てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

「てつがくカフェ@ふくしま」へようこそ!

2024年06月12日 10時22分34秒 | 「てつがくカフェ@ふくしま」について
「哲学カフェ」とは、身近にあるさまざまな問題について、
誰でも気軽に対等に、安心して何でも話せる場です。

「てつがくカフェ@ふくしま」は2011年5月より、
月に1回、福島市内で、毎回2時間ほど、
参加者どうしで対話を行っています。  → 詳しくはこちら

「対話のルール」にしたがって話し合いますので、
初めての方でも安心して気軽に参加できます! → 詳しくはこちら

  次回のてつがくカフェ  →詳しくはこちら


その後の開催予定もある程度決まっております。 → こちら



これまではこんなテーマについて話しあってきました。
→ 2011年度  → 2012年度  → 2013年度  → 2014年度  → 2015年度
→ 2016年度  → 2017年度  → 2018年度  → 2019年度  → 2020年度
→ 2021年度  → 2022年度  → 2023年度

実際の話し合いの様子を文字起こしした対話録もあります。
2018.6.16「日本のスポーツはこれでいいのか?どうしたらいいのだ?」

2022.3.12「復興とは何か?-『コロナ禍』と『復興五輪』を考える-」

お問い合わせは fukushimacafe@mail.goo.ne.jp ←現在ログイン/やり取りができないため
世話人(石井)のメールアドレス fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp まで。

皆さまと対話できることを心より楽しみにしております。
初めての方もお気軽にご参加ください!

てつがくカフェ2024 今後の日程

2024年06月12日 09時22分46秒 | 開催予定
今後のてつカフェのスケジュールをお知らせしておきます。

テーマや日付に関してはあくまでも現段階での予定ですので、変更する場合があります。ご了承ください。


・06月22日(土)  「わたしの子育て」

・07月20日(土)  「モノの価値」

・08月24日(土)  「正しい決め方-多数決は平等か?-」

・09月21日(土)  「文化としてのスマホ」

・10月19日(土)  シネマdeてつがくカフェ『君たちはどう生きるか』

・11月23日(土)  「生きづらさ」



今後の予定は現時点では上記の通りとなります。

会場はいずれも福島市市民活動サポートセンター(チェンバおおまち3階)、

時間帯は15:00-17:00を予定しています。

また各回とも会場とオンラインの同時開催を予定していますが、

状況次第で、完全オンラインとなる可能性もあります。

そのつど状況を見ながら判断していきますので、

このブログその他でご確認ください。



てつがくカフェ@ふくしま2024.6.22.「わたしの子育て」

2024年06月11日 19時14分17秒 | 開催予定
「親の愛情は子供の心に永遠の足跡を残す」ーパブロ・ピカソー

てつがくカフェ@ふくしま2024.6.22.
【テーマ】「わたしの子育て」
【日 時】2024年6月22日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/86312079445?pwd=bWst9pg206SKO5Ydw5fOEgRcjGkQgh.1
        ミーティングID: 863 1207 9445
        パスコード: 4Fk8QX

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマもリクエストにあった「子育て」となります。

「理想の子育て」について語るも良し、

これまでどう育てられてきたかといった「生育歴」について語るも良し、

考える時間もたっぷりありますので

思いついたままを話したい時に話してもらって構いません。



もちろん、現在子育て真っ最中という方のご参加もお待ちしております。

日ごろ子育てに忙しく、自分の時間を設けることが難しい方も

イベントを通して子育てに役立つヒントを見つけたり、

「子育てをしている」「子どもを持つ親」という共通項を持つ方々へ向けて

交流する場を提供することによって

心の充足を得られるかもといった想いで開催しておりますので、

ご参加の程、是非ご検討ください。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま2024.7.20.「モノの価値」

2024年06月11日 18時15分02秒 | 開催予定
価値は、お金でできているわけではない。期待や憧れが、絶妙に調和してできている。
ーバーバラ・キングソルヴァー(作家、1955~)ー


てつがくカフェ@ふくしま2024.7.20.
【テーマ】「モノの価値」
【日 時】2024年7月20日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/83476906831?pwd=hLTaKM2wHR8zoaWo0ey3pZzeaNEshl.1
        ミーティングID: 834 7690 6831
        パスコード: 1vjZPv

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマもリクエストにあった「価値」となります。

TV番組の一つに「開運!なんでも鑑定団」という

30年続いている長寿番組があります。

番組を知らないという方に向けて解説しますと、

毎回様々な方が持参する「お宝」を、専門家達が鑑定し、

番組独自の見解に基づいて値段付けを行うという番組です。

意外な物が高価な鑑定結果を得たり、

高価だと思われていた物が偽物などで安価になってしまうという意外性や

鑑定物に対するうんちくが堪能できるのが大きな特徴です。



また、コレクターと呼ばれる収集家の代表的な収集物の中に

「切手」や「古貨幣」などがあります。

「切手」は特に興味がない人であれば、ただ郵便物を送るために必要な物に過ぎませんが、

下記の様に、「切手」の中には高額で取引される希少価値のある物もあります。

(参考HP:https://www.valuation-postagestamp.com/premium_ranking/)

