てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第1回哲学書deてつがくカフェのご案内

2013年07月21日 20時54分23秒 | 開催予定
     

次回のてつがくカフェ@ふくしまでは、初の試みとして哲学書を課題図書にして語り合う「哲学書deてつがくカフェ」を開催いたします。
哲学書の学問的な精読というよりは、本deてつがくカフェと同様、そのテキストから浮かび上がる哲学的テーマについて語り合うことを中心に対話を展開したいと思います。

さて、第1回の課題図書はルネ・デカルトの『省察』です。
デカルトといえば「われ思う、ゆえにわれあり」という有名な近代的自我の原理を提示した、まさに哲学者中の哲学者です。
『省察』は心と身体の区別や神はいるのかといった、まさに哲学的な問題の省察ですが、初めて哲学書を手にする方でも読みやすい文体で書かれています。

今回は、その中でも第1省察と第2省察までを読みます(読んできていただきます)。
第1省察は「疑いをさしはさめるもの」を疑いつくしていこうという場面で、人間の感覚の不確かさや、夢と現実の区別をどうつけるのかなど興味深いテーマを扱っています。
第2省察は、私の存在することの確かさはいったい何によって証明されるのかについて、やはり感覚と精神をめぐって論じられます。

もちろん、関心はあるけれど読みにくい、あるいは読んでもよくわからない方には可能な限り、その場での共有を図れるようファシリテーターが努力します。
また、読まないで参加したいという方のご参加も問題ありません。
参加者同士の対話を聴きながら考えることを楽しむことも、てつがくカフェの醍醐味のひとつですから。
それ以上に、参加者全員でそのテクストの内容・解釈を共有できる場にできることが、この試みの根本にあります。
果たして、難解とされる哲学書の読解-対話がてつがくカフェで可能になるのか否か。
ワクワク、ドキドキ、ハラハラしながら開催させていただきたいと存じます。

【課題図書】 ルネ・デカルト『省察』第1省察・第2省察
  (翻訳書はちくま学芸文庫や中公クラシックスなどから出版されています)       

【日 時】 2013年8月24日 (土) 16:00~18:00

【場 所】 サイトウ洋食店
      福島市栄町9-5 栄町 清水ビル2階・℡024-521-2342
    
【費 用】 ドリンク代 300円 

【参加申し込み】 事前申し込みは必要ありません。直接会場へお越し下さい。

【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp



てつがくカフェ@ふくしま世話人

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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第17回てつがくカフェ@ふくしま報告―脳死は人の死か?―

2013年07月21日 12時49分18秒 | 定例てつがくカフェ記録
 

第17回てつがくカフェ@ふくしまは、昨日アオウゼにて19名の参加者により開催されました。
今回は「脳死は人の死か?」というテーマで行われましたが、内容的にもかなり医学専門的な知識が必要とされましたので、まず冒頭で世話人の小野原から脳死-臓器移植に関する歴史や医学的、法律的情報について簡単な解説をさせていただきました。
これまでのてつがくカフェのテーマと比べても、やはり今回はかなり専門知識を前提にしないと議論がしにくかったため、おのずと小野原への質疑応答の時間も増えました。
とはいえ、議論は生死をめぐって活発に展開されました。

まずは、参加者の「何をもって死としてきたのだろう」という問いかけから始められます。
従来、死は心臓停止、瞳孔散大、自発呼吸停止によって医学的な判断でもって判定されてきました。
しかし、その医学的な基準ですら実はかなり主観的なものだったのではないかとの意見が出されます。
というのも、脳死の判定基準は国によってバラバラであり、国際的にも統一された基準がないからです。
したがって、ここいう「主観的」とは客観的な科学的基準というのではなく、社会的文化的な枠組みで決定される相対的なものではないかという意味においてのことでしょう。
日本では脳死判定の方法は厚生省基準(竹内基準)でもって行われますが、深昏睡、自発呼吸の停止、瞳孔散大、脳幹反射の消失、平坦脳波の確認後、6時間後に再検査することで不可逆的であるかどうかを調べますが、この「6時間」という時間も世界的に見ると日本が最短時間だということです。
もちろん、この「6時間」という基準も様々な症例をもとに医学的な決定がなされたのでしょうが、それが国ごとに異なるという意味においては、やはり「主観性」を免れないといえるかもしれません。

