てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

郡山で 「てつがくカフェ」!

2013年04月30日 17時09分52秒 | 開催予定
来る5月8日 (水) に郡山で 「てつがくカフェ」 が開催されます。

これは 「てつがくカフェ@ふくしま」 とは別の団体による催しで、ちょっとインターナショナルです。

なんと香港中文大学のスタッフが主催です。

チラシはこちら↓。



元はというと、香港中文大学が震災関連事業として、

岩手、宮城、福島の高校で哲学カフェをやるという計画を立て、

須賀川高校に打診してきたそうなのですが、

須賀川高校では開催できなかったので、一般市民相手に郡山でやることになったそうです。

ファシリテーターを務められる張さんは、東北大学に留学されていたこともあり、

日本語ペラペラだそうですから、ことばの心配はまったく要りません。

郡山で哲学カフェが開催されることはこの先もめったにないと思いますので、

福島では参加できないという皆さん、ぜひともこの機会にご参加ください。

もちろん 「@ふくしま」 の常連の皆さまのご参加もお待ち申し上げております。

第16回てつがくカフェ報告―「〈ならぬことはならぬもの〉なのか」―

2013年04月14日 07時00分11秒 | 定例てつがくカフェ記録
第16回てつがくカフェ@ふくしまが昨日アオウゼで開催されました。
開始当初は疎らな人数だったものの、最終的には22名の方々にご参加いただきました。
テーマは「〈ならぬことはならぬもの〉なのか」です。
「ならぬことはなりません」とは、会津藩士子弟の教育に用いられた「什の掟」の中の一つの道徳命法です。
「ダメなものは理由なくダメなのだ」という、この問答無用の道徳命法はしばしば躾や教育に用いられるものですが、果たしてこの道徳命法の内実はどのようなものか、それを問うテーマとなりました。
ただし、この道徳命法については世話人・小野原からこの命法が特例を認めない「例外なくダメ」という普遍性の意味もあり、これが「理由なくダメ」という意味と同じなのか、異なるのかということも問いたいとの提起がありました。

さて議論は、まず子どもの躾や校則のように教育の場面でこの道徳命法を用いることはありだけれど、大人に対しては難しいとの意見が出されます。
というのも、実生活上では「ならぬことはならぬもの」を貫くと色々不都合な場面が生じるからだといいます。
たとえば、道交法の法定速度などは実際そのとおりに誰もが遵守すれば、逆に渋滞などの支障をきたすことは想像されるでしょう。
その意味で、別の意見からは「自分で判断できない段階の子どもに対してはこの道徳命法は必要だろう」との根拠が示されました。
なるほど、仮にある禁止事項があったとしても、ケースバイケースでその時々のルールの意味に適う行動が取れれば、この問答無用の命法は意味を成しません。
一台の車も通らない真夜中の赤信号交差点を渡らないのは、笑いのネタにしかならないでしょう。

ただし、この意見の発言者は実際の子育てにおいて、わりとものわかりのよい長男、長女に対してはこの道徳命法を用いたものの、悪童であった次男に対しては、むしろ自分の失敗から「ならぬこと」の意味を経験によって自ら理解させる方針に変えたとのエピソードが紹介されました。
ここには「ならぬことはならぬもの」の内実が、本当に自分自身で腑に落ちなければ意味がないものであり、それを経験によってつかんではじめて意味を成すという理論があるように思われます。
たしかに、そうでなければこの道徳命法は空疎なものに過ぎないでしょう。

こうした教育の場面における「ならぬこと~」の道徳命法については、さらに別の参加者から「先天的に〈ならぬこと〉などはない」のであって、むしろ学校教育で言えば、例外を認めない形で進めてきた教育のやり方が綻び出しているのではないかとの意見が出されます。
たとえば、制服や校則の遵守、あるいは護送船団方式的な進学指導などは、不登校などさまざまな負の現象として生じているのではないかとのことです。
なるほど社会的な規範としてこの例外を認めない命法が用いられる場合には、このような綻びが生じるというのはわかる気がします。

また「ならぬことはならぬもの」というのは大きな真理の枠組みとして存在し、「ならぬこと」の個別内容(たとえば「人を殺すべからず」や「物を盗むべからず」等)とは別個に存在するという意見が出されました。
その上で、この個別的な「ならぬこと」の内容は時代社会の移り変わりとともに変わっていく相対的なものではないかといいます。
これはおもしろい視点で、「ならぬことはならぬもの」という命法が普遍性を要求する一方で、個別具体的な命法は相対的であるというわけです。
たとえば、「什の掟」の中で現代も通用するのは2、3しかないのではないかという意見も出されました。
とりわけ「戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ」という掟は時代錯誤も甚だしく、これをまじめに現代で実践するとすればよほどの変わり者ということになるでしょう。

