4月の「私にとって〈哲学〉とは何か?」を終えたあとに、ある参加者の方からてつがくカフェ@ふくしまの運営について、貴重なご意見を長文で送っていただきました。
前回の議論に関する意見も含め、運営そのものへの貴重なご指摘もあり、世話人として反省させられました。
ご本人の承諾も得て、記事としてアップさせていただきます。
これに関する世話人の回答はもちろんですが、お読みになられた方のご意見もコメント欄にどしどしお寄せいただければ幸いです。
いつも哲カフェを楽しみに参加しています。毎回毎回参加できれば何よりなのですが、あいにく仕事等の都合でそれも叶いません。
なので、参加できる日はとてもわくわくしながら向かっています。
テーマについて、どんな話が聞けるのか、また自分はどういう風に思っていて、それが哲カフェでどのように化けるのか・・・・(考えは毎回自分の中で変幻自在に姿を変えるのです(笑))
また、いつものメンバーに久しぶりに会えることも楽しみですが、どちらかといえば初めて参加される人がどのくらいいるのか、その人からどのような意見が出るのか、ということに哲カフェの魅力を感じています。哲カフェの存在を何で知ったのか、どう思って参加してみたのか、今回のテーマについてどう考えているのか。(二次会に参加するならどこで何をしている人なのかとかも)
どんな立場の人でも入ってきて、話が出来る空間を作ることは出来るか?という議論に前回なりましたね。
公共性のある空間でしたでしょうか?
自分の立場や相手の立場を無視できるなら可能かも知れませんが、それは実際には難しいのではないか・・・と思った記憶があります。
哲カフェはそれを実現できる空間となり得るのか。でも、それを目指す空間である、ということはすごく素敵なことだと思うのです。
私が何より、‘哲カフェ’が好きなのは、思考をする、そしてそれについて純粋に意見を交換し合うだけの‘場’であるからです。
馴染みの人たちと会うだけなら、それはサークル活動であり、個別に連絡を取って飲むなり食事をするなり集まればよい話です。
でも、それは‘場’ではないですよね。
哲カフェは毎回異なる、不特定多数の老若男女も専門家も素人も関係なく集まって、一つのテーマについて話ができる空間というか次元というか。そういう認識をしています。
前回の哲カフェで誰かが、哲カフェはあくまでも‘場’であって、集団ではない、と話していたのがすごく印象的でしっくりしたので‘場’という言葉をつい使いまくってしまいました(笑)
ただ、哲カフェを‘場’とすることが出来るのは、いつも紙に書いて配布される、哲カフェでのルールとファシリテーターの存在によるものが大きいことも事実だと思います。
理想を言えば、この両者がなくても成り立つのが究極の哲カフェなのかも知れませんが、やはりそれは無理ではないかと思っています。(そもそも無しでやれるものですか?純粋な疑問です)
それくらいこの二つの存在は大きいのだな、と私は哲カフェに行き始めた最初の頃から感じています。特にファシリテーターについては、誰にでも出来るかもしれない、私もできるかもしれない。
でもやはり出来ないと思うのです。
あるテーマについて話しているとき、自分が考えていることを話し始めると、どうしても人には“色”が出ます。
濃淡にかかわらず、必ず。
でも、全体を仕切るファシリテーターに色が出ると、それは哲カフェ全体に影響を及ぼす色になりかねません。ファシリテーター本人に意図があろうが無かろうが関係なく、です。
私がファシリテーターをすると、自分の色を消すことは出来なそうだな、と思うので無理だと言っています。
あくまで無色に徹する存在。
私はファシリテーターがそういう存在なのだ、すごいなぁと毎回思って参加してきました。
もし、本来はそういうものではないのだ、そういう絶対条件は無いというなら、今まで書いたことは私が今まで哲カフェに参加してきて捉えた像、だと理解してください。
それらを踏まえて前回の哲カフェで感じたことが多少なりあったのでまとめてみました。
(1)開始時に、哲カフェについてのルールを説明していない気がします。