さらに、死を認定するという要素には、家族の感じ方も重要ではないかとの意見も出されました。
脳死は人工呼吸器をはずさない限り体温もあり、汗すらかき、見た目には死んでいないと感じるとも言われます。
そのような一見して死とは受け取れない脳死状態を、家族が割り切れるかという問題です。
すると、家族や身近な友人という立場によって死の認定は変わるということになります。
しかし、死に対する医学的判定以外にこうした文化的な要素を重視していくと、ミイラ化しても「その人は生きている」と家族が言い続ける限り死とは認められないのか、という問題が生じます。
この場合、通常は遺体遺棄罪で罰せられるでしょう。
脳死に関していえば、脳死状態で生まれてきた子どもを生命維持装置で心肺機能を維持していけば、身長も髪の毛も爪も伸び、身体的な成長がはっきり確認されますし、日本では実際にこうしたケースも存在します。
そうした成長が確認できれば、ますます死を受容することなど難しくなるのではないでしょうか。

ここには死の受容について家族の生に対する執着や感情の割り切れなさという問題が指摘されます。
なるほど、死を受容する理論は誰しも一応は持ちうるものです。
たとえば、輪廻転生や来世という宗教思想はそれに応えるものでしょう。
この死後の物語化を通じて私たちは死に対する不安を払拭しようとするものですが、そうはいっても目の前で家族がまさに死なんとする場において、その理論と感情との鬩ぎ合いが存在するというわけです。
この意見を発言された方によれば、肉体は滅びても精神は永遠になくならないというのは宗教思想として存在しており、その理屈から言えば、ミイラ化した身体をなお生きていると認めるのは、即身仏にも見られる考え方ではないかといいます。

これらの意見を踏まえれば、家族あるいは宗教的立場からみて死の到達点は様々であり、決定的な死の地点などないのかもしれません。
それに対して客観的なデータを下にして判定されていると考えられてきた医学的死においても、脳死という段階にあっては、実は国ごとに異なるということからしても、どうも脳死における死を決定することは困難ではないかという視点が浮き彫りにされました。

とはいえ、そもそも従来、死の判定はそれほど難しいものではなかったでしょう。
これほど死の基準が混乱し始めた背景には、飛躍的な医療技術の進歩があることは否めません。
すると、「人間は永久に死ねない存在になるのではないか」という不安も提起されました。
ips細胞の進歩は、ひょっとすると無限に人間のサイボーグ化を実現化し、永遠の生命を実現するかもしれない。
SF的な発想かもしれませんが、しかし現実は数十年前の夢を実現してしまっています。
この創造も夢想とは言い切れないでしょう。
すると、どこかで死はどこで決めるかというタイミングを、自分で決める必要のある時代が来るのではないか(あるいはすでに来ているのかもしれません)。
その意味でもやはり社会的な死の基準を確定する必要はあるのではないかという意見も出されます。
たとえば、過激な意見ですが、それは人間100歳になったら死とする基準を法的に定めるなどの例などが挙げられました。
ただし、そこにはすべての人が永遠の生命を手に入れられるわけではなく、富める人間は臓器交換が自由にできるかもしれないけれど、貧しいものには金銭的に不可能であるという点で、生命の長短に貧富の格差が生じる問題を指摘する声も上がります。
いずれにせよ、議論では脳死の話題から死の不確定性の時代に入ったことが共有されました。

