自分の読みたい本を読んだりして情報収集しているが、この本も読まねばとかという焦りにも似た気持ちも湧いてくる。
自分が敬愛する世界史の先生はそういう強迫観念に負けず、膨大な本を読み漁り、たえず新しい知識を入れる生活を数十年続続けて『世界史との対話』というもの大著を執筆した。
そして、その本のベースになっているのは高校での授業実践と市民講座での講義だったという。
自分に同じことができるとは思えないが、そういう人になりたいという欲はある。
私の仕事は高校生と向き合い、授業をすることである。
自分が吸収した知識を自分なりに噛み砕いて、生徒に教えたり、発問を通じて考えさせたり考えたりする。
普通の人よりは社会科学の知識は持っていると思うが、てつがくカフェでは知識の多寡ではなく論拠の正しさが求められる。
てつがくカフェには高校教員だけではなく老若男女さまざまな方々が参加している。
普通に生活していれば出会うことのない方たちを対話をすることはいろいろな気づきがあったり、考えの多様性をもたらしてくれる。
普段は高校生という同質性の高い集団と一緒にいるため、自分の考えが絶対視されがちになる。
対話を通じて得られる考えの多様性は自分の考えを改めて考え直させるきっかけを与えてくれる。
そういう考え方もあるということを書物ではなく、目の前にいる人から語られることはとても大切だと思うし、それを自分で受け止めることも大切だと思う。
そして、それもまた楽しいことなのである。

3つ目の楽しいはてつがくカフェに参加することに連帯感を感じることだ。
人の話を最後まで聞くとか、対話になるように努力をするというルールがあり、参加者がそれを守ることが居心地のいい空間づくりにつながっている。
自分のどんな意見でも受け入れてくれる場所とか、疑問に思っていることさえ肯定してくれる場所は実社会ではあまりない。
参加するメンバーは毎回変わるが、そのルールが徹底していることがとても良い。
実際に対話ではなく議論を求める人はこの場は居心地が悪いから参加しなくなるのだろう。
また、二次会と称する飲み会も楽しい。
実は私は二次会の方が好きだ(笑)。
理由は酒が入るから…ではなく、その人の属性というかパーソナリティに興味があるからだ。
てつがくカフェは参加者に名前を名乗る必要もないし、名乗らずとも対話を進めることができる。
二次会では一応自己紹介するが、話が盛り上がっていくにはある程度自分の属性に関わっていくことが多い。
自分が興味を持てない人との話は苦痛だが、てつがくカフェに集う人と会話をしていて、興味がもてないと感じた事はほとんどない。
理由はわからない。
前回のてつがくカフェで他者理解がテーマだったが、共通の土台で分かり合える部分があるという話があったが、そういうことなのかもしれない。
そして、月一度のペースで参加者に会うと、いつの間にかざっくばらんに話せる参加者も増え、昔からの友達に再会するような気持ちになる。
知り合いが増えると、ますます居心地のいい空間になる。
ただ、この点についてはそういうなあなあの雰囲気ができると、新しく参加する方に悪い印象を与えるかもしれないので、常連としては気を付けなければいけない部分だと自覚している。
それでも、てつがくカフェに参加している人たちはみんな仲間だと思っている。
 
だんだん取り留めのない話となってしまったが、以上が今のところ思いつく限りのてつがくカフェに参加する理由である。

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その1】

2015年02月11日 17時25分49秒 | 参加者感想
最近、哲カフェ後に感想をお書きいただく方が、めっきり少なくなってしまいました。
たしかに、哲カフェの思考と対話の余韻を味わうのに、あるいはやっと終わったという開放感のさなかに感想文を書くというのは、ちょっとした拷問かもしれませんね。
というわけでもないのですが、ただいま哲カフェの常連の方々を中心に、「なぜ、哲学カフェに集うのか?」という質問を尋ねさせていただいております。
哲学カフェの世話人をさせていただいておりますが、その意義が何かについては、実はこちら側からではなかなかわからないところが多々あります。
むしろ、ご参加いただいている方々の方こそ、この活動の魅力が何か見えているのではないか。
そのような思いから、不躾ながら皆様に聴いてまわっている最中なのです。