とはいえ、たとえば「弱い者をいぢめてはなりませぬ」という命法は納得できるとしても、結局のところその根拠を説明するのは難しく、その場合にはこの道徳命法を用いらざるをえないという意見も出されます。
これに関しては、熱さを感じる力のない無痛無汗症の子どもに体験的に「熱い」ことを教えることの困難が示されました。
それゆえ「熱さ」を経験的に理解できない子どもに対しては、その危険を教えるためには「ならぬことはならぬ」の原理を用いざるを得ない悩ましさがあります。
際限のない無痛無汗症の子どもからの疑問に質問に対して、一つひとつ説明することの労力は想像を超えたものかもしれません。
したがって、小さな疑問に対する大きな口封じという意味で、この道徳命法は有効であると認めざるを得ないというわけです。
しかし、同時にこれは疑問に対する思考停止をもたらすものではないでしょうか。
これいついて、内容によっては人助けにもなるし、思考停止ももたらす命法として機能する、この命法の両義性を指摘する意見も挙げられました。
あるいは、これは「やれといわれたことは疑問の余地なくやれ」という上下関係構造下での命令にも転化されます。

ところで、無人島で独り生活する分にはこの道徳命法は不必要でしょう。
ところがいったん二人になったとたん、さまざまな決め事やルールが発生します。
すると、この命法は共同体を円滑に進めるための知恵という部分があるのではないか。
それについては議論するや説明する、考えるといった営みが共同体にとってストレスであり、それを減らす、あるいはなくすために用いられてきたという側面を指摘する意見も挙げられました。
しかし、その共同体運営の手段としての道徳命法は無思考をもたらす、つまり抵抗しない従順な臣民/市民の形成という問題とは切り離せません。

それについて「なぜこの道徳命法が会津に根付いたのか?」との問題提起に関連して、それは会津だけでなく封建的な幕藩体制下でどこでもありえた命法なのではないかとの意見が出されます。
それにしても、なぜ今日の会津で、この「什の掟」が再び脚光を浴びているのか。
これについては単に商品化されているに過ぎないとの答えが返されました。
そもそも、なぜこの命法が脚光を浴びるのかについては、会津の戊辰戦争での敗戦が関連しているのではないかとの意見も出されました。
かの戦争において会津は幕藩体制化の正義、つまり徳川家に忠義を尽くすという大儀を時局が変わろうとも貫いたがために、惨めな敗北者となりました。
この時代的で相対的な義を貫くことで会津藩は滅びてしまうわけですが、それではますますこの道徳命法が有効でないことを示してしまうのではないでしょうか。
正義は為されよ、たとえ世界が滅びるとも。
こんな言葉が思い起こされます。
しかし、そうであるがゆえに、会津の歴史的選択は道徳的効用を越えて悲劇的な「美しさ」を顕にさせます。
これが逆説的に悲劇という敗者の美学に結びつかせ、会津という地域の文化的固有性として観光産業にせよ教育分野にせよ、消費の対象としての商品として利用されているというわけです。

ところが、これは実はとても危ういことじゃないだろうか。
というのも「ならぬことはならぬもの」というのは、単なるトートロジー(同語反復)にすぎず、まったく無意味、無内容な言葉の羅列に過ぎないとの意見が出されます。
無内容な命法であるにもかかわらず、たとえば「人を殺すべからず」のような個別的な命法と混同してしまうと何か取り違えてしまうのではないか。
ひいては、道徳命法が美的なものや、それを利して教育的効果を狙うことに倒錯したものを導き出してしまうのではないか。
そんな危険性も浮き彫りにできます。
この問題はカフェの終盤で再度掘り下げられます。

こうした流れの中で、いったいどのようなときこの道徳命法を用いるのかという論点が移ります。
これには「それは説明が面倒臭いとき」、「説明がつかないけれど、なんとなく皆で共有できるものについて用いるのではないか」という意見が出されました。
これについて、ファストフード店で夜10時以降高校生が入店できない理由を店員に尋ねた際、「他のお客様に説明がつかないので」という皮肉な体験談を示してくださった参加者もいました。
しかし、この例などは典型的ですが、実は社会規範の根拠はなんとなくあるのだけれど、説明が面倒臭いあるいははっきりしないということは、それ以上揉め事を起こしたくないという事情も垣間見えてきます。
すると、これが行き着くところ、お上が決定した掟には問答無用で従えという、遵法精神を植えつけるためだけにこの道徳命法は存在しているのかもしれません。
ことに封建体制化ではその役割が果たしたこうかは大きいでしょう。
もっとも、藩士=戦士を育成するために生まれた命法ですから、その役割を担うものがいちいち上に疑問を抱いたりされては命令系統が成立しません。
問題は、こうした軍事組織や軍人養成における規範を、市民教育それに転用することの問題性は問われてしかるべきではないでしょうか。