このことは一方で人間として生きるとは何かが問われる必要があります。
ある参加者によれば「幸せに生きているかどうか」が、人の生死の区分としてありうるのではないかと言います。
これはQOL(Quality Of Life)、つまり生命(生活、人生)の質という概念と密接です。
脳死状態が人間として生きるに値すると言えるかどうか。
これは「脳だけ生きていれば人間として生きているといえるのか?」という問いを生じさせました。
脳だけ生きていればということは、すなわちその人の記憶であり意識が存在することを意味しますが、それはその人のアイデンティティが存在するということに他なりません。
すると、その脳が外部情報を受信し、自分の意思を発信することが可能であれば、脳以外の身体がなくともその人は生きているということができるのではないか。
実際、、筋萎縮性の難病患者がアイコンタクトで意思表示が可能な機器も存在します。
将来的には脳波をキャッチするだけでそれが可能になる時代が来ることもありうるでしょう。

いやそうはいっても、人間は心と身体を切り離して存在することはできないのではないかという意見も出されます。
精神にのみ人間の存在の在り処を求めることは、いわゆる西洋的な心身二言論ともいえますが、これに対して身体にその人の存在を与えるという文化は、日本特有の文化といえるかもしれません。
その点で、脳死者の臓器が他者へ移植されることで、家族は本人が被移植者の中で生きていると思えるという話は、このことと無関係ではないでしょう

あるいは、脳死だけをもって人の死と判定するのではなく、やはり死の判定基準には心臓死も含むべきだという意見も出されます。
もちろん、脳死者の生命維持装置を外せば自ずと心臓は停止することになるわけでしょう。
しかし、その意見のように心臓死を重視する背景には、実は心臓のように自律神経によって自発的に生命維持の機能を司るということは、まさに生命が生へ向かって生を欲すことをもって、生は存在するという思想があるように思われました。
いわば、意識を超えてその人を生に向かわせる意志のようなものが、生の根源として重要なのではないかというものです。
倫理学的にいえばシュヴァイツァーや、あるいはショーペンハウアーの意志論の文脈に属す意見でしょう。
すると、脳死は人の死だというのは、単に意識や記憶、アイデンティティが存在しなくなるからだというわけではなく、自発的な生命機能が失われるという点が重要であることが確認されます。
その点で、意識は回復する可能性がほとんどない植物状態の患者を死とは認めないのも理解できるでしょう(植物状態の患者は自発呼吸などの機能は失われません)。

とはいえ、いずれにせよ脳死が生命維持装置によって身体機能を維持しているという点では、「周囲に生かされている」ことになります。
言い換えれば、
それを死と受け入れられない家族にとっては、生命維持装置を外すということは、脳死者本人を死に至らしめる決定権を与えられていると錯覚してもおかしくはないでしょう。
中には、家族の死は家族で決めてあげたいという意見も上げられましたが、そのプレッシャーや罪悪感に耐えられるほどの人はどれだけいるのでしょうか。
すると、やはり死の定義は社会的に決められなければならないものだという意見が出されます。
容易に死を受容できない脳死者の遺族にとって区切りを受けさせられるものは、やはり社会的な死の判定であるということになります。
それは、たとえ医学的科学的であろうと、死とは常に社会学的なものではなかったかという意見も上げられました。
脳死の受容の仕方は既に見たとおり、立場や国によってさえも様々なものです。
そうであるからこそ、その判定は法律でつけられるべきだというわけです。
そもそも死は法律で判定されるものではなかったし、それは医師による判定に任されていたものですが、日本では「和田移植事件」以来の医療不信がこうした法的判定の必然性を招いたという話題にも触れられました。

今回のテーマは「脳死は人の死か?」というものでしたが、議論を振り返ってみると、死の判定と受容、あるいは人間的な生についての議論が大半を占めたように思われます。
脳死そのものが生まれた背景には、繰り返すように医療技術の進歩がありますが、これだけ死の判定が複雑になってしまったのは同時に、現代社会に生きる人々が「自然な死」を迎えられなくなっている事態を示しています。
その点で自然な死とは何か、果たしてありうるのか別の機会に話し合ってみたいと思いました。

