てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

「てつがくカフェ@ふくしま」へようこそ!

2024年07月20日 19時46分01秒 | 「てつがくカフェ@ふくしま」について
「哲学カフェ」とは、身近にあるさまざまな問題について、
誰でも気軽に対等に、安心して何でも話せる場です。

「てつがくカフェ@ふくしま」は2011年5月より、
月に1回、福島市内で、毎回2時間ほど、
参加者どうしで対話を行っています。  → 詳しくはこちら

「対話のルール」にしたがって話し合いますので、
初めての方でも安心して気軽に参加できます! → 詳しくはこちら

  次回のてつがくカフェ  →詳しくはこちら



その後の開催予定もある程度決まっております。  →詳しくはこちら




これまではこんなテーマについて話しあってきました。
→ 2011年度  → 2012年度  → 2013年度  → 2014年度  → 2015年度
→ 2016年度  → 2017年度  → 2018年度  → 2019年度  → 2020年度
→ 2021年度  → 2022年度  → 2023年度

実際の話し合いの様子を文字起こしした対話録もあります。
2018.6.16「日本のスポーツはこれでいいのか?どうしたらいいのだ?」

2022.3.12「復興とは何か?-『コロナ禍』と『復興五輪』を考える-」

お問い合わせは fukushimacafe@mail.goo.ne.jp ←現在ログイン/やり取りができないため
世話人(石井)のメールアドレス fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp まで。

皆さまと対話できることを心より楽しみにしております。
初めての方もお気軽にご参加ください!

てつがくカフェ2024 今後の日程

2024年07月19日 22時30分22秒 | 開催予定
今後のてつカフェのスケジュールをお知らせしておきます。

テーマや日付に関してはあくまでも現段階での予定ですので、変更する場合があります。ご了承ください。



・08月24日(土)  「正しい決め方-多数決は平等か?-」

・09月21日(土)  「文化としてのスマホ」

・10月19日(土)  シネマdeてつがくカフェ『君たちはどう生きるか』

・11月23日(土)  「生きづらさ」

・12月21日(土)  「笑い」



今後の予定は現時点では上記の通りとなります。

会場はいずれも福島市市民活動サポートセンター(チェンバおおまち3階)、

時間帯は15:00-17:00を予定しています。

また各回とも会場とオンラインの同時開催を予定していますが、

状況次第で、完全オンラインとなる可能性もあります。

そのつど状況を見ながら判断していきますので、

このブログその他でご確認ください。



てつがくカフェ@ふくしま2024.8.24.「正しい決め方-多数決は平等か?-」

2024年07月18日 16時42分31秒 | 開催予定
「安易に多数決に頼るのは残酷な行為である」
         渋沢栄一(1840~1931)


てつがくカフェ@ふくしま2024.8.24.
【テーマ】「正しい決め方-多数決は平等か?-」
【ゲストスピーカー】齋藤正臣さん(福島市議会議員)
【日 時】2024年8月24日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        
        ミーティングID:
        パスコード:

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp






今回のテーマも1月にリクエストのあった「多数決」となります。

今更ながら説明するまでもない言葉かと思いますが「多数決」とは、

ある集団において意思決定を図る際に、多数派の意見を採用する方法です。



英語では「majority decision」や「majority rule」と表現されますが、

この賛成者の多さで物事を決めるやり方は

単純明快であり誰しも一度は経験したことがあると思います。

そして、その決定した事項が自分が望んでいないものとなった場合、

多数決という一見平等公平なようで、何か腑に落ちない決め方に

納得できずにモヤモヤしたことがある人もいるかもしれません。

そんな言語化できずに心の中で沈殿していた想いについて

答えは出ないかも知れませんが

皆で考え語り合いたいと思います。



今回はゲストスピーカーとして齋藤正臣さんをお招きしています。

齋藤さんはサイトウ洋食店のオーナーシェフであり、

2011年5月に開催された第1回てつがくカフェ@ふくしまに参加してくださった後、

お店をてつカフェの会場として提供してくださる等、

本会とはたいへん縁(ゆかり)の深い方ですが、

その後、福島市議会議員にもなられ、

地方政治の現場で物事がどのように決められていくかを、

間近に目撃していらっしゃいます。

今回のテーマをお伝えしたところ、

それに関しては日頃から思うところが多々あるとのことで、

ゲストスピーカーとして話題提供していただくことにしました。

今回は、はじめに齋藤さんから問題提起していだいた上で、

「正しい決め方 ―多数決は平等か?―」について自由に話し合っていきたいと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま2024.7.20.「モノの価値」

2024年07月06日 18時15分02秒 | 開催予定
価値は、お金でできているわけではない。期待や憧れが、絶妙に調和してできている。
ーバーバラ・キングソルヴァー(作家、1955~)ー


てつがくカフェ@ふくしま2024.7.20.
【テーマ】「モノの価値」
【日 時】2024年7月20日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/83476906831?pwd=hLTaKM2wHR8zoaWo0ey3pZzeaNEshl.1
        ミーティングID: 834 7690 6831
        パスコード: 1vjZPv

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマもリクエストにあった「価値」となります。

TV番組の一つに「開運!なんでも鑑定団」という

30年続いている長寿番組があります。

番組を知らないという方に向けて解説しますと、

毎回様々な方が持参する「お宝」を、専門家達が鑑定し、

番組独自の見解に基づいて値段付けを行うという番組です。

意外な物が高価な鑑定結果を得たり、

高価だと思われていた物が偽物などで安価になってしまうという意外性や

鑑定物に対するうんちくが堪能できるのが大きな特徴です。



また、コレクターと呼ばれる収集家の代表的な収集物の中に

「切手」や「古貨幣」などがあります。

「切手」は特に興味がない人であれば、ただ郵便物を送るために必要な物に過ぎませんが、

下記の様に、「切手」の中には高額で取引される希少価値のある物もあります。

(参考HP:https://www.valuation-postagestamp.com/premium_ranking/)

・竜銭切手(一銭第3版)…発行日:1872年 平均的な相場:60万円

・旧高額切手10円…発行日:1908年~1914年 平均的な相場:17~20万円

・琉球切手(沖縄切手)改訂加刷100円…発行日:1952年 平均的な相場:10万円~


さらに、「古貨幣」についてもオークションサイトを見ると、非常に価値が高いことが分かります。



詳しくない方にとっては、

処分に困る絵や家具であっても、

古美術品やアンティークショップの経営者といった見識のある人にとっては、

喉から手が出るほど欲しい一品という事もあります。

逆に家宝として大事にしていた物も

実は二束三文にしかならないガラクタだったという場合もあり得ます。



現代は経済成長や技術革新によって、

モノがあふれる時代と言われています。

ネット通販や物流の整備によっていつでも手軽に、高品質のモノが入手できるようになりました。

そんな便利な時代に生きる一消費者として

改めて、「モノの価値」について

参加者の皆様と一緒に問い、考え、語り合いたいと思います



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.6.22.「わたしの子育て」

2024年07月01日 22時30分05秒 | 定例てつがくカフェ記録
6月22日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には16名、オンラインでは5名の計21名の方にご参加いただきました。







