てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

第2回哲学書deてつがくカフェ報告

2014年08月25日 15時22分16秒 | 哲学書deてつがくカフェ記録
       
昨日、森一郎氏の『死を超えるもの―3.11以後の哲学の可能性―』を課題図書とした哲学書deてつがくカフェが開催されました。
今回は内容が内容だけに、二人の提題者によって参加者に著作内容の簡単な紹介と問題提起をしていただきました。
しかも、今回は著者である森さんご本人にも参加していただいての哲学カフェとなりました。
そのおかげか、24名もの参加者にお集まりいただけました。
遠くは東京や岩手からもご参加いただきました。
ありがたいことです。

冒頭、ファシリテーター小野原より、セミナーのような著者への質疑応答にならないようにとの注意喚起がありましたが、内容理解の点でどうしても著者にお答えいただく場面が多くなってしまい、さらには、哲学者名や専門用語もいつも以上に飛び交い、いつもの哲カフェのような参加者相互の対話は成立しにくい面があったようです。
とりわけ、本書ではハンナ・アレントとハイデガーの哲学が中心的に論じられているため、その名前が頻繁に登場しました。
とはいえ、参加者はいつも以上にディープな哲学の世界に誘われていったようです。

さて、会は島貫真さんと深瀬幸一さんのお二人による提題から始められました。
その内容については、すでにブログにアップしたレジュメ資料をご覧ください。
まずはお二人から、以下の問題が提起されました。
① 〈自然〉と〈世界〉とを分ける必然性(必要性)はあるのか?
② 近代文明の所産である「地下鉄」と「原発」とに境界はあるのか?―九鬼周造が大震災の後に「それでも日本人は地下鉄を掘りつづけるだろう」と書き記したことをめぐって―
③ モノには過去・現在・未来を結びつける色々な何かが含まれているのではないか?(それが故郷の土地へのこだわりと関連するのでは)
④ 〈宇宙〉と〈大地〉とのあいだの境界とは何か?
⑤ 「食事」に対する「掃除」の優越が主張されていないか?

                     

M:「 アレント独自の世界概念は難しく、よくわからない部分も多いのはその通りです。でも、「世界」概念がわからないとして放っておくと 、アレントの主張は何もわからないことになります。それが3.11の経験を自然と世界とを区別することでよくわかったことがあります。
よく「自然は生きとし生けるものの基本だ、自 然を大事にしろ」と言われ続けていますが、それは「世界」が守られているから言えることなのです。
つまり、その自然というものに抗しながら自分たち人間が住めるようにしているもの、それが世界です。
自然の破壊力は圧倒的で、人間はそれに抗して何とか生きる環境=世界を確保して住んでいる。
また、アレントには食べて、排泄 してといった欲求に代表される「内なる自然」ともいうべき自然概念があります。
これら自然が露呈するようなところで人間は人間らしい生活は営めません。
震災後、住む家等が自然によって壊されたら、それに対抗して、新たに住む物を作っていかなければいけない。
人間 は自然の破壊から世界を守り続けなければならないのです。」

「 また、「宇宙」についてですが、宇宙の概念には英語でユニバース、普遍的なものという意味がありますが、そこには万物が平等で区別は何もない。
それに対してコスモスという意味での宇宙概念には上下などの差別的な概念も含んでいます。
近代はユニバ ースとしての「宇宙」概念で世界を見ます。
自然や世界の概念も飲み込むものが宇宙、あらゆるものを含む宇宙という概念がそうです。
そもそも大地との区別で何が問題になるのかといえば、大地の上に放射線を出す原発を持ってくることが問題です。
というのも、宇宙の中で放射線が飛んでいることは、なんも問題ないし、なんでもないことだけれども、地球に生きる人間は放射線に耐えられないし、生きていけない。
人間にはこの宇宙人としての側面と大地に生きる生き物としての二重の側面があります。
つまり、宇宙人としての人間が大地に放射線を持ち込んで、それによって大地の生き物としての人間が苦しむことになっている、そうしたギャップが露呈した問題が、この放射能、原発の問題なのです。」

A:「世界という概念とか、自然とか、宇宙という意味は、なんとなく分かります。
しかしながら、「世界はモノの総体である」という世界概念から倫理の問いは立ち上がるのでしょうか?」

M:「アレントには「モノの総体としての世界」の他に、人間たちが共同で作っている共同世界という意味での「世界」概念があります。
今回の著書はモノを全面的に出しているから、そのような違和感があるのではないでしょうか。」

A:「そのモノはそんなに大事なのでしょうか?モノは愛せないけれど、むしろコトが大事なのでは?」

M:「「コト」というのはどちらかと言えば、共同という意味での世界概念で扱われるものではないでしょうか。
むしろ、身近なモノも重要なのではないかという問題意識で書かれています。」

