てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第35回てつがくカフェ@ふくしまのご案内―「〈名づけ〉とは何か?」―

2016年01月18日 17時19分21秒 | 開催予定


【テーマ】 「〈名づけ〉とは何か?」
【日 時】 2月13日(土)16:00~18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055)
【参加費】 300円  
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


吾輩はヒトである。
名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。
何でもガラス張りのフカフカした所でミャーミャー泣いていた事だけは記憶している。
吾輩はここで始めて人間というものを見た。
しかもあとで聞くとそれはチチオヤという人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。
このチチオヤというのは時々我々を捕まえて煮て食うという話である。
しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。
ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。
掌の上で少し落ちついてチチオヤの顔を見たのがいわゆる人間というものの見始みはじめであろう。
(夏目漱石『吾輩は猫である』の改作)



去る1月16日、世話人・杉っちの息子がめでたく生まれました
おめでとー
お母さん、息子くん、よく頑張りました
放浪癖のあるノラ猫のようなお父さんだけれど、当てにしないで立派に育つんだよ

というわけで、この誕生を祝してテーマは「〈名づけ〉とは何か?」です。
彼のために前々回の哲カフェ2次会では、名づけのアイディアを無責任に語り合い、盛り上がりました。
杉岡てつがく、杉岡カフェ、杉岡@ふくしま…
こんな名前では、本人はたまったものじゃないでしょうが、そもそも〈名づけ〉は哲学的です。
固有名を与えようとする名づけは、しかし同名の人がたくさん存在する以上、一般性を帯びてしまうものです。
(先日、ワタクシは漢字もすべて同じ同姓同名の方と名刺交換をして、お互いに微妙な思いをしたものです。)
親や先祖の名前を引き継ぐ方もいらっしゃいます。
それぞれになにがしかの意味を与えようとして行われる〈名づけ〉は、しかしそこにおいて、その人の固有性を奪いかねない行為ではないでしょうか?
しかも、名前は本人の意思を超えて一方的に〈名づけ〉られるものです。
そこに何か哲学的な問いが潜んでいるようにも思われます。

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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第33回てつがくカフェ@ふくしま報告―「憲法9条を哲学する」―

2016年01月10日 19時00分48秒 | 定例てつがくカフェ記録
遅くなりましたが、年明け前に行われました第33回哲学カフェ「憲法9条を哲学する」の報告文が仕上がりました。
今回は世話人・杉岡がまとめました。
久しぶりにTUKTUKを会場にして、21名の方々にご参加いただきました
われわれは存じ上げなかったのですが、NHK番組「あさイチ」で哲学カフェが紹介されたそうで、それを見て関心を持たれた方が、栃木県からわざわざお越し下さいました。
ますます哲学カフェの活動が全国的に活発になりそうですね。
以下ご笑覧下さい。


憲法9条を哲学する!

日本国憲法第9条は、国民にとって非常に大事な憲法だと考えていると思います。
ポイント3つある。1.国際平和を希求する。2.武力の行使を永久に放棄する。3.軍隊を持たない。戦力を持たない。この3つが骨子となっている。
最近の法案等で色々な解釈がいろいろ出ているが、〈国際平和を希求する〉ということが大事なので、それを守っていかないといけないと思う。

国際平和を希求するというのは、一応自民党も国際平和を希求しているようです。でも、その手段が違っている。

要するに武力放棄だと思う。子供のころから暴力はいけないといわれてきた。暴力はいけないという根拠としてこの条文を読んできた。今、困っているのは、「現代暴力論」をよんだが、現在暴力しかないじゃんと一方で言っているが、それは、おかしいんではないかと改めて暴力の否定を先月今月と自分は考えている。みんな暴力はだめだと言ってるのに、なんでそれでダメなのだろう?9条が大事だと思ってる人がここにいる人は多いと思う。憲法9条に何が足りないのか今一度考えてみたい。

私も悩んでいる。暴力がいけないという話にするか、権力の話にするのか。ドイツ語では暴力と権力は、同じ言葉です。権力は暴力装置だし、国の警察組織は、暴力装置ではないか。戦争を抑止する暴力としての権力もあるが、国家が外国と戦うときに行使する暴力(権力)を議論するのか、その両方を含めて暴力を議論することは難しいく悩んでいる。

憲法は詳しくないが、地球上の人間として大きくとらえた場合、一番身近なところから考えると、家族や隣人の問題の解決を考えた場合は暴力はないですし、使いたくないです。身内、近所、社会と広げていくと最後に国とか出てくると思います。でも、根本にあるのは、やはり人だと思います。人と生きていく には、愛が大事だと思う。
同じ人として相手を見る。地球にいる人は皆兄弟と考え、共存していく方法を考えると愛と知識が大事ではないか。愛と知に元ずく人間平和を考えたらいい。そのほうがシンプルではないか。そこから考えていくのがいいのではないか。

