6/18(土)に開催されたてつがくカフェについて
世話人から報告させていただきます。
会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、
会場には17人、オンラインでは6人の計23名の方にご参加いただきました。
「戦争と平和を考える」というテーマで対話が行われましたが、
ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。
【タイトルに関して】
・話を始めるにあたって、企画者に質問したいのですが…。言葉の整理だけしたいなと思いまして、テーマが「戦争と平和を考える」になっていますが、そこの「と」はどういう繋ぎで考えているのかお聞きしたい。何か意味を持たしているのか、意味はあまり無くて戦争と平和の両方を並列にするために使っているのか、その意図を聞きたいなと思います。要するに戦争の問題だけを考えているわけではなくて、平和の問題も考えたいという意図は何となく理解できるのですが、二つが対立している対の概念なのかそうでないのか今後の議論に関わってくるように思えますので、そこだけ説明して頂けると考えやすくなるかなと思いました。
・何も考えておりませんでした。本当に問いが立てにくいので、問いを立てた場合ある一方向性の立場からの問いというか、反語的な問いになってしまうわけです。「なぜ戦争は無くならないのか?」や「戦争はいけないことなのか?」というように、問いの立てにくい問題になってしまうので、基本「戦争について考える」というテーマだったわけですが、戦争について考えていくということは、私は対概念だと思っておりますが平和に関しても「どうやって平和を築いていくのか?」など色々なことを含めて考えていかなければならないというところで、今回のテーマとなりました。
・先ほど「なぜ戦争と平和の二つの言葉が入っているのか?」という話に関して、対義語としてテーマにしたとの発言がありましたが、私も参加する前になぜこの二つの言葉が今回議論されるのか疑問に思っていました。対になる言葉だとすれば、戦争ではない状態が平和であるもしくは平和でない状態が戦争であるということになると、では戦争になっていない場所が全部平和かというとそうではない。なので、これは明らかに分けて考えるべきであろうと思いました。そうすると議論が拡散してしまって、訳が分からなくなると思いましたので、私は今日は戦争についてだけ考えようと心に決めて参加した次第です。
【言葉の定義】
・冷戦は戦争状態でしょうか?それとも戦争ではない状態でしょうか?
・恐らく戦争状態とは、明確なコンセンサス(意見の一致。合意)が全人類もしくは全宇宙でされていないのではないかと思います。例えば500人以上お互いに集団で殺戮し合った争いが戦争ですという人もいれば、5人以上で殺し合って3人以上死亡者が出れば戦争だろうと言う人もいれば、H・G・ウェルズのように宇宙人が攻めてきた状態も戦争だと言う人もいると思う。そうなると他の生物との争いも戦争となると、今回のコロナも戦争だろうと思います。「ウイルス対人類」の戦いなわけですから、最初に戦争の定義を決めないと議論そのものが出来ないのではないかと思います。
・先ほど冷戦という言葉が出ましたが、もともと比喩的表現だったと思うわけです。つまり「Cold War」という、戦争が実際に勃発していないけれどもあたかも戦争をやっているみたいではないのかと、これが平和なのかと言って、まるで戦争みたいだが戦争はしていない形なのかなと思うわけです。先ほどのコロナウイルスとの戦争についても、それは比喩的表現としては使えると思うけれども、基本今日考えたかったのは「人間同士が大規模集団で戦う」というのを戦争として、近代以降は国家同士になりますが国家と言ってしまうと「内戦的な戦いはどうするのか?」ということになってしまうので、ある程度大規模な戦いというかそこは漠然としたものでしか言えないと思いますが、民族同士であるとか部族間の争いであれば該当するのかなと思います。暴力団同士の争いだと戦争と言う必要はないのかなと思います。定義は自由にしていいと思っております。
・戦争と平和について、昔読んだトルストイの小説のタイトルだったと思うのですが「深いな」と思いながら参加する前に考えていたわけですが、深すぎて定義できるものではないなと感じました。トルストイの小説は人間問題が主軸だったと思うので、人間の心を中心に考えたいということで今日参加した次第です。
・定義づけは難しいと思います。他の方も仰っていましたが、テロとの戦いや国家対国家以外の戦いについてどうするのかなど色々あり、また今回のウクライナの話にしても2014年から戦争ではないふりをして乗り込んでいますから、プーチン大統領も戦争とは言わなかったわけで、本当に定義づけしようとすると難しく、それこそ学者の中でも意見が分かれていますので、はっきり定義づけしてから始めるというのは困難だと思います。むしろ現実にあることとかをベースに話した方がいいのではないかと思います。
【フィクションとしての戦争】
・戦争は自分にとってどんなものか考えた時に、もちろん誰も殺されない平和な状態が良いわけですが、戦争映画やドラマとかそういったものに単純に魅力を感じてしまっている自分もいることを発見しました。
・戦争映画を観た時に面白く感じるという意見について、共感を覚えました。ウクライナ軍がロシア軍に対して攻撃を仕掛ける映像を観て自分も嬉しく思いながら、そういった動画をYouTubeなどで見続けているわけです。なぜそう思うのか考えた時に、そもそも我々人類というのは戦争に勝ってきた種族の末裔なわけですから、狩猟採取時代には死亡原因として2~3割は殺人だったり争いだった言われていますが、そういった中で生き残ってきた人類はいかに人からの殺戮から逃れるか長けた人間しか残っていないわけです。それは人間だけではなくあらゆる生物も同じですが、戦争を見て楽しく感じてしまうのは本能的にしょうがない、戦争は悪とか善とかそういうレベルの話ではないと思いました。
・フィクションとしての戦争映画やドラマ、文学などが面白いのは設定が究極の選択を迫られたりとか、ギリギリの状態に人間が置かれたりするからドラマとして面白くなるのは当たり前で、これが好きだから好戦的だとか戦争を肯定しているとかは全然言えないと思います。戦車を吹き飛ばす兵器の映像なども、映像として面白いということは言えると思うのですけれども、先ほど話にあった狩猟時代から我々が生き残ってきたのは戦争に勝った末裔だという意見は自分は違うと思っています。単純に戦争というのを武力の争いだとすると、人間というのは戦争を起こさない方法をそれぞれの時代において考えてきている歴史があるわけです。上手いこと戦争にならないようにできたという武力衝突を避けて来た人も残っているというふうに考えた方が良いのではないかと思います。
