てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第5回てつがくカフェ@ふくしま開催のお知らせ

2011年08月31日 21時34分22秒 | 開催予定
第5回てつがくカフェ@ふくしまの開催が決定いたしました。

テーマ:「〈正義〉って何だろう?」

日時:2011年9月24日(土)開催時間 16:00~18:00

場所:サイトウ洋食店
   福島市栄町9-5 栄町 清水ビル2階・JR福島駅から徒歩4分・福島駅から313m・℡024-521-2342
   http://ggyao.usen.com/0005016325/

費用:ドリンク代(珈琲300円)

事前申し込み:不要(直接会場にお越しください)
ご不明な点は下記の問い合わせ先までご連絡下さい。
問い合わせ先:fukushimacafe@mail.goo.ne.jp

※【依頼】てつがくカフェ@ふくしまではA5サイズのチラシを作成しております。もし、チラシを置いていただけそうなお店や公共機関、学校等ございましたら、世話人までご一報いただけると幸いです。

(てつがくカフェ@ふくしま世話人)

 
 お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
 飲まずに聞いているだけでもけっこうです。通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
 わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
 ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

第4回カフェ報告

2011年08月28日 13時30分08秒 | 定例てつがくカフェ記録


第4回テーマ「血は水よりも濃いのか?―家族はどこまで他人か?―」

「血は水よりも濃いのか?」
この言葉は、家族のつながりの強さは他人以上であるという意味で用いられます。
しかし、この場合の「血」とは何か?「水」とは何か?「濃い」とは何か?
その内容をめぐって、そしてその関係性の優劣をめぐって議論は深められました。

まず「血」といった場合、それは血のつながった家族を指し、「水」といった場合はそれ以外の他人を指すものです。
「濃い」とはその血のつながりのゆえに、家族同士の愛情は深いのだという意味でしょう。
けれど、「生みの親より育ての親」という言葉もあるように、単なる血のつながりだけでは愛情の深さを意味しないのではないでしょうか?
これについては、ほとんどの参加者がテーマの問いに対して「NO」と答えていることからも確認されました。
しかし、「NO」と答えるにもかかわらず、「あたたかい家族が欲しい」や「子どもは欲しい」、「神から与えられた生殖機能は使わなければならない、子どもを持つことは義務である」との意見も少なくありません。
これはどうしたことでしょう?

これについては「家族だから愛情が深い」のではなく、苦楽をともに共有できるからこそ関係性が深くなるのであり、その「存在」が家族なのだという意見が挙げられました。
つまり、そのような関係性はやはり必要だというわけです。
「愛とはともに過ごす時間である」という考えからすれば、その通りでしょう。
すると、「血」とは必ずしも生物学的な意味で用いられるものでもなさそうです。
実際、参加者の中には、血縁関係にはない他人同士の共同生活をされた方から家族との異同はないとの意見も出されました。
けれど一方で、その共同性が最終的に死の看取りや介護などまで可能かといわれると、それはよくわからないとのことでした。

そこには「他人はしない(できない)けれど、家族にはする(できる)こと」があるのはなぜか、という問いが含まれています。
たとえば、介護において排泄処理は家族だからできるとか、他の子にはしないけれども自分の子には躾と称して暴力を振るえるなど、身体的なものへの直接性が家族においては認められているように思われます。
実は、これはDV(ドメスティックバイオレンス)のように、もっとも安心できる領域だとされてきたはずの親密圏において、なぜ深刻な暴力が可能になってしまうのかという問題とも密接です。
意見の中には「家族には弱みを見せることができる」が、それは家族に暴力を振るうこととの関連性も指摘されました。
というのも「暴力」とは「弱さ」の現れだからです。

この問いに対しては、逆に家族だからこそ排泄処理などはして欲しくない、むしろ他人の方が気楽に任せられるとの意見も出されました。
にもかかわらず、親-子関係において「イライラする」感情が生じてしまうのは、それが親子同士で「似ている」部分が見えるがゆえにであるとの意見が出されました。
ということは、「似ている」がゆえに暴力も可能になる、なぜならそれは自分だからという理屈も成り立ちます。

