てつがくカフェ@ふくしま

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てつがくカフェ@ふくしま報告2022.11.23.「反省と謝罪はできるのか?」

2022年11月27日 18時09分56秒 | 定例てつがくカフェ記録
11月23日㈬に開催された「てつがくカフェ」について世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には7人、オンラインでは7人の計14名の方にご参加いただきました。

なお、今回世話人が話に夢中になりすぎて会場写真を撮るのを失念しておりました。


「反省と謝罪はできるのか?」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

・本日のテーマは「反省と謝罪はできるのか?」です。来年の2月もテーマ決めないで、皆さんからテーマを出していただいて話すということをしたいと思うんですけど、今年の2月に皆さんから色々なテーマを出して頂いた中の一つが反省とか謝罪に関する事柄があって。テーマとして、問いとして「反省と謝罪はできるのか?」というのは変というか、上手くいい質問にまとまらなかったのですけども。とにかく反省とか謝罪について、考えていきたいという風に思っております。反省というのは、深い言葉で色んな意味があって、リフレクションは反証と訳すこともありますし、哲学的にも色んな意味で使われる深い言葉ですけど、多分ここでは普通に私たちが一番よく使う「反省しなさい」とか「反省してます」と言うときの反省で、今回は反省という言葉を使っています。つまり、何か悪いことをしてしまった時に反省をすると。いうようなことを考えております。それと、さらに謝罪という相手に対して謝るということですね。反省と謝罪は、似たような関連する言葉ではありますが、同じ事柄ではありませんので、反省とは何なのか、謝罪とは何なのか。反省は可能か、謝罪は可能かみたいな形で、別にいっぺんにまとめて離さなければいけない訳ではないので、反省と謝罪について今日は順番に色々と考えていけたらと思っております。よろしいでしょうか?では、あとは皆様からご自由にご発言いただければという風に思います。

・今発言されたように私もテーマを見て、「反省と謝罪はできるのか?」と言われて、できるだろうと即答になるんですけど。問いが微妙だと言ったんでそうかと思うんですけど、反省は自分がこうなったことに対する失敗、「間違ったな」とか「あんな事言わなければ良かったな」とか実感するというか、自分の行為を顧みる行動ということで、反省は出来ると思います。謝罪というのは、相手に迷惑をかけたことに対して謝るという行為だと思うので、許されるかどうかということは抜きにして、謝罪もできると思います。自分がやったことで相手を傷つけたとか、殺してしまったとか、間違って轢いてしまったら、「ごめんなさい」ということは、できると思うんですが。多分この問いとしては、反省して「ごめんなさい」で済まされるのかというところの問いで、相手がどれだけ謝って誠意を見せてもそれを許すことが出来ないというか。許す、許さないは相手の問題かと思うんですけど、その辺をテーマにしたいのかなと思った次第です。

・今日のテーマから、今仰った方とほとんど同じような考え方なんですね。要するに反省というのは、自分自身がやったことについて色々思うんだから、これは勿論できるわけですし。ただ謝罪というのは、相手がいることで誰かさんに何かをやってしまって、やったことについて「謝れるか?」ということだろうと思います。勿論それも謝罪できるんですが、今仰った中で、人を殺してしまったという時に、死んだ人はもういない訳ですよね。そういう時に、謝罪できるのかっていうこと自体が、ちょっと問題かなという風に考えまして。だから、謝罪ということでは、相手が生きているという前提で考えるのかなと。そういう風に考えると、テーマに関して言うとどちらもできるということかなと、理屈としてはね。そんな風に最初は考えました。

・私が思ったのは、反省することは出来ても謝罪はできない、簡単にできないことってあると思うんです。でもやっぱり謝ろうとかね。なので、相手がいるということですよね。どういう相手かということ、自分がやったことに対して。あとは、自分自身のプライド。プライドもどういうプライドなのかと、本当の人間的なところから謝らなくちゃならないという。本当の人間としてのプライドもあるし、あとそこに関係してくるのが、この世の中の競争という部分が関係してくる。なので、この世界に包摂(一定の範囲の中に包み込むこと)されていて、競争の世の中だから色々なプライドがあるなって。私の経験としては、やっぱり正しいことを選ばないで自分自身を選ぶことってあるじゃないですか?例えば、プーチンであったりとか間違ったことをした政治家とか。それは自分自身を選んでいるというか、正しいことを選ばずに。色々な広い意味、狭い意味があると思います。

・確かに反省しなければならない、謝罪しなければならないケースというのがあって、それがどういう風に起こってしまうのか、そこまで遡って考えないと、この問題は実は決着つかない問題なのかもしれないのかなと今お話聞いて思いました。

