てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

シネマdeてつがくカフェ報告2021.8.22. 『おもひでぽろぽろ』

2021年08月23日 20時54分05秒 | シネマdeてつがくカフェ記録
8/22(日)に開催された定例てつがくカフェについて

世話人の石井が報告させていただきます。




今回も会場&オンラインの同時開催となりました。

会場には5名、オンラインでは2名の計7名の方にご参加いただきました。




映画上映会が14時から、

シネマdeてつがくカフェは上映会後のセッティングもあり16時15分から始まりました。







ここで今回参加いただいた方の発言の一部をご紹介いたします。



【映画の感想】

・観終わった感想として、「若いと縁談があっていいわね」と思った

・題名がなぜ「おもひでぽろぽろ」なのか?旧仮名遣いである理由は何だったのか?思い出がぽろぽろ出ているのかな?という疑問が浮かんだ
→「おもひで」という字に時代錯誤な印象を受けた

・山形の自然や教育の在り方に対して、特に教育に関してはギョっとした想いで、まさに「昭和の教育だな」と感じた

・田舎の(百姓が)田畑を作った話で、(人間の手を入れて作ったという点から見れば)「都会のビルとかと一緒」というところは、確かに田舎も都会も同じだと感じた

・結論的にはハッピーエンドになったという理解で、それでいいんだなと思った。またタエ子さんが最後バスに乗って子ども時代の(10歳の)自分が(今の自分の)顔を伺う様子も印象的だった

・それぞれエピソードで「昔のはこうだったんだな」と思うし、細かいディティールも作りこまれていると思うが、個人的には星一つ以下の評価の映画。「握手してやんない」という阿部君のエピソードは、(タエ子という人物を紹介する導入として)最初に持ってくるシーンでは?(作品の構成が)安易というか、私はこういうのを抱えているという部分であるのに。あと、オーラスをかっこよく作るのは実は簡単で、人物も浅いし、ステレオタイプ。はだしで出てきたタエ子をお父さんがひっぱたくシーンは意外性もあって良かったが、トシオなどはありがちな田舎のキャラクター設定。テーマ性にしても、自然の話を入れて「どこまでが自然か」というのも掘り下げが浅い。これだれが褒めてるんだろう?というのが正直な感想
→阿部君の話は、彼から受けた言葉の傷が本家から結婚の話を持ち出された時にやっと思い出すことが出来たと解釈すれば、(序盤など)別の場所では出せなかったのでは?縁談を進められた際に自然や田舎で暮らすという覚悟もなかったわけで、この映画はこうとしか描けなかったと思うし、あれ以上掘り下げられないのでは?

・映画の評価として、王道中の王道という話で、ラストもセリフなしに観客に訴えるところを見ると(その後の展開は観客に)丸投げという印象

・あの後二人が結ばれるとして、その後の二人はどうなっているのかなと。あと(舞台が山形なので)山形の人が見たらどういう感想なんだろうと。自分の地元と都会を対比した場合、どういう感想だっただろうかと思った
→「なんで山形が舞台なんだろう?」と考えた時、紅花摘みの話を描きたかったのかなと(山形特有の体験)
→東日本大震災でもコロナでもあまり影響がなかった土地で(山形は)「運がいいなぁ」と感じた
→紅花と女性が着飾る話などは深く考えていけば、考えさせる話にもなるが、一つずつ突っ込んで行くと作品として散漫になる

・制作意図として、色んな事を通じて変わっていくということを描きたかったのではないかと。それが良くなることもあるし、悪くなることもある。ようは人格の形成の話かと

・正直終わった後の感想は、あっさりしていたなと。登場人物の葛藤があまりないというか軽いものに感じた

・映画の中で各エピソードを懐かしんで、そして(1991年の上映から)現代でさらに30年たっていて、という時代性が何層にもなっていく映画だなと思った

・この映画が好きなコアなファンはいて、(映画に対して批判的なこと言うと)全てを弁護してくるという体験をした。ただ「昔の映画だし、さらに昔の話をしているな」では済まない何か普遍的な話として捉えられるかなと思う
→作品を擁護してきた話の中で、「なるほど」といった意見はあったんですか?
→「その人から見たらそう見えるのね」と思うことはあったが、「あなたの意見はそうなんですね。ただ僕の意見はこうです」みたいな対立点は対立点のままで。とくに家庭教育の中で理不尽なのは、学芸会の演技から大学の演劇から出演依頼が来る話で、今だったらあんな潰し方ないなと批判したら、「いや演劇というのは大変なんだから生半可な覚悟で…」と擁護されたが、子どもの演技でオファーがあったのだから、役者になるとか関係なく(タエ子さんの)人生における豊かな経験になったのではないかなと思った
→大学から舞台に誘われる話も、今の時代(YouTuberなど)インターネットで顔出して「動画配信なんて」と親に潰されることもあるので、そこは各家庭の意見であって、時代性とは違うと思う