憲法は、国のふるまいを規定するものだと思う。個人の問題として落して考えるものではないのではないか。自分の身を守るための暴力やけんかとか、警察などの暴力装置は必要だと思う。憲法は、「国際紛争の解決ためには暴力は使わない」と書いてあるが、個人の関係では、無くそうとしても難しい。9条は、国と国の争いは、暴力で解決しないようにしよう、と言っているので、これは、真っ当だと思う。求める形であると思う。

国と個人レベルのこととは、常に行ったり来たりして自分は、考えている。一つに重なるような理論・理屈が必要ではないか。それで、いつも分からなくされていると思う。個人のケースを例に出し、殴られたら殴り返さないのか?との言い方で、戦争も攻撃されたらし返すことになる。利用されてしまう。愛・倫理・正義とかを考えると、他には、基本的人権を尊重することが大事であると考える。この基本的人権の尊重をどんどん太くしていった考え方が憲法9条に端的に表れていると思う。

私は、9条も憲法も改正したほうがいいと考える。この条文は、①そのまま残すべきなのか②理念として残すべきか③改正すべきなのか、3パターンあれば、皆さんは、どれを望むか知りたいです。国民が自分たちで選び取った憲法ではないので、国民の合意で戦争を放棄したわけでもないし、なので、作り替えたらいいのではないか。結果として同じになったとしても。今の議論もない状態では、もろ手を挙げて賛成とは言えない。

押し付けられたとは、どの点で押し付けられたといえるの?

アメリカが作ったんだと思うのですが。戦後70年全然改正等されていないのがおかしいと思う。9条のみでなく全文にわたって。

日本から当時、草案が何個か出ている。GHQがそれを止めさせて変更し、その後、一応、選挙をして決められている事実があります。それは押し付けといっていいのか?

その決定のプロセスは形上整っていたのか?整っていたとしても、実質見た時にそれでいいのかと?

実質とは、どこを指すかわかりません。

国民の代表者が選んで憲法ができたが、果たしてそのやり方でできた憲法が良かったのか?常に思います。

でも、それ以外の選択はありえましたか?

ずっと改正されなかったのもなぜか?疑問です。

私は、押し付けられたと思っていない。自分たちで選び取ったのが、戦後の始まり考えている。国体を保持するためにGHQが自民党案を改正させて、作成されたのは事実だが、強制されたとは考えてない。

私も押し付けではないと思っている。これは、押付けなのか?と生徒に問うたことがある。割と多くの人が、押し付けられているイメージである。押し付けられているから、変えたほうがいいよね、とどこを変えたらいいのかもわからず、そういう感じが多く見られて、このまま改正されてしまうと、怖いなと思ってしまう。

アメリカの下準備とかもあったと思うし、最初は、押し付けだったのではないか。日本は、敗戦国だったことを踏まえないといけない。前提としてフラットではなかったのでは?憲法の成立過程では、反対したのは、共産党で、賛成は、自民党だった。昔から押し付け憲法という議論はあるが、じゃ、そのとき自分たちは、どう選べたか考えないといけないのではないか。

押し付けとも、押し付けでないともどちらもわかります。今でも、選挙で選んだ人が作っている法律等を我々は守らざるを得ない。自分の意見と全く同じということもないし。憲法制定時は、あの時点ではしょうがなかったのだと思う。でも、今は見直すことができるのだからきちんと議論をして納得いく形にしていくことが必要だと思う。結果として同じようになるかもしれないし、違うような形になるかもしれない。

主体的に選ぶとか、まっさらな状態で選ぶとか、そんなことはありうるのか?と思う。敗戦後のあの状態で、平和憲法を自分たちでつくれただろうか?というと、作れなかったと思う。アメリカからの押し付けと言えば押し付けのような気もします。外部から与えられてそこから選び取っていくという形が事の真相な気がする。明治維新もそうだけど、外部から何かがやってきてそれに適応して、内果してきた。でも、いったん改正して、作り直すというのは、フィクションのような気もしている。主体がどう立ち上がるかだと思う。

戦後の人たちが主体的に1から作ることはできなかったと思う。あの憲法を選ぶのはしょうがなかったと思う。でも、社会は様々に変化しているのに、憲法に限らず戦後ずっと変わらないのはおかしいのではないかと思う。ほかの国は、毎年変わっている所もある。憲法だけ変わっていないのが変だと思う。

どうして変化しないのが不自然なの?

