てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま報告3.11特別編2024「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」

2024年03月31日 12時53分39秒 | 〈3.11〉特別編記録
大変遅くなりましたが、3月9日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には14名、オンラインでは4名の計18名の方にご参加いただきました。









・まず最初第一部ということで、永幡さんご提題いただきます。永幡さんは、ご存知の方はご存知だと思いますが、ほぼほぼ毎回のようにこの「てつがくカフェ@ふくしま」に参加してくださっている常連さんなんですけど、僕の同僚で福島大学の共生システム理工学部において、音響学の専門家でいらっしゃって。3.11の後ですね、ずっと福島市内のあちこちで録音を続けていらっしゃいまして。その音をずっと13年間分撮り溜めてきた記録をもとに今日は提題を発表いただきたいというふうに思っています。

・皆さん、こんにちは永幡です。座って喋るのに慣れていないので、授業とかといても立って喋ってるので立ったまま進めて行きたいなと思っています。今日のタイトルは「沈黙の春ー再考 サウンドスケープの視点から」となります。今映しているスライドの写真っていうのは、これから色々と出てくるところですので、今ここで説明するのは省いていきなり話に入ってきたいんですけれども、話を始めるにあたって多分サウンドスケープという言葉をあんまりご存知ない方の方が多いのかなと思います。ちなみにサウンドスケープという言葉にピンと来る方ってどれぐらいいらっしゃいますか?会場の中でも、極めて少数派なのでまずはその説明からにしたいと思います。「サウンドスケープ」というのは音響学の分野で定義されている言葉なんですけれども、「あるコンテクスト(背景、状況、場面、文脈)の中で個人または人々が近く経験・理解した音環境」という風に、とてもややこしい定義になってます。何故こんなややこしい定義するかというと、古くから音響学の中でその音の問題を考える時に、あんまり人がどう聞いて音を聞いているかどうかってことを意識することなく、機械で測るとか、そういうようなことで、なんか音の環境の事はちゃんと分かったような気になってる時代が長く続いたので、それじゃまずいでしょっていうところから、こういうふうに人が一体どうやって音の関係を聞いてるんだろうかってことにも注目しましょうということで立ち上がったからです。あんまりこの話を長くするとややこしくなってしまうので、ごく簡単なところだけ一言二言説明しておくと、人あるいは人々と音環境との関係性を読み解く分野なんだって思っていただけると、大きな間違いはないだろうと思っています。その音環境っていうのは、物理的な特徴の把握をすることを主としますし、人々っていう部分に関しては心理的あるいは社会的な反応なんかを記録しながら、それらの関係性を見て行きましょうというような研究を普段はしています。このサウンドスケープという概念は元を辿るとマリー・シェーファーという人、2021年に亡くなってしまいましたけれども、カナダの作曲家の方が作り上げた概念だと言えます。言葉自体は、それより前に使ってる人がいるっていう報告が最近色んな所でされてるんですけれども、多分それはそうなんだろうと思いますが、実際にその言葉を学術的な意味づけを初めて付けた人は誰から言うと、このマリー・シェーファーに遡るのが正しいだろうと思ってます。この方はカナダを代表する作曲家でなんですけれども、1965~75年ぐらいまでサイモンフレーザー大学というカナダのバンクーバーの隣町だったと思いますけれども、バンクーバーから電車に乗って行くことができますが、そこで教えて方です。この人の主要な著書というのが『チューニングオブザワールド』は日本があって、日本語では『世界の調律』と訳されておりますが、こんな本です。今、手に入りやすいのはこの一番右側に文庫版と言っても分厚い文庫なので、すごく値段は張るんですけれども、それだけの読む価値はある本だと僕は思っていますけれども、そういう本があります。この話にも少し後で出てきますけれども、もう一個の大事なキーワードは『沈黙の春』です。『沈黙の春ー再考』というタイトルで出てますから、『沈黙の春』なんですけれども、『沈黙の春』っていうのはレイチェル・カーソンという人が書いた本のタイトルです。新潮文庫から出版されていて、今日会場で持ってきてるのは、古いので表紙が違ってますが、中身はどちらも同じです。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』というのは、国際的に環境問題に関心が高まったきっかけの一つと言われていて、いわゆる名著と呼ばれているような本の一冊です。『沈黙の春』というのを読んだ事ある方ってどれぐらいいますか?結構皆さん読んでますね。でも、読んでらっしゃる方もいるだろうと思ったので、持ってきていて今日の話を進めるのに、必要な所だけ少し朗読したいかなと思います。冒頭の部分なんですけれども、「明日の為の寓話」というふうにタイトルが付いています。
(以下朗読部分)


1.明日のための寓話

 アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つ
だった。町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘
がもりあがり、斜面には果樹がしげっていた。春がくると、緑の野原のかなたに、白い花のか
すみがたなびき、秋になれば、カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあやを織りなし、松
の緑に映えて目に痛い。丘の森からキツネの吠え声がきこえ、シカが野原のもやのなかを見え
つかくれつ音もなく駈けぬけた。
 
