てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしまへの提言

2016年05月08日 01時03分04秒 | 参加者感想
4月の「私にとって〈哲学〉とは何か?」を終えたあとに、ある参加者の方からてつがくカフェ@ふくしまの運営について、貴重なご意見を長文で送っていただきました。
前回の議論に関する意見も含め、運営そのものへの貴重なご指摘もあり、世話人として反省させられました。
ご本人の承諾も得て、記事としてアップさせていただきます。
これに関する世話人の回答はもちろんですが、お読みになられた方のご意見もコメント欄にどしどしお寄せいただければ幸いです。


いつも哲カフェを楽しみに参加しています。毎回毎回参加できれば何よりなのですが、あいにく仕事等の都合でそれも叶いません。
なので、参加できる日はとてもわくわくしながら向かっています。
テーマについて、どんな話が聞けるのか、また自分はどういう風に思っていて、それが哲カフェでどのように化けるのか・・・・(考えは毎回自分の中で変幻自在に姿を変えるのです(笑))
また、いつものメンバーに久しぶりに会えることも楽しみですが、どちらかといえば初めて参加される人がどのくらいいるのか、その人からどのような意見が出るのか、ということに哲カフェの魅力を感じています。哲カフェの存在を何で知ったのか、どう思って参加してみたのか、今回のテーマについてどう考えているのか。(二次会に参加するならどこで何をしている人なのかとかも)
どんな立場の人でも入ってきて、話が出来る空間を作ることは出来るか?という議論に前回なりましたね。
公共性のある空間でしたでしょうか?
自分の立場や相手の立場を無視できるなら可能かも知れませんが、それは実際には難しいのではないか・・・と思った記憶があります。
哲カフェはそれを実現できる空間となり得るのか。でも、それを目指す空間である、ということはすごく素敵なことだと思うのです。
私が何より、‘哲カフェ’が好きなのは、思考をする、そしてそれについて純粋に意見を交換し合うだけの‘場’であるからです。
馴染みの人たちと会うだけなら、それはサークル活動であり、個別に連絡を取って飲むなり食事をするなり集まればよい話です。
でも、それは‘場’ではないですよね。

哲カフェは毎回異なる、不特定多数の老若男女も専門家も素人も関係なく集まって、一つのテーマについて話ができる空間というか次元というか。そういう認識をしています。
前回の哲カフェで誰かが、哲カフェはあくまでも‘場’であって、集団ではない、と話していたのがすごく印象的でしっくりしたので‘場’という言葉をつい使いまくってしまいました(笑)

ただ、哲カフェを‘場’とすることが出来るのは、いつも紙に書いて配布される、哲カフェでのルールとファシリテーターの存在によるものが大きいことも事実だと思います。
理想を言えば、この両者がなくても成り立つのが究極の哲カフェなのかも知れませんが、やはりそれは無理ではないかと思っています。(そもそも無しでやれるものですか?純粋な疑問です)
それくらいこの二つの存在は大きいのだな、と私は哲カフェに行き始めた最初の頃から感じています。特にファシリテーターについては、誰にでも出来るかもしれない、私もできるかもしれない。
でもやはり出来ないと思うのです。
あるテーマについて話しているとき、自分が考えていることを話し始めると、どうしても人には“色”が出ます。
濃淡にかかわらず、必ず。
でも、全体を仕切るファシリテーターに色が出ると、それは哲カフェ全体に影響を及ぼす色になりかねません。ファシリテーター本人に意図があろうが無かろうが関係なく、です。
私がファシリテーターをすると、自分の色を消すことは出来なそうだな、と思うので無理だと言っています。
あくまで無色に徹する存在。
私はファシリテーターがそういう存在なのだ、すごいなぁと毎回思って参加してきました。
もし、本来はそういうものではないのだ、そういう絶対条件は無いというなら、今まで書いたことは私が今まで哲カフェに参加してきて捉えた像、だと理解してください。
それらを踏まえて前回の哲カフェで感じたことが多少なりあったのでまとめてみました。

(1)開始時に、哲カフェについてのルールを説明していない気がします。
いつも、新しい人が入ってくることが前提なので、どんなに顔なじみばかりでも、一通りのルール説明はあるべきだと思いますが、どうですか?始まる前に滑り込みセーフで間に合ったと思っていましたが、もしもうすでに終わっていたのなら謝罪して撤回します。

(2)始まってから最初の発言時に、軽く名称の自己紹介が無かった。
たぶん、一言言ってから始めないと、常連さんは忘れがちです。
でもこれも(1)と同じで知り合いばかりの中に来た、と初めての人に誤解されてしまいかねないと思います。
私がもし初めての場所で、『ここは知り合いばかりが集まっているところなんだな』と感じたら、次から行くのはたぶん止めます。

(3)ときおり、言葉の意味の確認やそこまでの意見のまとめがほしい。
今回使わせてもらった“公共性”とか。
専門的な意味がわからないと、字面や音で捉えるしかなくなり、意見に対してきちんとした返答が出来ない不安にかられます。
あと、いろんな方向に意見が発散し始めると、『いまどこにいるんだっけ?』と思考が迷子になります。
今はこんなところにいますね~、今の発言はこういう意味でいいですか?など小さいまとめが入ってくると、何を話そうか戻ってこられるのでありがたいです。ホワイトボードはかなりありがたいです。

(4)やはり時間はきっちり終わり、全体的な一応のまとめがないと。
哲カフェは2時間で終わるからこそ、どう議論を展開しようか頭をフル稼働させます。
最後の方は、まだ発言していない人に発言を譲ろう、と考えている時もあります。
みんな話し始めると話題が尽きなくなるでしょう。でも、それはその後も継続して話し合う場所があるのだから、そちらでやれればよいですよね。ついでに、まとまらなくでも落としどころである程度まとめはほしいです。
今日の全体はこんな感じだったねーくらいでいいです。

(5)最後は、まだ発言していない人に話をふって、全員発言できるチャンスを作るべきでは。
慣れている人は話せても、なかなか声が出せない人もいるはず。
初めての人は特に。
感想でもなんでも、今日来てどう思ったでもいいですが、一言いかがですか?のチャンスは必要だと思います。
それでも、発言しない・したくないならそれは個人の問題なので無理に話して貰う必要はありませんが。
私はそれを楽しみにしている部分もあるので書きました。

 今回のこれは、文句を言っているわけではないです。
本当に誤解をされたなら謝ります。文句ではありません。今までとなんかやり方違うなぁ、と思ったことを述べただけです。
最初から、本来はこういうものだったのだ、私が誤解していただけとか、これをしなきゃいけないというものではないからやらなかっただけ、というなら、別にいいです。
ただ、今までのやり方が個人的に公平で良かったなぁ、と思うので続けてもらえるならその方がいいな、と思っただけです。
集団ではない以上、毎回人も入れ替わるし、そのつどやり方も色々変わるでしょうから、そうなったなら、なったで‘場’としての哲カフェが保たれるならば、構いません。
ただ、いままではこれをやっていたけど、これからはやりませんよ~くらいの連絡がほしいです。
個人の色の話もそうです。そういう展開にしたいのならば、別に文句はありません。
ただ、そう言う方向に展開する旨を、最初に一言言っておいて欲しいと思います。
まぁ、言ったところで議論がそちらに進むかどうかは不明でしょうが。

たまにしかいかないから、わかっていないんだよ、といわれてしまえばそれまでですが、そういう場所ではないはず。
初めての人も常連さん(この表現もおかしいですが)も等しく毎回が初回、という場を保って欲しいなぁと思うのです。
私たちは毎回取りまとめ役の皆さんが苦労して作り上げてくださった‘場’にただ乱入するだけで何もしていないので、えらそうなことをいうつもりはありませんが、哲カフェ@福島のファン(あの空間のファン)の一人として?とりあえず言うことは伝えないとなぁ、と思い今回こんな感じで文章にしました。
本当は口頭でお話したいですが、じっくりと話す時間が毎回なくて。今回もあまりなくて。
でもお伝えしたかったので。
人も時代も経過とともに変わるものですが、哲カフェ@福島のスタイルは最初から変わらずにあってほしいという意見です。
あたらしいものを取り入れてより良くしていくのに反対しているわけではありません。
しつこくいいますが文句じゃありません(笑)
これからも宜しくお願いします。

第2回アートdeてつがくカフェ・参加者感想

2015年11月27日 01時11分03秒 | 参加者感想
第2回アートdeてつがくカフェにご参加いただいた方々のご感想です。
今年から新たに始めたアートdeてつがくカフェですが、
定例のてつカフェと比べて初参加の方が多いのが特徴のような気がします。
そして、常連の方に比べて初参加の方はちゃんと感想用紙を提出してくださいますので、
感想用紙の回収率がひじょうに高くて嬉しいです。
今回もとても充実した対話が繰り広げられとても面白かったです。
皆さん、本当にありがとうございました。