・竜銭切手(一銭第3版)…発行日:1872年 平均的な相場:60万円

・旧高額切手10円…発行日:1908年~1914年 平均的な相場:17~20万円

・琉球切手(沖縄切手)改訂加刷100円…発行日:1952年 平均的な相場:10万円~


さらに、「古貨幣」についてもオークションサイトを見ると、非常に価値が高いことが分かります。



詳しくない方にとっては、

処分に困る絵や家具であっても、

古美術品やアンティークショップの経営者といった見識のある人にとっては、

喉から手が出るほど欲しい一品という事もあります。

逆に家宝として大事にしていた物も

実は二束三文にしかならないガラクタだったという場合もあり得ます。



現代は経済成長や技術革新によって、

モノがあふれる時代と言われています。

ネット通販や物流の整備によっていつでも手軽に、高品質のモノが入手できるようになりました。

そんな便利な時代に生きる一消費者として

改めて、「モノの価値」について

参加者の皆様と一緒に問い、考え、語り合いたいと思います



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま2024.8.24.「正しい決め方-多数決は平等か?-」

2024年06月11日 16時42分31秒 | 開催予定
「安易に多数決に頼るのは残酷な行為である」
         渋沢栄一(1840~1931)


てつがくカフェ@ふくしま2024.8.24.
【テーマ】「正しい決め方-多数決は平等か?-」
【日 時】2024年8月24日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        
        ミーティングID:
        パスコード:

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマもリクエストにあった「多数決」となります。

今更ながら説明するまでもない言葉かと思いますが「多数決」とは、

ある集団において意思決定を図る際に、多数派の意見を採用する方法です。



英語では「majority decision」や「majority rule」と表現されますが、

この賛成者の多さで物事を決めるやり方は

単純明快であり誰しも一度は経験したことがあると思います。



また、「多数決」=「民主主義」と思われている方もいらっしゃるかと思いますが、

厳密に言うと「民主主義」は「多数決」だけではありませんので、

表現的に正しいとは言えません。

まず「民主主義」という言葉は、

democracyの訳語で元々はエリートではないdemos(民衆)によるcracy(政治体制)なので、

「民衆による支配を正統とする政治体制」というのが元々の意味となります。

ですが、民衆全員が直接集まって議論するとなると

人数が多ければ多いほど合意形成を図ることは困難を極めます。

そこで市民の代理である代表者が市民に代わって



しかし、多数派の意見を採用してしまうと、

少数派からの不満が募り、




つまり、民主主義には「多数決の原則」と「少数意見の尊重」という2つの価値観を有していると考えられます。




「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま2024.5.18.「宇宙開発」

2024年05月06日 19時00分59秒 | 開催予定
秒速8キロ―― 宇宙(ここ)ではネジすら凶器になる

ー幸村誠『プラネテス』(講談社)ー


てつがくカフェ@ふくしま2024.5.18.
【テーマ】「宇宙開発」
【日 時】2024年5月18日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/85860605211?pwd=HZA8XQaluZYDoRRrna76zszCDy2WXi.1
        ミーティングID: 858 6060 5211
        パスコード: 5t8V5M

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回のテーマはリクエストにあった「宇宙開発」となります。

宇宙開発(英語: space exploration)とは、

宇宙空間を人間の社会的な営みに役立てるため、

あるいは人間の探求心を満たすために、宇宙に各種機器を送り出したり、

さらには人間自身が宇宙に出て行くための活動全般の事を指す言葉だそうです。



日本では、9月12日が「宇宙の日」と定められているそうで、

1992年に毛利衛さんが日本人として初めて

スペースシャトルで宇宙に旅立った日を記念して制定されたとの事です。



宇宙空間を探索・利用・開拓する人類の活動を

描いた作品は映画や小説にも数多くあります。



冒頭で紹介した文言は

漫画家の幸村誠氏の『プラネテス』という作品に登場するとあるキャラクターのセリフです。

この作品は、2075年の近未来を舞台に、あまり顧みられることのない

宇宙開発によって生まれたスペースデブリ(宇宙ごみ)問題を取り上げており、

その回収業者(サラリーマン)が主役のSF漫画ですが、本作の特徴のひとつに、

作者の愛好する宮沢賢治の詩や物語が、時折引用される形で作品に登場します。



「宇宙人とコンタクトするとしても、そこでどう行動すべきか」「火星を開発するのは良いことか?」

といった「宇宙倫理学」という分野もあるそうですが、

そうした倫理的指針についての考えを宇宙にまで規模を広げて問う議論などを

参加者の皆さんと一緒に行っていければと思います。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告2024.4.20.「常識ってなに?」

2024年05月05日 13時31分50秒 | 定例てつがくカフェ記録
4月20日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には17名、オンラインでは5名の計23名の方にご参加いただきました。






・それでは本日のてつがくカフェに入って行きたいと思います。本日は「常識ってなに?」という事で、これは1月にテーマを決めずに話し合いした時に話し合いたいテーマという事で、皆さんから出していただいた中の一つが、「常識について問う」というか「常識について考えたい」という事で。「常識」は良い意味でも使うし、上司とかに「常識に縛られるな」というふうな使い方をされたり、「常識に縛られちゃいけない」みたいなそういうふうにも使います。色んな意味で使うんですけども、ブログの方では「交通ルールを守らない=常識の無い行動」をする人がいるなみたいな例を出していたかと思いますけれども、それらも含めて「常識って何なんだろうか?」あるいは「常識は身に付けるべきなのかどうか?」とか「常識って良いものなのか?それとも常識じゃダメなのか?」とか。そういったような事も含めてですね「常識」について今日は考えていただければと思っております。

・取り敢えず皮切りにありきたりな話ですけど、ウィトゲンシュタイン(1889年~1951年)の「論理的な判断能力」に基づいて行われる理論形成とか、言語とかコミュニケーションのやり取りにおける前提を判断して行く能力みたいなものが、まず具体的な表現として挙がるのかなと思って挙げさせていただきます。

・「論理的前提の判断能力」と言うことですね。

・まぁ「常識」と言っても、「誰にとっての常識か?」というのが一番大本にあると思うので個人の「常識」、その人一人の「常識」というのはその人に限定されると。「社会の常識」というのは、個人個人が集まった社会のそれぞれの人が全て納得するようなものが「常識」であるというように思うんですが。結局、「社会規範」というものが「常識」ではないかなと。社会規範が文(文字)として現れたのが法律では無いのかなという感じで思いますがいかがでしょうか?