【戦争をなくすために】
・戦争と平和の関係について考えた際に、自分にはロシア人の友だちがいて、彼は2月24日から心を痛めていてチャットとかでやり取りしていますが、どんどん弱っているというか「こんなに長く続くとは思っていなかった」というわけです。自分は「早く終わらないかな」と思っていますが、戦争という定義がまさに難しくていつ終わるのか、また戦争が終われば平和が訪れるとどこか思っています。
・学校の歴史の授業とかで戦争について習ってきましたが、それはあくまでも歴史の授業の話でまさかそれが現実に起こるなんて思ってもいなかったので、最初にウクライナ侵攻があった時は本当に驚いて、そこからいろいろ考えるようになって、考えた結果この場にもいるわけですが、そもそも戦争はなぜ起こしたらいけないのかと考えたら、自分の理想を叶えるために武力を使っているのが戦争なのかと思いました。ただ武力を使うのは手段の一つで、理想としては対話でもって世の中の課題を解決しようとするのが一番平和的な方法かと思っています。そこを対話ではなく武力で解決しようとしているから戦争が起こっているので、戦争を止めるというのは人間一人の力ではどうにもならないですが、対話で人類の問題を解決していければ世の中上手くいくのかなと思っています。
・根本的な疑問として、戦争するのは人間だけであると言われています。もちろん動物の中でも争いはありますが、人間はこれほど叡智を持っているわけですが「なぜ対話で世界は平和にならないのか?」というのがずっと疑問でした。さらに自分の中で解釈が出来ていないのが、戦争の法律というものがそもそもの戦争のやり方を定義づけていることが、自分の中では理解できていないわけです。国連など世界を統一しようとする流れの中で、あまり機能していないのかなと思いました。人間同士の殺し合いというのは決して望むべきものではなく、どのような問題があったとしてもやはり対話で解決したいと思っております。
【戦争は悪か?】
・戦争がもし悪いとすれば、それはなぜなのか?それは人が死ぬからだと言うのであれば、戦争によって死ぬ人の数が少なくなればその戦争は正義なのか、皆さんのご意見を伺いたいなと思いました。一例を言うと、戦争が起こると自殺者が明らかに減るわけです。戦争によって自殺者が減ったら社会的に正義かどうかなど、どう解釈するべきなどお聞きしたい。
・戦争と自殺者の因果関係についての考え方は、非常に功利主義(行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用/有用性によって決定されるとする考え方)的で数を取って比較したらどちらという話になるとは思うのですが、それで戦争が善か悪かと議論したときに「そもそも善悪とは?」という話になる流れだと思うわけです。善悪の問題を考えるときに功利主義に考えるのか、宗教的に語るのか色々とありますが、善悪の深いところに入り込むとこれもまた抜け出せなくなると思います。そんなことよりも戦争は悪だと、人類の歴史の中で人類が培ってきた考え方であると、否定される方がもしいるとすればそれはそれで結構ですが、人類の歴史というのは戦争は悪だと少なくとも近代以降そういった考えに固まっていて、それはそれで前提として認めるしかないかと思いますが、いかがでしょうか。
・戦争をまず初めに始める人、それを受ける人がいる。最初に火をつけた人が悪いとなると、受け身の戦争は許されるという話を聞いたことがあります。しかし、それは果たしてそうなのかと疑問に思っていて、また代理戦争という言葉をよく聞きますが、それは正しい戦争なのか悪い戦争なのか時々気になります。
・今回のテーマについて考えた時に、人類が60億ぐらいいて国も200以上あって、みんなそれぞれ一人ひとり違うので国もそれぞれ事情は違うので波風が立たないことは全くないわけです。思想やら経済状態、民族や習慣など様々違うところで、そこで何か波風が立った時に戦うことや争うこと選ぶことと、平らに穏やかに治めていく、融和や調和といった方向が平和かと思っています。戦いや争いはどうしても他者を殺したり傷つけたり、あるいはその国の習慣やら民族やら破壊してしまうこともあるかと思います。自分とは違う、あるいはこの国とは違うものに対する尊重とか尊厳というものの考え方が低いのかなと思ってしまう平和の方で考えると、波風が立った時に相手は自分とは違う考えや感情を持っているけれども、そこを違うということを尊重して対話ですり合わせて解決していこうと他者への尊厳などを大切にするのが平和を考えることかなと思います。これは人間だけではなくて、例えば庭にハチの巣ができた時に駆除する考えもあるが、工夫して共存するように考えられるということもあるので、人間だけの問題でもなく自分とは違う人種とか植物なり動物なり、他者を同じ地球に生きているものとして生命の尊厳を人間と同等として考えられるようなところが平和に繋がっていくのかなと思っています。
・今の話は同感ですが、問題を解決する時に武力を用いるのか、それとも相手を尊重して対話をするのか。対話をした方が相互理解や協調とかになっていくとは思いますが、難しいのはお互いを尊重しないとダメで、片方だけでは成り立たない。武力だとこちらが一方的に侵略すれば、服従させられるのでそちらの方が楽というか、力を持っているのであればそちらを使ってしまった方が楽で自分の思い通りになると思うのですが、もし相手から一方的に武力とか来た時にどう対応するべきなのか。お互い対話とか、協調する姿勢とかあったから時間はかかるかもしれませんが話し合いで解決するのではないかと考えています。武力で来た時にこちらも武力で対抗してしまうとそれが戦争になってしまうのかなと思うわけです。