周りの社会、時代とかが変化しているのに憲法だけ、変わらないのは、私には不自然だと思う。細かい条文などは、時代に合わせて変化しているが、憲法だけ変わらないのはやはり変だと思う。

時代が変わっていろいろなものが変化しているのに、変化のスピードも速いのに何の条文も変わってないのが変ではないか?ほかの条例とかは変わっているのに。私は、大学院に行って初めて憲法を勉強した。日本国民は、憲法の勉強をきちんと受けていなくて、9条と憲法を同じに考えていて、平和が大事だから9条が大事で憲法も変えないほうがいいと、単純に思っている人が多いと思う。だから、もっと憲法を知って、色々と議論できる素地が国民にできてくることが必要。安倍さんみたいな意見もありだと思う。

一応改正論者です。国民があの条文をいい方向に変えていくことができるか疑問。

まず初めに、天皇が憲法の初めに出てきてる。国民主権と言いつつまず、天皇が出てきている。

憲法は、理念としとらえている。でも、憲法は法であるので、理念として考えるものか、法として考えるものか考えるのもいいのかと。

憲法と法律をどう考えたらいいの?

憲法は、絶対的権力を持っていた王様から、人権を勝ち取る過程で出来た。憲法は国を治める目的できた。それを守っていくために分野分野ごとに作られるのが法律です。

憲法がこの国の大きな枠組みですよね。本質みたいなものですよね。

夫婦別姓が正しくないという結論は、憲法に違反しているかどうかをさばいたもので、別姓が悪いと言っているわけではない。

法律を今一度見直すことが必要ですよね。

民法もここ100年ぐらい変わってなかったが、ここ最近ぽつぽつ変わってきている。影響の大きい法律ほど変化がなかった。経済状態の変化を受け、民法・商法も変わってきている。

民法とかそういった法律が憲法に追いついていないと考える。民主主義がうたわれているが、国民が咀嚼できていない。きちんと条例とかを見てどこが憲法と合っていないかなどきちんと見ていく必要がある。上野千鶴子さんは、選憲という言い方をして、憲法を選び直すことが必要と言っていた。民主主義と言っているが全然民主主義をやっている感じがしないで生きてきた。

憲法が自分の中でちょっと前に流行ったが、憲法をどこで勉強したらいいかわからなかった。大事なのだから各家庭に1冊おいたらいいと思う。結局、本を買ってきて読んだ。小さい時から触れていることが大事ではないか。小さい時から憲法に書かれていることが分かれば、それと現実が違っていることを知って、どんどん賢くなるのでは。普段の生活は、憲法によって守られているのに、みんな憲法を知らされていないのがおかしい。

大学で社会科の教員をしているが、そういうことを言われると社会科の敗北ではないかと思う。自分は、何をしているんだろうかと。でも、みんな知ってますよね。

日本の社会科教育では、近現代史をあまりやらないので、憲法はあんまり勉強しないですね。

いや、中学高校とか、公民分野の時間にやるはずです。

小さい時から憲法に触れていれば、それなりに考えて行動できる人間になっていたのではないかと思う。

教科書で習うことは習うが、知識としてであって、それで議論したことがない。現実と照らし合わせて議論することをしてこなかった。単なる知識としてはわかっていると思う。今年集団的自衛権の議論もあったが、戦争が嫌いだというのもわかるが、日本の国をいかにしていくかということを議論していくチャンスだと思うのだが、そういう訓練をしていないと思う。

平和主義と国際協調主義(国際平和)は、イコールではないと思う。イコールで考えているから9条改正という議論になるのでは。9条の平和主義と国際協調主義は齟齬が生じていると思う。国際平和のための実現のために暴力は必要なのかという問題がある。私は、学生のときは、改憲派だった。国際社会の貢献等を考えていた。学生当時にイラク戦争があり、ブッシュを応援していた。今は、護憲派になった。実は、震災でその考えが変わった。理由は、戦後70年というが、太平洋戦争を経験してる人が今も生きている。生きている人が居るんだからそれは、出来事であり、歴史ではないと。経験してる人がいる場合は、まだ出来事である。出来事と歴史を踏まえることなく憲法を改正していいのか?とある人が言っていた。傷痍軍人会が、こないだ解散した。自分の小さいころ足がなくアコーディオンを弾いてる人を見た。なぜあの人たちは、街頭であんなことをしてるのか、わからなかった。後々、大人から彼らは傷痍軍人の人だと教わった。会は、解散してもまだ、出来事は残っている。ここと、憲法改正を関連させて考えないといけない。それを踏まえたうえで、国際協調主義のために、戦力を使うなどを考えないといけない。
理想は、現実化するか?との議論があったが、この70年憲法9条が変わらなかったのは、平和だったからではないか。戦後は、良かれ悪しかれ平和があった。9条の平和主義は、国民が国に対して平和を訴えるもの。9条は、日本及び世界の人々が望む普遍的価値観であり、国家を縛っているものだ。変えるのであれば、全部変えないといけないと思う。
一番言いたいのは、日本に侵略してくる国があったら、世界中からそいつは反感をかう。そのとき、理想が現実になるのではないか。