 道を歩けば、アメリカシャクナゲ、ガマズミ、ハンノキ、オオシダがどこまでも続き、野花
が咲きみだれ、四季折々、道行く人の目をたのしませる。冬の景色も、すばらしかった。枯れ
草が、雪のなかから頭を出している。その実やペリー(奬果)を求めて、たくさんの鳥が、やっ
てきた。いろんな鳥が、数えきれないほどくるので有名だった。春と秋、渡り鳥が洪水のよう に、あとからあとへと押し寄せては飛び去るころになると、遠路もいとわず鳥見に大勢の人たちがやってくる。釣りにくる人もいた。山から流れる川は冷たく澄んで、ところどころに淵をつくり、マスが卵を産んだ。むかしむかし、はじめて人間がここに分け入って家を建て、井戸を掘り、家畜小屋を建てた、そのときから、自然はこうした姿を見せてきたのだ。

 ところが、あるときどういう呪いをうけたのか、暗い影があたりにしのびよった。いままで 見たこともきいたこともないことが起りだした。若鶏はわけのわからぬ病気にかかり、牛も羊も病気になって死んだ。どこへ行っても、死の影。農夫たちは、どこのだれかが病気になったという話 でもちきり。町の医者は、見たこともない病気があとからあとへと出てくるのに、とまどうばかりだった。そのうち、突然死ぬ人も出てきた。何が原因か、わからない。大人だけではない。子供も死んだ。元気よく遊んでいると思った子供が急に気分が悪くなり、2、3時間後にはもう冷たくなっていた。

 自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に
思い、不吉な予感におびえた。裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、
死にかけていた。ぶるぶるからだをふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の
春だった。いつもだったら、コマツグミ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声
で春の夜は明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つし
ない。野原、森、沼地 みな黙りこくっている。

 農家では鶏が卵を産んだが、雛は孵らず、豚を飼っても、何にもならなかった。小さい子ば
かり生れ、それも 2、3 日で死んでしまう。リンゴの木は、溢れるばかり花をつけたが、耳を
すましてもミツバチの羽音もせず、静まりかえっている。花粉は運ばれず、りんごはならない
だろう。

 かつて目をたのしませた道ばたの草木は、茶色に枯れはて、まるで火をつけて焼きはらった
ようだ。ここをおとずれる生き物の姿もなく、沈黙が支配するだけ。小川からも、生命という
生命の火は消えた。いまは、釣りにくる人もいない。魚はみんな死んだのだ。

 ひさしのといのなかや屋根板のすき間から、白い細かい粒がのぞいていた。何週間まえのこ
とだったか、この白い粒が、雪のよう、屋根や庭や野原や小川に降りそそいだ。

 病める世界 新しい生命の誕生をつげる声ももはやきかれない。でも、魔法にかけられたのでも、敵におそわれたわけでもない。すべては、人間みずからまねいた 禍いだった。
 
 本当にこのとおりの町があるわけではない。だが、多かれ少なかれこれに似たことは、合衆
国でも、ほかの国でも起っている。ただ、私がいま書いたような禍いすべてのそろった町が、
現実にはないだけのことだ。裏がえせば、このような不幸を少しも知らない町や村は、現実に
はほとんどないといえる。おそろしい妖怪が、頭上を通りすぎていったのに、気づいた人は、ほとんどだれもいない。そんなのは空想の物語さ、とみんな言うかもしれない。だが、これらの禍いがいつ現実となって、私たちにおそいかかるか 思い知らされる日がくるだろう。

 アメリカでは、春がきても自然は黙りこくっている。そんな町や村がいっぱいある。いっ
たいなぜなのか。そのわけを知りたいと思うものは、先を読まれよ。

(レイチェル・カーソン著『沈黙の春』新潮文庫、新潮社、1974 年。)

というふうに今読んだところなんですけれども、「春が来たが沈黙の春だった。今は物音一つしない。野原は森、沼地、皆黙りこくっている」というところからこのタイトルがきてる訳ですね。これ、なんで鳥も何でもかんでも、皆が黙りこくってしまったか。これは化学物質、農薬とかですね。それをバンバン使うようになって、その結果として生き物がみんな死んでしまった。実際にアメリカで今みたいにすごく本当にそういうような町がある訳ではないんだけれども、タイトルは「明日の為の寓話」と付いてましたけども、色んな所で起きている事をどんどん足し合わせていって、なので全てが同時に起こっているような所ってのはその当時もなかったようですけれども。なんだけれども、一個一個の話っていうのはあるような感じで。今のままほっとくとこうなるよってことを警告したそういう本です。その化学物質で生き物がいなくなった春を描写したので、そこから始まってる。コレだけ今日認識して頂けると、この後の話に付いていけるのかなと思っています。それと、録音を聞いてもらう前にもう一言だけ付け加えてお話しておきたいのがサウンドスケープについて。僕の分野の研究分野において、「沈黙」というキーワードは結構大事なキーワードなんだよってことを人と話したいと思います。『世界の調律』という本の中では、「沈黙(サイレンス)」というのが一番最後の一個前の章にあります。その「沈黙」について色々語られていますが、そこから大事なことを抜き出しておくと「心と精神の落ち着きを取り戻すためには、静寂な時間が必要だ」てのが、「沈黙」を考えるとキーワードです。もう一個のキーワードとして、大事なことは「生命と繋がる概念であり、死と繋がる否定的なものと捉えられる傾向にある」と。だから今の『沈黙の春』というのは、正に後者の方のパターンで書かれている。なので、この『沈黙』には二つの意味があるんだという事をまず最初にお話ししておきたいと思います。今日この後、20分から30分ぐらい音選んで聞いてもらおうと思ってるんですけれども、原発事故後に福島市内の定点観測をずっとしていました。大体同じ場所で音を取っています。その音がどのように変わっていったのかっていうのを、是非聞いていただきたいなと思ってるんですけれども。録音を始めたのが2011年5月1日です。なぜ5月1日かというと、その前日まで福島大学で避難所やってました。避難所を手伝っていてなんか気分が録音しようという気分になってなかったっていうのが一つ。あともう一つは、僕の研究室が酷いことになっていて、今日レコーダー持ってきてますけどこれの風防が見つからなかったんですね。この風防がないと風がちょっと吹いたらもう音は取れません。現実的に取れなかったというのも実際あります。「なんでもっと早く取らなかったんだ」というのを色んな事で色々言われたりするんですけれども、そういう二つの事情から録音始めたのはその辺になってしまいましたという所です。この後、いくつか音を選びながら聞きたいと思います。