・今の発言についての質問ですが、「個人一人ひとりの方は常識ではない」というふうな捉え方でよろしいでしょうか?

・私の考えとしては個人の考えというのは「常識」ではなくて、あくまでも個人個人の考え方、それは「常識」と呼ぶものではないのかと。その人の「常識」と言えるかもしれませんけれども、社会的な「常識」とはかけ離れていると私は思います。

・「常識」という言葉なんですが、これいつ頃からできたのかなと思ったんです。勝手に考えたんですけど、多分明治維新頃、色んな言葉(外国語)を漢字化(日本語化)したんですが、これもその一つかなという感じがします。つまり、「コモンセンス(common sense)」という事から来てるのかなと。「コモン」ということは「共通」という意味で、「センス」は感覚。共通感覚あるいは共通認識と訳された。どこで「共通」かと言うと、コミュニティという共通な一体化された団体というか。ある地域なりコミュニティに行って、共通に認識されるあるいは感覚されるものということが「常識」というものの理解で良いのかなと私は考えたんです。

・いくつかあるんですけど、一番最初の方の仰ってた「論理的前提の判断能力」でしたっけ?えっと、ちょっとこれが良く分からないんですけど。僕が理解するに「論理的前提」というのは、例えば三段論法みたいなものがあったとしたら、それは正しいですよとか。あるいは色々ありますけど、「理学的な功利」みたいなものとか。要は「論理語」で「且つ」や「または」とか、そういうものを使った時にこうなりますよという論理計算をした時の筋道みたいなものだと理解しているんですけれども、そういう意味でしょうかというのが一つ。それから二番目の方と仰っていた「個人の常識は常識では無い」というのは、その通りであって、個人の思ってることを「常識」というのは、それは「常識」と呼べないものだと端的に思います。それは三番目の方も仰っていたんですけれども、「個人の常識」というのは言葉の誤りで「常識」というのは常に「共有されている」という事が前提の話だと理解しています。もう一つ、三番目の方の仰っていた「コモンセンス」の「センス」というのがどういう意味でという所で、一つはやっぱり「感覚」というのがありまして。「コモンセンス」に関して言うと、要するに我々が一般的に言う「常識」、例えば社会的な規範のような意味での「常識」だったりという事ではなくて、ものの感じ方、空を見たら大体皆青く見えますよとか、そういう感覚が人々に共通しているというような意味での「コモンセンス」だと思うんですね。そうすると、それは我々が今、日本語で「常識」と言って問おうとしているものとはちょっと違うのかなという気がします。以上です。まず、「論理的な云々」というところ、もうちょっと詳しく知りたいなと思うのですが、いかがでしょうか?

・僕の件で恐縮ですが、お答えいたします。というのは、今仰ったように論理手段としての論理、三段論法であるとか「且つ」「ならば」とか集合的な関係を整理するにあたって、「ある目的に対しての手段が使えるか?」「ある目的を使ってその論理を使った時、どういう結果が導き出せるか?」というような所を判断していく能力なんじゃないかなと。その目的と結果の因果関係を整理することによって、前の方が仰った「コミュニティの共通認識」というものが出来上がってくる。その「コミュニティの共通認識」を作るにあたって、論理という手段を使っていく。その目的をどう選んでいくかという能力が「常識」になるんじゃないかという考え方です。

・すごく難しくなってて、皆さんぽかんとしてるんじゃないかな?

・ちょっとよく分からないですが、取り敢えずまた機会があれば伺います。

・僕は、「常識」とか「当たり前」という言葉をあまり好きじゃないんですよ。というのは、教師とか上司といった上の立場の人が「お前、これ常識だろ?」とか「それが当たり前なんだよ」みたいな感じで結構𠮟られてきたというか、怒鳴られたという経験があるんです。なので、あんまり好きな言葉じゃ無い訳ですが。自分は言われた際に「これ、当たり前なんですか?」とか「それが常識なんですか?」というふうに聞くと「いや、そうに決まってんだろ!」みたいな感じで答えられて、結局何の説明も無く、具体的な説明も無いままで。「常識だ!」と言ってくる側の語彙力が無いのか、上手く説明できないのか理由は分かりませんが、とにかく「常識」だと言ってくる側から納得いくような説明を受けた経験が無くて。「つまり、こういうことですか?」とか聞くと、「それは、自分で考えろ」というふうに突き放されるという経験が結構ありまして。「常識だろ!」というふうに言ってしまえば、そこで説明終了の免罪符というか、水戸黄門の印籠という感じで、「常識だろ!」と言われた側は黙っちゃう。でも、それって言われた側の自分には共有されていない認識ですから、その部下(先生)と上司(生徒)の間で共有されていないんだから、最早それは「常識」という事にはならないんじゃないかな?ということを先ほどまでの話を聞いていて考えました。改めて「常識って何だろうな?」「どういう事なんだろう」というのが僕の意見です。

