てつがくカフェ@ふくしま

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てつがくカフェ@ふくしま報告2023.8.19.「宗教を問う」

2023年08月31日 01時10分50秒 | 定例てつがくカフェ記録
8月19日(土)に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。

会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には11名、オンラインでは6名の計17名の方にご参加いただきました。







ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・それでは対話に入って行きたいと思います。本日のテーマは「宗教を問う」という大きめな問いにしていました。宗教といえばやはり先だっての安倍元首相の暗殺事件でしょうかね、狙撃事件がありまして。それ以来、特にカルト宗教と言われているというか元統一教会の問題なんかも、だんだん分かってきたり。それが政治とどう結びついていたかみたいな話なんかも現状最近あんまり言われなくなってますけれども、結構大きな問題なのかなというふうに思っていたり、それも含めて、昔から古来からある宗教もそうですし、新宗教とか言われる明治以降ですね出来上がってきた新しい宗教の動向とかもあったり、もう古い話になってしまうのかもしれませんが、オウム真理教の事件とかもあったりとかしてですね、宗教って日本人は割と多くの方はあまり積極的にこの宗教に帰依してると言うのを見せる方はいらっしゃらないんですけれども。でも、お盆の時期はやっぱり、自分のお寺にお参りに行ったりとか。でも、年末はクリスチャンじゃないのにクリスマスをお祝いしたりとか。その1週間後には神社に初詣に行くとか、割とそういう割と宗教に関しては世界的には曖昧なと言われるそういう行動が多いんですけれども、世界全体の中で見ると、こんなに宗教とか信仰が非常に薄い民族は本当に稀なわけでして、今だに強い信仰で生きている人々もたくさんいらっしゃる。その中で、日本には日本独特の宗教のあり方っていうのがいろんな形で出てきていて、それがいろんな問題を起こしたりとかことが起こっていると。そういう中で、「宗教を問う」ということで、結構宗教についてはどこまででも問うことはできるわけですから。非常にラディカルな問いでもあるわけですけれども、そこら辺も含めて、ぜひ宗教について色々と考えを深めていければというふうに思っております。それではどなたからでもご発言をお願いいたします。

・初めてこちらの場にさせてもらったんですけれども、行きたい行きたいと思ってても何年にもなるんですが。だいぶ前から行きたいとは思ってたんですけれども、中々機会がなくてっていうか。色々テーマがあると思うんですけれども、今日の限りましては、「宗教」ということで、どうしても参加したいなということできたもんですから、今回参加させていただいて、意見をちょっと述べさせていただきたいなということでやってきました。

・今日のテーマの「宗教を問う」ということなんですが。最初、こういうテーマだから「宗教っちゃなんだ」っていう話が出てくるのかなと思って。まあ大雑把に言って宗教っていうのは。まあ、一つは教祖様がいると言うこと。それから集まりというか、信者がいて信者の集団があるのかな。それからそういう方々が集まる場所。キリスト教の教会だし、イスラムはモスクだし。仏教で言えばお宮さんだとか、お寺さんだということで。教祖様の前提としては、神様みたいなものを想定と言うと叱られるんだけど、神様・心的なものを信じていると。要素としてはそういう三つぐらいかなと。そこで「宗教を問う」と言うことなんですが。困った時の神頼みとかね。イワシの頭も信心からとか、まあ色々出てくるんだけど。宗教の一番単純な事態というか現象というか。人間はお母さんとお父さんから生まれてくるわけだけど、赤ちゃんはお母さんの子宮から出てきますよ。乳児・幼児がだんだん成長してくんだけど、乳幼児の時期って、言わばお母さんは全能の神様みたい。だからお腹が空けば「お母さん、お腹空いたよ」ということで泣き泣いたりするわけで。もう少し成長して困ったことがあると。「パパママ助けて」と。要するに呼びかけみたいなことをして、助けてくれるママやパパが神様みたい。成長して大人になって、いろんなことを悩んだり、苦労したりの場面に出会うんだけれども、非常に苦しくなると赤ちゃんが「ママ助けて」「パパ助けて」と言ったみたいに大人ではあるけど心的なものにすがりたくなると。まあ、そういう事なのかなというふうに考えているんです。