会場の発言の一部をご紹介致します。

・それでは今日は「私の子育て」というテーマで、まあ、これもあの1月にノンテーマでやった時に皆様から出していただいたテーマの内の一つになっております。どういうテーマにしようかと考えたんですけど、問いの形にしないで、かつもう「子育て」だから。まあ、皆さんの話を聞ければいいかなという事で、さっき言ったように「どう子どもを育てるべきか?」みたいな、そういう「あるべき論」にはしないで、「私の子育て」という形でお互いの経験とかを共有しようかなというふうに思っております。最初に言わせていただくと、まだ自分の子供がいなかった頃に、もう大分前なんですけども、ジブリ映画で「思ひ出ぽろぽろ」という作品があって。あれが現在の女性と、それから小学生時代の女性を行ったり来たりしながらという小学校時代の彼女の経験が普通に色んなエピソードで語られるんだけども。初めてその映画を見た時に、物凄く「えっ‼」て思って。何ていうかその主人公があまりに可哀想で。親の言動とかお姉ちゃんの言動とか、あまりにも可哀想でそれをブログに書いた事があるんですね。昭和の話だから昔の話なんだけども、今の常識から考えて、あまりにも酷く可哀想だったみたいなふうなことを書いたら、物凄い炎上しましてそのブログ記事が。皆さんから色んなふうに「何言ってるんだ」みたいな。「これでいいんだ」みたいなジブリファンの方々から、物凄くお叱りを受けるみたいな、炎上した事があって。その記憶もあって、この哲学カフェでもう一度その映画「思ひ出ぽろぽろ」を題材に話した事もありました。それも皆さんだったらどう思うかというのも伺いたいなと思っておりますが。とにかく皆様の「子育て」について、ご自分の経験であれ、考え方であれ、なんでも自由に発言していただければというふうに思います。

・私三人子供居るんですけど、育てあげてずっと葛藤してる事があって。「子育て」は愛情と教育の葛藤みたいな。常に迷いながら、その愛情と教育のバランスをその都度その都度考えていたんですけど。これってもう本当に人それぞれ千差万別、色んな家庭だったり、ご両親だったり、まあ、あの母親だったりのその人独自のレシピみたいなものだと思うんですよね。そのブレンドの仕方というのは。常にもう迷って迷って、もう今だに何か「これは!」という確信が持てない、とても難しい事だと思うんですよね。私実はワインが好きでして、ワインのブドウを育てる時に、あんまり良い土地、肥えた土地にブドウを植えても良い物が育たない。実が沢山なりすぎちゃったり、薄い味の水ぶくれしたようなブドウになったり、あんまりおいしいブドウが出来ないんです。それはなんでかというと、根っこがですね栄養をすぐ取れる様な状態にしておくと、表面の栄養しか取らなくて、中に根が伸びないんですよね。それってその土地の特徴とか、固有の養分とかを自分から取りに行かないんですね。あんまり栄養を与えないと、その根っこはずっとずっと地下の奥深くにこう潜って、そこからその土地にしかない養分を自分から吸い取るんですよ。だからボルドーとかだともう表面砂利だらけで痩せた土地ですよね。そういう所に良いブドウが育って、本当のその土地を表現する味わいを持つブドウになるんですね。だからそれを考えると、ブドウは天地人のそのバランスでなせる技なんですけれども。「子育て」というのも、その家に伝わる歴史とか親から教えてもらったものとか、そういう縦の軸もかなり影響する訳ですよね。平面的にその時代、時代の社会も勿論影響するし、環境も影響する。だから、とてもそのバランスというのは難しいなといまだに答えが出ない。ずっと多分答えが出ないし、どんどん変わっていくものじゃないかなと思います。

・今の話を聞いて、最近の話と重なるなと思ったんですけども。やっぱり偉い人が子どもをダメにするのはすぐ手に入るようにしちゃってるんではダメにしちゃうんだって。やっぱりある程度忍耐とかそういうのも覚えさせなきゃなんないと、本当に子どもの為にはすぐ与えちゃう事だって。手に入れるものは全てすぐ与えちゃう事がそれが一番子どもを駄目にするんだって。今のもブドウの話も全部すべて整ってる良い土地には出ないっていうので、それと共通するなと思ってね。今の話を聞いてて感じました。

・今日のテーマは「私の子育て」となってるんですが、私は「子育て」一応は終わってるというふうに思いますけど。思い出して振り返ってみると、私の場合は現役の時は仕事、仕事、仕事。女房は専業主婦という事で任せっきりだったというふうに思います。だからなのか、子供達がなんか母親の方にくっついてて、私とあまり親しく無い感じを思ってて。未だに私に対して反抗期を脱していないというか、反抗的な所があると。という事からすると、今になって反省しきりというのが実態です。それと息子はいわきで家庭を持ってるんですが、子供が生まれて孫ですね。この7月に二歳になるんですが、特に目立つのは「スマホ」ね。子供はまだ二歳なのに、もうそれポコポコ打って凄い訳ですけど。そうすると将来「どうなっちゃうのかなと。スマホ依存症になっちゃうんじゃないかなというような気もして気掛かりな所です。

・私の場合はですね、今にしてというか大分前から思ってたんですけど、大分愚かな母親だったなと自分で思うんですけども。子供は親の作品だと言う考えがあって、それで私は長女が生まれた時に「この子を天才にしよう」と。子供を天才にする本とかを買ってそれを実践したりして。そうするとですね、結構案の定賢い子になっていって、「この子天才かな?」と2~3歳ぐらいまで思ったりして。でも、どの子も2~3歳ぐらいまで天才なんですね。そういう事から私は子どもを自分でコントロール出来るもんだと思ったフシがあって。無意識に子供に色んな事をやらせたり、あとこれがいいんだと思えばそれを与えたり教育的に良い事を与えるという事をずっとしてきたんですけれども、後々考えたんですけども、子供は親にそんな事を求めてはいない。ある人が言ったんですけど「子供は愛で育つ。与えるのは愛だけでいい」と。それは大分子供がもう成人した後に聞いた話でもう時既に遅しなんですね。そうこうしている内に三人子供がいて、上二人が娘で、十歳離れて男の子だったんですけど、その子が小学校四年生から不登校になりまして、もう本当にもうアンコントロール。私のコントロール下にはいなくなってしまって。それから色んな葛藤があったんですけれども、私の「子育て」がもうこのままじゃダメだという事を感じまして、色んな教育機関に行きますと「コントロールはもう止めてください。子供との信頼関係が結べてません」と言われてしまって。こんなに一生懸命教えたのになんて事言うんだと思ったんですけど。結局子供が望んでる事を、私は子供にしていないという事だと思いまして。紆余曲折あって、今はもう成人して自立して働いてますけれども、そこに至るまでは凄い大変な思いをしました。それで先ほどちょっと気になったのが、子供に忍耐させることが重要だという話なんですけれども、それはちょっと私的にはどうかなという部分がありまして。「背負わされた荷物は重い、背負った荷物は軽い」という言葉があるんです。自分から自ら進んでやる事には、どんな忍耐でも耐えられる。だけど、与えられた忍耐は耐えられない。誰でもそうだと思うんですけど、だから不登校になった息子を育てる時に気づいたのは、子どもは自分で決めた事はどんなに辛くてもやり遂げるという事。だから今の子供は駄目だというのは、不登校なんかもダメだと言うのはちょっと違うかなっていう感じがします。