ファシリテーター:「人間が作り出したモノから3.11を取り上げている点に本書の面白さがある。」

B:「この議論はマルクス主義とどう違いのでしょうか?」

M:「マルクス主義とは違う。アーレントはマルクスから影響を引き継いでいるが、同時にマルクスを批判をしています。
一方、マルクス主義者からは、アレントは否定されています。」

C:「道具が永続性を持っているという議論は、ヘーゲルを 受けているものでしょう。
また、当然そこからマルクスともつながっている。けれど、貨幣の問題も取り入れないとこの問題はよく見えないのではないでしょうか。」

M :「P133に 、「資本主義の拡大再生産のテンポ は、自然の永遠回帰に近づく」とされていますが、機械に関して我々は生物性を感じる時もあります。
ただし、道具と機械は区別する必要があるでしょう。
道具は手の延長であり、人間なしで勝手に動き、人間と独立に動くのが機械です。 オートマティズム、これと類比的に自然は循環します。
経済活動でも景気などを見てもわかるように、勝手にくるくるくるくる動く。
これを自然とみることができるでしょう。
この自然概念は奇妙だが、でも、社会全体の生命プロセスとする点で面白い。」

D:「拡大再生産で人間は自滅に向かっています。機械などのスイッチを切れば止まるのに、なぜかそのスイッチを切ることができない。それがこの原発問題と重なるように思います。」

M:「拡大再生産は生殖とも類比的に語られます。
資本の増大と、生殖、繁殖の自然現象とが、 同じにとらえられている。
スマホは、世界中に増殖していますが、それは止められますか?止められないでしょう。
最初は人間が作ったものだったが、もう無理でしょう。
生き物の性(さが) にはそういうものに入っているということではないでしょうか。」

C:「自然を永劫回帰ととらえているが、ダーウィンの進化論と混ざっているのでは。
繁殖なのか?進化なのか?
自然を永劫回帰というふうに 決めてしまっていいのでしょうか?」

M:「永遠回帰という 理解は昔からの自然観です。 近代以前には進化論はない。素朴な自然観です。
進化論が出たから永遠回帰の自然観はなくなるのでしょうか。そうではないでしょう。
近代に特有なカテゴリーで物事を考えたがるが 、それだけでは足りないので はないでしょうか?!」

D:「永遠回帰と進化論はどちらもダメなところがある。
原発が象徴だと思う。
こうなってまでも、永遠回帰のそっちのほうになってしまうのは、なぜ??」

E:「世界の手入れの心得を言っているんでしょうね。
この本はその先を指示してるわけではなく、その見方を手に入れただけで世界の見方が変わった。
それだけでいいのではないでしょうか。」

M:「掃除と炊事の優劣の問題が提起されましたが、食事が劣位にあるというのはドイツ的にはたぶんそうでしょう。
ドイツは、飯がまずく、町は、すごくきれいなことが印象的でした。
その反面、料理にあまり火を使わず、食へのこだわりが日本人ほどない。
それでも家事労働は2種類に分かれるのではないでしょうか。
食欲を満たす生産と消費そのものという面と、もう一つ、掃除などは世界をきれいにして世界のメンテナンスに役割を果たす仕事という面です。
その点で、一概に労働/仕事の区分ができない面があります。
一方、食事を作ると感謝されるのに、掃除にはやっても誰も褒めてくれないものです。
なぜ、掃除を重んじたのかというと 、震災瓦礫のそうじと、除染をみると、掃除をきちんと位置付ける必要があったというのが本書の意図です。」

C:「パンは食べたらなくなるし作品は 残るけど、音楽っていうものはどうなのでしょう?
音楽はなくなってしまうけど、ものだと書いてある。
持続はしない。 聴いたら物質的には消えるものでしょう。
モノや世界ってのを持続性って定義していいのか??」

M:「それはアクションのほうに入るでしょうね。活動や行為の瞬間の表れです。
人間の語りや行いは、すぐ消えてします。
その1回きりではあるが、物語になり、歴史になり、重要です。
音楽は、楽譜があって、その作られたものを解釈して演奏していくもの。 それは、ぎりぎりのモノ性ではあるのでしょうが。」

C:「料理のレシピも同じようなものかな?」

S:「自分の住みやすい環境世界を作るという点で、生物の巣づくりも仕事に入るのではないでしょうか。
すると、自然と世界を分けるのではなく、巣づくりは自然の延長で考えることはできないのでしょうか。
自然から世界へという連続的に考えられないのでしょうか?」

M:「人間と動物を連続的にみる自然主義 は普通に見られる考え方だけれど、そういう発想はアレントにはない。
人間も自然的なものから発展してきてるが、普通の動物と人間は違ってるというでしょう。」

「 ゴミ問題は、自然の外に出して 何とかしてきたが、それが、だんだんと対処できなくなってきています。
原発は今回の広島の土砂災害ほど簡単ではなく、散らしたからと言って無くならない超ゴミ問題として難問です。
新しい解決法は哲学をやっても出てこないが、新たな問題であっても考えていかなければならない。
後代から、あいつらこんなゴミを作って、と 言われ続ける点で超ゴミ問題です。」