・私は「常識」は場所とかコミュニティによって変わるものだと思いました。

・「常識」はですね「破るもの」もしくは「破られるもの」。最初にその常識に触れるのは、決まってる物を受け入れる所から「常識」が「常識」として成り立つんですよね。元々自分がそこに参加した時には、もう常識が決まってて自分が参加して何かを「常識」を決める訳ではなくて、自分が順応するしかない。だから、その先ほど言われたように疑問を持つ訳ですよ。かつて疑問を持って常識を打ち壊して生きてきましたけれども、流石に今の社会に自分が常識に捉われているようになって、誠に残念だなというふうに思っています。

・「常識」が個人の中にあるかどうかという問題なんだけれども、僕は基本的に「常識」というのは個人の中でしかないと思っていて。個人がある社会に参加した時に、その社会を皆がこのように考えているであろうと考えているものという形でしか存在し得なくて、その皆が「これが常識だ」というふうに、皆で共通に決めたものは多分有り得なくて、そもそも無いのではないかとしか思えないところがあり。だから「これ、常識でしょ」というような「常識論争」が起きてしまうのは、誰一人としてその「常識を作る」というところに、積極的に参加して「これが常識だ」ということを作り上げる場に参加したことが無く、ただ皆で「多分こんな感じだよね」「相手もきっとそう思ってるよね」みたいな中で何となく出来上がってしまったものに過ぎないから。恐らくそのような問題があるんだろうと思って。一方で、その「常識」とするものはやはり必要なんだろうなと思うのは、例えば学術的な場で何か議論する時に、皆で共通に「この言葉は常識と認めた上じゃないと話できないよね」ということを無視して、誰かが話し始めたら完全におかしなことが起きてしまうというのは実際起こる話で。その時に、このコミュニティで何かやるのであれば「まぁ最低限これぐらいは共通認識として持ってるとか良さそうだ」というのも、これも別に皆で作った訳ではないような気がするけれども、少なくとも例えば自分が学会に行く時に「これが常識です」なんて決める会議なんて見たことないし。そのようなものであるけれども、でもなんとなく皆がそういうのがあるということを前提にして議論するから、だから議論がまとまる。まぁ、その程度のものなのかなと思ってます。

・「集団」という問題が出てきますと、これまた別なテーマになってしまうので、今のご意見も検証したいんですけれども、私個人としましては、簡単に言えば「常識」というのは皆が知っている事でいいんじゃないかなと。皆さん、この間ちびまる子の声優の「TARAKO(タラコ)」さんが亡くなったのを皆さんご存知ですか?「タラコ」とか「イクラ」とか言ったら、食べる物と通常は思いましたよね、まぁ「常識」として。私、音楽ユニットの「YOASOBI (ヨアソビ)」が好きなんですけれども、そのボーカルが「ikura(イクラ)」だと知ってましたか?音楽好きな方にとっては「常識」ですよね?私ついこの間まで知らなかったんです。あの「YOASOBI(ヨアソビ)」は好きなんですけども、ボーカルが「ikura(イクラ)」だっていうことを知らなかったんです。結局、それは「常識を知らなかった」ということにもなるのかな?だから、「常識」というのは、それぞれの分野とか文化で変わる可能性があるので、皆が知っているか知らないかということもあると言うことを思い出しました。

・私は「常識」については三つに分けて考えてるんですね。まず一つ、例えばこの社会で生活して行くの上で「環境」についての「常識」。二つ目は、この社会で働いていく上での「社会としてのルール」。色んな会社に行くとそこには色んなルールがあって、そのルールに対しての「常識」ではないかなと思っています。三つ目は、人と人の「コミュニケーションを取る」上での「常識」になるかなと思います。「常識」について皆が知っている、ただ知っているということだけでなくて、やはりそこには評価や価値観というものが含まれているのではないかなというふうに思います。だから、「常識」は元々変わりうるもので、時代や社会や人の中で。それらのことを要素として成り立っているから、それらは当然変わる訳で。当然そこで出来上がった「常識」というものが変わっていくであろうということになるんだというのが私の考えです。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓






てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。

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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2024.4.20.「常識ってなに?」

2024年04月19日 14時01分30秒 | 開催予定
常識というものは世間一般に信じられているほどの根拠をもたない。
ーアルベルト・アインシュタインー


てつがくカフェ@ふくしま2024.4.20.
【テーマ】「常識ってなに?」
【日 時】2024年4月20日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター B会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/87860136066?pwd=VEmhQbjtfpmAZWDyqdunqsw4aAr3Qq.1
        ミーティングID: 878 6013 6066
        パスコード: 6K6g42

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp





今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



今回の「常識ってなに?」は、

1月に行われた「てつがくカフェ」で

参加者から募集したテーマの中から選んだものとなります。



まず、「常識」という言葉を調べると下記の文章が掲載されておりました。

常識…一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。
「常識がない人」「常識で考えればわかる」「常識に欠けた振る舞い」「常識外れ」
[補説]common senseの訳語として明治時代から普及。
[類語]通念・良識・思慮・分別ふんべつ・知識・教養・心得こころえ・コモンセンス

【引用:デジタル大辞泉】
URL:https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E8%AD%98-79273



今回のテーマである「常識」と聞いて、

個人的に思い浮かんだ事柄は「歩行者の信号無視」についてです。



先日、車の走行中

青信号だったので交差点を直進しようとした際に

信号待ちをしていた一人の年配女性の様子が挙動不審だったので、

徐行して交差点に進入しました。

すると、その年配女性は突然、信号を無視して道路を渡ろうと歩き始めました。

私は慌ててブレーキを踏み車は完全に停止しました。

幸い対向車も停車したため、年配女性は道路を渡りきりましたが、

この時、私はその年配女性に対して「非常識な人だな」と感じました。



調べてみると、道路交通法第7条では

「道路を通行する歩行者または車両等は、

信号機の表示する信号または警察官等の手信号等に従わなければならない」

と規定されています。

罰則も定められているため、信号無視をすれば歩行者であっても、

最大2万円の罰金もしくは科料に処される可能性があるそうです。



上記のような事例もあり、私は

「交通ルールを守る」=「常識」

「信号無視をする」=「非常識」と捉えてしまいましたが、

皆様は「常識」あるいは「非常識」についてどのようにお考えでしょうか?



