てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第30回てつがくカフェ@ふくしま報告―〈病〉とは何か?―

2015年06月29日 18時07分06秒 | 定例てつがくカフェ記録
いつも以上に遅くなりましたが、第30回てつがくカフェの報告文をアップさせていただきます。
参加者は12名。
今回は、いつもの世話人が私用により参加できなかったため、世話人・杉岡が報告をまとめました。
はじめての報告文に四苦八苦したようですが、立派な内容になっています。
これで@ふくしまの記録係の層も分厚さが増しました。
以下、とくとお読みください。



病とは何か?―病気が教えてくれたこと―

まず、小野原さんのブログにあった「病気が教えてくれたこと」(生命保険会社で出版したの本)の本では、病気にかかった人の色々なエピソードが書いてあり、病気にかかったおかげで苦しい事もあったけども、家族や・学校に行くことができたことなど見つめなおすことができたことが書いてありましたねと、本の内容に関する話が挙げられた。

この本を購入して読まれた方は、「病気になると孤独を感じる。」いい、「仕事は心配するな。体を優先しろ!」などと職場では言ってくれるが、誰もやってくれないので、自分がやるしかないと思うとの意見も。

小野原がまず、この本について説明をした。この本は、病気をして、人生の見方をガラッと変えたりする出来事を扱ったもので、そういう面からのエピソードが多いですね。逆に言うと、プラスの面しか乗せておらず、病気によってプラスに影響した話なので一面のみしかとらえてないところはあります。

ある方は、病気になって、仕事を休みたいな~!と忙しかった時は、思ってました。そんなときでも、今でもですが、健康であんまり病気にかかってないです。
自分は、あまり病気にならないからわからないが、病気になると色々考える機会を提供してくれるのではないか、例えば、自分自身の強さやの弱さだとか、他人の優しさとか心遣い、健康な時にはわからなかったことや健康のありがたさ等を気づかせてくれるものではないか。

みなさん自分の病気などの経験に触れて話されていました。

ある男性は、最近、調子悪くて、周りからは、単なる風邪だと思われていたけど、風邪薬を飲んでも、ずっと体調がすぐれず、そんな状態が続いており、病名をつけてもらってほっとしている自分がいた。病気には、治る病気と治らない病気があるけど、簡単に治るものは良いけど、治らないものとは一生付き合わなくてはならないのはつらいですね、と述べる方がいた。
他の方からも、病名が分からず、つらい状態が続くのはつらいという次のような話題が上がった。

女性の方が、更年期になり、なんとなく調子が悪、心療内科に行くと、医者は、何も言わなかったが、症状から推察した私は、自分から「うつ」ですか?と聞いたら、「そうです!」、と言われ、ほっとした自分がいたとおっしゃいました。

基本、あまり病気にならなかったけど、最近肩が上がらなくて、理由が分からず動かなくなったりすると、不安に感じて過ごしていましたが、でも、自然と動くようになってホッとしましたね。年齢のせいかな、と思ったりもしましたね。最近、妻が乳ガンになり摘出手術をしました。念のために取ったのですが、幸い転移などもしておらず、よかったのですが、病気というのは、ガンという病気自体の心配と、やはりお金の心配などはつきものですね。
入院などして、じっくり考える時間等がある事は良い事ですが、それは、お金の心配なく、恵まれた人は、色々考えられるけど、病院にかかれない貧しい人などは、病気が教えてくれたとか、そんなこと言ってられない状況だと思う。

それを受け、別の方が、10年ぐらい前、肩上がらず、整形外科へ。でも、医者は、なんともないといい、痛みが続いているのに、原因が分からなかった。つまり、西洋医学ではわからなかった。西洋医学と東洋医学の違いはわからないが、体のリズムが狂うとおかしくなってしまったのだとその時、思いましたね。その時から、西洋医学への不信感を感じ、人の体って、ちゃんと目に見えておかしくなる部分ではなく、心とか色々な物のバランスを崩すと不調が出てくるんだろうな~と思ったりしました。