・今のご意見に対してちょっと補足とまでは行かないと思うんですけれども、結局宗教っていうものは救いを与えるものだというふうな意味と解釈したんですが、間違いではないでしょうか?結局、物質的な今では母親はもう全てであると。ただ精神的な意味では、「神が救いを与える」という風な意味の解釈でよろしいのかなと思います。要するに、我々が神様との関係を求めるのは、根本的には不安があるから。やっぱり不安があるがゆえに解消したいといつも思ってるんですよね。だから、「神様に頼むよ」と。物質的なものを得られるかは、普通は無いけど新興宗教みたいなものでは、そういう見返りがあるようなこと言ってるところもあるかもしれませんけれども。要するに、一般的には信じることによって、悩みとか苦しみだとか、そういうものが癒されるというか。安らぎとか老いることの不安を解消できると言うのが根本かなと私は思う。

・私は日本人は典型的な無宗教者と呼ばれるものだろうなと思いながら、今日この間にいるんですが、今までのお話の中で、不安が根源にあるから、人はその宗教を信じたりするというところに、私もとても納得していて。私は信じる宗教はないんですが、ただ本当に自分が気持ちが不安になった時だとかに何かこう導いてくれる、こうしたらいいよっていうなんかレールみたいなものがあったら楽なのになあって思うことがあって。それが人によって占いだったり、宗教だったり。あとは、今はアイドルとかキャラクターアニメとか漫画とかのキャラクターのそういうを「推し」になったりするのかなと思うんですが。私も実際「推し」がいて、その「推し」が「こういう風な生き方っていいよね」ということを発信してくれれば、「そうだよね」と救われる気持ちになることもあって、その宗教は入ってはいないんだけれども、無意識的に何かこう救いを求めるというか、こういう道があったら自分は楽になるのにっていうところが、根源的な自分の感覚としてあるなというふうには思っています。

・何人の方が不安というようなことをおっしゃっていて、それは確かにその通りだと思うんですけれども。「現世利益(仏教用語。仏を信仰した結果がこの世で実り、欲望や望みが叶う事)」みたいなのありますよね、病気にかかりませんようにとかね。大学受験合格みたいな。そういうのを宗教に求める人もいるし、不安だからってこともあると思うんですけれども。例えば、キリスト教であるとすると、それはもう宇宙の創造とか。要するにあらゆるものが最終的には神の国になるみたいな目的性まである。そういうことで全てを説明してくれる。つまり不安だとかっていうような気分的なものっていうのが、実際にその宗教にはまってしまう人たちのその要因としては大きいと思うんですけれども、そこだけ見ててもちょっと違うかなと思うのは、その宗教的な世界観。それの倫理的な正しさとかですね、美しさとかですね。それが真実だと言い切れるようなロジックとかですね、そっちの部分も見逃してはいけないのかなと思います。例えば、僕はオウム真理教の事件の時、私は彼らの主犯格だった人たちと世代が同じなんですね。それで実際に彼らが通ってた学校とかにも出てたりしますんで。それで、どうしてあんな事なっちゃったのかなっていうのを考えた時に、これ僕決して取材したとかなんとかで裏取ってるわけじゃないんですけれども、思ったのは不安とかもあるでしょう。生き方でどうしたらいいかってのもあるでしょう。同時にオウム真理教というのが。一切合切の正しいことを世の中の真実を明かしていると世界がこういう風になってるんだってことを述べているというふうに、彼らは思い込まされてしまったというところがあると思います。なので、不安感とか感情的な部分と同時にその宗教の持ってるその完全性みたいなことを言いはる。そのやり方についても考えた方が良いなと思います。