・今5歳の子どもを育てているところなんですけども、何というか毎日同じそれこそ過ちというか、同じことの繰り返しが起こっていて、歯を磨きたくないだとか、YouTubeをずっと見続けていたいだとか、そういうくだらないことが沢山あって。その都度、親に怒られて。ほぼ一人っ子なので非常に我が強いというか、すぐには言うこと聞かないで大泣きして、大騒ぎして。うちは親がダメって言ったらダメなので、折れないから。それでも永遠と彼女は騒いでいるけど、しばらくすると「ごめんなさい」と言って、謝ってくるんですけど謝罪は一応してくるんですけど、翌日また同じことが繰り返されるんですね。昨日あんだけ「ごめんなさい、もうしません」と言ったじゃないかよと思っているのに、また同じことが起こるんですね。ほぼほぼ毎日同じことの繰り返しで、これは根競べなのかなと思っているけれども、だから何か謝罪しているけどしているのかなという風に。あるいは反省もしているのかという風に思うところがあって。小さい子どものこれは、うちの妻には上に二人の子どもがいて、上の二人に比べて今の子は違うと言うんですけども、多分個性の問題はあるのかなと思うんですけども。発達段階の過程において、反省とか謝罪というのはどうやって身についていくのかとか、そういうのは若干考えているところです。

・今の話とも関係あるかと思うんですけども、さっきの方が仰っていたのですが反省は出来るんだと、自分の問題だから。謝罪は相手がいるからできるかどうかと。そう簡単に自分だけじゃという問題も出てくるという話をされていたと思うんですけども。今仰られていたことって、親が見て「この子は反省したのか?」とか、そういうことですよね。つまり、反省というのは自分だけの問題であるとか、謝罪というのは自分と相手の問題であるということで、そこでできるかできないかと決めてしまっていいのか、ということです。例えば、具体的に言うと政治家が良からぬことをして、謝る訳ですよね「すいませんでした」と言って。場合によっては「もうしません」とか。なにか反省じみたことをいう訳ですよね。でも、多くの人が聞いたり見たりして「反省してねーだろ、こいつ」と思うんですよね。つまり、そういう風に反省とか謝罪とかある種、社会での文脈に置かなければ成立しえない場面というか、そういうような見方もできるのではないかと。本人の問題というか、本人と相手ということで片付けてしまって、いい部分とそうじゃない部分とがあるのではないかと。というようなところを、考えないと例えば、子どもが反省しないというのも分からないんじゃないかと、そういう気がしました。

・今回は初めて参加するんですけど、今までの議論の中でちょっと考えたこととして、反省と謝罪の特に謝罪の方なんですけども、大きく言って謝罪に必要な条件がですね、要素を自分なりに三つ考えました。まず「主体」という角度と、「客体」という角度と、「価値または基準」という三つの要素がそれぞれ、マトリクス(母体、基盤、原盤、鋳型など)になって、ある案件について、例えば謝罪ができるのかできないのか。ある基準からすれば、許せるのか許せないのかとかですね、三つがマトリクスで決まってくるのかなと。例えば、日本が韓国に謝罪するという場合に、主体は日本、客体は韓国という国家同士だったら本当に謝罪って個人個人が、日本国民が8割方謝罪した方がいいんじゃないかと仮に思ったとしても、国家としては出来ないという結論になるかもしれないし。例えば、福島で東電は中々謝罪しなかったというのも、法人ていう立場からすれば社長は謝罪したかったかもしれなけれども、立場上謝罪できなかったかもしれないという風にですね。それぞれの個人なのか、法人なのか、国なのか誰が主体なのかということとと、あと客体が同じように誰なのかということと、その謝罪の基準というものが何なのかということが、それぞれマトリクスによってそれぞれ謝罪できるのか、できないのかってことが決まってくるんじゃないかなと。でそれに対して、謝罪をしないからって非難する立場も自分という立場で謝罪するのか、国という立場で非難するのか、またはその基準を含めて非難するのかしないのかというのが、個別にすべて決まってくるんで一概には言えないんじゃないかなと。何かの、一つの、このケース、この場合についてはどうなのか、こういう場合についてはどうなのかといって、個々に全部違うのではないのかなという風に思いました。

・非常にクリアにマトリクスの話をして頂いて、色んなケースがあるかなと。確かにこのテーマを掲げた時も、企業が色々やらかしてしまってそれを謝罪するみたいな話だったり、政治だったり。みたいなのが、例にあがってこの話が出ていて、という風に考えた時に個人の反省とか謝罪というのと、個人ではない法人格がしなければいけない場合にというと、だいぶ変わってくるというのはその通りかもしれないなと思ってお聞きしておりました。