と、さっそくお一人の常連さんからレスポンスをいただきました。
読ませていただきながら、たいへん面白く、かつ興味深い内容でしたので、ご本人の承諾を得てブログにアップさせていただくことになりました。
ご一読ください
これをお読みになり、自分も哲カフェに一言物申したいとお感じになられた方は、遠慮なくメッセージやメールをお送りください。
哲学カフェの何に魅力があるのか?
なぜ、私/我々は哲学カフェに集うのか?
どなたでもけっこうです。
どしどしお受けいたしております。



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「なぜてつがくカフェに行くのか。」
***************

なんででしょうね?
趣味です。
マイブームです。(結構長いよね。)
もしかして飽きることもあるかもしれません。(そしたらごめんなさい。)

何を話しても受け入れてもらえる(もしかしたら「ちゃんと聴いてるフリ」をしてもらえている?それでもOKです。)。
反対意見がでたとしても、それほどがっかりしたり、プライドが傷ついたりしません。

いろんな考え方、捉え方があることを知るのは単純に楽しい。
知らない事実や情報(噂かもしれませんが。)を知ることができる。
人っていろいろなんだ。と改めて知ることができる。
(てつカフェに来る人たちは、私も含め偏ったサンプルかとは思いますが。)

お酒の入っていない飲み会。

「シティズンシップ(市民的資質)」初めて聞いた。
てつがくカフェは、冷静な話し合いの訓練にはなると思います。

だからといって、私がてつがくカフェに集うことによって世の中が変わるとは思っていません。
それよりしっかり自分の仕事をしっかりすることの方が世の中に良いこと?を訴求できると思っています。
(↑ならちゃんとやれよ。)

ただ、人は良いことを考えたり、(本などで)得たりしてもそれを行動に移す訓練?
が出来ていないと、いざという時に、(または小さな行いもそうですが、)うっかりそれまでの慣習に従って動いてしまうと思います。
なので、てつがくカフェのようなアウトプットする場所があると、自分が思ったことをみんなの前で発言する訓練ができて、何かが違うと思ったときに同調しづらくなるのではないかな?
または、「偉そうなこと言ってたよな。自分。」「そう思ってたんだね。自分。」ってことで、自分が思っている行動をしやすくなるのではないかと思います。

子どもときからこのような授業や習慣があれば変わるとは思います。
先にも述べたように、ここに来ること自体、現時点の日本では特異なことなので、無害な状態?で、人に自分の考えを伝える環境の場がもっと増えれば良いなと思います。

とはいえ、やはり日本人にその習慣を広めるのは時間がかかる気がします。
というのも、震災後、心のケア?という名目で、大小様々な話し合いの場、「どんなことを言ってもいいからね~」という掛け声の下でいろんな考えのお母さんたちの場が持たれましたが、やはり違う考えが明らかになって、余計ストレスになってしまったり、不安なお母さんたちは彼女たちで集まって勉強会等を開いたりしていましたが、人は自分が思った方向の情報を集めるので、結果、更に自分の考えを強化していくだけだったりします。

今回の震災の場合は、本当に自分の生活がかかった死活問題なので、いくら話し合いを持ったところで、なかなか全体としてのいとぐちは見つけられないかと思います。

じゃあ、震災前から人々が話し合う訓練をしていればよかったのか?
おそらく、人間は切羽詰らないと行動に移さないので、それはなかったでしょう。
そういう意味では、今回の震災で、「シティズンシップ(市民的資質)」は他県にくらべ、アップしたと思いますが、代償が大きすぎますよね。
疲れた。
でも本来、生きるというのは辛いものらしいので、その中で、楽しみや歓喜を見つけ生き延びるのだ。