さて、次回は8月24日(土)にサイトウ洋食店にて、初の試みである「哲学書deカフェ」を企画します。
これは哲学書を読みあうことで対話を試みるカフェです。
一冊の本を読んできて語り合う本deカフェは、既に5回開催していますが、それとは別にあえて本格的な哲学書をてつがくカフェで扱ってみようという実験的な試みです。
課題図書は、ルネ・デカルトの『省察』第1章・第2章です。
今回の脳死の問題とも関係する一冊ですし、哲学書とはいえ、わりと読みやすい文体ですし、相変わらず専門的な哲学議論を交わすことを目指すわけではないので、多くの方々にお気軽にご参加いただければ幸いです。

第17回てつがくカフェ@ふくしまのご案内

2013年07月19日 13時48分22秒 | 開催予定
テーマ:「脳死は人の死か」

日 時 : 2013年7月20日 (土) 開催時間 16:00~18:00

場 所 : A・O・Z (アオウゼ) MAXふくしま4階 小活動室1

費 用 : 100円 (珈琲などドリンクお代わり自由)

事前申し込み : 不要 (直接会場にお越しください)

ご不明な点は下記の問い合わせ先までご連絡下さい。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp



今回のてつがくカフェ@ふくしまは生命倫理を扱います。
ズバリ!脳死は人の死か?です。
脳死という言葉は最近ではわりと市民権を得た言葉だと思いますが、
それでも医学的知識が必要となる問題です。
つきましては、今回は参加者の皆様に「脳死」に関する多少の知識・理解をお持ちいただければ幸いです(とはいえ専門家みたいな理解は必要ありませんし、カフェの中で多少説明をする場面もあるかもしれませんのでご安心下さい)。
もちろんこの問題は臓器移植の問題と関係するものではありますが、
まずは意識や考える力を失った身体は、果たして人として生きているといえるのかどうか、
そのあたりの議論から「人の死とは何か」を突き詰めて考えていければよいのかなと思います(もちろん、別の論点へ向かうことは当然ありうることですが)。

お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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てつがくカフェ@ふくしま世話人

第17回てつカフェのための資料

2013年07月18日 08時41分48秒 | 世話人のつぶやき
次回のテーマは 「脳死は人の死か」 ですが、
脳死の問題は、事実を知らないまま語ることのできない問題です。
人は、脳死とは何かや、脳死と植物状態の違いを知らないまま、
脳死臓器移植がよいことか悪いことかを語れてしまいますが、
事実を知ってみるとその議論がまったく空虚であったことが判明したりします。
ふだんのテーマでしたら、皆さんの常識や感覚、言葉に対してもっているイメージ等から出発して、
自由に思考の翼を広げていっていただければいいのですが、
特に今回の脳死臓器移植というテーマに関しては、
やはり事実を押さえておいた上で議論していただく必要があるでしょう。
(実は脳死や臓器移植に関しては事実を確定するのが難しいという面があるのですが…)
ですので、今回は簡単な資料を配付しようかと考えております。
今週のてつカフェに参加予定の方は、あらかじめざっと目を通しておいていただければと思います。