小野原は、西洋医学だと、病気の原因があって、それによってこういう症状があってそれに対する処置ができるし、それを説明されると納得する事はあるが、それとはちがう不調というのはありますよね。そういう明確に定義できない不調を病というのか難しいところはありますね。

そうですね!病って何なのか?どこから病なのか?どこから病ではないのか?明確に決めるのは難しいのではないか。その辺考えますよね。

最近、病気で、手術をしたんですが、病院で待たされることが多く、そんなある時、新聞の折り込みの、自然食品のチラシが目にとまり言ってみた。「快医学」というのがあり、その先生を紹介してもらった。そこの先生は、1~2時間も色々と話を聞いてくれて、わかる事は、わかると言い、わからないことは、調べてから説明してくれた。あらゆる自分に合った施術(針など)をしてくれた。自分を体全体で見て判断してくれる医者に出会ってよかった。医者のイメージが180度変わり、これこそ医療ではないかと感じた。と言った、医療に関する話題も上がった。

小野原が、話題をちょと戻して、「どこからが病気なのか?」まるまる健康っていうのは、なかなか無いのではないでしょうか?と病気自体について考えてみませんか?と投げかけた。

ある人は、目がすごく悪いとか、みんな何かしら不自由を抱えているのではないか。それは、ある種グラデーションの問題ではないでしょうか?という意見があった。

つまり、視力が1.0の人もいれば、0.1の人もいて、どこからが視力が低いと線引きの難しさを挙げられておられました。

また、外国人の人は、肩が凝らないんですよ。外国の人は、肩が凝っているというのはわからない。「肩こり」という名称が無いから、意識しないので、カテゴライズするから、認識することができるのではないでしょうか、との意見も。

病名を与えることで認識できたりするし、明確に与えられないと、はっきりしないのでわからないから、不安になるといった前半の話題につながる感じがします。

話は、病から学んだことに戻り、病気になると無理が利かなくなることが分かると、相手にも無理をさせられなくなりました、との経験談が挙げられました。対人関係に関しては、学んだ気がする。無理をしてしまって、病気になってしまったので、その経験から、仕事を頼む場合でも、無理をさせすぎないでやってもらうように考えるようになった。

私も同じで、若い頃、昔PTA役員やっていた時、人が来ないとどうして来ないの?!と人を許せなくなっていたが、自分が年をとり、町内会の集まりがあったのも忘れてしまった時に、具合が悪くて行けなかったり、行きたいのに行けない状況に自分がなってはじめて、他人に対して優しくしないといけないと気付いた。

小野原は、ひざの皿を割って、松葉図会をついた経験が一番大きな出来事。その経験から、足の不自由な方のつらさをイメージすることができるようになった。病気の前は、想像しようとしても出来なかったが、なってみてわかる事もある。
若いころは、車の運転も荒かったが、前の車は、そういう障害のある人なので、慎重に運転しているのではないかと今では想像できるようになった。

それを受け、今までの自分の傲慢さが、病気などを通してはじめて想像できるようになり、人にやさしくなれる。 病というのは、メメントモリ(ラテン語・「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句)・常に死を考えろよ、ということに通じる気がする。
前回のアートで哲学カフェの絵も、気違いというか、病気の人の絵ではないかと共通のものを思い出しました。

小野原
「心の病と体の病」の違いがあるだろうけど、哲学カフェに集まる人々は、実は、意外と心が病んでる人が来ているのではないか。でも、心が健康でないと人の話なんか聞きにもこれないのではないでしょうか。

この本は、プラスのことしか書いてないですよね。人間は、どんなにつらくても前を向けるよ!と言ってる本ですが、自分の周りにも、そんなに積極的に前を向けない人もいるんですよ、といった意見が挙げられた。体の病は、胃が悪い・骨折とか他人に言えるし、心に漠然と不安を抱えている人がいと、その人に対して、不安になるな、といってもしょうがない問題もあると思う。

