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てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

てつがくカフェ@ふくしま報告2022.6.18. 「戦争と平和を考える」

2022年06月23日 20時44分18秒 | 定例てつがくカフェ記録
6/18(土)に開催されたてつがくカフェについて

世話人から報告させていただきます。



会場とオンライン(Zoom)の同時開催となりましたが、

会場には17人、オンラインでは6人の計23名の方にご参加いただきました。







「戦争と平和を考える」というテーマで対話が行われましたが、

ここで参加された方の発言の一部を紹介したいと思います。

【タイトルに関して】
・話を始めるにあたって、企画者に質問したいのですが…。言葉の整理だけしたいなと思いまして、テーマが「戦争と平和を考える」になっていますが、そこの「と」はどういう繋ぎで考えているのかお聞きしたい。何か意味を持たしているのか、意味はあまり無くて戦争と平和の両方を並列にするために使っているのか、その意図を聞きたいなと思います。要するに戦争の問題だけを考えているわけではなくて、平和の問題も考えたいという意図は何となく理解できるのですが、二つが対立している対の概念なのかそうでないのか今後の議論に関わってくるように思えますので、そこだけ説明して頂けると考えやすくなるかなと思いました。

・何も考えておりませんでした。本当に問いが立てにくいので、問いを立てた場合ある一方向性の立場からの問いというか、反語的な問いになってしまうわけです。「なぜ戦争は無くならないのか?」や「戦争はいけないことなのか?」というように、問いの立てにくい問題になってしまうので、基本「戦争について考える」というテーマだったわけですが、戦争について考えていくということは、私は対概念だと思っておりますが平和に関しても「どうやって平和を築いていくのか?」など色々なことを含めて考えていかなければならないというところで、今回のテーマとなりました。

・先ほど「なぜ戦争と平和の二つの言葉が入っているのか?」という話に関して、対義語としてテーマにしたとの発言がありましたが、私も参加する前になぜこの二つの言葉が今回議論されるのか疑問に思っていました。対になる言葉だとすれば、戦争ではない状態が平和であるもしくは平和でない状態が戦争であるということになると、では戦争になっていない場所が全部平和かというとそうではない。なので、これは明らかに分けて考えるべきであろうと思いました。そうすると議論が拡散してしまって、訳が分からなくなると思いましたので、私は今日は戦争についてだけ考えようと心に決めて参加した次第です。


【言葉の定義】
・冷戦は戦争状態でしょうか?それとも戦争ではない状態でしょうか?

・恐らく戦争状態とは、明確なコンセンサス(意見の一致。合意)が全人類もしくは全宇宙でされていないのではないかと思います。例えば500人以上お互いに集団で殺戮し合った争いが戦争ですという人もいれば、5人以上で殺し合って3人以上死亡者が出れば戦争だろうと言う人もいれば、H・G・ウェルズのように宇宙人が攻めてきた状態も戦争だと言う人もいると思う。そうなると他の生物との争いも戦争となると、今回のコロナも戦争だろうと思います。「ウイルス対人類」の戦いなわけですから、最初に戦争の定義を決めないと議論そのものが出来ないのではないかと思います。

・先ほど冷戦という言葉が出ましたが、もともと比喩的表現だったと思うわけです。つまり「Cold War」という、戦争が実際に勃発していないけれどもあたかも戦争をやっているみたいではないのかと、これが平和なのかと言って、まるで戦争みたいだが戦争はしていない形なのかなと思うわけです。先ほどのコロナウイルスとの戦争についても、それは比喩的表現としては使えると思うけれども、基本今日考えたかったのは「人間同士が大規模集団で戦う」というのを戦争として、近代以降は国家同士になりますが国家と言ってしまうと「内戦的な戦いはどうするのか?」ということになってしまうので、ある程度大規模な戦いというかそこは漠然としたものでしか言えないと思いますが、民族同士であるとか部族間の争いであれば該当するのかなと思います。暴力団同士の争いだと戦争と言う必要はないのかなと思います。定義は自由にしていいと思っております。

・戦争と平和について、昔読んだトルストイの小説のタイトルだったと思うのですが「深いな」と思いながら参加する前に考えていたわけですが、深すぎて定義できるものではないなと感じました。トルストイの小説は人間問題が主軸だったと思うので、人間の心を中心に考えたいということで今日参加した次第です。

・定義づけは難しいと思います。他の方も仰っていましたが、テロとの戦いや国家対国家以外の戦いについてどうするのかなど色々あり、また今回のウクライナの話にしても2014年から戦争ではないふりをして乗り込んでいますから、プーチン大統領も戦争とは言わなかったわけで、本当に定義づけしようとすると難しく、それこそ学者の中でも意見が分かれていますので、はっきり定義づけしてから始めるというのは困難だと思います。むしろ現実にあることとかをベースに話した方がいいのではないかと思います。


【フィクションとしての戦争】
・戦争は自分にとってどんなものか考えた時に、もちろん誰も殺されない平和な状態が良いわけですが、戦争映画やドラマとかそういったものに単純に魅力を感じてしまっている自分もいることを発見しました。

・戦争映画を観た時に面白く感じるという意見について、共感を覚えました。ウクライナ軍がロシア軍に対して攻撃を仕掛ける映像を観て自分も嬉しく思いながら、そういった動画をYouTubeなどで見続けているわけです。なぜそう思うのか考えた時に、そもそも我々人類というのは戦争に勝ってきた種族の末裔なわけですから、狩猟採取時代には死亡原因として2~3割は殺人だったり争いだった言われていますが、そういった中で生き残ってきた人類はいかに人からの殺戮から逃れるか長けた人間しか残っていないわけです。それは人間だけではなくあらゆる生物も同じですが、戦争を見て楽しく感じてしまうのは本能的にしょうがない、戦争は悪とか善とかそういうレベルの話ではないと思いました。

・フィクションとしての戦争映画やドラマ、文学などが面白いのは設定が究極の選択を迫られたりとか、ギリギリの状態に人間が置かれたりするからドラマとして面白くなるのは当たり前で、これが好きだから好戦的だとか戦争を肯定しているとかは全然言えないと思います。戦車を吹き飛ばす兵器の映像なども、映像として面白いということは言えると思うのですけれども、先ほど話にあった狩猟時代から我々が生き残ってきたのは戦争に勝った末裔だという意見は自分は違うと思っています。単純に戦争というのを武力の争いだとすると、人間というのは戦争を起こさない方法をそれぞれの時代において考えてきている歴史があるわけです。上手いこと戦争にならないようにできたという武力衝突を避けて来た人も残っているというふうに考えた方が良いのではないかと思います。


【戦争をなくすために】
・戦争と平和の関係について考えた際に、自分にはロシア人の友だちがいて、彼は2月24日から心を痛めていてチャットとかでやり取りしていますが、どんどん弱っているというか「こんなに長く続くとは思っていなかった」というわけです。自分は「早く終わらないかな」と思っていますが、戦争という定義がまさに難しくていつ終わるのか、また戦争が終われば平和が訪れるとどこか思っています。

・学校の歴史の授業とかで戦争について習ってきましたが、それはあくまでも歴史の授業の話でまさかそれが現実に起こるなんて思ってもいなかったので、最初にウクライナ侵攻があった時は本当に驚いて、そこからいろいろ考えるようになって、考えた結果この場にもいるわけですが、そもそも戦争はなぜ起こしたらいけないのかと考えたら、自分の理想を叶えるために武力を使っているのが戦争なのかと思いました。ただ武力を使うのは手段の一つで、理想としては対話でもって世の中の課題を解決しようとするのが一番平和的な方法かと思っています。そこを対話ではなく武力で解決しようとしているから戦争が起こっているので、戦争を止めるというのは人間一人の力ではどうにもならないですが、対話で人類の問題を解決していければ世の中上手くいくのかなと思っています。

・根本的な疑問として、戦争するのは人間だけであると言われています。もちろん動物の中でも争いはありますが、人間はこれほど叡智を持っているわけですが「なぜ対話で世界は平和にならないのか?」というのがずっと疑問でした。さらに自分の中で解釈が出来ていないのが、戦争の法律というものがそもそもの戦争のやり方を定義づけていることが、自分の中では理解できていないわけです。国連など世界を統一しようとする流れの中で、あまり機能していないのかなと思いました。人間同士の殺し合いというのは決して望むべきものではなく、どのような問題があったとしてもやはり対話で解決したいと思っております。


【戦争は悪か?】
・戦争がもし悪いとすれば、それはなぜなのか?それは人が死ぬからだと言うのであれば、戦争によって死ぬ人の数が少なくなればその戦争は正義なのか、皆さんのご意見を伺いたいなと思いました。一例を言うと、戦争が起こると自殺者が明らかに減るわけです。戦争によって自殺者が減ったら社会的に正義かどうかなど、どう解釈するべきなどお聞きしたい。

・戦争と自殺者の因果関係についての考え方は、非常に功利主義(行為や制度の社会的な望ましさは、その結果として生じる効用/有用性によって決定されるとする考え方)的で数を取って比較したらどちらという話になるとは思うのですが、それで戦争が善か悪かと議論したときに「そもそも善悪とは?」という話になる流れだと思うわけです。善悪の問題を考えるときに功利主義に考えるのか、宗教的に語るのか色々とありますが、善悪の深いところに入り込むとこれもまた抜け出せなくなると思います。そんなことよりも戦争は悪だと、人類の歴史の中で人類が培ってきた考え方であると、否定される方がもしいるとすればそれはそれで結構ですが、人類の歴史というのは戦争は悪だと少なくとも近代以降そういった考えに固まっていて、それはそれで前提として認めるしかないかと思いますが、いかがでしょうか。

・戦争をまず初めに始める人、それを受ける人がいる。最初に火をつけた人が悪いとなると、受け身の戦争は許されるという話を聞いたことがあります。しかし、それは果たしてそうなのかと疑問に思っていて、また代理戦争という言葉をよく聞きますが、それは正しい戦争なのか悪い戦争なのか時々気になります。