~録音再生/10分休憩~

・それでは、第二部の「てつがくカフェ」を始めていきたいというふうに思います。第一部で永幡さんから「福島サウンドスケープ」をご提題いただきました。『沈黙の春』ということに関しても色々とお話いただいたんですが、それを踏まえて13年間振り返るとということで、まずは聞いてみての感想でも構いませんし、最後に永幡さんからいくつか今日皆さんに考えていただきたいテーマみたいなこともやらせていただきましたので、それらもぼんやりと考えていければというふうに思っております。

・今「小鳥の森」を意識してなかったという話が出たんですけど僕はですね、小鳥の森いつ行ったんだったかな?多分(震災から)一年経ってないぐらいで行った記憶があるんですけども、あそこだけはちょっと異様に怖かったっていうか。行って凄く「何かあるなぁ」と感じるぐらい。だから、見えない放射線を感じるぐらい僕はなんか凄くここに長居してはいけないと感じるぐらい。 なんか恐ろしさがあったかなというのは、それを急に思い出しました。

・永幡さんの説明をお聞きして、単純な感想なんですけどタイトルに書いてる「耳で振り返る震災原発事故後の13年間」ということなんですが。これ「耳で13年間を振り返るって難しいなぁ」と思って。結局の所、音だけでは中々理解できないかな。「サウンドスケープだけでは理解しづらいなぁ」と思って聞いてました。要するにサウンドスケープ=音風景と(動画を)見合わせて聞き合わせないと中々理解できないのかなという。そうすると、単純に耳で振り返ると書いてあるんだけど、中々それは理解できなかったかなというのが私の感想。それと「小鳥の森」について今ちょっと話題になってましたけど、私は原発事故前から偶に「小鳥の森」に行ってたんですが、画面に出て小鳥たちの鳴き声が聞こえる場面も出てきましたけど。原発事故前も別に人の出入りってあんまり無かったような場面にしょっちゅう出くわしてたんです。私の行く時間帯が悪かったのかもしれませんが。ということで、人はあんまり出てなかったし、それに対して小鳥は盛んに囀っていたという状況は変わってなかったから画面を見てて、そういう印象を受けました。ただ、場面を見て音と重ね合わせて理解しますと。やっぱり原発放射線の線量が高くて、人手が少なくなったと。その辺はよく理解できたかなと思いますし、あとコロナ禍が始まってからも、あまり外出しなくなったということで人手が少ない場面があってそうだったなという感想です。

・あの「小鳥の森」に関しては、多分時間帯によるんだと思います。あそこはやっぱり学校の研修で行くとか、そういうのが多かったりとか、元々子どもたちがよく行くような場所。子連れで行くような場所だったので、そういう時間帯に行くと常に誰かいるんだけれども。あんまり子どもが来ないような時間帯を狙っていけば確かに。元々少ないと言えば少ないのかもしれないですね。

・貴重な資料ありがとうございました。あんまりよく理解してないので、単純な質問なんですけども、『沈黙の春』だと動物のようなものが沈黙するじゃないですか。水俣も猫から沈黙していくじゃないですか?今回福島の資料を見た時におり、「アレ?沈黙してないじゃないか」というか。「えっ?全然沈黙してないじゃん?」という感じで思ってて。でも、人間は沈黙してるんですけど、そのギャップっていうか。どういう風に捉えればいいのかなっていうのが、今日見せてもらった資料をレイチェル・カーソンの『沈黙の春』とか水俣と比較してギャップが捉え方を教えていただければなと思ったんです。

・基本自由に捉えてもらったらいいなと思ってるんですけれども。僕自身の捉え方としては、レイチェル・カーソンが言ってる『沈黙の春』とは違った沈黙が起こってるんだと思っていて。コロナで起こった沈黙もやっぱりレイチェル・カーソンの言っている事とは違った事が起こっていて。なので、20世紀に起こった『沈黙の春』、あるいは「沈黙」というものと、21世紀に我々が今経験している「沈黙」というのは同列では語れないだろうなと僕は考えています。