・今の意見も踏まえてですね。宗教が人間にとって必要なものは心の拠り所であって、その一つが宗教であると私は思うんですけれども。心の拠り所は何でもいい。哲学でも良いし、その反対側にあるのが宗教ですから。または私も音楽を色々好きで聞くんですけれども、音楽でもいいと。ということ、先ほどの方が無宗教だとおっしゃいましたけれど、無宗教だって別に構わないんですよ。生きる上に必要な物は自分が信じるもの、好きなものそれでいいと思うんですけれども、その中に宗教もあるということをちょっと考えてはもらいたいなというふうに思います。人間信じるものがあれば癒されるというようなことで、宗教という信じるものがあるということともう一つ。それを言葉で言うと、信仰と。そして、仰ぎ見るものもないと中々宗教的にはなんないのかなと言うように思うんです。だから、信じるものがあれば宗教かなと。例えば、俗な言い方ですけど仮にマルクスを信じる宗教なんていう言い方をすると、一部の人に怒られるかもしれないけれど。要するに、マルクスからマルクスの考え方、『資本論』を本当に正しいと信じる。いわばマルクスが教祖様で、要するに今の資本主義のありようやいろんな悲惨な所を直して行くには、それを実行して改革をして、そういう共産主義的な社会を創っていくんだと言う。もちろん、共産党というのを作れば組織になるから、そういうものだって宗教的になり得るんだと思うんですよ。するとオウム真理教の場合、言われたらこんな高学歴な人達がなんでこんな嘘っぱちみたいなものを信じるようになったんだと言い方がまあされたんですけど。今もあちらの方で話されたけど、信じさせられちゃった。教祖が空間に浮かび上がるとか色んなことが本当か嘘かわからないような。そういうようなことを行ったりして、信じさせられちゃったという言い方をされたんだけど、実は信者っていうのはそういうこと信じたんですよね。信じさせられた。それは他から見てそうなんだけど、本人は信じたんです。宗教というのは自ら信ずることがないと中々絶対的なものにはならないというふうに思います。それと私は思うのは、こういう例でキリスト教の場合は神が宇宙の創造者ということで、一神教と言っていいと思うんですけど。これって豪雨とかいろんな自然災害など、昔で言えば嵐とかね。自然災害の裏には。それを起こす神様みたいな存在がやってみる。アニミズムっていうふうに自然の背後にそれを打ち出している存在があるというふうに見てるんだと思う。それで、キリスト教との比較で言うと、旧約聖書ができた頃の時のことを考えると、要するにそのアニミズムとデータとかでこれ言うと、信者からは本当に怒られそうなんだけど、要するに自然災害の背後にそういう打ち出す力を持った存在を神だと。要するに祖先崇拝とかあるんだけど、それを遡って行くともう始まりがあるんじゃないか、必ずそこにぶち当たって。「宇宙の始まりは何?」と、それは神が創造したんだ。そこら辺が一神教の神様の始まりなのかなというふうにも思うんです。そういう意味でアニミズムとちょっと似たところがあるな。キリスト教の旅を追うとそういうふうに捉える人とそういう捉え方だと。私が絶対正しいとは思ってるわけではないんですけど、そんなふうにも思います。

・宗教に関しては勉強をしてないのですが、皆さんのお話を聞いてて感じることはオウムとかもそうですけれども。宗教は信じこみなんで、その信じこみとあと観念論ですよね。あとは人との関わり方。人とどれだけ関わっているかっていうことが関係あるのではないかと言うこと思うんですね。そこに大きく影響しているのが物質的な環境ですね。それがあると思うんですね。古代というか、まず狩猟の時にはみんな獲った獲物を平等に分けたんですよね。ところが農業が発達してくる中で貯めることができるようになりますね。一部の人はいっぱい食べる。そうすると平等な分配ができなくなる。そういうところから精神的な問題が出てくるっていうか。なので、環境というのとあと不安ですね。とりわけこの社会が競争社会であると言うことは、もう本当に否めない事実なので。そういうところでね。やっぱり精神的な不安になるのは当たり前のことなんですよね。その時に宗教に救いを求めるというか。