・私は三人の子供を育てたんですが、二年ぐらいで転勤を転々としながら三人を生み育てたので。振り返ると、それぞれの子供にかける時間がどうだったのかなという所が反省にあって。それを真ん中の娘についこの前話しましたら、「一人ひとりにかけるエネルギーや時間が少なくて、子供が三人だったっていう事もあって、申し訳なかった」みたいな事を言いましたら、娘が「それでよかったんじゃないの」と言うんですね。「私一人にお母さんのエネルギーがドッとかかってきたら、それはそれで負担だったかもしれないし、嫌だったかもしれないし、三人兄弟がいてちょうどいいバランスだったかもしれないよ」と言われて。ある意味ホッとしたような、そういう事かという気付きを得られたという事がありました。なので、何が正解かというのは全く子育ては無いと思えますので、それぞれの子育て、それぞれの家庭の状況やらがそれはそれで良いのかなというふうにも思えた瞬間でした。

・私も今子供が男の子三人いまして。私が気をつけている事は、浪人してた時に、一緒に浪人してた友達がいて、ソイツの言葉を覚えているんですけども。先生に「お兄ちゃんは出来が良くて、お前は出来が悪いな」と言うことを結構言われてショックというか、偶々同じ母親から生まれてきただけであって、その兄貴と比較されるのは本当腹立たしいという事で。その人はずっと言ってたので、その事を私も出来るだけ三人男なんですけど、三者三様で全くやっぱ違うんですね。生まれる順番も違うんだなという事を感じていて、そこをやっぱり比較をなるべくしないように、でもやっぱり出来が良かったり、きちっとしてたり、真ん中はバランスが良くて。私も二番目なんですけど、そんな所に行ってるなと感じつつ、なるべく比較しないように意識しています。あと、「子育て」なのか、やっぱり親である前に一人の人間なので、自分の人生を楽しむ。うちの連れはあんまり楽しめてない気がするんですけど、やっぱり自分をきちんとしっかり生きているお父さんは「今日、友達と自転車に行くから」「遊びに行くから今日は遊べないよ」
とか。「今日は予定が無いから行けるよ」という事で。私の意識してるのはちゃんと自分の時間を持つ、いずれ子供も離れていくと思うのできちんと自分の楽しみとか、やりたい事をやらないといけないのかなと思って。まだ奥さんの方もあんまり言わないんでしょうね。「私ばっかり我慢して」と言って、私とは全然タイプが違うので「貴方は何が楽しくて生きてるのかな?」と思う感じもするんですね。子供をそんなに好きでもないような感じで、いつも怒ってばっかりで。それを聞いて、私はもう本当苦痛でしかないと。ここで愚痴を言ってもしょうがないんですが、そんな所で私は比較をしないという事と、自分の人生をきちんと生きる事が、子供もそれを見て、どんな風に育つか分かりませんが、そんなふうな所を意識しています。

・今の話を聞いて奥様が子供を怒ってばかりいるみたいな状況の時もあると言うような事でしたけど。それは私の経験からするとね、仕方がない事もあるなと思います。とにかく「子育て」は大変なんです、大変でした。結婚する前は「子育て」がこんなに大変かというふうにも思わなかったし。している最中はもう毎日一日を終わらす事で精一杯だったので。とにかく自分に時間を取れなくて当たり前だったので。三番目下の子が小学校一年生になって帰りの学校帰りが二時頃になった時に、「あー、私の時間が来た」とやっと思えたんですね。その時に「じゃあ、私何やろうかな」と思った時に、あれやりたいな、これやりたいなって言うのが偶々あったので、そこからの勝手に自分のドアが開いたなんて勝手に思ってるんですけど。それまでは、とにかくもう三人でしたので、自分の事は二の次、三の次、四の次、五の次ぐらいしか出来なかったんですね。近所に頼れる親とか知り合いとか兄弟がいれば別だったと思うんですけれども、先ほども話したように二、三年で転勤しながらの子育てだったので、中々そういう状況になれなかったので。自分の時間が取れる人が、取れるという事も人それぞれ違うんだなという事も思いますし。時期とかタイミングとか時間とかも皆違うでしょうし、それはそれぞれの人生の中の学びの一つなのかなとも思うし。この前、偶々子どもの番組を子育ての番組を見ていたらば、専門家の方がお母さん方、お父さんも含めてですけど「子育ては大変なんだから30%出来てれば上等と思う。それぐらいでいいんですよ」というのを聞いて、もう過去の自分を振り返って、なんか肩の荷が下りたというか、楽になったという事がありました。

・「子育て」はやっぱり親は自分の事はもう二の次、三の次って今聞いてその通りと私もそう思ってたからね。もう自分は二の次、その通りだなと思ってね。あたしも三人子供いますけども、三人とも性格違うからね。この子はこのようにやり方が通用したけど、次の子は通用しないし。頭を回転させていかないと。私は羨ましいなと思ったのは、祖母がいる人はね。結構孫の御守だなんだってしてくれるでしょ。私はあれ見てて何程羨ましかったか分からない。私は全部自分でやったから。だからもうね、目の前の事必死になってやってるから、もう子育ての理想がどうのよりも、がむしゃらがむしゃら。自分は一日一日それでも必死になって。その一生懸命さがね、やっぱり「親の背中を見て子供は育つ」と言うけどね。その通りだなと思ってね。「子育て」でこうやってとか、そんな事も考えても、目の前の事で。祖母がいる人は本当に、たっぷり自分の時間を取りたければ取れるしね。だから、どれ位羨ましかったが分かりません。でも、背中を見て育って、三人ともまともに育ってね。「子育て」は全然何の本を読む訳でもなんでもないけども、その必死さその一生懸命さを見てそうだったのかななんて思いました。

・先ほどこちらの方ですけれども、あの「自分の子育て」についてお話しされた時に、自分の人生も楽しいも、それから子供を一緒にしない。そういう事を仰ったんですけれども、とっても良い考えだなと思いました。しかも男の子三人ですよね。やっぱりお父さんがモデルになるので、お父さんが人生を楽しく過ごしてるのを見ると、自分の将来はこうも明るいものと、大人になってからなんか楽しいんだなと大人になるって楽しいんだなというものを感じる事が出来ると思うんですよね。だから、凄く良い子育てをしていらっしゃると思いました。私もそうやって子供を育てる事をもっと楽しめば良かったなと思うんですけれども、ただお母さんの場合は、どうしても「この子を幸せしなくちゃ」とか「きちんと躾をしなくちゃ」とか、「良い子にしなくちゃ」とか、そういうのに結構縛られてて。何が大変って、その躾けとか、そういうものに気持ちを取られがちだった。私の場合はだったと思うんです。お陰様で皆さんから子供はとても良い評価を得られる事になったんですけれども。そうすると本当にその子は自分の生きたいように生きてるのかなという、そういう心配も無きにしも非ずなんですね。だから、別にいい子に育てる必要はなくて、先ほど仰ったように、自分の生きたいように自分の人生を生きるという。親は見守るという、そういうサポートする立場でいれば、そんなに苦しくもないし、大変でもないような気がするんですよね。よく見ると子供は色んな事に興味もって、色んな事をしたりして、凄く親を楽しませてくれる存在なのに、「あれしちゃ駄目」とか「あれは駄目」とか言ってなんか余計な事で忙しい気持ちになって、子供にも良くなかったかなと思う所です。自分の人生を頼んで楽しんで、しっかり生きている姿を見せるっていうのは素晴らしいなと思いました。もう一つ、奥様がキリキリしてるという所は、やっぱりご主人の思いやりが必要なのかなと思うんですね。何かにつけて感謝の気持ちを表したり、「大変だね」とかちょっとした言葉かけとか、そういうものでも大分穏やかになるんじゃないかなと老婆心ながら思いました。

