てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

第1回U-19てつがくカフェ@ふくしまの報告―「学校の勉強は本当に必要か?」

2016年08月21日 16時41分10秒 | U-19哲学カフェ
昨日に引き続き、本日は西澤書店さんの二階をお借りして、初のU-19てつがくカフェが開催されました。
とはいえ、外は36度の猛暑です。
同じ時間帯には甲子園の決勝戦が放映されています。
果たしてどれだけの参加者に来場してもらえるのか…
しかも明日始業式だという高校もある中、参加者はゼロという可能性も否定できません。
そんな悪条件の中、なんと高校生4名大学生1名の参加者に恵まれました。
各人単独の意志と判断で参加されたことに敬意を表したいと思います。

その中には、本日のテーマ「学校の勉強は本当に必要か?」を提案してくれた参加者もいました。
そのテーマ設定の背景には何があったのか?
その高校生によると、大人になってから問題解決能力やそのスキルが求められるというけれど、それが学校の勉強とのかかわりが薄いのではないかという疑問から生まれたと言います。
英語などは外国人と会話したときに勉強した意味を感じることはあるけれど、実生活に生かされない数学などは遠く感じられるし、数式なんて覚えていない。
勉強もその活かし方がわからなければ、そもそも無駄でしかないじゃないかというわけです。

むしろ、何に役立つか考えないからこそ勉強そのものが楽しいし、テスト勉強に燃えるという意見も出されます。
テストそのものが楽しすぎて、解答中にテスト用紙にうっすら赤い文字が浮き上がってきて、そのまま書き写していたら100点を取ったという不思議体験をしたという話も出ます。
また、テスト勉強はしたことがないけれど、テストの問題を解くこと自体が楽しいという意見も出されます。
それによれば、そもそも授業を聞いて新しい知識が自分の中に入ってくることはそれ自体楽しいことだし、テストは自分に欠けているところを確認するために必要であり、ただテスト勉強が嫌なだけであると言います。
ワタクシ自身は教員人生において、こうした考え方は初めて聞いた話なので、とても驚いたのですが、その気持ちはわかるという意見は他の参加者にも見られました。
ただし、その意見によれば、テスト勉強自体は燃え上がるとしつつも、それがいったん大学受験の役に立つとか、「利害関係」が生じたとたんに、一気にやる気が覚めると言います。
「目的」それ自体として楽しかった勉強が、ある「手段」に位置づけられた瞬間に冷めてしまうのだそうです。

これに対して、大学生の参加者は、高校時代にそんなことを考えたことなどないという驚きが示されました。
そもそも、学校の勉強が必要かどうかなど考えたこともなく、それをしなければならないものである以上、とりあえずやっておくものであるとしか認識していなかったというのです。
むしろ、テストが楽しいかどうかという以前に、テストがあるがゆえに勉強はするものだと思っていたのだし、もしなければ勉強などしなかっただろうと言います。
とはいえ、その参加者は英語に対してかなりの学習意欲をもっています。
それは「勉強」ではないのかと問うたところ、彼の中ではそれは好きでやっていることであり、したがって勉強ではないのだと言います。
なるほど、彼にとって「勉強」は強いられるものである以上、好きな英語学習は「勉強」には当てはまらないというのです。
そして、そうであるがゆえに、高校時代に勉強したことはほとんど何も覚えていないということもあると言います。
所詮、強制的に覚えさせられたものは瞬時に失われるということでしょう。
すると、記憶にも残らない勉強は何のためにするのでしょうか?

それに対して、そもそも勉強は高校生の「仕事」としてこなすものであるという意見も出されます。
必要性なんてわからないけれども、とにかく勉強する過程で根性なんかが身につくし、それが社会に出てから自ずと何かの役に立つという認識だと言います。
なんの役に立つかわからないし、いつ役立つかもわからないにもかかわらず、とにかく最低限の勉強は自分の可能性拡げる上では必要だという認識は全員が共有しているようでした。

