てつがくカフェ@ふくしま

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てつがくカフェ@ふくしま報告2021.11.13. 「運命は甘受すべきか?」

2021年11月16日 14時31分03秒 | 定例てつがくカフェ記録
11/13(土)に開催された定例てつがくカフェについて

世話人の石井が報告させていただきます。



今回も会場&オンラインの同時開催となりました。

当日の会場には11名、オンラインでは3名の計14名の方にご参加いただきました。







定刻通り16時から始まりました。

ここで今回参加いただいた方の発言の一部をご紹介いたします。


【運命とは?】
・「生老病死」(生まれること、老いること、病むこと、死ぬことの四つの苦。人生における免れない四つの苦悩のこと)という言葉があるように、(運命とは)老いる苦しみなど人が生まれながら持つものかなと

・競馬場の人の話で(馬券が)ハズれても驚かないが、当たると驚くというのがあって。それってギャンブルというのは(ある意味)運命を否定しているんじゃないのかなと。競馬場のそのインタビューで「当たったら終わりだよ」って言われたというのがあって。また最近だと「親ガチャ」(ガチャガチャで何が出てくるかわからないのと同じで、どんな親のもとに生まれるかは運次第の意味)という言葉が流行っているが、それは何も親だけではなく、国も時代も選べないというのは当たり前の話で、それを言語化したのが、すごいことだなと。言語化することで(親ガチャという認識が)共有されたというか

・最近のニュースで眞子様の件でひと悶着あったが、あれは彼女があの家に生まれていなければ取り上げられていないことなので、あの騒動は必然だと思う。そうした出来事には偶然と必然があるわけだが、人は偶然を必然化してしまう傾向にあって、それって解釈の問題かなと。(運命として捉えるかは)単なる考え方の一つに過ぎないと思う

・話を聞いていて思ったことは、自分は「運命」というとディズニーの中で出てくるような「運命の恋」とか「赤い糸」みたいなものを思い浮かんでいたが、生き方や寿命という観点で考えたことがなかった。また、運命については信じる/信じないの対比があって、恋愛的な運命は信じていないが、一方で国や生まれは運命かも知れないと思っている

・(運命はあるのかないのか)限定して考えると、起こったことが運命であって、最初から定まったものではないと思う。甘受すべきかどうかについては、無駄な悪あがきでも抵抗することはできるので、あえて受け入れることはせず、逆らう意思を持てば甘受することにはならないと思う
→もし運命が定まってるとしたら、抵抗することも先に決まっているのでは。それなら甘受するしかないのでは?

・運命は事後的に考えるものかと。先回りするというか、未来にいる自分が感じる概念かなと。何もかもが決まっている=決定論の思想はキリスト教などにも見られるが、そうした主張は論理的な証拠をもって話すものではないのかなと思う。偶然とするのか、それとも必然と感じるかのせめぎ合いの話かなと

・運命が決定されているかは分からないが、それって(例えば)最初の座標が決まっていてそこからどうなるというのが決定論だが、その座標に(何が)あるのかは決定論では語れないと思う。分からないという答えに「運命」という言葉が出てくる。(分からない中で)「じゃあ、どうしますか?」という話になるかと

・解釈の話でいうと、足が悪いとか病気がちだというものを「運命」と考えたほうが諦めがつくのかなと

・偶然を必然と解釈するのに「運命」という言葉を使ったのかなと。例えば事故で子どもを失ったなど、それらはすべて偶然だが運命と解釈する人もいる

【甘受するとは?】
・「甘受」という言葉の意味について考えると、例えば事故で足を怪我したとき(人は)歩かないという選択肢ではなく、リハビリすることを選ぶと思うので、(甘んじて歩けないという)現状を受け入れるかどうかの話ではないのかなと

・甘く受け止めても辛く受け止めてもいいと思う。これで良しとするというか、どっちでもいいよという気持ちというか。人と違うことを受け入れることで、気づきや学びがあるわけで。マイナスな出来事はその時はつらいが、長い年月を得て別の展開が見えてくると思う

・ 運命という言葉の解釈でいうと、例えば足が悪く生まれたとき、足が悪く生まれるまでが運命なのか、足が悪くても努力するまでが運命なのかで納得感が違うというか。与えられたものと努力の部分で個人の選択が迫られるというか、どこまでが運命と捉えるかで違うのかなと
→状況改善をするというか、その困難を受け入れ抵抗するまでが運命かなと私は思う
→自分は、運命はないという意見で「ここからは自分の力で進む」というか、甘受する姿勢が想像つかない。甘受するのであれば、(極論を言えば)自殺に行き着くのかなと

・運命は所与(他から与えられたもの、解決されるべき問題の前提として与えられたもの)のものというか、親や家庭など偶然だが受け入れるしかない。結婚した、親友になったなどすべて偶然で、現在完了というか、これまでの話としての運命の甘受であって、「この先の運命の甘受」は矛盾した話になるのかなと。運命論の類推(誤解を招きやすい運命の概念。二つの物事に共通点があることを認めたうえで、一方の物事にみられるもう一つの性質が他方にもあるだろうと推論すること)になるかと

・甘受すべきかどうかについては、『置かれた場所で咲きなさい』というタイトルの本があったと思うが、咲ける場所で生きればいいのではと思う

【運命はあるのか?】
・運命は未来志向の話ではないと思う。未来を知ることはできないし、どうなるか分からないので、未来に「運命」という言葉を使うのは意味がないと思う。個人的に占いは詐欺だと思っていて、占いにハマるのは愚かというか、引っかかる人もいるんだなと感じている
→反論として、そうしないと占い師が商売にならない。未来に対して運命はあり得る、相関関係があるといった解釈もあり得るが、逆もしかりでどっちもありだと思う