憲法は、変えなくていいと思っている。変えないで、平和を守っていけたらいいと思うが、どっかが攻撃してきて、原発を5つも落とされたら、日本人全部死んでしまったらどうするの?と思う。全員死んだ後に、攻撃した国は、世界から糾弾され全世界からつぶされると思うが。そんなことが起こりえないとは言い難い。憲法は、自国の物であって、国際社会を規定するものではない。世界からは、あなたたち偉いね~、うちらには、関係ないけど、と思われるのか。理想ではあり国民的にはいいが、対国として考えた場合、有事のときにどう対応したらいいのかとか細かい問題が出てくると、どうしたものかと思う。

今の話は、憲法を改正しても全く同じ結果だと思う。憲法を改正しても攻撃されるし、死んでしまうのは変わらないと思う。核爆弾5つ落とされればそうなってしまう。もう、武力で守れる時代ではなくなっている。飛行機で攻撃する形になり、軍隊の前線がなくなり、軍隊を乗り越え国民を殺すような形になった。ゲルニカ・東京大空襲などは、軍隊同士の戦いではなく一般人を攻撃したもので、戦争の形が違ってしまった。軍隊は、撃墜される心配もなく爆弾を落とせる。国防の在り方は、もう、9条でしか国を守れなくなったのではないか。

理念としては、国際平和は、自民党も同じであるが、9条が、手段になりうるか?ということで袂を分かっているのではないか。 国民を守るため、攻撃されて守らなくていいのかということで、解釈拡大で個別的自衛権は認めてきた。さらに、今回、集団的自衛権を認た。これは、国際協調というが、所詮アメリカ・イギリスとの国際協調だと思う。そのために、9条の理念を変更していいのか?で、軍隊を持たないということは現実的か?というところだと思う。

核によって地球上がなくなる危険性が、ケネディーのときに現実的に最高潮になった。でも、ソ連もアメリカもそれがわかっていて、核を減らしていった。今も続く核軍縮はその時からです。それを、突き詰めたのが9条の精神だと思う。今、安倍さんがやっているのは、やられる前にやらないとだめだべ、という軍拡の理論。完全にアメリカの都合に合わせてやっているだけ。9条の精神で守れるものをしっかり守っていこうよ。NPOの人たちが活躍するとき、憲法9条を持っている国の人だということで、安全が確保されていることもある。

教え子に自衛隊の子たちがいる。ある子の父は、イラク・サマワに行ったりしている。頭の上を弾丸が飛んだりしたらしい。9条がなければ、もっと色々できたことがあると言ってた。でも、やれることを広げては、ダメだと思う。自衛隊は、災害救助とかは大事だが。9条を外すともっとやれることがあるというのは、歯止めが利かなくなってしまい、それはよくないと思う。やれることは何なのか、もっと知りたいと思った。

日本以外の国で、こういう憲法を持とうと考えてるところはあるのか?

コスタリカは、軍隊を持っていないようです。

自衛隊は、軍隊だと思うんですけど。

軍隊だと思うけど、一応人は殺せないことになっている。

あれは、軍隊だと思うし、70年間軍隊を持っていて平和が守られていると思うので、9条は矛盾した状態だと思うので、憲法を改正は必要だと思う。核爆弾の話までいかないにしても、一部を攻撃された場合、国は、国民の生命と財産をまもらないといけないので、理想を言ってるだけでは厳しいと思う。理想を掲げて、犠牲になって死んだ人が出てきた場合、それは、必要な犠牲として終わってしまっていいのだろうか。
 
9条をよく読むと、国民は、ゲリラ戦をするのは可能だと読み取れる。刀狩をされて武器は持っていないが、敵が攻めてきたり、敵が国だったとしたら、それに反撃することはできる。

でも、国に歯向かったら、それは内乱罪になりますよね。

自衛隊という形をとってしまうと、あれは明らかに軍隊で9条違反になってしまうから、国民一人一人がゲリラ戦のような形で戦うのだったらありなのかも。

本当に攻められてきたら、自分は戦うし、それが個別的自衛憲だと思います。現に攻撃されたら、されるがままに自分は攻撃しないという明治の潔い人もいたが、自分は、反抗する。正当防衛で戦うしかないと思う。

日本国憲法は、現実と矛盾しているが、矛盾を矛盾として抱えているから、平和が保たれているんだという意見(内田樹)もある。自衛隊は、軍隊で矛盾してると思う?