・さっきの『沈黙の春』というのは、あれは実際にあったこととまた違うんですか?じゃあ、まず質問で人間もアレだし動物もアレだって『沈黙の春』で、最初説明あったんですけど、あれは実際にあったことなのかな?まずそれ一つね。そして、あとこちらの方も言った通り、私も一番最初「小鳥の森」とか、人はね、あの出てこないんだけども、結局原発もやっぱり科学のアレですよね。それなのに小鳥とか、そういうの沢山鳴いているでしょ?だから、こちらの方も言っているように、私もそこで「アラっ?」て一瞬思ったんですよね。あの原発の近くでなくて、「小鳥の森」はかなり離れているから、鳥は色々飛ぶからね。だから私、最初の一つとあと二つ目の質問は相馬市の原発があった所は、そこの野生の鳥というのはどうなのかしらなと思ったの。「小鳥の森」みたいに騒々しく鳴いてるのかなって。それ2つ目の質問なんですよね。そして、あくまでも。鳥はあくまでも野生だからね。野生だから別にその辺はどうなのかな?例えばだよ、鳥かごに常にね、野生じゃなくて鳥屋さんに売ってる鳥かごにね、売ってるペットセンターで売ってるね鳥をどこを原発の放射線の高い所に置いたら、その辺は野生の鳥と変わるのかな?って。この三つね、私それさすごくね感じたの。その三つの質問ちょっとお願いします。

・まぁ、答えられる方がいらっしゃったらどなたでも。永幡さんいかがでしょうか?

・レイチェル・カーソンの『沈黙の春』はあれ、あのままのことが起こっている所はまず無いと著者自身が書いていて。ただ、色んな所で起こったことを重ね合わせて行くとああいう風な事に、最終的になってくんじゃないかっていう問いかけで書いています。なので、完全に全てが黙りこくった所というのは無いと思います。野生の生き物がどうかという話については、多分世話人とかあれだよね相馬市に近いから、後で補足してもらえればと思うんですけども、基本的に少なくとも耳で聞こえる範囲では鳥は減ってないんではないかと思います。色んな仕事で相馬市の方に行くことあるんですけれども、別に普通に鳥は鳴いているし。あとチェルノブイリの時の記録っていうのは、これもCDが出てるんですけども、やっぱり録音した人が居て。チェルノブイリの場合は、本当にもうチェルノブイリのかなり近くで録音してるんですけれども、やっぱり生き物の声はちゃんと聞こえてるし、むしろチェルノブイリに関しては、人が完全にあの日本以上にその広い範囲に渡って住むことが出来なくなったので、なんか野生の王国になってるというような報告もあるようですから。その意味で例えば、遺伝子レベルで何が起こってるかとかっていうのを厳密調べ始めたら、もしかしたら何かあるのかもしれないですけども、少なくとも耳で聞こえる範囲、目で見える範囲で見る限りにおいては、生き物は生きてますよね。それは間違いないと思います。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま3.11特別編2024「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」

2024年03月18日 12時38分26秒 | 開催予定
てつがくカフェ@ふくしま2024.3.9.
【テーマ】「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」
【日 時】2024年3月9日(土)
     14:00~15:00 提題/「沈黙の春」再考:サウンドスケープの視点から
     15:10~17:00 てつがくカフェ
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/86379270927?pwd=NL3KZaC50BwCVYhfxBfC1bU5Wc3R2y.1
        ミーティングID: 863 7927 0927
        パスコード: 1gu5e7

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp(世話人/石井)





てつがくカフェ@ふくしまの常連参加者のお一人である永幡幸司さんは、

福島大学共生システム理工学類の音響学の専門家として、

2011年5月8日より福島市内の各所で継続的に音を録取し、

「福島サウンドスケープ」として発信し続けています。

「サウンドスケープ」とは音の風景という意味で、

環境のなかで軽視されがち、ないしは後回しにされがちな音に注目し、

音が織りなす環境にスポットを当てていこうとする概念です。

13年にわたって録音された福島サウンドスケープは、

震災・原発事故が福島市民に及ぼした影響や、

その後少しずつ復旧・復興していく様子、

さらに、コロナ禍がもたらしたまた少し異なる変化などを、

克明に記録しています。



当日はいつもより1時間早い、14時00分スタートで、

永幡氏より約1時間ほど、編集された「福島サウンドスケープ」に基づいて、

「『沈黙の春』再考:サウンドスケープの視点から」というタイトルで、

ご報告いただきます。

それをじっくりお聴きいただいたあと、

「耳で振り返る震災・原発事故後の13年間」というテーマで、

哲学カフェを行っていきます。

これまで映画などを題材に、映像を見ての特別編は何度か企画しましたが、

音を聴いての特別編というのは初めての試みです。

是非皆さまご参加いただき、福島の音に耳を傾け、

感じたこと考えたことを自由に発言してみてください。



今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.2.17.「てつがくに何を求めているのか?」

2024年03月17日 14時38分56秒 | 定例てつがくカフェ記録
2月17日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には13名、オンラインでは5名の計18名の方にご参加いただきました。





・今回のテーマは「てつがく」は平仮名にさせていただいて、ダブルミーニングというかいわゆる「哲学」ですね。哲学という学問に対して何を求めるのかっていうことと、この哲学カフェは福島をここでやってるわけですけども、その「てつがくカフェ」とか「てつがくカフェ@ふくしま」とかに何を求めるのかと。そういうようなことでダブルミーニングで「哲学」に何を求めるのかと言うことで、本日のテーマとさせていただきたいと言うふうに思います。

・あの哲学というものがなぜ必要になるのかということは、人間がまずいろいろ疑問を持つからではない。というのが始まりだと思いますが。「なぜ私がここに居るのか?」「なぜ世界があるのか?」ていう風な意味で疑問を持ち始めたことが哲学の始まりかなと思います。日々何も考えずにその日、その日流されて生きている方には哲学は必要はないのかなと。だから、自分自身が疑問を持つことが一番初めではないかなと思います。