ファシリテーター:「近代の生産性の増加から、まさに人間的なものからゴミ問題が出てきた。
生き物が出している排泄物などは、ゴミではなく肥料とかになるし。」

E :「ごみ問題とは分けて環境問題があります。
植樹、家を建てる、料理は、同じ分類で話されていたのかな。
幸福・幸せとかについては書かれていないと思いましたが、でも掃除などをして、世界を大切にしていくことは幸せになるものでしょう。」

F:「ごみ問題への向かい方の姿勢を考えさせられた。宇宙人として上から見ることはできるけど、大地から見ていく視点がだいじですかね。」

G:「ごみ問題はずっとあったはず。3.11以降、何が違うかと言いますと、おそらく当事者になった点が異なります。
でも、自然と世界の区分など、3.11以前よりあったのではなかったか。
それがなぜ「3.11以後の哲学の可能性」なのか?
なにかしたいのだが、世界を愛しましょうでは世界の見方が変わったと言えるのでしょうか?」

B:「ドイツ哲学は、人権に関する感覚が弱いのではないでしょうか?同じアレントの議論でも、3.11以後は『イェルサレムのアイヒマン』の方が響くものがあります。」

A・C:「善悪っていうのは世界の中にあるはずです。
自然とは別物だというのはその通りだと思いますが、世の中のシステムが個人の意思とは無関係に動いて行ってしまうものです。
この著書の考えを原発に当てはめるのは必要だが、原発システムをどうするのかを問う倫理の視点はどこに入り込めるのでしょうか?」 


カフェの終盤になって参加者の本当に問いたい問題が提起されたところで、残念ながらタイムアップとなってしましました。
いつもながら、これは引き続き考え続けていく課題として積み残されましたが、今回はとりわけ色々な方のご尽力により可能になった企画となりましたことに感謝申し上げます。
まず本書と本書の著者である森さんにはもちろんですが、その出会いの場を与えて下さった加賀谷さんにも心より感謝申し上げます。
また、提題者にお願いしました島貫さんと深瀬さんには、その並々ならぬ意欲に対し、不躾にも「10分間」という不十分な時間ということでお願いしてしまいました。
失礼をお詫びするととおに、きっちりとその時間内でご報告いただけましたこと、心より感謝申し上げます。
また、今回は県外より多数の方々に来福いただけましたことも、あらためて御礼申し上げます。
ワタクシは本日、人間ドックであったにもかかわらず、あまりの痛快さに夜中の2:00まで懇親会で盛り上がってしまいました。
これもてつがくカフェ@ふくしまをご愛顧下さる皆様のおかげです。
ぜひ、またお会いできることを楽しみにしております。
次回の哲カフェは9月20日(土)を予定しております。
多くの皆様のご来場をお待ち申し上げます。

第2回哲学書deてつがくカフェ・レジュメ資料

2014年08月23日 20時24分37秒 | 開催予定
明日の第2回哲学書deてつがくカフェは、お二人の提題者から森一郎著『死を超えるもの―3.11以後の哲学の可能性―』の内容を簡単にお話しいただいてから始めます。
読むのが大変そうだとお感じの方にも、読まずに参加いただけるように工夫しました。
以下はお二人による当日の発表レジュメです。
レジュメなので箇条書きでわかりにくい部分もありますが、当日はこれに解説が加わりますので、まだお読みになられていない方もお気軽にご参加下さい。

≪レポートその1 「第5章について」≫
提題者  島貫 真

【簡単な要約】

1われわれが目の当たりにしているのは何か
 3.11の大地震は津波被害だけでなく原発の暴走を招いた。これは、われわれが築き住んでいる世界が壊れていくという非常事態だ。我々に課されているのは、世界を愛することだ。まず「世界」と「自然」を区別することから議論を始めよう。

2世界と自然の区別
 自然とは、たとえば「働いて、食べて、寝て、起きて」という繰り返しを生きる、そういう同じ事を永遠に繰り返す存在全体のことである。生物としてのヒトはそういった生命原理に従っている「自然」でもあるが、他方人間はある意味その自然に従属するばかりではなく、自然に対抗して「暴力」を行使し、自然の風化にさからって人工物を存続させ、居住空間を形成し、「世界」を保とうとする。「自然」を守るというとき、守るべきはこの「世界」すなわち「環境世界」である。

3世界を破壊するもの
 世界を破壊するのは自然と人間自身だ。そして後者はもっぱら破壊と製造のプロセスの拡大再生産を目指す。その結果、その「労働-消費」のサイクルによって超人工物としてのゴミは増え続け、世界を内側から打ち壊す。原発問題の根もここにある。

4善悪の彼岸と此岸
 善悪は「世界」の内部においてこそ意味がある。だからヒトは「自然」を恨まない。だが原発では、世界の内側に自然が入り込んでその境界自体が曖昧だ。半ば自然(宇宙)的で半ば世界(人間)的な混合物になっている。自然と世界の区別をなし崩し的に廃棄することがいかに危険かが分かる。

