てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま報告2023.1.21.「日本人とは何か?」

2023年01月30日 19時52分04秒 | 定例てつがくカフェ記録
1月21日㈯に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には8名、オンラインでは7名の計15名の方にご参加いただきました。






「日本人とは何か?」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・このテーマですけれども、本日は「日本人とは何か?」という去年の2月にですね、皆様からいろんなテーマを出していただいた時に出た案の一つだったかなというふうに思っております。「日本人とは何か」っていうちょっといいテーマがうまく思い浮かばなかったんですよ。日本人について考えてみたいなと言うことです。まあ、日本人という定義の問題もあるかもしれませんし、それとは別に日本人の特徴みたいなことになるのかもしれません。ただあんまり特徴というのも結構イメージの話になっちゃうかもしれませんが。それも含めて皆様の日本人に関するイメージで、そういったものから話し始めて、何か考えが深まっていけばと言うふうに思っております。それでは、ここからは皆様がご自由にご発言いただきたいと思いますので、発言ある方は挙手ないしはお声がけお願いいたします。

・初めて参加させていただきました。私この会合に参加させてもらった理由の一つは、日本人の考え方の一番低い部分というか、底流にあのどういうものがあるのかなっていうふうなことに、興味を持って参加しました。それで、私が考える日本人のその考え方の部分の特徴の一つは、自然との何とか融和性が高いんだなあっていうふうに思います。なんでも自然の大きな岩とかあったりすると神様にするし、石ころでも神様にするしで。人によっては、資本主義の国の中で、そういう自然崇拝があのアニミズムとかいう人もいるだと思いますが、そういうものを色濃く持ってる。人種っていうか非常に稀だっていう風に言う人もいますね。これからの平和とか、それから人間以外の命とか、そういうこととの関わり。こういう考え方ってある面でこうなんかちょっと遅れたように思われるところもあるけれども、でも結局は一周遅れのトップランナーみたいな。これから必要となるような考え方を私たち日本人というのは持ってて、それを意識して大事にしていくっていうのが、もしかしたら必要になるのかなというふうな、そんなこと思って今日、他の方の考えとかも伺いたくて参加させてもらいました。

・日本人っていうのを意識するときに、私は海外で一ヶ月ぐらい旅行したことがあるんですけど、ヨーロッパをずっと。日本じゃないと知れない文字であったり、言葉であったり、まあ文化ですね。日本人っていうのは他社と触れることで違いが知れたってのが私の経験であって。それって日本じゃなくて、日本国内でも他者と触れることで違いが向きだつというか。私は東京の大学に行ったいましたが、東京に行くと方言をすごく感じるようになるんですよ。福島県にいると感じなかったことが他者との交流で強く浮き出す。なので、日本人とは何かと考えた時は他者と何かとの違いによって浮き出すことが多いんじゃないかなと。自分の中で考えて思いました。

・ この間のワールドカップとかで、日本人のサポーターが観戦後にスタジアムのゴミを持ち帰るというのがあって。ラグビーだったり、サッカーだったり、国際的なスポーツの観戦において、日本人のマナーが良いということで海外のメディアに取り上げられたというようなことがあったと思うんですけど。そう言った時に、海外との対比というか、日本人のモラルというかマナーというか。そういうものが海外とは違うんだというのが浮き彫りになっていて面白いかなと思いました。あとは、日本人は拾った財布を警察に届けるとか、震災の時も列を守ったりいうようなことが、海外から称賛されていたりというようなことを聞いたことがあるんですけれど。それって日本人の何か文化というか、これまで形成されてきたものとして、それが形になって現れているのかなということを思った次第です。

・前から不思議に思ってるんですけど、あのワールドカップでゴミとか拾うじゃないですか?あれって「あれだけだよね」と思ったんですけど。日本人はゴミ拾うというそんな文化もないし、拾ってる奴は日本の中で見たことない。野球場なんか行ってみてもゴミなんか拾った奴を見たことない。だから、サッカーとかそれぐらいで、なんであの人たちがやってんのかなって僕はすごく不思議で。僕はあの日本人じゃないと思ってるんですけども。皆さんはちゃんとどっか行ったらをゴミを拾っているのかというのを聞きたいです。