・今のお話で、法人の場合謝罪した時にどういう影響が出るとかね、そういうことが起こってくる。そういうことはあると思います。ただ、私考えたのは反省にしろ謝罪にしろ、いずれの場合でも、自分のやったこと自分の行動について自らが考えて、評価をするというそういう前提があるんじゃないかなと。反省にしろ、謝罪にしろね。自分のやった行動ですよね、それについて考え、あるいは考えて評価する。その結果、出てくるものだろうという風に思います。ただ、そういう前提で考えないといけないんじゃないかなと。もう一つ先ほど法人が謝罪するとか、問題が起こってくるわけですけど、その場合はもちろん法人だって、法人がやったことについて法人として、役員が中心になるんでしょうけども。法人として考え、評価をし、その上で外部に対して謝罪をするということがあり得る訳ですけど、その場合もその効果とか影響について考えざるを得ないのかなと。それは自分たちの利益とか、それを謝罪した時に、場合によっては他の法人、他の人達にとんでもない悪い影響が出ちゃうかもしれない。そういうことも起こってくるのかなと思いました。

・以前とある議員さんが交通事故とかを起こして、「もう辞めろ」と責められた時に、会見か何かで「今この職を辞するのは無責任だと思うので、続けながら反省します」みたいな話をつらつら述べていたんですね。それを聞いた時に、謝罪の仕方というか、何だろうな僕はミスをしたらやっぱり罰(ペナルティ)を受けるというか。この場合は自分に罰を科すというか、そういうことをした方がいいんじゃないないかなと。議員報酬をもらいながら、「真摯に皆様のお言葉を」みたいな話をされても、自分に甘いんじゃないかなと。謹慎とか罰金とかじゃないと、大人においては責任の取り方って、その二つなのかなと思ったので、その議員さんの職を辞さずに続けながらという話は僕はモヤモヤしたなという記憶がありました。

・謝罪といった場合、個人で色んなことに関してできることで、謝罪というのは確実に相手がいることだと思うんですよね。ただ謝罪ということを考えた時に、反省が出来なければ謝罪は出来ないと思うんですよね。なので、その反省が出来るかどうか、正しい反省が出来るかどうかってところが物凄く大切で、その時にさっき私が言った「悪いプライド」、例えばこの社会の競争の中で、受験もそうですけれども会社の中での競争も、要するに会社なんかでは賃金制度というのは労働者の競争があって、支えられるものなんですね。私たちのどんな小さな苦しみもそこから来ているのではないかと考えているんですけど。例えば具体的に競争で自分が上か下かなんて考えているような場合は、やはり反省も謝罪もできない人格になってしまうというか、そのことで相手に傷をつける。だから、反省や謝罪は相手がちゃんといる場合、相手のことを相手の想いや、苦しみを想像することが出来るかどうか。そういうことに、そういう能力が関係してくるというか。という風に思いますね。それが国家であれ、個人であれ同じであってやはり反省と謝罪は、私反省ばかりの人生なんですけど、真剣に生きてる人ほど反省はしていると思うんですね。あと謝罪もしているだろうという風になんか分かるなと思います。

・さっき、「主体・客体・基準」という話をして頂きましたけれども、その際にもう一つ主体と客体とだけじゃなくて、どなたか行為と仰ったけれども、何らかの行為、言動でもいいんですけど対象となる何か行動・言動というものが、確定されなければならないのかなと思っていて。ただ寧ろ、確定しないようにしている。特定の何かって確定しないようにして、ぼわっと人格そのもの人間そのものとして悪いと、それを「反省しろ」っていうことがよく行われるんだけれども、基本はその主体・客体の主体が何をしたのかと、客体に対して何をしたのかっていう具体的な行動・言動というものがまずきちんと特定されるべきじゃないかなと。その要素というのを加えた方がいいんじゃないかなと思ったのが一つ。それから反省できなければ謝罪できないというのは、物凄く真っ当な理論としてその通りだと思うんですけれども。微塵も反省していないけれども、謝罪だけするっていうことはあり得るんじゃないかなって思っていて。つまりそれは口先の謝罪なんですけれども、例えば企業として何かしでかしてしまって、当然その人がやったかどうかも分からないし、法人としてなんだけれども「まぁ、しゃーないよね」と思いながら、それ以上炎上してしまっては困るので、きちんと謝罪してみたいな。だから、凄く上手い謝罪をしているなと議員でもいいですし、法人でもいいんですけれども、それっていうのは「本当に反省しているのかな」ってたまに思わないではないことがあるってことが、一つです。だから、口先のというかそういう謝罪というのは、謝罪と言っていいのかとか、みたいな問題にもなるのかなって聞いていました。