・今回初めて参加させていただきました。皆さんの色んな積極的なお話をお聞きして、大変ありがたいなと思って興味深く拝見しました。今日の議題の中で宗教についてということでしたので、私自身の考えというか、若い頃は色々仏教とかキリスト教とか、あとは新興宗教とか色々勉強をちょっとやってきたんですね。そん中で感じたのはですね、宗教は色々と立派なことを言ってるんですけども。最終的にやっぱりお金ですから。「浄罪」とか言って、そういったの結構今まで多かったです。だから、信仰の為に、俗に献金とかなんかお金が絡んでくるな。一体どれくらいお金かかるんだろうかって思って、今も悶々としながら今まで生きてきました。確かにそういった組織として成り立つためには、やっぱりお金は必要なんですが。統一教会もそうでしょうけども、なんだかんだ言いながら、やっぱりお金がないと組織として成り立っていかない部分もあるんで。でも本当にそのお金自体が、この我々が生きていく上で、潤滑するには必要なんですけども。宗教として捉えた時になんだかんだお金は必要なのかと。神社に行っても賽銭出せとは絶対言わないけど、賽銭を出すのが当たり前みたいになってるけど。でもそれって本当に神様にお金出してるんじゃなくて。当の神主さんが生活する為に必要な生活費入れてんじゃないかなっていうふうに考えるときあります。教会に行っても献金はありますけど、それって司祭さんの生活するためにとか、あるいはその状況だったためにお金出してんのかいと。新興宗教でも、やっぱりなんだかんだで最後はお金。私、いろんな宗教とかに顔出しましたけど、最後にお金の話が出てきたときに、「これは本物じゃない」と、結果を出しまして。琵琶湖とかの方面に立派な神殿建ましたとか、そういう話聞いた時に「じゃあ出したお金ってそういうのに使われたんですか?」って。だから本当に下世話な話ですけど、宗教を考えたときにそんなにお金は必要なのかなって今でも思ってます。逆に最近人間の基本的な根源的な欲求とかの気持ちとしては、本来人間っての人に喜ばれると嬉しいって本能があるって聞いたことあるんですね。自分が人から愛されたり何かものを送られたり、人様の役に立ったり。あとは人から称賛されたりという人様のお役に立てるような生き方は、できればそれはそれ自体がもうすでに宗教なんじゃないかと。お金関係なしに自分が朝方散歩してる間に夫婦で歩いてる方は見かけたことあるんですけども、落ちているゴミを拾っている人を見かけたことあるんですけど。実際、人から見られない中でゴミを拾ったり、人から認められないけども、誰からも見られてないけども。みんなの役に立てるようなことやってる人を見た時、私は手を合わせました、陰ながら。だから宗教の一番はお金ではなくて、みんなに自分が人様から社会の役に立ってうれしいって、思えてもらえるようなその延長とか、その積み重ねじゃないかと思ってます。