いつも、新しい人が入ってくることが前提なので、どんなに顔なじみばかりでも、一通りのルール説明はあるべきだと思いますが、どうですか?始まる前に滑り込みセーフで間に合ったと思っていましたが、もしもうすでに終わっていたのなら謝罪して撤回します。
(2)始まってから最初の発言時に、軽く名称の自己紹介が無かった。
たぶん、一言言ってから始めないと、常連さんは忘れがちです。
でもこれも(1)と同じで知り合いばかりの中に来た、と初めての人に誤解されてしまいかねないと思います。
私がもし初めての場所で、『ここは知り合いばかりが集まっているところなんだな』と感じたら、次から行くのはたぶん止めます。
(3)ときおり、言葉の意味の確認やそこまでの意見のまとめがほしい。
今回使わせてもらった“公共性”とか。
専門的な意味がわからないと、字面や音で捉えるしかなくなり、意見に対してきちんとした返答が出来ない不安にかられます。
あと、いろんな方向に意見が発散し始めると、『いまどこにいるんだっけ?』と思考が迷子になります。
今はこんなところにいますね~、今の発言はこういう意味でいいですか?など小さいまとめが入ってくると、何を話そうか戻ってこられるのでありがたいです。ホワイトボードはかなりありがたいです。
(4)やはり時間はきっちり終わり、全体的な一応のまとめがないと。
哲カフェは2時間で終わるからこそ、どう議論を展開しようか頭をフル稼働させます。
最後の方は、まだ発言していない人に発言を譲ろう、と考えている時もあります。
みんな話し始めると話題が尽きなくなるでしょう。でも、それはその後も継続して話し合う場所があるのだから、そちらでやれればよいですよね。ついでに、まとまらなくでも落としどころである程度まとめはほしいです。
今日の全体はこんな感じだったねーくらいでいいです。
(5)最後は、まだ発言していない人に話をふって、全員発言できるチャンスを作るべきでは。
慣れている人は話せても、なかなか声が出せない人もいるはず。
初めての人は特に。
感想でもなんでも、今日来てどう思ったでもいいですが、一言いかがですか?のチャンスは必要だと思います。
それでも、発言しない・したくないならそれは個人の問題なので無理に話して貰う必要はありませんが。
私はそれを楽しみにしている部分もあるので書きました。
今回のこれは、文句を言っているわけではないです。
本当に誤解をされたなら謝ります。文句ではありません。今までとなんかやり方違うなぁ、と思ったことを述べただけです。
最初から、本来はこういうものだったのだ、私が誤解していただけとか、これをしなきゃいけないというものではないからやらなかっただけ、というなら、別にいいです。
ただ、今までのやり方が個人的に公平で良かったなぁ、と思うので続けてもらえるならその方がいいな、と思っただけです。
集団ではない以上、毎回人も入れ替わるし、そのつどやり方も色々変わるでしょうから、そうなったなら、なったで‘場’としての哲カフェが保たれるならば、構いません。
ただ、いままではこれをやっていたけど、これからはやりませんよ~くらいの連絡がほしいです。
個人の色の話もそうです。そういう展開にしたいのならば、別に文句はありません。
ただ、そう言う方向に展開する旨を、最初に一言言っておいて欲しいと思います。
まぁ、言ったところで議論がそちらに進むかどうかは不明でしょうが。
たまにしかいかないから、わかっていないんだよ、といわれてしまえばそれまでですが、そういう場所ではないはず。
初めての人も常連さん(この表現もおかしいですが)も等しく毎回が初回、という場を保って欲しいなぁと思うのです。
私たちは毎回取りまとめ役の皆さんが苦労して作り上げてくださった‘場’にただ乱入するだけで何もしていないので、えらそうなことをいうつもりはありませんが、哲カフェ@福島のファン(あの空間のファン)の一人として?とりあえず言うことは伝えないとなぁ、と思い今回こんな感じで文章にしました。
本当は口頭でお話したいですが、じっくりと話す時間が毎回なくて。今回もあまりなくて。
でもお伝えしたかったので。
人も時代も経過とともに変わるものですが、哲カフェ@福島のスタイルは最初から変わらずにあってほしいという意見です。
あたらしいものを取り入れてより良くしていくのに反対しているわけではありません。