・例えば、今ワールドカップのゴミ拾いとかが出たんですけども。それは本当に日本人なのかなってよく分からなくて。例えば在日の方も一緒に行っていて、その人たちは例えば同じような行動した時に日本人と言われてしまうことをどう思うんだろうとか考えた時に。今出てきたような話の多くは日本で生活してる人であれば、なんとなく癖になってしまっていることであったり。あるいは日本で生活することによって、そのようなことをするのが、なんとなく自然になるものであるのは事実だと思うんだけれども。それを日本人と言ってしまうことで、国籍的に見たときに、日本人とは言われない人から見た時にどのような捉え方がされるのかなと思った時に、あんまり日本人という言い方をしてしまうのは、僕はあの好まないなと思いました。だから逆に「日本人とは何か?」といったら日本のパスポートを持っていて、国外に行った時に何かやらかした時に外務省がとりあえず何か対応してくれる人が日本人で、それぐらいの意味があるなと思うんですけれども。その意味では、少なくとも間違いなく日本人と日本人じゃないものっていうものははっきり分かれると思うんですけれども。それ以外のところで、それは本当に日本人と言ってしまっていいんだろうかってに関しては、ちょっと慎重になりたいなあっていうのが率直な気持ちです。

・今の話と大体関連するんですけど、要するに日本人と言った時の基本的な枠組みを形式的かもしれませんが、押さえておくことも大切かなと。今国籍という言葉が出てきて、日本国籍を持つということがもう一つ押さえておくべきことかなと。それで、あと日本国憲法について。日本は政府がということでしょうけれど、国民の生命財産を守ると、要するに国民と言った場合、日本国民、日本人の生命や財産を守ると。だから思うのは、外国でいろんな事件とか紛争が起こって日本人が巻き込まれた時に、外務省がすぐに日本人の被害を受けた人がいないとか、犠牲者がいないとかっていうことが話題になる。これも要するにかなり自己中心的というか。他の例えばアラブ地域で日本人が事件に巻き込まれて、被害を受けるとか受けないとかあったら、それは日本国憲法の保護するというのはその通りなんですが。他の国の人たちについてはあんまり関心がないのかなとも思う。人権という点から、普遍性ということで考えた時にやや自己中心的かなという感じは受けてるんです。それと、もう一つはこれらの天皇制の問題とも絡んでいて。要するに、日本国憲法で天皇という立場は、日本国および日本国民の総意というか。あるいは日本国民の象徴ということですよね?そういうことは、普段我々はあんまり日常的に意識してないんだけど。こういう憲法の点からいうと、そういうことで縛られているのかなというふうに思ってるんです。だからまあ日本人といった時に、思いつきですが一つは国籍。日本国籍を持っているのが日本人で、それと憲法で国民として認定・認識されている人たち。それから、その憲法が規定している天皇制の問題。無意識的意識的にしろ包含されている国民・人間ということ今思ったんです。

・報道はあまりされないのは、他の国の人は日本はやっぱり単一民族でよく言いますよね。他の国の人もいるけど、ほぼマジョリティーは日本人。そうすると、それにこう比べて、例えばカナダとかアメリカとかほとんど移民でできた国なんですよ。フランス人もいれば元日本人もいる。そういう意味でそれを報道しないとするのが当たり前っていうのが、他の国からすると。だから、そうすると例えばフランスの犠牲者は何人とか、そういう言い方をするんじゃないかと思うんで。そういう意味で単一民族の国っていうのは(国際的にも)非常に少ないんじゃないかと思いますよね。それと同時にさっきちょっと、こういうのは面白い例もあると思ったんですが、例えば海外のレストランに行くと。その時に皿が出てきたりすると、特に女性の場合なんだけど、まとめてこっちに置いたりとかね。いかにも便利なようにウェイトレスの人が下げたり、また今度持ってきたりする時に、そういうやり方をするんだけど。多くのウェイトレスは「それは失礼だ」「私たちの仕事だ」と言ってね。「そんなことやるくらいだったらチップおいとけ」と言うんですよね。それだけにかかわらず、特に日本の一般の人っていうのが、相手のことを考えているようだけど、それは私がっていうことを中心に考えて、あんまり相手のことを考えてないんじゃないかと。でも、まあ、私がこうしてほしいってことをやる。それが良い事も分からないけど、相手には通じないってこともあるのかなと。

・ 先ほどの報道の件で、日本人の被害が出ませんでしたということに関して、若干国の肩を持とうかなと思ったんですけども。外務省の仕事としては国民の保護っていうのが多分仕事なので、外務省自身がその保護しなきゃいけない人がいるかどうかって、何かあったときに調べるのは仕事だし。そういうことをしましたっていうのを外務省が発表するところまではやはり必要なのではないかなって気がして、僕は見てるんです。ただ、それをニュースとかで大々的になんかあたかも「日本人の人はいなくて良かったね」みたいな感じで報道することは、仰る通り「どうなの?」って思うところがあって。なので、これは国の問題ってよりは、むしろ報道側の姿勢の問題だなあと思っていました。

