てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

第9回カフェ報告

2012年04月22日 08時41分34秒 | 定例てつがくカフェ記録


第9回てつがくカフェは12月以来のA・O・Z(アオウゼ)で開催されました。
また、ここ二月は書評カフェ(2月)、特別編(3月)と続いたため、定例の哲学カフェとしても久しぶりです。
今回のテーマは「悪法にも従わなければならないのか?」。
23名の方々にご参加いただき活発な対話が交わされました。

まず話題は「法に善悪はあるのか?」という問題提起から始まりました。
なるほど「悪法に従うべきか?」という問いかけ以前に、「悪法」とは何かが確定されなければなりません。
これについて、そもそも「悪法」といった場合、それはどのような手続きを経て制定されたのか、あるいは個人の自由・生命・財産、尊厳を奪うような内容かという観点から、その吟味ができるのではないかとの指摘がありました。
このような投げかけに対し、前者に関しては一般法律の正当性を担保するのが憲法であるのならば、さらにその憲法を根拠づける上位法を遡って考えていくと、けっきょくそれは実体のないフィクションにすぎないのではないかとの意見が出されました。
つまり、法とは無根拠であり、無根拠である以上そこに善悪を問うことは無意味であるというわけです。
また、法とはその時代や社会、あるいは立法者の意思によって変わるものであり、その意味でやはり「法に善悪はない」という意見も挙げられました。

こうした論点は「法を変える」という論点でも話題になりました。
ある教員の参加者は、校則を生徒に守らせる際に、そのルールの根拠を示しつつも生徒には「変える権利」があることを提示していると言います。
これに関連して、「法に従わない」という選択行為は、その悪法性を批判する意思表明の方法だとする意見も出されます。
その参加者は「拒否権」という言葉を用いながら、この「拒否権」によって悪法性を指摘する行為がなければ、法はよりよいものに変わっていかないのではないかといいます。
これに関して教育基本法改正(悪?)の際に、国会周辺でのデモで反対の声を上げた経験がある参加者からも同様の発言がありました。
その参加者によれば、愛という心の問題を法によって強制されてしまうことへの危機感から反対意見の表明という行動を選択したといいますが、こうした単なる意見の表明に止まらず、君が代斉唱の罰則化に対する不起立など、自らの思想・良心にかけて「拒否権」を発動することはやはり法の正常化への働きかけだということになります。
しかし、だからといってその個人的意見が客観的に正しいかといわれると、どうもそう言い切れないという問題が残るようです。
すると、やはり「悪法」といってもその人の立場や意見によって評価がやはり変わるという相対性が払しょくできません。

こうした法の善悪問題を残しつつも、議論は次第に「従うべき/従うべきではない」という論点へ移っていきました。
「拒否権」の存在を支持する参加者からは、「悪法には従うべきではない」という立場が肯定されました。
また、法は権力者を縛るものとの観点に立つ参加者は、その役割を果たしていない方である以上、それに従う必要はないとも言います。
それが法治国家というべきものでしょう。
さらに音楽家である参加者からは、ナチス時代の頽廃芸術を規制する法律の例に即して、自分であったら「法に制限されて自分の作品を表現できないくらいなら死んだ方がマシ(というか、死んでいる)」という意見も出されました。
そこには自分の信条や信念、実存といったものが剥奪される場合には、不服従が肯定されることが確認されます。

しかし、こうした「悪法には従うべきではない」という意見に対し、そもそも「従わない」とは何かという疑問が投げかけられました。
たとえば、大義を掲げてテロルが実行された2.26事件や5.15事件は、国家の腐敗を根底から変えなければならないという青年将校たち(その多くが困窮する東北出身者)によって引き起こされました。
彼らに対する少なからぬ歴史評価は、その暴挙にもかかわらず心情的には理解できるというものでしょう。
しかし、彼らはその当時の法秩序においては殺人を行ったのであり、テロリズムを犯した犯罪者としてその法の下に裁かれました。
すると、彼らはテロルという反国家的行為を犯しつつも、その結果において刑罰を受けた=法に服したということにならないでしょうか。