・本日は初めて参加させていただいて、「宗教を問う」というタイトルだったので、ちょっとご参加させていただきたいなと思いまして、私歴史がとても好きで、歴史が趣味でこう色々こうして勉強とかするぐらいなので、宗教に対して深く知識とかはないんですが、歴史を勉強している中で、やっぱり宗教の歴史は切り離せないところがあるのかなっていうところで。今回は「宗教を問う」というところで、またこう宗教に関して考えていたところをおさらい程度にお話したいなと思ったんですが。世界には五大宗教がある中で、仏教、キリスト教、イスラムユダヤ教、ヒンドゥー教とある中でキリスト・イスラム・ユダヤはエルサレムに起因して一神教の宗教に基づいて、日本には中々馴染みがない。イスラム教とかユダヤ教は世界的には、ここが一番大きい信者がいるところなのかなってところはあるのかなっていう風に思ってます。仏教とか江戸時代までは儒教の授業として、どちらかという宗教ではないんですが、教えるところですかね。中国で、清国まではずっと儒教ベースにOSとした国づくりが行われていたところで、日本では飛鳥時代に中国から仏教がどちらかというとこう政治OSとしてこう取り入れられて、政治をするための仏教という形で取り入れられた部分が宗教としては大きくて。当初は貴族の中でやっていたものが、段々歴史を編成するにあたって、浄土宗とかそういった曹洞宗とか日蓮宗とか、そういった市民に街の方、市民単位で教えられるものになってきたのが、今の宗教にどんどん繋がってきてるのかなと。根源として考える中で、今の仏教は元々日本に仏教が来た段階でも、どちらかというと政治のための仏教っていうのがどうしても強かったのかなっていうのがあって。元々日本は多神教ですし、800万の神様を信仰していて、どちらかというと教えではなくて、神様を信仰していた民族の多い所に、仏教の考えが入ってきて、それらがミックスされながら、天皇を中心とする国に多くの神を信仰するというのが日本なのかなっていうのが、根底にはやっぱりどうしてもあって。なので、公無宗教というよりは、本当に元々日本は、色んなものをミックスして良い所どりをしていくのが日本の特徴なのかなというふうに思っています。宗教離れというよりは、まあ元々宗教は日本には馴染みが深くて。おそらく今の市役所とか町村があった機能が元々神社にはお寺にあって、お寺の古跡を管理していたと思うので、どちらかというと市民や町民、村民の方がお寺に行く機会が多くて。そういった中で仏教の教えだったりとか、生まれてから死ぬまでもお寺に行って入って教えてくれることがあったので、そういった教えを学ぶ場所が元々あって、そういった考えを元々もう小さい頃から教わっていたのが、昔の考えなのかなというふうに思っています。そういった中で、キリスト教も西洋の国ではだんだんこう離れているっていうのは、やはり科学の進歩がまあ一番大きいところなのかなっていうふうには思っていて。今まではキリスト教とか、イスラムの教えが世界の全てで創造世界が始まったのキリスト教の創造主は初めて全てを生み出して、全てを作り出して、全ての教えというか。全ての根源は『新約聖書』、あるいはユダヤ教であれば、旧約聖書から全て治まっていたんですが。進化論ぐらいから、だんだん科学が発達してきて、キリスト教の教えじゃないのかなっていうところから、だんだん科学の方にスライドしたきた中で。宗教の教えいうのが中々市民の方に受け入れられなくなってきてる部分があるのかなっていうふうに思ってたら、宗教の歴史っていうところを問うというところなんですが、やっぱり問うというところで、やっぱり教えを教わる場所がまずなくなってしまったというところが、まず一つ宗教離れところがまず一つあるのかなっていうところがあるのと。科学を信じ過ぎた結果、科学で説明できない目に見えないものとかなんともこう解決できない問題への作用がやっぱりあって。それが新興宗教とか眼に見えないものとか、スピリチュアルとか、そういった所への説明をスピリチュアルにこじつけて説明なんか、あたかも本当かのように教えているのが新興宗教とかの部分に関わってくるのかなと思って考えています。まだここまでぐらいしか自分の頭の整理できなくて、宗教ってかなり大きいテーマなので。私はどちらかというと歴史が好きなので、今の皆さんの宗教に対する考え方とか、どういう風に考えてるのかなっていうのを、皆さんの意見とかもちょっと聞きながら自分の考えを深めていきたいなというふうに考えていたので、ちょっと分からせていただいたところではありました。

・今までの話の中で、宗教とお金の話が出てきて。確かに現実的には宗教活動するためのお金が必要になっていると思います。でも、これって考えてみると、人間が生存するためには単純に言って衣食住これが必要で我々生きて行くためには、衣食住を確保するためには働いてお金を得る、お金を得ないと生存できない。こういうことだと思うんですよね。縄文時代やもっと前に自給自足社会はともかく、そういう時代でわなくなって、全て働いてお金を得て生存をしていると。要するに宗教団体も同じですよね。団体として存続する為には人間が存続するためにお金が必要であると同様に、やっぱり宗教団体だってお金が必要となってくる。特に、その宗教団体の方々、信者の方々、これぞ真実だよと、こういうことは社会に広めていかなきゃならないというふうな活動しようとすれば当然お金の問題が出てくる。お金を集めると現金を募ると言うようなことになってくる。ただ、ちょっと見損なっていけないのは、やっぱり宗教心の問題。今日の例で言うとイエスさんは貧しき者は幸いなりと。つまり別に金でもって存続させようということではない。根本は違うんだと言うことを押さえておかなきゃいかんなというふうに私は思ってます。

・そうですね。お金の話が出たところで、私が思うのは、今の宗教界の弊害というのは大乗仏教的な考えが蔓延っているというか。まあ教壇の運営するにはお金がいる。そのためには信者からお金を集める。お寺さんにしても、やっぱりお寺を維持するためにはお金がいるので寄付してくださいと言うことだと思うんですが、結局宗教は進めてもいいけど、強要してはいけないというのが私は思うところなんですけれども、異論はあると思うんですが、日本の宗教に限れば、仏教と神道が混在している状態でその宗教も色々あるんですけれども、基本は先祖崇拝なんですよね。仏教にしろ神道にしろ、国家神道という時もありましたけれども、今の神道で言えば、個人の信仰が一番大事で。それをみんなに押し付けることは、宗教の本来の目的から外れているんではないかなと言うふうに思います。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。