てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

雑誌「男の隠れ家・4月号」に載りました!

2013年02月27日 21時01分00秒 | メディア掲載
               

あの雑誌「男の隠れ家・4月号」に、なんとてつがくカフェ@ふくしまが載りました
同雑誌では「人生に活かす「哲学の世界」」という特集テーマを掲げ、ニーチェやショーペンハウアー、カント、ヘーゲル、ハイデガー等など名だたる哲学者を紹介する一方、「思索だけでなく体感もしたい「哲学スポット」を訪ねる」というコーナーで、各地の哲学カフェを取り上げています。

@ふくしまもそこでこんな感じに紹介されています。
 

以前、ヨースタイン・ゴルデル著の『ソフィーの世界』が翻訳・出版された時期に哲学ブームが起こりました。
そのときの哲学ブームが、難解な哲学を童話調でわかりやすく著したことがウケたものであるのに対し、昨今の「哲学ブーム」はむしろ、自分自身で「哲学する」ことに関心が移行しているように思われます。
そのような中で全国各地に哲学カフェが広まっているのではないでしょうか。
それにしても情報誌に哲学が特集されるなんて、しかも気軽なお出かけ空間として哲学カフェが紹介されるなんて隔世の感がありますが、ちょっと哲学が気になっている方々には、どしどしご参加いただければ幸いです。

第15回てつがくカフェ報告・「躾と体罰はどう違うのか?」

2013年02月18日 10時34分03秒 | 定例てつがくカフェ記録
 

第15回てつがくカフェ@ふくしまが17名の参加者でアオウゼにて開催されました。
テーマは「躾と体罰はどう違うのか?」。
現在、大阪の高校で起きたいたましい事件をきっかけにスポーツ界や学校教育の場での体罰が問題化される中、このような悲劇を2度と引き起こさないためには場当たり的な対処ではなく、問題の根本的な解明が必要でしょう。
参加いただいた皆さまには、子育て経験や学校教育、企業教育など幅広くかつ具体的な話を挙げていただきながら問題を掘り下げていきました。

 

まず議論は「躾と体罰は同じか否か?」という論点から始まりました。
基本的に躾と体罰は同じものだという意見では、それが必要かどうかの判断基準こそが重要ではないかという点が提起されます。
そもそも対話が成り立つものに対しては言葉による説得や教育は可能かもしれないけれど、それで通じない幼子に対しては身体的苦痛でわからせることも必要ではないかとのことです。
少なくとも小学生くらいまではこうした身体的に罰を与えることでわからせる必要があるとの意見には、子育てを経験された参加者にわりと肯定的に受け入れられたように思われます。

それに対し、躾と体罰は異なるとの意見からは、その異同が「愛情」の有無によって区別されるとの意見が出されました。
愛情とはすなわち、相手のためを思う情念のことです。
したがって、躾が相手を思う愛情に基づくのに対し、体罰は単に親や指導者の個人的な怒りをぶつける私的な行為だということになります。
それは叱る」が相手のために為される行為であるのに対して、「怒る」が個人的な感情の発露であることに対応するとのアナロジーで説明する意見も出されました。
さらに前者が理性的な行為であるのに対し、後者が感情的な行為であるとの意見も出されます。

とはいえ、必死に子育てをする中ではなかなか理性的にふるまえないという親としての告白も吐露されました。
その中で思わず親として感情をぶつけ、手が出てしまったとき、それは体罰といわざるを得なかっただろうといいます。
興味深かったのは、親として体罰だったという認識(記憶)と、それをなされた子供の側の認識とのズレです。
ある参加者は子どもの悪さに対して思わず感情的に外へ追い出したのは体罰だったと認識していたのに対し、子どもの側にはそんな記憶はなく、むしろ押入れに閉じ込められたときが体罰だと思ったというエピソードが出されました。
この親子の体罰の認識に対するズレは、決定的に重要であるように思われます。

というのも、議論の中では同じ暴力的行為であっても、体罰を振るった側と振るわれた側の関係性によってその評価が異なるという意見が肯定的に受け入れられていったからです。
つまり、親-子や教師-生徒などの関係に信頼関係が成立していれば、同じ「殴る」という行為であっても体罰にはならないという論理です。
その意味で言うと、「体罰は躾の一手段として位置づけられる」という意見も論理的には成り立ち、「いくら周囲から見て異常な体罰的行為であっても、その行為は関係性を壊さない限り肯定される」ということになります。