実際、親子とは自分と鏡の関係であり、知らない自分を映し出す関係性であるとの意見も出されました。
しばしば「近親憎悪」という言葉も用いられますが、その意味で言うと「血」とは生物学的に否応なく似る部分を共有してしまうがゆえに生じる愛憎関係のことかもしれません。
よく「愛」と「憎しみ」は表裏一体のものだといわれますが、その意味で言うと、この「血」によって「似る」ことが愛憎を生み出すということでしょうか。
すると逆に、「血」が「濃い」とは、家族関係には無条件に「無償の愛」が備わるという意味も含まれます。
果たして、この家族への「無償の愛」とは生来的に備わるものなのでしょうか?
もちろん「備わる」との意見もあります。「備わると思いたい」との意見もあります。

それについて、やはりDVとの関わりから興味深い意見が提起されました。
しばしば虐待を受ける子どもはその被害を親を庇うかのように、その事実を隠すことがあると指摘されます。
実は、それが、子どもがDVという暴力空間で生きるための対処術として用いる「無償の愛」という論理だというのです。
どのような意味か?
その意見によれば、子どもは交換的な愛によって生きることはできません。
「これができればこれをあげるよ」といったやりとりでは、身がもたないからです。
子どもは無条件に与えられる贈与としての愛がなければ生きていけない存在なのです。
もちろん親にしてみれば、わが身の分身である子どもに対する所有欲やエゴイズムの現われとしての行為があるでしょう。
DVはその極端化した現象です。
しかし、子どもにしてみれば、それが無償の愛の現れだとみなさなければ生きていけない。
さもなければ親から見捨てられたことを意味し、その子の生命は危機を意味するからです。
すると、親から無償の愛を受けているとみなさなければ生きていけない子どもにしてみれば、それが親を庇う=自分を守る行為として転化されるというわけです。
その意味で子どもにとって家族に備わる「無償の愛」とは、生きるために「あるべきもの」とみなさざるをえないものとなるわけです。
しかし、そうであるがゆえに、それは「偽装の無償の愛」という装置なのです。
なぜなら、「血」とはそれが無条件に備わっている関係性のことだと、説明なしに納得させるためのメタファーとして機能するものだからです。

これについては、歴史的にみても「血」という言葉が、説明なしに何かを結束させる力が働くメタファーとして機能してきたことを指摘する意見もありました。
しばしば家族や父性・母性の復権を求める主張が、個人主義化を批判し共同性を回復するために機能するというのはこの文脈において理解できるでしょう。
その一方で、それがヒップホップの歌詞に散見されるなど、最近の若者文化に現れているのはなぜなのかという問題提起もありました。

さて、この重い意見との関わりでは、次の意見も大切であるように思われます。
その意見によれば、家族とは自分の行動が制限される「邪魔な存在」であるにもかかわらず、「離れたくても離れられない」関係性だということです。
たとえば、日本では犯罪加害者の家族を同罪とみなすような文化があるいとされます。
その罪を当人以外に拡大させることは非合理以外の何ものでもありません。
にもかかわらず、その意見によれば法的な意味での罪ではなく、一緒に抱えていくような義務が家族にあるというのです。
なぜなら、それは「血」であるがゆえにそうだというのです。
興味深かったのは、これがけっして家族には愛が存在するからということではなく、家族とはそれを抱える関係性そのものをさすものだという点です。
したがって、その関係性においては「無償の愛」があるからではなく、「無償の愛」があるとみなさなければ、家族関係で阻害されることそのものを納得できない、自由を制限されることがやりきれないからだというのです。
これを先に挙げた「偽装の無償の愛」と呼ぶには躊躇われますが、しかし「愛」があるとみなさなければ生きていけない関係性という意味では、奇妙に符合する議論であったように思われます。

私(渡部)が個人的にこの意見を聞きながら思い出すことは、やはり親に対する子どもの家庭内暴力においても、やはり責任感が強い親ほど「自分の子どもだから」との意識から、すべてを家族だけで抱え込むケースを思い起こします。
そこにおいてもやはり「親は子どもを愛すべきもの」とみなす論理が、無条件に備わっていたのではないでしょうか。
そうであるがゆえに最悪の結末に至ったケースさえあるでしょう。
どうも、「血」が「濃い」という論理が生来自然に備わるものとみなすことには、そのような暴力性が孕んでいるように思えてならないのですが(個人的な事情が強すぎるのでしょうか・・・)。
むしろ、血縁を超えた関係による新しい関係性は時代を追うごとに多様性を増しているように思われます(フランスのPACS法しかり)。
それがよいとか悪いとか言う議論を超えて、社会自体がその関係性によってしか成り立たなくなっているのかもしれません。
その意味で言うと、「血」に結束を収斂させようとする議論は、もはや時代のスピードに追いついていないのではないでしょうか?