それゆえ、「説明責任を回避するこの道徳命法を用いたときが教師として敗北だ」という発言は意味深いものであると感じました。
そもそも、いかなる道徳命法も「人類が歴史上綿々とつくりあげてきた結果なのであって、決して無内容ではない」、
むしろ「ならぬこと」など人によって異なるり、共有することが不可能だからこそ法律に文書化されるのだし、その明文化の過程において、その規範となる根拠が確認されなければならないはずだとの発言もありました。

また別の視点からは、「ならぬこと」の内容は文化的に決まっているのであり、それを理由など知らなくても盲目的に共有しているだけで、そこの人々は幸せなのではないかという意見も出されました。
白虎隊の悲劇は現時点では悲惨な結果を招いたといえるが、当時の人々にとっては割りと受け入れられるものだった。
その意味で言うと、「ならぬこと」を共有した「ふり」ができる人も幸せだということにもなるとのことです。
ただし、これに対してはその共同体に選択的に参加した人々にとってはそれはいいかもしれないけれど、炊いては人は自分の選択によって共同体を選べないのに、理由なく「ならぬこと」を強いられるという事態は納得いかないとの意見も出されました。

この段階で、どうも対人関係や伝達の仕方について議論がなされているけれど、そもそもこの道徳命法が善悪の内容として成り立つのかという議論が必要ではないかという問題提起がありました。
これについて、そもそも人間にやってはいけないことはないのだという過激な意見が出されます。
「ならぬことはならぬ、けれども犯してしまうのが人間」なのだから、それゆえにこの命法は自分の中のストッパーであり、その基準は他者基準でなければならないというわけです。
そこには「私たちは常に加害者なのだから」という事実が根本的に備わっており、それゆえにこの道徳命法は社会的規範というよりもむしろ、自分の中の行動指針として成り立つのだというのです。

しかし、人間には生まれながらにして「ならぬこと」など決まっているのだろうかという問いが、ある参加者の過激な体験談から深められていきます。
その参加者によれば、子育ての中で自分の子どもが他者を殺害したいとの相談をされたというものです。
毎日2時間かけて話し合う中で、しかしその参加者は殺害をとめることはできないのではないかという思考地点に立ったというのです。
これは積極的に殺人を肯定しているわけではありません。
むしろ、その方は自分の子どもに他者を殺害させたくないという強い思いで関わったといいます。
しかし究極のところ、本人が心底わかっていない状況で「ならぬことはならぬ」とといても無意味であることに気づいたというのです。
すると、他者を殺害して生じるその後の法外な負のエネルギーを背負い込もうとも、その後になぜ殺害がいけないのかわかるのであれば、その選択を否定できないというのです。
経験しなければ真理を知り経ないという点で、これは究極の経験主義とも言えます。
殺害される側の立場になってみれば、到底容認できない理屈でしょう。
なぜならば、ここには自分の子どもの「知る」という視点はあっても、それによって奪われる側の視点が欠如しているからです。
しかし、どこかこの意見には深く考えさせられることを会場全体が感じていたように思われます。
これは、先ほど自分のこことのストッパーとしての基準が「他者基準」とした意見に対して、「自分基準」であるといえます。
つまり単に世間で決まっているからとか、他者に思いを至らせて禁じるだけの命法ではなく、それが自分のこととして腑に落ちた上でこそ、「人を殺すべからず」という命法は成り立つのではないかというわけです。

カフェの終盤、論点はさらに「ならぬことはならぬもの」というのは、「例外なく」そうであるものにしか当てはまらないことが確認されます。
そうであるがゆえにこの命法は普遍性を得るわけですが、翻って「人を殺すべからず」という命法でも、たとえば死刑問題などを考えればわかるように「例外」を設けています。
つまり、実は例外のなさそうな道徳命法というものを一つひとつ調べていくと、けっきょく最後に残ったのは大枠の「ならぬことはならぬもの」という真理だけだったということになるのではないかという意見が提起されました。
たしかに、これ自体は普遍性を含んでいるけれども、その個別具体的な例を見ていくと例外のない命法などない。
それが「ならぬことはならぬもの」の空虚さという正体なのではないだろうか。
この言葉は真理ではあります。
しかし、空虚な真理です。
その空虚な真理に美しさや道徳的効用を付加しようとするとき、全体主義や戦争遂行といった無思考の暴力をもたらすのではないか。
そのような結論めいたものが引き出されました。