・思い出しました。小沢一郎がね、確か従軍慰安婦の問題であの時に、「謝ればいいんでしょ」っていう風に言ったのを思い出したんですね。その時は、相当悪いだなという風に思ったのを思い出しました。

・先ほど三つの基準と言ったんですけど、四つ出して頂いて私その後の皆様の対話を聞いている中で、じゃあ一番その四つの内の中で、何がその中でも主体として何が基準になるのかといったら、やはり価値判断基準というものが、根っこにあるのかなと。根はそこにあるのかなと。例えば、アメリカの社会であれば「これは自分がまずい」と思っていても、謝ってしまったらお終いというようなことも。アメリカに住んだこともないので分からないんですけど、そういう西洋人というのはどちらかと言うと、そういう考え方をしているのかなと。僕は小沢一郎さん結構囲碁が好きだということは知っているんですけども、過去にネットで韓国人と囲碁を打っていると、韓国人は絶対に謝らないというか。相当強硬な手を打ってきて、こちらからするとめちゃくちゃなこともやってくると。やはり悪いと思ったら反省をしなければ許せないという感情って、日本のという言い方も私は好きではないんですけれども、日本の風土というのが国民性というがあるのかもしれないなって、今ふと思ったんですけど。なので、国会議員の先ほどの発言があると、一方ですね国会中は不逮捕特権とか法律ではあると思うんですけど。なんだけれども、ああいうことがあると「それはおかしいじゃないか」と思うのは、国民性とかですね、そういうものは根にはあるんじゃないのかっていう風に私は考えました。個人的には先ほど女性の方が発言されたようなことも、私はほぼほぼ9割感情的にはすごい賛成ですし、どちらかというと私も先ほど発言された女性のような思考パターンを持っているんですけども、一歩引いて考えるとそれぞれの風土とか、価値観とかそういうものが根っこになって、それから見たらば謝罪とか、反省はちょっと違うと思うんですけど。謝罪というものはそこから見てどうなのかなって問題に行きついているんじゃないかなっていう風に私は思いました。

・今の方の話とちょっと関係ある気がするんですけども、例えば神の居るキリスト教の文化みたいなところで反省するといった時に、教会に行くわけですよね。それで懺悔をしたりとかですね、こっそり「私はこんな悪いことをしました」と言う訳ですよね。それは私は誰かを殴りましたっていうのを殴った人に謝っているのではなくって、神に対して言葉として反省したりする訳ですよね。何が言いたいのかというと、そういうような神とかそういうような絶対的な基準がある場合というのがあるとすれば、反省や謝罪というのは成り立ってくるのだけれども。現状今の日本はそういうのはないですから、そんな中で果たして反省の基準も成立しうるのかなと、ふと思ってしまうんですね。先ほどから色んな方が仰っていて、自分が思ったから反省だとか、いやいや自分がこう思っても相手が思わなきゃ謝罪にならないとか、あるいは政治家が謝った格好をしているけれども、そんなの謝ってねーだろとみたいな。色々社会の目とかですね、色んな基準とか色んな視点とかから、反省しているかどうかとかしてねーだろとか、あれは本当の反省じゃないとか、ごちゃごちゃしてしまう。とっても相対主義的な状況になってしまう。これがちょっと今の神無き時代には致し方ないのかなと。なおかつ先ほどの方も言われていたと思うんですけども、日本の文化的風土といいますか。ある種、馴れ合いの中で、誰か悪い人をスケープゴートに探したりですね、なんかうじうじして皆横並びにならなくちゃいけないみたいな、ある種日本的な変なところも加わって、今の反省とか謝罪とかっていうののごちゃごちゃ状況をよりなっているような気もします。

・僕は「謝罪ってなんでするのかな?」と思った時に、「失った信頼を取り戻す行為」なんじゃないかなと。謝罪会見とか色々企業がやったり、この間も保育園で送迎のバスに子どもを取り残して、熱中症で死亡したという事件もありましたけれども。ああいった謝罪会見というものを見ていると、「失った信頼を取り戻す行為」の会見とはちょっと思えないなと感じるというか。だから、モヤモヤしているのかなというか、何か納得いかない会見だったと思うのかなという感想です。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






次回のてつがくカフェは、

12月17日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「人に迷惑をかけてはいけないのか?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

該当記事の「Zoomミーティングに参加する」の下の

URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。

会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


てつがくカフェ@ふくしま Twitter

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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。