・まず哲学の始まりという話いただきました。

・続けてそうですね、若い頃にいろいろ本読んだり、形而上学とか読みましたがもう五十年前のことでもう忘れました。その後も色々論理学とかチラチラとこう齧っては来たんですけれども。一番疑問に思ったのは「なぜあのこの世の中に悲しいことが多々あるのか?」ということ思って。まあ、若い頃ですから20代ぐらい?それを個人の力ではどうすることもできない。どうすることもできないけど、見てるしかないんだけれども、まあ悩んでどうにかしたいんだけど。多分ですね今回の石川県の被災でも、それなりの個人個人ができることはあると思うんですけれども。でも全世界の人々を救うことはできない。ということは、疑問に思って日々悩んか悩んだこともあります。ということをお伝えしたいと。

・今日は「哲学になにを求めているのか?」っていうことなんですが。要するに「哲学って何だ?」ということだと思うんです。で、色んな学問「哲学」も学問の一つかなということなんですけど、経済学にしろ法律学にしろ(学問の)対象があるんだと思うんですね。で、哲学の対象と何かというと「哲学だよ」って言われると、もうそうかなって気がしないでもないんですけど。まぁ、私はざっくばらんに言って哲学の対象っていうのは考え方っていうか、真相。神の問題も含めて「神ってなんだ?」というか。ちょっと前に神の問題を(てつがくカフェで)話し合いしたんだけど、世話人から「神が存在するのか?しないか?」非常に大きな問題、そういうの考える分野として「唯心論」ってのがあるって言われたんですけど。でそういう意味での神なんかも哲学の対象かなと風に思っているんです。だから大雑把に言葉の使い方として、東洋哲学とか西洋哲学とか、場合によってはギリシャ哲学色んな言われ方をするんですよね。法律学は法律を対象としてる。でも、法哲学っていうのもありますよね。学生時代に習ったような気もしないでも。あるいは経済学にしたって、ものすごく細かく行くと色んな風に分かれてるわけですけど。で、哲学についてはニーチェの哲学とか、マルクスだとか、あるいはスピノザだとかデカルトだとか、カントだとかヘーゲルだとか。まあ、そういうのを取り上げて、ヘーゲル哲学、カント哲学とか個人個人の考え方も含めて、哲学っていう風に呼んだりしてるわけだけど。まあ。大雑把に言って、考え方や思想を対象にしてるのかなというふうに思っているんです。哲学の役割とか哲学の狙いっていうのは、これも非常に曖昧な言葉ですけど「本当の事を追求する」。「本当の事ってなんだ?」っていうことになるとまた問題なんですけど、真実だとか事実とかいろんな形で言い換えられると思うんですけど。要するに「本当の事って何?」っていうことそれを主に追求するのかなというふうに思っております。

・ええ今日の「何を求めるのか」というのが議題になってますけども、結局「何を求める」っていうことは、あのうまぁ哲学の場合は「真理」が一応の究極の目標だと言われてはおります。それであの先ほど。ああ、前回ですか?前々回かその前か「神」についての対話もありましたけれども結局ね、哲学は心理を求めて神の神学、宗教神学は神の存在を求める。結局、それは自分が救われるということにつながる。というか、それを求めているのかなと。結局、哲学は心理を求めて、その心理によって自分自身が、まあ世界も合わせてかもしれませんが、救われるということ。宗教はまぁ、自分自身もまた世界も神によって救われるのではないかということを求めているのではないかと思います。

・私、あの哲学が何を求めるかっていうのはちょっと私お話ししないんだけども。あのー、デジタルクーポンってありますよね。スマホ持ってる人はデジタルクーポンを手続きして5000円で、で1500円とかね。あれさ、スマホ持ってる人は5000円で1500円、1万円で2,500円。それ全部さ、補助はさ税金でやってんだよ。いや、それは別に構わない。こっから私の言いたいことはスマホとかさ無い人ね。わざとそういうのない人ね。全くのゼロだよ。これはひどいじゃないですか?本当にひどい。補助はなんでも税金からやるよ。けどさ、スマホのない人はゼロだよ。ひどいよこれは。そして私もちょっとその話しをしたらば、みんなそれさ不満持ってさ。電話ジャンジャンいったみたいね。そして、初めて2回目にデジタルのあれ紙になったのね。前は紙クーポンだったんだよ。最初この人は二期目だからね今度。最初は紙クーポンだったんだから平等に。そして二期目選挙に受かった途端には、全くのもうこれはひどいよ。すべて税金でしょ?機械の無い人がゼロだって?ちょっとそれでジャンジャン苦情がいっぱいいったみたいね。それで2回目そうなったみたいね。紙クーポンでっていうこと。あれさ、なんにも言わないで黙ってね、お上の言ってることだから何でもハイハイって聞いてみな。そのまま行っちゃうから。あんまりキャンキャン皆が騒いだもんだからそうなったんだ。だからね、我々はね。まともな人選ばないとダメ、本当に。誰とは言わないけれども。野球だって監督が変わればチームも変わっかんね。トップが変われば変わるんだから、なんつったって。そう、私はね、モヤモヤをね。もう本当に私の言ってた事に対してね、あなた達はでどう思うか、そういうのも聞きたいですよ。本当になんでもかんでもうんうん。あのこの人はさあまあ、色々決める人がさ、もういいとこのまあアレだから、もう田舎のこっちに来ては皆逆に舐めて馬鹿にしてんだよね。そんなことしないからね。最後ちゃんと平等に紙クーポンでやったんだ。全くねえダメだまともな人を選ばないと。あとね、とても変だなと思うと騒がなきゃだめ、私一人でどうしようもないけど、みんなでガンガン騒いだからそうなったんだからね。私考えて。まあいろいろ考えて、これでもうすぐあと、あのね、なんか先進国だかなんだかね、日本はねまあ豊かなんだけど。自殺率がナンバーワンのね。自殺率ナンバーワンだよ。先進国だか世界だかなんだかで何か言ってたんだ。ラジオで言ってましたラジオ。結構ね、テレビだとね。案外制限されて本音は言わないんだよ。ラジオだと結構本音で言うんだ。市議会でだっけ?自殺率で言ってた。ねぇ?まあ、政治家はすごいと思う。政治家になって金が入ったら、もうそういう所に頭ばっかり行ってるから、そっちの方ににばっかり政治家は行ってんじゃないの、政治家は?30年間ずっと一般庶民の人がさ、全然戦前から豊かにならなくてね。だからなれの果てそうなったでしょ?政治家はね、もういい加減金取る方にばっかり頭行ってんだ。いかに国民のことを考えててとか、そうじゃないよ。まあ、あの政治の人見てて、分かるでしょ。だから、本当にもうそれを選んでいるのは我々だから、もうちょっと利口になきゃならないと思います。私、今三つ言いましたけど、これに対してまあね、いろいろ考えて。まあそれに対してどう考えているか聞きたいなと思いまして、終わります。