私の更年期障害が意外とひどくて、ホルモン治療をとったら、すごく良くなった。その時、すごく安心したが、もう一人の自分が「それは違うだろう!」という自分がいて、それで、薬の量を自分で減らして、調整した。
寝てる時は記憶がないが、起きてる時がきつかった。起きると、やっぱりきつくて、こんなにきついんだったら死んでもいいかなって思った。そんなとき、テレビをつけたら、ガン病棟で一生懸命生きる子どもの映像が映った。それを見て、「ガンのほうがもっとつらいよね!更年期よりも」「更年期のつらさと10歳のがんと闘う子どもを比較して、相対化することで、気持ちのチェンジができた。

私の周りにも、精神的につらい人がいたが、周りにいる私たちは、何もできないで、それに対するもどかしさを感じた事があった。

高齢化社会ですが、病気のつらさとかをこう言う本などを通して教えてもらうとみんなが思いやりを持って、良い社会になっていくのではないか、といった意見も出た。

今になって過去の病気を見れば、色々な気づきを与えてくれる場ではなかったかと思う。自分は、夫、2年づつ転勤していて、3人の子を一人で見ていたようなもの。一生懸命子育てを頑張っていたら、突然更年期になった。医者には、「今まで、トップスピードで走ってきましたね!更年期になって、その頑張りを、ローまでしなよという意味なんだよ。」というように言われた。食器洗いや、洗濯など全部自分で頑張っていた。自分が倒れたので、子どもたちがやるようになった。それは、子どもたちに仕事を分配できない自分に問題があったのだと今は思える。

病気は、どちらかと言えば、悪ではないか。話を聞いていてそんな風に感じます。「もし、この世に病気が無くなったらどうでしょうか?」
自分も痛いのは嫌ですし、でも、無くなったら、怖いですね。ちょっと前に、麻生副総理が、高度な治療が必要な方がいますが、私だったら早く死ぬ!と言ってた。経済産業大臣だったら、そういう意見はわかるけれども、このまま、寿命が長くなり、延命で長生きしていくことは、問題ではないでしょうか。との意見があった。

今の話は、「役に立たなくなった人間は、いらない!」ということなのでしょうね。経済的に考えるとそうなってしまうのでしょうね。病があってそれを認める社会が必要なのではないか。役に立たない人でも生きていく世の中が必要ですよね。

昔は、認知症がなかったが、最近は、高齢化とともに医療も発達したことで、今まで迎えなかったステージに達して、それで、認知症が増えてきたというのを習った。体の外枠は直せても、内側がついていけてないのではないか。だから、寝たきりの人などを死ねと言ってるわけではないですが、人が自然に死ぬということはどうなのか考えさせられます。

別の男性は、父が96歳ですが、80まで、肩凝りや、胃が痛いとかなったことがないと言っていた。91まで車運転。92から、認知証、脳梗塞などを発症した。
今年の2月から、食欲が無くなり点滴をしているが、医者には、鼻から栄養補給か、胃瘻か選択を迫られた。俺は、もういいんじゃないかと思ったが、兄弟は、胃瘻を希望。
90過ぎで胃瘻する人は、あまりいないが、今は、認知証が進んでいる。長生きがいいか悪いかとは言えない。でも、これ以上長生きしてると老老介護になってしまう心配もあるし、自分より長生きして孫には面倒を見せたくないと言った切実な話もあがった。

昔は、医療もそんなに発達しておらず、自然な死に方ができていたけども、最近は、医療が発達し、延命治療と呼べるようなものがあり、どう死にたいかという問題を考えなければいけない時代を迎えていますね。

話は、ちょっと変り「病気的な人で天才もいますよね!」といった病気と天才が紙一重ではないか、といった意見があげられました。

それに対し、社会で役に立っている人は、病気というレッテルは張られないのではないか。

今は使われないが、「気違い」でも社会の役に立っていればいいけど、ナチスでも病気や障害のある人を殺したりしたことがあるように、今でも役に立つか立たないかで人間を判断するところはないだろうか。役に立たなくても一緒に生きていく社会に向かっていってほしいと思う。

