第6回のテーマは「〈安心〉は共有できるか―放射能をめぐる〈温度差〉とは何か?」です。
参加者数はこれまで最多の27名。
前回の特別編での論点を引き継いでのテーマでしたが、やはり皆さんの原発問題への関心の高さが窺えます。
残念なことに、サイトウ洋食店が満席になる盛況ぶりだったにもかかわらず、議論があまりに盛り上がりすぎたために開催風景の撮影をすっかり失念しておりました
今回ばかりは、文章だけになってしまいますが、世話人なりの議論のまとめ(解釈)をお読みいただければ幸いです。
今回のファシリテータは、前回に引き続き小野原さんです。
まずは〈温度差〉とは何かをめぐって、各人の体験談や思うことを述べていただきながら、さまざまなキーワードを拾い上げていきます。
はじめに夫婦間での子育ての場所をどうするかについて、母になるものとそれ以外のものとの温度差があるのではないかとの意見が提起されます。
ここには子を守る母の思いの強さが放射能に対して過敏になるのではないかという意味が含まれていますが、しかし一方でこの意見に対しては、前回の特別編においてそれが「母親」に過剰に罪悪感を抱かせる問題が提起されたことを思い起こします。
また、この意見に対しては別の参加者から女性であっても放射能に対する危機感の薄いケースも紹介されました。
すると〈温度差〉の源は必ずしも「性差」や「母性」に限定されるだけでは解決されないようです。
また、別の参加者からは「知識の差」が温度差と関係するのではないかという視点が挙げられました。
その意見によれば、今回の出来事を通じて知識を補強すればするほどその温度差は拡がるという現象が見られたということです。
この問題は興味深いものです。
私たちはどこかで無知が不安をもたらすと思うところがありますが、むしろ放射能の知識を知れば知るほどその不安が増大するケースもありうる。
そして、それは知識を得ようとするものとそうでないもの同士の温度差は更に拡がるものでしょう。
そのことをこの意見からは示しています。
それは「地域差」による温度差にも関係するかもしれません。
ある参加者には、実家があるいわき市での人々の原発に対する警戒心や不安と、福島市との温度差のギャップに驚いたという話をしていただきました。
それによれば危機が「どれだけ自分に即しているか」ということがその温度差を生み出しているのではないかということです。
なるほど、私の浜通りの友人知人たちも一様に原発事故後、いっせいに遠隔地へ逃げ出したものです。
聞いた話によれば、原発近辺の学校では東電から安全教育を年に一度あったとのことです。
やはり、原発に近い浜通りの人々の放射能に対する知識の豊富さは、それ以外の地域以上の警戒心を形作っているのではないか。
しかし、この意見に対しても同じ相双地区出身の参加者から、そのような原発の安全性教育を受けたことはないという反証も示されました。
すると、温度差の源は「性差」と同様に「地域差」もそれほど普遍性を帯びるものではないようです。
むしろ、福島から離れた地域の方が過剰に不安を感じている状況と、福島にいながら危険であると知りつつ次第にマスクをしなくなっていくなど、どこか現実に自分が溶解していくかのような状況とのギャップの不可解さを指摘する意見も挙げられました。
次第に議論は、客観的な数値や知識というよりも、「価値観」が〈温度差〉の源ではないかという論点にシフトしていきます。
ある客観的な数値一つ取ってみても、そこには経済的な価値を優先するか、生命の価値を優先するかでその尺度は変わります。
より被曝の健康被害を大きく受ける可能性のある若者や子ども、あるいはその親などは、放射能に対する危機感が強いのに対し、その可能性の低い人たちは自らの問題としてとらえる危機感が薄いのではないか。
それは言い換えれば、自分の未来に何が必要かを考えられる人とそうでない人との差、つまり自分や子ども、子孫たちの未来に何が必要かを考えられるかという将来への「想像力」によって温度差が生じるのではないか。
そんな視点も浮かび上がってきました。
すると、もしこの視点に基づけば、同じ被災経験をしていないもの同士でも、相手の境遇への「想像力」を働かせることで温度差を埋める可能性もあるかもしれません。そんな可能性も見出せそうです。
では、果たして「想像力」でもって温度差を埋められるでしょうか。