さて、議論は「血」と「水」、「濃い」という点に集中したため、ファシリテータとしては迂闊にも「家族はどこまで他人か?」という点について深めることを疎かにしてしまいました。
ただし、この点に関しては親の期待をどこまで子どもが背負わされるのか、という問いについて提起させていただきました。
親の世代には成し遂げられなかったことを子どもに代理させる問題、つまり分身とみなす親のエゴイズムへの問いです。
親に自分が他者であることを教えてあげるのは子どもだけではないでしょうか。
これについては、先行世代の欲望が次世代で成し遂げられてしまう時代のスピードが早くなっているがゆえに、その代理のエゴイズムが強くなっているとの意見も出されました。
いずれにせよ、この点については宿題として積み残した感があります。

毎度のことですが議論はこれに尽きませんでしたが、そのすべては書ききれません。
あるいは書き手の誤解に基づく解釈になっているかもしれません。
その点につき、、ご参加いただいた方には、ぜひコメントにてファシリテータが見逃した議論をお書きいただければ幸いです。
また、参加されなかった方もどんどんお書きいただき、ブログ上での議論が活発化すれば幸いです。

ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

第4回カフェ・参加者感想

2011年08月28日 08時40分32秒 | 参加者感想
第4回カフェは10名の参加者で開催されました。
毎度のことですが、ご自身の体験を交えながら濃密な議論が交わされました。
その内容については、後ほど報告させていただきます。
以下は今回ご参加いただいた方々の感想です。

●テーマ「血は水よりも濃いのか?」。最後までしっくりこなかったのですが、血の持つ力とか、得体の知れないパワーというものが確実にあることがわかりました宮城県古川市より参りました。時間が許す限り参ります。ありがとうございました。

●おもしろかったです。今回のテーマ「血は水よりも濃いのか?」。何かがつながったり、気づいたりするだろうかと思いながら今日はきました。少人数のこういった形は初体験で、まさか話を振られるとは思ってもいませんでした。自分の中がコチャコチャして楽しいです。ゆっくりグルグルしたいと思います。

●血については違う論点で考えられると思います。①家族愛…自分が親から与えられた愛もしくは暴力など家族の形として形成されたイメージを次世代に反映させる。②血を大切にする…皇族、身分の高い方々。自分の親戚以外、もしくは学歴の低い方を家族に入れるのを嫌がる。異端を嫌う。血が薄まること、遺伝子の違う人(性格能力が編に突出しない人)が出るのを嫌がる。

●1つのテーマで話し合うという機会は普段はなかなか得られないので貴重な時間に感じます。理解が追いついていないので、ブログでまとめていただいたものを読ませていただいてからゆっくり理解しようと思います。お世話になりました。楽しかったです。ありがとうございました。

ご参加いただいた皆さん、ありがとうございました。
今回は仙台のメディアテークからの取材もあり、後日、今回の議論が映像でネットにアップされる予定です(皆様のプライバシーには配慮されます)。
ブログでも今回の議論をまとめますが、今回残念ながらご参加いただけなかった方々も含め、皆様からコメントをお書きいただきながら、ブログ上でも継続して議論できれば幸いと考えております。

第4回てつがくカフェ@ふくしま開催のお知らせ

2011年08月10日 21時15分19秒 | 開催予定
第4回てつがくカフェ@ふくしまの開催が決定いたしました。

テーマ:「血は水よりも濃いのか?―家族はどこまで他人か?―」

日時:2011年8月27日(土)16:00~18:00

場所:A・O・Z(アオウゼ)小活動室2(MAXふくしま4F)
 ※ 地図・駐車場等のご利用はこちらのURLをご覧下さい。   
    →http://www.city.fukushima.fukushima.jp/shisetsu/bunka/aoz/index.html

事前申し込み:不要(直接会場にお越しください)
ご不明な点は「メッセージ」から世話人へお問い合わせ下さい。
問い合わせ先:fukushimacafe@mail.goo.ne.jp(てつがくカフェ@ふくしま世話人)

 100円で珈琲、お茶、紅茶のお代わり自由です。飲まなくてもけっこうです。
 お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
 飲まずに聞いているだけでもけっこうです。通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
 わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
 ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