・今回のテーマについて考えた時に、人類が60億ぐらいいて国も200以上あって、みんなそれぞれ一人ひとり違うので国もそれぞれ事情は違うので波風が立たないことは全くないわけです。思想やら経済状態、民族や習慣など様々違うところで、そこで何か波風が立った時に戦うことや争うこと選ぶことと、平らに穏やかに治めていく、融和や調和といった方向が平和かと思っています。戦いや争いはどうしても他者を殺したり傷つけたり、あるいはその国の習慣やら民族やら破壊してしまうこともあるかと思います。自分とは違う、あるいはこの国とは違うものに対する尊重とか尊厳というものの考え方が低いのかなと思ってしまう平和の方で考えると、波風が立った時に相手は自分とは違う考えや感情を持っているけれども、そこを違うということを尊重して対話ですり合わせて解決していこうと他者への尊厳などを大切にするのが平和を考えることかなと思います。これは人間だけではなくて、例えば庭にハチの巣ができた時に駆除する考えもあるが、工夫して共存するように考えられるということもあるので、人間だけの問題でもなく自分とは違う人種とか植物なり動物なり、他者を同じ地球に生きているものとして生命の尊厳を人間と同等として考えられるようなところが平和に繋がっていくのかなと思っています。

・今の話は同感ですが、問題を解決する時に武力を用いるのか、それとも相手を尊重して対話をするのか。対話をした方が相互理解や協調とかになっていくとは思いますが、難しいのはお互いを尊重しないとダメで、片方だけでは成り立たない。武力だとこちらが一方的に侵略すれば、服従させられるのでそちらの方が楽というか、力を持っているのであればそちらを使ってしまった方が楽で自分の思い通りになると思うのですが、もし相手から一方的に武力とか来た時にどう対応するべきなのか。お互い対話とか、協調する姿勢とかあったから時間はかかるかもしれませんが話し合いで解決するのではないかと考えています。武力で来た時にこちらも武力で対抗してしまうとそれが戦争になってしまうのかなと思うわけです。

・ごくごく身近なところで言えば、日常生活の中で隣り近所で我が家の樹木がお隣の敷地の方に入ってしまった場合、あるいはその逆とかで迷惑しているといった時に、まずは話をします。勝手に枝を切ったりせずに話し合いになる。それくらいだといいのですが、何年か前にはご近所で十何匹猫を飼っているお宅があって家から自由に出して育てていたので、非常にご近所は迷惑していたわけです。町内の班でそのお宅に申し入れして、最初は戦うといった心持ちではなくてまず困っている状況を伝えましたが、結果その方は考えてくれなかったわけです。その後も改善されなかったのでどうするのか見守っていたら、町内会の会長から言ってもらうことにするなどいくつかの知恵を出し合ってやりましたが、それでもダメでした。その後も様子見をしていましたら、何年かした後突然その方が亡くなってしまってた。その件は一件落着となりましたが、やはりご近所のことを考えれば誰もお隣と争うといった考えを持たないのに、こちらの申し入れを聞き入れてもらえなかったという人もいるのですが、相手をやっつけるとか殺すとかいう状況が、どうも別の力が働いていて大きな戦争とか大きくなくても小さなところの内戦とかになっているのかなと思ったりします。

・よく戦争を無くすとかの話になると、コミュニケーションが大事であるとかお互いの相互理解が進めば平和になるとか、そういったことが良く言われるのかなと思います。恐らく人類の歴史から見ると、戦争行為とか人殺しによって死ぬ人類の割合は少なくなっているように思いますが、専門家ではありませんがこのままいけばあと一万年後には戦争が無くなる、人殺しも無くなるのでそのままにしておけばいいじゃないかという考えも一つあるかと思います。そんなこと言ってもしょうがないので、どうやったら平和な状態になるのか、平和な状態とは何かその定義の話になりますが、人殺しとかが無くなる状態がどうしたら早く来るのか考えた時に、そいうったロールモデルを探すということが大事になってくると思います。争いごとの無い社会はどんな社会か見渡した時にそれを目標にすればいいのではないかと思います。一つはボノボという小型チンパンジーがいまして、彼らはチンパンジーの中でもお互いに共食いをしたり殺し合わない稀有な類人猿だそうです。ボノボの習慣とかをフィールドワークで勉強して少し真似をしてみるの有りかと思います。

・正しい戦争とか功利主義とかにも繋がってくると思いますが、少し前に「やられたらやり返す。倍返しだ」という言葉が流行りましたが、それが流行ること自体が問題かなとこの戦争が起きている時に思いました。それだったら倍返しが続くわけですから、それはダメだと思わずにそのドラマが流行った日本は恐ろしいなと感じました。やられたらやり返すのが正義とする価値観が流行ってしまうのはどうなのかと疑問に思いました。

・結局は対話的なことを探求して、物理的に傷つけ合いことは避けた方がいいだろうという意見が非常に強いわけですけど、私は戦争するということはそういったことが面倒くさいと思っていて物理的に問題を解決する方が手っ取り早いということだと思います。問題の解決は今の倍返しではないですけど、物理的な対応でもって問題は解決すると信じている人たちが引き起こす現象かと思っています。ですから彼らは物理的に戦うわけです。最終的に殺し合いという状況にまでなるわけですけど、問題は話をすれば何とか解決の道を探れる、対話をすれば見つかると思っている人たちをも巻き込んでしまうという現象が一番問題かと思います。戦争がしたいのであれば戦争したい者同士がどこか迷惑をかけないで勝手にやったらというふうに思うわけですが、現実的にはそうではなくて法律であるとか徴兵制とかで、暴力でもって望んでいない人を暴力に追い込む動きをするわけです。ですから、私は暴力には限界があり暴力では問題の解決にはならないと世界中の人間が理解すれば戦争は無くなるのではないかというふうに思います。ただ、残念なことに暴力の方が手っ取り早く問題を解決すると、自分の欲求が上手く満たされると思っている人が多いので、まだまだ戦争は続くのかなと思います。


【ウクライナ侵攻について】
・今回プーチン大統領は突然ウクライナに攻め込んだ、つまり暴力を振るってきたわけですけど、彼の理屈からするとウクライナの東側の地域で、ロシア系の人々が暴力を受けているとしてそれを救いに行くという最初の理屈があったと思います。それが嘘か本当かは別に置いておいて一応の建前があるわけですが、それがプーチン大統領にとってはNATOがどんどん東に出てくるというのは、彼にとっては暴力を受けていると、あるいは暴力を受ける可能性があるという認識であったことは間違いないと思います。難しいのは果たして話し合いの余地があるような戦争の現場というのがどれくらいあるのか、それから話し合いとか理性というものにどれだけの信頼が置けるのかというのは、今回の戦争を見ていると悲観的にならざるを得ないという気がします。

・今の話凄く刺さったのですが、自衛のために暴力を発するのはいいのかという議論があって、先ほどの半沢直樹のセリフも自分を守るためだったら倍返しにしていいというのがとてもキャッチ―だったから周りに広がったのかと思います。日本は仇討の文化がもてはやされていたと思います。例えば、赤穂浪士もこの間の大河にあった曾我兄弟の仇討ちも正義があるように見えてしまう。現状で言うと、プーチン大統領の話も自分に自衛権があるように見せて正義として武力を行使する。日本の話になると尖閣諸島に中国が来る、北朝鮮のミサイルがたった7分で届くという距離感でも極端な指導者によって戦争が起こる可能性があるから芽を摘んでおこうという論法にまでもっていくことが可能だと思うわけです。ただそこまでもっていっていないのが日本で、これは穏やかな国なのか、それとも呑気な国なのかというのも考える余地があるのかなと思います。自衛隊の話は今考えるきっかけになっていると思っています。

・まずウクライナ侵攻は本当に戦争なのだろうか考えたいなと思いました。武力をもってその土地を自分たちのものにしようということは間違いないわけですが、例えば元寇は戦争とは言わないと思っています。近代ではないので戦争と言わないという言い方も一つはできるだろうと思いますが、それを置いたとしても恐らく元寇を戦争だとする考え方はしないと思う。あと豊臣秀吉の朝鮮侵略も戦争ではなく侵略と言っている。今回も戦争ではなく侵略のような気がしていて、戦争とは恐らく第二次世界大戦の時も宣戦布告をしたうえで、手続きに則って行うようなものが戦争なのかと考え始めています。平和状態ではない侵攻ですが、それでも戦争ではないような気もしています。だからプーチン大統領も戦争にしたくないから、戦争にしてしまうと恐らく第二次世界大戦の時のように色々なものが巻き込まれていって、それこそ第三次世界大戦になるのではないかと恐れがあるから、あえて戦争にしないようなやり方でやろうとして侵略になってしまっているのではと思っています。だから戦争と平和だけを考えていてもダメで、もう一つ別カテゴリーがあって、それも平和を乱しているという構造なのかと思いました。

・ウクライナ侵攻は戦争かという定義の話もありましたが、何か問題解決のために武力を用いたら大小関わらず戦争かなと思っています。今まで歴史を見ると武力を用いて強引に叶える方法がほとんどだと思うわけですが、現代であれば対話が平和的な解決方法というか血が流れたり命が失われない方法で世の中が上手くいけばいいなと思います。今の人類は協力して解決していかなければいけない問題が山積みなので、環境問題やコロナウイルスとか色々ありますけれども人類同士で争っている場合ではないと私は思っているので武力による現状変更は無くなる世の中になればいいなと思っています。話は変わりますが、どうすれば戦争は無くなるのかと思った時に、例えば日本は今戦争が起こっていないことを考えると、日本政府があって国民は銃とか武器を持てないので、反乱を起こしても警察がいて、世界には国家はありますが世界政府のようなものは無いので机上の空論なのは承知してますが、仮に世界政府のような組織が樹立したら平和になるかどうかは分かりませんが、武力による現状変更は少なるなるのではと思いました。理想というか妄想ではありますが、そうなったら平和になるのかなと思います。

・戦争や紛争を無くすには、きっと世界中のだれもがプーチン大統領さえも世界を自分なりの見方で平和にしたいとそれぞれの立場で思っているのではないかと思っています。なぜなら自分の考え方は正しいというふうに思っていること、相手の考え方を尊重することができないから、結論で行くと自分自身の考え方に固執してしまって自分を変えることができない。その小さなものが積み重なってゆくゆくは国の考えになり、世界の紛争を招いていると思っております。結論は自分の中では一人ひとりの意識を変えないと世界は変わらないと思っています。