これに対しては「想像力」で体感の不安や恐怖心を埋めるのは難しいとの問題も提示されました。
ここに「見えない敵」としての〈放射能〉という固有の難しさが浮き彫りにされたように思われます。
なるほど、これが量や匂い、色など五感でとらえられるのであれば、私たちの放射能に対する不安の温度差もそれほど揺れ幅が少なかったかもしれません。
しかし、体感できない放射能、「ただちに身体に影響はない」放射能は「わからない」ことだらけの厄介なものです。
体感で確認できない「わからない」ものに対しては、果たして「想像力」でもって温度差を埋めようとしてもなかなか埋まらないのではないか、むしろ、ますます互いの想像力によって温度差は拡大されるのではないか、そんな悩ましい問題も浮上しました。
とはいえ、客観的な数値や科学的な知識とは別に、各々価値観によって温度差が生じているという点では概ね共通理解が得られたように思われます。
すると、問題はその各人の価値観に基づいた決断に対してどのように向き合うべきかという点です。
まず、いかにして人は決断するのかという問題があります。
ある意見によれば、それは「近しい人の存在」が大きな要素になるとのことです。
「子どものいる/いない」や「留まらざるを得ない家族の存在」など、その決断は誰と共に生きたいかということが重要になってくるようです。
また、価値観は行動の選択だけに影響を与えるわけではありません。
どの科学的情報を選択するかという点も、実はその人の価値観に大きく左右されるものではないでしょうか。
このたびの原発事故で最も悩ましい問題の一つは、専門家ですら見解が一致しないという点です。
ある専門家はこの福島市の状況は安全だといい、ある専門家は危険だといいます。
どちらを選ぶかは、実は自分の価値判断によらざるを得ない面があるのではないでしょうか。
そこで重要なのは、「自分が納得する」という点である。そんな意見が出されました。
いくら答えが出なくても、自分が納得して選択であればそれを尊重しよう。
それがどうしても一致しない〈温度差〉によって人間関係が分断されないために、その人の決断を責めない文化が必要ではないだろうか。
「各人の決断への尊重」、この言葉に今回の議論のもう一つの了解がなされたように思われます。
しかし、その自律的な判断・決断をいかに形成するかという条件を私たちの社会は育ててきたでしょうか?
実は、このたびの原発事故をめぐっては、各人が不安に思うことを、同じ〈温度差〉の人であることを確かめた上でなければ語れないという問題がありました。
なぜ、異なる〈温度差〉のもの同士が言葉を交わせないのか。
そこには何か日本的なもの、つまり世間的なものによる言葉の圧殺が働いているのではないでしょうか。
すると、いくら自律的な判断を尊重しようとしても、その基礎がまずないところで〈尊重〉の文化は育たないでしょう。
ちなみに、この「世間的なもの」や集団内における発言を封じる力について関心があると、アンケートに書かれた参加者は少なくありませんでした。
さて、〈尊重〉というキーワードが確認されたところで、後半の議論はこれから〈温度差〉とどのようにつきあっていくかという点について議論が進められました。
そもそもこのテーマが設定された背景には、〈温度差〉による人間関係の分断という問題がありました。
そうであれば分断された社会をどう再生するかという論点が必要ではないかとの問題提起がなされましたが、しかし、それよりはむしろこれから「新しい関係を構築していく視点」について論じる方が前向きであるとの意見が多く出されました。
それは避難先で同じ境遇のもの同士の関係、あるいは新たな生活拠点の地域での関係をどうつくり上げるかという問題と関係します。
その意味で言うと、この暗い状況を前向きにとらえられるとすれば、この出来事によって出合うはずもなかった人々と出会うことができたという面をもっと積極に評価していこうということにもなります。
そもそも、このてつがくカフェという場もその機会の一つであるはずです。
そこでも、もちろんお互いの意見や選択を「尊重する」ことが原則であることは変わりません。
それにしても「尊重する」とはどのようなことなのでしょうか?
それは私とあなたの価値観は違うからバラバラに行動しましょうね、という放任だけを意味するのでしょうか?