1.脳死と臓器移植の歴史

 1902年 人工呼吸の継続 → 23時間後死亡 → 死亡後解剖、脳が融解
 1936年 世界初の死体からの腎臓移植 (36時間後死亡)
 1940年代 移植免疫拒絶反応の解明
 1950年代 人工呼吸器の普及
         →「力強く脈打つ死体」 「超過昏睡」 「不可逆的昏睡」
 1963年 米、世界初の肝臓移植 (直後に死亡)
 1967年 米、世界初の肝臓移植の成功
      南ア、バーナードによる世界初の心臓移植 (18日後死亡)
 1968年 米、バーナードによる2度目の心臓移植 (9ヶ月生存)
      日、札幌医大の和田寿郎による日本初の心臓移植 (83日後死亡)
         → 殺人罪で告発 → 証拠不十分のため不起訴
         → これ以降日本では脳死臓器移植はタブーに
      米、ハーバード大学が脳死判定基準作成  → 「脳死 brain death」 概念の登場
 1980年代 免疫拒絶反応抑制剤 (シクロスポリン) の普及
         → 臓器移植の成績が向上し、脳死臓器移植が世界的に普及
 1985年 日、厚生省の脳死判定基準 (竹内基準)
 1992年 日、脳死臨調の答申 「脳死は人の死」
 1997年 日、臓器移植法施行
 1999年 日、臓器移植法の下での初の脳死臓器移植 (改正まで86件実施)
 2009年 WHOが渡航移植を規制する方針を表明
      日、臓器移植法改正
 2010年 日、改正臓器移植法施行 (改正後140件実施、2013年7月8日現在)


2.脳死とは何か?

 ①植物状態と脳死の違い
  植物状態‥‥脳幹は機能している
            ※呼吸,心拍,消化,代謝,ホルモン分泌等を司る
           自発呼吸がある

  脳死‥‥少なくとも脳幹が機能していない
         自発呼吸がなく、人工呼吸器が必要

 ②脳死をめぐる争点
  ・脳幹死 (脳幹さえ死ねば脳死) or 全脳死 (脳幹も大脳も含めて全脳の死が脳死)

  ・機能死 (脳の機能の不可逆的停止) or 器質死 (脳の細胞レベルでの死)

 ③脳死の定義の3種類
  A.脳幹の機能死  ex.イギリス

  B.全脳の機能死  ex.日本やアメリカをはじめとして多くの国々

  C.全脳の器質死  ex.ロシア、スウェーデン等


3.日本における脳死

 ①定義 「脳幹を含む全脳の不可逆的な機能停止」(=B.全脳の機能死)

 ②判定方法 厚生省基準 (竹内基準) 1985年作成
   イ.深昏睡
   ロ.自発呼吸の停止
   ハ.瞳孔散大
   ニ.脳幹反射の消失 (対光反射、角膜反射、毛様脊髄反射、眼球頭反射、前庭反射、咽頭反射、咳反射)
   ホ.平坦脳波
   ヘ.イ~ホの確認後6時間後に再検査


4.日本の臓器移植法の骨子

 ①改正前臓器移植法 (1997年) の骨子
   イ.医師は死体(脳死した人の身体を含む)から移植のために臓器を摘出できる。
   ロ.脳死した者の身体とは、移植のために臓器が摘出される予定で、
     全脳の機能が不可逆的に停止したと判断された人の身体をいう。
   ハ.脳死で臓器を摘出する場合の脳死判定は、
     本人が生前に書面で脳死と判定されたら死者として扱われることに同意しており、
     家族が判定を拒まない場合に限って行える。
   ニ.脳死の判定はこれを的確に行うために必要な知識、経験を有する
     2人以上の医師の行う判断の一致による。(摘出医、移植医は除く。竹内基準による。)
   ホ.脳死で臓器摘出ができるのは、死者が生前に書面で臓器を提供する意思を表示しており、
     遺族が摘出を拒まない場合に限る。
   ヘ.心臓停止後に腎臓又は角膜を摘出する場合は従来どおり、
     本人の提供意思が不明でも、遺族の同意で摘出できる。     
   ト.脳死した者の身体への処置の費用は当分の間、保険給付の対象とする。
   チ.臓器提供は15歳以上の者のみ可能とする。

 ②改正後臓器移植法 (2010年) の骨子
   イ.脳死は一律に人の死。
   ロ.本人の書面による意思表示がない場合、家族の同意のみで脳死者から臓器提供できる。
      (15歳未満の者からも、家族の同意があれば臓器提供できる。)
   ハ.本人の書面による意思表示があれば、近親者への選択的臓器提供ができる。