・今のピリピリで思い出したんですけれど、日本はとても日本の社会全体がとても働きすぎだという風な考えがありまして。確かにそうだなというふうには前から思ってたんですけど。ちょっと前に本の紹介でオランダ辺りだったと思うんですけども、労働時間が日本よりは短いんですね。かつ日本だと正社員の様々な社会保障が付きますけれども、その国では日本で言うパートのような短い時間で働いても、ちゃんとそうしたの保障は同じように付くので。給料体系も同じなのでそれぞれが休暇を取りやすいので、「子育て」も「じゃあ、今日私が休み午後から取るから、お父さん明日午後休暇取ってね」というような事も出来るらしいというような事が紹介されていたので。それであればお互いにキリキリする度合いも減るなというふうに思いました。働く時間にゆとりがあるので、どこかに行こうかとか、キャンプに行こうかという事も計画もできるし、心にゆとりができるというそういう社会であってほしいなというふうに、その本の紹介を読んで思いました。

・日本はいつからなんでしょうかね。明治からか戦後からなのか分かりませんが、とても長く働く、働いて当たり前みたいな。最近は変わってきましたけれども、男性が働いて女性が子育てをみたいな時間が結構長い期間ありましたので、それを引きずっている部分もあるし。日本の社会構造的な事も、日本の「子育て」の難しさ、やりづらさみたいな所や、辛さみたいな所にも繋がっているかなというふうに思います。

・私は前の結婚の時は子供は出来なかったんですけど、でも結婚する時には「もしも、子どもが出来たら家事と子育ては半々にしようね」というふうに言ってたんですね。再婚しても「やっぱり家事と子育て半々で行こうね」というふうに言っていて、まあまあ半分ぐらいやってんじゃないかなと思ってこの間妻に今日に向けて聞いてきたんですけども。「半分やっていると、この場で言ってきても大丈夫でしょうか?」と言ったら、「量的にはね」と言われましたね。「量的には寧ろ八割ぐらいやってると言ってもいいよ。ただ、色々気に食わない事が沢山ある」とかという風に言われましたけども。でも、それが出来るのは僕が偶々恵まれてるというか、仕事が凄く時間が割とフレックスというか自由になるという所があって、時間が決まってないという所があるのが一つあるのと。妻も働いて、だから子供を保育園に預ける事が出来たというのも、今は小学校で学童に預けているというのがあって。そうやって預かってくれて、一日の大半はそっちで見てもらってるというのは凄くありがたい事で。やっぱり、それがあってこその半々なんだろうなというふうには思う所があって。やっぱりでも働いていると、どうしてもこう子供優先に出来ない事もあるので、そうするとこう本当に半々と言っても、結局どっちかがやんなきゃいけない。大抵そういう時は女性にみたいになってしまいがちだけど、それをせずに済んでるのは偶々かなというふうには思っています。

・茶々を入れるような話になってしまうかもしれないけれども、今世話人が「保育園」というキーワードを言ったので思い出したんですけれども。仙台市の鳥が「カッコウ」なんですね。あの「カッコー、カッコー」と鳴く。2000年ぐらいに仙台の鳥がその「カッコウ」のままでいいのかというの話が、議会で真面目に議論されていて。その時の論点が「カッコウ」というのは、自分で子供を育ててない托卵する。そのような子育てのあり方を象徴としていいんだろうかと。それを真面目に議論した時期があるというの議事録を読んで初めて知ったんですけども。なので、「さあ、どうやって子育てをするのがいいのか」と言うのは多分、市議会議員やってる方というのは、相対的に年齢が高い男性の方が多くて、やっぱりそういう男性目線の意見が強かったりしているのを見てると、まぁそういうような議論が未だに残ってるんだなあとふと思いました。



上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。

てつがくカフェ@ふくしま X(旧Twitter)

てつがくカフェ@ふくしま Facebook 


それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.6.22.「わたしの子育て」

2024年06月11日 19時14分17秒 | 開催予定
「親の愛情は子供の心に永遠の足跡を残す」ーパブロ・ピカソー

てつがくカフェ@ふくしま2024.6.22.
【テーマ】「わたしの子育て」
【日 時】2024年6月22日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/86312079445?pwd=bWst9pg206SKO5Ydw5fOEgRcjGkQgh.1
        ミーティングID: 863 1207 9445
        パスコード: 4Fk8QX

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマもリクエストにあった「子育て」となります。

「理想の子育て」について語るも良し、

これまでどう育てられてきたかといった「生育歴」について語るも良し、

考える時間もたっぷりありますので

思いついたままを話したい時に話してもらって構いません。



もちろん、現在子育て真っ最中という方のご参加もお待ちしております。

日ごろ子育てに忙しく、自分の時間を設けることが難しい方も

イベントを通して子育てに役立つヒントを見つけたり、

「子育てをしている」「子どもを持つ親」という共通項を持つ方々へ向けて

交流する場を提供することによって

心の充足を得られるかもといった想いで開催しておりますので、

ご参加の程、是非ご検討ください。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.5.18.「宇宙開発」

2024年05月19日 12時41分22秒 | 定例てつがくカフェ記録
5月18日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には17名、オンラインでは7名の計24名の方にご参加いただきました。






・今日は「宇宙開発」というテーマです。1月にテーマ決めずに、皆さんからテーマ出していただいて、そのテーマの中から決めて話すなんてことやってるんですけども、その1月に出たテーマを参考に一年間の計画を立てていまして。何年も前からずっと「宇宙開発」「宇宙」について話し合いたいと仰っていて。本当申し訳ないですけど、私が何の興味も無くてですね、ずっと先送りしていたんですけども。その都度毎回毎回言われるのでもう早くやっちゃおうということで今日この「宇宙開発」というテーマにさせて頂きましたが。今日はテーマを出した方と僕しかいないんじゃないかと思って心配していたんですけども。結構ここ最近で一番人数いるんじゃないかなと思って、実は待望されていたテーマだったのかなと。皆とこのことを考えたかったんだなと思ってですね、本当に反省しております。本当申し訳ありません。今日は「宇宙開発」というテーマで考えていきたいというふうに思っておりますので、後はもう皆様に任せますので、発言のある方は挙手をお願いいたします。では始めていきましょう。

・「宇宙開発」という言葉を聞くと「開発」というのが、明るい未来があるような気がするんですね。で、それはきっとそういうものも沢山含まれてるいるだろうと思うんですが、アポロ11というのが月に到着して2人の人を宇宙飛行士を降ろして戻ってきて。で、その後に「月の石」を持って帰って、それが万博で非常に賞賛を受けたみたいなとこありますよね。近い所だと「はやぶさ」という日本の衛生ロケットがどっかの石の欠片を持って帰った。ほんで、最初のアポロが降りた頃は僕も「すげえな」と思ったんです。まあ、その程度という感じだけど、ここ最近「開発」というものの、疑問と言うか。ある意味では、どっかの石を盗んできて、その石には何が入ってるのか、それが役に立つものがあるんじゃないかとか、それをいかに持って帰るかみたいな研究をしているとこもあると思うんですけど。それが僕が割と最近気になる事でして。短く言ったら、「地球をここまで潰しといて、宇宙までそれを持って行くのか?」という気がするんですよね。ところが「宇宙」というと、皆「はやぶさ」みたいにもう新聞には大きな記事が出る。僕の知ってるほとんどの人は褒めてたけど。だから、そういう具合に騙してるのかどうか分かんないけど、そういう見方も出てくるんじゃないかと。「宇宙は広いから何してもよろしい」なんて言う人も居るみたいね。で、それは別にそれでいいんじゃないかと思うんですが、ただ僕は地球をここまでのものにして宇宙まで潰すのかというのに気掛かりなんです。

