てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

福島民友新聞に 『ある精肉店のはなし』 de てつがくカフェの記事

2014年04月30日 13時25分53秒 | メディア掲載
2014年4月29日の福島民友新聞において、

27日に開催された第4回シネマ de てつがくカフェの様子が報道されました。

翌日の掲載ではなかったので危うく見落とすところでした。

「ささき牛乳代表佐々木光洋さんを招き、

 同社の牛乳を味わいながら 『いのちをいただくとは?』 について参加者らが意見を交わした」 と、

「てつがくカフェ」 ならぬ 「てつがくミルク」 であったこともちゃんと書いてありました。

写真のなかで発言中なのは 「サイトウ洋食店」 の齋藤さんではないでしょうか?

短いながらも、てつがくカフェ@ふくしまが地域と密着して活動していることを示す、

とてもいい記事だと思いました。

第4回シネマdeてつがくカフェ記録―「ある精肉店のはなし」―

2014年04月28日 22時30分24秒 | シネマdeてつがくカフェ記録
昨日、フォーラム福島さんのご協力を得て、映画館内での第4回シネマdeてつがくカフェが開催されました。
作品映画は「ある精肉店のはなし」です。
今回の映画上映に際しては、(有)ささき牛乳の佐々木光洋からのアツいオファーがあって実現したという経緯があります。
しかも、今回は佐々木さんがご提供下さった「ささき牛乳」をいただきながらのカフェです。
美味しい牛乳をいただきながらのカフェは、カフェというよりもミルクバーといった方がふさわしいかもしれません。
フォーラム福島支配人の阿部さんと佐々木さんには感謝してもしきれません。

今回は発言内容を記録できたので、可能な限りそのままアップさせていただきます(とはいえ、やはり話言葉は書き言葉に変換しないと文脈が取れないので記録者の解釈が入り込まざるを得ないのですが…その点はご容赦ください。)

さて、今回の哲学カフェはまず、佐々木さんがこの映画に抱いたアツい思い語っていただくことからを始まりました。

佐々木
「こんにちは。佐々木光洋です。お手元の牛乳ですが、自宅の牧場で絞った牛乳です。
この映画にビビッときたのは、昨年この映画の予告編をフェイスブックで見たのですが、見た瞬間にウチの牧場と同じだなとすぐに思いました。
北出さんのところは牛を育て、屠畜し、精肉店で売ることを家族で生業にしていますが、ウチは乳牛を育て、搾乳し、殺菌して宅配するところまで家族で取り組んでいます。そこがすごく自分のやり方と近い関係だと思って、北出さんたちのやり方に魅かれました。
一方で、県内では郡山市に一つしか屠畜場がありませんし、酪農家が多い牛乳と比べると肉牛はハードルが高いなとも思いました。
屠畜して解体して枝肉にしていくという作業は、北出さんたちが代々受け継いできた技術であって、纐纈監督もこれができるのは北出さんだけではないかと言っています。
この肉牛と乳牛を扱う違いと、肉牛を扱うハードルの高さをぜひ映像で見てみたいと思い、フォーラムの阿部さんにこの映画の上映をお願いしたわけです。
酪農の場合は牛を長く買い育て、出来るだけ長く乳を搾るが、肉牛の場合数か月で屠畜するために育てるのはどういう感覚なのだろうと思っていましたが、この映画を見て、二男の北出昭さんが言っていた「食べた人がおいしかったねと言われれば牛も浮かばれるね」という言葉が、自分の考え方にも近いなと思いました。
牛と人とのやり取りがあって、肉に限らず、牛乳に限らず牛と人間の関係を重視する生きざまに共鳴しました。」

ファシリテーター(小野原)
「牛の生命を絶つときに「割る」という言い方をしていましたが、今日ではそれとは別に、牛を一生懸命育てる部分も社会的に目に見えなくなっていますね。
ところで、この映画を観て僕や佐々木さんや渡部さんは焼肉を食べたくなったのですが、それはこの人たちが精肉店を営む姿を見る中でそう思った部分が大きいのではないでしょうか。
家族で牛を育てることから屠畜、販売まですべてをやっていると事を映し出しているのが、この映画のすごく大きい意義だと思います。
それから、3.11以降、福島では食の問題が大きく取り上げられるようになっていますが、そのことと結びつけながら映画を観ることができたのではないでしょうか。」