・ごくごく身近なところで言えば、日常生活の中で隣り近所で我が家の樹木がお隣の敷地の方に入ってしまった場合、あるいはその逆とかで迷惑しているといった時に、まずは話をします。勝手に枝を切ったりせずに話し合いになる。それくらいだといいのですが、何年か前にはご近所で十何匹猫を飼っているお宅があって家から自由に出して育てていたので、非常にご近所は迷惑していたわけです。町内の班でそのお宅に申し入れして、最初は戦うといった心持ちではなくてまず困っている状況を伝えましたが、結果その方は考えてくれなかったわけです。その後も改善されなかったのでどうするのか見守っていたら、町内会の会長から言ってもらうことにするなどいくつかの知恵を出し合ってやりましたが、それでもダメでした。その後も様子見をしていましたら、何年かした後突然その方が亡くなってしまってた。その件は一件落着となりましたが、やはりご近所のことを考えれば誰もお隣と争うといった考えを持たないのに、こちらの申し入れを聞き入れてもらえなかったという人もいるのですが、相手をやっつけるとか殺すとかいう状況が、どうも別の力が働いていて大きな戦争とか大きくなくても小さなところの内戦とかになっているのかなと思ったりします。
・よく戦争を無くすとかの話になると、コミュニケーションが大事であるとかお互いの相互理解が進めば平和になるとか、そういったことが良く言われるのかなと思います。恐らく人類の歴史から見ると、戦争行為とか人殺しによって死ぬ人類の割合は少なくなっているように思いますが、専門家ではありませんがこのままいけばあと一万年後には戦争が無くなる、人殺しも無くなるのでそのままにしておけばいいじゃないかという考えも一つあるかと思います。そんなこと言ってもしょうがないので、どうやったら平和な状態になるのか、平和な状態とは何かその定義の話になりますが、人殺しとかが無くなる状態がどうしたら早く来るのか考えた時に、そいうったロールモデルを探すということが大事になってくると思います。争いごとの無い社会はどんな社会か見渡した時にそれを目標にすればいいのではないかと思います。一つはボノボという小型チンパンジーがいまして、彼らはチンパンジーの中でもお互いに共食いをしたり殺し合わない稀有な類人猿だそうです。ボノボの習慣とかをフィールドワークで勉強して少し真似をしてみるの有りかと思います。
・正しい戦争とか功利主義とかにも繋がってくると思いますが、少し前に「やられたらやり返す。倍返しだ」という言葉が流行りましたが、それが流行ること自体が問題かなとこの戦争が起きている時に思いました。それだったら倍返しが続くわけですから、それはダメだと思わずにそのドラマが流行った日本は恐ろしいなと感じました。やられたらやり返すのが正義とする価値観が流行ってしまうのはどうなのかと疑問に思いました。
・結局は対話的なことを探求して、物理的に傷つけ合いことは避けた方がいいだろうという意見が非常に強いわけですけど、私は戦争するということはそういったことが面倒くさいと思っていて物理的に問題を解決する方が手っ取り早いということだと思います。問題の解決は今の倍返しではないですけど、物理的な対応でもって問題は解決すると信じている人たちが引き起こす現象かと思っています。ですから彼らは物理的に戦うわけです。最終的に殺し合いという状況にまでなるわけですけど、問題は話をすれば何とか解決の道を探れる、対話をすれば見つかると思っている人たちをも巻き込んでしまうという現象が一番問題かと思います。戦争がしたいのであれば戦争したい者同士がどこか迷惑をかけないで勝手にやったらというふうに思うわけですが、現実的にはそうではなくて法律であるとか徴兵制とかで、暴力でもって望んでいない人を暴力に追い込む動きをするわけです。ですから、私は暴力には限界があり暴力では問題の解決にはならないと世界中の人間が理解すれば戦争は無くなるのではないかというふうに思います。ただ、残念なことに暴力の方が手っ取り早く問題を解決すると、自分の欲求が上手く満たされると思っている人が多いので、まだまだ戦争は続くのかなと思います。
【ウクライナ侵攻について】
・今回プーチン大統領は突然ウクライナに攻め込んだ、つまり暴力を振るってきたわけですけど、彼の理屈からするとウクライナの東側の地域で、ロシア系の人々が暴力を受けているとしてそれを救いに行くという最初の理屈があったと思います。それが嘘か本当かは別に置いておいて一応の建前があるわけですが、それがプーチン大統領にとってはNATOがどんどん東に出てくるというのは、彼にとっては暴力を受けていると、あるいは暴力を受ける可能性があるという認識であったことは間違いないと思います。難しいのは果たして話し合いの余地があるような戦争の現場というのがどれくらいあるのか、それから話し合いとか理性というものにどれだけの信頼が置けるのかというのは、今回の戦争を見ていると悲観的にならざるを得ないという気がします。
・今の話凄く刺さったのですが、自衛のために暴力を発するのはいいのかという議論があって、先ほどの半沢直樹のセリフも自分を守るためだったら倍返しにしていいというのがとてもキャッチ―だったから周りに広がったのかと思います。日本は仇討の文化がもてはやされていたと思います。例えば、赤穂浪士もこの間の大河にあった曾我兄弟の仇討ちも正義があるように見えてしまう。現状で言うと、プーチン大統領の話も自分に自衛権があるように見せて正義として武力を行使する。日本の話になると尖閣諸島に中国が来る、北朝鮮のミサイルがたった7分で届くという距離感でも極端な指導者によって戦争が起こる可能性があるから芽を摘んでおこうという論法にまでもっていくことが可能だと思うわけです。ただそこまでもっていっていないのが日本で、これは穏やかな国なのか、それとも呑気な国なのかというのも考える余地があるのかなと思います。自衛隊の話は今考えるきっかけになっていると思っています。
・まずウクライナ侵攻は本当に戦争なのだろうか考えたいなと思いました。武力をもってその土地を自分たちのものにしようということは間違いないわけですが、例えば元寇は戦争とは言わないと思っています。近代ではないので戦争と言わないという言い方も一つはできるだろうと思いますが、それを置いたとしても恐らく元寇を戦争だとする考え方はしないと思う。あと豊臣秀吉の朝鮮侵略も戦争ではなく侵略と言っている。今回も戦争ではなく侵略のような気がしていて、戦争とは恐らく第二次世界大戦の時も宣戦布告をしたうえで、手続きに則って行うようなものが戦争なのかと考え始めています。平和状態ではない侵攻ですが、それでも戦争ではないような気もしています。だからプーチン大統領も戦争にしたくないから、戦争にしてしまうと恐らく第二次世界大戦の時のように色々なものが巻き込まれていって、それこそ第三次世界大戦になるのではないかと恐れがあるから、あえて戦争にしないようなやり方でやろうとして侵略になってしまっているのではと思っています。だから戦争と平和だけを考えていてもダメで、もう一つ別カテゴリーがあって、それも平和を乱しているという構造なのかと思いました。