●アートとは、という哲学的なテーマを話すことができてうれしいです。みなさんの意見に納得することばかりでした。またアートについてとりあげてほしいです。特に、知られざる名作があったらお願いします。

●アートについての良い、わからないは、わからないが皆さんと作品を通して、”障がいとは” に迄探究できたことが、心をゆたかにしてくれて、アートの持つゆたかさを少し味わえたのではと思う。

●はじめて参加しましたが、とてもおもしろかったです。障がい―アートがとてもにてて、知れば自分が豊かになるというのが、とても印象に残りました。ギャラリートークが聞けなくて残念! 美術関係でない方の話がたくさんきけてよかったです。

●芸術や障害について、他の人とじっくり話し合い考える機会がほとんどなく、今回参加し、最初は緊張しましたがとても楽しかったです。これからも考え続けようと思いました。

●会津の高校で美術を教えています。普段から美術を生徒に教えていて、生徒に主題を見つけさせることに苦労しています。伊藤さんのように 「自分の表現したいものがある」 ってとてもあこがれます。自分自身も表現することが苦手 (美術教師なのにおはずかしいですが) なのに、生徒達に美術教育をしていくことに責任と使命感をかんじています。自分自身の課題がはっきりとしたテーマでとても勉強になりました。ありがとうございました。

●色々な方々が ”アート” ”障害” についてどんな考え、疑問があるのか分かっておもしろかったです。みなさん相手のことをみとめつつお話ししていて、よい場だなと思いました。”アートは何か?” という問いが中心でしたが、私は人の心を動かす表現の一つだと感じました。

●最後の感想:「わからない」――勝手にわかるもあり! でも勝手にわかりすぎるのは危険。…とか考えると、「わからない」 をていねいに持ちつづけ、「わかる」 をみつけ出してゆく…それが大事だな、と自分にいい聞かせながら帰路へ。おつかれさま!

●生きることを楽しむ心を大事にしていきたいです。人が 「良い」 「悪い」 を感じれる心を持っている生き物で嬉しく思います。人に生まれてきて良かったです。「いいネ」 をいっぱい押せる人生を…。

●伊藤峰尾展と対比して 「現代アートはわからないから苦手だ」 とズバッと言われる気持ちのよさと、現代アートも1つ1つ、1人1人みたら、魅力的な人、作品がいるので、もっと頑張らないとなーて思いました。みなさん作品を丁寧にそれぞれの見方でみていたのがわかったし、美術教育にたずさわる人がたくさんいらっしゃって、お話をきくのがおもしろかったです。

第32回てつがくカフェ@ふくしま参加者感想

2015年09月23日 11時25分38秒 | 参加者感想
第32回てつがくカフェ@ふくしま―「〈メメント・モリ〉(死を思え)とは何か?」にご参加いただいた方の感想です。


● 若い人の死に対しての感覚がわかってよかった。自殺は心の病気の結果では、と思ってます。最近、友人の親せきが20歳で亡くなりました。彼が死をどう受け止めていたかを少しでも知りたくて来てみました。若い人の話が聞けて良かったです。

● 2時間も同じテーマで話すことがいままでなかったので、とてもスリリングで、また来たいと思いました。もっと多くの人の意見を聞きたいと思いました。少し話をされていない人に一言振ってもよいかなと思いました。

● メメントモリは自らに向けてしか使えないと思うのです。常に死が隣にあることを考えている気はします。

● 飛行機が墜落する30分の間にものすごい生きる力を発揮するという話を聞いた。その30分の生きる力、私はそれを残りの人生ですべて使っている数少ない(?)人間であろうと思った。

● 初めて参加しました。一つのテーマを掘り下げて話ができて楽しかったです。2時間では不足に感じました。もう少し時間を増やしていただきたい思いです。

● 私の父は、64歳で、50年前に癌で亡くなりました。一言でいうなら、「壮絶な死」でした。とても書ききれません。若い時ほど生命を粗末にするの(が私だ)と思いました。学童疎開時は神風特攻隊に志願しようと思い、キューバ危機では、キューバを守るために、モスクワで外人部隊に入隊しようとすら思ったほどですetc…。

● おもしろかったです。自由に多様な意見(対立するものも含め)が出て、時間について考えました。量なのか質なのか。それと人間の力を超えた何かの存在。



皆さん、死をめぐっては身近な死から特攻隊の思いまで、ほんとうに様々なご経験がおありだったのですね。
さらにもっと皆さんの聴いてみたい思いに駆られました。
しかも、新しく参加された方々のご意見、ご発言というのは本当に場を活性化させますので、またぜひご来場いただければ幸いです。
次回のシネマdeてつがくカフェは「家族」がテーマです。
映画を見た後に、また色々と語り合いましょう!



第7回本deてつがくカフェ・参加者感想

2015年07月12日 21時30分39秒 | 参加者感想
昨日、開沼博著『はじめての福島学』(イースト出版)を課題図書とした、第7回本deてつがくカフェを福島高校にて開催されました。
しかも、今回は著者の開沼博さんにゲストとしてご参加いただき、なんと60名の方々にご参加いただいての開催となりました。
県内各地から約10名の高校生にもご参加いただき、いつになく充実した緊張感に包まれた会となりました。
以下、参加された方々のご感想です。

● はじめての参加でワクドキではありましたが、意外とヤワラカ~イ語り口の皆様の中にず~っと入っていけた感じでした。色々な企画があるようなので、又参加して見たいと思いました。多種多様な人と1つの話題について語り合う(主に聞き役)事は、とても楽しく、自分を深くしてくれる作業です。又、違ったテーマで色々な方の御意見を聴いてみたいと思います。今回の様に意見を発現しなくても楽~にその場に居れる雰囲気であれば、又参加したいです。聞き役(たまーに発言)が好きな者もいるので…。

● 本には書いてなかった「福島学」の全体像が見えました。とても面白かったです。こういったダイアログの手法があるんだなと新しい気づきでした。

● 「思考停止しない」→公共圏=話し合いの場をつくる→そのための前提知識を得る…共感しました。

● 不安の根について知りたい!と思いました。

● 発言もしましたが、若者すばらしいです。私もいろいろ理解しました。

● 大きな事故や事件、小さな事故や事件、どんな事件にも原因があり、経過があり、当事者がいて、現在に至っています。起こってしまった事については、時間が経っても、金銭的な補償があっても、永久に解決することはないと思います(忘れることはあるかもしれませんが)。不安感を軽減するためにには、このような場を継続的に行い、議論すると、考えを伝える場、客観的にみることが大事だと思いました。そして人それぞれの解釈で考え、判断すれば良いと思います。

● 意欲がある人でも、「~してほしい」「~であってほしい」といった意見が大多数を占め、「結局は他人事」なのかな…と少し残念に思うのと同じに、どうすればその思考を変えられるのか挑戦する。知識がなくても(少なくても)対話できる、行動できる場づくりを目標にした活動にもかかわっているが、また、知ることの重要性を再認識し、そのわりふりを考えていきたいと思った。無知を知った。『はじめての福島学』の内容から離れた言葉で話していいのか、明確にしてほしかった。感想はどう思ったかではなくて、何を考えたかではないだろうか、と思った。人数が多いとどうしても池が言いづらかったり、「対話」が重視されにくくなると思うので、5人程度のグループトークにするとどうかなと思った。彼の樹論と主張論も大事だが、何故どのようにどう自分が考えたかを話せる環境づくりが必要かと思った。知識&受け売りが強かった。この場で学べるものは、自ら作るのか、線引きの必要性を感じた。~してほしい論で申し訳ありません。とても勉強になり、自分が何を変えていけばいいのか、何を為すべきかより明確になりました!ありがとうございました。

● 今回のテーマは色が出やすい難しいものだったと思います。哲学的視点からどのように切り込んでいくのか楽しみにしていたのですが、他の震災系フォーラムの流れになってしまったことが少しガッカリです。もっと深めたいと思ったのは「思考の単純化」です。「福島学」は今後考え続ける必要があると思った。「主体的に政治に参加する」や「主体性」について語りたい。当事者=主体者になりうるのか。思考するとは何か。

● 初参加でした。本に対して様々な意見を聞くことができ、改めて「福島面倒くさいな!!」と思いました。それだけ
たくさんの意見を聞くことができましたし、県内、県外というだけで更に考え方、視点があると思いました。一人ひとりがめんどうくさいに向き合うためにも、データを知ることは重要で(向き合う必要があるのかも疑問ですが)、そのきっかけになる場だt感じました。