4月は進学、就職、職場の人事異動や転職といった環境や立場が変わる時期でもあります。

そうした環境や立場が変わればこれまで自身が常識と思っていた事が通じなかったり、

戸惑いを覚えたりといった事が起こるのではないでしょうか?



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま報告3.11特別編2024「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」

2024年03月31日 12時53分39秒 | 〈3.11〉特別編記録
大変遅くなりましたが、3月9日(土)に開催された「てつがくカフェ」について

世話人から報告させていただきます。


会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には14名、オンラインでは4名の計18名の方にご参加いただきました。









・まず最初第一部ということで、永幡さんご提題いただきます。永幡さんは、ご存知の方はご存知だと思いますが、ほぼほぼ毎回のようにこの「てつがくカフェ@ふくしま」に参加してくださっている常連さんなんですけど、僕の同僚で福島大学の共生システム理工学部において、音響学の専門家でいらっしゃって。3.11の後ですね、ずっと福島市内のあちこちで録音を続けていらっしゃいまして。その音をずっと13年間分撮り溜めてきた記録をもとに今日は提題を発表いただきたいというふうに思っています。

・皆さん、こんにちは永幡です。座って喋るのに慣れていないので、授業とかといても立って喋ってるので立ったまま進めて行きたいなと思っています。今日のタイトルは「沈黙の春ー再考 サウンドスケープの視点から」となります。今映しているスライドの写真っていうのは、これから色々と出てくるところですので、今ここで説明するのは省いていきなり話に入ってきたいんですけれども、話を始めるにあたって多分サウンドスケープという言葉をあんまりご存知ない方の方が多いのかなと思います。ちなみにサウンドスケープという言葉にピンと来る方ってどれぐらいいらっしゃいますか?会場の中でも、極めて少数派なのでまずはその説明からにしたいと思います。「サウンドスケープ」というのは音響学の分野で定義されている言葉なんですけれども、「あるコンテクスト(背景、状況、場面、文脈)の中で個人または人々が近く経験・理解した音環境」という風に、とてもややこしい定義になってます。何故こんなややこしい定義するかというと、古くから音響学の中でその音の問題を考える時に、あんまり人がどう聞いて音を聞いているかどうかってことを意識することなく、機械で測るとか、そういうようなことで、なんか音の環境の事はちゃんと分かったような気になってる時代が長く続いたので、それじゃまずいでしょっていうところから、こういうふうに人が一体どうやって音の関係を聞いてるんだろうかってことにも注目しましょうということで立ち上がったからです。あんまりこの話を長くするとややこしくなってしまうので、ごく簡単なところだけ一言二言説明しておくと、人あるいは人々と音環境との関係性を読み解く分野なんだって思っていただけると、大きな間違いはないだろうと思っています。その音環境っていうのは、物理的な特徴の把握をすることを主としますし、人々っていう部分に関しては心理的あるいは社会的な反応なんかを記録しながら、それらの関係性を見て行きましょうというような研究を普段はしています。このサウンドスケープという概念は元を辿るとマリー・シェーファーという人、2021年に亡くなってしまいましたけれども、カナダの作曲家の方が作り上げた概念だと言えます。言葉自体は、それより前に使ってる人がいるっていう報告が最近色んな所でされてるんですけれども、多分それはそうなんだろうと思いますが、実際にその言葉を学術的な意味づけを初めて付けた人は誰から言うと、このマリー・シェーファーに遡るのが正しいだろうと思ってます。この方はカナダを代表する作曲家でなんですけれども、1965~75年ぐらいまでサイモンフレーザー大学というカナダのバンクーバーの隣町だったと思いますけれども、バンクーバーから電車に乗って行くことができますが、そこで教えて方です。この人の主要な著書というのが『チューニングオブザワールド』は日本があって、日本語では『世界の調律』と訳されておりますが、こんな本です。今、手に入りやすいのはこの一番右側に文庫版と言っても分厚い文庫なので、すごく値段は張るんですけれども、それだけの読む価値はある本だと僕は思っていますけれども、そういう本があります。この話にも少し後で出てきますけれども、もう一個の大事なキーワードは『沈黙の春』です。『沈黙の春ー再考』というタイトルで出てますから、『沈黙の春』なんですけれども、『沈黙の春』っていうのはレイチェル・カーソンという人が書いた本のタイトルです。新潮文庫から出版されていて、今日会場で持ってきてるのは、古いので表紙が違ってますが、中身はどちらも同じです。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』というのは、国際的に環境問題に関心が高まったきっかけの一つと言われていて、いわゆる名著と呼ばれているような本の一冊です。『沈黙の春』というのを読んだ事ある方ってどれぐらいいますか?結構皆さん読んでますね。でも、読んでらっしゃる方もいるだろうと思ったので、持ってきていて今日の話を進めるのに、必要な所だけ少し朗読したいかなと思います。冒頭の部分なんですけれども、「明日の為の寓話」というふうにタイトルが付いています。
(以下朗読部分)