5大地から地球へ
 「大地」は死すべき者(人間)が住む。対置される「天空」は神々の座で、この二つによって「世界」という秩序体系が成り立ってきた。それに対して地球は「宇宙」に属する。「大地」が「地球」と化し、それによって伝統的世界観が崩壊し、近代的自然観が成立した。 

6守り伝えられるべきもの
 大地の地球化に伴い人類もまた大地の住人から「地球人」と化したが、大地=世界の破壊は結局自滅を招く。とはいえ「大地を守ろう」「世界を愛せ」と言われても困る。守るべきは、具体的には人間が作り使い、使い続けている物たちだ。我々は町を守り受け継ぎ再建し後代へ受け渡していくことへと立ち戻る。町を愛することを学び、住むことを学び直し、伝えていくべき物を労わることがそのまま世界への愛のレッスンなのである。

7自然の永遠回帰と世界への愛  
 自然は人間にとって脅威であると同時に恵みでもある。進歩も発展も無い永遠回帰(自然のリズム)が、生き延びる上での慰めや希望となることがある。自然の前にはなすすべがなくても、人間には自分たちの世界を築き、債権[ママ]し、継承しようとする共通の志があるのだ。世界への愛は、自然への畏怖や畏敬と連携し、相互に涵養されうる、ということを、震災経験は私たちに物語っている。


≪レポートその2 「第11章 物たちのもとで、人びととともに___自然と世界の絡み合いへ」≫
提題者 深瀬 幸一(橘高校/エチカ福島)

Ⅰ 森テクストに即して

1、アーレントにおける「世界」
 A 自然  ⇔ B 世界   ⇔ C 政治・歴史 労働・消費 制作・使用 行為・言語 永遠性 永続性 一時性
B 世界 ・・・・ 共存在時制 
物たちのもとで(事物のもとでの存在)
人々とともに(他者との共同存在)

質問 「私としては、自然と世界の区別は存在論的な根本分節だとする確信に、いささか   の揺るぎもない。」について
 自然と世界の区別は定義上の区別ではなく、認識論的な分節でもなく、「存在論的な根本分節だとする確信」であるとされる点がよく理解できません。

2、労働と制作

パンと机の違い
   パン・・・消費・・・一時性
   机・・・・使用・・・永続性(そこそこ長持ちする?)

農業というやっかいな例 ←農業は制作に酷似した労働
 「(農業)の所産は、当の活動自身を超えて存続し、世界の掴みどころのある恒常的部  分となる」(アーレント)
→「世界形成的」である。農業は優れて制作的な人為である。
 「耕地される土地は、農地であり続けるためには一定の手入れを必要とする」
→耕地という「農産物」。耕地は、自然に属するのだろうか、それとも世界の一部なのか。
 自然と世界の絡み合いを示す事例。農事は反復性と持続性という時間的性格によって ともに規定されており、その両面を等根源的に備えている。
 人の手によって育てられ、保護され、ひいては人里を保護する森林は、世界に属する。 林業もまた農業と同じように世界形成的であり、労働であるとともに制作である。

3、世界への配慮としての労働

 農業、林業
 家事労働は?
炊事・調理・・・労働(←自然・反復的)
掃除・・・・・・制作(←世界形成的)

質問 炊事が労働であり「家事労働の空しさの最もたるもの」であるのに対して、掃除を「自然の生成消滅過程に立ち向かい、世界を守り、美しく保つ活動(世界への配慮→「世界貢献」!」として制作として特権化されているのは、いささかアンフェアな印象を受けます。家族や友人のために心を込めて食事を用意することは空しいことではなく大きな喜びです
 また、掃除が「世界への愛のかたちであり、世界を共有する市民にふさわしい徳である」という文の中の、「市民」の用法は古代ギリシャの「市民」に淵源するとも受け取れ、奴隷・炊事 ⇔ 市民・掃除 という二項図式が浮かび上がってしまう。 
 掃除の炊事に対する優越は、もしやすぐれてドイツ的?

4、産業ゴミと原発ゴミ

  産業ゴミ  自然破壊ではなく世界破壊(←「世界」の永続性の危機)
 原発ゴミ  世界破壊を超えて、正真正銘の自然破壊

「自然」  「大地」としての自然
「宇宙」としての自然
質問 「宇宙由来の核ゴミ」とあるようにまさしく核反応そのものは「自然」に属する。それを考慮して、自然を「大地」と「宇宙」とに分けているが、それによって自然と世界の違いが曖昧になり(自然の自然性が薄まり)はしないだろうか。

Ⅱ 他のテクストとの響き合い (資料)