● 福高1年の、1回も喋らなかった者です。すいません。自分もこの本さわりしか読んでいません。深く反省しています。自分は原発問題などは賛成でも反対でもないです。そして復興も「終わった」とも「終わっていない」ともどちらとも言えない考えなのです。ただ、福島について誤解されていることが嫌で、昨日これに行こう!と思い立ちました。このなんでも言える雰囲気が楽しかったです(自分は何も言いませんでしたが)。これから本読みます。

● データと事実をしめした上でもまだかいしょうされない不安ってなんだろう。もはや宗教にすくいを求めるしかないのかしら。ダイアログになれしたしんでいるの、対話式を一度やってもらいたいです。

● 「自分に何ができるのか」というところで、いつも思考が止まってしまいます。考え続けることが大切ですね。今日は参加できてとても楽しかったです。

● 残念ながら読み終えてなくて発言はどうかと思い、できませんでしたが、特に今、「自由」に思っていることを言える場が大切ですし、若い人たちに、拡がっていってほしいと思いました。私たち大人世代は若い人たちをバックアップしていかなければと思っています。わずかでも、何かの力?になっていければ、とゴーマンにも思っています。

● いろいろなよみ方があるんだなと思いました。行政の人間として、色々なデータを示していましたが、つたわっていないのだなと反省しました。

● 単純化の話が興味深かった。問題が単純化されてしまうのは考えなくてすんで楽だからだろうか。私は知性というのは自分の認知について不安であり続けることが前提として必要だと思う。これが絶対正しいという姿勢が学問でなく宗教的なものに対する姿勢だ。福島を「宗教」にしないために、本書の「福島」を知るための25の数字」は有効だろうと思った。

● 東京方の参加。福島県の抱える問題、「原発が誘致される地方の状況」「農業の状況」などを、日本が抱える問題で普遍的な問題として考えて来た。本によっても、今日の他県からの発言からも、フヘン化が思考停止や単純化にもつながることを自分の課題として考えている。著者も最後に触れたが、本をきちんと読まない(読まれない)事実を理解した。出版を生業とする者として参考になった。

● 高校生の皆さんが素晴らしい意見を出してくれた。本当は自分も社会のために為になる意見を出していきたいが、悪い意味で空気を読んでしまい発言できない。

● 「はじめての福島学」の本を読んで、統計的に福島の現実をいろいろな角度から知ることができた。私は原発が廃炉になるまで県民が寿命まで幸せに生きるためには一人一人がどんなふうに努力しつつ生きれば達成できるのかと常に考えている。今日はもっと福高生が多いかと思ってきたが、一般の方も年配も多かった。超少子高齢化社会が進む中、廃炉問題まで抱えて福島県で生きる上で福祉面が充分でない点が気になる。社会的弱者の生活が厳しくなるという意味である。県民の生活が先細りでなく何とか限界はあっても寿命までその人らしく生活できるようにみんなで努力していく方策を見つけたい。

● 初めて参加しました。来れて本当によかったです。しかも、こんなにも世代が様々な方達が県内外から集うというのは本当に初めてての経験でした。ご著書に足りないものがあるという発言がありましたが、みんなで「福島学」を完成できたらすばらしいですね。そのための「はじめての福島学」だと思いました。

● 意識が高い方がたくさんいて圧倒されてしまいました。県外の方でも、福島県をよく知っている人も結構いて、とても反省しています。でも「考えるって楽しいな」と思いました。ここに自分の考えを書くのもなんです、が福島学は完成させなくてもいい気がします。開沼さんに期待を寄せてしまったら、開沼さんが教祖様になってしまうので…。完成させるのは、今の若者だと思いカます。

● 今日の読書カフェは最後まで10分頃で帰り、最後が聞けなかったのが残念です。記録、報告を楽しみにしています。個人的な感想です。開沼さんが調査による具体事例の収集と分析から、仮説や構想まで、具象から抽象まで仕事をしての著作と想いますが、『「フクシマ」論』と『初めての福島学』で、違うと感じたとか、人権侵害とか感想を話した方々は、開沼さんの仕事の一貫性をはじめ抽象度を高めて見ておらず、具体的なレベルでしか解釈しないので話が噛み合わないと思いました。人権侵害は以前からあり原発事故が顕在化させたとか、権利保障は国への依存心やゼロリスク期待などへの反省が感じなかった。 開沼さんが新しい社会や人の在り方や地の在り方を構想しているのに対して、今まで安住していた社会へのノスタルジーか継続を期待しているなどの違いも感じました。開沼さんが自由度をあげているのに対して、個別具体的なことに引きずられ停滞してしまった。 単純化という言葉が最初に出てしまったためひきずられたけれど、短絡化と抽象化と分けた方が良かったとも思いました。抽象化は人間の知性だけど、短絡化は反知性と思います。安心を求める気持ちも良いのかとかも。開沼さんに、いろいろ求める無責任やお節介さには疑問です。自己のあり方や考え方を哲学的に根本的に問うならば、意見や価値観が違う視点からみることは有用だし、哲学カフェだから出来ることではないかと思います。

第1回アートdeてつがくカフェ・参加者感想

2015年05月24日 08時11分19秒 | 参加者感想
第1回アートdeてつがくカフェにご参加いただいた方々のご感想です。
こんなに賛否両論含めて微妙な感想をいただけたのは初めてです!
つまりは……大成功ということでしょう


●ずっと参加してみたかったイベントだったのでうれしいです。
そして、テーマが特に素敵な画家の作品だったのもうれしかったです。
美術関連は好きな分野のなので、また参加させてください。
美術館+カフェ、いいですね。
今回のようなたくさん描き込んである作品の方が、みどころや着眼点が人それぞれ違って対話を楽しめると思います。

●みんな感受性が鋭くて素晴らしいと思った。
どうしてそんなに感じ取れるのか不思議だった。
最後この絵の正体があかされた時は「へぇ、そうなんだ」と納得したけれど、やっぱり何も感じなくて、私にとってアートとは思考を深める手段ではなく、癒しとか楽しみとか美とか、そういう意味合いだなと思った。
アートはもうやめてほしい。
つらい。
何もわからない。
特に暗いのはやだ。

●大変楽しい時間でした。
絵画を見るということの一つの面白さを体感しました。
作品の意味というのは、文字化できるものと、本人も理解できていないものもあるはずだと思います。
だから、このような場は意味があると思います。
ファシリテーターは重要ですね。楽しかったです。
美術館でも是非!

●世代や経験によって作品の見方が大きく変わるようでした。
てつがくカフェとして絵読みをするのが重要なのか、
見方が変わるという点が重要なのか、
どう発言すべきか、悩んでしまいました。

●絵を拝見した時にすごく戦争当時の群馬の家のことを色々と思いだしました。
そして、今回は若い方、特に女性が多かったことで、とても幸せそうにお見受けしました。
これから結婚なさる方もいるでしょうし、よいご主人とめぐりあうといいですよね。
今回はとても勉強になりました。
これからもどうぞよろしくお願いします。

●おもしろかったです。
エンドレスの討論になりますので、将来も自問自答していくことでしょう。

●参加者の皆さんのそれぞれの見方、感じ方を聞くことができました。
実体験に基づく言葉には重みがあり、新たに考えさせられることが多い時間でした。
実物を見ながら考えてみたい。
県立美術館で開いてもよいのではないでしょうか。

●色々な方の色々な見方、捉え方があってとても興味深いものでした。
始まる前とカフェ終了後の自分が変わっているのも毎回のことながら楽しいです。

●スタートがゼロで、何の印象も持てなかったので、気づきばかりでした。
自分にとってはタイトルがあった方が考えやすいかと思いました。
狂気とは自分なのか、世の中なのか。
逃げるとしたら、なぜに、どこへ逃げるのか。
美術館はいいですよね。

●色々な世代の方ガット話し合う機会はなかなかなかったので、とても新鮮な気持ちでした。
カフェで飲み物片手に、気軽に話し合いをするという点はとても良いと思います。
特に小さなスペースでやるのはなんだか安心感?を感じました。

〈3.11〉特別編5・参加者感想

2015年03月31日 08時41分21秒 | 参加者感想
去る3月7日(土)に〈3.11〉特別編5―「小さき声のカノン」―が開催されましたことは、すでにブログで報告させていただいております。
今回はその際にお書きいただいた感想文の中から、特に印象的だったものを一つ紹介させていただきます。

僕は埼玉県に住む中学生ですが、理科の授業でエネルギーのことについてやって、先生が原発を推進するかしないか私たち生徒に質問したのですが、賛成が10人くらい、反対派1人、無回答が20人くらいでした。
賛成なのも問題ですが、無回答なのは、日本人らしいというか、未来のことを何も考えていないのか、と思いました。
未来を支えていくぼくたち若い世代こそこういうことを考えていくべきだと思います。
このようなものは中学校や高校でもやるべきだと思います。