矛盾です!安保条約は、かなり憲法に矛盾していると思う。そのねじれの関係をどう折り合いをつけたらいいのか?矛盾は気持ち悪いというか。。安保関連法案は、突き詰めると集団的自衛権であるといえる。9条を守りたいけど、矛盾をどう解決したらいいかわからない。

自衛隊は、すでにあって、その自衛隊をどうするか?ということだと思うんですが。

外に出て行って、戦力は保持しないけど、活動できることになっている時点で、かなりまずいと思う。自衛隊の活動としてはないかなと思う。

いわゆる護憲派、という人たちの中でも、おそらく自衛隊をなくして戦車・戦闘機とかもなくしたらいいと考えている人は少ないのでは?だって、不安ですよね。9条の理想は大事だが、かといって明日から戦力を放棄するとなると、全面的に賛成する人はいないと思う。

矛盾しているから、直すべきだと思う。直すべきは、自衛隊の組織の在り方を変えたらいい。全部なくすとかではなく、災害救助は必要で、戦車をなくして、不安かというと、正直分からないです。

私は、戦車や銃がなくなったほうがいい。日本ではピストルをみんな持ってなくて安全であるから、同様に9条の精神で安全が確保されると思う。自衛隊は、国際救助隊にしたらいい。サンダーバードで、ガンガン海外に派遣したらいい。海外で恩を売って攻めてこれないようにする。

日本の中では、拳銃を持っていないから。ピストルを周りが持っているところで、自分が持たないのは不安ですね。

あの自衛隊を憲法9条の理念に近づくように変えていくことがいいのではないか。

自衛隊は、大陸間弾道ミサイルや核やクラスター爆弾などを持っていない。9条があることによって評価されていることが現実にあると思う。だんだんと一つ一つ武器などをなくしていくのがいい。議論が極端すぎているのではないか、集団的自衛権がいいか悪いかとか。

サンダーバードは、武器を放棄しそうもないアメリカや北朝鮮がいる中で組織として存在できるか難しいと思う。

日本は、拳銃がないが、警察は持っている。だんだんと、戦力の行使ということろから手を引いていくのがいいと思う。アメリカに理念的には、国際警察ではないがそのような組織にしていったほうがいいのでは。だんだんと変えていくのが望ましいと思う。今は、アメリカの子分としての感じが強く、それはほんとにダメだと思う。

その役割が国連ではないか。

9条は理念として守って、自衛隊もあいまいな形で存在させておき、周りが武器を捨てていったら、自衛隊も解体していくのがいいと思う。

自民党は、自衛隊を実力と言ってます、武力というと憲法違反になるから。
実力はいい言葉だと思う。実力という程度に縮小していけばいい。それに合わない9条のほうだけ変えようとしているのがおかしいと思う。

実力って何ですか?

最初は、警察予備隊でしたよね。それは、警察程度の実力ってことですよ。我々は、警察程度の実力は認めていますよね。それが一気に戦力じゃね~のというところまで行ってるのが矛盾してると思う。実力と戦力というのは、程度の差だと思う。軍事力も時代とともに変化している。実力とは、苦し紛れに、作った概念だが、意外といいと思う。

実力と戦力では、その言葉によるイメージが全然違ってくるので、そういう指摘はすごく大事なんだと思う。

学生のとき、憲法の授業を受けた時、相方は、自衛隊幹部だった。今の自衛隊の実力はアメリカの戦力より強いらしい。かなりの能力を持っていると言っていた。実力が戦力を上回っているということになる。それから考えると日本のはやはり軍隊ですよね。核の所持や装備の違いぐらいだ。

なぜ、自衛隊は、実力を挙げてしまったのか?

相手の戦力より実力が上がったのは、根まじめだったため?!

実際、向こうの戦力より実力が上じゃないとやられてしまうしね。

賛成派と反対派は、実力派と戦力派に分かれて、落としどころを考えるにはどうしたらいいか?考えてみた。賛成派だと、9条の精神が好きで、反対派は、物質的にお金を払って守ってもらったりするので、議論の次元が違っているので、損得で考えてみるのも一つの方法かと思った。経済の論理で考えてみる。9条を持つことが得だとなればいいのではないでしょうか。軍隊を持たないで、得だと思うようになればいいのでは?シリア内線で、フランスがクルド人と仲良くなったり、ロシア・アメリカ間で仲が悪かったりで、もし、第3次大戦になったとしても、9条を口実に、遠くで起きた戦争にアメリカを助けに行かないで、戦争をしてるところは金を使って損だが、日本は、戦争が終わった後に投資とかをして得すればいいと思う。そんな風に損得で考えてみるのもいいのでは?