もちろん、それで済むケースならよいでしょう。
しかし、〈尊重〉が求められる機会というのは、むしろバラバラになれない関係性において、各人が分断せずに、しかしお互いの判断を認めあうという非常に緊張した状況に必要な概念です。
この問いをめぐっては、ある参加者から最後にとても興味深い経験談が挙げられました。
その経験談によれば、放射能に対して家庭内での〈温度差〉が激しい中、相当ないざこざを起こしながら、自分や家族の価値観が変容し、新たな価値観が構築されてきたというのです。
放射能に関する情報、あるいは行動において、お互いの判断や解釈を非難しあったご苦労もあったのでしょう。
しかし、そのいざこざをくり返しながら「不思議と」お互いの関係が収まってきたというのです。
けっしてそれは水平化されたり、一枚岩になったという意味ではなく、相変わらずそれぞれの価値観はバラバラなはずなのに、しかし妙に今まで否定してきた相手の行動を自分がしていたりするなど、自分の中での〈温度差〉が変容しながら家族内での調和が生まれてきたというのです。
その参加者の言葉を借りれば「波を越えてその人の価値観がつくり上げられ、それによって相手への〈尊重〉が生まれ新しい関係性が構築された」というわけです。
ここに、非常につらくはあっても自分の言葉を交わし合うことで生まれる新しい関係の可能性、そしてそれを生み出す原理としての〈尊重〉が見事に示されていたのではないでしょうか。
その意味で言えば、別の参加者から出された「声高に叫ばなくても意思表示できる勇気や機会があれば世界は変わっていくのではないか」という意見もまた、このことと関係するでしょう。
このほかにも、この非日常を日常化させていく状況をどう生きていけばよいかなど、とても興味深い問題提起がなされるなど、以上に尽きない発言が多数出されました。
残念ながら、毎度のこととはいえそれらすべてをここに挙げることはできません。
しかし、回を重ねるごとに対話のおもしろさを世話人としてビシビシ感じております。
次回は12月23日(金)にAOZにて開催されます。
この新たな出会いに感謝するとともに、また皆様とお会いできることを楽しみにしております
参加者数はこれまで最多の27名。
前回の特別編での論点を引き継いでのテーマでしたが、やはり皆さんの原発問題への関心の高さが窺えます。
残念なことに、サイトウ洋食店が満席になる盛況ぶりだったにもかかわらず、議論があまりに盛り上がりすぎたために開催風景の撮影をすっかり失念しておりました
今回ばかりは、文章だけになってしまいますが、世話人なりの議論のまとめ(解釈)をお読みいただければ幸いです。
今回のファシリテータは、前回に引き続き小野原さんです。
まずは〈温度差〉とは何かをめぐって、各人の体験談や思うことを述べていただきながら、さまざまなキーワードを拾い上げていきます。
はじめに夫婦間での子育ての場所をどうするかについて、母になるものとそれ以外のものとの温度差があるのではないかとの意見が提起されます。
ここには子を守る母の思いの強さが放射能に対して過敏になるのではないかという意味が含まれていますが、しかし一方でこの意見に対しては、前回の特別編においてそれが「母親」に過剰に罪悪感を抱かせる問題が提起されたことを思い起こします。
また、この意見に対しては別の参加者から女性であっても放射能に対する危機感の薄いケースも紹介されました。
すると〈温度差〉の源は必ずしも「性差」や「母性」に限定されるだけでは解決されないようです。
また、別の参加者からは「知識の差」が温度差と関係するのではないかという視点が挙げられました。
その意見によれば、今回の出来事を通じて知識を補強すればするほどその温度差は拡がるという現象が見られたということです。
この問題は興味深いものです。
私たちはどこかで無知が不安をもたらすと思うところがありますが、むしろ放射能の知識を知れば知るほどその不安が増大するケースもありうる。
そして、それは知識を得ようとするものとそうでないもの同士の温度差は更に拡がるものでしょう。
そのことをこの意見からは示しています。
それは「地域差」による温度差にも関係するかもしれません。
ある参加者には、実家があるいわき市での人々の原発に対する警戒心や不安と、福島市との温度差のギャップに驚いたという話をしていただきました。
それによれば危機が「どれだけ自分に即しているか」ということがその温度差を生み出しているのではないかということです。