「無回答」が「日本人らしい」というのは、大人社会においてもあてはまる実態でしょう。
考えていないからなのか、関心を持たないからなのか、はたまた自分の意見を公にする勇気がないのか。
判断を示せない態度がいつのまにかこの社会の雰囲気となっている気がします。
そのことがいかに危機的なことであるかを、この若い参加者の方は鋭く見抜いているのではないでしょうか。

再び鎌仲監督がご紹介くださった、詩人・まどみちおのエピソードが想い起されます。
彼が戦時中に詠んでいた戦争高揚詩を、彼の詩集に載せることになった際、解説文に「戦争を翼賛せよと誰からも強制された覚えがないけれど、僕はこれを書きました。もし戦争になったら、やっぱり書くでしょう」との説明が付されたそうです。
重要なのは「誰からも強制された覚えがないけれど」という部分でしょう。
誰からも強制されたわけでもないにもかかわらず、なぜか、時代の風潮に自分の意見が合ってしまっている。
逆に言えば、時代の風潮に合ってなければ、無意識に自分の言葉を抑え込んでいるということではないでしょうか。
鎌仲さんに言わせれば、それくらい人間一人ひとりは弱い存在なのだ、ということです。
もし、今、私たちの日常の場で、自分の意見を示しにくくなっているのだとすれば、もしかしたら、それは戦争状態に私たちの社会が半分足を突っ込んでいるということなのかもしれません。
戦争状態とは、必ずしも戦場で戦闘行為に巻き込まれている状態だけをさすものではないからです。

山田洋二監督の映画『小さいおうち』は、戦争経験世代の祖母に孫が当時の状況をインタビューするという形で物語が展開されますが、戦争を知らない世代の孫が、祖母の語る戦時中の平和な日常に違和感を訴えるシーンがとても印象的です。
戦争はもっと悲惨なはずだよ、おばあちゃんの記憶違いだよ、と。
でも、くり返すように、戦争状態とは外部で起きる凄惨な出来事と平和な日常とが併存しながら同時的に進行する事態です。
そして、突如、身近に起きた悲惨な出来事だけがセンセーショナルに記録に刻まれ、それまで併存していた平穏な日常性は社会的な記憶から後退するわけです。
さらにいえば、その平穏な日常性の中で、いつのまにか自分たちの声は沈黙していったのではないでしょうか。
主体的に。

そのような時代認識が、にわかに現実味を帯びる中で、先に紹介した感想文に、大人世代は答えないわけにはいかないでしょう。
とりわけワタクシは職業柄、彼の訴えを肝に銘じなければならないと、あらためて気持ちを引き締めさせられました。
まだまだ闘いの日々は続きます。
あきらめずにこの時代社会を生き抜きましょう。
ご参加いただき、ご感想をいただきました皆様には、あらためて感謝申し上げます。

スゴすぎる哲カフェ愛!―なぜ、哲学カフェに集うのか【その9】―

2015年02月24日 20時55分28秒 | 参加者感想
シリーズ「なぜ、哲学カフェに集うのか」に、ついに冊子提出がありました
なんと、表紙つきです
                  
しかも、図解入りです
                  

こんなに、哲カフェ愛たっぷりのレポートをお書き下さったYさんには感謝感激です

さて、肝心のレポート内容はこんな感じです。
ダイジェスト版でどうぞ


なぜ、てつがくカフェに集うのか?
楽しいからです。
何が楽しいのか⇒自分の欲求が満たされるので楽しいです。

1 他者の考えや意見、体験を知ることで、他者と自分への理解が深まる。
すると、私の世界が広がる。より広い知とより深い理解によって人生の幅が広がる⇒楽しい
この世界が広がったことで別のステージ、別の次元に立つ自分を感じる⇒喜び

2 究明して明らかになると、まさしく明るくよく見えるようになって⇒楽しーい
 軽くなった自分を感じて別のステージ、別の次元に立つ。⇒あー楽しい

3 仕組みがわかると、なーんだそういうことか。となって生きやすくなる⇒あー楽しい
やはり軽くなって、別のステージ、別の次元に立つ自分を感じる⇒楽しっい!

4 わたしという個の知、体験、洞察を話すことで、自分を表現できる⇒楽しい
それが誰かの何かの役に立つことがあるかもしれない⇒楽しい、うれしい

〈自己愛〉たくさんの他者と出会い、他者の考えや体験を聴き、より広い知と深い理解が得られ、いくつもの意識、心の変化を経ながら私が拡大していく。そんな私が好きでそれが楽しい。そんな場が好きで、その楽しい場に出かけていく。1~4が満たされますから、満たされるまで行かなくても、私の知的好奇心や知的興味を遊ばせることができますから、それは楽しいことなのです。喜びです。つまりは、自己愛だと思います。

〈知ることと理解〉
私は自分が存在しているこの世界(見える世界と見えない世界の両方)の全体像を知りたい、把握したいという強い欲求を持っています。
また自分という個をこの世界に表現したい、個を表現することが私のできるこの世界への【宇宙への】貢献の一つだと思っているので、それらを満たす場、喜びを満たす一つの場がてつがくカフェ@ふくしまだと思います。

対話の場で自分や他者の意見や考えが通ることでもなく、また正しいとか、正しくないという議論でもなく、他者や自分が意見や考え、体験を表現することで、その場やそこにいる人々に揺らぎや気づきなどの化学反応が起きる。すると別の次元に立つ、それが楽しい。 

一人ひとりのオリジナルな意見、体験は必ず他者に貢献すると思っています。私は一般的な価値観とは違うものも持っているので、その点でも他者への貢献ができると考えています。私という個が不協和音を入れることで、新しい調和への一助となると思っています。

自分を与える喜び、自分を役立てる喜びがあるのです。

対話の場には、与えることと受け取ることの循環・交歓・交換があるのがいい。これは喜びです。

〈哲学とスピリチュアル〉
哲学をフィロソフィ愛知とみるとき、私が20年近く、宗教とは別なところで、マイペースで探求してきたスピリチュアルな世界と、その意味において同じです。

スピリチュアルな観点では、この世界・人間を愛(無条件な愛)と智(実体験として知ることや、知識、そこから得られた知恵、洞察)で見ます。

私には哲学の愛知とスピリチュアルな観点の愛と智が、おそらく本質的には同じことを意味しているのだろうと思えて、そこにも興味があります。

スピリチュアルな世界は、私たちにはまだ見えない、感じられないと思われている、見えない世界も含めた、幅広い次元を扱ったものです。

スピリチュアルな世界はとても数学的科学的な世界であると私は思っています。

スピリチュアルな見方では
・それぞれの個人はそれぞれの異なる才能(個性、個体差)エネルギー・波動周波数を持っている。
・人が集う時、それぞれがその才能(エネルギー・波動周波数)を持ち寄る。
・その才能(エネルギー・波動周波数)は、他者に貢献する(影響を与える。
・その貢献は多種多様の形をとる。

哲カフェに参加する前の自分より、参加後の自分の萌芽、意識が確実に拡大し豊かで穏やかになりますが、この体験は私にとって素敵な体験であり、楽しいものなのです。毎月その機会を得られることは、とっても“シアワセ”なのです。

スピリチュアルな見方では、1つの個体(人間)を一つの意識体とみるので、私という意識体の意識の周波数が変化して、新しい次元に立つチャンスを得ているのが“てつがくカフェ@ふくしま”という場です。

また、懇親会(2次会)では参加のm名さんの別の側面を見ることができますので、またまた、この世界の豊かさを知ることができて楽しいです。

〈快感を得る〉
・哲カフェで対話し、家に持ち帰り、色々と考えていると、ある時、洞察が生まれます。時々、洞察が私にやってきてくれるのです。
・この洞察まで行けたテーマの時は難しいパズルが解けたときのような快感があるのです。楽しくて愉快で満足な状態のワタシになります。

たとえば、「幸せって何?」の時は
誰かが〇〇〇の時に幸せって感じる。
誰かが△△△の時に幸せって思う。
と発言するのを聴いて、うんうん私もそう思うってうなずいて、相対的なの?って問いが出て。そうなのかなー。どうなんだろうって、普遍的であってほしいよっていう意見も出されて、私もそう思うよ。でもうまくせいりできなくて、グチャグチャしてて…

数日数週間、数か月あるいは数年過ぎたある日、パタパタパタってドアが次々に開くみたいに解けるんです。自分なりに応えに辿り着くんです。
なんだこういうことかー。最高!ってな具合に。

なので、「幸せ」の部分に関しては、ってもすっきりして、そこが明るく軽くなって「幸せ」ってことでは納得のぶれない自分を獲得しているんです。
ある日また揺らぐことがあるかもしれませんが、ひとまず私の輪郭の一部がはっきり見えてくるんです。