・言葉の確認なんですけれども、今の話を聞いてる限りだと、「宇宙開発」を「宇宙という場所を開発する」というような意味で使っていて、「宇宙に行くための技術を開発する」という話ではないっていう理解で良いですかね。

・勿論宇宙まで行く、乗り物をこしらえるということで含んでいると思ってます。

・あの「宇宙開発」というのが、「どこまで現実的なの話なんだろうか?」というのを考えた時に、要するに「宇宙を開発していく」というような話だと、まだ具体的にはほぼ何もできないのかなというふうに考えていて。かつだからその宇宙が誰のものであるのか自体もよく分からない。それこそ「宇宙人は本当にいるのか」論争みたいなもので。結局、誰から搾取することになるのか、よく分かんないなと思っていて、それに対して「宇宙に行くための技術の開発」という意味であるのならば、すごく世の中住進んでいるのかなと。で、多分それだけの話をしても、なんかすごく時間かかりそうだし、勿論、その前者の話だけしてもすごい時間かかりそうで、どこに焦点がおきたいのかなと。勿論皆の意向で決まってくると思うんですけれども、どういう所に力点を置いて考えればいいんだろうと、ちょっとあやふやだったので質問してみました。

・「宇宙」という言葉ですが、マスコミなんかでは「宇宙開発」という言葉使われるし、宇宙船に滞在している人を宇宙飛行士と言っている訳です。で、その「宇宙」という言葉の問題はともかくとして、私は最近の新聞報道なんかによると、ついこの間中国が月に探査衛星を発射したと。狙いはなんか月の「極北」と言うのかな、月は一面しか見られないんだそうですけど、その裏側。非常に寒冷な所に水があるのではないかと言うようなことを言われてるし、それの確認とかというようなことを言ってるわけですよね。でまあ、月についても今探査衛星なんかやってるのは、アメリカとロシアと中国ぐらいだろうと思うんですが。ただ、気になるのは例えば、どこかに着陸させて、そこをその国の領土にしようというような魂胆もあるのではないかというふうに思います。要するに地球でのアメリカ、中国、ロシアの覇権争いが月にまで持ち込まれつつあるのかなという、そういう心配を私がちょっとしてるし。それと人類は未知のこと絶対に追求して行くという事はもう抜けられないと言うふうに思うんです。「宇宙開発」という言葉を使って言えば、「月への衛星探査の発射」なんて言うのも、要するに宇宙へもっと先に広がっていく手始めみたいな。次の段階は火星ですよね。火星に行ってどういう居住ができるかという真剣に、技術者、政治もそうですけど考えている訳で。月の場合は何十日間で到達するらしいですけど、火星だと五年ぐらいかかかると。そうするとどういう風にしてそこまで到達するか。まあ、衛星だけだと火星にも行っている訳で。ただ、人間を載せた宇宙船を到達させるためにはまだまだ時間がかかるのかなと言う風に思います。それと、もう一つ気になってるのは、今の月への探査衛星の発射なんか、私は地球の14 5世紀の頃、大航海時代があって新大陸を発見した。あの時はスペインやポルトガルが新大陸で領土争いをした訳ですけど。それが今レベルが違うけど、味わっているのかなというような気がしております。

・今の意見で「覇権争い」というのは本当にそう思います。「宇宙開発」と言う以上「開発」と言うと難解なんだけども、結局人間が「住める」か「住めないか」を見てるような気がするね。「開発」なんて言ってて、最終的に人間がそこに行くというのが目的のような、ゆくゆくはそれが目的で覇権争いで早い者勝ち、そんな感じ。それが本音のような気がします。

・「宇宙開発」はなんて言うのかな、イーロンマスクみたいな金儲けが好きな企業家みたいな人がなんかどうも宇宙が好きなんですよね。僕の友達の起業家みたいな人も宇宙だとか言ってて、なんでそうなんだろうというのは不思議なんですけど、まぁそれは置いといてですね。さっきも仰っていてたように、地球上の問題をそのまんま宇宙に持っていく。例えば覇権争いみたいなことであるとか。まぁ「宇宙に核兵器を置きます」とかね、あるいは「月の土地は俺のもんだ」みたいな。そういう風に地球上の問題を宇宙に拡大していくという方向はですね、本当にダメで全く意味がないと思うんですけれども。そうじゃないやり方もきっとあるんじゃないのかなというか、そうじゃない方向に希望が持てるんじゃないのかなという気がします。政治的・経済的に例えば、エネルギーだって太陽光のエネルギーが地球にいっぱいありますけども、なんかどっかで読んだんですけども、上手い事そういうのを利用すればかなり地球のエネルギー問題が解決するんじゃないかと。素人で分からないですけども、そんな話もありますし。なんで、まぁ否定することなんじゃないかと思います。で、それよりも僕は思ったのは、さっきの世話人が「宇宙開発に全然興味ない」と仰っていて、文系の人で特に人文系の人間は、「宇宙開発」と言っても全然ピンとこない人が意外と多いのだろうなと思うんですけど。僕が思ったのは、例えば今人間は地球に住んでるから重力がある訳ですね。それの中で生活せざるを得ないし、空気があるから音が聞こえるわけですよね。それで、そういう意味で僕らの「人」の認識っていうのが、地球上の環境に支えられてる訳ですよね。それで、この中でしか我々の今の認識の形というのはありえない訳ですよね。なんで、例えばそういう意味で宇宙に出るという事は、我々の認識がどういうふうに認識するのかという事が、多分色々変わってこざるを得ない。まぁ、環境が地球上に近い様にされた宇宙ステーションの中とかでさえもですね、そこは明るくて空気があるけれども、重力がほぼないとかですね。あるいは放射線ががんがん来てるとかですね。色んな事がありますので、我々のモノの見方が変わるし、そうすると生き方も変わらざるを得ないということが絶対あると思います。なので、ちょっとそういう意味で「哲学」という事を考えた時に、何かそこで変えなくちゃいけないとか、何とかじゃなくて、もし宇宙に人が出てくるようになるとすると、変わらざるを得ない所が出てくるんではないのかなという気がしました。

・話聞いたら私も本当に同じの感じで。「宇宙開発」というテーマを挙げたのは、ちょっとびっくりしてて、「宇宙は開発できるんですか?」と。宇宙開発は人間には出来ないのではないかと思います。地球でも出来ていないのに、なんで「宇宙開発」が出来ると思っているのかと逆に聞いたんですね。「宇宙」とは結局じゃあ何なのかと皆よく知ってますかと、「宇宙って何?」と。例えば重力のない空気もないというそういう所で人間はどうやって暮らして行くんですかと。同時に開発となると、それが私には理解できません。もし、そのような開発力があったなら地球に回した方がいいと思います。結局「宇宙開発」というのは私は出来ないと思います。

・僕もですね「興味がない」と言いながら、とは言え、今僕がここでGPSを使えばここにいるという事が分かるというのは、人工衛星があって、宇宙が既に開発されているからな訳ですよね。だから、まぁ「開発」と言うのは全ての意味を含んでいると思っていて、やっぱり「行く」技術がなければ「開発」は出来ないから、「行く」技術と「開発する」というのはセットだと思っていて。だから、先ほど「新大陸の発見」の話がありましたけれども、海を越えてどこでも行けるという技術が出来たからこそ、新しい領土を取るという植民地化するみたいな話も出てきた訳で、それが今度宇宙に行くという事はもう可能になった所で、そこから「じゃあ、どうするんだろう」「どうしよう」という話は当然問題として出てくるんだろうなとは思っている所です。