なるほど、私の浜通りの友人知人たちも一様に原発事故後、いっせいに遠隔地へ逃げ出したものです。
聞いた話によれば、原発近辺の学校では東電から安全教育を年に一度あったとのことです。
やはり、原発に近い浜通りの人々の放射能に対する知識の豊富さは、それ以外の地域以上の警戒心を形作っているのではないか。
しかし、この意見に対しても同じ相双地区出身の参加者から、そのような原発の安全性教育を受けたことはないという反証も示されました。
すると、温度差の源は「性差」と同様に「地域差」もそれほど普遍性を帯びるものではないようです。
むしろ、福島から離れた地域の方が過剰に不安を感じている状況と、福島にいながら危険であると知りつつ次第にマスクをしなくなっていくなど、どこか現実に自分が溶解していくかのような状況とのギャップの不可解さを指摘する意見も挙げられました。
次第に議論は、客観的な数値や知識というよりも、「価値観」が〈温度差〉の源ではないかという論点にシフトしていきます。
ある客観的な数値一つ取ってみても、そこには経済的な価値を優先するか、生命の価値を優先するかでその尺度は変わります。
より被曝の健康被害を大きく受ける可能性のある若者や子ども、あるいはその親などは、放射能に対する危機感が強いのに対し、その可能性の低い人たちは自らの問題としてとらえる危機感が薄いのではないか。
それは言い換えれば、自分の未来に何が必要かを考えられる人とそうでない人との差、つまり自分や子ども、子孫たちの未来に何が必要かを考えられるかという将来への「想像力」によって温度差が生じるのではないか。
そんな視点も浮かび上がってきました。
すると、もしこの視点に基づけば、同じ被災経験をしていないもの同士でも、相手の境遇への「想像力」を働かせることで温度差を埋める可能性もあるかもしれません。そんな可能性も見出せそうです。
では、果たして「想像力」でもって温度差を埋められるでしょうか。
これに対しては「想像力」で体感の不安や恐怖心を埋めるのは難しいとの問題も提示されました。
ここに「見えない敵」としての〈放射能〉という固有の難しさが浮き彫りにされたように思われます。
なるほど、これが量や匂い、色など五感でとらえられるのであれば、私たちの放射能に対する不安の温度差もそれほど揺れ幅が少なかったかもしれません。
しかし、体感できない放射能、「ただちに身体に影響はない」放射能は「わからない」ことだらけの厄介なものです。
体感で確認できない「わからない」ものに対しては、果たして「想像力」でもって温度差を埋めようとしてもなかなか埋まらないのではないか、むしろ、ますます互いの想像力によって温度差は拡大されるのではないか、そんな悩ましい問題も浮上しました。
とはいえ、客観的な数値や科学的な知識とは別に、各々価値観によって温度差が生じているという点では概ね共通理解が得られたように思われます。
すると、問題はその各人の価値観に基づいた決断に対してどのように向き合うべきかという点です。
まず、いかにして人は決断するのかという問題があります。
ある意見によれば、それは「近しい人の存在」が大きな要素になるとのことです。
「子どものいる/いない」や「留まらざるを得ない家族の存在」など、その決断は誰と共に生きたいかということが重要になってくるようです。
また、価値観は行動の選択だけに影響を与えるわけではありません。
どの科学的情報を選択するかという点も、実はその人の価値観に大きく左右されるものではないでしょうか。
このたびの原発事故で最も悩ましい問題の一つは、専門家ですら見解が一致しないという点です。
ある専門家はこの福島市の状況は安全だといい、ある専門家は危険だといいます。
どちらを選ぶかは、実は自分の価値判断によらざるを得ない面があるのではないでしょうか。
そこで重要なのは、「自分が納得する」という点である。そんな意見が出されました。
いくら答えが出なくても、自分が納得して選択であればそれを尊重しよう。
それがどうしても一致しない〈温度差〉によって人間関係が分断されないために、その人の決断を責めない文化が必要ではないだろうか。
「各人の決断への尊重」、この言葉に今回の議論のもう一つの了解がなされたように思われます。
しかし、その自律的な判断・決断をいかに形成するかという条件を私たちの社会は育ててきたでしょうか?