〈壊れる快感〉⇒私に合うやり方
・私は頑固な一面を持っています。また一方、柔軟性も持っています。
・私は拡大指向や変化し続けた欲望を満たすには、頑固なワタシを壊す必要があるでしょう。意図せず勝手に壊れますが。
・拡大指向、成長欲求が強くあるので、壊れることが快感になるのかもしれません。
・それぞれがそれぞれの視点を持ち寄り、全体となる。(全体を把握できる)
・それぞれの個体(個性)が集うことで全体が見えたり、新たなものが見えてきたりする(平面から立体的なものへも含め)。
★スピリチュアルな視点では…今回の人生では、私はここをtン等するよ。人生のテーマとしてここを選んだよ、ここが私の今回の人生の課題が達成されるポジションだよ、ということなので、誰一人同じ人はいなくて、70億の人すべてが、それぞれユニークな音罪で、その存在が無条件の愛の下に尊重されます。
・以前、オブジェでてつがくカフェはどう?なんて話が出ました。おもしろい!とその時思いました。私たちが在るこの世界を多面的・多重構造の複雑な世界のオブジェと見なすと、見えるものは体験は、その位置で多様に異なります。
・老若男女、違う環境にいる人々など自分とは異なる個体が集うことで、この世界の多面性が見えてくる。



・私一人では、この世界のすべてを体験することができないので他を(私のポジション以外の領域を)他者が体験してくれています。そうした他者がいて、その他者と交わることで席は全体像を露わにすると捉えます。
・70億の人がいるということは、私たちが70億に分化しているということです。70億の存在、70億の目、70億の心があって、全体となり、それぞれがその人ならではの独自な観点からこの世界に貢献しています。
・ですので、逆説になりますが、私たちは一つです。

★「ワンネス」という言葉がスピリチュアルの世界にあります。
綱の結び目の一つひとつが私たちで、すべての人はつながっているんだよ。全員で壮大なネット(織物)を作っているのだよ。というものです。
誰か一人が引き上げると(体験し意識が変化すると)周りも引きがっているのだよ。
一人の気づき、意識の変化は全体の影響を及ぼしているのだよ。
自分の体験気づき意識の変化は全体に影響を及ぼしているのだよ。
自分の体験、気付きを喜べ、そして他者の体験、気づきも喜べ、というものです。


★この世界の仕組みが知りたい、この宇宙のしくみが知りたい、人間の仕組みが知りたい、これで精神世界にはまってしまいましたが、この精神世界に私にしっくり合う答えがありました。そして、それはとても科学的な答えでした。
見える世界と見えない世界(まだ解明されていない世界)の両方の世界を扱う精神世界・スピリチュアルな領域(波動周波数の世界・多次元世界)に私を満足させる答えがありました。
                                                 
スピリチュアルな視点を取り入れたことにより、この世界の仕組みは、はるかに解明しやすくなり、より納得のいくものになりました。そしてなにより人生がより豊かなものに変化してきました。
この私の経験が私独自の観点から誰かのお役にたつことを望んで、哲学とスピリチュアルな世界両者の橋渡しができたらうれしいなと思っています。
また62年間の経験もここ哲カフェでお役にたてたらいいなと思っています。
そして、新しいスピリチュアルな道に要実のある友を募集しています。

〈趣意書〉
てつがくカフェ@ふくしまの趣意書はすばらしいなと思っています。
趣意書を呼んで、気持ちのよさを感じます。
趣意書を読んだとき、特にいいなと思ったところは、
●「自分との内なる対話」⇒私がよくやっていることなので楽しそう。
●「老若男女・社会的地位…対話空間の実現を目指しています」⇒私はこういう空間を求めていたのよねー。楽しそう。
●「種をまくことを目指します」⇒私を表現して、いろんなたねを撒いてこよう。楽しそう。
●「…拡散し、開花していく…」⇒対話の場で生まれた様々な種もまた、いつかどこかで誰かに花開くのは、これは楽しいよね。キャッホー!
●「一人一人御人生を豊かにするものだと考えます」⇒私の①~④が満たされると、心が(魂が)満ち足りますからとても楽しいことなのです。ヤッホー!(命が)喜ぶ。

ですので、
ここで楽しく自分を育てることができる 
ここで楽しく自分が育つことができる
と思ったのです。
ハイデッガーが「人間とは自己の存在を常に了解しつつ、その可能性を企てていくもの」と言っているようですから、私は私の可能性を(私の喜びを)企てて(意図して)いるのだろうと思います。まさしく自己愛ですよね。

今のこの自分が最終地点、慣性系とは思っていないので、毎瞬の「変化こそ私の人生」です。
頑固な部分もありますが、柔軟性もあるので変化を歓迎しています。
自分の変化が得られる「てつがくカフェ@ふくしま」は好きです。

★てつがくカフェ@ふくしまだから行くのであって、他の哲カフェであったら行くかどうかはわかりません。

てつがくカフェ@ふくしまの基本ルールと趣意書がつくるフィールドは、愛にあふれるフィールド(対等、同等の場)
配慮され育まれるフィールド
楽しくて素敵な場だなあと思ってます。

その趣意書とルールのフィールドを次に例えてみました。
世話人のおふたりが、父親と母親になって「私たちが見守っているよ」ってな感じで、大きな水槽を支えて、つつんでそばにいてくれる。
その水槽の中は愛と配慮で満たされている。
杉岡さんがおいしい水をジャボジャボ入れてくれる。
私たちはその中で、それぞれの在りようで泳いでいる。
そして育っている。
お二人は親として、子を育ててくれているのだなぁと思っています。


てつがくカフェ@ふくしまがあることに感謝します。
そこに集うすべての人々にも感謝します。
てつがくカフェ@ふくしまに愛をこめて Y  (完)

やっぱんつさんの哲カフェ参戦記

2015年02月22日 19時17分07秒 | 参加者感想
最近、哲カフェの参加感想をアップしていますが、どれもこれもとても興味深く、何度も何度も読み返しています。
お書き下さった皆さま、あらためて御礼申し上げます

と、思っていたら、なんと、『愛する人に東横インをプレゼントしよう』の著者、やっぱりぱんつさんが、ご自身にご参加いただいた第6回本deてつがくカフェについての参戦記をブログ(やっぱんつ.comm)にアップして下さいました

ご本人の承諾を得て、その一部をご紹介させていただきます。

・・・・・・

「え? あの本が課題図書なの?」とか

「っていうかあの本と哲学が結びつかないんですけど?」とかいう

心配とも混乱ともとれる声が聞こえてくるのだが

(っていうか私もその両方を感じたのだが)

でも実際、てつがくカフェに参加してみるとほんとうに、とにかくほんとうに、

「愛する人に東横インをプレゼントする」という話だけでは収まりきらない、

アカデミックでエキサイティングな対話が繰り広げられ、

私たち夫婦もとっても刺激を受けたのである。

どうエキサイティングだったのか、というと

とにかく話の広がり方が想定外であった。

だって、この本に登場する私たちのような「まったく趣味の違う恋人同士」的な

an・anっぽい浮かれた題材で盛り上がるのかと思ったら、

宗教や人種の違う者同士、などのディープでまじめな話になり、

またなぜ今こうやってテロが起きてしまうのか、

人は人を殺してしまうのか、などなど、

東横インの話から発展したとは思えない題材で盛り上がったのだから、

そりゃ想定外よ。

とはいえ別に、専門的なことや小難しい話をしているのではない。

職業年齢関係なくみんなとにかくひたむきに、

はぐれることなく対話するスタンスなので、

そういった意味ですっごい頭を使うのだが、

でもそれがまた、すっごい楽しいのである。

ほんとうの意味での対話、というのを初めて経験したかも。

休む間なく脳みそが働きますね。

受け取って、考えて、また伝えるのって大変だ。

・・・・・・


やっぱんつさん、ありがとうございました
また、ぜひ哲カフェにご参戦ください

なぜ、哲学カフェに集うのか【その8】

2015年02月19日 21時22分31秒 | 参加者感想
シリーズ・なぜ、哲学カフェに集うのか。
第8弾は、就職のため福島を離れたかつての常連さんからのメッセージです。
実は、彼は世話人の教え子さんでもあるのですが、耳のイタイお話も…

わたしがなぜ、てつがくカフェに集うのか。

私は、幼い頃から物事の細部までなぜ?なぜ?
を連発して親を困らせていた。一緒にニュースを見て為替の情報が流れているのであれば
「なんで毎日レートが変動するの?」「なんで世界は一緒のお金じゃないの?」と小学校入学前から親に聞いてみたり
国会の委員会で強行採決のVTRをみていると「なんでマイクをうばうの」「マイク壊れないの」「マイク壊れたらだれが弁償するの」
「なんで各々の放送局の名前が入ってるの」「マイクひとつで良いじゃん」と今思うと親はよく、そんなのしらないと切り捨てなかったものだ。
もちろん同じ事を小学校でも展開して当時の担任は困り果てて家庭訪問の際「いろんなことは教えなくてもいいのではないか?」
と言われた。