・今回のウクライナ侵攻が戦争かどうかというのは、これは戦争だと断言しなければいけないと自分は思っています。明らかに侵略戦争です。例えば、戦争というのは少なくとも近代以降我々人類の中でも「悪だ」と「やってはいけない」ということに基本的にはなっています。国際法の中で自衛のための戦争は良いとかありますけれども、基本的に戦争は悪だという考え方を世界共通の考え方として人類は打ち出してきた。それに対してプーチン大統領は「戦争をした」と言うと自分が悪者ということになってしまうので、「戦争はしていない」と「軍事行動だ」と言っているわけですけれども、これは別の形の戦争だというふうに断罪しなければいけないと思います。戦争の形はよく報道もされているのでご存じだと思いますけれども、大きく変わってきてかつての宣戦布告をして始めるような戦争ではなく、今回のウクライナ侵攻も宣戦布告もしていないので、その前ロシア連邦がウクライナに押し入った時も宣戦布告しておらず、していない戦争が最近多い。それからテロ対国家権力という戦いもあるので従来の形と変わってきている認識は共通としてあると思う。戦争は時代とともに変わるが、新しい形の戦争としてそれを糾弾しなければならない。プーチン大統領は糾弾されなければならないというのが私の意見です。それが何に基づいているかというと、人類の合意ということになるわけですけれども、人類の合意と言ってもそれは実際に人類全員が手を挙げて合意しているわけではなく、単に国際法がそうなっているという話でしか言えなくなっている。国際法の中では例えば、武力による現状変更はよろしくないというのはその通りだと思います。しかし果たして全面的にそれが正しいかと言うと、例えばある少数民族がある国家の中で虐げられている状況において、そこが独立して主権国家になるということを認めないのかというと、そういうわけにはいかない。それを認めるとすると、武力による現状変更というものが有りということになる。そのように単純に割り切れる話でもないと思いつつ、何が言いたいのかと言うと「あれは戦争だ」と、「断じて戦争だ」ということです。

・先ほどの発言にコメントしたいのですが、自分は「戦争だ」と言い切ってしまうことで「それはダメだ」というのはあまり力にならないと思っています。なぜかと言うと、プーチン大統領はその土俵に乗ってこないので結局のところ話にならないと思う。戦争だからダメなのではなくて武力行使自体がダメだと、そのような侵略の仕方自体がダメだということです。プーチン大統領のやっていることは「戦争ではない」と言っていたり、ほとんど言葉遊びだと思っています。その土俵に乗ってこない者に対して言葉を加えていっても、あまり武器にならないような気がしています。単にプーチン大統領は否定して、へそを曲げるだけな気がしてならない。彼自身が言っていることに対して、それ自体がダメだという言葉を待たない限り、説得することは少なくとも出来ないだろうと思います。さらに似たような手はどんどん出てきてしまうだけなのではないかと思います。なので彼がやったことが絶対的に悪であるかどうかという言い方で聞かれたら、もちろんそこは先ほどの方の意見に同意しますが、「戦争だからダメだという言い方ではない何か」というのを考えられるのではないか?ということは少し追求する価値があるのではないかと思います。


上記のような様々な意見があり、 議論が活発に行われました。

最終的な板書はコチラ↓








次回のてつがくカフェは、

7月16日(土)15時から福島市市民活動サポートセンターとZoomの同時開催で行います。

テーマは「恋愛のカタチ~幸せのあり方を考える~」です。


なお、会場参加にあたっては、新型コロナウイルス感染症対策のため、

マスク着用の上、ご来場いただきますようお願い致します。


また、オンライン(Zoom)による参加をご希望の際は、

ブログ上にZoomのURLを掲載しておりますので

該当記事の「Zoomミーティングに参加する」の下の

URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。

会場参加同様、オンライン参加につきましてもお申し込みは不要です。



そのほか、てつがくカフェのTwitterとFacebookもありますので、フォローしていただけると幸いです。


てつがくカフェ@ふくしま Twitter

てつがくカフェ@ふくしま Facebook 


それでは皆様また次回の「てつがくカフェ」でお会いしましょう。

てつがくカフェ@ふくしま2022.6.18. 「戦争と平和を考える」

2022年06月10日 20時35分15秒 | 開催予定
人類は戦争に終止符を打たなければならない。
それでなければ戦争が人類に終止符を打つことになろう。
【ジョン・F・ケネディ】

てつがくカフェ@ふくしま2022.6.18.
【テーマ】「戦争と平和を考える」
【日 時】2022年6月18日(土)
     15:00~17:00
【場 所】福島市市民活動サポートセンター A会議室&ZOOM

       チェンバおおまち3階 (福島市大町4-15)
【参加費】無料 (飲み物は各自ご用意ください)
【事前申し込み】申し込みは不要です。
        会場参加の方は直接会場にお越しください。 
        オンライン参加の方は下記URLからご参加ください。

Zoomミーティングに参加する↓
https://zoom.us/j/98851614887?pwd=ZCtpcDFFOWsyZ3kwclBlMlhpVkFSUT09

ミーティングID: 988 5161 4887
パスコード: mc5Bfs

【問い合わせ先】fukushimacafe@mail.goo.ne.jp





昨今の情勢を鑑みて、6月は戦争と平和について皆様と語り合いたいと思います。


てつがくカフェはこれまで

「憲法9条を哲学する」「日本は近隣諸国とどう付き合うべきか?」というテーマや

『天皇と軍隊』『この世界の片隅に』など戦争関連の映画を取り上げて

参加者同士で戦争や平和について話し合ったことは何度かありましたが、

「戦争」や「平和」を直接的なテーマとして開催したことはありませんでした。


意図して取り上げないようにしていたわけではありませんが、

テーマに「戦争」や「平和」といった言葉を入れると問いの形にしにくいこと、

また自由な発言を是とするてつがくカフェで政治的なテーマを話し合うことで生じる

摩擦への懸念(冷静さの欠如、敵か味方に分裂、喧嘩腰しになりがち)

などもあって無自覚に遠ざけていたように思います。


しかし、取り上げないわけにもいかない状況となったのが昨今のウクライナの情勢です。

2022年2月24日にロシア連邦がウクライナへの軍事侵攻を開始したことで

「平和」は脅かされ、「戦争」は過去のものではなくなってしまいました。


戦争による悲惨な状況が連日報道される中で、

てつがくカフェは「対話のルール」に則ったうえで

「戦争」や「平和」について議論していきたいと思っております。


なお、てつがくカフェは合意形成や異論の論破、問題の解決が目的ではありません。

見解の相違を認め、問題を解決・解消するというより

むしろ問題の深さ、つまりは問題の解き難さを確認することを本旨としています。


専門家も一般の方も共に問い、考え、語り合う、

一つの共同作業として思考を広げ、深めていくことが目的となっておりますので

初めて参加される方も、そうでない方も

知識のあるなしにかかわらず、お互い対等な立場から

「戦争と平和」について探求していきましょう。


※4月14日付の福島民報「【世界の平和】語り合い学び合う」の記事の中で

てつがくカフェ@ふくしまを取り上げていただきました。

上記の記事タイトルをクリックするとページに飛びますので

ご興味のある方はご覧ください。


今回も会場とオンラインの同時開催となります。

会場参加の方は、お申し込みは不要ですが、当ブログに掲載されております、

「てつがくカフェ@ふくしま」当面の開催方針(2020年7月10日現在)】に従い、

マスク着用等のルールを守ったうえでご来場いただきますようお願い申し上げます。

オンライン(Zoom)参加をご希望の方は、

上記の「Zoomミーティングに参加する」の下の

URLをクリックして頂ければZoomに参加することができます。


「てつがくカフェ@ふくしま」は誰でも気軽に対等に、

安心して何でも話し合える場です。

初めての方でもお気軽にご参加ください。

てつがくカフェ@ふくしま対話録 2018.6.16「日本のスポーツはこれでいいのか?どうしたらいいのだ?」

2022年06月06日 16時10分08秒 | 定例てつがくカフェ記録
※冒頭のてつがくカフェのルールなどの説明部分は省いております。また内容を理解し易くするために整文を行っております。なお、発言者の特定を避けるため誰がどの発言をしたか明記しておりません。

「日本のスポーツはこれでいいのか?どうしたらいいのだ?」
 2018.6.16(土)16:00~18:00 参加者9名


 前回の最後に、次回のテーマということで「田舎と都会はどう違うのか」とか「どこからが田舎か?」「田舎と都会はどちらがいいか?」というテーマであるとか、「薩長はいまだに和解していないのか?」というテーマのどちらかになるかもと話していましたが、今回の予告をしなきゃいけない頃に、日大のアメリカンフットボール部の事件が相当流れていて、スポーツもいずれやろうとは思っていたので、ちょうどいい機会かなと思って今回スポーツの問題にさせていただきました。会津の問題や田舎の問題はいずれ扱いたいと思っておりますけれども、今日は「日本のスポーツはこれでいいのか?どうしたらいいのだ?」というテーマで問いを立ててみました。この問いの立て方がこれでいいのかどうか、日本に限った話なのかどうかとか、そこのあたりもいろいろとご議論いただければと思います。まずは、最近の流儀の『たねろぐ※』に、皆さんに先にいろいろと書いてもらったので、それを使いながら話に入っていければなというふうに思っています。「そもそもスポーツとは何か」とか「スポーツにおけるステークホルダーは誰なのか?」と書いてくれた方がいらっしゃいます。ステークホルダーは難しい言葉ですね。これを書いていただいた方、分かり易く言葉の説明をしてもらえますか?
※たねろぐ…議論の前にテーマについて参加者の思ったことを自由に記入してもらう一言メッセージ。議論したホワイトボードの記述とは別に壁に掲示される。

 ステークホルダーを簡単に言えば、「スポーツにかかわる人は誰か?」という話です。利益関係者とか経済用語で使いますがスポーツにかかわる人や企業というものはいろいろあるはずですが、そういう人たちの視点でものを考えると何が見えてくる視点は大事だと思います。それに関わっている人たちというのはいったい誰かを探らないと、それ自体考えることができないので、「ステークホルダーは誰か?」というのを考えてみたいと思いました。