しつこくいいますが文句じゃありません(笑)
これからも宜しくお願いします。
前回の議論に関する意見も含め、運営そのものへの貴重なご指摘もあり、世話人として反省させられました。
ご本人の承諾も得て、記事としてアップさせていただきます。
これに関する世話人の回答はもちろんですが、お読みになられた方のご意見もコメント欄にどしどしお寄せいただければ幸いです。
いつも哲カフェを楽しみに参加しています。毎回毎回参加できれば何よりなのですが、あいにく仕事等の都合でそれも叶いません。
なので、参加できる日はとてもわくわくしながら向かっています。
テーマについて、どんな話が聞けるのか、また自分はどういう風に思っていて、それが哲カフェでどのように化けるのか・・・・(考えは毎回自分の中で変幻自在に姿を変えるのです(笑))
また、いつものメンバーに久しぶりに会えることも楽しみですが、どちらかといえば初めて参加される人がどのくらいいるのか、その人からどのような意見が出るのか、ということに哲カフェの魅力を感じています。哲カフェの存在を何で知ったのか、どう思って参加してみたのか、今回のテーマについてどう考えているのか。(二次会に参加するならどこで何をしている人なのかとかも)
どんな立場の人でも入ってきて、話が出来る空間を作ることは出来るか?という議論に前回なりましたね。
公共性のある空間でしたでしょうか?
自分の立場や相手の立場を無視できるなら可能かも知れませんが、それは実際には難しいのではないか・・・と思った記憶があります。
哲カフェはそれを実現できる空間となり得るのか。でも、それを目指す空間である、ということはすごく素敵なことだと思うのです。
私が何より、‘哲カフェ’が好きなのは、思考をする、そしてそれについて純粋に意見を交換し合うだけの‘場’であるからです。
馴染みの人たちと会うだけなら、それはサークル活動であり、個別に連絡を取って飲むなり食事をするなり集まればよい話です。
でも、それは‘場’ではないですよね。
哲カフェは毎回異なる、不特定多数の老若男女も専門家も素人も関係なく集まって、一つのテーマについて話ができる空間というか次元というか。そういう認識をしています。
前回の哲カフェで誰かが、哲カフェはあくまでも‘場’であって、集団ではない、と話していたのがすごく印象的でしっくりしたので‘場’という言葉をつい使いまくってしまいました(笑)
ただ、哲カフェを‘場’とすることが出来るのは、いつも紙に書いて配布される、哲カフェでのルールとファシリテーターの存在によるものが大きいことも事実だと思います。
理想を言えば、この両者がなくても成り立つのが究極の哲カフェなのかも知れませんが、やはりそれは無理ではないかと思っています。(そもそも無しでやれるものですか?純粋な疑問です)
それくらいこの二つの存在は大きいのだな、と私は哲カフェに行き始めた最初の頃から感じています。特にファシリテーターについては、誰にでも出来るかもしれない、私もできるかもしれない。
でもやはり出来ないと思うのです。
あるテーマについて話しているとき、自分が考えていることを話し始めると、どうしても人には“色”が出ます。
濃淡にかかわらず、必ず。
でも、全体を仕切るファシリテーターに色が出ると、それは哲カフェ全体に影響を及ぼす色になりかねません。ファシリテーター本人に意図があろうが無かろうが関係なく、です。
私がファシリテーターをすると、自分の色を消すことは出来なそうだな、と思うので無理だと言っています。
あくまで無色に徹する存在。
私はファシリテーターがそういう存在なのだ、すごいなぁと毎回思って参加してきました。
もし、本来はそういうものではないのだ、そういう絶対条件は無いというなら、今まで書いたことは私が今まで哲カフェに参加してきて捉えた像、だと理解してください。
それらを踏まえて前回の哲カフェで感じたことが多少なりあったのでまとめてみました。
(1)開始時に、哲カフェについてのルールを説明していない気がします。
いつも、新しい人が入ってくることが前提なので、どんなに顔なじみばかりでも、一通りのルール説明はあるべきだと思いますが、どうですか?始まる前に滑り込みセーフで間に合ったと思っていましたが、もしもうすでに終わっていたのなら謝罪して撤回します。