・国籍の話が出まして、後は単一民族という話も出たので。ついでに言っておくと日本は本当に難しい問題を抱えていて。僕はこの問題を考える時に真っ先に思うのが、在日コリアンの皆さんのことを考えたんですけども。国籍は持っていない訳ですよね、帰化していなくて。でも、もうずっと日本に住み続けざるを得ないっていう。多分、それは私たちが強制連行して来たからなわけですけれども。それに対する今、ものすごいバッシング的な事が行われている。ああいうことをバッシングするのも多分日本人だなあ、すごく日本人らしいなというふうに思うところがあるのと。逆に、例えばアメリカで、先ほど移民の国の話になりましたけども。黒人の皆さんに向かって、「アフリカに帰れ」とかっていうそういう差別はありえないじゃないですか。黒人差別が実際あって、今でもまだ残っていると思うけども、「アフリカに帰れ」とは言わないと思うんですよね。そこらへんでやっぱり、それはあくまでもちろん国籍を持ってるからってのもあるんですけれども、国籍は持たないけど、日本に住んでる人っていう問題っていうのを。「あなたは日本人じゃないよね?」って。この問題を考えた時にすごく、喉に骨が刺さってる感じがするという気がします。

・今の話に関連して質問なんですけれども。トランプがメキシコからの移民に対して「メキシコに帰れ」みたいな、ああいうことをやっていたのは、彼らは自発的にアメリカに入ってきたっていう意味では、日本の場合の在日朝鮮人、韓国人の問題とは若干違いはあるけれども。ただ、構造的には実は同じようなところもあるのではないかなと思っていて。なので、何かそのネイションというか国というものを重々しく考える人にとっては、何か共通のやり方なのではないかというような感じがするんですけど、その辺いかがでしょうか?

・今の点に関して言うと、ちょっと僕の中で全然まだ整理がつかないんですけども何かが違う気がする。というか、まあそれで言うならば、日本はそもそも今もう移民をほぼほぼ受け入れてない、受け入れないようにしている。それは世界でも本当に少数派に入るトップクラスの移民を受け入れない国ですよね。それで、そこはなんというか、単一民族というのは僕は嘘だと思うんですけれども。すごく同質性というか、「みんな日本語喋るでしょう?」みたいな。そういうなんて言うか。帰化するのも条件が厳しいのもそうなんですけど。「日本に溶け込むことをもってして日本国籍を与えますよ」みたいな。そういう所があって、日本人になるみたいな。アメリカとかが「アメリカ人になれ」っていうのは、やっぱりアメリカ国籍を持つことによって、アメリカへの所属というか忠誠心っていうのがあるんだけど。なんかそれと違うレベルで日本人的な感性じゃないけど、考えとか「そういうものをも含めて日本人になってね」みたいな。なんかそういうようなところが単なる国籍問題にもそこがなんか含まれてしまっていて。ごめんなさい、今の移民の話で別ですね。移民の話とちょっと別だけども、そういう外から入ってくる異分子に対する排他性というのはとりわけ強いというか、感じはしなくもないというところですかね。

・今話を聞いていて思ったんですけど、近代国家というかその国籍問題が出る前は、昔朝鮮からの技術者がいっぱい入ってきて、もう天皇もあちらの人だっていう話もあるので。まぁ遠い昔はそういう技術が朝鮮からいっぱい入ってきて、混ざって今の日本人も単一ではないですけど、最近その在日の問題はやっぱり国家とかね。そういう国籍というのがきちっと決まっているから未だに残っている問題なのかななんて、今の話聞いてて思いました。

・「日本人とは何か?」と考える場合に形式的に日本人を規定するのは、やっぱり国籍なのかなと思うんですよ。ただ、それとは別にやっぱり住んでる所で考え方がとてもこう違うというか、バリエーションがあるなと感じています。最近一番衝撃的に思ったのは、ロシアのウクライナに侵攻した時に、日本人のほとんどは「とんでもないことだ」というふうに思ったんではないでしょうか。「ロシアが悪い」「侵略だ」と。でも、国連の場で採決なんか見てみると、かなりの国がロシアに対する経済制裁なんかもを保留しているし、南アフリカ共和国なんかも制裁に加わってないですね。こんなに大きな考え方の違いが住むところによって違う。なんでだろうと思うと、例えば南アフリカ共和国はアパルトヘイトという黒人隔離みたいな政策の時に、それに反対する人を支援したのがソビエトだったんですね。そういう経緯がある。あるいはインドなんかだと、かつてヨーロッパが今は人権を大事に言ってるけど、2~300年前は酷いことやってるわけですね?インドを収奪するだけ収奪したという。そういう歴史があるので、やっぱり住むところによってこれだけ大きな考え方、日本人から見るとロシアのウクライナは勝手で絶対許されないと思ってることが、世界の中の全ての人がそう思ってるわけじゃないというのはとても衝撃を受けました。「日本人とは何か」という特定はできないけれども。考え方は日本人の日本人じゃないところで、白か黒かの違いぐらいがあり得るんだって感じをしています。