全然話は変わるけど、今『モモ(ミヒャエル・エンデ)』を読んでいます。(まだ途中だけど、)
てつがくカフェに集う人たちは時間(生活)に余裕がある人たちなのではないかなと思います。
毎月てつがくカフェが開かれ、そこに参加できる幸せを噛み締めて今日も生きていこうと思います。

第6回本deてつがくカフェ報告―『愛する人に東横インをプレゼントしよう』―

2015年02月08日 08時21分49秒 | 本deてつがくカフェ記録

『愛する人に東横インをプレゼントしよう』の著者やっぱりぱんつさんと、その夫である工藤考浩さんをお招きしての第6回本deてつがくカフェが開催されました。
とにかく痛快極まる哲カフェでした。
いや、痛快なのは、やっぱんつさんと工藤さんの人柄に他ならないのですが、こんな人たちばっかりだったら、きっと平和で笑いの絶えない世界になるのになぁ、と思わずにはいられませんでした。
参加された26名の皆さんも、きっと心の中でそう思ったことでしょう。
遠くは東京や盛岡、いわき、会津、三春からわざわざお出で下さった参加者もいらっしゃいました。
ありがたいことです。
初めて会場として使用させていただいた南国カフェTUKTUKは満席状態。

まずは、この本に感動した常連さんが、わざわざレジュメを切って問題提起して下さったところから始まります。
曰く、

「他人には理解されにくいと自分では思うような趣味や好みも、もしかしたらその人の個性として、広い心で受け入れてくれる相手がいるかもしれないということがよくわかり、心強く思った。自分では欠点だと思っているような一般的ではない趣向でも、これからは自信満々に世間に公表していこうと思う。」

え!?それは、やめておいた方がいいんじゃないの!?
と誰もが思ったその瞬間、別の参加者から、むしろ他者から理解されなければされないほど、そんな他者に理解されない部分をもつ自分だからこそ、自分を誇りに思えるようになったとの経験が語られました。
「東横インをこよなく愛する」わけのわからなさを持つ工藤さんも、「それはわざと違っているのではなく、結果的に違ってしまった」が、「その違いがあることが楽しいと思える相手だから一緒になれた」と言います。
まずは「違いを楽しめる、興味を持つこと」が他者理解のキーワードとして確認されました。
いやいや、それでも「他者との違い」は理解されないのが普通だし、理解されないのは苦しいと思うのが一般的なのではないか、という疑問も投げかけられました。
これに対して、「他者を理解しなくちゃいけない」ではなくて、「他者を理解できないことを知ること」や「違っていることを理解する」ことから始めなくてはいけないとの意見が出されます。
本書127頁では、「大事なのは、どうして好きなのかを理解することではなく、好きであるという事実を理解すること」だと書かれてあります。
それにしても、「相手が好きである事実を理解する」とはどういうことなのか。
まさに、この論点をめぐって考え合うことが、この本を選んだ最大の理由でした。

それにしても、日本人はなかなかこの境地に達することができない種族だとも言われます。
この横並び気質を日本人の美徳として海外から称賛された震災での経験を語りながら、違っているものをハブこうとする日本人気質の問題は教育にあるのではないかとの意見も出されます。
これについて小野原から、「同化による理解」と「異化による理解」の違いを挙げながら、日本人的気質は前者による理解が優先されがちだとの指摘が為されました。
この「異化による理解」に関して、別の参加者からは、ある映画の中で異なる宗教文化をもつもの者同士が、あるパーティで異なる食文化を皿で分かち合いながら公平に食事を分け合う姿を観たときだったそうです。
違うものは違うのだから、それでお互いがうまくいくように折り合いをつける姿に、理解できない他者と一緒に生きるとはこういうことだと直感したそうです。