1、堀辰雄「浄瑠璃寺の春」(『堀辰雄作品集第四巻』筑摩書房)
世界・・・「第二の自然」
2、小林秀雄「文化について」(『小林秀雄全集第巻』新潮社)
農業・・・「文化」
3、森有正「雑木林の中での反省」(『木々は光を浴びて』筑摩書房)
物・・・「ものと経験」
4、中沢新一『日本の大転換』(集英社新書)
大地と宇宙・・・「生態圏と太陽圏」
物・・・「モノ」「キアスムの構造」
Ⅲ 「エチカ福島」第1回及び第2回セミナーとの響き合い
3.11以降の「倫理」の可能性・技術とアート 

エチカ福島第2回セミナー 深瀬レジュメから抜粋
技術からアートへ
(第1回セミナーから第2回セミナーへ)
①エチカ福島第1回セミナーについて
 昨日、エチカ福島第1回が終了しました。今回はスピノザ思想の國分功一郎さんをお招きして、「福島に生きる倫理(ともがらのことわり)」について、島貫、深瀬、そして丹治さん、三人の問題提起のあと、國分さんにコメントを頂き、次いでフロアも含めての議論が行われた。三人の問題提起から國分さんが切り取った問題は四つ。
第一は、民主主義という制度が、今まで行政権に関して無関心で、結果として、例えば道路や原発や更生施設の建設など、当事者である住民の意思を取り入れるチャンネルがない、端的に言えば住民が地域行政に対してほとんどアクセスできない。そのため、仮に住民の意思が明らかである場合も多くの場合無視されてしまう場合が少なくない。
これは明かな日本の民主主義の制度的な欠陥ではないか?國分さんがご自分の体験を踏まえそう話され、そのことについて議論が展開された。

第二に、原発事故の責任について、これは主に深瀬の発表を受けてのものだったが、責任範囲を拡大することで、本当に責任を負うべき者の責任が免責されるのではないか。
そのことは我が国の戦後責任問題、一億総懺悔によって本当の責任が免責されてしまったという事態に通じるのではないかと國分さんは指摘し、それゆえ、今回の原発事故の責任問題に関しては、当面は法的政治的な責任を問うべき主体に対して鋭く問うべきだと述べられた。

第三に、技術について、島貫が用意したハイデガーのテクストを参照しながら、ハイデガーこそ原発という技術の恐ろしさを最初に予見した哲学者であったこと、原子力の平和利用についてかなり楽観的だった当時(1955年)の世界にあって、それを「技術」そのものとしてとらえ批判した。
それは人間が技術の奴隷となることへの警鐘であった。
ハイデガーは、人間が主体的に技術に対してイエスと言い、ノーと言うべきだと述べているが、何がイエスで何がノーか?難しい問題だ。たとえば中沢新一のエネルギー論と原発批判が示唆的であると國分さんは言われた。
石炭や石油等のエネルギーは太陽のエネルギーを生物体を媒介にした変換された言わば生態圏エネルギーであるが、原子力は太陽エネルギーを無媒介で持ち込むもので、人間にはそのような言わば太陽圏エネルギーを扱うことはできないとするもので、したがって原発は人間があつかえない技術であるゆえにノーと言うべきだとされた。
フロアからは、原発にかぎらず技術そのものが私たちの目から遮蔽されているので、私たちは「技術」を問題化することが困難な状況にあるという指摘があった。
最後に、放射能汚染の中で僕たちはそれをどうとらえその中でどう生きるかという問題。これは「エチカ福島」の主題そのものである。フロアからは福島の元気っていったいなんだろうという、福島の内部でも外部でも、今でも身を引き裂くような問題であり、そのことについてかなり熱く議論が行われた。
 これらの問題について僕らはこれからさらに議論を重ね深めていかなければならないことが確認された。
「エチカ福島」の第1回セミナーにふさわしい内容だったと僕は思う。
協力していただいた國分さんをはじめみなさん、ありがとうございました。

 今回のエチカ福島で明るみに出された問題の中で、技術が僕らの目から遮蔽されている、あるいは技術が僕たちを追い越してしまっているという問題はとりわけ重要だと思う。
この技術というのは、原子力技術だけではなく、国分さんもフロアから発言された医師の方も言われた出生前診断の問題や脳死臓器移植の問題も含まれる。一方で、技術とはアートであり、自然の一部である人間が自然の中で自然に関わりつつ自然を対象化して生きるあり方そのものである。

 島貫は地震や津波によって破壊されたインフラに、人為の裂け目、自然と名付けるべきものが顕れたと語ったが、言い換えれば、普段は自明化しそれゆえに僕らの目から遮蔽されてあった技術が、地震や津波によって僕らの目の前に露わにされた。
技術とは、自然と人間の関係である。つまり、破壊されたインフラや映像で見る原発の無惨に破壊された姿に、自然と人間の関係が露わにされていると言うことができるだろう。
 丹治さんは、アートを専門にし、長い間多くのアートプロジェクトに関わってきた。震災前から、自分はいわゆる「作品」を作ることに興味はないと言っていたが、僕は本当にはわかっていなかった。
震災後ようやく彼の言うことがわかるようになった気がする。
人間のすべての行動そのものがアートであるという言葉とともに。昨日彼は、自分が生活する新潟のことを語るときに、雪深い里で人々が丁寧に生きてきたことに僕たちは寄り添わなければならないと言っていた。また、かつて福島に馬車が走っていた頃の道路の臭いについて語った。
彼の語る生活にはクオリアがある。
アートは、僕らの目から遮蔽されている、あるいは僕たちを追い越してしまっている技術とは対極にある。