・ウクライナ侵攻は戦争かという定義の話もありましたが、何か問題解決のために武力を用いたら大小関わらず戦争かなと思っています。今まで歴史を見ると武力を用いて強引に叶える方法がほとんどだと思うわけですが、現代であれば対話が平和的な解決方法というか血が流れたり命が失われない方法で世の中が上手くいけばいいなと思います。今の人類は協力して解決していかなければいけない問題が山積みなので、環境問題やコロナウイルスとか色々ありますけれども人類同士で争っている場合ではないと私は思っているので武力による現状変更は無くなる世の中になればいいなと思っています。話は変わりますが、どうすれば戦争は無くなるのかと思った時に、例えば日本は今戦争が起こっていないことを考えると、日本政府があって国民は銃とか武器を持てないので、反乱を起こしても警察がいて、世界には国家はありますが世界政府のようなものは無いので机上の空論なのは承知してますが、仮に世界政府のような組織が樹立したら平和になるかどうかは分かりませんが、武力による現状変更は少なるなるのではと思いました。理想というか妄想ではありますが、そうなったら平和になるのかなと思います。
・戦争や紛争を無くすには、きっと世界中のだれもがプーチン大統領さえも世界を自分なりの見方で平和にしたいとそれぞれの立場で思っているのではないかと思っています。なぜなら自分の考え方は正しいというふうに思っていること、相手の考え方を尊重することができないから、結論で行くと自分自身の考え方に固執してしまって自分を変えることができない。その小さなものが積み重なってゆくゆくは国の考えになり、世界の紛争を招いていると思っております。結論は自分の中では一人ひとりの意識を変えないと世界は変わらないと思っています。
・今回のウクライナ侵攻が戦争かどうかというのは、これは戦争だと断言しなければいけないと自分は思っています。明らかに侵略戦争です。例えば、戦争というのは少なくとも近代以降我々人類の中でも「悪だ」と「やってはいけない」ということに基本的にはなっています。国際法の中で自衛のための戦争は良いとかありますけれども、基本的に戦争は悪だという考え方を世界共通の考え方として人類は打ち出してきた。それに対してプーチン大統領は「戦争をした」と言うと自分が悪者ということになってしまうので、「戦争はしていない」と「軍事行動だ」と言っているわけですけれども、これは別の形の戦争だというふうに断罪しなければいけないと思います。戦争の形はよく報道もされているのでご存じだと思いますけれども、大きく変わってきてかつての宣戦布告をして始めるような戦争ではなく、今回のウクライナ侵攻も宣戦布告もしていないので、その前ロシア連邦がウクライナに押し入った時も宣戦布告しておらず、していない戦争が最近多い。それからテロ対国家権力という戦いもあるので従来の形と変わってきている認識は共通としてあると思う。戦争は時代とともに変わるが、新しい形の戦争としてそれを糾弾しなければならない。プーチン大統領は糾弾されなければならないというのが私の意見です。それが何に基づいているかというと、人類の合意ということになるわけですけれども、人類の合意と言ってもそれは実際に人類全員が手を挙げて合意しているわけではなく、単に国際法がそうなっているという話でしか言えなくなっている。国際法の中では例えば、武力による現状変更はよろしくないというのはその通りだと思います。しかし果たして全面的にそれが正しいかと言うと、例えばある少数民族がある国家の中で虐げられている状況において、そこが独立して主権国家になるということを認めないのかというと、そういうわけにはいかない。それを認めるとすると、武力による現状変更というものが有りということになる。そのように単純に割り切れる話でもないと思いつつ、何が言いたいのかと言うと「あれは戦争だ」と、「断じて戦争だ」ということです。
・先ほどの発言にコメントしたいのですが、自分は「戦争だ」と言い切ってしまうことで「それはダメだ」というのはあまり力にならないと思っています。なぜかと言うと、プーチン大統領はその土俵に乗ってこないので結局のところ話にならないと思う。戦争だからダメなのではなくて武力行使自体がダメだと、そのような侵略の仕方自体がダメだということです。プーチン大統領のやっていることは「戦争ではない」と言っていたり、ほとんど言葉遊びだと思っています。その土俵に乗ってこない者に対して言葉を加えていっても、あまり武器にならないような気がしています。単にプーチン大統領は否定して、へそを曲げるだけな気がしてならない。彼自身が言っていることに対して、それ自体がダメだという言葉を待たない限り、説得することは少なくとも出来ないだろうと思います。さらに似たような手はどんどん出てきてしまうだけなのではないかと思います。なので彼がやったことが絶対的に悪であるかどうかという言い方で聞かれたら、もちろんそこは先ほどの方の意見に同意しますが、「戦争だからダメだという言い方ではない何か」というのを考えられるのではないか?ということは少し追求する価値があるのではないかと思います。
上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。
最終的な板書はコチラ↓
次回のてつがくカフェは、
7月16日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。
テーマは「恋愛のカタチ~幸せのあり方を考える~」です。
なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、
マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。
また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、
ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので
該当記事の「Zoomミーティングに参加する」の下の
URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。
会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。
そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。
▶てつがくカフェ@ふくしま Twitter