1.明日のための寓話

 アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つ
だった。町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘
がもりあがり、斜面には果樹がしげっていた。春がくると、緑の野原のかなたに、白い花のか
すみがたなびき、秋になれば、カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあやを織りなし、松
の緑に映えて目に痛い。丘の森からキツネの吠え声がきこえ、シカが野原のもやのなかを見え
つかくれつ音もなく駈けぬけた。
 
 道を歩けば、アメリカシャクナゲ、ガマズミ、ハンノキ、オオシダがどこまでも続き、野花
が咲きみだれ、四季折々、道行く人の目をたのしませる。冬の景色も、すばらしかった。枯れ
草が、雪のなかから頭を出している。その実やペリー(奬果)を求めて、たくさんの鳥が、やっ
てきた。いろんな鳥が、数えきれないほどくるので有名だった。春と秋、渡り鳥が洪水のよう に、あとからあとへと押し寄せては飛び去るころになると、遠路もいとわず鳥見に大勢の人たちがやってくる。釣りにくる人もいた。山から流れる川は冷たく澄んで、ところどころに淵をつくり、マスが卵を産んだ。むかしむかし、はじめて人間がここに分け入って家を建て、井戸を掘り、家畜小屋を建てた、そのときから、自然はこうした姿を見せてきたのだ。

 ところが、あるときどういう呪いをうけたのか、暗い影があたりにしのびよった。いままで 見たこともきいたこともないことが起りだした。若鶏はわけのわからぬ病気にかかり、牛も羊も病気になって死んだ。どこへ行っても、死の影。農夫たちは、どこのだれかが病気になったという話 でもちきり。町の医者は、見たこともない病気があとからあとへと出てくるのに、とまどうばかりだった。そのうち、突然死ぬ人も出てきた。何が原因か、わからない。大人だけではない。子供も死んだ。元気よく遊んでいると思った子供が急に気分が悪くなり、2、3時間後にはもう冷たくなっていた。

 自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に
思い、不吉な予感におびえた。裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、
死にかけていた。ぶるぶるからだをふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の
春だった。いつもだったら、コマツグミ、ネコマネドリ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声
で春の夜は明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つし
ない。野原、森、沼地 みな黙りこくっている。

 農家では鶏が卵を産んだが、雛は孵らず、豚を飼っても、何にもならなかった。小さい子ば
かり生れ、それも 2、3 日で死んでしまう。リンゴの木は、溢れるばかり花をつけたが、耳を
すましてもミツバチの羽音もせず、静まりかえっている。花粉は運ばれず、りんごはならない
だろう。

 かつて目をたのしませた道ばたの草木は、茶色に枯れはて、まるで火をつけて焼きはらった
ようだ。ここをおとずれる生き物の姿もなく、沈黙が支配するだけ。小川からも、生命という
生命の火は消えた。いまは、釣りにくる人もいない。魚はみんな死んだのだ。

 ひさしのといのなかや屋根板のすき間から、白い細かい粒がのぞいていた。何週間まえのこ
とだったか、この白い粒が、雪のよう、屋根や庭や野原や小川に降りそそいだ。

 病める世界 新しい生命の誕生をつげる声ももはやきかれない。でも、魔法にかけられたのでも、敵におそわれたわけでもない。すべては、人間みずからまねいた 禍いだった。
 
 本当にこのとおりの町があるわけではない。だが、多かれ少なかれこれに似たことは、合衆
国でも、ほかの国でも起っている。ただ、私がいま書いたような禍いすべてのそろった町が、
現実にはないだけのことだ。裏がえせば、このような不幸を少しも知らない町や村は、現実に
はほとんどないといえる。おそろしい妖怪が、頭上を通りすぎていったのに、気づいた人は、ほとんどだれもいない。そんなのは空想の物語さ、とみんな言うかもしれない。だが、これらの禍いがいつ現実となって、私たちにおそいかかるか 思い知らされる日がくるだろう。

 アメリカでは、春がきても自然は黙りこくっている。そんな町や村がいっぱいある。いっ
たいなぜなのか。そのわけを知りたいと思うものは、先を読まれよ。

(レイチェル・カーソン著『沈黙の春』新潮文庫、新潮社、1974 年。)