佐々木
「原発事故の後、約1か月間は牛乳を捨てていました。
牛乳を出荷しても大丈夫だとなってはじめて、ウチが気持ち的に救われたと思ったのは、牛乳を届けているお客様の反応が直接くるのだけれど、「よくぞ再開してくれた」とか、「佐々木さんの牛乳は飲みますので生産を続けて下さい」という反応があったことがすごく励みになりました。
ふつうは生産者と消費者のあいよりだに様々な業者が入り、消費者の反応が見えなくなるものですが、その反応が見える関係を継続してきた結果、お客さんに救われた体験だったと思います。」

ファシリテーター
2月のてつカフェでは、大量生産の目的で近代化・工場化して見えなくなっていることが不安や安心と関係するのではないかという話題になりました。
零細規模で酪農をやっていくのはすごくたいへんな気がするのですが、佐々木さんはどうですか?」

佐々木
「ウチの牧場は県内でも最小規模になると思います。現在県内の酪農家は40頭~100頭を飼育するのが主流ですが、牛を飼いつつ牛乳を販売する煩雑さは半端ではないですね。
どうしても大きくなっていく方向性は変わらないし止められないでしょう。
福島だと放射能の問題で牧草が使えるかどうかという問題があり、県外地域で続けられるのに、このタイミングで辞めざるを得ない県内の酪農経営者もいるのが現実です。
今度、福島市の西側に乳牛500頭規模の復興牧場ができますが、今後福島での牧場経営は、そのような方向でしかできないというのが県内酪農家の共通した認識でしょう。」

(ここから会場を交えた対話に入ります。)



「牛乳ごちそうさまでした。この映画を観てまず思ったのは、牛に向かって「いただきます」と心の底から言えるようになったかなと思います。
子供の頃から牛舎もあったけれど、屠畜をみたことはなく、あらためてストレートに言えるようになった。
この映画の中では北出さんの生き方を通してたくさんのことが示されていたけれど、ああいう仕事をされていた方々には昭和30年代くらいまでは差別というものが生きていた。
そういう中で宣言―日本初の人権宣言があったけれど―のすばらしさが描かれていた事が印象的です。
TPPなんかともダイレクトに関わっている問題だなと思ったし、あの仕事を生業として生きていることなど様々な切り口があり、どこから話していいかわかりません。
ただ、涙が流れた瞬間はあの家族がみんな一緒にいる様子でした。
あまりに多くのことが描かれており、どこから語ればいいのか迷います。」

「大変面白いと思ったのは、いまBSで放送されているNHK朝の連続ドラマ小説の「カーネーション」と重なった点です。
あのドラマでも岸和田のダンジリ祭が描かれますが、祭は生命をいただくことと関係があるのではないでしょうか。」

「ただ今の意見は、地域の祭や盆踊りなどの地域社会というテーマでの切り口になりますね。たしかにあの映画の中で描かれる地域とのつながりはすごいなぁと思いましたね。」

「私は食に携わっている仕事をしているので、食の観点から北出さんが屠畜するのが普通の仕事なのに、差別で見えなくしてきたのだと思いました。
「見えなくしてきた」という問題は、3.11以降のふくしまとも関係があるし、あの出来事によって現場に行ってその人と会って信頼関係をつくりたいという福島の消費者の声が湧き上がっているのではないでしょうか。」

「とにかく福島の食品の方がとっても安全だと発信できないのが残念です。
福島の食品検査が徹底しているのに対して、関西の方が放射能による土壌汚染の酷いところもあるのにカタカナの〈フクシマ〉ばかりが強調されすぎています。」

「私の実家も肉牛の畜産をやっているんですが、実際にを見たことはなかったです。
スーパーで売られるお肉の生産過程が見えなくされて綺麗にパックされていることからつなげて考えると、大規模経営の中で食品加工のライン作業で働いている人たちはどういうふうに感じているんだろうと思いました。」