・先ほど世話人から話があった単一民族というのはちょっと疑わしいという話で。そんなはずじゃないとおっしゃって、私もそんな感じがするんだけど、要するに単一民族、日本の場合は民族的には熊襲(※南九州に居住した種族)もいたでしょうし、アイヌ民族だってそうだし、沖縄の人たちだって全く人種的に大勢である日本人とちょっと違うかもしれない。それと歴史を辿るば、三~四世紀から五~六世紀にかけて、朝鮮の方から朝鮮の人々いっぱい入ってきた、新しい文化文明を持って入ってきた。仏教なんかもそうですよね。にもかかわらず。単一民族というような話が出てくる。大和民族という捉え方ができる。出てきてしまうんだけど、これは私の思いつき的な意見になるけども。どうも西洋を中心に考えると、キリスト教という絶対神を信じるということで、王権と二つに分かれてきたんですけど、日本の場合はそうでなくて。古事記とかそういうこと考えると巫女みたいな、天皇が神であって。また武力的にも王権的にも一緒になっていた。今もそれ引きずってると思うんですけど。そういうことで。民族的には単一民族、純粋民族として考えたいというそういう根っこの精神的な記号的な流れがあるんじゃないかなと。天皇制が宗教的な意味で神みたいな形を纏って。それからあの王権的に武力的にも武家政治が始まる前まではそういう形だったんだと思う。そういう歴史伝統があって、民族的には純粋である単一であるというふうに考えてたがる精神的な流れがあるんじゃないかなと思うんです。

・日本人がそういうところがある可能性ももちろんあると思うんですけども。でも、同じようなのは多分ナチスドイツがやってたことも多分同じで。美しきアーリア人みたいなことを訴えて、それでそれに対して最も反対にあるユダヤ人をその排除していくっていうようなやり方っていうのは構造的には一緒じゃないでしょうかね。だから、何かその自分たちの国、あるいは自分たちのまとまりの正当性を認めようとするときに、認めさせようとする時に、あるいは何かを同質なもので集まろうとするときの最もパワフルなロジックとして同じことをやってるだけに過ぎないんじゃないかという気もします。

・先ほど宗教の話が出たので、私は日本人の宗教との関わりはすごくユニークだと思っています。大体仏教の文化が根強く残ってるんですが、西欧の人がキリスト教を信じるような厳密さはあまり無いというか。神頼みもするし、お盆とか供養もするし、そういうふうにするんだけども。本当に宗教として信じているかっていうと怪しい。日本はかなり特徴的なことなのかなと思って、それが強みであるのか弱みであるのか分かりませんけども。とても日本人の仏教、宗教、特に仏教に対する感覚というのが緩やかで、私は良い所もあるんだと内心思っております。

・宗教のことなんですが、この2~3日前にドイツに行ってた人と会ったんですよね。それで、彼女はいわゆる今回のコロナのいろんなこう問題で、ドイツ政府が来た人には金をあげるとかで。それで「アプリケーションフォームを書け」と言われた時に、やっぱり「あなたの宗教は何ですか?」という質問があったらしくて。彼女は「別に宗教があるわけじゃない」とそこの返答しなかったんですよね。そしたら出なかったっていうの。だから、ドイツではそれぐらい宗教に関して、キリスト教がほとんどだろうけど、それぐらいこう宗教っていうものが政府の方針っての生き方っていうのに関係してるんだと。それを比べると日本は返って、ひょっとしたら「日本人の生き方ってなんや分かりません」みたいな感じがずっと言ってて、「それでうまいこといってるじゃないけ」みたいなとこもないんじゃないかっていうのが僕なんかのスタイルですよね。

