てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第6回カフェ報告

2011年11月28日 22時46分22秒 | 定例てつがくカフェ記録
第6回のテーマは「〈安心〉は共有できるか―放射能をめぐる〈温度差〉とは何か?」です。
参加者数はこれまで最多の27名。
前回の特別編での論点を引き継いでのテーマでしたが、やはり皆さんの原発問題への関心の高さが窺えます。
残念なことに、サイトウ洋食店が満席になる盛況ぶりだったにもかかわらず、議論があまりに盛り上がりすぎたために開催風景の撮影をすっかり失念しておりました
今回ばかりは、文章だけになってしまいますが、世話人なりの議論のまとめ(解釈)をお読みいただければ幸いです。

今回のファシリテータは、前回に引き続き小野原さんです。
まずは〈温度差〉とは何かをめぐって、各人の体験談や思うことを述べていただきながら、さまざまなキーワードを拾い上げていきます。
はじめに夫婦間での子育ての場所をどうするかについて、母になるものとそれ以外のものとの温度差があるのではないかとの意見が提起されます。
ここには子を守る母の思いの強さが放射能に対して過敏になるのではないかという意味が含まれていますが、しかし一方でこの意見に対しては、前回の特別編においてそれが「母親」に過剰に罪悪感を抱かせる問題が提起されたことを思い起こします。
また、この意見に対しては別の参加者から女性であっても放射能に対する危機感の薄いケースも紹介されました。
すると〈温度差〉の源は必ずしも「性差」や「母性」に限定されるだけでは解決されないようです。

また、別の参加者からは「知識の差」が温度差と関係するのではないかという視点が挙げられました。
その意見によれば、今回の出来事を通じて知識を補強すればするほどその温度差は拡がるという現象が見られたということです。
この問題は興味深いものです。
私たちはどこかで無知が不安をもたらすと思うところがありますが、むしろ放射能の知識を知れば知るほどその不安が増大するケースもありうる。
そして、それは知識を得ようとするものとそうでないもの同士の温度差は更に拡がるものでしょう。
そのことをこの意見からは示しています。

それは「地域差」による温度差にも関係するかもしれません。
ある参加者には、実家があるいわき市での人々の原発に対する警戒心や不安と、福島市との温度差のギャップに驚いたという話をしていただきました。
それによれば危機が「どれだけ自分に即しているか」ということがその温度差を生み出しているのではないかということです。
なるほど、私の浜通りの友人知人たちも一様に原発事故後、いっせいに遠隔地へ逃げ出したものです。
聞いた話によれば、原発近辺の学校では東電から安全教育を年に一度あったとのことです。
やはり、原発に近い浜通りの人々の放射能に対する知識の豊富さは、それ以外の地域以上の警戒心を形作っているのではないか。
しかし、この意見に対しても同じ相双地区出身の参加者から、そのような原発の安全性教育を受けたことはないという反証も示されました。
すると、温度差の源は「性差」と同様に「地域差」もそれほど普遍性を帯びるものではないようです。

むしろ、福島から離れた地域の方が過剰に不安を感じている状況と、福島にいながら危険であると知りつつ次第にマスクをしなくなっていくなど、どこか現実に自分が溶解していくかのような状況とのギャップの不可解さを指摘する意見も挙げられました。

次第に議論は、客観的な数値や知識というよりも、「価値観」が〈温度差〉の源ではないかという論点にシフトしていきます。
ある客観的な数値一つ取ってみても、そこには経済的な価値を優先するか、生命の価値を優先するかでその尺度は変わります。
より被曝の健康被害を大きく受ける可能性のある若者や子ども、あるいはその親などは、放射能に対する危機感が強いのに対し、その可能性の低い人たちは自らの問題としてとらえる危機感が薄いのではないか。
それは言い換えれば、自分の未来に何が必要かを考えられる人とそうでない人との差、つまり自分や子ども、子孫たちの未来に何が必要かを考えられるかという将来への「想像力」によって温度差が生じるのではないか。
そんな視点も浮かび上がってきました。
すると、もしこの視点に基づけば、同じ被災経験をしていないもの同士でも、相手の境遇への「想像力」を働かせることで温度差を埋める可能性もあるかもしれません。そんな可能性も見出せそうです。