 そもそもスポーツとは何か?これは相当根源的な問いですが…。

 皆さんが「スポーツ」と聞いて何を思うのか?ということに加えて、「スポーツとは一体何なのか?」ということを明らかにしていかないといけない。例えばサッカーのワールドカップは、本当にスポーツなのでしょうか。スポーツというものが一体単なる種類の話なのか、成り立ちの話なのかというところをもう少し深堀りしていく必要があると思ったのでそれを考えてみたいです。

 この「スポーツは誰のためのものか?」というのも、先ほどステークホルダーの話とも似ているかもしれません。

 そうですね。私自身、小中高とバスケットボールをやっていたのですが、自分の世代は『スラムダンク』という漫画が流行った時代でした。もう猫も杓子も皆でバスケ部に入るという勢いでした。自分もご多分に漏れずバスケットという競技に取り憑かれたというか。やってみて面白い、観ても面白いという形でハマっていきましたが、年齢が上がるにつれて、正確には指導者が変わるにつれて、どんどん勝利至上主義的になっていき、学校の名を高めるためとか、スポーツの楽しさ以外の部分に神経を注いでいるところが嫌になってしまいました。指導者が選手を駒のように扱いそれでもし怪我をしても見捨てて次といったように、選手のアフターケアもせず違う駒を配置するという感じを自分は受けました。いわゆる強豪校と呼ばれる高校でバスケをしていましたが、同級生が指導者やバスケ部の体質と合わなくて部員がどんどん辞めていき、最初は20人以上いましたが3年生になると2人しか残らなかった。自分は2年生で辞めましたが、その時に「自分はなんでこのスポーツやっているのかな?」とか「何のために?誰のために?」という想いがすごく強くなっていました。怪我をして日々の生活にも支障をきたすこともありました。先輩から理不尽に殴られるなど辛い思いもしました。日中は吐くまで走って、夜は足がつって起きるなんてことは日常茶飯事で、勉強の時間も削ってスポーツに取り組んできた。それでスポーツを辞めた後、「何をやっていたのだろう?」と今までのことを振り返った時、授業には全くついていけないし、部活の友達としかコミュニケーションを取っていなかったので、バスケ部以外の他のクラスメイトの名前と顔をほとんど知らない。そういった経験もあって、スポーツを辞めたプレイヤーとして「誰のために?何のために?」と悩んだ時期もあったので、この問いを皆さんと共有したいなと思いました。自分の中でもまだ言語化できないところがあるので、皆さんの意見を聞きながら、納得したいなという想いでメッセージに書かせていただきました。

 今回のテーマに見事にはまっているような、そういった経験をしてきているのかなと思います。その問いに行く前に、皆さんのメッセージを全部紹介していきます。今の話とも相当関わってくる「勝っても褒めない」「ラグビーみたいに国籍を考えない」とありますが、これはどういうことでしょうか?

 「勝ってもそんなに褒めない」というのは、私も学校の部活とか勝利至上主義みたいなところに疑問を感じていました。中学高校と私もバスケットをやっていたのですが、練習に来ない奴に「何でお前部活入ったの?」みたいな感じで、いじめるわけじゃないけど段々とその子も部活に来づらくなって、結局彼は部活を辞めてしまった。大学に行って私もバスケットを続けていたのですけど、そんなに本気でやっていたわけでもなく、ただ体育会系の部活は練習が厳しくてついていけないと感じて、浪人して運動していなかったこともあり、サークルに入って楽しくやっていましたがこういう形のスポーツというのもアリかなと思いました。やはり日本は勝利至上主義的なところが濃くて、国を背負って戦う場合は、ワールドカップとか見ていて楽しいですけど、すごいプレーや素敵なシーンを観ると驚きはしますが、「勝っても褒めない」ということを実践するのは中々難しいと感じました。

 「勝っても褒めない」というのは、つまり「勝っても褒めないようにするべきだ」と言っているのでしょうか?「勝ったら褒めるようにする」ほうがいいのではないでしょうか?

 勝利至上主義から脱するために、そんなにチヤホヤしない。むしろ、負けた方を取り上げるべきかと思います。難しいとは思いますが、抜け出すためにはやるべきかと思いました。もう一つ最近知りましたが、ラグビーはあまり国籍関係なく日本のチームとか、色々な国の人がいますが、あまり詳しくは分かりませんが、日本のリーグに何年か所属していると日本のチームには入れるとか、もしそういったラグビーみたいな形で、国籍など考えずにフランス行ってサッカーやりたいですとか、将来有望な選手を支援する取り組みや可能性があれば、そうしたやり方もありかなと思いました。

 これは二つともまさに「どうすればいいのだ?」という今後に向けての提言として書かれた気がします。それから「指導者の皆さん、そして私たち皆、『奇跡のレッスン』を観て。親になっている人も必見。コーチングが学べる場所ができるといいな」とありますが、『奇跡のレッスン』とは何ですか?

 NHKで放送しているスポーツドキュメンタリー番組です。世界のトップコーチが小学校とか中学校の部活動に1週間来て子どもたちに教えて、成長した姿を撮影するわけです。

 それを観てもらいたいという、その心は?

 全く日本の教え方と違いました。まず感想はこんなふうに教えてくれるなら私ソフトボールだって、サッカーだって、野球だってやってみたいと思いました。それはなぜかと言うと指導者の皆さん、コーチに来る人が言っているわけですけれども、ほぼ「楽しんでいこう」「楽しいから、好きだから君はこの部活に入ったわけでしょ?」というのが皆さん最初で。子どもたちは面白そうだなとか、楽しかったとかいう動機で入っているわけですよね。だけど、指導者は怒り飛ばして、𠮟り飛ばす。子どもたちは声が出ないぐらい。「帰れ!!」とかひどい暴言を吐くような日本の指導の現状ですが、トップコーチがそれを観て1週間の中頃ぐらいに「怒るのは無しだよ」と指導者を窘める。とある回で「勝つことも大事だけれども、いい試合をして、団体競技だったら自分が仲間とグループの中で判断できるようになる。選択肢を選べるように自分でなれる、自立性を持つと。さらにそれをお互いに応援し合う。そして笑うの」と言ったわけですけれども、確かにどうして好きなスポーツをやっているのに笑ってないのか、笑えないのだろうかと自分も考えました。以前、世話人の方が言っていた「怒っている人は困っている人だね」とおっしゃっていましたが、まさしくその通りだと思いました。先生方、指導者の方、親も含めてですが導く側の人間が決して子どもたちが憎いわけではないが、適切な対応ができてない。次々にストップモーションで止めることはできないから、状況がすぐ変化して動いているので、導く側の自分が対応しきれない。自分にとっても生徒にとっても良いと思える対応策を知らないが故に安易に怒って、子どもたちを怒鳴ってしまう。親もそうだと、自分が子育てしていた時を振り返ってみると怒っていたなと反省しました。ですので、皆さん企業では始まっているわけですが、コーチングのやり方とかを取り入れて、ティーチング=教えることと、コーチング=導くことの両方でコミュニケーションをしてお互いに人間として成長していけるというのが、大体トップコーチの考え方だったので、これはもう日本の人たち、指導者も親も私たちも学んだら楽なのだと思いまして、是非観て欲しいと思った次第です。

 ありがとうございます。僕もスポーツの問題というのは、今のところ現れているのは、基本的には指導の問題じゃないかなと思っています。だからメッセージに「安西先生以外、全員指導者失格」と書きました。安西先生というのは、先ほど話にあった『スラムダンク』という漫画に登場する太った体型の監督ですけれども、彼は非常に上手いこと選手の能力を引き出していく。スポーツコーチングを分かっていた上での、そういう指導者なのだと思ったわけです。それこそ勝利至上主義とか、プロになれば商業主義とか、そういうものに走ってしまうと、すぐに結果出さなければみたいなことになってしまう。けれども、結果を出すためにこそスポーツコーチングが非常に重要になってくるのだと思っているわけですが、ただ昔ながらの子どもを怒鳴りつければいいとか、命令すればいいとか、相も変わらず指導者の中にそういった思考の人間が未だにいるのが本当に驚いています。その『奇跡のレッスン』に出てくるようなコーチの方が、もう世界の主流だと思うのに、日本のスポーツ界では未だに「怒る」というのが残っているのが現状です。相変わらず体罰とか、ルールを無視してとにかく勝てばいいみたいなことが横行している。これは多分日本のスポーツの指導者の問題じゃないかというふうに今のところ思っています。もう一つはシステムとして、例えば相撲で言うと部屋という制度も上手くやればできるのかなと考えております。要するに親方次第というところがあるのかなと思うのですけれども、それが問題なのかと思っています。実はスポーツの指導の問題なのかという疑問からメッセージを書いてみました。書いてくださったものを今一通り皆さんに紹介してみましたので、何も書かれていない方、何か特に今日話し合ってみたいことがあればどうぞ。

 スポーツといえば、スポーツマンシップがことあるごとに出てきますがきちんと説明できない。今若い人にスポーツマンシップと聞くと、宣誓式の時のアレというのが大抵です。だから、いつもどういうふうなものか、何かあれば喧伝されるけどそれがどのくらい理解されているのか、その辺りがちょっと分からないです。

 スポーツマンシップというものが、非常に重要なキーワードになってくるのかなと思います。ほかに何か今回のテーマについて思ったこと、感じたこと、考えたこと、今日皆さんに聞いてみたいことがあったらどうぞ。

 ちょっとまだこのイベントのこととかよく理解できてなくて。今回はスポーツに関して何か話すということでよろしいのでしょうか?