てつがくカフェ@ふくしま2022.11.23.「反省と謝罪はできるのか?」

2022年11月01日 19時20分25秒 | 開催予定
「もし自分が間違っていたと素直に認める勇気があるなら、災いを転じて福となすことができる」デール・カーネギー

てつがくカフェ@ふくしま2022.11.23.
【テーマ】「反省と謝罪はできるのか?」
【日 時】2022年11月23日(水)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料 (飲み物は各自ご用意ください)
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/83261497533?pwd=bEc1WW1QMTQ1RXUyejhlNmNBOEIzUT09
        ミーティングID: 832 6149 7533
        パスコード: 4UpH8q

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp






今回も参加者の方からリクエストいただいたテーマとなります。


反省と謝罪と聞くと、謝罪会見について思い起こす方もいるかと思います。

最近では、特に不倫や不祥事を起こした芸能人が会見を開き、

謝罪の弁を述べ、深々と頭を下げる光景を

目にする機会が増えたように感じます。



しかし、文字通り世間に「謝罪」するために開かれる会見で、

さらに失言してしまったり、

納得できる説明を得られなかったり、責任を認めなかったり、

表面的には謝ってはいるものの誠意のない謝罪と感じたり、

見ている側がストレスを感じてしまう謝罪会見を

これまで何度も目にしてきました。



また謝罪会見で話した内容に嘘や隠蔽があり、

その情報がネット上に流出して拡散したことで炎上してしまい、

世間の怒りを鎮めるどころか、火に油を注ぐ結果となってしまったこともあります。



最近の話題で言うと、

2022年には秀岳館高校サッカー部のコーチが

部員に暴力を振るう動画がSNSで拡散した際に

同部の前監督が騒動の鎮静化を図るため

テレビ番組で一連の騒動について謝罪したものの

後に学校側がおこなった会見の内容と、

監督が番組で語った内容が、大きく食い違ったことで

さらに非難の集中砲火を浴びてしまいました。



また同年4月に起きた知床観光船事故について

運航会社社長が記者会見を行った際、

謝罪会見にも関わらず「赤いネクタイ」を締めてきたことや

冒頭に「このたびはお騒がせして、大変申し訳ございませんでした」と

謝罪した発言に違和感を抱いている人が多く

まずは「お亡くなりになった方やご遺族、又現在捜索中の人達の皆様に深くお詫び申し上げます」と述べるのが先という意見もありました。


さらに運航したのは「客が出してと言ったから」「船長の判断だった」と人のせいした発言や

報道陣からの質問に対しての答えが噛み合っていない点、

「安全管理規定」を守っていたかどうか聞かれた際は「はい」と答えていたが

その後乗客のご家族に向けて安全管理規定に違反していた旨の文書を配布するなど

結果的に国民から強烈な怒りを買うことになってしまいました。



ほかにも謝罪会見ではありませんが、

2019年に起きた池袋暴走事故では

事故を起こした高齢者の男性の言動に注目が集まりました。

中でもテレビ取材で

安全な車を開発するようにメーカーの方に心がけていただき、私たち高齢者が安心して運転できるような外出できるような世の中になってほしいと願っています

と発言した動画が瞬く間に拡散され、炎上しました。



このように被害者の神経を逆なでするだけではなく、

見ている人たちをも不快にさせるような「炎上謝罪」が世間を賑わせておりますが、

一方で、浮気や不倫など第三者である直接関係のない世間一般の人々に対して

謝罪することは「正しい」のでしょうか?



また怒りを鎮めることが目的となってしまうと、

問題の本質が改善されず、

同じことを何度も繰り返すといったケースもあるかと思います。



「テレビのやらせ」「学校のいじめ」「政治家の不祥事」など

発覚する度、当事者や関係者が謝罪するも

しばらくすると同じような出来事が報道され、

また謝罪するといったことが繰り返されています。



謝ったら負けなのか?

本当に反省しているのか?

反省を活かして改善されるのか?

謝罪会見に正解はあるのか?

反省や謝罪をされてもなぜ納得できないのか?許せないのか?などなど

ほかにも、謝罪する側と謝罪される側の心情の問題など

様々な角度から考えていきたいと思います。



なお、今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加の方は、お申し込みは不要ですが、当ブログに掲載されております、

「てつがくカフェ@ふくしま」当面の開催方針(2020年7月10日現在)】に従い、

マスク着用等のルールを守ったうえでご来場いただきますようお願い申し上げます。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、

上記の「Zoomミーティングに参加する」をの下のURLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。



「てつがくカフェ@ふくしま」は

誰でも気軽に対等に、

安心して何でも話し合える場です。

初めての方でもお気軽にご参加ください。