また、別の人は、私の近所にも、そういえば、気違いの人がいた。町場に出て行くとき、うちに寄って行った。周りの人たちは、彼女を気違いと言っていた。でも、彼女の話は、本質を突いていて好きだった。彼女は、通常の人よりも大きなエネルギーを持っていて、会うのが楽しみだった。昔は、そういう存在も受け入れられる余裕が社会にあったのではないだろうかと、現在と昔の社会の違いを述べられた。

小野原も、20年ぐらい前は、病気休暇の人がいても仕事が社会が回っていたが、だんだん、人が少なくなり、そういう人への風当たりが厳しくなっている気がするとの感想を述べた。

最近、80年代は、良かったと言われているのをラジオで聞いて、世知辛い世の中になっているのでは、と感じる人や、60年代まで、神経たかり(しんきたかり?)と言われて、共同に生きていた社会があったと、昔は、ちょっと変わった人でも身近に居たと言った話も出ました。

それを聞いて、自分はまだ若いけど、今健康だが、いつ交通事故になんて身体障害者になるか分からないから、そういう人でも生きていける世に社会をつくっていく必要があると考えます。

今は、経済性を重視していて、経済性以外の人の多様性とかといった面を見落としてきたのではないでしょうか。芸術家などは、経済観念が無いので、一緒に住むのは難しいと思うが、そういう社会の周辺に生きる人々とかも大事にしていきたいよね。といった、さまざまな人が生きやすい社会が必要ではないかと言った病を受け入れる社会について話が及んだ。

再び、本の話題に戻り、「この本は、どうしてグッとくるのか?」と思ったのですが、映画とか本とか感動するものは、そのストーリーなどに魅力があり、惹きつけられるのではないか。

それを受け、健康で淡々と生きている人生よりも、密度の濃い生き方に魅力を感じるのではないでしょうか。つまり、平凡ではなく、ドラマチックなところに人は、惹かれるのではないか。でも、この本などは、平凡なことがかけがえがないと言ってる内容でもありますよね。でも、逆に前を向けずドラマチックじゃない人生もあると思うので、そういう方の話題も取り上げられてほしいですね。

この本は、自分のこのような状況などを知ってほしい、承認してほしいという欲求があって書いたりしたのかなと思います。

高齢の人だと、話題が、病気の事が多くなっていますよね。命に関わる話題は、ドラマチックになり、あのときは大変だったけど、今は元気でやっていますよ!といわれると、承認されやすく、聴きやすく、共感しやすいのではないか、との意見がありました。

人は、困難を経験すると、それを乗り切るには、物語をつくる必要があるんではないかとの意見が挙げられました。整理するための物語というかそういったものを作る必要があるのでは。

物語は、その時はそんな状況ではないが、時間が経ってその状況を返り見るとドラマチックに見えたりして、その当時は、その状況を乗り切るのが大変だったな~。と、時間が経って、その状況を客観的にとらえられるようになると言った話が出ました。

PTSDとかでもそうですが、「語る」ということは一つの自己回復というか、そのつらかった状況を乗り越えるためには必要であるようなことを何かで読んだ気がします。語ることで客観化できるのではないでしょうか。

子どもの頃、インフルになると、母からの愛情が自分にそそがれ、自分が特別に扱われたのは、とてもうれしいけども、その当時は、治ってしまえばそのことはすっかり忘れてしまい、学ぶことは何もないですね。それと違って、大きな病気の場合は、物語が必要だし、その状況ををとらえ返して乗り越えないといけないというのは、また違うのかなと思います。

乗り切ってかなり時間がたたないと、こういう風に物語として書くことはできないのではないかと思います。

こういう本は、まだ乗り切れないでモヤモヤしている人が、乗り切れるアドバイスを与えてくれる本ですよね。前向きになれるように。
大変な仕事で辛かったけど、無事乗り越えた出来事を思い出すと、今は良い思い出と、達成感しかないが、振り返れるからそう思えるのであって、今つらい状況の人には、多少なりとものアドバイスにはなるので、この本は良いのではないかとおもう
一方で、そんな良い話ばっかじゃないとは思いますけどね。