では、果たして「想像力」でもって温度差を埋められるでしょうか。
これに対しては「想像力」で体感の不安や恐怖心を埋めるのは難しいとの問題も提示されました。
ここに「見えない敵」としての〈放射能〉という固有の難しさが浮き彫りにされたように思われます。
なるほど、これが量や匂い、色など五感でとらえられるのであれば、私たちの放射能に対する不安の温度差もそれほど揺れ幅が少なかったかもしれません。
しかし、体感できない放射能、「ただちに身体に影響はない」放射能は「わからない」ことだらけの厄介なものです。
体感で確認できない「わからない」ものに対しては、果たして「想像力」でもって温度差を埋めようとしてもなかなか埋まらないのではないか、むしろ、ますます互いの想像力によって温度差は拡大されるのではないか、そんな悩ましい問題も浮上しました。

とはいえ、客観的な数値や科学的な知識とは別に、各々価値観によって温度差が生じているという点では概ね共通理解が得られたように思われます。
すると、問題はその各人の価値観に基づいた決断に対してどのように向き合うべきかという点です。
まず、いかにして人は決断するのかという問題があります。
ある意見によれば、それは「近しい人の存在」が大きな要素になるとのことです。
「子どものいる/いない」や「留まらざるを得ない家族の存在」など、その決断は誰と共に生きたいかということが重要になってくるようです。
また、価値観は行動の選択だけに影響を与えるわけではありません。
どの科学的情報を選択するかという点も、実はその人の価値観に大きく左右されるものではないでしょうか。
このたびの原発事故で最も悩ましい問題の一つは、専門家ですら見解が一致しないという点です。
ある専門家はこの福島市の状況は安全だといい、ある専門家は危険だといいます。
どちらを選ぶかは、実は自分の価値判断によらざるを得ない面があるのではないでしょうか。
そこで重要なのは、「自分が納得する」という点である。そんな意見が出されました。
いくら答えが出なくても、自分が納得して選択であればそれを尊重しよう。
それがどうしても一致しない〈温度差〉によって人間関係が分断されないために、その人の決断を責めない文化が必要ではないだろうか。
「各人の決断への尊重」、この言葉に今回の議論のもう一つの了解がなされたように思われます。

しかし、その自律的な判断・決断をいかに形成するかという条件を私たちの社会は育ててきたでしょうか?
実は、このたびの原発事故をめぐっては、各人が不安に思うことを、同じ〈温度差〉の人であることを確かめた上でなければ語れないという問題がありました。
なぜ、異なる〈温度差〉のもの同士が言葉を交わせないのか。
そこには何か日本的なもの、つまり世間的なものによる言葉の圧殺が働いているのではないでしょうか。
すると、いくら自律的な判断を尊重しようとしても、その基礎がまずないところで〈尊重〉の文化は育たないでしょう。
ちなみに、この「世間的なもの」や集団内における発言を封じる力について関心があると、アンケートに書かれた参加者は少なくありませんでした。

さて、〈尊重〉というキーワードが確認されたところで、後半の議論はこれから〈温度差〉とどのようにつきあっていくかという点について議論が進められました。
そもそもこのテーマが設定された背景には、〈温度差〉による人間関係の分断という問題がありました。
そうであれば分断された社会をどう再生するかという論点が必要ではないかとの問題提起がなされましたが、しかし、それよりはむしろこれから「新しい関係を構築していく視点」について論じる方が前向きであるとの意見が多く出されました。
それは避難先で同じ境遇のもの同士の関係、あるいは新たな生活拠点の地域での関係をどうつくり上げるかという問題と関係します。
その意味で言うと、この暗い状況を前向きにとらえられるとすれば、この出来事によって出合うはずもなかった人々と出会うことができたという面をもっと積極に評価していこうということにもなります。
そもそも、このてつがくカフェという場もその機会の一つであるはずです。
そこでも、もちろんお互いの意見や選択を「尊重する」ことが原則であることは変わりません。

それにしても「尊重する」とはどのようなことなのでしょうか?
それは私とあなたの価値観は違うからバラバラに行動しましょうね、という放任だけを意味するのでしょうか?
もちろん、それで済むケースならよいでしょう。
しかし、〈尊重〉が求められる機会というのは、むしろバラバラになれない関係性において、各人が分断せずに、しかしお互いの判断を認めあうという非常に緊張した状況に必要な概念です。
この問いをめぐっては、ある参加者から最後にとても興味深い経験談が挙げられました。