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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。
世話人から報告させていただきます。
会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、
会場には17人、オンラインでは6人の計23名の方にご参加いただきました。
「戦争と平和を考える」というテーマで対話が行われましたが、
ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。
【タイトルに関して】
・話を始めるにあたって、企画者に質問したいのですが…。言葉の整理だけしたいなと思いまして、テーマが「戦争と平和を考える」になっていますが、そこの「と」はどういう繋ぎで考えているのかお聞きしたい。何か意味を持たしているのか、意味はあまり無くて戦争と平和の両方を並列にするために使っているのか、その意図を聞きたいなと思います。要するに戦争の問題だけを考えているわけではなくて、平和の問題も考えたいという意図は何となく理解できるのですが、二つが対立している対の概念なのかそうでないのか今後の議論に関わってくるように思えますので、そこだけ説明して頂けると考えやすくなるかなと思いました。
・何も考えておりませんでした。本当に問いが立てにくいので、問いを立てた場合ある一方向性の立場からの問いというか、反語的な問いになってしまうわけです。「なぜ戦争は無くならないのか?」や「戦争はいけないことなのか?」というように、問いの立てにくい問題になってしまうので、基本「戦争について考える」というテーマだったわけですが、戦争について考えていくということは、私は対概念だと思っておりますが平和に関しても「どうやって平和を築いていくのか?」など色々なことを含めて考えていかなければならないというところで、今回のテーマとなりました。
・先ほど「なぜ戦争と平和の二つの言葉が入っているのか?」という話に関して、対義語としてテーマにしたとの発言がありましたが、私も参加する前になぜこの二つの言葉が今回議論されるのか疑問に思っていました。対になる言葉だとすれば、戦争ではない状態が平和であるもしくは平和でない状態が戦争であるということになると、では戦争になっていない場所が全部平和かというとそうではない。なので、これは明らかに分けて考えるべきであろうと思いました。そうすると議論が拡散してしまって、訳が分からなくなると思いましたので、私は今日は戦争についてだけ考えようと心に決めて参加した次第です。
【言葉の定義】
・冷戦は戦争状態でしょうか?それとも戦争ではない状態でしょうか?
・恐らく戦争状態とは、明確なコンセンサス(意見の一致。合意)が全人類もしくは全宇宙でされていないのではないかと思います。例えば500人以上お互いに集団で殺戮し合った争いが戦争ですという人もいれば、5人以上で殺し合って3人以上死亡者が出れば戦争だろうと言う人もいれば、H・G・ウェルズのように宇宙人が攻めてきた状態も戦争だと言う人もいると思う。そうなると他の生物との争いも戦争となると、今回のコロナも戦争だろうと思います。「ウイルス対人類」の戦いなわけですから、最初に戦争の定義を決めないと議論そのものが出来ないのではないかと思います。
・先ほど冷戦という言葉が出ましたが、もともと比喩的表現だったと思うわけです。つまり「Cold War」という、戦争が実際に勃発していないけれどもあたかも戦争をやっているみたいではないのかと、これが平和なのかと言って、まるで戦争みたいだが戦争はしていない形なのかなと思うわけです。先ほどのコロナウイルスとの戦争についても、それは比喩的表現としては使えると思うけれども、基本今日考えたかったのは「人間同士が大規模集団で戦う」というのを戦争として、近代以降は国家同士になりますが国家と言ってしまうと「内戦的な戦いはどうするのか?」ということになってしまうので、ある程度大規模な戦いというかそこは漠然としたものでしか言えないと思いますが、民族同士であるとか部族間の争いであれば該当するのかなと思います。暴力団同士の争いだと戦争と言う必要はないのかなと思います。定義は自由にしていいと思っております。
・戦争と平和について、昔読んだトルストイの小説のタイトルだったと思うのですが「深いな」と思いながら参加する前に考えていたわけですが、深すぎて定義できるものではないなと感じました。トルストイの小説は人間問題が主軸だったと思うので、人間の心を中心に考えたいということで今日参加した次第です。
・定義づけは難しいと思います。他の方も仰っていましたが、テロとの戦いや国家対国家以外の戦いについてどうするのかなど色々あり、また今回のウクライナの話にしても2014年から戦争ではないふりをして乗り込んでいますから、プーチン大統領も戦争とは言わなかったわけで、本当に定義づけしようとすると難しく、それこそ学者の中でも意見が分かれていますので、はっきり定義づけしてから始めるというのは困難だと思います。むしろ現実にあることとかをベースに話した方がいいのではないかと思います。
【フィクションとしての戦争】
・戦争は自分にとってどんなものか考えた時に、もちろん誰も殺されない平和な状態が良いわけですが、戦争映画やドラマとかそういったものに単純に魅力を感じてしまっている自分もいることを発見しました。
・戦争映画を観た時に面白く感じるという意見について、共感を覚えました。ウクライナ軍がロシア軍に対して攻撃を仕掛ける映像を観て自分も嬉しく思いながら、そういった動画をYouTubeなどで見続けているわけです。なぜそう思うのか考えた時に、そもそも我々人類というのは戦争に勝ってきた種族の末裔なわけですから、狩猟採取時代には死亡原因として2~3割は殺人だったり争いだった言われていますが、そういった中で生き残ってきた人類はいかに人からの殺戮から逃れるか長けた人間しか残っていないわけです。それは人間だけではなくあらゆる生物も同じですが、戦争を見て楽しく感じてしまうのは本能的にしょうがない、戦争は悪とか善とかそういうレベルの話ではないと思いました。
・フィクションとしての戦争映画やドラマ、文学などが面白いのは設定が究極の選択を迫られたりとか、ギリギリの状態に人間が置かれたりするからドラマとして面白くなるのは当たり前で、これが好きだから好戦的だとか戦争を肯定しているとかは全然言えないと思います。戦車を吹き飛ばす兵器の映像なども、映像として面白いということは言えると思うのですけれども、先ほど話にあった狩猟時代から我々が生き残ってきたのは戦争に勝った末裔だという意見は自分は違うと思っています。単純に戦争というのを武力の争いだとすると、人間というのは戦争を起こさない方法をそれぞれの時代において考えてきている歴史があるわけです。上手いこと戦争にならないようにできたという武力衝突を避けて来た人も残っているというふうに考えた方が良いのではないかと思います。