 今日は「日本のスポーツとはこれでいいのか?どうすればいいのだ?」というテーマで、日本のアメフトの事件や伊調選手と栄監督の話もありましたので、今回はスポーツのことを考えられればいいかなという感じです。もうどなたからでも、いくつかテーマ出てきますので、どこからでもあるいは全然違うところからでもOKです。

 指導法のことで皆さんにお聞きしたいのですが、コーチングと書いてありましたが、あとティーチングという言葉も出たと思うのですが、私はコーチというのは何か達成する時に助言を与えてくれる人というか、個人個人を観てこれをできるようになりましょうとコーチをする人で、一方でティーチングというものは、技術的な面でこういう場面でこういうことができるようにしましょうという認識です。プロの世界だとコーチはいても、ティーチというのはいないと思うのですが、いろいろと競技によって細かく分かれておりますので詳しいことは存じておりませんが、私自身学生スポーツしか経験がないので監督が全部コーチングもティーチングもケアも色々とやっている姿を見ていました。もしかしたら監督が怒ったりすることは、自分ができることやることが分からなくなって怒ってしまうのかなと今は思いますが、もしかしたらコーチングとかティーチングとか細分化した上で、自分の職務というのが分かっていたら怒ることは無いのではないかと思ったわけです。

 日本の部活の顧問はコーチも兼ねているから、少しそのスポーツをやったことがあるから顧問になったという先生もいる。顧問は顧問という職域というか任務があると思う。それとは別にコーチというものがあるのが普通じゃないかなと思うのですが、日本の場合そういう感覚がないのかなというのは、私の中学校、高校時代も、娘の中学校、高校時代も同じなので、そこがやはり日本はずっと変わってきていないこともあって、なかなか気づけないのだと思います。本当に私の意見に世話人の方が言ったように、世界は日本のやり方のもっともっと先を言っていることに気づけていない。だからコーチになる人だけじゃなくて、親を経験して思ったのですけれども、親になって子どもを養育する上で、コーチングを知っていたら、もっと違う育て方できたなとか考えてしまう。あとは、職場で私より下の新入社員が来た時に、コーチングを知っていたらこんなふうにならなかったのにとか後悔も結構あります。私はコーチングについては詳しくは知りませんが、今まで私たちが学校および社会で学べる場がないような、なかったというようなことを海外では、もう当たり前になされているということを考えると、学校とか大学など、地域もそうだけどコーチングを誰もが学んでいれば、コミュニケーションのやり方とか、相手への問いかけの仕方とか、学べる場所があれば皆が変われると思ったりするわけです。どんな時でも、良いとか悪いとかではなく、教えなくてはいけない。あるいは、皆が解決していくとか、協力していかなければいけないという場は、家庭でも社会でもスポーツの場でもどこでもあるので、コーチングとかNLP※ですか?それらを使って、お互いが育ちあえるようなコミュニケーションの仕方に気をつけようと、そういうものを学べる社会に、社会構造になってほしいなというふうに思いますね。
※Neuro Linguistic Programing(神経言語プログラミング)の略称。別名「脳と心の取扱説明書」とも呼ばれる最新の心理学。

 今の話、スポーツから大分離れている気がしないでもないのと、それから先ほどの質問で要するに「特にコーチと何かを兼ねていいのか?」みたいな分ければいいのではという話をされたかというふうに思いました。多分一つは学校の部活の例を出されたのですけれども、学校ごとに部活があって、学校ごとに対抗戦をしなければいけないとか、そうなれば当然指導者が全種目揃うわけはないよなとは思います。これだけ少子化が進まるとそもそも学校に部活が全種目揃っていないというか、どんどん減らされているらしいですけど。野球部とサッカー部しかないから皆そこに入らざるを得ないみたいな、そんなふうになっているみたいですが、そもそも部活を学校でやらなければならないのとか、スポーツを国対抗や国家単位でやらなければいけないのか?みたいな話にも関わってくるのかもしれません。スポーツというものをどういうところがやらなければいけないのか、学校でやるとなると、やはり顧問とコーチと監督とみたいなことというのが、そんなに全員、いろいろ揃えられないから、一人の先生が全部やらなければいけないのか?でも、場合によっては素人の先生がただの顧問で、要するに部活動の運営をやっているだけで、中身は誰かどこから呼んできて、新しい指導者を呼んできてやってもらうなどということもあるかもしれない。その方が当然いいだろうなと思いながら、でもなかなか各学校でちゃんと指導者を揃えるのは難しいことなのかなとも思う。そう言ったときに、そもそもこの少子化の時代に学校単位でスポーツをやらなければいけないのかと疑問に思う。高校野球だけやれればいいのではないかと僕個人は思っております。それでもやはり学校にとってそれこそ特に私立になると学校のスポーツがある種宣伝になるから、それはある種の商業主義的な問題と関わっていますので、多分日大もそうなのでしょうけれども、だから日大のトップも今、理事長も相撲部の人であの監督も日大の中でも非常に上の方に行っていてというのは、やはりスポーツというものが、そもそも学校運営にとってどれだけ重要な意味を持っているのかと疑問に思っています。でも、逆に今回の例のようなことが起こってしまえばものすごい打撃になると思うのですが、今はまだ結果が出ていないので分かりませんが、日大の受験者数とか。僕が受験生だったら受けてみようと思っただろうなとか、今受かりやすいとか考えてしまう。

 大学の先生もいるので聞いてみたいのですが、日大のニュースで国から大学にお金が行っているとの話を聞いて、それを獲得するのにある程度成績があれば多額の援助を受けられるというのがあるのですか?

 成績というのはスポーツですか?例えば私の大学は非常に良い陸上のトラックがありまして、これは最先端の技術で作られていて、億単位のお金がかかって作られていて。それはやはり大学の陸上部がある種成功していたから。要するに普通の予算とは別に、それを作るという話が降りてきたというのがありました。そういう意味ではあると思うのですけれども、普通の運営交付金でスポーツの成績云々ではないと思っています。ただ特別何かあれば、それに対して特別に補強のための何かを作るとかいうのは、ないわけではないですね。逆に言うと、陸上部以外にそういったお金の話が来たことは無いので。だから陸上部があれだけ成果をあげたからこその今の立派なトラックがあるわけです。

 スポーツは遊びじゃないのですか?遊びとは違うのでしょうか?

 そこはどうでしょうか?本来的にはスポーツという言葉の語源はディスポート(disport)といって、「気晴らし」という意味です。気晴らしや娯楽という意味の言葉ですから、本来は遊びだったのでしょうが、ただ多分個人の稼ぎで言うと今スポーツ選手が一番稼いでいるといってもいい。だから大統領とか首相などよりよっぽど稼いでいるという意味では遊びではなく、特にプロスポーツの場合たかだか遊びとは言え、億単位のお金が動くようなものになっているのが現状です。

 ちょっと遅れてきたのでまだ飲み込めないのですけれども、「誰のために?」とホワイトボードに書いてあるのはどういうことなのかとお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか。

 まず「スポーツは誰のためのものなのか?」というのは、それぞれ選手なのか、指導者なのか、あるいは親とかそういったことを考えたり、ステークホルダーというのは、ちょっと難しい言葉ですけれども、スポーツに関わる利害関係者というのを考えていった場合に、もちろんやっている人達もいるだろうし、それから見てお金を払って観る人達もいるかもしれない。大学のスポーツは別にお金を払って観るわけでもないけれども、ただそれを観て入学してくる人もいるだろうし、そういったいろいろなことがあるますよね。それらを含めて「スポーツは誰のためのものなのか?」という、多分いろいろな観点が考えられるのではないかというふうに思います。

 あと例えばスポーツでもプロスポーツもあり、アマもありで私は全然スポーツの世界を知らないので、スポーツと言われると今度の五輪オリンピックのイメージが強いわけですが、そうなると誰のためといったら国民のためなのかなと思います。今スケートの羽生選手の人気はすごいので、そういったものを考えるとスポーツの延長なのか、スポーツはそれだけのすごいものなのか、その辺が私も「誰のため」と言われたら、国民のためのスポーツというのはありかなといった感じです。

 たぶんオリンピックというのが、まさにそういう競技大会なわけです。「国家のために日の丸を背負って」という言葉はよく言いますが、ワールドカップも然り、要するに国という単位でやるからオリンピックはよく言う国家のために、国民のためにというふうに運営されるのかなと思うわけです。ただ、それはそれで一番は特にベルリンオリンピック、つまりナチスドイツがオリンピックを国威発揚のために非常に意図的に使って、多分次の東京オリンピックもそうだろうなと思っているわけです。オリンピックは国民のために、国家のためなのだけれども、それが良いことかどうかというのは、もちろん確かに羽生選手の活躍を見て、日本国民狂喜しているけれども、実際にスポーツマンとしての羽生結弦というのを見た時には、別に日本人だからというのは関係なく、多分フィギアスケートのファンの人はみんな尊敬していたりとか、憧れたりとかするのかもしれない。そこは別に国家国民と連動しているかどうかというのは、いろいろ考えようかと思います。

 オリンピック憲章というのは、オリンピックとはこういうものだというものの中には、国を前面に出してはいけないというようなことが書いてあるわけです。そこからどんどん離れてきて、国旗を揚げたり、君が代とかの矛盾もあり、それをうまく商業的に利用している人もいるし、アーティストが上手に使われるのも、その流れの一つかもしれない。オリンピックにしても、他のスポーツとかにしても、上手に使われている。あるいは、上手に使っている人もいるのかなというふうに思ったりもします。

 私はオリンピックはあまり興味がありません。実は子どもの頃に、東京オリンピックがすごいもう開催前から三波春夫が毎日のように歌うわけです。あれを見ようと興行して、全国聖火が回ってそういうこともあってかなり興行していたわけですが、東京オリンピックが終わってそのあとのオリンピックの声を聞いても、ほとんど何も感じない。そこで途絶えてしまった。その当時日本はまだ戦後で、一流国家にはなっていなかった。スポーツもアジア大会何位だとか、ラジオで流れてくると「そんなものか」と関心を持って、その挙句の東京オリンピックということで、かなり国民の関心が高かったと思うのですが、いざその東京オリンピックを過ぎて、数々のこれまでのオリンピックが各地各国で開かれてはいるけれども、それほど感動がまるでないわけです。だから今、これから東京でオリンピックやるといっても、ほとんどまず人よりも関心が低い。勝手にやるなといった感じです。何故そんなにも宣伝をテレビでするのか疑問に思います。オリンピックの先ほど言われたステークホルダーの連中ばっかりだから、いろいろな宣伝をしていますが、そう言うと私は非国民と言われるかもしれません。

 この中で前回の東京オリンピックをそんなに覚えているのは、自分でも三歳くらいですからほとんど記憶にない。会場で迷子になったらしいのですが、それぐらいのエピソードしかない。むしろ札幌オリンピックで、日の丸のジャンプなどすぐに映画になりましたのですごく自分の中では覚えている。福島に来た時に長野オリンピックがありましたが、あの時も若干見ましたが、船木とか原田とかの選手しか記憶にないです。