(2)始まってから最初の発言時に、軽く名称の自己紹介が無かった。
たぶん、一言言ってから始めないと、常連さんは忘れがちです。
でもこれも(1)と同じで知り合いばかりの中に来た、と初めての人に誤解されてしまいかねないと思います。
私がもし初めての場所で、『ここは知り合いばかりが集まっているところなんだな』と感じたら、次から行くのはたぶん止めます。
(3)ときおり、言葉の意味の確認やそこまでの意見のまとめがほしい。
今回使わせてもらった“公共性”とか。
専門的な意味がわからないと、字面や音で捉えるしかなくなり、意見に対してきちんとした返答が出来ない不安にかられます。
あと、いろんな方向に意見が発散し始めると、『いまどこにいるんだっけ?』と思考が迷子になります。
今はこんなところにいますね~、今の発言はこういう意味でいいですか?など小さいまとめが入ってくると、何を話そうか戻ってこられるのでありがたいです。ホワイトボードはかなりありがたいです。
(4)やはり時間はきっちり終わり、全体的な一応のまとめがないと。
哲カフェは2時間で終わるからこそ、どう議論を展開しようか頭をフル稼働させます。
最後の方は、まだ発言していない人に発言を譲ろう、と考えている時もあります。
みんな話し始めると話題が尽きなくなるでしょう。でも、それはその後も継続して話し合う場所があるのだから、そちらでやれればよいですよね。ついでに、まとまらなくでも落としどころである程度まとめはほしいです。
今日の全体はこんな感じだったねーくらいでいいです。
(5)最後は、まだ発言していない人に話をふって、全員発言できるチャンスを作るべきでは。
慣れている人は話せても、なかなか声が出せない人もいるはず。
初めての人は特に。
感想でもなんでも、今日来てどう思ったでもいいですが、一言いかがですか?のチャンスは必要だと思います。
それでも、発言しない・したくないならそれは個人の問題なので無理に話して貰う必要はありませんが。
私はそれを楽しみにしている部分もあるので書きました。
今回のこれは、文句を言っているわけではないです。
本当に誤解をされたなら謝ります。文句ではありません。今までとなんかやり方違うなぁ、と思ったことを述べただけです。
最初から、本来はこういうものだったのだ、私が誤解していただけとか、これをしなきゃいけないというものではないからやらなかっただけ、というなら、別にいいです。
ただ、今までのやり方が個人的に公平で良かったなぁ、と思うので続けてもらえるならその方がいいな、と思っただけです。
集団ではない以上、毎回人も入れ替わるし、そのつどやり方も色々変わるでしょうから、そうなったなら、なったで‘場’としての哲カフェが保たれるならば、構いません。
ただ、いままではこれをやっていたけど、これからはやりませんよ~くらいの連絡がほしいです。
個人の色の話もそうです。そういう展開にしたいのならば、別に文句はありません。
ただ、そう言う方向に展開する旨を、最初に一言言っておいて欲しいと思います。
まぁ、言ったところで議論がそちらに進むかどうかは不明でしょうが。
たまにしかいかないから、わかっていないんだよ、といわれてしまえばそれまでですが、そういう場所ではないはず。
初めての人も常連さん(この表現もおかしいですが)も等しく毎回が初回、という場を保って欲しいなぁと思うのです。
私たちは毎回取りまとめ役の皆さんが苦労して作り上げてくださった‘場’にただ乱入するだけで何もしていないので、えらそうなことをいうつもりはありませんが、哲カフェ@福島のファン(あの空間のファン)の一人として?とりあえず言うことは伝えないとなぁ、と思い今回こんな感じで文章にしました。
本当は口頭でお話したいですが、じっくりと話す時間が毎回なくて。今回もあまりなくて。
でもお伝えしたかったので。
人も時代も経過とともに変わるものですが、哲カフェ@福島のスタイルは最初から変わらずにあってほしいという意見です。
あたらしいものを取り入れてより良くしていくのに反対しているわけではありません。
しつこくいいますが文句じゃありません(笑)
これからも宜しくお願いします。