第3回カフェ報告

2011年08月07日 11時13分42秒 | 定例てつがくカフェ記録




昨日、「〈男女〉の友情は成り立つのか?」というテーマで第3回カフェが開催されました。
参加人数はこれまで最多の17名です。

まず、議論はテーマについて「YES」か「NO」で答えながら、その理由を挙げていくことから始まりました。
「NO」側の意見では、男女のいずれか片方が[特別な感情」、「好き」、「一緒にいたい」など、恋愛感情を抱くことで友情は成立しないとの理由が挙げられます。
また、男女の友情は瞬間的には成り立つが、長期的に見れば難しいとの意見も挙げられました。
この意見もまた、異性に対する恋愛感情が芽生えることで、その持続的な友情関係は成り立たないとの理由が含まれます。
さらに、最初は友達でいても、すぐに恋愛感情を抱いてしまい友情関係が崩れてしまうのは「子ども」であるとの意見も出されました。
以上の点を踏まえ、男女の友情は一部成り立つかもしれないけれど、そのあいだに恋愛へ陥る可能性がある以上、男女間での友情は成り立ちがたいとの結論が導き出されました。

それに対して「YES」側の意見で興味深かったのは、たしかに「NO」の意見にあるように現実には難しいけれども、「男女の友情は成り立ってほしい」という理想を求める意見が目立ったことです。
どうもそこには、恋愛感情よりも友情の方に価値があるとの見方が含まれているようです。
恋愛の延長線上に友情があるとの意見も、そのことを示す見方の一つでしょう。
恋愛は瞬間的な一過性の感情であり、相手との関係性を大切にしようとすれば、それは自ずと持続性を求めるものであり、それこそが友情関係であるとのことになります。
たしかに、恋愛関係にピリオドが打たれてもなお二人の関係が継続できるかという問題は、男女の友情/恋愛を語る上で欠かせません。
そして、そこを乗り越えてなお持続できるものが、「真」の友情だということかもしれません。
では、それは可能なのでしょうか?
ある意見によれば、性的関係も含め「欲」を求める「本能」を共有し合える関係性が「情」であり、その求め合いを超えたところに成り立つものが「友情」だとのことです。
しかも、それはお互いの「信頼」を強いものにすることで現実に可能であるというのです。
どこか老成した境地という印象も否めませんが、親密圏でくり広げられる「ぐちゃぐちゃなもの」や、相手へ求めることから解放された関係という意味で、どこか「男-女」の枠を越えた理想的な関係性が現実的であるというこの意見は、個人的には大変興味深いものです。

一方、その意見に対しては、まったく「ザワザワしない」人と友だちになりたいだろうか。そんな疑問も出されました。
この「ザワザワする/しない」という感情は、相手から感じる魅力とでもいえばよいでしょうか。
その魅力が恋愛に関係するものなのか、友情に関係するものなのかはいま一つ判然としませんが、ともかく「ザワザワする」感情が男女の恋愛/友情を分けるキーワードとして頻繁に議論の中で出されたものです。

また、男女の友情が継続する条件、それを阻害する条件は何かという議論に展開します。
恋愛感情がその一つであることは既に確認されましたが、さらに「結婚」が一つの危機であるとの意見が出されました。
結婚自体は同性/異性の友人に関係なく、その友情の持続が試される機会だとの意見もありましたが、しかし異性の友人が結婚した場合は、やはりそのパートナーの存在が阻害要因であることは否定できないようです。
自分のパートナーの嫉妬や感情を害することを考えれば、自ずと異性の友人関係は疎遠になっていくでしょう。
けれど、参加者の中には友人関係も大切にしていきたいと思い、自分のパートナーに異性の友人を紹介しながら、新たな信頼関係を構築していく必要があるなどの工夫が紹介されました。

さらに議論は、「友情」と「愛情」の違いに向かいました。
ある参加者によれば、何か目的を共有しているあいだは「ザワザワ」せずに異性と関係性をとることができるため、「目的の共有」が男女の友情を可能にするのではないかとのことです。
それに対しては、前回の「〈ともだち〉とは誰か?」で議論されたように、友人とは何かの目的や利害関係を超えて持続する関係をさすものであり、それは「仲間」というものではないかとの意見が出されました。
そして、その共通目的や利害を超えた友人関係は「開かれた」ものであるようです。
それに対して「愛情」は相手を大切にしたいという意味では「友情」と共通しますが、見返りを求めない利他的な感情であり、恋愛感情が解消されてもなお持続する、より深い感情であることが確認されました。
しかし、そうであるがゆえに「愛情」は排他的で閉鎖的な関係性を意味します。
そこに男女の友情関係を成り立たせない要素も見出せそうです。