・基本的に人間は幸せになる為に生まれてきて生きてるんだと思うんですね。だけれども、宇宙を開発する事とか、宇宙に移住するとか、そういうこと人間にとって幸せなことなのかなというふうに思うんですね。もう既に宇宙には宇宙のゴミとかがすごい本当に小さなゴミが一杯地球の周りを回ってるって聞いた事があるんですけれども。それがいつ何時、どういう事が起こるか分からない状況というのも聞いたことあるんですね。私は「宇宙開発」とそれから科学とか医学もそうですけど、学者のエゴがあると思うんですよ。さっきどなたか仰っていたように、知らない事を知りたい。出来かった事を出来るようにしたい。だから。宇宙に行きたいとかというのをやれそうだからやりたいと、歯止めがきかないというのは私は怖いと思うんですね。今、地球の温暖化とか色んな問題がある。それを誰も止められないし、なんのいい対策も出してないじゃないかと。先ほどの方もお仰っていましたけど、人間にとっては地球が一番居心地がいい場所だし、そういう生き物はな訳ですよね。私達はそれなのに、地球を捨てて移住をしようとか、とんでもないことだと私は思うんです。それよりも、私たちのこの地球をもっと住み心地の良い安心できる場所にどうしたらできるのか。エネルギーもそうですけれども、原子力に頼らないでもっと自然のエネルギーを活用するとか、もっともっと考えるべき事が沢山あるのにもう地球を捨てて火星に移住とかとんでもないと私は思いました。

・そちらの方も仰っていましたけど、「宇宙開発」はとてつもなく、行くにしても乗り物を開発するにしても、もの凄い時間がかかるっていうふうに仰っていたんですけど、私もずっとそう思ってたんですね。もうとんでもない技術を開発しなきゃなんないし、もの凄い時間がかかるもんだというふうに思ってましたけど、最近のAIは爆速で発展してますよね。それがちょっと、こんなにあっという間に開発されてしまうものなのかというふうに思った時に、これは宇宙を開発するスピードというのがもうどんどんどんどん早くなってくんじゃないかなという。もう地球に住んでいる私達が宇宙に行って、そこのリソースを掘り尽くしてしまうような、そういう時代というのは、もう何年も後の事ではないのかなというふうに私は思ってたんですけど。それがどんどんどんどんそのAIの発達によって、なんかもうあれよあれよという間に開発されちゃったらどうしようというふうに思うように最近なってきて。彼女が仰るようにそういう守るべき地球も守らずに開発を急ぐというのに凄い多分女の人は特にそうなんだと思いますけど凄く危機感、むしろロマンよりも危機感を感じるこの頃です。

・今日は「宇宙開発」がテーマになってるんですけども、「宇宙」と「開発」というのちょっと分ける必要があるんじゃないかなと僕は思います。なぜかというとですね、「宇宙」と言っても非常に広い空間。「開発」というのは何らかの人為的な作為をするというのが「開発」であって、「宇宙」というのはもしかすると無限かもしれない。あるいは「宇宙」と地球というのはどういう関係で存在するのかという、そういう非常に難しい空間のような気がするんですね。実はちょうど1週間ぐらい前に、私の大切な友人が若くして亡くなってですね。で、その亡くなった事によって、「人間の生存とは一体なんだろうか?」というふうに考えた時に、宇宙における人間の存在みたいなのもちょっと感じたもんですから。今日参加させてもらいました。「宇宙」という無限あるいは存在という空間で捉えるのか、あるいは手が届く宇宙空間という月とかですね、そういうふうな手が届き得る開発エリアと捉えるかによってだいぶ違うんじゃないかなという気がします。私は今の「開発」という言葉の前に、例えば宇宙探索とかですね、探検とかが昔僕等の子供時代にあって。宇宙探検があってこそ今、人工衛星もある。あるいはGPSもあると言う事態に至ってるんで、どういう空間なのかという事を考えることが必要なんじゃないかなと思います。

・「宇宙の問題」と私もこうやって提起されるまで、本当に勉強不足でして。ただ、提起されてみて、やっぱりちょっとかじると、これはもの凄い問題なんですよね。私達人類が生きれるかどうかというような軍事的な問題も絡んできてるいう事が言えるので、もの凄く大切なテーマだなというふうに思いました。それで宇宙法というのが、国際法としてありまして。それは誰の物でもないというね。月なんかも誰の物でもないという事が決まってるんですね。ところがですね、アメリカとかが法律の一部を変えて月で採れた物というのは、その企業がそれを取ったとすればそれは売買も出来る。それで商売が出来るという法律を勝手に作ってるんですね。それで日本も、「宇宙資源法」というものを作って同じような事をやってるわけなんですね。そうすると、「宇宙法」にこれは違反しているのではないかという事がやはり問われる訳なんですね。

・今の話聞かせてもらって、「宇宙開発」が凄いギャンブルみたいなものだなと思って。宇宙に出れば、宇宙という環境が人の環境として広がってくるから、それで人の認識というのも変わってくるというようなところの話が出てきたんですけど、果たして本当に宇宙に出て認識が変わるのか。認識が変わるとして、今まで出てきた問題の領土化とか、あとエネルギー問題や所有権の問題とか、環境の問題とかが、果たして解決に向かうようなものになるのかなと。そこで思うのが今凄い地球の方に目を向けた話が一杯出てきたんです。結局、私達の地球というのも、全然全く今だに解明できて無くて。地下の話もそうだし、海中の話であったりとか大気圏の話とか。更に言うと、凄い私達自身の体や細胞とか、細胞を形作る原子の話とかというのも未知な部分というのは多いにもかかわらず、そうした未知が私達の前に現われた時に、そんなに何か大きくどこ認識が変わったのかと。確かに歴史的に見ると人の考えで変わってるかもしれないけど、結局、領土問題、エネルギー問題とかって昔だと食糧問題になってきますけど、そういうのがずっと(問題として)停滞し続いているようにも見える。果たしてそれを覆すだけの環境というのが宇宙の広さにあるのかなというのは、私は懐疑的ではあります。なので、私が考える宇宙というのは、宇宙が私たちの認識や問題を解決できる程に至るような空間的な広さとか、後は未知というのを持っているのかなというのが、今話を聞いて思いました。


・大分前に戻るんだけども、さっき世話人が「人工衛星が宇宙開発だ」みたいなことを言っていたけれども、本当なんだろうかというのは疑問に思っていて。宇宙を利用してるけれども、要するに例えば船を使って船がその辺を浮いていて、何か我々が使ってる時にこれは「海洋開発」は言わないですよね。海を使ってる、で同じように考えると宇宙と分かってはいるけれども、宇宙自体は開発されていなくて。例えば、月から何か何か持ってきたと。それは開発の方に入るのか入りかけている可能性はあるなと思うんだけれども、本当に開発と言えるようなものなのかと。単に海とかだったら利用としか言わないもの。それとの間のその辺の差とのは考えた方がいいのではないかなという気がしました。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.5.18.「宇宙開発」