今まで、4回ほど病気と怪我で手術。今、19歳。
気付いたこと、感じたことはあるが、病気になったのは小さい頃だったのですが、病気とは、いろんな人にとってチャンスではないか、と思う。病気になったからこそわかる事・気づくことができると思う。自分にとってもそうだが、周りの人にも、乗り切れなかった人を見たら、次は、こういうアドバイスをしようといった意味で、考え方を変えさせたりできる。

チャンスよりは、チェンジとチャレンジ!かな、病気をきっかけに、食生活とかを変えなきゃいけないので、私にとっては、チェンジととらえますね。病気に向き合うということに対しては、チャレンジですね。人間関係への意識とかが変わるっていう意味では、チャンスかもしれないですね。

私の親は、夫婦で商売をしていて、隣の人は、裕福で、それを心配して、朝起きてから、預かってもらって、夜寝る頃には戻されていた。7歳のころでしたね。でも、自分は、体が弱かったので、自分が病気になれば、母は、そのために休まないといけなかったので、わざと病気になり母との時間を作ってたかな。そういう意味で、病気になる事は、母と時間を過ごせるチャンスだったと思います。

小野原
前半で、病気と健康の境界の話も出ましたが、じゃ~そもそも病とは何なんでしょうかね?

同じ病気をひいた人が、どうして人それぞれ受け止め方が違うのか?人間十人十色だから当たり前だというのはわかるのだが。。。

インターネットで見たんですが「病気になる前に他人や自分に対する不満ってありませんでしたか?」と書いてるのがあり、自分は、小さいときは、母と一緒に過ごせなかったことや、子宮筋腫の時、母とうまくいっていなかった事を思い出した。

それは、「病は、気から」ということではないですかね。ネットでは、これを気にしてるとここが悪くなるとか沢山書いてあっていっぱい調べている人が居るんですね。仕事と病気がつながっているとは思う。ここ1年忙しすぎて、頑張りすぎて体が不調をきたしてきたが、何とか乗り切ったので、大丈夫ですが、「病は、気から」というのは、ほんとそうだと思いますね。

祖母も体が弱く、頭がいい人だった。。年と共に、ボケではないが、どんどんと体的には健康になっていった。だんだんと体の調子が良くなっていって、最後は、老衰で死んだ。
仕事の量よりも、一緒にやっている人とかの問題でストレスを感じ体調を崩すことがありますね。

「ボケは、神様からの贈り物」という見方があります。

約束事があっても、行きたくないと思うと、風邪をひくことも結構ありますね。嫌なものは、最初から断わった方がいいと思いましたね。

まじめな人は、「病は気から」って言われると余計抱え込んでしまってどんどんマイナスになってしまう人もいるから、気をつけないといけないと思いますね。だから、病気の人に「気合いが足らないんだ」と言ってもまずいなと思います。

病気になる時もそうだが、治る時も、元気になりたい!って気持ちがあれば乗り切れるんではないでしょうかね。治そう!という気持ちも大事ではないか、うちの母を見てるとマイナス思考が強いかなと思います。

それは、病気になって得続けてるものがあるから、治りたくないのではないか。病があると、子どもが母との時間を過ごせた時のような状態と同様に、回復したいという風には思えないのではないか。

病に負けないとかあきらめないという気持ちが大事ですよね。この間のテニスの錦織の戦いを見て思いました。

自分自身から、そういう気持ちにさせるのは、なかなか難しいですよね。

病っていうのは、休みなさいという意味のシグナルなのではないでしょうね。
病気が無いとみんな老衰なので、ただ単調な人生になってしまうのではないか。

小野原
西洋医学、病気を単体として見てしまい、それを解決すればいいという見方で、人間全体としてどうなのかといった見方を忘れているのではないか。

今の病院は、外科・内科・皮膚科・とか細かく分類されており、単体で見ており、全体を見られてないですね。

自分の父は、病気にもかからず、83歳まで生きた人でした。道路のそばのプランターにうずくまってたかと思ったら死んでたんですよね。その人の生き方を考えたら、長生きするには、自由で、わがままな人ではないかと思いますね。

欲が強い人も長生きしますね。

健康診断で、細かくわかりすぎるのもどうかと思う。今までわからなかったことも細かくわかるようになり、医者が病気をつくっている状況にもなっていますね。

先端技術が発達しすぎてしまうと、遺伝子で病気などが分かりすぎてしまうとナチスのようなことになっていってしまいますね。


1.病とはなんなのかといったこと。
2、西洋医学と東洋医学。
3.心と身体の病。

等々色々議論されました。

第30回てつがくカフェ@ふくしま・ポスター完成!