では、共に生きる相手が、もし児童ポルノや異常な性的嗜好の持ち主だったとしても、それは受け入れられるのか?
そんな他者理解の楽観性を根底から揺さぶる問いかけがなされました。
たしかに、ワタクシの知人の中には、むしろ宗教の違いから家庭生活で折り合いがつかず、けっきょく離婚してしまったというケースがありました。
実際、自分のパートナーが突然、何かの信仰団体に入信してしまったり、危険な政治信条を持ってしまったら、それを受け入れられるか自信もありません。
すると、「それは一般論で見るから苦しいと見えるだけであって、愛する人や家族など具体的な個々人と向き合えば、そんな簡単に言えないだろう」との意見が出されます。
たしかに、「理解されないことは苦しいことで対立しか生まない」と一般論や想像で語ることは、それがバイアスとなって、むしろ「他者理解」を遠ざけることになりかねません。
これについては、お互いが共有し合う「土台」がしっかりしていることが、他者の違いを受け入れることの前提となるということが指摘されました。
では、その「土台」とは何か?
これに関して、この本が提起するのは「仏教的なもの」だとの指摘がありました。
フランスでの経験を踏まえたその意見によれば、彼の国ではむしろ肌の色や人種、信条によってくっきり生活や仕事空間が選別されていることと比べると、日本はまだまだ哲カフェのように他者の異質性を考える空間があったり、受け入れる文化があると思え、それはとやかく言わずとも異質性を受け入れる禅的な仏教文化を感じたと言います。
たしかに、そうした文化が「土台」としてあるのかもしれません。
このように、今回のカフェでは、趣味や考え方の違いを超えてもお互いを結びつけるものとして取りざたされたその「土台」というキーワードをめぐって議論が展開しました。

これに関して、やっぱりぱんつさんは工藤さんに対して東横インが好きだという部分以外に、理解できない部分を感じるのか、という質問が投げかけられました。
これに対して、やっぱりぱんつさんはどんな変なことも面白いと思えるけれど、それは趣味的なものだから理解できないことを受け入れられるのかもしれないとの答えが返されました。
つまり、ここにはやはりやっぱりパンツさんと工藤さんとのあいだには、理解できない異質さを許容できるだけの「土台」があるのであり、問題はそもそも、その「土台」の違う他者と共生することは可能なのか、との問いが炙り出されました。
恋人や友人、家族はその土台を共有している関係性のうちにあると。とりあえずは言えるでしょう。
いや、それでも隣に引っ越してきた言葉も通じない中国人に対しても、意外と楽しむことができたというエピソードが工藤さんから紹介されました。
だから、「土台」が共有されずとも、それは可能ではないか。
あるいは、別の参加者から、夫がある宗教団体に入信したが、妻は入信を拒否してもなお夫婦関係は存続したというケースも紹介されます。
それでも、人には許容範囲というものがあるのではないか。
どのレベルまで行ったら他者の違いを受け入れられなくなるのか?
その問いに対してやっぱりぱんつさんは、「自分に害が及んだ時には、さすがに容認できなくなるのでは」と言います。
たとえば、自分よりも東横インを優先し始めて、自分との過ごす時間が減ってしまったりした場合には、さすがに許容できなくなるのではというのです。

すると、別の参加者から「そもそも他者は理解できないからこそ他者なのであり、せいぜい他者を容認せよとしか言えないのではないか」との意見が挙げられました。
長年のうまくいかない夫婦関係の経験から、その発言者は次第に相手を理解しようとしなくなったと言います。
けれど、それは決してネガティブな意味ではありません。
理解不可能な存在が他者であるのなら、理解しようとするのではなく、あるがままである他者の存在を許容することしかできないのではないかというわけです。
あの暴挙をくりかえすイスラム国の兵士ですら、それはもしかしたら私たちが理解できない正当性があるのかもしれません。
それを理解しないままに、この世界から即抹殺せよという権利は誰にもないことを、その意見は示しています。
では、それは他者なるこの世界の暴力的な存在をすべて許容せよ、ということになるのでしょうか。