しかし、これに対しては、テストがあるから勉強意欲がなくなるのだという意見も出されます。
テストがなければもっと自由に知識欲や探求心が生まれるはずなのに、テストがあると思うからこそその意欲が失せてしまうのだと言います。
その理由として、テストの評価が点数という一律で唯一の評価尺度しかないことの問題が指摘されました。
勉強の成果については、それ以外にも評価される尺度があっていいはずなのに、高校に入ってから点数一辺倒の評価にうんざりさせられていると言います。
果たして、人はテストがあるから勉強するのか、それがあるからこそ勉強したくなくなるのか。

この「評価」の問題については別の意見からの指摘がありました。
たとえば、国語の小説文などでは、自分の解答が正答に合わないときに、どこか問題作成者に適応させられているかのような違和感があることも示されます。
テストが自分の客観化に役立つという意見がある一方で、こうした自分の答えが何かに従属させられる違和感は「道徳」の授業でも感じるという意見も出されます。
もし、その「道徳」が国家に決められて、それを一方的に押しつけられるとしたらいかがなものか。
しかし、それに対しては、「道徳」の授業のように何が正しいのか答えが決まっていない問題を考える時間は好きだったという意見も出されます。

答えが決まっていないものごとを、原因に遡って本質的に考え抜くことが好きだというその参加者にとっては、やはり知識を外から注入させられる勉強の仕方ばかりの学校には、自分の存在感を得られるような学びがないように思うようです。

その一方で、全ての授業が楽しいと感じる参加者にとっては、授業で知り得ることがすべて新鮮で、単純に新しいことを知ることの喜びがありと言います。
さらにその参加者によれば、知識を得ることが「勉強」であるのに対して、自分で何かを考えるような営みは「学習」というのではないかと区分されます。
この二つの区分は重要であると思われます。
果たしてこれらは異なるものなのか、通じ合うものがあるのか。

これについて数学が好きだという参加者からは、答えが決まっている教科であっても、物事の筋道を原理的に考えるという点では、それほど異ならないのではないかと言います。
自分で自由に考えて答えを見出そうとする「学習」であっても、数学のように何かの公理があれば問題を解決していけるように、やはり知識は必要なものであるというわけです。

結論において、大方の参加者がやはり「学校の勉強は必要である」という認識を再確認したようです。
曰く、今の自分を形づくるのはやはり「勉強〉があってこそであるし、学校はその場として必要だと言います。
では、もしその学校で教えられていたことが嘘だったら?
こんな意地悪な問いを投げかけてみたところ、それでも国家が教科書をつくるのも未来の社会をよくするためにやっているわけだから、やはり肯定できると言います。
あるいは、それが嘘だと気づけるのも学校で勉強するからできることだと言う、全面的に学校での勉強に信頼を寄せている意見が目立ちました。
それに対して、やはり今回のテーマを提案してくれた参加者からは、なんのために勉強するのか腑に落ちない感じが拭い去れないようでした。
それが少数派だからと言って、その心にいつも引っ掛かりを覚えることをなしにすることはできません。
そもそも、その参加者によれば今回のテーマはその学校の勉強の空虚さに違和感を持ったことから生まれたものだと言います。
その意味で言えば、否定的な意味でも勉強をするということはその違和感に気づかせてくれたという点で必要と言えなくもないでしょう。
いったい、勉強が意味を持つということはどういうことなのか。
それが腑に落ちるところまで、とことん考え抜くことを継続していただきたいと願い、初のU-19哲学カフェは幕を閉じました。

終わってみれば、多忙を極める高校生たちが4名も集まり、しかもそこに大学生が1名加わることなど、ある意味で奇蹟的な機会だったと思います。
正直なところ、試しに取り組んだ初回で終わる可能性の方が大きいように予想していましたが、終了後、今回の哲学カフェについて感想を聞いてみたところ、おもしろかった、あるいはまた次回もあればやってみたいという声を聴くことができたことは大いに励まされました。
また、次回実施してみたいという勇気を若い世代にいただいたことは、たいへんうれしい出来事でした。
これに懲りず、また周囲の「声なき思考欲のあるマイノリティ」をお誘いいただいて、次回の開催を期したいと思います。

また、会場を無料でお貸しいただいた西澤書店様には心より御礼申し上げます。
こうした地域の方々に支えられることは我々にとっても願ってもないことです。
多くの皆様に支えられてこうした活動に取り組めることに感謝してやまぬ一日となりました。