2015年06月13日 10時42分47秒 | 開催予定
来週の土曜日、「第30回てつがくカフェ@ふくしま」 が開催されます。

またポスターを作成いたしました。

「イヴのもり」 店内と福島大学M棟の掲示板にて公開しておりますが、こちらです。



今回は病気がテーマということで、病院っぽい配色にしてみました。

(あくまでも私のイメージの病院です。)

ところがこれもやはりプリントアウトしてみたらまったく色味が変わってしまい、

私のイメージの病院とはかけ離れてしまいました。

今回のテーマのサブタイトルが 「病気が教えてくれたこと」 なので、

以前にご紹介した本の画像も配しておきましたが、

残念ながらこの本は絶版になってしまったので、もう入手することはできません。

もちろん今回は 「本 de てつがくカフェ」 ではないので、

この本をあらかじめ読んでおく必要はないのですが、

一般の方々が書かれた体験談を交えた短いエッセイを120本集めた本なので、

とても読みやすいですし、なんといっても涙ちょちょぎれるほど感動的です。

これをほんの数本読んで、見よう見まねで書いてみた看護学生たちのエッセイも、

いずれもたいへん感動的でした (こちらこちらをご覧ください)。

ですので、必須というわけではありませんが、

次回のてつカフェに参加される方はぜひ何本か読んでみるといいと思います。

本は絶版になってしまいましたが、もともとウェブ上で公開されていたもので、

そのサイトは今も閲覧可能です。

本が出版される以前はちょっと見にくい設計で、

たくさんのエッセイを全部読むのは一苦労だったんですが、

出版とともにサイトも整備されたようでだいぶ見やすくなりました。

ぜひ一度こちら↓をご覧になり、

アステラス製薬エッセイコンテスト 「病気が教えてくれたこと」

ご自分もマネしてエッセイを書いてみてから参加されてはいかがでしょうか。

病気とは何なのか、みんなでともに語り合いましょう!



P.S.

ちなみに今回のテーマは以前に話し合った 「老い」 の問題ともリンクしている気がします。

あのときの議論も復習しておくといいかもしれません (こちら)。

その後にまさおさまが書いたブログ記事も関連するかも (こちら)。

第30回てつがくカフェ@ふくしまのご案内

2015年06月06日 06時50分23秒 | 開催予定
【テーマ】「〈病〉とは何か?―病気が教えてくれたこと―」
【日 時】 6月20日(土)16:00~18:00
【場 所】 イヴのもり(福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 飲み物代300円
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


6月の哲カフェのご案内です。
アートde哲カフェは本番だけでなく、相変わらず懇親会も盛り上がったわけですが、なんだかこれまでの疲れが溜まったせいか、その翌日、ワタクシは体調を壊してしまいました。
せっかく大好きなカレーを作ったのに、まったく食べられないし、一口食べても美味しくないのはとても悲しいことです。
ところで、世話人・小野原は最近、自身のブログ「まさおさまのなんでも倫理学」で、『病気が教えてくれたこと』を看護学校の講義で用いている記事をアップしています。
健康な状態のときには、みじんも気にかけなかったことに気づかされるという話は、とても興味深いものです。
そんなわけで、今度の哲カフェは、各人の「病気が教えてくれたこと」を通じて「〈病〉とは何か」について考えてみたいと思います。
特に、本を読んでおく必要はありません。

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

てつがくカフェって何?てつがくカフェ@ふくしまって何?⇒こちら

てつがくカフェの進め方については⇒こちら

てつがくカフェ@ふくしま世話人