また、同化による理解について、それは突き詰めていくとけっきょくは異化による理解と変わらないのではないか、との意見が出されます。
つまり、同質的な仲間内とはいえ、それは結局のところ、お互いが違っていることに気づかざるを得ないくなってゆくのであり、それは異化による理解に至らざるを得ないのではないか、というわけです。
その点で、やっぱりぱんつさんの選択は、はじめから異化から理解へ至ることを出発しているわけですが、それにしても、なぜその方法を東横インの模型をプレゼントする形を選択したのか。
その問いかけに対し、「お互いに気持ち良くなれるから」と彼女は答えます。
(「自分本位でも相手本位でもなく、お互い本位でやらねば意味がない。」(47頁))
もちろん、東横イン好きの工藤さんですから、それを贈られることは気持ちの良いことかもしれません。
一方、やっぱりぱんつさんにとっても模型を作る過程は楽しいものに違いないという確信の下、それが執り行われたというのです。
では、他方で工藤さんはそのプレゼントが嬉しかったのかと聴くと、一抹の引っ掛かりはなかったわけではないが、今やそれは二人を結びつけた象徴として自宅内に置かれ、それを見るたびに、その二人の関係性が構築されていった過程が想い起されるイコンとして存在していると言います。
もはや、それは東横インの模型を超えてイコン化しているというのは、とても印象に残るお話でした。

さて、場がいったん落ち着いたところで、論点は「恋愛の在り方」に移ります。
「恋は惚れたほうの負けで、惚れさせたほうが勝ちだ」という、若かりし頃から引っ掛かりお覚えていたこのテーゼについて、
「愛の勝負は、どちらが勝っても負けてもいけない。ドローという結果は、私が一番望んでいたものだった」(160頁)
という、やっぱりぱんつさんのテーゼは衝撃だったという話が挙げられました。
これに関して、恋は勝ち負けだが、愛は対等性をもって成り立つのかもしれない。
そして、その方が長く続くという意見が挙げられます。
では、対等とは何か?引き分けとは何か?
それを「自分が相手を思う気持ちと、相手が自分を思う気持ちのバランス」と表現した意見も出されました。
たしかに、このバランスが崩れると恋愛も成り立たないでしょう。
さらに拗れれば、ストーカー行為になってしまいます。
最終的にそれは相手を殺害してしまう行為に及びかねません。
それでも、惚れている間が幸せなのだから、惚れた方が勝ちなのではないか、
いや、惚れた方は自制の利かず、惚れられた方に言いなりになるのだから負けなのだ、という意見の相違も挙げられます。
でも、それって恋愛関係でなくても、友人関係にも当てはまるのではないか。
いや、それは恋愛関係が100対100ならば、友人関係は60対60という度合いの程度で表せるのではないか。
等など、恋愛をめぐって議論は尽きません。

しかし、最終段階において議論は、やはり「他者問題」に回帰していきます。
他者を尊重するとは何か?
ある参加者は、相手のことを本当に理解したいというならば、相手が生まれる前にどのような存在だったのか遡っていかなければならず、それは大変なことなのだから、理解しようと探究することはあきらめて初めて尊重しようということが必要になると言います。
この相手を理解する、尊重することをめぐっては、「相手が好きなものを自分も好きになることが理解である」と思ってきた経験を語る参加者がいました。
自分は犬が大嫌いなのだけれど、犬好きの妻の姿を見ていて自分も犬好きになれば何か世界が開けるのかもしれないと思い、一生懸命犬を好きになろうとしたがやはり無理だったというのです。
これに関して、ワタクシは工藤さんが書かれた
「理解できない部分にはあえて触れず、見て見ないふりをすること、そこから何も感じようとしないことが尊重するということだと思っていたし、そう過ごしてきた」(138頁)
という部分が印象にあり、そしてとても共感できる部分だったことを述べさせていただきました。
ただし、大事なのはその先にある「けれど彼女は違った」という続きの文章です。
この「彼女は違った」という部分をどのようにとらえればいいのか、という問いかけに対して、工藤さんは実はいまだによくわからないと答えてくれました。
そして、これから先もそのことを考え続けていくしかないのだとも言います。
実は、この部分を理解することが、今回のテーマを深める点でかなり重要な気がしています。