そんな私は、みんなで様々な事を共有したいだけなのに「君は物知りだね」といわれそのような事を話す場所がなくなってしまった。
私は考える事 それを共有・議論することが好きなのにそれができない。
議論しようとするだけで、君は頭がいいから、物知りだから と自分が思ってもいない理由で切り捨てられる。
そんな自分を受け止めてくれる場所がてつがくカフェだったので集うようになった。

てつがくカフェはフェアだ。どんなことでも話せる。年齢も立場も関係ない。
普段、目上の人が考えてることに自分の考えを付け加えたり、アドバイスをしたら生意気だと言われる。
議論をしたいために反対の意見を述べても怒られる。
てつがくカフェはそんなことはない。自分がうまく文章にしきれないことに対しても単語で発すると誰かが補ってくれる。
自分の知識を深めるために自分の考えと対(つい)の人も私はこう思うと言ってくれる事で自分の議論が深まる。
この自分の議論が深まるときこそ快感なのだ。

私は、てつがくカフェ@福島の世話人の方に高校時代、倫理の授業を習っていた。
倫理の授業の点数はすごく悪かった。今もだが、正直昔の哲学者が何をやっていたとか
なにを考えていたとか全く興味がなくて、それをテストのために丸暗記するのが嫌だった。
てつがくカフェで哲学書がテーマの時も本は読まずに参加した事もあった。
昔の人の考えを引用する事は大事で、哲学書を読む人を否定するつもりは無い。
私は、自分が起こっている物事に対して自分自身が考える事が大切だと思っている。
参加者たちと話をする中で考える方法、様々な見方を教えてくれ気付きをあたえてくれる
ものがてつがくカフェだと思い、これからも参加し続けると思う。

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その7】

2015年02月14日 22時35分06秒 | 参加者感想
哲カフェにこんな力があるなんて!
これも参加者の皆さんの力に他なりません!


わたしにとって、てつがくカフェとは自分のことを知る機会を与えてくれる大切な場所です。

最初に参加したのは、シネマdeてつがくカフェが開催された映画館でした。
冬のハンナアーレントは仕事の都合で観れず、その次の春に行われた「ある精肉店のはなし」を観て、そのあとの参加者の方たちのやりとりを聴き衝撃を受けたのです。
わたしよりずっと若い人も年上の人も、真剣に自分の考えをみんなにわかる言葉で力強く話していました。

わたしは、若いころは勉強が好きなことを恥ずかしいとかカッコ悪いと思い、人に話すなんてもってのほかで、自分のいる世界や未来について真剣に考えたり、世界観や思想などの考えを確立する努力を全くしなかったのです。
それをこのときはとても後悔しました。

一人で映画を観たことも実はその日が初めてだったのですが、終わったあとに感想などを知らない人たちと共有できるということは他に無いことなので、とても魅力的に感じました。

そのあと「人生をやり直すとは」というテーマで、通常の形式のてつがくカフェがありました。
その時はテーマに惹かれて参加しましたが、自分で想像していた以上に、みなさんが活発に意見を出し合っていたので驚きました。

わたしの友人はみんな明るくて、楽しい話にかわいらしく笑い合う人ばかりで、わたしはそれが居心地がいいとずっと思って生きてきたのですが、自分が過ごしてきた時間とは全くかけはなれた空間がそこにありました。

正直言って最初はなじめないだろうなと思いました。
わたしは難しいことはしゃべれないし、学歴もないので頭も良くないし、結局のところここは、人生がやり直せるかやり直せないか教えてくれるわけじゃないみたいだし…と少し暗い気分になったのです。

いま思えば、セミナーではないので答えや指針のようなものを提示されるわけではないところがおもしろいのですが、答えが欲しかったころだったので少しがっかりしました。

でも、てつがくカフェの二時間が終わって、そのまま飲み会に突入したのでなんとなく帰らず居座り続けていたころに、世話人の純さんが初参加ということでいろいろとわたしの話を引き出してくれたので
離婚しちゃったから行くところないので来てみたんです
と話したわたしに対してガハハーと豪快に笑って
「てつカフェへようこそ!!」
と楽しそうに言ったのです。
いまになってみれば、いい気分でニコニコと酔っていただけだろうとわかるのですが、その時はびっくりしたし、とても感動しました。
世間では離婚は珍しくないことでも、わたしはそれが2回目だったので、さすがに人より多いし落ち込んでいたのですが、そう伝えても同情やあわれみや、または好奇の目で見られなかったことが初めてだったからです。

きっとここの参加者の人たちが持っている、他人を判定するフィルターみたいなものが普通じゃないんだなと感じました。
というか、そもそも他人を判定するような目線など持っていない人たちだけが集まっているのかもしれません。
それはすごく貴重なことだと思います。

会が終わるころには、この人たちのところに一緒にいて、わたしが持っている「普通」という感覚から抜けたいなと思うようになりました。

今では参加することに何のためらいもなく、むしろバカなりに話題にきちんと参加できるように数日前からいくつも考えをまとめていくようにしているのですが、当日になると本当に予想できない意見がどんどん出てきて、わたしが考えていたこととは違う方向に進んでいくので事前準備はたいていムダに終わります。
それでも、ひとつひとつが今の自分の毎日にとても心強い光を当ててくれている気がします。

てつカフェに参加するようになって一番変わったのは職業です。
デパートで洋服を売る仕事しかしたことが無かったのですが、資格を取得したので3月から介護職員として福祉施設で働くことにしました。
これは完全にてつカフェの空間や、そこで出会った方たちの影響だと思います。
まだ参加歴は浅いのですが、それでも毎月、この場になじめるように誠実に毎日を消化しようと過ごしてきました。
自分はどう思うか、どう考えるか、脳みそをフル稼動して自分について掘り下げて考えていけば、たどりついた答えが何であろうと必ずわたしを肯定してくれる人たちがいる、それは何にもまさる宝物だと思います。
そのおかげでわたしは自分が本当に求めている新しい道を見つけることができたと思っています。

常連と自ら言うにはおこがましい身ですが、これからも対話を通じていろいろな方と交流を深め、わたしなりの人生観をきちんと構築していけたらいいなと思います。

どうかてつがくカフェがいつまでもこの福島に存在しつづけ、わたしのようにさまよっている人間を導く光でありますように。

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その6】

2015年02月14日 13時43分52秒 | 参加者感想
なぜ、哲学カフェに集うのか?
続々と参加された皆様より、ご回答をお送りいただております。
哲学カフェの意義とは?
皆様の文章を読みながら、日長考え込んでいるところです!


「『てつがくカフェ@ふくしま』にせっせと通う理由」

「てつがくカフェ」という集いが福島市で開催されていることは、新聞か何かで時々目にしていた。
哲学的なテーマについて珈琲片手に話し合うという試みを、面白そうだと感じていたものの、実際に参加するには今ひとつタイミングが合わなかった。
しかし2013年の冬、「てつがくカフェ@ふくしま」が『茶色の朝』を題材に開催すると、やはり何かで目にしたとき、今回はタイミングを言い訳にせず参加した方がいいのではないか、そう思った。

高校の教員をしている僕は、全体主義への警鐘を鳴らすこの本を教材として何度か取り上げたことがあった。
「他人の思考をなぞるのではなく、自分の頭で物事を判断すること」、「社会に違和感を抱いたとき、日常の多忙を言い訳にせず違和感を表明すること」、「自由とは無条件で与えられるものではないこと」。
この本がフランスで出版されたときの社会状況と、日本の社会状況にどこか重なるところがあるように感じていた。
でも、その理由もわからなければ、何をすればいいのかもわからない。
閉塞感と無力感を持っていた気がする。
何かできることはないのか、そう考えていた頃だった。
『茶色の朝』について話し合うらしい。
その本に興味のある人がいるかもしれないし、自分にも何か言えることがあるかもしれない、そう思って出かけた。

「てつがくカフェ」は楽しい。
「てつがく」とひらがなになっているだけあって敷居が低く、専門知識や哲学的知識の多寡を問うわけではないらしい。
よかった。そんな知識はないし。
会場で、木戸銭代わりに幾ばくかの小銭で珈琲代を払う。
幾ばくかの小銭というのもまた、敷居が低くていい。
そして、木戸銭と違って興行を見るのではなく、自分がその一部になる。