・子どもの頃の思い出が嫌なものばかりで、都会=悪いものみたいな、都会からタエ子を解放する話にも思える

・古いエピソードだからだめではなく、「あの時代を描いているな」という感想

・ウィキペディアを見ていたら、週刊誌に半年連載した話を映画化したということなので、かいつまんで映画にしたから広田君(野球少年)との恋話も、とてもいい子なのにそれっきりで肩透かしを食らった
→漫画のエピソードを取り上げるがただ並べているだけで、誰かの思い出話をただ聞かせられているように感じた。強弱付けてエピソードを展開していけばいいのに話がバチっと途切れているので、何がメインなのか分からないし、(話同士の)繋がりもなく全て平坦にしてしまっている

・登場人物の出し方が極端に感じた。タエ子の家族も回想でしか出てこない


【時代背景】

・当時の風土が色々出てくるが、「生理」の話は体育館に女子だけ集めて教えるというやり方ではだめでは?また、野球も男子だけが参加して、女子は見学という授業風景にも疑問。昔の方が男性と女性ではっきりと区別されているというのが分かった
→性教育の話も、その時代性を描き出しているだけでは?

・映画の序盤、タエ子が会社に10日間の休暇を申請した時に男性の上司から「失恋でもしたの?」という発言に、今の時代だったら問題になるだろうなと思いながら観てた

・「こんな時代だった」と(リアルに)描いているので、現在の価値観で色々と批評するのはどうかなと思う

・山形についてトシオが有機農業について語っていたが、人が手を加えないのが「自然」ではなく、人が手を加えて生活を営みながら創り上げているのが「自然」だという主張には賛同
→人間観と自然観の話を対立的にとらえると、「手つかずの自然」という純粋な自然は人の目に触れるものとしてそうそうない。どの自然(や田舎)も百姓の手が加わっている。昔、模擬授業で自然の大切さを伝えたいという学生がいて「安積疏水(福島の状水路)」の授業案を作ってきたが、学生からしたら緑豊かな場所だから自然という解釈だったのだろうが、「それって自然じゃないだろう」って思った。自分は人工物という解釈で、ただ彼からするとそれが自然と捉えている。単なる二元的なものではないというところは「なるほどね」と、「そういう風にとらえているのね」と感じたのを覚えている
→人が生活する場所で、そんなに(自然として)ピュアなところはないと思う。「人が手を加えたら自然じゃない」と言ってしまえばそれは人類が滅んだ後の話になってしまう

・今東京で暮らしていて、東京以外住んだことがないので分からないが、(個人的に)田舎にあこがれを持ったことがない。あと舞台が山形である必要性は無いのではと感じた。また、最後に二人がどうなるかわからないが、都会と田舎の人間関係は全然違うと思うし、時代背景として「恋人出来たのか?」なんてプライベートなことを(遠慮なく)質問してくるわけで、田舎暮らしは生易しいものじゃないし、リアリティがなく白々しく感じる

・お父さんの在り方というか、昭和のありがちな姿で描かれていて、あれは「躾」という名の暴力。お父さんはその後どういう風な年の取り方をしたのか気になった
→お父さんが娘を叩いたシーンは不思議に思った。凄く間があるシーンで、これまでタエ子は色々とわがままを言ってきた中で、何であそこではたく必要があったのかと。唯一タエ子が父親に手を挙げられた体験だったわけだし
→あのシーンはお父さんの何かの琴線に触れて叩いたと思う
→女の子が靴も履かずに外に出ることが許せなかったのでは?「女の子らしくあるべき」とかそういった父親が持つ価値観から外れたから叩いたのだと解釈したが、ただ叩いた後のことまで考えていない衝動的な行為に感じた(叩いた後のフォローもなくばつが悪そうな佇まい)
→父親が(タエ子のわがままを)受け止めてあげなかっただけかなと。また、そこだけで終わったので勿体ないなとも感じた。しかも叩かれたのはその一回きりで、もっとタエ子がわがままを言ってきたこともこれまであっただろうし、突発的ではなくじんわりとこみ上げて手をあげたシーンだと思うが、だとしてもいつも甘やかしているお父さんがなぜ?と思う。あの一連の流れで子どもが駄々をこねるのは(子を持つ)親として理解可能だが、あそこで父親が叩いた理由がいまだに不明だし、納得が出来ない
→作劇上の話として、なぜそのシーンを大事にしないのかと思う。なぜ話の軸に添えていかないのだろうか
→おばあちゃんがタエ子に「わがままだよ」といって渇を入れているシーンもあり、単にわがまま放題で育てられたわけではないと思う