「誰が何しているかわからないものを食べているのに、その生産過程がますます見えなくして、消費者の目から遠ざかっているのが残念な気がします。」

「私の育った家では5,6年生の頃まで正月に業者さんが鶏を数羽もってきて、どれにするかと家族に選ばせてから水道に行ってしめて、裁いて、羽を焼いて川をむしって、一羽いくらで販売していました。
その過程を子供だったのでとても興味深く見ていたのだが、お肉は美味しく食べていました。
さばいた鳥から出てくる小さな卵なんかはお鍋にするとおいしかったなぁ。
いまは、自分が食べている豚肉がどこで生まれ育てられるか見えるように、生産者からそのブタの生育記録や写真が送られてきます。
食べている豚の写真をみて、「トン吉」という名前をつけましたが、どこで育てられどういう人たちが作っているかわかっているので、100%おいしいと思って食べている。
その肉の元々の姿をを知っているからと言って、豚を食べなくなることはありませんでした。
でも、実際に自分でそのブタを育てたら食べられなくなるのかなぁ。
実際に現場を見ただけでは食べなくなることはないかなと思います。
この映画をとても冷静に見ている自分がいましたし。
出演していた方々がとてもいい感じの人たち。じんわりと涙が出てきてしまった映画でした。」

「食の工業化で見えなくなっている話があったけれど、スーパーで生産者の顔が見える野菜が販売されていたり、工業化が進む一方で知りたいとか信頼したいという動き自体は起こっているのかなと思います。」

「先ほどの「トン吉」のお母さんの気持ちに共鳴します。
最近では、外食で一緒に食事をした人が食べ残しをすると、二度とその人と食べに行くたくないとさえ思うようになっています。
生命をいただくという点では、食用の動物のみならず、動物を実験のために命をいただかないといけない問題もあります。
その問題を考える倫理委員会で、「いまのは動物に電気でコロンと行くんだよ」との話を聞かされるのだけれどもと、電気でするのと映画で映されていたような手作業のノッキング(ハンマーで牛の頭を叩き気絶させる作業)との違いはなんなのかと思います。
実際、ライン作業では電気でパタンと倒れ、生命がなくなるまでの瞬間を見ているのは見学者くらいなもので、作業者がそれを見てどう感じるかなんてこともないようです。」

纐纈監督にインタビューをしたライター小久保よしのさんの話によると、ノッキングをするときに一番気をつけることは、いかに牛に苦痛を与えないかということだったそうです。
だから電気ショックのノッキングという方法になったのではないでしょうか。
猟師も最も気を遣うところはそのしめ方で苦痛を与えない技術だとも言いますし。」

「電気ショックの方法が倫理的なのでしょうか。たしかに、手作業のノッキングでは一発で仕留められず、映画では2度もハンマーで叩くという場面もありましたが、しかしその一方でベルトコンベア式に電気によって機械的に生命が奪われていくことには、どこかザワッとする違和感があります。」


「ヨーロッパではノッキングをせずに屠畜を行っていた場面を見たことがありますが、屠畜の方法はいろいろあるし、違うやり方を観れば見方が変わるかもしれません。」

「屠畜の方法論の問題なのでしょうか?」

「内澤旬子さんというライターが、自分で育てた豚を自分で食べるという徹底したことをやっています。
これは、前回の哲学カフェのテーマだった「食べていい命と食べてはいけない生命はあるのか」という問いにもつながっていると思います。
殺し方を苦痛のないようにという気遣いは、最低限の生命をいただく際の礼儀のようなものでしょう。
倫理とは、一つの文化の中で決められたルールに過ぎないのではないでしょうか。
その地域の中で形作られてきた是非なのではないでしょうか。
いつも屠畜の場面が見えている必要はないけれど、一度は真相を見て知るということは必要ではないでしょうか。
放射能の風評被害というのも、見せることが不十分なのではないかと思うところがあります。
食品の販売過程を見せる。
「見せる」ということがキーワードではないでしょうか。」

「倫理は地域文化的なものというのはその通りだと思います。
すると、我々はいよいよ鯨絵を食べられなくなるようですが、国際的に捕鯨が禁止にされる問題とも関係します。」

「電気ショックで牛を屠畜するのが倫理敵かどうかという点に関して、「食べられる側」(牛や豚)への配慮は必要だと思うけれど、一方で「食べる側」の倫理という観点からみれば、ライン作業で何も考えずに、当たり前だと思って食べられていくことが問題性を感じます。
「食べる側」もいろいろ考えた上で食べるという点が重要ではないでしょうか。
つまり、「食べる側の倫理」というのも大事なのではないでしょうか。」

「生産過程を見せる、見えるという点について。
貝塚市の屠畜場を廃止するのはなぜなのかと思ってしまいました。
映画の中で岸和田城で結婚式を挙げるシーンがありましたが、これも行政の手法かもしれないのに、
屠場に関しては見せるとか見えるの方向性と反対を行くのは、なぜなのでしょうか。」