最後に、ある参加者から「これまでの議論を聴いていると、他者を理解するとか容認することがあたかもよいことのように語られているようだが、果たしてそうなのだろうか」との問いかけが為されました。
これは先ほどの「すべての他者を容認せよ」という論点に回帰する問題です。
これに関して、ワタクシは相対的に物事を考えることが、実は高校生たちの日常的な作法になっていることを話題に挙げさせていただきました。
異文化の食生活についてならまだしも、「名誉のための殺人」という文化まで果たして許容できるのか、という問いかけに対しても割合許容できるとする意見が多い様子を見て、ワタクシはそれが無関心に基づく、あるいは他者との関係性を断ち切る口実にした相対的思考が根底にあるのではないかと考えています。
こうした背景がある中では、安易に「他者を容認せよ」とは言えないのではないか。
その問いかけに対して、ある参加者は、そこには「目的」の有無が重要になってくるのではないかと指摘します。
つまり、仕事においてはその職務という目的に、恋愛も結婚という目的に、テロに関しても平和という目的に向かって、というように容認することが何に向かっているによって鮮明になってくるのではないかというのです。
この意見をさらに深めることで、他者問題の何かが見えてきそうでしたが、残念ながらここでタイムアップとなりました。
最後は全員で 『愛する人に東横インをプレゼントしよう』 を持って記念撮影をいたしました。

真剣さの中にも爆笑渦巻くてつがくカフェとなりましたが、それもこれも、やっぱりぱんつさんと工藤さんの清々しいユニークさのおかげでした。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
高杉晋作の辞世の句を、まさに現代で体現されているようなお二人とは、その後の2次会3次会までおつきあいいただき、さらに楽しいひと時を過ごさせていただきました。
あらためて、遠路はるばるお越しいただきましたお二人には、心より感謝申し上げます。
とにかく素敵なこのカップルのユニークさを理解するには、まだまだ時間が足りません。
無限の他者性を理解するために、今後ますます「お二人を応援し続けたいと思います。
いつも以上に多数のご参加いただけた皆さまにも感謝申し上げます。
皆さまのお力を得て、てつがくカフェ@ふくしまも益々のおもしろさを追求してまいりたいと思います。

第6回本deてつがくカフェ@南国ダイニングTUKTUK

2015年02月06日 17時20分19秒 | 開催予定
明日の 「本 de てつがくカフェ」またまた初めての会場で開催します。

「南国ダイニングTUKTUK」 です。

昨年11月に開店したばかりの新しいお店です。

場所はパセオ通りのアドニード121というビル。

以前てつカフェをやらせていただいていた 「agato」 が入っていたのと同じビルです。

「agato」 は2階にあったので階段を上っていきましたが、

「TUKTUK」 は1階の一番奥にあるので、

階段の左側にある奥へとつながる通路をずっと入っていって突き当たりにあります。

こんな看板が目印です。



この看板のなかにも描かれていますが、

トゥクトゥクというのはタイの三輪タクシーです。

こういうやつですね。



お店のなかは南国ムード満点で、しかもトゥクトゥクの模型があちこちに飾られています。

可愛らしい感じのお店ですので今後お引き立てのほどよろしくお願い申し上げます。

こちらは変わったつくりで、入口はビルの1階にあるのですが、

店内に入ると中に階段があって2階フロアに上っていくことができます。

明日のてつカフェは2階で行いますので、1階入口から入店したあと2階にお上りください。

南国気分のなかやっぱりぱんつさんご夫妻をお迎えしてのてつカフェを大いに楽しみましょう