 私もオリンピックにあまり興味がないのですけれども、今回の東京オリンピックの誘致にあたって、もう完全にお金が流れているというのが、はっきりしているようですけれどマスコミはそういった情報は出さない。そうすると結局、開催すると儲かる人がいるわけです。儲かるところはどこかというと、広告業界、建設業界、その他それに関するいろいろなところがあるのでしょうけれども、そういうのがはっきり後ろでは分かっている。オリンピックに対してはそのような印象で、選手一人ひとりは純粋にプロとかアマとかありますが、競技を精一杯楽しんでもらえればと思うのですが、それを上手に利用している人はいるだろうなと感じました。また「スポーツとは?」ということが出ましたが、この場合遊びだと私は思うわけです。遊びも同じ遊びを何回も毎回やっていると、磨かれてすごく上手になったりする。鬼ごっこでも何でも。ではルールを作ってやろうとかなったりして、それをそのうち応援するからプロとしてやらないかとか、私たちはアマチュアで楽しめた方がいいなという人はアマチュアになったかもしれない。そのようなことを考えると、本来スポーツはスポーツをするその人が楽しいと、技を磨いてさらに面白くなる。というような、そういう気分の高まりとか自分で選べる、自分を表現できる一つの場だと思うわけです。絵の上手い人は絵で表現する、歌が上手い人は音楽であったりするのが、そういった純粋に人間としての喜びや楽しさを表現するものだと思うわけですけれども、それを忘れてしまうとお金とか権力とか欲とか、商業や国に利用されてしまうというのがあるのかなと思います。そのとばっちりが実際にプレーしている選手や生徒に来ている気がします。

 この間の平昌オリンピックのジャンプはひどかった。なぜこんな深夜にやっているのかと思った。寒くて死んでしまうだろうと考えないのか、どうしても時間帯は欧米の放映時間に合わせてやっているから都合をそちらに合わせる。つまり選手のことなんかまったく何も考えていない。今度の東京オリンピックもまさに、そういった放映権の問題と絡んでいて、それによって選手のことを忘れてしまっている。本来スポーツというのは、実際に競技をする人たちということが忘れられているなと感じるところがあります。

 先ほど放映権について時間帯のお話がありましたが、私は時期についても疑問に思っています。今度の東京オリンピックの開催時期が7月から8月にかけて行われますが、真夏の東京でフルマラソンを走るなど選手のことを考えていない。前回の東京オリンピックの時は10月に行っていたのに、なぜ2020年の東京オリンピックは真夏に開くのかが理解できない。炎天下で走ることがいかに危険か分かっていない。もう一つスポーツにおける上下関係の話をしたいと思いますが、先輩後輩というのは監督やコーチとは別の問題が存在しています。フィールドやコートの中では実力が評価されるべきなのに年功序列が優先されていることがある。自分の体験談ですが1年生の時シュートを打って入れた際、上級生から「調子に乗るな」とか「あれはお前が打つ場面ではなかった」など言われたことがありました。シュートを外したら何か言われても仕方ないなと思うのですが、シュートを決めてグチグチ言われるのは納得できなかったです。たかだか三ヶ月や半年しか違わない年の連中にでかい顔されるわけですが、日体大の出身の方から聞いたのは「一年奴隷、二年平民、三年天皇、四年神様」という話で、一年生が四年生に声を掛けるなんてとんでもない行為で四年生の神様の言うことは絶対なわけです。けれど実力のない上級生が、有望な下級生を潰したり、怪我させたり、いじめたりして辞めさせるなどは当たり前で、事件になったりニュースになるのはその中のほんの一部で氷山の一角に過ぎない。自分もトイレに連れていかれて先輩から腹を殴られたり、退部してから部活の先輩に校内で会った際に挨拶したら唾吐きかけられたり、学校外で部活のOBと出会ったときに公衆の面前で足の先を両方思いきり踏んづけられながら顔近づけられ「何辞めてんだよ!」と問い詰められたりしました。自分は暴力とか怪我などが理由で途中で部活を辞めたので、一番上の神様になることはなかったわけですが、スポーツの上下関係は非常に根深い問題があるなと昔から感じていました。どうしてそういうことが起こるのか考えると、試合に出れない鬱憤なのか、実力ある下級生の活躍が妬ましいからなのか、理由は人それぞれいろいろあると思います。あと試合に出る/出ないは選手にとって重要なステータスで、レギュラーになると部室の掃除免除やボールを使った練習ができるとか特典が与えられ、反対に控えになると監督に「外走っておけ」と言われて指導すらされず、見てももらえない。ただ控えだった選手がレギュラーになると急に態度がでかくなったり、天狗になったり練習サボったり、上手ければいいという思考になっていく姿も見てきました。選手自身もベンチとスタメンでは扱いが違うことを理解しているので、同じ学年でもレギュラーが控えの選手をパシらせたり虐めたり、部内の権力闘争というか先輩同士の派閥もあったりで本当に諸々あって闇が深い。こういったことが当たり前の環境から抜け出した時に「スポーツはこれでいいのか?」と思うようになりました。

 今の話を聞いていたら、他の分野で例えば、医療とか大学の教授とかすごくあるのかなというふうに思うのですが、学長とか教授は神様で研修医はペーペーみたいなそういうのはスポーツの話だけではなく、その構造自体いろいろな業界にあると思いますけども、いかがですか。

 もちろん、それはあるのかなと思います。しかし、今の大学はそうでもない。医学部とか理系は、割と上下関係とかあったりする。偉い人の下で研究するみたいな、チームでやっているからというのもありますが、一方で文系はもう完全に一人です。みんな一匹狼なので上下関係とかそういったものは全然ない。だから、よく来てくれる同じ大学の方も普段から自分とタメ口なわけです。全然こちらが年は上だけれども同じ大学教員としてもうタメ口ですから、自分の周りはそんな感じです。

 気になったことは最初は何というか日大の問題が出た時に、日本の組織は結構無茶なことを言われたり、「カラスは白い」と言わなければいけなかったりする。日大の後も相撲部屋のことも日本の組織の問題だと思っていたのですけど、今の方のお話を聞いて体育会系みたいなスポーツだけにある問題は確かにあるなと思いました。日本の組織はスポーツクラブというのも体育会系だけが持っている悪癖みたいなものがあるのではないかと。それがなぜ出来てしまったのか。体を使うからとか、相撲部屋だったら格闘技だからみたいな感じがあると思うのですが、なるたけ日本のスポーツ組織だけが持っている悪いところが、もちろんあってはいけないことだと思うのですが、なぜかそれが許されている。いつまで続いているのかなというのが、すごく疑問に思ったことというか、あってはいけないと怒りのようなものを覚えました。

 話を聞いていたら、多分みんな素直なのかなと思います。自分は中学の時、テニスがやりたくてテニス部に入ったのですが、顧問の女性の先生がすごいヒステリーを出す方で、すぐ怒鳴るし、つまらないなと思って1ヶ月で辞めてしまった。でも他の子はテニスが上手くなりたいという一心で、部活を辞めない。なぜ怒られたり、怒鳴られたりしているのに、辞めないのかなと。辞めるという選択肢をまず取らない。あと自分が親になって二人の息子が野球部に入った時に、50~60人くらいの部員数になって。そうすると、先生は新人戦もあるし、試合に勝つために上手い子を選りすぐって試合に出す。勝たせるために、そっちに集中してしまう。そうなると、先ほど言われたように「余っている奴は走っておけ」となる。それであるお母さんに相談されて、自分はそういった野球部の事情を全然知らなかったので、学校に一緒に抗議というか提案をして。知り合いのスポーツ少年団の顧問をやっているおじいちゃんがコーチを頼もうと、教頭先生にお話ししたら今年は無理だが、来年にという話になり。そして人数も多いので、先生だけでなく外部の方も野球部を見てくれるようになった。だから、多くの方がそういった提案というか、抗議する人が少ない。本当に素直に従っているというか、嫌だったら声をあげてもいいよと。でも、何かおかしいと思っても声をあげないで。先輩にしてもコーチにしても校長にしても言えないというか、良い悪いではないけれども言うべきだと思う。他の国だと個々の国が嫌なら別の国に移動できる。だけど、日本は島国だから逃げられない。ある程度手段がないと、海を越えて大陸まで渡るというか、そのDNAが昔からそういうものがあったのではないかと思う。幸い自分は昔からおかしいと思ったことは言えるタイプだったので、そう思うのかもしれません。もちろん、自分も違うなと思っても言えない時もあるけれども、言ってもいいという下地作りが大事かなと思いました。あと大学によっては、教授だからといって先生と呼ばないでとか、さん付けしたりするところもあると聞くし、海外だと当たり前なわけです。その辺の自分の気持ちの出し方というか、上下関係とか関係なく、自分の意見を言う練習がされていないというのが、まだ小学校でも中学でも高校でも見える。一方的なティーチングという、テクニカルに教えて質問も受け付けずに常に一方的に教えるやり方。今でもそれがずっと習慣化されて、そういう形で来てしまった。『奇跡のレッスン』で、コーチが普通の授業を見せて欲しいと言って、授業風景を見た際に「どうして生徒は黙っているのか?」とか「何で誰も何も言わないのか?」と驚いていて、こちらがその反応に驚きました。そういうことを聞くと、教育が大きな力をもっているのかなと思ったりします。日大のアメフト部のことでも皆がおかしいと思ったわけですが、そういう時におかしいと言える人間に自分も含めてなっていきたいなと思います。

 今の話はすごく身に染みて分かるのですが、もし言えるとしてもタイミングが大事なのかなと思いました。例えば先ほどの話で、神様とかそういう構図になっていて、自分が一番下っ端でおかしいと感じても「では、言えますか?」と言われたら多分言えない。先ほどの方が言われたように裏に連れていかれてボコボコにされて終わる。だから分かっていても難しいと思う。ということは、彼は途中で辞めてしまったかもしれないが、本当に言えば自分が神様になるまで行って構造を変える。結局そういうことでもしないと難しいと思う。例えばスポーツでなくても、いろいろな場面で社会や企業だってそうだと思う。上司が言ったことで下っ端が騒いだって何も変わりはしない。でもおかしいとは思っている。それは自分が上の立場になった時に変える。それはもうしょうがない。そうしなければ潰されるだけで、いくら思っていても厳しいのではないかと思います。