実は、このたびの原発事故をめぐっては、各人が不安に思うことを、同じ〈温度差〉の人であることを確かめた上でなければ語れないという問題がありました。
なぜ、異なる〈温度差〉のもの同士が言葉を交わせないのか。
そこには何か日本的なもの、つまり世間的なものによる言葉の圧殺が働いているのではないでしょうか。
すると、いくら自律的な判断を尊重しようとしても、その基礎がまずないところで〈尊重〉の文化は育たないでしょう。
ちなみに、この「世間的なもの」や集団内における発言を封じる力について関心があると、アンケートに書かれた参加者は少なくありませんでした。
さて、〈尊重〉というキーワードが確認されたところで、後半の議論はこれから〈温度差〉とどのようにつきあっていくかという点について議論が進められました。
そもそもこのテーマが設定された背景には、〈温度差〉による人間関係の分断という問題がありました。
そうであれば分断された社会をどう再生するかという論点が必要ではないかとの問題提起がなされましたが、しかし、それよりはむしろこれから「新しい関係を構築していく視点」について論じる方が前向きであるとの意見が多く出されました。
それは避難先で同じ境遇のもの同士の関係、あるいは新たな生活拠点の地域での関係をどうつくり上げるかという問題と関係します。
その意味で言うと、この暗い状況を前向きにとらえられるとすれば、この出来事によって出合うはずもなかった人々と出会うことができたという面をもっと積極に評価していこうということにもなります。
そもそも、このてつがくカフェという場もその機会の一つであるはずです。
そこでも、もちろんお互いの意見や選択を「尊重する」ことが原則であることは変わりません。
それにしても「尊重する」とはどのようなことなのでしょうか?
それは私とあなたの価値観は違うからバラバラに行動しましょうね、という放任だけを意味するのでしょうか?
もちろん、それで済むケースならよいでしょう。
しかし、〈尊重〉が求められる機会というのは、むしろバラバラになれない関係性において、各人が分断せずに、しかしお互いの判断を認めあうという非常に緊張した状況に必要な概念です。
この問いをめぐっては、ある参加者から最後にとても興味深い経験談が挙げられました。
その経験談によれば、放射能に対して家庭内での〈温度差〉が激しい中、相当ないざこざを起こしながら、自分や家族の価値観が変容し、新たな価値観が構築されてきたというのです。
放射能に関する情報、あるいは行動において、お互いの判断や解釈を非難しあったご苦労もあったのでしょう。
しかし、そのいざこざをくり返しながら「不思議と」お互いの関係が収まってきたというのです。
けっしてそれは水平化されたり、一枚岩になったという意味ではなく、相変わらずそれぞれの価値観はバラバラなはずなのに、しかし妙に今まで否定してきた相手の行動を自分がしていたりするなど、自分の中での〈温度差〉が変容しながら家族内での調和が生まれてきたというのです。
その参加者の言葉を借りれば「波を越えてその人の価値観がつくり上げられ、それによって相手への〈尊重〉が生まれ新しい関係性が構築された」というわけです。
ここに、非常につらくはあっても自分の言葉を交わし合うことで生まれる新しい関係の可能性、そしてそれを生み出す原理としての〈尊重〉が見事に示されていたのではないでしょうか。
その意味で言えば、別の参加者から出された「声高に叫ばなくても意思表示できる勇気や機会があれば世界は変わっていくのではないか」という意見もまた、このことと関係するでしょう。
このほかにも、この非日常を日常化させていく状況をどう生きていけばよいかなど、とても興味深い問題提起がなされるなど、以上に尽きない発言が多数出されました。
残念ながら、毎度のこととはいえそれらすべてをここに挙げることはできません。
しかし、回を重ねるごとに対話のおもしろさを世話人としてビシビシ感じております。
次回は12月23日(金)にAOZにて開催されます。
この新たな出会いに感謝するとともに、また皆様とお会いできることを楽しみにしております