・先ほどの方が日本人の宗教と非常に世界的に特徴的じゃないかと最初に発言された時、アミニズム自然崇拝だとかという話がありました。私もそう思います。ただ。そういう風になってきたのはやっぱり地球を俯瞰した時にやっぱり置かれた位置ね、アジアの端っこに位置している日本列島。それで自然の影響はモンスーン気候で。非常に四季がはっきりしている。そういういろいろなことから自然というものに対するまあ恐れもあるし、崇拝もあるし。ということで出てきたんだと。特に、例えば山だとか山腹にある石ころね。あんなものも神様として、しめ縄で巻いて拝んでいるんですよ。たぶん、ああいうのって、あんまり世界的に見てないんじゃないかと思う。そういうのは何で出てきたかっていうのが、今すぐには思いつかないんですけど、まあ、そういうことで。トータルに考えると地理的な置かれた場所、気性的なものとか。あと端っこにあったということで。やっぱり世界的に交流が少なかったんじゃないかと。というようなことで、要するに独りよがりというか、自分の殻に固まっている。そういうようなことがあって、単一民族とか我々純粋な民族だよとそんなことを考えて上がってきたのかなと思ったんです。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








次回のてつがくカフェは、

2月18日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは当日の話し合いで決めます。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

該当記事の「Zoomミーティングに参加する」の下の

URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。

会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


てつがくカフェ@ふくしま Twitter

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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2023.1.21.「日本人とは何か?」

2023年01月08日 11時24分00秒 | 開催予定
「日本人はみんな親切で正直だ。何をやるにつけ、信用ができる。そのため自然と日本人が好きになった。こんな人たちを作り出している日本という国は、一体どんな国だろう?一度行ってみたいものだと思い始めた」チャールズ・チャップリン

てつがくカフェ@ふくしま2023.1.21.
【テーマ】「日本人とは何か?」
【日 時】2023年1月21日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料 (飲み物は各自ご用意ください)
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/87603914629?pwd=U0h2M1NTYVl5aHlSTmZJWnBNZTlRdz09

        ミーティングID: 876 0391 4629
        パスコード: vSa4KA
        
【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp






今回も参加者の方からリクエストいただいたテーマとなります。

奇しくもテーマと同じタイトルの本※もございますが、
※山本七平著『日本人とは何か。』PHP文庫、1991年。

その本のことについての話ではなく、

日本人とは誰のことを指しているのか?

私たちのルーツはどこにあるのか?

一体何者なのか?という問いになります。


精選版日本国語大辞典で「日本人」と引くと下記のように解説されております。

1.日本国の人。にっぽんじん。

2. 日本の国籍をもつ人。現行の国籍法では「日本国民」という。
  ※国籍法(明治三二年)(1899)一条「子は出生の時其父が日本人なるときは日本人とす」

3.アジア系黄色人種(モンゴロイド)の一つ。皮膚は黄色。毛髪は黒色の直毛。目には蒙古皺があるものが多く、虹彩の色は黒褐色。幼児には蒙古斑(児斑)がある。言語は、多くの方言を持つが単一で、日本語。日本の土地での人間の居住は数十万年前にさかのぼると考えられている(明石原人)が、石器時代人骨の研究から縄文人はいまの日本人につながる要素を持っているとする。日本人の構成には、北方、南方の要素がみられ、広く東洋各地からの渡来混合が考えられる。人類学的に、アイヌ説、コロポックル説などの先住民族説があったが、最近では石器時代から継続するとの説が強い。



上記の通り、大和民族やアイヌ民族、琉球民族といった

日本列島に居住する民族を血統に持つ人や

日本国の国籍(日本国籍)を持つ人といった

定義や分類がされております。


2022年2月に総務省統計局が発表した人口推計のデータでは

1億2283万4275人の方が日本に住む日本人であり、

また日本国外に居住する日本人(日本国籍)の方の数は、

2021年の調査では135万7724人と記載されております。



言語、宗教、身体的特徴、民族の形成、系統、認識、歴史など

あらゆる角度から語れるテーマだと思いますので、

ご興味のある方はぜひご参加いただければ幸いです。



「てつがくカフェ@ふくしま」とは、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えるといった参加の仕方もあります。

当日集まった参加者の皆様と一緒に

じっくりと「日本人」について考えていきたいと思います。



なお、今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加の方は、お申し込みは不要ですが、当ブログに掲載されております、

「てつがくカフェ@ふくしま」当面の開催方針(2020年7月10日現在)】に従い、

マスク着用等のルールを守ったうえでご来場いただきますようお願い申し上げます。

第八波なのかまた感染者が増えてきているようです。

当日ぎりぎりの判断で全面 Zoom 開催に変更することもありえますので、

当日お出かけ前にこのブログで開催方法変更が告知されていないかお確かめの上ご来場ください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、