【戦争をなくすために】
・戦争と平和の関係について考えた際に、自分にはロシア人の友だちがいて、彼は2月24日から心を痛めていてチャットとかでやり取りしていますが、どんどん弱っているというか「こんなに長く続くとは思っていなかった」というわけです。自分は「早く終わらないかな」と思っていますが、戦争という定義がまさに難しくていつ終わるのか、また戦争が終われば平和が訪れるとどこか思っています。
・学校の歴史の授業とかで戦争について習ってきましたが、それはあくまでも歴史の授業の話でまさかそれが現実に起こるなんて思ってもいなかったので、最初にウクライナ侵攻があった時は本当に驚いて、そこからいろいろ考えるようになって、考えた結果この場にもいるわけですが、そもそも戦争はなぜ起こしたらいけないのかと考えたら、自分の理想を叶えるために武力を使っているのが戦争なのかと思いました。ただ武力を使うのは手段の一つで、理想としては対話でもって世の中の課題を解決しようとするのが一番平和的な方法かと思っています。そこを対話ではなく武力で解決しようとしているから戦争が起こっているので、戦争を止めるというのは人間一人の力ではどうにもならないですが、対話で人類の問題を解決していければ世の中上手くいくのかなと思っています。
・根本的な疑問として、戦争するのは人間だけであると言われています。もちろん動物の中でも争いはありますが、人間はこれほど叡智を持っているわけですが「なぜ対話で世界は平和にならないのか?」というのがずっと疑問でした。さらに自分の中で解釈が出来ていないのが、戦争の法律というものがそもそもの戦争のやり方を定義づけていることが、自分の中では理解できていないわけです。国連など世界を統一しようとする流れの中で、あまり機能していないのかなと思いました。人間同士の殺し合いというのは決して望むべきものではなく、どのような問題があったとしてもやはり対話で解決したいと思っております。
【戦争は悪か?】
・戦争がもし悪いとすれば、それはなぜなのか?それは人が死ぬからだと言うのであれば、戦争によって死ぬ人の数が少なくなればその戦争は正義なのか、皆さんのご意見を伺いたいなと思いました。一例を言うと、戦争が起こると自殺者が明らかに減るわけです。戦争によって自殺者が減ったら社会的に正義かどうかなど、どう解釈するべきなどお聞きしたい。
・戦争と自殺者の因果関係についての考え方は、非常に功利主義(行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用/有用性によって決定されるとする考え方)的で数を取って比較したらどちらという話になるとは思うのですが、それで戦争が善か悪かと議論したときに「そもそも善悪とは?」という話になる流れだと思うわけです。善悪の問題を考えるときに功利主義に考えるのか、宗教的に語るのか色々とありますが、善悪の深いところに入り込むとこれもまた抜け出せなくなると思います。そんなことよりも戦争は悪だと、人類の歴史の中で人類が培ってきた考え方であると、否定される方がもしいるとすればそれはそれで結構ですが、人類の歴史というのは戦争は悪だと少なくとも近代以降そういった考えに固まっていて、それはそれで前提として認めるしかないかと思いますが、いかがでしょうか。
・戦争をまず初めに始める人、それを受ける人がいる。最初に火をつけた人が悪いとなると、受け身の戦争は許されるという話を聞いたことがあります。しかし、それは果たしてそうなのかと疑問に思っていて、また代理戦争という言葉をよく聞きますが、それは正しい戦争なのか悪い戦争なのか時々気になります。
・今回のテーマについて考えた時に、人類が60億ぐらいいて国も200以上あって、みんなそれぞれ一人ひとり違うので国もそれぞれ事情は違うので波風が立たないことは全くないわけです。思想やら経済状態、民族や習慣など様々違うところで、そこで何か波風が立った時に戦うことや争うこと選ぶことと、平らに穏やかに治めていく、融和や調和といった方向が平和かと思っています。戦いや争いはどうしても他者を殺したり傷つけたり、あるいはその国の習慣やら民族やら破壊してしまうこともあるかと思います。自分とは違う、あるいはこの国とは違うものに対する尊重とか尊厳というものの考え方が低いのかなと思ってしまう平和の方で考えると、波風が立った時に相手は自分とは違う考えや感情を持っているけれども、そこを違うということを尊重して対話ですり合わせて解決していこうと他者への尊厳などを大切にするのが平和を考えることかなと思います。これは人間だけではなくて、例えば庭にハチの巣ができた時に駆除する考えもあるが、工夫して共存するように考えられるということもあるので、人間だけの問題でもなく自分とは違う人種とか植物なり動物なり、他者を同じ地球に生きているものとして生命の尊厳を人間と同等として考えられるようなところが平和に繋がっていくのかなと思っています。
・今の話は同感ですが、問題を解決する時に武力を用いるのか、それとも相手を尊重して対話をするのか。対話をした方が相互理解や協調とかになっていくとは思いますが、難しいのはお互いを尊重しないとダメで、片方だけでは成り立たない。武力だとこちらが一方的に侵略すれば、服従させられるのでそちらの方が楽というか、力を持っているのであればそちらを使ってしまった方が楽で自分の思い通りになると思うのですが、もし相手から一方的に武力とか来た時にどう対応するべきなのか。お互い対話とか、協調する姿勢とかあったから時間はかかるかもしれませんが話し合いで解決するのではないかと考えています。武力で来た時にこちらも武力で対抗してしまうとそれが戦争になってしまうのかなと思うわけです。