 その意見に100%賛同しますが、組織で悪い前例があったから自分が偉くなった時に変えるのが望ましいと思いますが、きっと時間もかかる。それよりももっとあり得るというか現実的なのが、もし暴力を振るわれたら、暴力をふるった方が現実世界では負けです。もう傷害罪になるのでそこで終わりになります。もし今回のアメフトみたいな違法行為を命令されてしまったら、それは命令した方が悪いと思います。それを訴えれば犯罪なので、罪を犯した方が負けになる。普通社会で殴られたりしたら、その時点で終わりですがスポーツ界では、それが通用しないというのが一番大きな問題になっている。その他の世界では、法の秩序があって法律が上なのにスポーツだけが先輩の方が神、法律よりも監督の言うことが絶対になってしまっている。なぜそうなってしまうのかと常々疑問に思っています。

 それは、いわゆる軍隊の組織がまだ残っているからだと思います。一つ位が上がれば、もう下は虫けらと同じで。昔の警察だと一つ階級が上なら絶対服従。本当に見事なくらい社会がそういう仕組みになっているわけです。だから、やりやすいということで残っている。あとスポーツクラブについて、ひと頃流行った同好会というのがありましたけど、あれは縛りから抜けたいがために、同好会という形になったのかなと思うのですが、それはいわゆるスポーツクラブというものとは違うのか、その辺についてお聞きしたいと思います。

 自分は大学でスポーツ系の同好会に入ったのですが、同好会といっても皆意識が違います。それぞれ同好会に所属している理由もバラバラですので、自分がいたサークルはいろいろと行事や飲み会などもありました。春は新入生歓迎会にカラオケ、夏はバーベキューや合宿などやっていましたが、練習はあまり来ないけどそういったイベントごとには必ず出席してくれて場を盛り上げたり企画したりする人もいれば、そういった馴れ合いというか交流には無関心だけど、「上手くなりたい」「勝ちたい」という意識が強くて、練習には必ず出席、合宿とか大学の対抗戦とかになると本気という人もいました。意識の差といいますか、同じ同好会の所属でも非常に多岐に渡っていて、スポーツの捉え方なども全然違っているなと感じました。学年も関係しているのかもしれませんが、大学に現役で入った人、浪人した人、大学の部活を辞めて途中で同好会に来た人など、特に自分がいた時はまとまりもなく、同好会に所属しているメンバー全員がそろった時など一度もなかった。同じ学年でも4年生は神様だからと後輩に威張る人もいれば、別に年は関係ないからタメ口でいいよ、楽しくやろうという人もいて。今思えば成熟してない20歳前後の若者の集まりだから仕方ないと言えるのですが、振り返って当時は大変だったなと思います。

 先ほどの神様とか奴隷の話で、神様になった時に変えればいいと仰っていましたが、正論は正論だと思いますが、何か違うような気もしています。そこでしか行動できないのであれば、言うことによって変える必要があると思うのですが、上に行ってから変えるというのは、上に行くまで耐えなければいけない。うちの甥っ子は、高校からバレーボールを始めて全国大会まで行きましたが、その部活には少なかったようですが上下関係に厳しいメンバーもいて、甥っ子が三年生になった時、チームとして勝つために上だ、下だと言っていては、チームとしてまとまらないから止めようといった意識改革を上の立場になってから変えることを実践したわけです。ただ正論なのですが、ちょっと腑に落ちないところがあって、本当に変えたいのだったら表現しないとやはり周りに伝わらないというのがあるのかなと思いました。

 基本的に残る人がそのシステムに乗っかる人だから、神様になりたくてなった人だから、やはり神様として振舞うでしょう。例えば元巨人の桑田はとにかくずっと体罰などが嫌で止めてやりたかった。それで自分が上になった時には、後輩にそういったことはさせないようにした、ということを言っていました。けれど、だから続くかどうかというのはまた別の話であって、その代限りかもしれないし伝統としてずっと続くかもしれない。

 やはり、そういった状況でなければ変えられないのが、本当に悲しいことだと思います。では、何か現状のもので変えられる方法があれば、もちろん一番いいと思うのですけれども、それが今のところ中々見つからない。

 日大の件も教職員組合が立ち上がりましたからね。それで立ち上がるべき人の中の一部の方が、声明を出したということは非常に勇気がいることだと思うのですけれども、それが出来たという前例が出来たから、これからの人がやりやすいと思います。それから、学生と保護者の方たちも声明文を発表してくれて、本当にお手本のようなものを出してくれたので、スポーツをやっている人たち、やっていない人たち、少なくとも見聞きしているような人たちも嬉しかったと思います。本当にやっていくつもりだというものを見せてくれて、かつ怪我をさせられた学生のお父さんも彼を恨んだり憎んだりせずに、彼の処罰の減刑も求めているという非常に理想に近い形で、本当に嬉しい形で表明してくれたので、アメフト部の件はショックでしたが、とてもいい能力が引き出されて前例として良いモデルとして出されるので、そういった意味ではこういうふうにこれからなっていくのだろうなという気がしました。

 今の大学もパワハラ研修、セクハラ研修みたいなものは非常に繰り返しさせられるようになっています。多分スポーツ界もそういうことが、もう必要になってくるだろうと思っているわけですが、こういう事件があれば余計にそういったことがあるわけです。だから相撲だけがとにかく変わらないと思うけれども、特に学校でやるスポーツというのが、今のままではいけないわけで、課外活動とはいえ教育という場でやっているわけで、あれでは絶対にまずい。今後はスポーツの部活動の指導者を集めて研修みたいなものが必要になってくると思う。やはり小学校から大学までの部活は、特にいろいろなものの温床だったわけで、まさにスポーツの中で実力の問題と上下関係の問題というものは指揮系統という意味で残るだろうし、監督の指示は当然従っていかなければいけないとは思うけれど、先輩後輩の上下関係というのはやはり学校スポーツだから余計にそれが起きるのかなという気がしています。特に学校には学年がある。本来スポーツ的に言うと、小さい三年生とガタイの良い一年生とでは、ガタイの良い一年生の方が有利ということが当然あり得るわけだけれど、やはり年功序列でレギュラーになる。先輩からすると上級生だからレギュラーだというのがあると、桑田みたいな選手が入ってくるとボコボコにされるみたいなことがあるのかなと思います。そこは学校だからこそ起こりやすいわけで、指導者がきちんと分かったうえで、全部コントロールできないといけない。だけどそういった指導者はいない。部活の指導者はとにかく学校のスポーツでうまくやってきて、実は教員になりたいというのに結構そういうのがいるのだけれども、教員になって部活の指導がしたいという気持ちの人がすごく多い。それはもう大学にもたくさん通ってきていて、この子ら大丈夫かなと思いながら、そういう学生には正直教員になって欲しくないと思っています。部活動で成功体験がある人たちというのはそうで、今度は自分も学校に行って指導がしたいと思っているけれども、それは違うわけで赴任する学校に行ってみると、そこにはすでに指導者がいるから自分は別の部に回されるということが、ごく普通にあるわけです。学校におけるスポーツ指導というものが、もっと考えなければいけないのかなという気がしています。

 軍隊主義がまだ残っているという話で、私もそれはあるだろうなと思っています。ある人が私の年代60代よりも上の人がいなくなったら、大分意識が変わるかもという話をされていましたが、確かにそれはあるかもしれない。軍隊の上下関係、厳しい規律みたいなものが、ある時期に定着して、それを受けた人たちが指導者や教える立場になっていたりして、その人たちはそれで良しと思ったかどうかは分からないにしても、それを受けて身に染みているというわけです。そうすると、他の選択肢を知らないからこうやったらいいとか、ああやったらいいとかを知らないから、手が出てしまう。上の人たちがさっさと辞めて、あるいはチェンジしてくれて本当にコーチングとか、海外の良い指導方とか教え方をどんどん取り入れてもらって、少しずつで時間がかかっても変えていけるように本当に国際レベルというか教育レベルというか、是非その辺りも変わってほしいと思います。

 私も軍隊の話が出た時に、内容一つとってもそうだし、人間性の方で見ていくとDNAというか、日本人のDNAはどこにあるかというと武家だと思う。侍の時代まで考えられるのかなと思いました。ルーツがどんどん刷り込まれていってる。でも今の若い人の中には、そういったDNAみたいなのがないかといったら、そうではないと思う。だってもうすでに味わっているものだから、年齢とか世代とかでは様な気がしていて女性の世界のパワハラもすごいと思いますが、それも大奥から来ているのかなと思いました。だから軍隊の話が出た時、歴史的なルーツも引っ張っているのではないかと思った次第です。若い子だってお局さんにシメられていて、だけどその人たちが60歳以上とかいうと必ずしもそうではない。40代だってすごくいじめるし、10代のいじめもある。

 そのことで言うと、私が60代以上と言ったのは、年代が下がってDNAが残っているけれども、薄まっているのではないかと思いました。その残っているのはどうやってそれを克服していくかというのが、若い人たちの課題だと思うわけです。