その経験談によれば、放射能に対して家庭内での〈温度差〉が激しい中、相当ないざこざを起こしながら、自分や家族の価値観が変容し、新たな価値観が構築されてきたというのです。
放射能に関する情報、あるいは行動において、お互いの判断や解釈を非難しあったご苦労もあったのでしょう。
しかし、そのいざこざをくり返しながら「不思議と」お互いの関係が収まってきたというのです。
けっしてそれは水平化されたり、一枚岩になったという意味ではなく、相変わらずそれぞれの価値観はバラバラなはずなのに、しかし妙に今まで否定してきた相手の行動を自分がしていたりするなど、自分の中での〈温度差〉が変容しながら家族内での調和が生まれてきたというのです。
その参加者の言葉を借りれば「波を越えてその人の価値観がつくり上げられ、それによって相手への〈尊重〉が生まれ新しい関係性が構築された」というわけです。
ここに、非常につらくはあっても自分の言葉を交わし合うことで生まれる新しい関係の可能性、そしてそれを生み出す原理としての〈尊重〉が見事に示されていたのではないでしょうか。
その意味で言えば、別の参加者から出された「声高に叫ばなくても意思表示できる勇気や機会があれば世界は変わっていくのではないか」という意見もまた、このことと関係するでしょう。

このほかにも、この非日常を日常化させていく状況をどう生きていけばよいかなど、とても興味深い問題提起がなされるなど、以上に尽きない発言が多数出されました。
残念ながら、毎度のこととはいえそれらすべてをここに挙げることはできません。
しかし、回を重ねるごとに対話のおもしろさを世話人としてビシビシ感じております。
次回は12月23日(金)にAOZにて開催されます。
この新たな出会いに感謝するとともに、また皆様とお会いできることを楽しみにしております

第6回カフェ・参加者感想

2011年11月27日 22時06分24秒 | 参加者感想
第6回てつがくカフェ@ふくしまが開催されました。
参加人数はこれまで最多の27名です。
サイトウ洋食店が満席状態のなか、とてもとても活発な対話が交わされました。
今回のテーマは「〈安心〉は共有できるか?―放射能をめぐる〈温度差〉とは何か?―」。
前回の特別編で挙げられた論点の一つです。
その内容については別に報告としてまとめさせていただきます。
まずはご参加いただいた方々の感想を掲載させていただきます。

●話の中で「日本的=世間」という言葉が一番印象的でした。多くの人が自分の意見を持ち、不安を抱えつつも、みんなの前で意思を表明できない難しさがあると思います。日常の人間性を壊す危険性と新たな人間関係を構築することの大切さを個人として同バランスをとるか…。ぜひ考えてみたいテーマです。原発災害について、できれば戻りたくない気持ちもあると思いますが、「語ること」「記録すること」は当事者であり私たちがやらねばならぬことだと思います。

●これから何か新しいことをはじめては行きたいと思うが、私もデモなどには、しょっちゅう参加できないと思う。でも、ある参加者が言っていたように、自分の身近な場で、きちんと自分の考えや意見を表明するということはできるし大切なことだと思う。「和を以って尊しとなす?!」ってことわざ?があると思うが、友人同士では、ウラでは色々なことを考えるが、ちょっと大きな空間や偉い人に対しては、自分の意見等を表明しにくいのかな~って思います。私はけっこう、はっきり何でも言うんですが…この日本的な感じは何なのか、次回のテーマにして下さい。

●ゼミ以外でこんなに大規模に一番議論しなければいけないけれども、みんなが話をしないクリティカルな話をできているという現状をしっかり見れたこと自体がとても新鮮でよい出来事だと思いました。ノートをとってみたのでまた自分で深く考えたいと思います。いい話し合いの形を見れました。頭の回転が重要(?)なので疲れました。

●「知識の差」、「地域の差」、「価値観の違い」など、温度差の要因となるようなものを自分の頭の中で整理できたように思います。これから人間関係をもう一度どうつくって考えるのに非常に参考になりました。

●今回2回目の参加になりますが、以前より主体的に参加できたと思います。どうしても答えが出ない問題ですが、他の方とのお話を聞いたりしているうちに、自分の中で、更に様々な問題や考えが生まれてきて、今この状態では少し混乱しています。しかしこの混乱も含めて、非常に有意義な時間だったと感じました。足りない部分は、自身でも考えていきたいと思います。ありがとうございました。

●「考えたくないけど考えなくてはいけない」と思っていても、やっぱり考えたくはないんだと思いました。こうして、みんなが「考えたくないこと」を一生懸命考えていると思うと、そこから逃げようと思っている自分に、やはり後ろめたさを覚えずにはいられません。