すると、そもそも「成らぬもの」は生物的法則など、自然法則であれば通用するものなのに、それを人間社会の道徳論に転用したがゆえに過ちが生じるのではないかという意見も出されました。
けっきょく、人間世界に問答無用の道徳命法などありえない。
ところがこれに対しては、人間と人間が関係すると必然的に対立や争いが生じてしまうものなのだから、むしろそうした状況下においてこそ「ならぬもの」は要請されるのではないかという反論も提起されました。
無内容かもしれないけれども、それを希求せずにはいられない、しかし現実の世界に応用したとたんまがい物になってしまうという意味では、プラトンのイデア論に似ているなと感じたものです。

今回の議論はわりと最終版に「ならぬことはならぬ」の内実が見えてきたように、個人的には思いましたが、何よりも今回はじめて参加していただいた高校生が最後に「学校の授業よりたのしかったです」といった一言が今回のカフェの成功を示しているように思われました。
ご参加いただいた皆様にはあらためて感謝申し上げます。
2周年を目前に控え、ますますこの空間を盛り上げていきたいという意欲が生まれました。
次回は5月18日(土)16:00~18:00 サイトウ洋食店にて本deてつがくカフェが開催されます。
多くの方々のご来場をお待ち申し上げます。

第16回 「てつがくカフェ@ふくしま」 当日掲示用ポスター

2013年04月12日 11時29分07秒 | 開催予定


いよいよ明日は第16回てつがくカフェ@ふくしまです。

当日掲示用のポスターを作成しました。

実はすでにもうアオウゼのなかに貼りだしてもらっています。

今回テーマが 「〈ならぬことはならぬもの〉 なのか?」 なので、

大河ドラマ人気にあやかるためにも先日の告知のブログでは、

「八重の桜」 の画像を使わせてもらっておりましたが、

当日用のポスターにそれを使ってしまうと、「てつがくカフェ」 が何のことかわからない人が、

綾瀬はるかが参加するイベントかと勘違いして来てしまい、

あとで苦情を言われるなんていうこともあるかもしれませんので、

あの画像の使用は自粛することにいたしました。

それと、いろいろあって世話人のひとりが著作権問題にナーバスになっているということもあります。

で、当日用ポスターはご覧の通り、「什の掟」 そのものをフィーチャーし、

新島八重のモノホンの画像とか、鶴ヶ城や日新館などを配して会津色を前面に押し出してみました。

全体的なトーンは桜の季節をあらわすピンク色です。

それでは明日4月13日 (土) の16時からアオウゼでお会いしましょう!

第16回てつがくカフェ@ふくしまのご案内

2013年04月09日 12時23分13秒 | 開催予定
                    

三寒四温が続きますが、それでも春到来!ようやく暖かい風も吹き始め、心が浮き立ちます。
さて4月のてつがくカフェのテーマは 「〈ならぬことはならぬもの〉 なのか?」 です。
ご存知のとおり 「ならぬことはならぬものです」 とは、会津藩士の子弟を教育するための「什の掟」 のなかの教えの一つです。
会津を舞台にした今年のNHK大河ドラマ 『八重の桜』 でも、しばしば登場する台詞ですね。

「やってはいけないことは、理由なくやってはいけないのだ!」 というこの教えは、しばしば家庭での躾でも用いられる台詞ではないでしょうか
それに止まらず、ある意味ではカント倫理学の定言命法にも通じます。
洋の東西や時代を問わず通用する (とされる) この教えは、古き善き日本人の道徳観念を示すものとしてしばしば言及されます。

しかし、なぜ 「ダメなものはダメ」 なのでしょうか?
理由なしに禁じられるべきものなどあるのでしょうか?
なぜ、「理由なし」 でなければならないのでしょうか?
疑問も差し挟めない道徳観念など、単に思考停止を促すだけの支配的徳目に過ぎないのではないでしょうか? 

次回のてつがくカフェ@ふくしまは、『八重の桜』 人気に便乗しつつ、「ならぬことはならぬもの」 の在りようを哲学します。


テーマ:「〈ならぬことはならぬもの〉なのか?」

日 時 : 2013年4月13日 (土) 開催時間 16:00~18:00

場 所 : A・O・Z (アオウゼ) MAXふくしま4階・小活動室2

費 用 : 100円 (珈琲などドリンクお代わり自由)

事前申し込み : 不要 (直接会場にお越しください)

ご不明な点は下記の問い合わせ先までご連絡下さい。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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てつがくカフェ@ふくしま世話人