これについて、そもそも「悪法に従うべき」であるよりも、革命のようにその国家の法秩序を完全に破壊するのではない限り、それは「法に従わざるを得ない」のではないかという意見が挙げられました。
つまり、ある法秩序内で法に反する行為をとったとしても、それによって課された刑罰に服す限り、それはその「法に従っている」ことになるわけです。
たとえ、自分の意志を貫いて違法行為を選択した結果、死刑を受け入れたとしても、それは「法に従った」ことになるのです。
ただし、その行為を通じてその悪法性を批判するという点において、この行為は一つの「拒否権」の発動になります。
この点につき、単なる犯罪とどのように区別するのかといった質問に対し、それが誰にでも見られる形で行われるか否かという点にその区別の基準があるということも挙げられました。
この意見に対しては、やはりそれは自分の意志が法に反発しているという意味において、「法に従わない」ことなのではないかとの疑問も投げかけられました。
この点は「従う」という言葉の理解の違いに基づくかもしれません。

さらに、「法に従う/従わない」という論点は、果たして法は個人を縛りつけるものか、個人を守るものであるのかという話題に展開していきます。
なるほど、法は縛りをかけるという意味で不自由なイメージがある一方、法によって個人は保護され、自由を可能にするともいえるでしょう。
これに関して、縛りをかける法の機能は罰則など体感的に理解できるのに対し、個人を守るという法の機能は体感しにくいからだとの指摘がありました。
この法の両面性を踏まえた上で、そもそも悪法だというものがあるのだとしたら、それは選挙やリコールなどの住民が直接政治参加できる制度を通じて変えることができるのだという意見も出されました。
あるいは身近な政治家を活用しましょうということも、ここには含まれます。
むしろ、それがなされない以上、それは悪法(があるとして)と言えどその社会で肯定された法なのだというわけです。
たしかに政治の原理原則はその通りでしょう。
中学校の「公民」あるいは、高校の「政治・経済」のオベンキョーでもそのように習います(教えます)。
しかし、そんな原理原則が、市民にとってまったく社会を変える術としてリアリティを得られないのも、この政治社会の現実ではないでしょうか。
それは単に活用できない市民の未熟さに原因を還元して解決できる問題なのでしょうか。
むしろ、哲学の醍醐味はこうした原理原則へ疑いを投げかけ、新しい可能性を切り開いていくことにあるのですが。

さて、終盤にさしかかたところで、論点は再び「法に善悪はあるのか?」に戻されます。
前半の議論において、法は時代・社会によって変化するという相対性が主張されたのに対し、そこでは法に含まれる普遍性もあるのではないかとの意見が出されました。
その参加者はガンディーの言葉を用いながら、時代や社会を超えて人類が共通に感じる正しさがあるのではないかといいます。
そして、法にもそのような普遍的値が含まれる場合があるのではないかというのです。
たしかに日本国憲法も「人類普遍の原理」を採用したと前文で謳っています。
しかしその一方で、なぜ普遍的価値があるといえるのかその根拠がよくわからないとの疑問も出されました。
人間が生まれながらにして持つとされる基本的人権も高々ここ200年ほどの歴史しかありません。
どこか普遍的価値というと宗教性すら感じるかもしれません。
やはり、法は相対的なものなのでしょうか。

これに対して、法は時代によって変わるといっても、たとえば治安維持法のように当時でも少数かもしれませんが反対を主張した人々もいます。
その意味で、その時代にその法は正しかったのだからすべての人に正しい法として支持されていた、という理屈にはどこか強引さを感じます。
むしろ、法とは不完全性を含みつつも、その不完全性を指摘する人々の存在によって、その法の普遍性へ常に開かれていると考えてもよいのではないでしょうか。

今回は今まで以上に抽象度の高い意見が飛び交いました。
その意味で哲学らしいといえば哲学らしい対話になったともいえますが、他方で若干の専門用語や横文字言葉が飛び交い、そのために理解や発言がしにくかった状況があったかもしれません。
参加者全員が言葉一つひとつの理解を共有することが哲学カフェの大前提ですから、そのことの難しさを反省しつつもさらなる刺激的な対話空間が参加者同士でつくられていくことに期待感が高まる会となりました。
次回のてつがくカフェ@ふくしまは5月19日(土)に、同じA・O・Z(アオウゼ)小活動室1で開催されます。
またのお越しを心よりお待ち申し上げます。