・分数の割り算もタエ子が図を書いて「なぜ?」と疑問に思ったことを家族が潰した。もしかしたら論理的才能が目覚めていたかもしれないのに
→「将来分数の割り算がすんなりできた人は、そのあとの人生もすんなりいくらしいのよ」というセリフは確かに納得できるところもあるが、「なぜ?」という疑問を持つことは素晴らしいことで、あれを説明しろと言われて説明できる大人は中々いないよなとも思う

・演劇のシーンもセリフに無いことを加えたりしたことが周りに潰されたりしたが、クリエイティブなことで評価されるべきだが、いかんせん作品がそれをつまんなくしている。なぜ面白いところを深く掘り下げないのか疑問。父親がタエ子を叩く場面も逆に一番いいシーンで、あそこで予想できた人はいないはず。だからこそいいのに、そこでやめてしまう。なにかの沸点に達して切れただけに見える。だったらもっと掘り下げろよと言いたい

・新しいなと思う場面もあり、移住とか80年代に田舎に行くという姿勢は今の人に通じるなと思った

・作品に出てくるファッションで気になったのは、時代考証をしていてその時代に無いデザインは出てきていないのか、それとも今の感性に合わないものは出してないのか。ダサいとは感じなかったので、今見て不自然な服は省いたのかと疑問に思った
→当時としては、人々のファッションへの関心も高まってきたのでよくなってきつつあるのかなと
→アニメなのでみすぼらしい姿を描くのは難しいのでは?
→スタジオジブリなので時代検証はしっかりやっていると思う。(ファッションなども)多分間違いないと思うし、寝台列車の描写はしっかりしていた

・違和感を覚えたのは、タエ子と姉妹や母親との関係が現代的すぎるところ。もっと封建的な感じではなかったかと。当時はもっと暗かったし、もっと「我慢しろ」の時代だったのでは?
→反対意見として、別の漫画で考えると「サザエさん」に出てくる子どもたちも格好がみすぼらしかったり、暗い感じではないのでそれが全体ではないのかなと
→自分の兄弟関係を思い起こしてみるとやっぱろ違和感があるし、もっと貧しさがあっても良かったのでは?
→オリンピックの翌年(1965年)の話で、経済成長の中でも格差があったので、(貧しさとは無関係の)全然違う家庭環境はあったと思う。ただ(家が貧乏だったという)阿部君はもっと丁寧に扱ってやれよと思う

・「ひょっこりひょうたん島」は自分も見ていたし、タエ子の年齢と大きくは離れていないが当時らしい偏見も見受けられ、「あの頃はああだったよな」と思う。今じゃ考えられないような、セクハラの概念もないし、(映画が公開された)90年代前半でも禁煙車両が2両しかなくあとは全部喫煙車両みたいな。そう考えると今はだいぶ変わったなと
→タバコも子どもの前で平然と吸っていたし

・給食のシーンにもあるように「食べ物を残してはいけない」とあの当時は今よりももっと食べ物を大切にしなければならない時代で、そう教わってきた世代の高齢者が、今は(メニューも豊富で自分で選んだのにも関わらず外食などで)「高齢者だから」という理由で食べ物を残す姿を目にすることが多いので、そこに疑問を覚える(高齢者の「食品ロス」の認識に疑問。高齢者だからといって許される問題なのか?)
→食料が豊かな状況では仕方ないのかと
→昔の給食は全部食べるまで帰れないみたいなひどい話もあり、アレルギーなどの話はなかった

・風邪でも学校を休まないというのもあの当時の話で、今は(コロナもあり)熱や咳など体調不良であれば休まなくてはならない

・パイナップルはなんでまずかったのか?千疋屋の果物なのだから不味いことはないと思うが
→熟していなかったのでは?
→缶詰で慣れていると違いに驚く
→バナナが果物の王様というのは同感



上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







次回のてつがくカフェは、

9月18日(土)16時から福島市市民活動サポートセンターで行います。

テーマは「死刑は有りか?無しか?」です。



なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。



また、オンラインによる参加をご希望の際は、

てつがくカフェのメールアドレスまでご連絡ください。



そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。