「福島市のある地域にも加工場があったと聞いています。
かつては、その地域地域に食肉加工場はあったのだけれど、そこに職員がついたりするのは経費の面からも負担が大きく、センターをつくって一か所に集約して合理化していくというのが一つの流れなんだろうなと思います。
確かに、地域にあの施設があれば見る機会もあるけれど、それとは反対の方向で進んでいる全体の流れからしても、でもこの映画の映像は貴重です。」

「生協に入って肉を購入しているのだけれど、生協自体の取り組みで見学会も実施しています。
突然の出来事に生産者を助けるために会員たちによる基金をつくろうという動きがあるのは、相手が見えるようになっていくのは安心安全や信頼をつくっる上で大切だと思います。」

「いままでの議論の流れを聞いていると、どこかその生産過程を見せれば安心や信頼がつくられるという意見が多いように思いますが、果たしてそうなのでしょうか?
先ほどの意見の中に野菜販売や生産者の顔などの公開が進んでいるように思われますが、実際の屠畜の過程を公開するという流れにはないでしょう。
むしろ、肉を裁いたり解体することがどこか惨(むご)いというイメージと「穢れ」の意識とが結びついて、被差別の生業とされてきたことは、野菜の生産とは異なるレベルの問題なのではないでしょうか。」

「私もそう思いました。
怖がりの私は、できればそういう場面を観たくないという気持ちがあります。
「見える/見えない」という点に関して言えば、この映画からはあの屠場の「湿度」や「臭い」というものは伝わってきませんが、実際にその場に立って、そのような感触を覚えながらノッキングを観たくないという気持ちはあるんだろうなと思います。
屠場がなくなるのも、そういうのはあまり見たくないんだという部分があるからではないでしょうか。
だから、屠畜の過程が見えれば全部安心できるかと言う意見には違和感を覚えます。
ただ、最後にもう一回ノッキングをする場面がありましたが、最初のノッキングの場面ほど2回目の場面はショックを受けませんでした。
なぜかというと、弟の昭さんが皮を太鼓にする作業の場面で、「生命をつなげたいんだ」というセリフを聞いて、屠畜の過程が見えるからというよりは、あの人の考え方や生き様が見えたからなのだと思いました。
その人の食に対する考え方を知ることで、スーパーよりも食肉店で買いたいなと思うようになったということです。」

「たしかに、解体の様子を見ながら、屠場の白いコンクリートを見たくないなという気持ちもありました。
けれど、その一方で子どもたちが吊るされた枝肉に驚きながら、「これ何?」と興味津々に聞いたりする場面が印象に強くあります。
被差別の歴史を知らずに子供たちは見ることができるのかなと思うのですが。」

「最初のノッキングのショックはなかなか拭い去ることができません。
しかも、私は2回目ののノッキングの一発でうまくいかなかった場面にぞっとした。
それは、あれが2回目3回目でうまくいかずに牛が暴れだしたら、ハンマーで叩く人間に身の危険がふりかかります。
食べる肉は必要だけれど、そのリスクを避けるために電気ショックの方法が必要なのではないでしょうか。
私は養鶏で卵と肉もおいしく食べられる種を育てながら、卵や鶏肉の配達していました。
最初は50羽を扱っていたのですが、売れたり要望が増えるにつれ850羽まで増やしていったら夫婦で対応し切れなくなりました。
それを実現しようとすれば、巨大企業化せざるを得なくなっていくわけですが、実は、そこで大量生産の効率化を進める過程でモノが余るという問題が生じています。
けれど、生産過程が見えない一方で、食の大量廃棄という問題も見えなくなっています。
つまり、「見える/見えない」という話は、その過剰なモノ余りの過程で出てくるのではないでしょうか。」

「今までの議論は大量生産の話には否定的な話が多かったけれど、世界には飢餓で苦しんでいる人が多い中では大量生産が問題なのではなくて、大量生産によって再分配されていないことが問題なのではないでしょうか。」

「生命をいただく上で屠畜や生産過程が見えることは大事ですし、屠畜方法に電気ショックを用いるのは動物に対する礼儀からだという話は理解できるけれど、一方で人間がショックから自分を守るという精神衛生上の問題を考えてもよいのではないでしょうか。
だから差別のような問題が生じるのではないかとも思うのですが。
関西から来た知人が、「福島は差別を感じなくて済む地域だ」と話していたことがありましたが、確かに自分自身もその問題を気にせず生活してきました。
ただ、北出さんたちが誇りを持って仕事に取り組んで、地域と密着して生活している姿に感動しました。」