 再び技術とアートについて考えたい。
繰り返すが、「エチカ福島」で國分さんがハイデガーを参照して技術による人間の奴隷化について述べられたのに対して、フロアのゼネコンにお勤めの方が、技術は普段人間から遮蔽されて見えないと言われたのが非常に印象的であった。
原発の技術もまた、まさしく、建屋、格納容器、圧力容器によって遮蔽された技術であったということが出来る。
島貫が、人為の裂け目に自然と呼ぶしかないものを見たことの圧倒的恐怖について語っていた。
恐らくは、原発の無惨に破壊された姿は、三重に遮蔽したものが破壊され、自然と人間の関係が曝されているのである。僕たちは原子力技術をコントロールしているつもりでいた。
そのつもりができたのはそれが何重にも遮蔽されていたからに過ぎなかった。
電力の供給を受けていた東京の人々は、分厚い媒介を経ているがゆえに原子力技術を享受していたにもかかわらず、それを意識化することはできなかった。原子力技術に限らず、遮蔽されることで自明化し意識化されない技術がある。
技術とは、繰り返すが人間と自然の関わりである。
爆発し圧力容器すら破壊された原発は、言うまでもなく原子力技術が人間によってコントロール可能だと考えたのは誤りであったという事実を晒している。あるいは、中沢新一の言葉をかりれば、太陽圏エネルギーという自然は人間の力では扱うことができないという事実を示しているのかも知れない。
原発を破壊したのは想定外の原理によってではない。
原子力発電と全く同じ原理によって原発は破壊されたのである。ハイデガーが指摘したのは、原子力技術が恐ろしいのは戦争で殺人兵器として使われるからではない、その技術そのものだという点である。
ハイデガーは原子力技術が人間が扱える技術ではないということを見抜いていたことになる。
 ハイデガーは「技術」そのものは否定しない。
人間は自然の中で自然に働きかけつつ生きる存在だ。丹治さんが、雪深い里で丁寧に生活する人々を思うという話をされた。人々は厳しい自然の中で生きるために、住まいや様々な生活用品、人々とともに生きるために様々な工夫をこらしてきた。
今や新潟の多くの中山間部は限界集落となるだろう。
自分はできるだけ想像力を働かせつつそれらに寄り添いたい。彼はそう考えている。
繰り返すが、原子力技術とは対極にあるアートがそこにはある。

 僕たちは同じものを見ても同じようには見ていないものだ。花がある。ある人にとってはただの花だ。
しかし、ある人にとっては汲めども尽きぬ美の泉であるだろう。あるいは、かけがえのない想い出につながる扉なのかもしれない。
ある種の技術は何重にも覆われることで普段は目には見えないと前に言ったが、それがはっきりと見える人もいるだろう。
ハイデガーがまさにそうだった。
また、雪深い里に暮らす人々の暮らしについて人がそこに何を見るか。
そこにおそらくはその人の知性も愛情も想像力もすべてがあらわになるだろう。

②エチカ福島第2回セミナーにあたって
 上記の文章は、エチカ福島第1回セミナーが行われて間もない時期に書いた文章のいくつかをつないだものです。
第1回セミナーで、どのようなことが話し合われ、第2回セミナーにどのようのつながっているのかを示す資料としてお読みいただければと思います。
もちろんこれは私の個人的な感想ですので、あの話し合いをもっと別な視点で切り取ることも可能なはずです。

 前回の話し合いで興味深かったのは技術についての議論です。
人間という存在は自然の一部であり、同時に、自然の中でしかも自然を対象化して生きざるを得ない存在です。前の文章において、人間のそういうあり方、人間の自然への働きかけのことを、技術やアートと言い換えています。
その上で、原発という巨大な技術と、例えば新潟県の中山間地域でそこに生きる人々が生きるための自然のとの関わりや働きかけとしてのアートとを、二項対比的に述べています。
かつてハイデガーは、技術による人間の奴隷化の問題を指摘しましたが、前回の話し合いでは、そのことが当の私たちに意識化されていないとの指摘がありました。技術が私たちの目から何重にも遮蔽されているゆえに意識されないという問題です。
例えば原子力発電という技術はそのような技術ではなかったでしょうか。
原子力発電所は、事故以前には実にスマートで明るく美しい姿であったかと思います。
それは核分裂反応という原子力技術な核心部分(文字通り!)が、建屋・格納容器・圧力容器によって外界から三重に遮蔽されていたからに他なりません。
しかし、原発は爆発し最も頑丈だとされた圧力容器さえ破壊されてしまった。
この爆発は、想定外の原理によっ起こったのでは決してありません。
原子力発電と全く同じ原理によって爆発したのです。
したがって、爆発によって私たちの目に晒されたあの無惨な原子力発電所の姿こそ、私たちが初めて目にする原発という技術そのものであると言わなければなりません。