●様々な意見が出る中で哲学的な答えや、哲学的にはどのような問いがあるかなどを知りたかった。

●誰もが「考えたくない」ということだからこそ考えることが必要なんだなと改めて思いました。

●当時と今では人の価値観も変化するよなぁっていうのが、当然だけどあらためて感心したことでした。ただ、価値観が作られる基準が、今は十分じゃないから食い違うのも仕方がなくって、やはりつきつめていくと、人と人とのつきあい方の原点というか、相手の尊重しかないのかーとも思いました。

●途中からの参加でしたが、みんな悩んだり、考えたりされているのが伝わってきました。答えはないかもしれないけれども、自分ではない人ともお互いを尊重するということを大切にしていきたいと思います。それぞれが考えて選択していることなので尊重したいと心から自然に思います。

●充実していました。結論は出ませんが、話したり、他の方の意見を聞くだけで気持ちが落ち着きます。

●こんなに人が集ってると思わなかったです。すごい!ドキドキして発言できなかったのが残念です。私も一番の友達と今回のことでギクシャクして連絡がとりづらくなっています。そろそろ会いたいなと思っているのですが、なぜまだ福島にいるのか心配されそうで、なかなか思い切って連絡できません。

●価値観の相違による温度差。原発以前の日常生活でも時々感じることですが、3月11日以来、いつ直面するかドキドキしてしまうくらいです。私自身は県外に住んでいるので、福島の知人と必要以上に原発の話をしないようにしていたところもありました。話が盛り上がって、自分の考えが整理できず発言できませんでしたが、充実した時間をすごせた気がします。

●温度差は価値観の違い、そして想像力の違い。集団のなかで自分の判断力に自信が持てないのは国民性。仙台から来ました22歳。楽しかったです!!

●はじめて参加しましたが、若い方が真剣に討論されている姿に希望を持てました。


ご参加下さった皆さん、本当にありがとうございました。
皆さんのご感想や要望を踏まえて次回のテーマを決めさせていただきます。
ぜひ、また額を寄せ合って考えあいましょう!

第6回案内チラシ

2011年11月10日 21時27分59秒 | 開催予定

第6回のチラシが完成しました。
なんと今回の作品は、このブログをご覧になって下さっている方からご提供いただいたものです
ふだん世話人がwordでつくっているチャチなものとは大違いです。



珈琲の湯気は福島県の形をしています!
このような素敵な作品のチラシを、ぜひ色々な場所におかせていただければ幸いです。
ご協力いただきましたSさん、誠にありがとうございました
ますますてつがくカフェ@ふくしまの活動を活性化させていきたいと思います

第6回てつがくカフェ@ふくしま開催のお知らせ

2011年11月01日 06時38分14秒 | 開催予定
第6回てつがくカフェ@ふくしまの開催が決定いたしました。

テーマ:〈安心〉は共有できるか?
    ―放射能をめぐる〈温度差〉とは何か?―


今回のテーマは、前回の特別編での議論を受けて設定させていただきました。
そこでは、このたびの原発事故以来、職場内や地域内はおろか家庭内、友人関係において、お互いの放射能をめぐる「安心感」の違い、つまり〈温度差〉に悩んだという声が数多く上がりました。
そして、そのことで人間関係が分断されたとの話も少なからず挙げられました。
さらに、この分断は避難する/避難しないという選択にも影響したでしょう。
いったいこの〈安心感〉とは何でしょう?。
果たしてそれは共有可能なのでしょうか?
このことについて皆さんとともに語り、考えあいたいと思います。

日 時:2011年11月26日(土)開催時間 16:00~18:00

場 所:サイトウ洋食店

    福島市栄町9-5 栄町 清水ビル2階・JR福島駅から徒歩4分・福島駅から313m・℡024-521-2342
    http://ggyao.usen.com/0005016325/

費用:ドリンク代(珈琲300円)

事前申し込み:不要(直接会場にお越しください)
       ご不明な点は下記の問い合わせ先までご連絡下さい。

問い合わせ先:fukushimacafe@mail.goo.ne.jp

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。
なお、てつがくカフェ@ふくしまではA5サイズのチラシを作成しております。
もし、チラシを置いていただけそうなお店や公共機関、学校等ございましたら、世話人までご一報いただけると幸いです。

てつがくカフェ@ふくしま世話人