議論が、平行線でそのまま終わることがよくあるが、目標に向かって今やるべきことへの議論をしっかりしていくべきだと思う。軍隊を持たないと決めたら、持たないできちんと外交関係をしていくにはいかにしたらいいか、武器を買う以上に真剣に考えていくべきだと思う。目標へのプロセスが大事。

今、9条を持たされた政治家は、かわいそうだと思う。今の政治家たち(タレントや2世しかいない)が9条で日本を守れないと思う。政治家では、9条を使いこなせない。軍隊を使って守りたいから、9条は足かせである。彼らに外交力もないでしょ。

当時の自民党は、戦争世代がかなりいたから、9条を道具としてなんかしていた。

戦争知らないとだめなんですかね??

昔は、9条があるから、何とか自衛隊を派遣しないですんでいた。アメリカから9条を与えられたが、それを理由に海外派遣を免れていた。プロレスラーとヤンキーしか政治家がいなくなっているが、それも自分たちが選んでいる。昔のような政治を今の政治家には求められなくなっている。9条は理念として保持していくしかないと思う。

9条は押し付けかという議論が最初出たが、今の政治も自分たちが選び取ったかというとそういう感じもしない。今の首相も、理念としては平和を求めているが、手段として彼ら政治家と我々は違うのではないか。憲法を変えずに、法律の運用レベルで変えるというのはできないものだろうか。安保も一度、止めちゃっていいのではないか。所詮、国と国との契約関係なんだし。でも、そんな話出てこないですよね。

今9条があるのは、安保があるからではないでしょうか。でも、アメリカは日本を守らないと思います。

不安だから、自衛隊を持つというのは、どうなの?日本なんてとってもいいことなくない?日本を支配しても漁業権ぐらいじゃない?レアメタルとかあるのかわからんが。何のために誰がほしいの?私は、満州がほしいと思うけど、向こうから見たら、こんな国いらんでしょ。

技術とかがほしいのでは?

でも、それは、戦争では買えないよね。

金で買えないから、戦争を起こすのでは。

でも、技術を得るために起こした戦争ってある?

中国人は、そんなことを抜きに地球は自分たちのものだと思ている。

それは、レベルに合わせた話でしょ。戦争は、もう、観念的なことでしか始まらないのではないか。ブッシュのイラク攻撃もそうでしょ。観念を武力で実行しちゃダメでしょ。それに対しては、外交で対応しなければいけないと思う。

暴走族も勢力を広げたいし、そういうものでは?損得を超えた本能では?

日本を支配しても支配しづづけるのは難しいのでは?戦争に勝ってもその後が大変だと思う。

戦争自体が目的ということもある。

アメリカもそれでは採算が合わないから、世界から手を引き始めている。

日本は、鬼畜米英として戦ったが、負けたら従順になっていく生き物なのかな。

奴らとかそういう敵対する観念じゃないですかね。そこを直していけば戦争をなくせるんではないでしょうか。

ベルギーかオランダが震災後原発を導入するかどうか決めるときに、勉強するから3年間待ってくれという話があった。で、3年間を勉強のために獲得したようです。日本には、ちょっと待ってよという人が居ない。周りにとか、ちょっと上にそういう人がもう少しいてもいい気がする。そういう対処の仕方を学んだらいいと思う。今日は、憲法について知ることができたが、それ以外にもいろいろな情報が入るようにしていったらいい。それによって自分の頭も柔軟になると思う。

一般論としてはそう思うが、9条に関しては、ある種最先端だと思う。世界史の最先端で、世界から学びようがないと思う。

学校で、あんまり学ばなかったから、新聞を見るが新聞でもないし、だから、偏りはあるが、インターネット等を利用し勉強しているが、本当に最先端のことだと思う。最先端すぎてみんなついてこれてない。日本人も。

1999年に、ハーグ国際会議でセビリア声明が発表され、10条にわたって出されたが、その第1条に、世界も日本の第9条のような憲法を作るべきだとうたっている。

戦後に生きる我々が今試されているのではないか。我々祖父の時代の太平洋戦争。一番揺れ動く時期だと思う。どういう戦争形態であれ、戦争が始まるのは簡単で、終わるのが難しい。これをふまえたうえで、憲法9条を改正なりしたほうがいい。改正し、自衛隊を軍と認めたりするかもしれない。変えたら、未来の子供たちにして、日本は戦争する国になったんだよ、といえる覚悟があるかだと思う。昔、母に、なぜ戦争ないのに平和なの?と聞いたら9条があるからだよ、戦争がない国なんだよ、と言われた。憲法は日本国民のものであって、日本人にしか守れない。現法は、戦争の犠牲による多くの血が流れて作られていると思っているので、しっかりと9条を考えていく必要があると思う。