とはいえ、躾=善であり体罰=悪であるという評価は暗に共有されているのではないかとの指摘もなされました。
そこから議論は体罰の否定的評価の内実に迫っていきます。
まず、体罰については身体的暴力に加え、精神的暴力も含まれることがカフェの場では共有されました。
その上で、なぜ体罰がくり返されるのかその背景について吟味されます。
いわく、成果主義などのように指導者が結果を求められる場合や、指導者自身のプレイヤーとして体罰を受けてきた成功体験がそのまま指導方法として肯定され続けている背景、軍隊や体育会系の世界でふるわれる理不尽さに郷愁をもつ文化が根深いこと、それが企業研修においても反映されることなどが挙げられました。
なるほど、スポーツ界において体罰を肯定する論理の一つには「プレイヤーを発奮させる」という理屈があります。
こうした気合と根性でもって成功を得るという意見については、高校生の参加者からも理解できるとの意見も出されました。

しかしながら、その一方でこうした相手を否定するような「負の力」で成長を促そうとする日本の教育風土にうんざりするとの意見も出されます。
さらに、その風土は学校において教師生-生徒という関係だけではなく、同輩である生徒-生徒同士でも否定し合いながら発奮させる文化が醸成されているのではないかとの指摘も出されました。
これは「いじめ」という問題にもつながる指摘だと思います。
昨今のプロスポーツの世界では精神論よりももっと合理的な方法論で成功していく例が増えているのだから、学校教育でももっと理論的な指導方法によってなされるべきだとの厳しい意見も挙げられました。
それはコーチングなど暴力を伴わないメンタル面での方法が広がっていることにも通じます。
そこにおいては指導者とプレイヤーとの関係は、支配・服従関係ではなく同じ目的を目指すパートナーとしての関係であるといえるでしょう。

ところで、これらの意見からは非合理で理不尽な力によって成長させる教育論と、合理的な方法で成長を促す教育論の相克が窺えます。
しかし、前者の教育論がしばしばパワハラや暴行として問題化することについては、なお考えなければなりません。
これについて、そもそもスポーツ競技においてはミスはあっても、罪を犯すわけではないのだから体罰という理屈自体無効のはずだとの意見が出されました。
たしかに「体罰」という以上、それは罪に対応した罰という意味が含まれていますが、スポーツにおいて罰とはルール違反以上のものではありえないでしょうし、それはルール内でペナルティが下されるもので、指導者の権利ではありません。

あるいは子育ての場面で、子どもが罰するほどの罪を犯すものだろうかとの問いも挙げられます。
では、子どもはそれに値する罪を犯すものなのでしょうか。
そこには子どもがその行為のよしあしを判断できているのかどうかという視点も必要になってきます。
というのも、罪と罰という以上、それは予めルールが共有されているものに対して為されるものであって、それを知らない子どもに対しては罰を与えるという概念は当てはまらないだろうということになるからです。
ただし、これについては子どもが社会のルールをわかっていないがゆえに罰で知らしめるという理屈も成り立つものです。
その意味で、生活指導において罰の必要性はあるかもしれないとの意見も出されました。
どうもそこには罰によって理解させるという意味が含まれているようですが、そもそも罰という概念自体は損なわれた秩序を回復させるという意味があるはずです。
すると、そこには何かズレがあるのではないでしょうか。

次第に論点は、暴力を伴わない躾は可能なのかという方へシフトしました。
ある参加者によれば、身体的接触のある罰は家庭では認めても学校では認められない、学校では極力言葉に信頼をもってしどうしてほしいとのことです。
これに対して、教師1人-生徒30人という状況にそれがどこまで可能か、むしろ学校教育には授業以外に道徳教育や部活指導など過重な要求があるのに、すべて言葉や対話で対処できるのだろうかとの疑問が出されました。
むしろ、家庭でこそ対話が必要だとの意見も出されます。
興味深かったのは、自分の子どもであれば殴ってしつけることは受け入れられても、他人である教師にわが子を殴られたくないとの意見です。
では、他人であれば許しがたい暴行としての体罰が、なぜ自分の子どもに対しては許容できるのでしょうか?
ここには親子関係の方が教師-生徒、指導者-プレイヤー関係よりも厚い信頼関係が前提にされているのかもしれません。
しかし、実はその前提にこそ躾と体罰、あるいは暴力/非暴力による教育の矛盾を解く鍵があるように思われます。