「会場の中で、この映画を見て自分自身が差別を受けてきたという記憶を思い出された方はいらっしゃいますか?
私は庭坂という地域に住んでいますが、そこには「在庭坂」と「町庭坂」という区分がありました。
そこで私は幼い頃に「在郷、在郷」と馬鹿にされたことがあった経験を、この映画を観て思い出したんです。
地名や住所でバカにされるというか、差別された、区分されたことがあったんだなぁと思い出したのです。
これは50年来の私の重い思いだったのです。」

「福島の住所に「字」、「大字」が多いですよね。
私は「字」を撤廃しようとしたこともあるんですけれど、一方で「あるからいいんだ」という思いの人もいました。
私は福島の外部から来た人間ですが、「字」の住所を知らせるとかつての友人たちから辺境に行ったと思われるのです。」

「昔から差別というか、区別は日常的にあったでしょう。
旧市街地の人ほどプライドが高いのは周辺地域に住む人間からすると感じることでした。
「橋向こう」なんて言いまわしもありますし。
東北は差別が残っておらず、関西と比べればよほどいいけれど、戦前の人たちは差別意識は持っていましたね。」

「私は会津若松の出身ですが、ひょんなことから市内に実は差別の地域があったということを知り、自分の親に尋ねたところ、その地域の存在を教えてくれました。
私は40歳ですが、私の世代には全くそう意識はないけれど、実は親世代には確固としてその事実を知っていたということに驚いたものです。
そういわれると、たしかにその地域には馬刺しや馬肉の名店があるんですね。
ひょっとしたら積極的に差別や区別するような言い回しは残っていないのだけれど、これはいいことなのか。
露骨に「在/町」と区別する差別意識よりもたちが悪いのではないでしょうか。
過去の被差別の事実をみんなが忘れ去っていくうちに差別意識も消えていくことは、結果的に差別をなくしていくことになるのでしょうが、どれはどこか「寝た子を起こすな」と言いますか、そうした過去の記憶の自然淘汰は記憶を抹殺するという言うことにならないでしょうか。」

「関西出身です。監督は関西の方じゃないですよね。だから、この映画の撮影が実現できたのだと思います。
結婚することになった新司さんの息子さん夫婦への質問(いわゆる「」だということを結婚前に教えていたのかという質問)も、関西の人間にはできないものです。
そこに監督が通い詰めて努力し、信頼を得て撮影が成功したことを大いに感じました。
屠畜のプロセスで人柄を知ると、2回目のノッキングにショックをそれほど受けないという意見には賛成します。
2回目のノッキングの後のシーンは心臓も動いていたり、けっこう細かい解体作業を映し出していますが、おそらく1回目のノッキングの時には意識的にそのような細部を撮っていないのでしょうね。
あの北出さん兄弟は理論家で言葉をもった人たちだといいう印象があります。
弟の昭さんはなどは、太鼓つくることでPTA活動で父親を引っ張り出してミニ太鼓づくりの地域活動までするけれど、の出身者がPTA会長になること自体、とても大変なことのはずです。」

「この映画を通じて人間が見えてきた、あの一家が見えてきたということが言えるのではないでしょうか。
纐纈監督は映画の中で匿名を入れたくなかった、あくまで固有名詞にこだわったとおっしゃっていましたが、これもやはり相当高いハードルだったはずです。
通い詰めて了解が取れるまで相当苦労されたことは、先週行われたトークショーと懇親会の席で伺うことができました。
その中で、一番厳しかった解放同盟の会長さんが、初上映を観終わった際に「この映画はこれからこれが私たちの武器になる」と評価して下さったことで監督は肩の荷が下りたとおっしゃっていました。
被差別問題を「さりげなく」映画の中に織り込んだ作品への最高の賛辞だったでしょう。」

最後に佐々木さんより一言いただきました。

「ささき牧場では牧場見学会を実施します(日程:①5月11日(日)、②6月4日(水)、③7月5日(土)いずれも10時~12時、大人200円、子ども100円 申し込み先(有)ささき牛乳 070-5473-8372・mail:moo.icot@gmail.com)。
牧場に実際足を運んでもらって、牛を見てもらう取り組みです。
この映画を見たことで実際にお肉を食べたくなったように、実際に生産と消費者をつなげることでで牛乳を消費者に飲んでもらえるように取り組んできたことに確信が持てました。
実際の見学会では、この会場で飲んでいただいた牛乳よりも美味しいと感じるはずです。
本日はどうもありがとうございました。」