・ごくごく身近なところで言えば、日常生活の中で隣り近所で我が家の樹木がお隣の敷地の方に入ってしまった場合、あるいはその逆とかで迷惑しているといった時に、まずは話をします。勝手に枝を切ったりせずに話し合いになる。それくらいだといいのですが、何年か前にはご近所で十何匹猫を飼っているお宅があって家から自由に出して育てていたので、非常にご近所は迷惑していたわけです。町内の班でそのお宅に申し入れして、最初は戦うといった心持ちではなくてまず困っている状況を伝えましたが、結果その方は考えてくれなかったわけです。その後も改善されなかったのでどうするのか見守っていたら、町内会の会長から言ってもらうことにするなどいくつかの知恵を出し合ってやりましたが、それでもダメでした。その後も様子見をしていましたら、何年かした後突然その方が亡くなってしまってた。その件は一件落着となりましたが、やはりご近所のことを考えれば誰もお隣と争うといった考えを持たないのに、こちらの申し入れを聞き入れてもらえなかったという人もいるのですが、相手をやっつけるとか殺すとかいう状況が、どうも別の力が働いていて大きな戦争とか大きくなくても小さなところの内戦とかになっているのかなと思ったりします。
・よく戦争を無くすとかの話になると、コミュニケーションが大事であるとかお互いの相互理解が進めば平和になるとか、そういったことが良く言われるのかなと思います。恐らく人類の歴史から見ると、戦争行為とか人殺しによって死ぬ人類の割合は少なくなっているように思いますが、専門家ではありませんがこのままいけばあと一万年後には戦争が無くなる、人殺しも無くなるのでそのままにしておけばいいじゃないかという考えも一つあるかと思います。そんなこと言ってもしょうがないので、どうやったら平和な状態になるのか、平和な状態とは何かその定義の話になりますが、人殺しとかが無くなる状態がどうしたら早く来るのか考えた時に、そいうったロールモデルを探すということが大事になってくると思います。争いごとの無い社会はどんな社会か見渡した時にそれを目標にすればいいのではないかと思います。一つはボノボという小型チンパンジーがいまして、彼らはチンパンジーの中でもお互いに共食いをしたり殺し合わない稀有な類人猿だそうです。ボノボの習慣とかをフィールドワークで勉強して少し真似をしてみるの有りかと思います。
・正しい戦争とか功利主義とかにも繋がってくると思いますが、少し前に「やられたらやり返す。倍返しだ」という言葉が流行りましたが、それが流行ること自体が問題かなとこの戦争が起きている時に思いました。それだったら倍返しが続くわけですから、それはダメだと思わずにそのドラマが流行った日本は恐ろしいなと感じました。やられたらやり返すのが正義とする価値観が流行ってしまうのはどうなのかと疑問に思いました。
・結局は対話的なことを探求して、物理的に傷つけ合いことは避けた方がいいだろうという意見が非常に強いわけですけど、私は戦争するということはそういったことが面倒くさいと思っていて物理的に問題を解決する方が手っ取り早いということだと思います。問題の解決は今の倍返しではないですけど、物理的な対応でもって問題は解決すると信じている人たちが引き起こす現象かと思っています。ですから彼らは物理的に戦うわけです。最終的に殺し合いという状況にまでなるわけですけど、問題は話をすれば何とか解決の道を探れる、対話をすれば見つかると思っている人たちをも巻き込んでしまうという現象が一番問題かと思います。戦争がしたいのであれば戦争したい者同士がどこか迷惑をかけないで勝手にやったらというふうに思うわけですが、現実的にはそうではなくて法律であるとか徴兵制とかで、暴力でもって望んでいない人を暴力に追い込む動きをするわけです。ですから、私は暴力には限界があり暴力では問題の解決にはならないと世界中の人間が理解すれば戦争は無くなるのではないかというふうに思います。ただ、残念なことに暴力の方が手っ取り早く問題を解決すると、自分の欲求が上手く満たされると思っている人が多いので、まだまだ戦争は続くのかなと思います。
【ウクライナ侵攻について】
・今回プーチン大統領は突然ウクライナに攻め込んだ、つまり暴力を振るってきたわけですけど、彼の理屈からするとウクライナの東側の地域で、ロシア系の人々が暴力を受けているとしてそれを救いに行くという最初の理屈があったと思います。それが嘘か本当かは別に置いておいて一応の建前があるわけですが、それがプーチン大統領にとってはNATOがどんどん東に出てくるというのは、彼にとっては暴力を受けていると、あるいは暴力を受ける可能性があるという認識であったことは間違いないと思います。難しいのは果たして話し合いの余地があるような戦争の現場というのがどれくらいあるのか、それから話し合いとか理性というものにどれだけの信頼が置けるのかというのは、今回の戦争を見ていると悲観的にならざるを得ないという気がします。
・今の話凄く刺さったのですが、自衛のために暴力を発するのはいいのかという議論があって、先ほどの半沢直樹のセリフも自分を守るためだったら倍返しにしていいというのがとてもキャッチ―だったから周りに広がったのかと思います。日本は仇討の文化がもてはやされていたと思います。例えば、赤穂浪士もこの間の大河にあった曾我兄弟の仇討ちも正義があるように見えてしまう。現状で言うと、プーチン大統領の話も自分に自衛権があるように見せて正義として武力を行使する。日本の話になると尖閣諸島に中国が来る、北朝鮮のミサイルがたった7分で届くという距離感でも極端な指導者によって戦争が起こる可能性があるから芽を摘んでおこうという論法にまでもっていくことが可能だと思うわけです。ただそこまでもっていっていないのが日本で、これは穏やかな国なのか、それとも呑気な国なのかというのも考える余地があるのかなと思います。自衛隊の話は今考えるきっかけになっていると思っています。
・まずウクライナ侵攻は本当に戦争なのだろうか考えたいなと思いました。武力をもってその土地を自分たちのものにしようということは間違いないわけですが、例えば元寇は戦争とは言わないと思っています。近代ではないので戦争と言わないという言い方も一つはできるだろうと思いますが、それを置いたとしても恐らく元寇を戦争だとする考え方はしないと思う。あと豊臣秀吉の朝鮮侵略も戦争ではなく侵略と言っている。今回も戦争ではなく侵略のような気がしていて、戦争とは恐らく第二次世界大戦の時も宣戦布告をしたうえで、手続きに則って行うようなものが戦争なのかと考え始めています。平和状態ではない侵攻ですが、それでも戦争ではないような気もしています。だからプーチン大統領も戦争にしたくないから、戦争にしてしまうと恐らく第二次世界大戦の時のように色々なものが巻き込まれていって、それこそ第三次世界大戦になるのではないかと恐れがあるから、あえて戦争にしないようなやり方でやろうとして侵略になってしまっているのではと思っています。だから戦争と平和だけを考えていてもダメで、もう一つ別カテゴリーがあって、それも平和を乱しているという構造なのかと思いました。