約2時間、テーマについて考え、何度かは発言をしてみる。
あらかじめ考えてきたことであったり、その場の流れで思いついたことであったり。
でも圧倒的に、他の参加者の方の発言を聞いている時間が長い。
自分と他の方とでは考え方がこんなにも違うものかと毎回驚き、それが当たり前なのだと今更ながら気付く。
一つのテーマに対して、実に多くの切り口があり、多くの意見がある。
決して共感できないとか、理解できないとかいうことはないのだけれど、それにしてもこの違いはどこからくるのだろうと話を聞きながらつい考えてしまう。
「育った環境が違うから」と山崎まさよしが歌う。
「そうか、おまえは、そこからやって来たのか。」と自分の立場のふるさとを見つけることもある。

結論がないことも気に入っている。
カフェが終わると、会場にあるホワイトボードは(それが電子黒板であったり、時にホワイトボードがなかったりもするが)、僕の意見も含め、その日に出された意見で埋め尽くされる。
でも、結論が出されるわけではない。
そもそも僕自身が、カフェが始まる前よりもずっと混乱している。
自分の意見が揺れ、自分の論拠を疑うようになっている。
心の中で反発を覚えていた他の方の意見に、いつの間にか共感していたりもする。
不思議だ。
でも、その混乱の中、「(どこかが)開いた」、「(何かが)深まった」、そういう感じが間違いなくある。
だから、混乱は不快ではない。

僕は「対話」を、「自分の意見を口にし、意見交換をしながら、自分の考えを確かなものとして深めていく過程」だと考えていた。
でも「てつがくカフェ」の「対話」から思ったことは、他の方の話を聞くことの方がずっと自分の考えを深めるきっかけとなる場合があるということ。
いきおい、自分のささやかな発言も誰かの深まりのきっかけになることを願う。
カフェが終わった後に拍手が自然と起こるのは、もしかして、そういうお互いがお互いを深め合っていくことへの感謝とか、そういうものだったりもするのだろうか。
ファシリテーターが「解散後もずっと考え続けていきましょう。」と言う。
実際にその後も考え続けることが多い。
運転中に思いついた考えを、慌ててボイスメモに録音することもある。
そうすると、一つのテーマに対して、かなり長い時間考え続けていることにもなる。
それなのに、結論は出ないし正答もない。
でも、それでかまわない。
ある物事に対して、性急に結論を出さず、じっくりと時間をかけて考える機会がある。
それは幸せなことかもしれない。

閉塞感や無力感は消えていないし、未だに震災について語ることは難しい。
でも、「どこかが開いた」、「何かが深まった」その感じを求めて、またせっせと「てつがくカフェ@ふくしま」に通う準備をしている。
「ずいぶんはまってるのね。」と、ある女の子に言われた。
そうなのかもしれない。

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その5】

2015年02月14日 12時52分19秒 | 参加者感想
なぜ、哲学カフェに集うのか?
なんだか、だんだん皆さん、文章が哲学的文学的になってきています。
それだけ哲学カフェへの思いが強いということでしょうか?
圧倒されそうです。


3.11の少し前に、『カデナ』という小説を読んだ。
血や土地に基づかない共同体、それどころか政治的スタンスも趣味も異なり利害さえ対立する者たちの共同体は可能だろうか?
保守的論客が「美しき日本の共同体」を賛美したり、サンデル教授が「共通善」を再評価するのとはちがう形で「共同体」を考えたいと思い、友人たちと議論をしていたその時期に3.11が起こった。
その時、人々は「うるわしき共同体」を称揚したが、僕には実感がなかった。

3.11後すぐに、親しい友人が「てつカフェ」を始めた。
それ以前から「てつカフェ」を準備していることも知っており、当初は僕はそれに参加するつもりだった。
しかし、1年もの間、「てつカフェ」に参加することができなかった。
その理由はよくわからない。
震災について、あるいは原発事故について、他人の前で語ることができそうになかった。
これらの出来事は僕を根っこの部分から揺さぶり続けていた。

やがて、僕は僕なりに語らなければならないと思うようになった。
その思いは焦燥に近いものだった。
これまで何のために無数の文学や哲学書を読んできたのか、もしこの時にこの出来事をめぐる言葉を紡ぎ出せないとしたら。
そんな思いにとらわれていた。

福島を去ろうと考えたことは二度や三度ではない。
僕の好きな、美しいふる里は損なわれてしまった。
山や川を見ても、それ以前のようには見ることができなくなってしまった。
しかし、結局僕は福島にとどまることに決めた。

3.11の時に、僕の住んでいる場所で「地域の共同体」は全く機能しなかった。
そのことでかえって、この土を共に踏みしめ、同じ空気を吸い水を飲みながら生きている人々は何らかの形で結びつく必要があると考えるようになった。
濃い結びつきでなくともいい、いや濃い結びつきでないほうがいい。

「てつカフェ」の結びつきはとても緩くていい。
参加しなかった時期にも、友人は僕を誘わなかった。
今でも、「てつカフェ」をここまで継続している友人に敬意をはらいながらも、気ままに参加して、好きなことを好きなように言っている。
議論ではないので、相手を説得したり論破する必要はない。
言いっ放しに近い意見もある。時には、「ちょっと待てよ」と思うことがある。
しかし一方で、議論という形式によっていろいろな大切なコトバが踏みにじられてきたのではないか、そんなことも思う。
「てつカフェ」という、どんな意見にも耳を傾けてみるというスタイルが僕に気づかせてくれたことだ。

蛍が明滅するみたいに、弱くても、そこここに光っては消える共同体が僕にとっての「てつカフェ」である。

なぜ、哲学カフェに集うのか【その4】

2015年02月14日 06時43分06秒 | 参加者感想
なぜ、哲学カフェに集うのか?
その4は文学的に書いてくださった常連さんのご回答です。
3.11。
裸の本当の自分。
寛容性。
それだけで哲カフェのテーマになりそうなキーワード満載です。


「てつがくカフェの寛容性」

ひとは常にマントを被る。
ハリー・ポッターもびっくりの透明マント。
マントでひとは周囲に同化し、被ってしまえばだれにもみつからない。
そうやって多くの日本人は周囲に迎合して生きている。
それが、この社会で生きるためには楽だから。

他方、そのマントの下では大きなひずみが生じるひともいる。
周囲に迎合した自分と、ユニークな自分。
この両者がしのぎをけずり、結果大きなストレスを生む。
でも、日常はそれをやり過ごすことができるのだ。
当たり前のこととして。

しかし、突然の非日常が訪れた。
3.11である。
大きな不安と絶望は、透明マントを引き剥し、本当の自分をさらけ出すことをある意味で強要した。
取り繕う余裕などどこにもない。
本当の裸の自分。
これを隠して生きることがどれほどのストレスを感じることか。
この本当の裸の自分をありのままに受け入れてくれる空間が、てつがくカフェである。

この空間に服はいらない。
正解なんてない。
哲学なんてしらない。
カフェに集った雑多で多種多様な人々が、一杯のコーヒー片手に、その考えのおもむくままに対話し、独白し、傾聴し、そしてその後も考え続ける。

ありのままの自分をてつがくカフェは無条件に受け入れてくれる。
このなんと心地の良いことか。
そして、そこで自分の知らない世界を感じ、吸収することができる。
裸の自分を受け入れられる心地よさと、大学とはことなる知への入り口にたっているという刺激。
それを自然に享受することができる特別な空間がてつがくカフェにはある。

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その3】

2015年02月13日 06時49分48秒 | 参加者感想
なぜ、哲学カフェに集うのか?
第3弾は、「哲カフェの良心」ことワタナベタカユキさんからのお答えです。
実は、ワタナベさんには既に昨年末にこの質問にお答えいただいており、本来であれば最初にアップさせていただかねばならなかったのですが…。
(すみません、世話人の至らなさゆえです…。)
ともかく、メチャクチャ多忙であるにもかかわらず、いつもアツイ思いを柔らかく語って下さるワタナベさんのお人柄が滲み出た文に感動です。


「なぜ、てつがくカフェに集うのか?」 ワタナベ タカユキ

世界には、哲学によってしかできないこと、つかめないものがある、と思っている。
ぼくは20代に、森有正の本などを通して(フランスの精神文化風土へのあこがれを通して)、その哲学が日本には致命的に不足しているという「精神文化的絶望」を堪能(?)した。
その思い(日本人の文化的思考様態?)は、3.11震災によるフクイチ原発メルトダウンで「日本社会の哲学の不足はついにこの破綻の始末に至った」と痛感させられたときまでコトアルごとに新たにさせられ、延延と続き、絶えることがなかった。
(政権交代で唱えられた「新しい公共」に期待を抱いたのだったが、哲学の欠乏および憲法精神の実現を棚に上げてのみせかけ民主主義の思考力はあまりに脆く、未熟なままだった裏目がたちまちにしてほころび、それでも今までになかったことば(ブレーン)が使われたことに何とか望みをつなごうとしていたのだったが....。)
こんなわけで「てつがくカフェ@ふくしま」の産声はぼくにとっては40年がかりの快挙!の意味を持っていた(カフェでも話したとおり)。

で、あらためていま、「なぜ、てつがくカフェに集うのか?」。
まずは、このカフェのありかた(雰囲気)が、期待していたとおりに市民的なもので楽しいからだ──と答えたい。
(先日行われた「ANARCHYでてつがく」──都合で参加できなかったのだが──についてのウェブレポートからはなんだかこれまでになかったような哲学の躍如を感じて地団駄踏む思いだった。)

そのうえで、「クルシイからだ」というのが、やっぱり一番の動機なんだろうなと思う。
不可解のクルシサ、それを晴らしたい。
つまりは、ワレワレの世界と仲間(人類!)のアリサマについてのミライ(を指し示している)であろうはずの真善美(という単純なことばがこれらの思いすべてをくるめて表現している──というほどの哲学をしかぼくは持っていない)をつかまえたい──という想いのクルシサを晴らしたい。
コタエをつかみたい!