佐々木さん、阿部さん、このような機会をてつがくカフェ@ふくしまに与えて下さいまして本当にありがとうございました。
これが福島という地域の新たなつながり、つまり映画―牛乳―食―哲学という新たな結びつきが生まれたことに感謝申し上げます。
また、ぜひ新しい出会いが映画や牧場を通じて実現できることを期待したいと思います。
牧場で哲学というのもいいかもね。
今回のシネマdeてつがくカフェにご参加いただけた方は、映画鑑賞70名、哲学カフェ参加48名でした。
ご来場いただきました皆様には貴重な対話にご参加いただけましたこと、合わせて感謝申し上げます。

第4回シネマdeてつがくカフェのご案内

2014年04月13日 10時25分42秒 | 開催予定
第4回シネマdeてつがくカフェ
 シネマde哲学カフェとは、映画作品を参加者たちが鑑賞し、そこから浮かび上がる哲学的なテーマについて哲学的に語り合う場です。



【開催日時】 2014年 4月27日(日) 
  ≪映 画 上 映≫ 14:00~16:00
  ≪てつがくカフェ≫ 16:00~18:00
※ 事前に映画を鑑賞していただいた方も、前売り券の半券をお持ちいただければ、当日の哲学カフェに無料で参加できます。
【開催場所】 フォーラム福島
  福島市曽根田町7-8 [電話]024(533)1717
【鑑賞作品】 纐纈あや監督 『ある精肉店のはなし
  ≪上映期間≫ 4月19日~5月2日
  ≪纐纈あや監督トークショー≫ 4月20日(日)18:45~の回上映後
【前売り券】 1,000円 

 
【カフェ終了後の懇親会】 有ります(会場:たなつもの 福島市パセオ通り・パセナカミッセ1階)。
  今回の懇親会の参加申し込み受付は、先着20名様までとさせていただきます。

※ 前売り券・懇親会申込みは、fukushimacafe@mail.goo.ne.jp までメールを下さい。もちろん、前売り券はフォーラム福島で購入できます。



 今年、映画『ハンナ・アーレント』を鑑賞しての第3回シネマdeてつがくカフェが開催されたばかりですが、なんと、またまたフォーラム福島さんのご協力を得て、第4回シネマdeてつがくカフェを開催する運びとなりました

 鑑賞する作品は、纐纈あや監督の『ある精肉店のはなし』です。
2月のてつがくカフェでは「食べてよい生命と食べてはいけない生命はあるか?」というテーマで開催されましたが、その議論とも関係の深い映画です。
 今回の開催に当たっては、生産者と消費者をつなげようという(有)ささき牛乳の佐々木光洋さんの熱い思いから上映が実現しました。
 佐々木さんは、乳牛の出産、飼育から生産、出荷、販売まですべて手掛ける乳牛家として、映画の北出精肉店のあり方に共鳴したと言います。
 カフェ当日は佐々木さんのお話を伺いながら、しかも佐々木さんのおつくりになった牛乳をいただきながら、皆さんと「いのち」の対話をくり広げたいと思います。

【『ある精肉店のはなし』映画紹介】

「大阪貝塚市での屠畜見学会。
牛のいのちと全身全霊で向き合う
ある精肉店との出会いから、この映画は始まった。
家族4人の息の合った手わざで牛が捌かれていく。
牛と人の体温が混ざり合う屠場は、熱気に満ちていた。

店に持ち帰られた枝肉は、
丁寧に切り分けられ、店頭に並ぶ。
皮は丹念になめされ、
立派なだんじり太鼓へと姿を変えていく。

家では、家族4世代が食卓に集い、いつもにぎやかだ。
家業を継ぎ7代目となる兄弟の心にあるのは
被差別ゆえのいわれなき差別を受けてきた父の姿。
差別のない社会にしたいと、地域の仲間とともに解放運動に参加するなかで
いつしか自分たちの意識も変化し、地域や家族も変わっていった。

2012年3月。
代々使用してきた屠畜場が、102年の歴史に幕を下ろした。
最後の屠畜を終え、北出精肉店も新たな日々を重ねていく。

いのちを食べて人は生きる。
「生」の本質を見続けてきた家族の記録。」( http://www.seinikuten-eiga.com/映画紹介/ 参照)