議論の後半に入ると、そもそもなぜこのテーマのような問いが生まれるのか、といった点に疑問が投げかけられました。
つまりこの問い自体が、どこか「男女の友情関係は社会的にヤバイものだ」との意識が反映されているのではないかとのことです。
ここであらためて「性的魅力」や「肉欲」という問題に触れられましたが、アジア圏より欧米圏での方が男女を友人関係とみなしてつきあえる文化圏ではないか、との興味深い経験談も出されました。
すると、この男女の友情という問題はその社会文化に影響を受けたものであり、ひょっとすると性的欲求すら文化的に規定されたものかもしれないとの仮説も成り立ちます。
さらにいえば、セックスが可能な友情関係もありうるのかといった、過激な論点も提起されました。
男女の友情の成立が、果たして文化相対的な問題なのかという点には疑問も投げかけられましたが、いずれにせよ大変興味深い議論でした。

最後にファシリテータの方から、男女の友情関係を理想としたいとした参加者に、その理由の説明を求めさせていただきました。
ある若い参加者からは、教育実習で高校生に向けて「一番の親友はこの人だ」と異性の写真を紹介したところ、非常に驚かれたという経験談が聞かせていただきました。
やはり高校生にとっても、異性が親友という事実は衝撃的なようです。
その上でその参加者は、「男-女」という異質なもの同士が、「友情」という関係性のもとでお互いに欠けた部分を補い合いながら、多様性が構築されていくのではないかとの意見が出されました。
友情が異質なもの同士の多様性を紡ぎだすということに希望を抱かされる一言でした。

今回の議論では、異性愛を前提に議論が交わされましたが、そこには同性愛の友情の問題が欠けていたことは否定できません。
今後、その点も含めた議論がさらに展開できることを期して、第3回カフェ報告に代えさせていただきます。

第3回カフェ・参加者感想

2011年08月07日 10時31分55秒 | 参加者感想


昨日の第3回 「てつがくカフェ@ふくしま」 には、
今までで最多の16名の方々にご参加いただきました。
初参加の方が9名もいらっしゃいました。
同時刻にわらじ祭りと聖光学院戦が開催されているというひじょうに厳しい条件下でしたが、
この地味なイベントにご参集いただいた皆さまに心から感謝申し上げます。
「〈男女〉 の友情は成立するのか?」 というテーマで、
皆さん赤裸々な自己開示も含めていろいろ語ってくださったので、
とてもいい議論ができたと思います。
議論の内容はファシリテーターがすぐにまとめてくれると思います。
まずは皆さんからいただいた感想をご紹介しておきましょう。


●年代の違う方との話は自分の考えと大きく異なり刺激になりました。

●今日のテーマは自分にそういう経験 (”男女の友情”なるもの) があまりに少ないので、”人生の先輩方” の多様な考えが聴けてよかったです。正直終了後もぐちゃぐちゃな頭の中にあります。

●最初参加したときに、男女の友情が成り立たない理由に恋愛関係 (性的関係) を考えていたが、てつがくカフェに参加する中で、恋愛関係というより性的関係によって友情が壊れることがあるのか、文化の違い、という意見を経て、広い視野を得ることができた。最終的に男女の友情は成り立つ! と思う。

●自分の考えの狭さ、経験の少なさに気づかされました。何でもありなんだなあ~というのが本音です。文化的側面や個人の思想経験に影響を受けることがらで、定義の仕方にもよるのではないかと思いました。問いに対しては正直、”恋愛とは何か” という視点しかなかったので、最後まできいて、いろいろな考えがあると思いました。

●はじめて定義を考えてみておもしろかったです。自分なりの基準を持てた気がします。震災以降なぜか哲学に興味を持ち、NHKの白熱教室を観たり、プラトンを読みはじめたりしております。このような機会ははじめてでしたが興味深く楽しかったです。学生時代に学んでみたかったなあと思いました。

●今日初めて参加させていただいてとても面白く有意義な時間を過ごさせて頂きました。議論などは苦手で、自分の考えを話したり他の方の考えを受けて流動的な話題に乗っていけるかどうかとても不安でしたが、しゃべれない時はしゃべらなくていいというのがとても助かりました。普段一つのテーマで誰かと話し合うことが少ないので、自分の考えを深めるためには誰かの発言に対する 「え?」 「そうそう」 という刺激が必要だということが分かりました。


皆さん、本当にありがとうございました。
次回は8月27日 (土) です。
ぜひまたご参加いただければと思います。