というふうに今読んだところなんですけれども、「春が来たが沈黙の春だった。今は物音一つしない。野原は森、沼地、皆黙りこくっている」というところからこのタイトルがきてる訳ですね。これ、なんで鳥も何でもかんでも、皆が黙りこくってしまったか。これは化学物質、農薬とかですね。それをバンバン使うようになって、その結果として生き物がみんな死んでしまった。実際にアメリカで今みたいにすごく本当にそういうような町がある訳ではないんだけれども、タイトルは「明日の為の寓話」と付いてましたけども、色んな所で起きている事をどんどん足し合わせていって、なので全てが同時に起こっているような所ってのはその当時もなかったようですけれども。なんだけれども、一個一個の話っていうのはあるような感じで。今のままほっとくとこうなるよってことを警告したそういう本です。その化学物質で生き物がいなくなった春を描写したので、そこから始まってる。コレだけ今日認識して頂けると、この後の話に付いていけるのかなと思っています。それと、録音を聞いてもらう前にもう一言だけ付け加えてお話しておきたいのがサウンドスケープについて。僕の分野の研究分野において、「沈黙」というキーワードは結構大事なキーワードなんだよってことを人と話したいと思います。『世界の調律』という本の中では、「沈黙(サイレンス)」というのが一番最後の一個前の章にあります。その「沈黙」について色々語られていますが、そこから大事なことを抜き出しておくと「心と精神の落ち着きを取り戻すためには、静寂な時間が必要だ」てのが、「沈黙」を考えるとキーワードです。もう一個のキーワードとして、大事なことは「生命と繋がる概念であり、死と繋がる否定的なものと捉えられる傾向にある」と。だから今の『沈黙の春』というのは、正に後者の方のパターンで書かれている。なので、この『沈黙』には二つの意味があるんだという事をまず最初にお話ししておきたいと思います。今日この後、20分から30分ぐらい音選んで聞いてもらおうと思ってるんですけれども、原発事故後に福島市内の定点観測をずっとしていました。大体同じ場所で音を取っています。その音がどのように変わっていったのかっていうのを、是非聞いていただきたいなと思ってるんですけれども。録音を始めたのが2011年5月1日です。なぜ5月1日かというと、その前日まで福島大学で避難所やってました。避難所を手伝っていてなんか気分が録音しようという気分になってなかったっていうのが一つ。あともう一つは、僕の研究室が酷いことになっていて、今日レコーダー持ってきてますけどこれの風防が見つからなかったんですね。この風防がないと風がちょっと吹いたらもう音は取れません。現実的に取れなかったというのも実際あります。「なんでもっと早く取らなかったんだ」というのを色んな事で色々言われたりするんですけれども、そういう二つの事情から録音始めたのはその辺になってしまいましたという所です。この後、いくつか音を選びながら聞きたいと思います。


~録音再生/10分休憩~

・それでは、第二部の「てつがくカフェ」を始めていきたいというふうに思います。第一部で永幡さんから「福島サウンドスケープ」をご提題いただきました。『沈黙の春』ということに関しても色々とお話いただいたんですが、それを踏まえて13年間振り返るとということで、まずは聞いてみての感想でも構いませんし、最後に永幡さんからいくつか今日皆さんに考えていただきたいテーマみたいなこともやらせていただきましたので、それらもぼんやりと考えていければというふうに思っております。

・今「小鳥の森」を意識してなかったという話が出たんですけど僕はですね、小鳥の森いつ行ったんだったかな?多分(震災から)一年経ってないぐらいで行った記憶があるんですけども、あそこだけはちょっと異様に怖かったっていうか。行って凄く「何かあるなぁ」と感じるぐらい。だから、見えない放射線を感じるぐらい僕はなんか凄くここに長居してはいけないと感じるぐらい。 なんか恐ろしさがあったかなというのは、それを急に思い出しました。

・永幡さんの説明をお聞きして、単純な感想なんですけどタイトルに書いてる「耳で振り返る震災原発事故後の13年間」ということなんですが。これ「耳で13年間を振り返るって難しいなぁ」と思って。結局の所、音だけでは中々理解できないかな。「サウンドスケープだけでは理解しづらいなぁ」と思って聞いてました。要するにサウンドスケープ=音風景と(動画を)見合わせて聞き合わせないと中々理解できないのかなという。そうすると、単純に耳で振り返ると書いてあるんだけど、中々それは理解できなかったかなというのが私の感想。それと「小鳥の森」について今ちょっと話題になってましたけど、私は原発事故前から偶に「小鳥の森」に行ってたんですが、画面に出て小鳥たちの鳴き声が聞こえる場面も出てきましたけど。原発事故前も別に人の出入りってあんまり無かったような場面にしょっちゅう出くわしてたんです。私の行く時間帯が悪かったのかもしれませんが。ということで、人はあんまり出てなかったし、それに対して小鳥は盛んに囀っていたという状況は変わってなかったから画面を見てて、そういう印象を受けました。ただ、場面を見て音と重ね合わせて理解しますと。やっぱり原発放射線の線量が高くて、人手が少なくなったと。その辺はよく理解できたかなと思いますし、あとコロナ禍が始まってからも、あまり外出しなくなったということで人手が少ない場面があってそうだったなという感想です。

・あの「小鳥の森」に関しては、多分時間帯によるんだと思います。あそこはやっぱり学校の研修で行くとか、そういうのが多かったりとか、元々子どもたちがよく行くような場所。子連れで行くような場所だったので、そういう時間帯に行くと常に誰かいるんだけれども。あんまり子どもが来ないような時間帯を狙っていけば確かに。元々少ないと言えば少ないのかもしれないですね。

・貴重な資料ありがとうございました。あんまりよく理解してないので、単純な質問なんですけども、『沈黙の春』だと動物のようなものが沈黙するじゃないですか。水俣も猫から沈黙していくじゃないですか?今回福島の資料を見た時におり、「アレ?沈黙してないじゃないか」というか。「えっ?全然沈黙してないじゃん?」という感じで思ってて。でも、人間は沈黙してるんですけど、そのギャップっていうか。どういう風に捉えればいいのかなっていうのが、今日見せてもらった資料をレイチェル・カーソンの『沈黙の春』とか水俣と比較してギャップが捉え方を教えていただければなと思ったんです。

・基本自由に捉えてもらったらいいなと思ってるんですけれども。僕自身の捉え方としては、レイチェル・カーソンが言ってる『沈黙の春』とは違った沈黙が起こってるんだと思っていて。コロナで起こった沈黙もやっぱりレイチェル・カーソンの言っている事とは違った事が起こっていて。なので、20世紀に起こった『沈黙の春』、あるいは「沈黙」というものと、21世紀に我々が今経験している「沈黙」というのは同列では語れないだろうなと僕は考えています。