 それに対して前の文章の中で、雪深い里で生活する人々が、その厳しい自然の中で生きるために、住まいや様々な生活用品、人々とともに生きるために様々な工夫をこらしてきたという、丹治さんの話をひき、「原子力技術とは対極にあるアートがそこにはある」と書きました。

 丹治さんと今申し上げたのは、今回のセミナーでメインの問題提起をお願いする新潟大学の丹治嘉彦先生ですが、その丹治さんと別な機会に同人の島貫さんとともに話をした際に、新潟の中山間部の棚田が荒廃しているという話になりました。
棚田とは平地の少ない土地にどうにか稲の耕作面積を増やそうという工夫であるが、勾配のある土地ゆえにしばしば土砂崩れなどの問題が起こるので、人々が不断に手を加え修繕することで辛うじて維持できているのです。
棚田の荒廃とは、中山間部の過疎化によって棚田に加えられる手がなくなってしまったということです。
棚田だけではありません。中山間部の森林もまた人々が手入れをすることで維持されてきたものです。近年、大雨が降って起こる洪水の原因の一つは、実は中山間部の荒廃だということが言われています。棚田も森林も確かに自然の一部であることは間違いありませんが、私たちが考えるような、つまり「自ずからそうあるような自然」ではありません。
そこには人間が介在している。私たちにはそのことが見えていない。
『おもひでぽろぽろ』という映画があります。
そこに登場する山形の農家の言葉として、都会の人が自然だと思っているものはみんな百姓が作った語られるシーンがある。人間は自然の恵みなしには生きていけないし、生きるためには自然と闘ったりその力から逃れなければならない場面も少なくない。
彼は田舎の自然を「自然と人間の共同作業」と表していた。自然の恵みや自然の猛威を日々実感する農家だからこそ実感できることなのではないか。
しかし、日々を土から離れて暮らす私たちには、そこに暮らす人々が厳しい自然の中で丁寧に棚田を手入れをすることでお米が作られているということを、見えないがゆえに忘れている。

 たまたま丹治さんと三人で話す機会を持った前日に、福島第一原発で汚染水が漏れていたという報道がありました。汚染水漏れの原因は極めてシンプルで、その対策もシンプルに違いない。
おそらくは生身の人間が問題の箇所を修復する以外に問題を取り除くことはできないでしょう。原発技術は、一方では確かに極めて高度で巨大な技術ではあるが、もう一方では生身の人間の日常的な作業が欠かせないものでもある。原発事故以降の作業だけではなく原発が稼働していた時も同様です。

 先ほど私は「原子力技術とは対極にあるアートがそこにはある」と申し上げましたが、こういう二項対立的な見方はややナイーブではなかったかと思うようになりました。私たちに見えなかったのは、様々な覆いによって遮蔽された巨大で複雑な技術だけではない。
そこに働く生身の人間の姿も、見えなかったよりむしろ見ようとはしなかった。中山間地域に厳しい自然に耐えながら生活を維持してきた人間の姿も私たちには見えていなかったように。
 今回丹治さんには、丹治さんが長年実践されている新潟の中山間地域でのアート活動とその意味についてお話がいただけると思います。
今回のエチカ福島のテーマは、「アートでつながるって何だろう?」というものですが、丹治さんの実践とは、日本の社会がこれまで見ようとせず、むしろ切り捨ててきた中山間地域に生きる人々とアートによってつながろうとした実践ではなかったでしょうか?
昨年、丹治さんからご自身も関われた瀬戸内国際芸術祭についてのお話をお聞きしました。
その一つに大島にあるハンセン病療養所に関するプロジェクトについて強い衝撃を受けました。ハンセン病患者もまた、日本社会というよりむしろ私たちが切り捨てて決して見ようとはしなかった人々ではなかったでしょうか。

 震災以降、「絆」とか、日本は一つ、東北は一つ、等という言葉が流通しました。
しかし残念ながら日本は一つではありません。震災ゴミの処分にもその事が明らかですし、福島原発のこの過酷事故にも関わらず、政府は原発再稼働に向かっていますしそれどころか原発の輸出を推進しようとしている。日本は一つどころか、福島も一つではありません。
朝日新聞やNHKでも取りあげられていましたが、いわき市における原発避難者といわき市民の軋轢もその一例です。
原発以降に、この福島には心ならずも様々な分断線が引かれてしまいました。