2024年05月06日 19時00分59秒 | 開催予定
秒速8キロ―― 宇宙(ここ)ではネジすら凶器になる

ー幸村誠『プラネテス』(講談社)ー


てつがくカフェ@ふくしま2024.5.18.
【テーマ】「宇宙開発」
【日 時】2024年5月18日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/85860605211?pwd=HZA8XQaluZYDoRRrna76zszCDy2WXi.1
        ミーティングID: 858 6060 5211
        パスコード: 5t8V5M

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマはリクエストにあった「宇宙開発」となります。

宇宙開発(英語: space exploration)とは、

宇宙空間を人間の社会的な営みに役立てるため、

あるいは人間の探求心を満たすために、宇宙に各種機器を送り出したり、

さらには人間自身が宇宙に出て行くための活動全般の事を指す言葉だそうです。



日本では、9月12日が「宇宙の日」と定められているそうで、

1992年に毛利衛さんが日本人として初めて

スペースシャトルで宇宙に旅立った日を記念して制定されたとの事です。



宇宙空間を探索・利用・開拓する人類の活動を

描いた作品は映画や小説にも数多くあります。



冒頭で紹介した文言は

漫画家の幸村誠氏の『プラネテス』という作品に登場するとあるキャラクターのセリフです。

この作品は、2075年の近未来を舞台に、あまり顧みられることのない

宇宙開発によって生まれたスペースデブリ(宇宙ごみ)問題を取り上げており、

その回収業者(サラリーマン)が主役のSF漫画ですが、本作の特徴のひとつに、

作者の愛好する宮沢賢治の詩や物語が、時折引用される形で作品に登場します。



「宇宙人とコンタクトするとしても、そこでどう行動すべきか」「火星を開発するのは良いことか?」

といった「宇宙倫理学」という分野もあるそうですが、

そうした倫理的指針についての考えを宇宙にまで規模を広げて問う議論などを

参加者の皆さんと一緒に行っていければと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.4.20.「常識ってなに?」

2024年05月05日 13時31分50秒 | 定例てつがくカフェ記録
4月20日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には17名、オンラインでは5名の計23名の方にご参加いただきました。






・それでは本日のてつがくカフェに入って行きたいと思います。本日は「常識ってなに?」という事で、これは1月にテーマを決めずに話し合いした時に話し合いたいテーマという事で、皆さんから出していただいた中の一つが、「常識について問う」というか「常識について考えたい」という事で。「常識」は良い意味でも使うし、上司とかに「常識に縛られるな」というふうな使い方をされたり、「常識に縛られちゃいけない」みたいなそういうふうにも使います。色んな意味で使うんですけども、ブログの方では「交通ルールを守らない=常識の無い行動」をする人がいるなみたいな例を出していたかと思いますけれども、それらも含めて「常識って何なんだろうか?」あるいは「常識は身に付けるべきなのかどうか?」とか「常識って良いものなのか?それとも常識じゃダメなのか?」とか。そういったような事も含めてですね「常識」について今日は考えていただければと思っております。

・取り敢えず皮切りにありきたりな話ですけど、ウィトゲンシュタイン(1889年~1951年)の「論理的な判断能力」に基づいて行われる理論形成とか、言語とかコミュニケーションのやり取りにおける前提を判断して行く能力みたいなものが、まず具体的な表現として挙がるのかなと思って挙げさせていただきます。

・「論理的前提の判断能力」と言うことですね。

・まぁ「常識」と言っても、「誰にとっての常識か?」というのが一番大本にあると思うので個人の「常識」、その人一人の「常識」というのはその人に限定されると。「社会の常識」というのは、個人個人が集まった社会のそれぞれの人が全て納得するようなものが「常識」であるというように思うんですが。結局、「社会規範」というものが「常識」ではないかなと。社会規範が文(文字)として現れたのが法律では無いのかなという感じで思いますがいかがでしょうか?

・今の発言についての質問ですが、「個人一人ひとりの方は常識ではない」というふうな捉え方でよろしいでしょうか?

・私の考えとしては個人の考えというのは「常識」ではなくて、あくまでも個人個人の考え方、それは「常識」と呼ぶものではないのかと。その人の「常識」と言えるかもしれませんけれども、社会的な「常識」とはかけ離れていると私は思います。

・「常識」という言葉なんですが、これいつ頃からできたのかなと思ったんです。勝手に考えたんですけど、多分明治維新頃、色んな言葉(外国語)を漢字化(日本語化)したんですが、これもその一つかなという感じがします。つまり、「コモンセンス(common sense)」という事から来てるのかなと。「コモン」ということは「共通」という意味で、「センス」は感覚。共通感覚あるいは共通認識と訳された。どこで「共通」かと言うと、コミュニティという共通な一体化された団体というか。ある地域なりコミュニティに行って、共通に認識されるあるいは感覚されるものということが「常識」というものの理解で良いのかなと私は考えたんです。

・いくつかあるんですけど、一番最初の方の仰ってた「論理的前提の判断能力」でしたっけ?えっと、ちょっとこれが良く分からないんですけど。僕が理解するに「論理的前提」というのは、例えば三段論法みたいなものがあったとしたら、それは正しいですよとか。あるいは色々ありますけど、「理学的な功利」みたいなものとか。要は「論理語」で「且つ」や「または」とか、そういうものを使った時にこうなりますよという論理計算をした時の筋道みたいなものだと理解しているんですけれども、そういう意味でしょうかというのが一つ。それから二番目の方と仰っていた「個人の常識は常識では無い」というのは、その通りであって、個人の思ってることを「常識」というのは、それは「常識」と呼べないものだと端的に思います。それは三番目の方も仰っていたんですけれども、「個人の常識」というのは言葉の誤りで「常識」というのは常に「共有されている」という事が前提の話だと理解しています。もう一つ、三番目の方の仰っていた「コモンセンス」の「センス」というのがどういう意味でという所で、一つはやっぱり「感覚」というのがありまして。「コモンセンス」に関して言うと、要するに我々が一般的に言う「常識」、例えば社会的な規範のような意味での「常識」だったりという事ではなくて、ものの感じ方、空を見たら大体皆青く見えますよとか、そういう感覚が人々に共通しているというような意味での「コモンセンス」だと思うんですね。そうすると、それは我々が今、日本語で「常識」と言って問おうとしているものとはちょっと違うのかなという気がします。以上です。まず、「論理的な云々」というところ、もうちょっと詳しく知りたいなと思うのですが、いかがでしょうか?

・僕の件で恐縮ですが、お答えいたします。というのは、今仰ったように論理手段としての論理、三段論法であるとか「且つ」「ならば」とか集合的な関係を整理するにあたって、「ある目的に対しての手段が使えるか?」「ある目的を使ってその論理を使った時、どういう結果が導き出せるか?」というような所を判断していく能力なんじゃないかなと。その目的と結果の因果関係を整理することによって、前の方が仰った「コミュニティの共通認識」というものが出来上がってくる。その「コミュニティの共通認識」を作るにあたって、論理という手段を使っていく。その目的をどう選んでいくかという能力が「常識」になるんじゃないかという考え方です。

・すごく難しくなってて、皆さんぽかんとしてるんじゃないかな?