「終戦日記を読む」(野坂昭如編)を最近探してきて読んだ。広島で被爆し亡くなった森脇洋子さんのを一番初めにもってきた。日記には、「今日は、家庭修練日である。叔父が来てにぎやかだった。明日(6日)から一生懸命やろう!」と書いてある。戦争になったら、哲学なんてやってる暇はないし、財産等も国家に奪われてします。
戦争になったら人が変わり、すべての人が鬼畜になると思う。憲法は、他の法律とは、全然違うと思う、そういうことをしっかり考えて改正等を議論する必要があると思う。


第34回てつがくカフェ@ふくしまのご案内―「ルーツとアイデンティティを問う」―

2016年01月07日 06時26分04秒 | 開催予定
【テーマ】 「ルーツとアイデンティティを問う」
【日 時】 1月9日(土)16:00~18:00
【場 所】 イヴのもり
     (福島市栄町6-4 南條ビル2F・TEL 024-523-5055
【参加費】 飲み物代300円
【事前申し込み】 不要 (直接会場にお越しください)
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


今年初は【現場/当事者から考えるシリーズ・第2弾】として、(有)ささき牛乳の佐々木光洋さんのお話を伺いながら「ルーツとアイデンティティ」について哲学的に語り合いたいと思います。
映画「ある精肉店のはなし」を題材にしたシネマdeてつがくカフェを開催した際、ゲストトーカーとしてお招きした佐々木さんは、ただいま福島民報新聞の「民報サロン」の執筆者として、おもしろいエッセイを書かれています。
それを読ませていただきながら、思いついたのが今回のテーマでした。

いつも佐々木さんのお話から感じることは、彼の地に足の着いた酪農家としての誇りと、地域の歴史と人格が結びついた文化人としての薫りです。
生まれ故郷を離れ、デラシネ(根無し草)のように様々な地域を渡り歩いてきた世話人たちにとって、その生き方は大変興味深いものです。
いったい、この時代に生まれた私たち個々のアイデンティティが、歴史のルーツと結びつくとはどのようなことなのか。
佐々木さんのお話を伺いながら哲学してみましょう!

以下に、佐々木さんが投稿された民報サロンの掲載記事二編を、ご本人のお許しをいただいてアップさせていただきます。
今回のテーマを考えるための参考としていただければ幸いです。


「民報サロン」第2回掲載記事・佐々木光洋

私は鰻を食べません。
体に合わないとか、価格が高騰しているから(笑)ではなく、一つの信仰です。
亡くなった祖母が食べない人でした。
なぜ?と言う問いに「虚空蔵様があるから。鰻は虚空蔵様の使徒だから」と。
家の敷地内に小さな虚空蔵菩薩のお堂があって、旧暦の九月一三日にささやかに奉るのですが、子供の時はそれらの話の由来が何なのかはわかりませんでした。

それが明らかになったのは家の本棚に眠っていた「古郷之忘形見」を見つけたからです。
これは福島市佐原にある慈徳寺の元住職・故橋本邦雄さんが昭和五九年に刊行した郷土誌で、収められている内容は「奥州信夫伊達二郡略年代記」「奥州信夫郡佐原村根元記」「義民太郎右衛門関連資料」と盛りだくさん。

「略年代記」「根元記」は、佐原出身で江戸で易者として生きていた近野和安さんが一七七〇年代に書きまとめた風土記で、住んでいた人の名前、田畑の様子、あった出来事、社会的な事件等々、特にローカルなネタの宝庫と言える本なのです。
この中に「虚空蔵様が子供たちと泥遊びをしていて楽しんでいたのを大人に止めさせられて、夢枕に出てきて大人に文句を言った」話や、「隻眼の鰻が天から井戸の中に降ってきて、助けて裏の鍛冶屋川に離してやった」話、「信達一の古木の桂の木の枝を切って鉢を作ったら、夜な夜な桂の木の精が「鉢を返せ〜」と声を出した」話等々、子供の頃に聞いたことのある話が満載なのです。
またこの本の中には、自分の祖先の名前が出てきたり、「神様の畑」と呼んでいる畑の一角にある石の祠が「星の宮」と言うとてつもなく素敵な名前であることを初めて知ったりしたものでした。
ルーツが明らかになっていくときのワクワク感をこの本を開くたびに感じるのです。

橋本先生(小学校の教壇にも立たれていた)の説明によると、江戸に移った和安さんは、一度書き上げた書冊を江戸の大火で消失したのだそうです。
再び筆を取るにあたり「某 古郷の忘れ形見と存じ またまた その後心配り 再書染筆仕り申し候。」と、故郷佐原を思う気持ちをしるし、故郷の大地に取り組み「暇なく苦しみ申す」佐原の農民の歴史を後世に残さんとする切々たる心情を述べている…とのこと。
二五〇年前の和安さん、そして三〇年前の橋本先生の「故郷の素晴らしさを未来に!」との思いに感謝せずにはいられないのです。
「よくぞ残していただいた!」という思いとともに。
私たちは今の時代に生きる「個」であるのと同時に、過去を受け、未来に伝えていく「つなぎ役」。
今の時代ならではの「つなぎ方」とはどんな形なのか?自分に出来る事は何なのか?とこの本を手にするたびに思いを巡らさずにはいられないのです。