・ウクライナ侵攻は戦争かという定義の話もありましたが、何か問題解決のために武力を用いたら大小関わらず戦争かなと思っています。今まで歴史を見ると武力を用いて強引に叶える方法がほとんどだと思うわけですが、現代であれば対話が平和的な解決方法というか血が流れたり命が失われない方法で世の中が上手くいけばいいなと思います。今の人類は協力して解決していかなければいけない問題が山積みなので、環境問題やコロナウイルスとか色々ありますけれども人類同士で争っている場合ではないと私は思っているので武力による現状変更は無くなる世の中になればいいなと思っています。話は変わりますが、どうすれば戦争は無くなるのかと思った時に、例えば日本は今戦争が起こっていないことを考えると、日本政府があって国民は銃とか武器を持てないので、反乱を起こしても警察がいて、世界には国家はありますが世界政府のようなものは無いので机上の空論なのは承知してますが、仮に世界政府のような組織が樹立したら平和になるかどうかは分かりませんが、武力による現状変更は少なるなるのではと思いました。理想というか妄想ではありますが、そうなったら平和になるのかなと思います。
・戦争や紛争を無くすには、きっと世界中のだれもがプーチン大統領さえも世界を自分なりの見方で平和にしたいとそれぞれの立場で思っているのではないかと思っています。なぜなら自分の考え方は正しいというふうに思っていること、相手の考え方を尊重することができないから、結論で行くと自分自身の考え方に固執してしまって自分を変えることができない。その小さなものが積み重なってゆくゆくは国の考えになり、世界の紛争を招いていると思っております。結論は自分の中では一人ひとりの意識を変えないと世界は変わらないと思っています。
・今回のウクライナ侵攻が戦争かどうかというのは、これは戦争だと断言しなければいけないと自分は思っています。明らかに侵略戦争です。例えば、戦争というのは少なくとも近代以降我々人類の中でも「悪だ」と「やってはいけない」ということに基本的にはなっています。国際法の中で自衛のための戦争は良いとかありますけれども、基本的に戦争は悪だという考え方を世界共通の考え方として人類は打ち出してきた。それに対してプーチン大統領は「戦争をした」と言うと自分が悪者ということになってしまうので、「戦争はしていない」と「軍事行動だ」と言っているわけですけれども、これは別の形の戦争だというふうに断罪しなければいけないと思います。戦争の形はよく報道もされているのでご存じだと思いますけれども、大きく変わってきてかつての宣戦布告をして始めるような戦争ではなく、今回のウクライナ侵攻も宣戦布告もしていないので、その前ロシア連邦がウクライナに押し入った時も宣戦布告しておらず、していない戦争が最近多い。それからテロ対国家権力という戦いもあるので従来の形と変わってきている認識は共通としてあると思う。戦争は時代とともに変わるが、新しい形の戦争としてそれを糾弾しなければならない。プーチン大統領は糾弾されなければならないというのが私の意見です。それが何に基づいているかというと、人類の合意ということになるわけですけれども、人類の合意と言ってもそれは実際に人類全員が手を挙げて合意しているわけではなく、単に国際法がそうなっているという話でしか言えなくなっている。国際法の中では例えば、武力による現状変更はよろしくないというのはその通りだと思います。しかし果たして全面的にそれが正しいかと言うと、例えばある少数民族がある国家の中で虐げられている状況において、そこが独立して主権国家になるということを認めないのかというと、そういうわけにはいかない。それを認めるとすると、武力による現状変更というものが有りということになる。そのように単純に割り切れる話でもないと思いつつ、何が言いたいのかと言うと「あれは戦争だ」と、「断じて戦争だ」ということです。
・先ほどの発言にコメントしたいのですが、自分は「戦争だ」と言い切ってしまうことで「それはダメだ」というのはあまり力にならないと思っています。なぜかと言うと、プーチン大統領はその土俵に乗ってこないので結局のところ話にならないと思う。戦争だからダメなのではなくて武力行使自体がダメだと、そのような侵略の仕方自体がダメだということです。プーチン大統領のやっていることは「戦争ではない」と言っていたり、ほとんど言葉遊びだと思っています。その土俵に乗ってこない者に対して言葉を加えていっても、あまり武器にならないような気がしています。単にプーチン大統領は否定して、へそを曲げるだけな気がしてならない。彼自身が言っていることに対して、それ自体がダメだという言葉を待たない限り、説得することは少なくとも出来ないだろうと思います。さらに似たような手はどんどん出てきてしまうだけなのではないかと思います。なので彼がやったことが絶対的に悪であるかどうかという言い方で聞かれたら、もちろんそこは先ほどの方の意見に同意しますが、「戦争だからダメだという言い方ではない何か」というのを考えられるのではないか?ということは少し追求する価値があるのではないかと思います。
上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。
最終的な板書はコチラ↓
次回のてつがくカフェは、
7月16日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。
テーマは「恋愛のカタチ~幸せのあり方を考える~」です。
なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、
マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。
また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、
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会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。
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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。
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