・さっきの『沈黙の春』というのは、あれは実際にあったこととまた違うんですか?じゃあ、まず質問で人間もアレだし動物もアレだって『沈黙の春』で、最初説明あったんですけど、あれは実際にあったことなのかな?まずそれ一つね。そして、あとこちらの方も言った通り、私も一番最初「小鳥の森」とか、人はね、あの出てこないんだけども、結局原発もやっぱり科学のアレですよね。それなのに小鳥とか、そういうの沢山鳴いているでしょ?だから、こちらの方も言っているように、私もそこで「アラっ?」て一瞬思ったんですよね。あの原発の近くでなくて、「小鳥の森」はかなり離れているから、鳥は色々飛ぶからね。だから私、最初の一つとあと二つ目の質問は相馬市の原発があった所は、そこの野生の鳥というのはどうなのかしらなと思ったの。「小鳥の森」みたいに騒々しく鳴いてるのかなって。それ2つ目の質問なんですよね。そして、あくまでも。鳥はあくまでも野生だからね。野生だから別にその辺はどうなのかな?例えばだよ、鳥かごに常にね、野生じゃなくて鳥屋さんに売ってる鳥かごにね、売ってるペットセンターで売ってるね鳥をどこを原発の放射線の高い所に置いたら、その辺は野生の鳥と変わるのかな?って。この三つね、私それさすごくね感じたの。その三つの質問ちょっとお願いします。

・まぁ、答えられる方がいらっしゃったらどなたでも。永幡さんいかがでしょうか?

・レイチェル・カーソンの『沈黙の春』はあれ、あのままのことが起こっている所はまず無いと著者自身が書いていて。ただ、色んな所で起こったことを重ね合わせて行くとああいう風な事に、最終的になってくんじゃないかっていう問いかけで書いています。なので、完全に全てが黙りこくった所というのは無いと思います。野生の生き物がどうかという話については、多分世話人とかあれだよね相馬市に近いから、後で補足してもらえればと思うんですけども、基本的に少なくとも耳で聞こえる範囲では鳥は減ってないんではないかと思います。色んな仕事で相馬市の方に行くことあるんですけれども、別に普通に鳥は鳴いているし。あとチェルノブイリの時の記録っていうのは、これもCDが出てるんですけども、やっぱり録音した人が居て。チェルノブイリの場合は、本当にもうチェルノブイリのかなり近くで録音してるんですけれども、やっぱり生き物の声はちゃんと聞こえてるし、むしろチェルノブイリに関しては、人が完全にあの日本以上にその広い範囲に渡って住むことが出来なくなったので、なんか野生の王国になってるというような報告もあるようですから。その意味で例えば、遺伝子レベルで何が起こってるかとかっていうのを厳密調べ始めたら、もしかしたら何かあるのかもしれないですけども、少なくとも耳で聞こえる範囲、目で見える範囲で見る限りにおいては、生き物は生きてますよね。それは間違いないと思います。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








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それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま3.11特別編2024「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」

2024年03月18日 12時38分26秒 | 開催予定
てつがくカフェ@ふくしま2024.3.9.
【テーマ】「福島サウンドスケープ-耳で振り返る震災・原発事故後の13年間-」
【日 時】2024年3月9日(土)
     14:00~15:00 提題/「沈黙の春」再考:サウンドスケープの視点から
     15:10~17:00 てつがくカフェ
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料
【飲み物】無料
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。
        
        Zoomミーティングに参加する
        https://us05web.zoom.us/j/86379270927?pwd=NL3KZaC50BwCVYhfxBfC1bU5Wc3R2y.1
        ミーティングID: 863 7927 0927
        パスコード: 1gu5e7

【問い合わせ先】fukushimacafe_ishii@yahoo.co.jp(世話人/石井)





てつがくカフェ@ふくしまの常連参加者のお一人である永幡幸司さんは、

福島大学共生システム理工学類の音響学の専門家として、

2011年5月8日より福島市内の各所で継続的に音を録取し、

「福島サウンドスケープ」として発信し続けています。

「サウンドスケープ」とは音の風景という意味で、

環境のなかで軽視されがち、ないしは後回しにされがちな音に注目し、

音が織りなす環境にスポットを当てていこうとする概念です。

13年にわたって録音された福島サウンドスケープは、

震災・原発事故が福島市民に及ぼした影響や、

その後少しずつ復旧・復興していく様子、

さらに、コロナ禍がもたらしたまた少し異なる変化などを、

克明に記録しています。



当日はいつもより1時間早い、14時00分スタートで、

永幡氏より約1時間ほど、編集された「福島サウンドスケープ」に基づいて、

「『沈黙の春』再考:サウンドスケープの視点から」というタイトルで、

ご報告いただきます。

それをじっくりお聴きいただいたあと、

「耳で振り返る震災・原発事故後の13年間」というテーマで、

哲学カフェを行っていきます。

これまで映画などを題材に、映像を見ての特別編は何度か企画しましたが、

音を聴いての特別編というのは初めての試みです。

是非皆さまご参加いただき、福島の音に耳を傾け、

感じたこと考えたことを自由に発言してみてください。



今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加をご希望の方は、お申し込みは不要となりますので、直接会場にお越しください。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、上記のURLからご参加ください。



「てつがくカフェ@ふくしま」は、

日常の中にある「当たり前」なことを掘り下げて、

みんなが自由に発言しながら考えを深めていく対話型のイベントです。

発言を強要することもありませんので、

他の方の意見に黙って耳を傾け、頭の中で考えているだけでもかまいません。

誰でも気軽に対等に、安心して何でも話し合える場ですので、

初めての方もお気軽にご参加ください。