・デジタルクーポンが出てきて、めちゃくちゃ面白いなって思ったんですけど。まあ、実際そのスマホがないと言う点で政策の利益を受けるかどうかが決まってしまうっていうのは、デジタル化を推進していこうっていう政策の不備があるかなっていう。それをまあ、政治主導で行うか、公共の場で行うかわかりませんけども、まあ、スマホの復旧とかデジタル機器の利用を推進して行くという政策も含めて行うべきだったなって言うことは僕も感じております。で、でその後、広くまあ哲学というところに結びつけるのであれば、その政治の進め方ということについても、まあギリシャ哲学も然りですし、あとフランス革命当時ギュスターヴ・ル・ボンとかの辺りの人は民衆と政治の関係ですよね。その辺りもまあ、話してる人も結構いるので、今の話も全く哲学とは無縁ではなくて、関わりのある話かなと思って伺ってました。それで、自殺率が多いというところで、まあそこでもこう社会においてどう生きるかであるとか、社会における人はどういうものを求めているか、何をする人かっていうのを考えるっていうところも、やっぱりその哲学のフィールドにあがってくるのかなというふうに感じています。だからその辺り、ちょっと深めると面白いかなって思うます。

・今回参加は2回目になります。まず私の方から考えとしてお伝えしたいのが、二つ大きくありまして、一つが「哲学をするってどういうことなのかな」っていうことです。私は元々福島大学出身で世話人の倫理学の授業とか、あと哲学の他の先生の授業とかも受けたことがあるんですけど、哲学と倫理学ってなんかどう違うのかなっていうのが私よくわからなくて。哲学も専門で勉強してきたことはないんですが、道徳的なものとかとあと哲学するってどういう?違いがあるのかなっていうのがあんまり分からないので、まあそこを皆さんにお聞きしたいなって思ったっていうことと。あともう一つが、「哲学に何を求めるのか?」っていう今回の議題についてなんですけれども、自分のことについて言った時に考えられるのが、私の話になっちゃうんですけど、私は自分が分からないし、他人のことも分からなくて、自分と他人を理解するため、結局自分って何なんだろうとか、他人がわかんないから。わかることは絶対できないんですけど、でも、その足しにするために哲学するっていう行為、ちょっと本を読んだりとか、そういう本当に勉強ってほどではないんですけど、そういうことをしているんだろうなって。そして今、こういうふうにZoomを通して哲学カフェに参加させていただいて、皆さんのご意見とかを聞かせていただいて。じゃあ自分って何なんだろう、「どういう考えを持ってるんだろうっていうのを深めたいのかな?自分は」って言うふうに思っています。