「古郷之忘形見」は福島市立図書館にも収蔵されていますので見ることができます。
 そうそう、鰻の話に戻るのですが、まるっきり食べたことがないのかというと一度だけ…。
高校卒業後北海道の牧場に三年住み込みでお世話になった時に、オーナーがご馳走するからと…。
さすがに断っては失礼だなとか、自宅じゃないから大丈夫とか言い訳を考えつつ、いただきました。
味?うん、おいしかったです。



「民報サロン」第5回掲載記事・佐々木光洋

今から三五年前、私が福島市立佐原小学校五年生の時に全校児童が出演する劇が上演されました。
「義民 太郎右衛門」
江戸時代の中期、将軍吉宗の時代。福島市の南部は東西にわたって幕府の直轄地・天領でした。
天候不順による作物の不出来で飢饉が起こり、食べるのに困った農民の一揆が起こりました(信達百姓一揆)。
大森代官所への一揆もうまくいかず、その後数人で江戸に登り目安箱へ直接直訴すると言う行動に出た一人が私たちの地区出身の佐藤太郎右衛門様でした。
結果として一揆を起こした首謀者として太郎右衛門様は地元に戻され打首獄門となりました。
しかしながら故郷のために体を、命を張って行動された太郎右衛門様達のことを「義民」として地域の方々は敬ってきました。
あづま総合運動公園に隣接する角に「義民終焉の碑」が立っています。

小学生だった私は「地域に昔偉い人がいた」と言う認識でしかなかったのかもしれません。
その後大人になって家の本棚に眠っていた「古郷之忘形見」を見つけ、その中に小学生の時に演じた劇が、太郎右衛門様が義民となってから二五〇年祭の時のものであったということを知りました。
自分が十一歳のときに二五〇年であるならば六一歳のときに三〇〇年祭がやってくる…。そのことが頭の片隅に残るようになりました。

二〇一一年、震災によって私は「生きづらさ」を感じた時に、過去にも同じような生きづらさがあって、しかしそれでも自ら考え行動に出た太郎右衛門様のことを強く考えるようになりました。
同時にその行いを次の世代に残そうとした故郷の多くの名も無き人のことにも思いを馳せるようになりました。

太郎右衛門様が目安箱に出した直訴状。
これは故郷の人々の中で秘密裏に受け継がれてきたそうなのです。
紙がボロボロになれば新たに書き直され、次の世代に渡されてきたのです。
この「想い」がなければ私たちは自分達の故郷で過去に何があったのかということに知り得なかったかもしれません。

ならば今を生きる私達も次の世代にこれを伝えていく必要性があるのではないか、と考え「義民太郎右衛門を語り継ぐ会」が二〇一二年に結成されました。

太郎右衛門様の劇を復活させることはもちろん、ゆかりの地を歩くスタディーツアーのようなものも面白いと考えています。
太郎右衛門様一族が指揮をとって開発された太郎右衛門堰に光を当てることにも取り組みたいものです。考えを巡らすだけで、やはり地元には多くのコンテンツが眠っている!と言う思いにさせられます。

命に限りがある以上、一五年後の三〇〇年祭(二〇三〇年)には関われても三五〇年祭はきっと無理であろうと(笑)
その時に大人になっているであろう子供達が故郷の歴史に興味を持ち、それを自分達が担っていくのだと言う思いに至ってくれるような「キッカケ」を作り、「想い」を語り継いでいく必要性を強く感じているのです。
直訴状を書き直し伝え続けた過去の名も無き人たちのように!



お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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社会学者・小熊英二氏、フォーラム福島に来たる!【拡散希望】

2016年01月05日 18時41分09秒 | 開催予定


あの社会学者・小熊英二氏がフォーラム福島に来ます
といっても、てつがくカフェ@ふくしまが絡むわけではないのですが、いつもお世話になっているフォーラム福島支配人の阿部さんから宣伝拡散の依頼がありましたので、ここにご案内申し上げます。

今回は、小熊氏自らが監督されたドキュメンタリー映画「首相官邸の前で」の上映を鑑賞した上で、DAPPEという福島版SEELDsともいうべき若者グループとのトークセッションが行われます。
個人的に小熊氏の著書には大いに勉強させられたこともあって、このような機会が福島で設けられることに感慨もひとしおです。
ぜひ多くの方々にご参加いただければ幸いです。

【開催日程】 1月23日(土)13:00~16:00(上映→トークイベント)
【場  所】 フォーラム福島