上記の「Zoomミーティングに参加する」の下のURLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。



「てつがくカフェ@ふくしま」は

国籍が日本の方でも外国の方でも

誰でも気軽に対等に、

安心して何でも話し合える場です。

初めての方でもお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2022.12.17.「人に迷惑をかけてはいけないのか?」

2023年01月02日 02時09分34秒 | 定例てつがくカフェ記録
12月17日㈯に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には6名、オンラインでは8名の計14名の方にご参加いただきました。






「人に迷惑をかけてはいけないのか?」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・「迷惑」と言った場合に家族以外の人に使っているのかなと。例えば、家族だったら「お父さんそれ止めてよ!」「お姉ちゃんそれやんないで!」とかその場でやその後で言いますが、家族以外の御近所とかそれ以外の他者に対して、何か自分が不快だと思うことが起こった時に、「あぁ迷惑だな」というふうに思うとすれば、直接その他者に「それ〇〇だから止めてくれない?」「止めてもらえませんか?」とか言えなくて、自分の中の心のモヤモヤというのが「迷惑だなぁ」という言葉で捉えられるような感情なのかな、どうなのかなというふうに思いました。

・私が最近迷惑だと思ったのは、環境活動家の方がゴッホの『ひまわり』や『モナリザ』だとかの絵画にスープをぶっかけたりして、自分たちの環境活動を主張して逮捕されたというニュースを見た時ですね。自分は名画とか美術品が好きなので、ガラスケースに守られていて額縁とかの被害で済みましたが、それらの美術品が今後見られなくなるということはなかったにしろ、もし万が一今後それらの絵画が二度と見ることが出来ない、鑑賞する機会を損失するということになったらと考えると、これは本当に迷惑だと思いました。正に人類にとっての迷惑行為になるんじゃないかなと最近のニュースで思った次第です。

・そうですね、取り敢えず何を「迷惑」と思うかというのを意見として出してみるのもいいですね。

・今の話の例だと、迷惑を通り越してやってはいけない行為の域ですよね。それで、今思ったのは迷惑というのは何か自分で「惑う」訳ですよね。字にも使われていますけれども。どうしたものかと。何かそのやっては駄目では済まされない部分をもっている行為だったり、物事だったりが「迷惑」だと思うのでしょうか?

・先ほどの方が言われた迷惑もあるし、それこそ自分に迷惑がかかっているのか、かかっていないのか分からないように見える迷惑もあるし。その迷惑が明日になったらプラスになっている迷惑もあるし、割とその人の感覚で迷惑という言葉が使われているんじゃないかと。それとやっぱり面白くなかったら面白くないというべきですよ。それが何か相手を傷つけるとか、お互いの忖度というか、ここの対話みたいなもので別に喧嘩している訳ではないけれど、ただ多くの日本人というのはそういう具合に、ある意味では(「迷惑だ」と)露骨に言われると腹が立つみたいな人がいるのは確かですよね。

・「迷惑」といって一番思いつくのは、誰かに意図的に嫌がらせを受けるとかいう側面の迷惑と、あとは本人ではなく偶発的に発生してしまった迷惑というふうに大きく分けられるのかなと思ってはいました。意図的に迷惑をかけるというのは、勿論犯罪にも繋がったり、他人に不快な思いをさせる側面があるんですけど、偶発的に人に迷惑をかけてしまうのは先ほど仰られた方の様に、人の成長に繋がる部分もあったりするなと感じました。

・(迷惑が)偶発的にたまたまそうなってしまう。これは一番最初に出た人によるという事と関係があると、つまり、主観的な受け止め方の問題ということなのか、それとはまた別の意味のことなのか。

・例えばですけど、人は生まれてから死ぬまで色々な成長を繰り返しますけれども、迷惑と捉えるかどうかというのは、ちょっと置いておいてもらって。

・今ここで人に迷惑をかけてはいけないということで、結論として自分はそうではないと、絶対にそうではないと言いたいと思っています、人に迷惑をかけるのも致し方ないと思っています。何故かというと、例えば誰が迷惑をかけるのかの「誰が」というところを考えた時に、成人した大人だけではなくて、生まれたばかりの赤ん坊とかですね、あとは年を取って痴呆症や認知機能の障害のある高齢者の方。そういった方を想定した時に、例えば赤ん坊が公共交通機関の電車とかバスで隣の席で大声で泣いてしまった時に、周りの人にとっては迷惑だということですけども。でもそれって本当にやってはいけないことなのか、迷惑をかけてはいけないことなのか、その赤ん坊に対して言えるのかというところで、必ずしもそうではないなと。まぁあとは認知症とか患っている方で、介護してくれているのがお子さんと仮定した時にその子供さんに対して、自分の子どもだという事が分からなくて、暴力を振るってしまったりとかってことがあった場合、それって絶対にやってはいけない、高齢者に「貴方おかしいよね」と言えるのかと、必ずしもそうではないと。というと絶対に人に迷惑をかけてはいけないのかというと程度による、状況による、もしくはもっと他の理由によるんじゃないのかなというので、結論としては繰り返しますけれども、人に迷惑をかけてはいけないとは必ずしも言えないと思っております。