・今日のテーマ「哲学に何を求めているのか?」ってこれ主語がないじゃないですか?だからいろいろ広いなあと思っているんですけど。まあ、でもやっぱり「誰が」によって答えは結構変わるもんだなぁっていうのが、まず最初に思ったことですで。またですね。この哲学がひらがなになってるっていうところも、まあ学問としての哲学じゃなくて、哲学カフェとかそういった試みについてもあるというお話ありましたけど。そうすると「哲学カフェ」とか、「哲学対話」と呼ばれるものに求めるものっていうのが、哲学に求めてるんじゃない場合っていうのも当然あるのかなと思うんですね。例えば、その人が集まる場を求めているので、別に哲学カフェじゃなくてもよかったとか。あるいは、そういう機会を求めている、そういう哲学的な話とか、ちょっとなんか小洒落た話とか、カッコつけた話とかをしたいな。人にかっこいい、頭いいって思われたいなっていう。そういう機会とか承認とかを求めたりする場合も、あるんじゃなかろうかと思うんですね。純粋にと言っていいのかどうか、分かんないですけど、哲学に求めているそういう気持ち、「哲学やりたい」「哲学的な話に触れたい」というので求めているのは、やっぱり知的な刺激を求めているんじゃないかなと思うんですね。で、それはなんなのかっていうと、やっぱり「分からないことの答えを何かしら求める」っていうのが人間の中には共通してあるんじゃないのかなって気がします。で、「分からないの答えを求める」っていうものなんだとするとですね。俺は分かってんだぞっていう人にはその欲求が多分ないんだと思うんですね。だから、分かってるつもりの人には哲学は多分魅力のないものなんだと思います。でも子供がまあ、三歳とかぐらいの子供が家の中のことがだんだん分かってきて。あっちに行ったらそのお水があるとか、あっちに行ったら遊ぶ場所があると。家の中のこと全部わかったぞといざ外に出てみると、知らない世界がそこに広がってるわけですね。で、幼稚園に行くとか、ご近所が広がっていって、いつも行く場所から今度かなり遠い場所に行く。大人になって見ると、近くのスーパーだったりするんですけど。でもちょっとした冒険だったりしますよね最初の頃。それが市内とか県内とかそういう風に広がっていくと分からないことだらけになっていて。で世界の他の国があるっていうことを知ると、さらに分からないことが広がって分からないことだらけは、もっと広がる。それを分かったつもりにならないっていうことをしないと哲学って何の意味もないのかなって言うような気がします。「哲学に何を求めているのか?」っていうのは、だから、分からないと思うことに対しての答え、純粋なその好奇心を満たすものなんじゃないのかなと思います。

・最初に今日のテーマが「哲学に何を求めるか?」ということだったんで。それは哲学っていうのは、他の学問も色々と対象に思ってるでしょう。だから哲学の対象って何かっていうことを言ったんですが。求めてるもの、哲学の対象は哲学かっていうと、なんか訳分かんなくなるんですけど。物事の本当のこと、真実とか事実とかって言い換えてもいいと、そういうものを求めるのかなと言うふうに思うんですが、今日のテーマ「哲学に何を求めるか?」ということで出されているわけですが、これについてはここに出席する、あるいは参加する人が、哲学それなり哲学というものを考えて、その哲学に何を求めるのかっていうことの意見を求められているのかなというふうに思ったんですが、先ほど終了が出てないんじゃないかということだったんですが、我々出席者が哲学について考えて、その哲学に何を求めるかっていう意見を求められているということ。あるいは視点を変えて、社会から見て哲学はどういうことを求められてるのかっていう、そういう考え方もできると思うんです。まあ、そういうことで主語の問題、哲学とか倫理の人が出てきたんですが。まあ、哲学と倫理の違い、まあ私やっぱり、単純な頭で考えて倫理というのは、いわば哲学の一つの分野と考えていいのかな?中身は人と人との関係で望ましい。それはダメなものも悪い場合も含んでいるわけですが、望ましいあり方を倫理学かなと考えています。ということで、倫理学は哲学の一分野と考えて良いのではないかな?世話人が倫理学の教授ということであれば、その点、哲学と倫理学の違いをどう考えなってるのか、お聞きできればいいなというふうに思ったんです。