・未来に関しては、扇のように開いていて、毎分毎秒人が選択しているのかなと

・未来と運命は別で、(同一視するのは)矛盾しているように感じる。また「今」についての甘受をイメージしているというか。今を生きてるのだから、必然的にみんな(運命を)甘受していると思う

・宇宙など(おおよそで)定まっていることはあり得ると思うが、それ以外のことは大体フリーハンドなのかなと。また運命について考えたとき、死は逃れられないかなとつい夢想してしまう

・過去が理由で未来を選べないという話があるが、「親ガチャ」なんかはまさにその典型で、過去を覆せるのか?未来は選べるが、選ぶ力はあるのか?といった問題は、分けて考えるべきかなと。選択できたこととできないことがあり、意志の話というか自分の努力で変えていけるものとそうじゃないものがあるのかなと
→3.11があったときのことを思い出すが、震災以前はほかの地域の災害を他人ごとにしか思えなかったが、震災以降当事者になって、こういうことなんだなと良くわかった。震災について一言でなんて答えられないし、ただ福島に住んでいたことが(震災にあう運命を)自分で選んできたかもと思えた

【占いについて】
・占いに関して否定的な意見も出てきたが、占いにはカウンセリングや娯楽の要素もある。また「起こったことはすべていいことだ」という言葉もあったが、阪神淡路大震災以降は言わなくなったなと。(人生には)肯定できることと出来ないことはあると思う

・「運命」という言葉の解釈でいうと、選ぶしかなかった運命もあると思う。また占いというものは矛盾を抱えていて、「運命」という言葉をいい加減に使っている節がある。運命とは人が生きやすくする言葉でどこまでを受け入れるかの話かなと

・占い師は「こういった解釈もあるよ」というのが仕事で、努力次第でどうにでもなるよと言っているのかなと。また個人的に地震(や災害)については運命と考えることもできるなと

・占いは未来を予言するわけだが、未来が決まっているのなら選択をどうするかと。(未来と個人の)選択の方法とは違う話かと思うのだが。(占いとは結局)偶然の意思決定の話なのか?
→占い師は相手の過去を当ててから、信じさせるわけで。過去を知っているから未来も知っているとなって信じてしまうのかなと
→それは単なるコールドリーディング※という手法で占いの対象相手を推理して、可能性を伝えているにすぎないのかなと
※話術や観察法のひとつであり、外観を観察したり何気ない会話を交わしたりするだけで相手のことを言い当て、相手に「わたしはあなたよりもあなたのことをよく知っている」と信じさせる話術や観察法。「コールド」とは「事前の準備なしで」、「リーディング」とは「相手の心を読みとる」という意味

【運命を受け入れるとは?】
・満足感が一つの要素かなと。貧しくても満足ということもあるわけで

・現実を否定しないことかなと。例えば、志望する学校に現状自分の学力が足りないという場合、受かりたければ現実を認めて努力するしかないわけで。理想ばかり話してもダメ

・運命という言葉の解釈を変えると「物語」になるのかなと。これまでの運命=物語を良しとするのか。決定論で話してしまうと未来は決まっているが、普通の人にはそうした因果関係の話は合わないのかなと

・過去が変えられないというはその通りで、否定できないので甘受せざるを得ないし、受け入れざる負えないと思う

・運命と決定論がごちゃ混ぜになっているように感じる。運命と決定論は言葉として分けざるを得ないと思うが

・(運命を)解釈している時点で受け入れているのでは?と思う。運命も無意味だし、甘受も無意味だと思う

・ 受け入れるという話はトラウマというか、不幸な過去を乗り越えるという話になるのかなと。ただどう納得するのかが想像できないが
→不幸な過去を乗り越えるという話で思い浮かべるのが、犯罪者の子どもたちのことで。(彼らの過去は壮絶で)なりたい職業にもつけず、それを受け入れるのは難しいと思う
→犯罪者の子どもたちなど偶然ということで乗り越えるしかないのかなと。必然だと(受け入れるのは)厳しい
→(受け入れる)べきではなく、したほうがいいと捉えるといいのかなと。どちらが幸せになるのかな?と考えたとき「まぁいっか」という考え方で楽になる
→すべてのことに意味があるわけで、(犯罪者の子どもであっても)その人にしかできないことがあって、だからこそ(本や講演会などで)伝えられることなどもあるのかなと

・社会的な背景で「親ガチャ」という言葉が出てきたのかなと。運命と捉えてしまって変えられないという思いから生まれた言葉かと。ただ過去の出来事は変えられないが解釈を変えることは可能だと思う
→解釈を変えられるのは強い人だからできるのであって、(運命と受け入れて解釈を)変えられない人は一定数いる。例えば、災害があったとき役割を見つけて動ける人もいれば、助けを求めてその場から動けない人もいる。強い人は突き放さずに弱い人に寄り添えるようになればいいなと思う

・運命という概念も人間の進化の過程で作られ、その中で言語を持った人類が目に見えないものや存在しないものにも名前を付けるようになったこと(言語化すること)で、すべてが成立してきた
→「運命は甘受すべきか?」というテーマは、海外の文化の違う方と話すとまた違う展開になったのかなと思った


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓







さて、次回のてつがくカフェは、

12月18日(土)16時から福島市市民活動サポートセンターで行います。

テーマは「どこからが差別か?」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンラインによる参加をご希望の際は、

てつがくカフェのメールアドレスまでご連絡ください。


そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。