・今日の問いに対する結論的なこととして、やってはいけない訳ではないというか。やっても良い、(迷惑を)かけても良いと。かけざるを得ないだろうということなのかなというふうに思います。先ほどやってはいけないことという言葉を使っていた方がおられましたが、やっぱり「迷惑をかける」と「危害を加える」というのは別物であって、危害は加えてはいけない。その場合の危害というのが生命、身体、財産ですね。これらに対して危害を加えてはいけないというのは当然やってはいけないことで。禁止されるべきことで法律的にも罰せられることですけど、迷惑はそういう意味では危害まで及ばない限りは法的な意味で罰せられたりしなくって。それはすべての人間がかけたりかけられたりということをやっているのかなというふうには思います。それで、迷惑かけずに生きていくことがそもそもできないのかなとは思いますけども。「危害」という言葉と「迷惑」という言葉を完全に混同している日本人はすごく多いかなと自分は思っているところです。

・以前ある世話人の研究室が地震でぐちゃぐちゃになった時に、片づけを手伝ったことがあるんですけれども。その地震の前にも研究室に行くと机とかの上に資料だとか講義のレジュメだとかが散乱していた時があって、「それ片づけましょうか?」と親切心で言った時に「分からなくなるからそれはいいよ」という事を言われたんですね。それで、地震があって片づけを手伝ってくれと言われた時も、前と同じく机の上はぐちゃぐちゃな状態だったので「片づけを断られた時と何が違うのかな」とモヤモヤしつつ手伝いましたけど。その世話人的には「どこに何があるか分からなくなるから片づけないで欲しい」と。それで、片づけようとする自分の行為が「迷惑」だったのかなと今になって思うんですけども、今日はその辺りを本人からご意見いただきたいなと。

・何を言い出すんだと思いながら聞いていたんですけれども。えっと迷惑ではない、逆に言うと自分の部屋が汚いというのは、今なんかこの間の地震以来ずっとだからもう半年以上ですけども。途中まで片付けようとして一旦、中の物を廊下に出して今そのまま廊下に出した物が並んでいて本当に迷惑かけているなと思ってはいる感じですけれども。それは置いておいて、常時私の研究室は汚いんですね。それは片づけることが出来る人がいて片づけてくれるのであれば、それは私にとって大変ありがたいことですが、それは結局私が付きっきりでないと分類とかなんとかそういった事が出来ない訳だから。つまり私がいないで片づけることは出来ないと思うんですね。なので、迷惑ではない。ただ「出来ないよ」と言っただけの話で。「無理だよ」と。自分の事を全く無視して、自分の分類だとか整理したいという自分の頭の中の理想を無視して誰かが勝手に片づけてしまったり、今頃学部類長とかが研究室に入って片づけられでもしたら、それは自分だったら「迷惑」と言わないで、「危害」だというふうに言うかなと思っていて。それは迷惑ではないというか筋が違うような気がしていて。迷惑論とはちょっと違うような気がします。

・今のお二人の対話を聞いて、一方は親切心とか気付きで「片付けた方がいいかな」と思われたのかなと。それを「片付けましょうか?」と素直に表現した時に世話人には世話人の事情があって、一方の行為ともう一方の状況が合致しなかっただけなので、それを迷惑だというふうに考えなくて良いんじゃないかなと思います。その需要と供給じゃないですけど、合致しなかっただけなので、それを迷惑というふうに捉えるのではなくて、さらっと流せるような感覚になるといいなとは思います。ただ日本人は割と小さい時から「迷惑をかけるな」と、迷惑という言葉が頭に入っていたり、身体に染み付いていたり。そういう「迷惑」という言葉が持っている雰囲気が自分の中に出てきて「あぁ迷惑なんだな」「迷惑かけちゃったかな」「余計な事言っちゃったかな」とか思うのかもしれないんですけれども、そんなことは全然なくって、全然OKだと思います。