・それは答えなきゃいけないだろうなと思っておりました。まあ答えるっていうか、僕なりの考え方ということですけども。哲学というのは、先ほど皆さんがおっしゃってくださっているように、その分からないものを求めて行く。だから、正にソクラテスは「無知の知」って言ったわけですけど、自分は知らない、答えを知らないんだと。皆その当時のソフィストと言えば、知恵がある者、知識のある者、知恵を持っている者っていう人たちがソフィストなんですけど、ソフィストたちは「自分たちは答えを知っているぞ」っていうふうに言ってたんだけど、自分は全然答えを知らないのに。それで、とある神殿の信託によってソクラテスが一番知恵があるんだっていう風に、そういう信託があった時にソクラテスは「でも、私は何も知らないのに」と。そこではたと考えて、「自分は知らないということを知っている」「答えを持っていない」「答えを知らないからこそ、知りたくてたまらない」と。だから、哲学は「フィロソフィア」っていうわけですけども、これ要するに知を愛するって何かっていうと知りたくて知りたくてたまらない、自分は知らないので知りたくて知りたくてたまらない。そういう意味じゃ心理とか本当のことを求めていくっていう営みが哲学の出発点にあったんだろうなと。で、僕は哲学っていうのはあまり良い訳語(翻訳)だと思っていなくて。経済学は経済を学ぶし、心理学は心理を学ぶんだけども、哲学の哲って何だろう?「聡い」とか「賢い」とかっていうような言葉なんですけど、もともと「希賢哲学」っていうふうに訳されたのは明治時代に。つまり「希」は希望、「賢哲」は要するには知恵ですね。知恵と賢さ、賢さを望む=「フィロソフィア」。まあ、賢さを望むっていう風に訳して「希賢哲」と訳したんだけど、それがまあ略されて「哲学」になったわけですが。「哲学」って僕意味分からないなっていうふうに思っていて。僕は「フィロソフィア」は「哲学」なんて言う変な言葉じゃなくて、「学問」って訳せば良かったんだと僕は思ってます。実際に18世紀19世紀の初めぐらいまでは全ての学問は「哲学」というふうに呼ばれていて。つまり、「ナチュラルフィロソフィー」「モーラルフィロソフィー」。全ての学問が「フィロソフィー」だったんですね。で、それは何かっていうと、正に皆知らないから、自分で考えて答えを提示するんだけども、その弟子たちはそれを信じるのではなくて、それをまた疑ってかかると。「本当にそうなんですか?違うんじゃないの?」と。で、また自分で考えると。だから、哲学は本当に哲学者の数だけ哲学があって、思想家の数だけ思想はあると。そうすると、その考えた人が沢山いれば、それだけ沢山のデカルトの思想やライプニッツの思想とか色んな人が沢山出てきちゃうわけですけれども、まあ学問をずっとそんな感じで、それまではそうだったんですけど、近代以降、学問がそれでも「皆が勝手に色々言ってるだけじゃダメでしょ」って話になって。やっぱり、データと言うか、つまり、私たちが見たり聞いたりできる私たちの経験によって、きちんと「確かめられる事だけでやっていきましょうね」っていう形になって、それが実証科学っていう話なんですけど、実証的にデータに基づいて観察したり、実験やったり、それに基づいて分かることだけは分かるようにしましょうと。それで、「見えない神様とかなんか、そういうようなもので説明するのはやめましょうね」と。それが実証科学っていう運動が起こって学問のあり方が実証科学によって全然ガラッと変わって、そっからだんだんこう「知」を積み上げていくことができるんです。皆分かってることじゃなくて、段々「知」を積み上げていくことができるようになったっていうのがまあ。16~17世紀ぐらいから始まったのかな。そういうのが、どんどん実証化が進んでいくと、どんどん発見がた沢山あって。で、発見が沢山あるともう昔は、哲学者ってのは全ての学問を全部やったんですね。『アリストテレス全集』なんか見るともう天文学から心理学から生物学から法学から、全部一人でやってるわけです。それはもうずっとカントもそうだし、ヘーゲルもそうで。18~19世紀の初めですかね、ぐらいまでは全ての学問は一人で全部やると。哲学者と呼ばれる人が全ての学問全部やるっていうふうにやっていたんだけども、ただやっぱそのヘーゲルのちょっと前ぐらいから、やっぱその凄く実証化が進むともう知識がどんどん積み重なって、それによってもあの一人でやりきれないっていう風になってて。じゃあ、もう「私はこれだけ専門になります」みたいに段々分かれていって。それが分業化ってことが起こっていて。それはつまり、学問が科目に分かれていく。つまり科学になっていくとで実証科学っていうのは実証できる。事柄や実験を通して実証できることできちんと積み上げていこうということになって。そうすると、その個別の一個が持ってるのが、まあ独立して、まだ全て学問が別だったんだけど、そっからだんだんこう色んな学問が実証化がうまく行ったところは、どんどんまあ哲学が独立して行ったっていう感じだと僕は思っています。で、だから結局今、現代の哲学というのは、その実証化できなかった部分。実証的に研究できなかった部分だけが残ってしまって。で、ついこの間までやっぱ哲学の一番主要な部分は認識論っていう「どうやって私たちは心理を知るのか?」「心理はどうやって知ることができるのか?」っていうことを考える部分だったんですけども、実は最近そこも実証化されてきていて。つまり大脳生理学とか認知心理学とかみたいなものは、どんどんは分かって、脳の中で何が起こっているのかっていうのは、昔は全くブラックボックスで分かんなかったんだけども、脳の中でどういう活動が起こってるかって言う脳の部位とか、その活動とかも分かるようになってきて。その認知の仕方、認識の仕方に関しても、もう結構実証的に分かるようになってきていてっていうような時代になってきて、だからそういう意味では哲学に残されているのは実証できないと言ってるのが、だんだん減ってしまってるんだけど、それでも実証できないと言っても、「神様いるのか?」っていうふうな経験を超えて、前世とか来世とか死んだと魂どうなるのかとか神がいるのかいないのかって話は実証的には分からない。私たちの経験によっては分からないわけで。そういう問いが残っているっていうのと、哲学と倫理学の関係で言うならば、倫理学は「私たちはどう生きるべきか?」とか、「何が正しいことなのかとか?」っていうのもこれも実証できない。つまりアンケートをとって、皆がどういう風に考えてるかっていうのは分かるんだけど。それはアンケートで何パーセント、何が正しいって考えるみたいなことは、実証的にデータを集めることができたとしても、じゃあ70%の人がこれが正しいって考えているからといって、それが正しいと言えるかっていうとそれは言えない。つまり、人間の生き方とかに関わってくることっていうのは、実は実証的には今の現段階においてはまだ「どう生きるべきか?」とか、「何をどんなルールを守るべきか?」とか「どんなルールに従うべきか?」っていうのも、今のところまだ分かっていなくて、そういうまだ実証できていないっていう問いが残っていて。だから、多分哲学の中で倫理学って、やっぱその哲学もも勿論実証ができなかったと意図して一つ大きく残っていて。倫理学も哲学の一部分だけど、「哲学」は別にその人間の生き方とか、それだけにかかってるわけじゃないので、さっきの「心理とは何か?」とか「神がいるのか?」とか、「時間とは何か?」とか、そういったような理論的な哲学問題ってのは、どちらかというと「純粋哲学」とか「理論哲学」と言いますけど。「倫理学」の方は、割とその人間の行動とか行為とかに関わってくるところと思っています。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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