体罰をくり返す教師にしても、その子が憎くてそうするというよりも、その子を伸ばそうとの目的で働きかけるものなのではないでしょうか(もしこの目的がタテマエでもなければ、ただの虐待になります)。
むしろ、その目的が共有されるがゆえに、体罰という手段がその集団で許容され続けるという力学が働くものでしょう。
この子どもを伸ばすという目的の点では親も教師(指導者)も一致するわけです。
すると、そこには親の愛情であったとしても、その子のためを思ってなす行為である以上、暴行としての躾の可能性はありうるわけです。
むしろ、既に述べた躾の行為者と受け手とのズレにおいて、そうした事態が生じることは確認済みです。
それが、なぜ家庭の躾においては許容できるのか?
実は、信頼関係さえ成り立てば体罰にはならないという理屈は、この事象を関係概念で捉えるものですが、しかしその場合には、同じ行為でも関係性によって評価が異なるという問題が生じます。
しかし、関係概念で体罰の有無を捉えようとすれば、体罰を躾なのだする側の思い込みによって暴行が為されることを許容する可能性は否定できないのではないでしょうか。
中には目的(理由)でその暴力的行為が許容されるのだとすれば、戦争の暴力も肯定されかねないという意見も出されました。

その一方で、「いかなる目的があろうとも肉体的・精神的苦痛を伴う体罰は認められない」との意見も出されましたが、では、その行為のみにて体罰を禁ずることは可能かといえば、ある教員経験者から荒れる教室の秩序を保とうとする中で、一律的に体罰を文言によって禁じられる困難も吐露されました。
むしろ、一律に体罰を具体的な行為で定義づけることは、教師の側に萎縮をもたらしてしまうのではないかとの意見も出されます。

こうした体罰の定義をめぐっては関係概念で捉えるべきか行為概念で捉えるべきかで、その結果がまったく異なることに気づかされます。
問題は果たして、非暴力の躾は可能かという問題です。
これについては興味深い体験談を披露していただいた参加者がいます。
彼によれば、幼い頃に無自覚に悪事を為した際、それまで一度も手を挙げたことのない父親が泣きながら何度も殴り諭したことで、自分の犯した罪の重さを理解できたといいます。
これは関係性や行為の問題ではなく、その人の思いを伝える最終手段が暴力であるとしたら、これは肯定されるべきなのかという非常に深い問いが孕んでいます。
倫理的には誤っているが教育的に正しいということなのでしょうか?
しかし、それを言ってしまえばたいていの体罰は肯定されます。
果たして非暴力の教育は可能なのか?
いつものごとく開かれた2次会、3次会でもこの話題に対する議論は尽きず、「果たしてお父さんは殴らずに伝えることはできなかったのか?」、「普段殴らない人が殴ったから伝えられたのか?」など喧々諤々夜が更けていきました。

             

ところで、今回の議論は個人的に職業上の問題としても、かなり考え込まされるものでした。
その点でいくつか個人的に考えさせられたことを最後に書かせていただきます。

そもそも暴力の概念は歴史的社会的に変遷するものでしょう。
その点で、かつて暴力とは考えられてこなかった行為も、現在の文脈では暴力であると認定されることもありえるわけです。
かつて家庭内の暴力は躾の名の下に不問にされてきたわけですが、DVのような親密な関係性での暴力の凄まじさがここ20年程のあいだに明らかにされてきたケースは、その典型例です(セクハラやパワハラも同様でしょう)。
この問題の深刻さというのは、「これは暴力である」と認定されないあいだは、暴力を受けている側もまた自覚しにくいことが常態であるという点です。
こうした加害者側も被害者がも暴力性の自覚がない状態を、実は「信頼関係が成り立っている」と見なしてきたのではないでしょうか。
すると多数派にとっては容認できる体罰も、それで苦しむ少数派を自己責任の名の下に排除してしまうことにつながりかねないでしょう。
ここはスポーツ指導者の立場であれば、なかなか悩ましい点であることは理解できます。
体罰を用いずとも、厳しい練習についてこれずにプレイヤーがやめていくケースがあることは少なくありませんから。
この点につき議論の中では、「たとえ一人でも脱落者を出した時点で指導(教育)者としては方法を失敗したのだ」という厳しい意見も出されました。
これは生涯スポーツとして指導するのか、勝利のために指導するのかという目的によっても、その評価は変わるでしょう。