・ちょっとよく分からないですが、取り敢えずまた機会があれば伺います。

・僕は、「常識」とか「当たり前」という言葉をあまり好きじゃないんですよ。というのは、教師とか上司といった上の立場の人が「お前、これ常識だろ?」とか「それが当たり前なんだよ」みたいな感じで結構𠮟られてきたというか、怒鳴られたという経験があるんです。なので、あんまり好きな言葉じゃ無い訳ですが。自分は言われた際に「これ、当たり前なんですか?」とか「それが常識なんですか?」というふうに聞くと「いや、そうに決まってんだろ!」みたいな感じで答えられて、結局何の説明も無く、具体的な説明も無いままで。「常識だ!」と言ってくる側の語彙力が無いのか、上手く説明できないのか理由は分かりませんが、とにかく「常識」だと言ってくる側から納得いくような説明を受けた経験が無くて。「つまり、こういうことですか?」とか聞くと、「それは、自分で考えろ」というふうに突き放されるという経験が結構ありまして。「常識だろ!」というふうに言ってしまえば、そこで説明終了の免罪符というか、水戸黄門の印籠という感じで、「常識だろ!」と言われた側は黙っちゃう。でも、それって言われた側の自分には共有されていない認識ですから、その部下(先生)と上司(生徒)の間で共有されていないんだから、最早それは「常識」という事にはならないんじゃないかな?ということを先ほどまでの話を聞いていて考えました。改めて「常識って何だろうな?」「どういう事なんだろう」というのが僕の意見です。

・私は「常識」は場所とかコミュニティによって変わるものだと思いました。

・「常識」はですね「破るもの」もしくは「破られるもの」。最初にその常識に触れるのは、決まってる物を受け入れる所から「常識」が「常識」として成り立つんですよね。元々自分がそこに参加した時には、もう常識が決まってて自分が参加して何かを「常識」を決める訳ではなくて、自分が順応するしかない。だから、その先ほど言われたように疑問を持つ訳ですよ。かつて疑問を持って常識を打ち壊して生きてきましたけれども、流石に今の社会に自分が常識に捉われているようになって、誠に残念だなというふうに思っています。

・「常識」が個人の中にあるかどうかという問題なんだけれども、僕は基本的に「常識」というのは個人の中でしかないと思っていて。個人がある社会に参加した時に、その社会を皆がこのように考えているであろうと考えているものという形でしか存在し得なくて、その皆が「これが常識だ」というふうに、皆で共通に決めたものは多分有り得なくて、そもそも無いのではないかとしか思えないところがあり。だから「これ、常識でしょ」というような「常識論争」が起きてしまうのは、誰一人としてその「常識を作る」というところに、積極的に参加して「これが常識だ」ということを作り上げる場に参加したことが無く、ただ皆で「多分こんな感じだよね」「相手もきっとそう思ってるよね」みたいな中で何となく出来上がってしまったものに過ぎないから。恐らくそのような問題があるんだろうと思って。一方で、その「常識」とするものはやはり必要なんだろうなと思うのは、例えば学術的な場で何か議論する時に、皆で共通に「この言葉は常識と認めた上じゃないと話できないよね」ということを無視して、誰かが話し始めたら完全におかしなことが起きてしまうというのは実際起こる話で。その時に、このコミュニティで何かやるのであれば「まぁ最低限これぐらいは共通認識として持ってるとか良さそうだ」というのも、これも別に皆で作った訳ではないような気がするけれども、少なくとも例えば自分が学会に行く時に「これが常識です」なんて決める会議なんて見たことないし。そのようなものであるけれども、でもなんとなく皆がそういうのがあるということを前提にして議論するから、だから議論がまとまる。まぁ、その程度のものなのかなと思ってます。

・「集団」という問題が出てきますと、これまた別なテーマになってしまうので、今のご意見も検証したいんですけれども、私個人としましては、簡単に言えば「常識」というのは皆が知っている事でいいんじゃないかなと。皆さん、この間ちびまる子の声優の「TARAKO(タラコ)」さんが亡くなったのを皆さんご存知ですか?「タラコ」とか「イクラ」とか言ったら、食べる物と通常は思いましたよね、まぁ「常識」として。私、音楽ユニットの「YOASOBI (ヨアソビ)」が好きなんですけれども、そのボーカルが「ikura(イクラ)」だと知ってましたか?音楽好きな方にとっては「常識」ですよね?私ついこの間まで知らなかったんです。あの「YOASOBI(ヨアソビ)」は好きなんですけども、ボーカルが「ikura(イクラ)」だっていうことを知らなかったんです。結局、それは「常識を知らなかった」ということにもなるのかな?だから、「常識」というのは、それぞれの分野とか文化で変わる可能性があるので、皆が知っているか知らないかということもあると言うことを思い出しました。

・私は「常識」については三つに分けて考えてるんですね。まず一つ、例えばこの社会で生活して行くの上で「環境」についての「常識」。二つ目は、この社会で働いていく上での「社会としてのルール」。色んな会社に行くとそこには色んなルールがあって、そのルールに対しての「常識」ではないかなと思っています。三つ目は、人と人の「コミュニケーションを取る」上での「常識」になるかなと思います。「常識」について皆が知っている、ただ知っているということだけでなくて、やはりそこには評価や価値観というものが含まれているのではないかなというふうに思います。だから、「常識」は元々変わりうるもので、時代や社会や人の中で。それらのことを要素として成り立っているから、それらは当然変わる訳で。当然そこで出来上がった「常識」というものが変わっていくであろうということになるんだというのが私の考えです。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.4.20.「常識ってなに?」

2024年04月19日 14時01分30秒 | 開催予定
常識というものは世間一般に信じられているほどの根拠をもたない。
ーアルベルト・アインシュタインー


てつがくカフェ@ふくしま2024.4.20.
【テーマ】「常識ってなに?」
【日 時】2024年4月20日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
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        ミーティングID: 878 6013 6066
        パスコード: 6K6g42

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回の「常識ってなに?」は、

1月に行われた「てつがくカフェ」で

参加者から募集したテーマの中から選んだものとなります。



まず、「常識」という言葉を調べると下記の文章が掲載されておりました。

常識…一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。
「常識がない人」「常識で考えればわかる」「常識に欠けた振る舞い」「常識外れ」
[補説]common senseの訳語として明治時代から普及。
[類語]通念・良識・思慮・分別ふんべつ・知識・教養・心得こころえ・コモンセンス

【引用:デジタル大辞泉】
URL:https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E8%AD%98-79273



今回のテーマである「常識」と聞いて、

個人的に思い浮かんだ事柄は「歩行者の信号無視」についてです。



先日、車の走行中

青信号だったので交差点を直進しようとした際に

信号待ちをしていた一人の年配女性の様子が挙動不審だったので、

徐行して交差点に進入しました。

すると、その年配女性は突然、信号を無視して道路を渡ろうと歩き始めました。

私は慌ててブレーキを踏み車は完全に停止しました。

幸い対向車も停車したため、年配女性は道路を渡りきりましたが、

この時、私はその年配女性に対して「非常識な人だな」と感じました。



調べてみると、道路交通法第7条では

「道路を通行する歩行者または車両等は、

信号機の表示する信号または警察官等の手信号等に従わなければならない」

と規定されています。

罰則も定められているため、信号無視をすれば歩行者であっても、

最大2万円の罰金もしくは科料に処される可能性があるそうです。



上記のような事例もあり、私は

「交通ルールを守る」=「常識」

「信号無視をする」=「非常識」と捉えてしまいましたが、

皆様は「常識」あるいは「非常識」についてどのようにお考えでしょうか?



4月は進学、就職、職場の人事異動や転職といった環境や立場が変わる時期でもあります。

そうした環境や立場が変わればこれまで自身が常識と思っていた事が通じなかったり、

戸惑いを覚えたりといった事が起こるのではないでしょうか?



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。