 先日、政府の非公式見解として、政府に非公式な見解があるというのも驚きでしたが、さらに驚いたのは、除染によって想定通り線量が下がらなかったとしても再除染は行わないという記事の内容です。
しかし、ここでも、今更驚くのはナイーブなのかも知れません。震災・原発事故以前に福島は、東京の人々にとって分断線の向こう側だったことは明らかです。
分断線は震災・原発事故以前から、この日本という社会には様々な分断線、亀裂が走っていました。瀬戸内の大島も、新潟の妻有も、日本という社会が引いた分断線の向こう側にある。福島にも、新潟の妻有のように、豊かな日本から、経済原理のもとに切り捨てらた地域はたくさんある。
原発を立地した地域もそのような地域の一つです。
かくして、福島には東京電力が所有する多くの原子炉が立てられた。過酷事故が想定されるものだからこそ東京近郊ではなく福島にあるということは明らかです。
その意味で、原発事故以前、すでに福島は分断線の向こう側にあった。
そして原発事故が起こり福島は汚染されました。これはある意味では想定どおりです。過酷事故の可能性のある原発を東京近郊に作らなくて良かったということが証明されました。
そうして事故の起こった福島は、放射能汚染は放置されたまま、再び文字どおりに切り捨てられようとしています。
丹治さんはさきほど紹介申し上げたように、妻有に住むお年寄りにアートを通して寄り添うことは可能だろうかと考えられた。
お年寄りたちは、厳しい自然のなかで、長い時間をかけて培われた工夫によって、自然と、あるいは人々と共生してきた。それはアートのあり方そのものなのではないか。
 そういう福島に僕たちは住んでいます。そういう福島で人々とともに生きるための倫理とはいったいどんなものでしょうか?
わからない。
しかし、私たちは考えたいのです。
震災や原発事故以前に、福島はユートピアだったわけではありません。
先ほどから僕は福島は切り捨てられていたと、それが受身であるかもように述べましたが、おそらくそれだけではないことも明らかです。
私たちは震災や原発事故を基準にして以前と以降を分ける視点とともに、それをつなぐ視点も大切だと考えています。


第2回哲学書deてつがくカフェのご案内 ―森一郎著『死を超えるもの 3.11以後の哲学の可能性』―

2014年08月23日 19時30分04秒 | 開催予定
いよいよ明日、第2回哲学書deてつがくカフェです。
課題図書は下記のとおりですが、もちろん読まずに参加しても大丈夫です。
提題者のお二人がわかりやすく本の内容を紹介して下さいます。
どなたもお気軽にご参加下さい。


【対象本】 森一郎著『死を超えるもの―3.11 以後の哲学の可能性』
         (東京大学出版会、2013 年) 第5章・第11章

   
【提題者】 島貫 真(福島県立湯本高校教諭/エチカ福島)
       深瀬 幸一(福島県立橘高等学校教諭/エチカ福島)
 

【日 時】 8 月24 日(日)13:00~15:00 予約不要 飲み物代100円

【開催場所】「福島大学街なかブランチ舟場
     〒960-8103 福島市船場町4-30

※なお、事前に対象本を読んでこられるのが望ましいですが、希望者には対象頁をコピーして郵送いたしますので、下記のメールアドレスまでご連絡下さい。

今回の哲学書de てつがくカフェは、哲学者の森一郎さんの著書『死を超えるもの―3.11後の哲学の可能性』(東京大学出版会)を扱います。提題者として二人の報告者に問題提起をしていただき、その後、著者を含む参加者のみなさんと、「世界への愛」とは何かをテーマに、対話の場を設けたいと思います。

著者によると、3.11 の出来事以後、有限な個人の生を超えるもの、つまり「死を超えるもの」への問いは、確実に重みを増したと言います。友人たちとの死別や、勤務校の体育館の解体といった「個人的体験」に立て続けに見舞われ、そこから「世界への気遣い」というテーマを軸に哲学的思索を深めていた著者は、2011 年3 月11 日の太平洋沖地震を東京で経験します。著者は、近代日本の経験した出来事でも屈指の国難、大津波による街の喪失と原発事故による国土の荒廃という筆舌に尽くし難い光景に直面し、「世界への愛」という年来のテーマを鍛え直し本書を世に送り出しました。著者はこの本では、3.11 以後の哲学の可能性の一つを、あえて、「原子力をめぐる思考の可能性」にという方向性に見定めるとしています。

「現代日本の置かれた状況のただ中で哲学すること、われわれの日常的現実にひそむ根本問題に身を曝し、そこから思索の事柄を掴みとること」が、私たちに求められている、と著者は言います。この本を私たちひとりひとりに投げかけられた「問い」として、みなさん、そして森さんとの対話を通して、「世界への愛」をいつもの「てつがくカフェ」のスタイルで自由に語り合いたいと思います。みなさま、どうぞお気軽にお越しください。(文:加賀谷昭子/てつがくカフェ@いわて)

主催・問い合わせ:てつがくカフェ@ふくしま fukushimacafe@mail.goo.ne.jp
(世話人:小野原 雅夫・渡部 純・杉岡 伸也)