一方、行為論のように特定の行為を定義づけてしまえば済むかといえば、それもなかなか難しいことは既に上の議論で指摘されました。
いわゆる教師を「事なかれ」にさせてしまわないかという問題です。
けれど、そこには教師としての厳しさには身体的に暴力を加えることで担保されるという論理を肯定するのかという問題を考えねばなりません。
議論の中では、それをあくまで言葉の力で伝えてほしいとの願いも提起されましたが、やはり最小限度の体罰は最終手段として認めざるを得ないという意見が歯切れ悪くも多数派として受け入れられていたように感じました。
言い換えれば、それはコミュニケーションの最終手段としての暴力は存在するという理屈を含み込むものでしょう。
とりわけ、わが子に対して体罰をしてしまったと告白された方々からは、理性では伝わりきれない思いをそれによって伝えざるを得なかったとの声を聴かせていただきました。
すると、やはり言葉だけでは伝わりきれないコミュニケーション手段としての暴力は、積極的に肯定はできないけれど、最終手段としては認めざるを得ないということでしょうか。
僕は単純に他人に殴られたくはないし、殴られて成長したという実感もないので、その立場に与しかねますが、しかし相手に暴力を振るわれた際に、そこまで相手を追い込んでしまったと反省させられた経験はあります。
その意味で言うと、暴力的手段ではっと気づかされることはありうるだろうなとは思うわけです。
しかし、ありうるだろうなとは思いつつ、だからといってその手段を積極的に容認することしかねます。
むしろ、そうではない方法で相手を気づかせることはできないのか、そうした一見不可能だと思われることへの可能性を探求してみたいなと思うわけです。
その点で、非暴力の教育は可能かという小野原さんの問題提起は、ものすごく惹きつけられますし、そこに至るに非暴力文化への根本的転換の可能性の探求と努力をあきらめたくはないなと思っているところです(実践的に矛盾している可能性は別として)。

長くなってしまいましたが、次回は3月10日(日)に、あの大震災・原発事故をめぐっての特別編が同じくアオウゼで開催されます。
ぜひ、多くの方々にご参加いただければ幸いです。

第15回てつがくカフェ@ふくしまのご案内

2013年02月15日 15時29分38秒 | 開催予定
〈体罰〉問題が深刻化しています。
大阪での傷ましい事件をきっかけに、連日さまざまなスポーツ分野でのこの暴力現象が表面化しました。
残念ながら、これらの現象はけっして新しいものではありません。
以前より問題が表面化しては消え、消えては現れることをくり返してきたものです。
そのたびに〈体罰〉の根絶は訴えられてきたものですが、依然として根絶されていないことがあらためて確認されました。
事実、その効果を否定しきれないという論調も相変わらず存在します。
なるほど「信頼関係があればそれは〈体罰〉ではない」、「身体でわからせることは大切」云々…
これは家庭内の〈躾〉という営みにおいてもしばしば語られる論調でもあります。
いずれも強制力を伴う営みですが、〈体罰〉が否定的に論じられるのに対して、〈躾〉が肯定的に論じられるのはなぜなのか?
いったい、教育の領域において生じるこれらの営みを暴力的か否かと判断する根拠とは何か?
この〈暴力〉の本質へも迫るテーマを、ぜひ多くの方々とともに考えあいたいと思います。


テーマ:「躾と体罰はどう違うのか?」

日 時 : 2013年2月16日 (土) 開催時間 16:00~18:00

場 所 : A・O・Z(アオウゼ)MAXふくしま4階・視聴覚室

      ※今回は初めての視聴覚室になりますのでご注意ください!

費 用 : 100円 (珈琲などドリンク飲み放題)

事前申し込み : 不要(直接会場にお越しください)

ご不明な点は下記の問い合わせ先までご連絡下さい。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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てつがくカフェ@ふくしま世話人