・今の話を聞いていても「迷惑」って先ほどの方が言うにはそういう事では無いんじゃないかと言うんだけど、そうじゃないかなとも思いますよね。「それぐらいの事だったら、自分の生活にそんな気にもしないでいいわ」というそういう迷惑もあるんじゃないかと。だからさっき世話人が言っていたように、被害を受けたとかしたらそれなんかも迷惑だと言われるけど、自分は迷惑というのは目に見えないような迷惑もあるっていう気がしますよね。たださっき言ったみたいに、それでもいいと別に「特別迷惑受けたから死ぬわけでもないし」みたいなね。そういう流せる迷惑というのもあるんじゃないかと。

・個人の例で言うと、我が家の東側にアパートがあってそこの一人の男性が我が家の側に来て煙草を吸うんですね。外に出て家で吸わずに。もう一人は我が家の北にある家のおじさんが、やはり家の中ではなく庭に出て煙草を吸う訳ですね。どうしても風向きとか距離で我が家に入ってきてしまうんです、煙草の煙が。そういう訳でアパートの方に説明して、「ここで煙草を吸うと煙が我が家に入ってきて辛いんです」とお話したら、その方は分かってくれてそこで吸うのを止めてくれたんですね。それで北のおじさんにも言ったんですけれども、その方は半分はどこかに行って吸うようになったんだけれども、半分は前と同じように庭で吸うのでどうしても我が家に入ってくるんですね。その度に風向きで入ってきてしまう時は急いで窓閉めようとなって、対応しているんですけれども。煙草を吸っちゃいけないとは思わないんです。自分も若い頃煙草を吸っていたので、吸いたい気持ちも分かるんですが「今の対応でしばらくこれでやっていくしかないのかな?でも迷惑っちゃ迷惑だよな」というところで生活しています。

・今の聞いて思ったのは、時代によって「迷惑」と「危害」というのが変わる事もあるのかなと思って。多分喫煙というのは昔は迷惑ぐらいな感じだけど。逆に言うと吸う人の方が強い感じで、吸わないで文句言う人がいるとその人が迷惑がられるという感じが昔はあったと思うんですけれども、今は本当にもう全面禁煙になっていて副流煙ということによってそれは危害を加えているんだと、他人に対して健康危害を加えているんだというような形で危害というふうに時代によって変わるということもあるのかなと思って今の話を聞いていました。

・「人に迷惑をかけてはいけない」という言い方からして、自分はむしろ逆に「迷惑をかけてはいけないだろう」という論点から考えていきたいなと思っていたんだけれども。迷惑というのを多分文字通りに迷惑と使っている訳ではないように思っていて、結局「人に危害を加えてはいけない」というのは、危害という言葉があまりにも強い言葉であるので。例えば「殺す」とかそれぐらいのレベルの時には躊躇なく危害という言葉を使いやすいから危害と言っているのだけれども。そこまで強烈ではないけれども、でも例えば今の煙草の害みたいな危害と言えば危害だけれども、人に影響を与えると言えば影響を与えているけれども。物凄く影響を与えている訳では無い様な事、それを指す時に「迷惑」という婉曲表現を使っているに過ぎなくて、ここで言っている「人に迷惑をかけてはいけないのか?」というのは決して広い意味での迷惑ということを言っているのではなく、「危害」の婉曲表現として危害と言ってしまったら言い過ぎなものに対して「迷惑」と言っているに過ぎないのではないかと。そういう言葉の使い方をしているのではないかと。要するに日本語を色んなところで、婉曲表現を使うことでギスギスしたことを避けようというのがあって、だから例えば電車の中で迷惑行為を止めてくださいと言っている事はやってはいけないことなんですよ、多分。それは迷惑という言葉が文字通り、辞書的な意味で持っている迷惑とやってはいけないと言っている時の迷惑というのが実は本来違っていて。だから、そこのトリックに騙されているような気がしてならない。先ほどの赤ちゃんの例で言うと、結局のところそこの説明を今の議論で進めていこうとすると若干ややこしい、難しいところあるかなと思っているんですけど、あえて言うのであれば本来の意味での迷惑と婉曲表現としての迷惑を取り違えて、迷惑行為は止めろと世の中言われているから、だから全てのやってはいけない訳ではなくて、辞書的な意味での迷惑も自分が迷惑だから止めてくれというような言い方をしていると説明は出来るのかなと、無理矢理ですけどね。今の言い方全く説明できない訳ではないとも考えています。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓





次回のてつがくカフェは、

1月21日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「日本人とは何か?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。