とはいえ、世界の情報化が急速に進み知的成果へのアクセスが申し分ないといえるほどに進んだ現在、コタエならもはや出そろっていると感じることも多い。
だがそれが社会化され市民の知的資本として共有供給され続けるしくみが築かれない限り、世界の現状は、破局破綻のただ中にあってさえ何も変わらないこともまた、わかってしまっている。

ぼくは、フクシマに露呈した破綻は哲学をもってでなければ越えて行けないと思った。
てつカフェの集いを通して、それは哲学を持っている人に共有されている思いだったことを知り、少し気を取り直したと思う。
たかだか趣味のレベルでしかないぼくの考えること(テツガク)が、これらの思いをどれほどかの知へと錬成したとしても、それが世界をつくることにつながるというようなことはないのだが、実は「ひょっとしてないとも限らないゾ」とも思っている。

つまりは、これが「ぼくが、てつがくカフェに集うわけ!」かもしれない。

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その2】

2015年02月12日 20時58分37秒 | 参加者感想
なぜ哲学カフェに集うのか?
今回は、哲カフェの「キムタク」こと、「Hえもん」さんからのご回答です。
気軽にお願いしたのにこんなに重厚なレポートにすぐさままとめて下さるなんて、有り難すぎます!


「なぜ、てつがくカフェに集うのか?」

集うきっかけは、当時同僚だった主催者に誘われたからである(笑)。
とはいえ、一般的に同僚に誘われても気が進まないものもあるし、一度は義理で参加しても二回目以降に足が遠のくイベントだってあるだろう。

常連(自分でそう呼んでいるだけだが…)になるほど足繁くてつがくカフェ@ふくしまに参加しているのは純粋に「楽しい」からだと思う。
ただ、「楽しい」にはいくつかの理由がある。

「楽しい」の1つ目の理由として、自分の知的好奇心が満たされることが当然含まれる。
毎回テーマに沿って対話が進んでいくが、「今回は自分に興味があるテーマである」とか「今回のテーマは興味がない」ということはあまりない。
テーマ設定がうまくいっていることが理由かもしれない(おそらく世話人はかなりの確率でテーマ設定を失敗したと考えるだろうが…)。
自分の中で答えがはっきり見えているものであれば、参加したいと思わないかもしれないが、確信をもって「○○○は×××だ」と言えるものはないから、その答えを見つけたくなる。
てつがくカフェに参加して、他者の考えに触れるたびに自分が考えていたことは次々に変容する。
最終的に答えが出ないものも多いが、それでも参加した前と後では世界が違って見える気がする。
余談ながら、「人はなぜ学ぶのか?」という問いに対して、哲学者の國分功一郎さんは「環世界」という概念を用いて、学ぶことによって世界の見え方、感じ方が変わると言ったことがとても強く自分の心に残っている。
てつがくカフェに参加して、世界の新しい見え方や感じ方を学ぶことは純粋に楽しいと思える。
しかし、新しい見え方や感じ方を手に入れるたびに、今の世の中に対する批判や問題点がどんどん見えるようになってきた。
3.11が起こるまで、社会を批判的に見る人たちに対して、「実際の世の中そうかもしれないけど、自分がそんなに腹を立てて怒らなくてもいいんじゃないか?」という風に思っていた。
わりと世の中を冷ややかに見ていたと思う。
しかし、3.11以降自分の考え方はずいぶん変わった。
3.11以後、世の中が「平穏な日常」に戻ろうと動きを見るたびに「それじゃダメなんじゃないか」という気持ちになった。
そういう気持ちを共有でいる人たちは身の回りでごく少数だった(いるだけマシだったのかもしれないが…)。
震災後、自分が考えていることを他人に伝えることができず、同調圧力に負けていく過程を体験してしまった。
その時感じたのは「戦争ってこうやって誰も責任を取らずに突き進んでいくんだろうな」という感情だった。
普段の歴史の授業で「戦争は愚かしいことだし、絶対にやってはいけない」と思って生徒に偉そうなことを語っていても、いざ戦争が起こったらそれでも自分は今までと同じことが言えるだろうか?という気持ちになった。
てつがくカフェが始まった時期と震災はほぼ同時期だったが、今まで社会のことにあまり関心をもたずに生活してきたが、もっと考えて行動しなきゃいけないんじゃないかと思った。
そんな時、てつがくカフェに参加することはとても楽しいことだった。

2つ目の楽しいは知的好奇心を得る楽しさとは別の対話する楽しさだと思う。
普段私は高校で地理歴史・公民の授業をしている。
たえず世の中のことに興味関心を持ってアンテナを高く情報収集せねばという半ば強迫観念のようなものを持っている。
自分の読みたい本を読んだりして情報収集しているが、この本も読まねばとかという焦りにも似た気持ちも湧いてくる。
自分が敬愛する世界史の先生はそういう強迫観念に負けず、膨大な本を読み漁り、たえず新しい知識を入れる生活を数十年続続けて『世界史との対話』というもの大著を執筆した。
そして、その本のベースになっているのは高校での授業実践と市民講座での講義だったという。
自分に同じことができるとは思えないが、そういう人になりたいという欲はある。
私の仕事は高校生と向き合い、授業をすることである。
自分が吸収した知識を自分なりに噛み砕いて、生徒に教えたり、発問を通じて考えさせたり考えたりする。
普通の人よりは社会科学の知識は持っていると思うが、てつがくカフェでは知識の多寡ではなく論拠の正しさが求められる。
てつがくカフェには高校教員だけではなく老若男女さまざまな方々が参加している。
普通に生活していれば出会うことのない方たちを対話をすることはいろいろな気づきがあったり、考えの多様性をもたらしてくれる。
普段は高校生という同質性の高い集団と一緒にいるため、自分の考えが絶対視されがちになる。
対話を通じて得られる考えの多様性は自分の考えを改めて考え直させるきっかけを与えてくれる。
そういう考え方もあるということを書物ではなく、目の前にいる人から語られることはとても大切だと思うし、それを自分で受け止めることも大切だと思う。
そして、それもまた楽しいことなのである。

3つ目の楽しいはてつがくカフェに参加することに連帯感を感じることだ。
人の話を最後まで聞くとか、対話になるように努力をするというルールがあり、参加者がそれを守ることが居心地のいい空間づくりにつながっている。
自分のどんな意見でも受け入れてくれる場所とか、疑問に思っていることさえ肯定してくれる場所は実社会ではあまりない。
参加するメンバーは毎回変わるが、そのルールが徹底していることがとても良い。
実際に対話ではなく議論を求める人はこの場は居心地が悪いから参加しなくなるのだろう。
また、二次会と称する飲み会も楽しい。
実は私は二次会の方が好きだ(笑)。
理由は酒が入るから…ではなく、その人の属性というかパーソナリティに興味があるからだ。
てつがくカフェは参加者に名前を名乗る必要もないし、名乗らずとも対話を進めることができる。
二次会では一応自己紹介するが、話が盛り上がっていくにはある程度自分の属性に関わっていくことが多い。
自分が興味を持てない人との話は苦痛だが、てつがくカフェに集う人と会話をしていて、興味がもてないと感じた事はほとんどない。
理由はわからない。
前回のてつがくカフェで他者理解がテーマだったが、共通の土台で分かり合える部分があるという話があったが、そういうことなのかもしれない。
そして、月一度のペースで参加者に会うと、いつの間にかざっくばらんに話せる参加者も増え、昔からの友達に再会するような気持ちになる。
知り合いが増えると、ますます居心地のいい空間になる。
ただ、この点についてはそういうなあなあの雰囲気ができると、新しく参加する方に悪い印象を与えるかもしれないので、常連としては気を付けなければいけない部分だと自覚している。
それでも、てつがくカフェに参加している人たちはみんな仲間だと思っている。
 
だんだん取り留めのない話となってしまったが、以上が今のところ思いつく限りのてつがくカフェに参加する理由である。