 国民性とか歴史的なルーツというお話しが出てきたので。「スポーツというものは何か?」と私が聞きたかったと最初に発言しましたが、ここの話は一応「遊びが原点ではないか?」というスタートで来ていると思うのですが、スポーツはそれだけではなくて例えば、今話題になっているワールドカップで行われているサッカーの歴史的なルーツを考えてみると、もともとは宗教的な儀式であるモブフットボールと呼ばれるものが原型だという説があります。そのモブフットボールとは何かというと、Aの町とBの町に住んでいる人たちが、一つのボールをある特定の二本の柱みたいなものをゴールに設定して、そこにボールやくぐらせれば勝ちという単純なルールに基づいて、参加者も無制限で、ルールもほぼ無いという状態で行われていた。そういったところから始まっているという説があるらしいです。それを考えるとやはり遊び心は確かになくはないですが、それだけではなくAとBという町の対抗意識である闘争であったり、体を使った極限に激しい身体活動だというところの、三つの要素というものがどうしても考えられる。遊びだけから見たら、勝利至上主義という発想は出てこないわけですが、そういうのがあるということは、やはり対抗意識であると思われますし、体を使って競い合うところにも根源があるから、恐らく出てくるものだと。これは西洋の話ですが、日本の場合武家社会ではないですが、そもそもスポーツの概念がなくて体を鍛える、心身の鍛錬というのがある。心のメンタリティーというか精神性を養うという意味で、スポーツではないけれども鍛錬という形でずっと生成されてきたものが、明治になって西洋化の流れを受けて、イギリスのカレッジスクールで行われるような近代的なスポーツの概念に触れた時に、教育に活かせるのではと持ち込まれたわけです。なので、軍隊ではないですが、一部のエリート層が心身の鍛錬という意味で「体育」というものが持ち出されてきた流れがある。それを上手く、都合の良いところだけを抜き出して、育てられてきたのが軍隊に繋がっていくのでしょう。そうしたことから「日本のスポーツとは一体何か」ということが見えてくる。今のスポーツがやっていることを考えていく必要がある気がします。今出てきたスポーツ運営についての問題で言えば、まずはその方がすぐに結果が出るからです。つまり従来のティーチをするような指導法で、結果が出ているところに魅力を感じている人たちがいる以上、それが廃れることはない。部分的な話で全部が全部それでいいとは思わないけど、何かしら結果が出てくる仕組みが、従来の指導法の中にある以上、それだけが全て悪いわけではない。その中に結果が出るプロセスがあり、変な部分が多くありすぎるから問題だというところの意識は当然出てきて、それは改善すべきだと思います。あとは、プロアマの話で特に学校の部活は閉鎖的な組織だから、これは組織体の問題で構造上世の中のどこにでもあるという話が出ましたが、ではなぜ普通の民間企業においてそれが起きにくいのかというと外部の目が光っているからだと思います。外部の目に触れやすい状況で活動が行われているから、中だけの論理では上手くいかない。今回日大の問題が取り上げられたのも外の目に触れたから。YouTubeに動画が投稿される、そしてマスコミに取り上げられる形になったわけで、周りの関心を引き込めたということは、外部の目が入ったから問題が浮き彫りになっただけで。もし、外部の目に触れられなければ、それで終わっていたはずで、つまりどのような形であれ透明性をどう担保していくかというところが大事になってくるのかなと思います。

 組織の透明性を確保するためにメディアが必要という話が出ましたが、それに関連して言うとスポーツメディアの成熟度が日本はまだまだ低いというか、個人的にリポーターに対して不満に感じているところがあります。例えばスポーツ選手に記者がしょうもない質問をする。「それを聞いてどうするの?」と逆に問いただしたいぐらいの質問を平気な様子で記者がするわけです。「この活躍を誰に伝えたいですか?」とか心底どうでもいい質問をして、活躍の裏側にある感動話などを引き出させたいのが見え見えというか、マスコミはいつまでこんな質問するのかと頭を抱えてしまう。質問する側が競技に対して不勉強なのか選手に敬意を持っていないのか、くだらない質問をする理由は分からないが、とにかくリポーターの失礼な言動が目立ちます。「あなたにとって野球とは?」みたいな抽象的なことをプロの選手に聞いてどうするのかと思えば、この間は「今、羽生結弦選手が活躍していますがどう思いますか?」と大谷翔平選手に質問していた。別の競技の選手にそのような質問をして、一体どんな回答をしてもらいたかったのか全く理解できない。何の役にも立たない馬鹿げた質問というか、質問自体良く分からないというか、質問の意図が見えないというかとにかく日本のスポーツメディアに落胆してしまった。逆に自分で答えが分かるようなことを聞くなよと思ってしまうこともある。他にも質問の前に長い演説をして質問のところに中々いかないというか、質問のふりをした知識披露の場というか独演会みたいに感じることもある。スポーツに限らず、答える価値の無い質問をするメディアに対していかがなものかといった思いです。それがスポーツの場であるから余計目立つというか、一体どんな答えを期待して聞いたのか分からない質問がある度に日本のスポーツメディアはレベル低いなと思ってしまう。

 観客が少ないから、活躍したそれだけでは売れないのかなと思います。

 先ほどのメディアのところだと、はっきり言って女性でスポーツ新聞を読んでいる人は私の周りでは見たことがない。だからメディア関係で言うと大体スポーツ新聞なのかなとイメージしてしまうが、先ほどの方がメディアの成熟度について仰っていましたが、選手一人ひとりのすごい情報とか個性などが書いてあれば女性だって読むと思います。だけど今の時点で、スポーツ新聞と聞いただけでは、読む気にもならない。そういうイメージというか、スポーツ系の情報誌とか雑誌とか知らないですけど、メジャーではないのかなと思いました。

 先ほどの「スポーツとは?」という話が出ましたが、私は最初遊びというものしか思いつかなかったが聞いていると、競争性や対抗意識というので思い出しました。日本の相撲の元々は分かりませんが、江戸時代とかその前に、時の権力者が地域で戦わせて、いわゆる余興ですけど。余興で戦わせて勝ったら褒められるわけです。勝てばいい気分になるし、褒美も出る。そうすると、競争性とか対抗意識が当然出てくる。その地域でも強い人やそれを育てた人を偉い人が上手く使ったのかなと思います。上に立つ人がそれを身に付けて、競争性とか対抗意識を上手に使いながら、選手には勝った高揚感を育てた人には優越感を与えて、それが一番と思ってしまうという一つの意識があるのかなと。それだけではなく利害関係や地位や名誉とかがくっついてくる。そういうものは誰の中にもあって、それが突出した際に事件とか起きる。このてつがくカフェの意義のところで、誰もが平等にいろいろな意見が言えてとあるが、既にあるように疑問を持っていこうよという考えが、実はあると思うのですが。一方で人間は簡単に破ってしまうこともある。てつがくカフェは小さいコミュニティかもしれないが、解決策の一つの場になっているのかなと思いました。何でも疑問を持つことで、例えば先輩から上級生は神だと聞かされた時、そのまま受け入れるのではなくクエスチョンマークを持ってみる。それって本当にそうなのかとか、どういうことなのかと疑ってみる。日大のアメフト部で言えば監督に言われたこと、コーチに言われたことを素直にストンと入れるのではなく、まずクエスチョンマークを持つことが重要だと思います。何のために?本当にそれでいいのか?など問いかけるというレッスンを、ここではある程度できるわけですから、こういった場があるといろいろな見方ができるのでそういう場を経験していると、変えるきっかけの一つになるのかなと思いました。

 僕が話を聞いていて思ったのは、多分一昔前であれば上下関係は絶対服従で、上の言うことに従うのが、勝って結果を出すための最短距離というか、一番簡単な方法だったと思いました。それがずっと日本だけではなくスポーツというのはどこでもそういうふうにやってきたのだと思うわけですが、そこからどんどんレベルが上がっていった時に、そこから先を目指すとなると最初に出てきたコーチングや『奇跡のレッスン』みたいな話があるわけです。やはり一昔前の古い考えが日本のスポーツ中にあって、だからもうすでに勝てなくなっているのかなと思うわけです。そこから突破するには一人ひとりの力を引き出すコーチング的なことが出てきて、要するに世界のスポーツがどんどん変わっている時に、日本は本当にいつまでも日大のようなことをやっているのは何なのかなと考えてしまう。調べてないので分かりませんが、レスリングの栄監督はそういうものを取り入れて一人ひとりを伸ばす指導をして上手くさせるというか、競争というものはもちろんあるが、その前に向上というか上手くなりたいというのがあるのかなと思っているわけです。やはり上手くなりたいという気持ちには当然相手があるものだから、それに勝ちたいという話になるのだけれども、勝つために上手くならなければいけない。上手くなった上で勝つというのがあって、そうするとスポーツのメインは何か?指導者とは何をする人か?となった時、一人ひとりを上手くさせなければならないというところがあると思うわけです。だけど、特に集団スポーツの場合には、勝つために取り敢えず上手いやつを抜擢して、他は放置みたいなふうになってしまっているというのは、当然指導の本来の在り方ではないと思うのですが、その伸ばすといった時にやはり伸ばし方というものがあって、それもどんどん新しく入ってきている。それはある種、楽しませるというふうにも言ったけれども、そういうのを引き出さないといけない。要するにそれ以上上手くならないからということもあって、だからスポーツというものが今ちょうど変わり目にある。そうしてこそ結果が出せるはずなのに、いつまでも古い形でレスリングの方はひょっとすると一人ひとりを上手く育てようとしている内に、そこに恋愛関係が育ってしまったとかの問題があって、栄監督の奥さんは元教え子で、そうなるとまた今度は別の話に流れていくのかなという。その延長線上に伊調選手の問題がある気がしています。高橋洋子選手の監督も若干怪しくないわけでもなく、昔ながらの上下とかがないふうになると、今度は恋愛かと思ってしまうような、それはそれで間違っているわけです。難しいとは思うのですが、新しいやり方がこれからそうなっていくのではないのかなという気がしています。

 スポーツの世界がどんどん広がっていくという話で言うと、世界基準というかワールドワイドになっているのは間違いないと思います。自分は身長175㎝以上で日本人の平均身長よりも高いのですが、海外だと小柄という扱いになる。今は混血の方をハーフではなくダブルと呼ぶ時代ですが、ダブルのスポーツ選手が高校野球や高校サッカーなどで活躍している。プロ野球でいうとダルビッシュ有選手が有名ですが、そのほかの競技でも人種や民族を超えて様々なダブルの選手がプロスポーツで活躍されている。パワーやスピードといった身体能力が優れていることに加え、理論的な戦術や科学的なトレーニングで培われたテクニックを持つ海外の選手相手に、日本はというと子どもたちのスポーツの入り口となる学校現場で未だに「気合だ」「根性だ」という精神論や体罰などの暴力が蔓延っている。また世界基準の指導法やトレンドの戦術を学んでいくこともそうですが、人種や宗教などの価値観の違いや多様性なども考慮していかないと日本のスポーツは衰退していくというか取り残されていく気がしています。例えばイスラム教のラマダン(断食月)は日中は水も飲んではいけない、食べ物は日没後にという宗教的・文化的な話も指導者なりコーチが理解していないと敬虔なイスラム教徒の選手とトラブルになる。日本のスポーツは単一民族で長いことやってきたことを考えると、言語の壁もそうだが海外の文化や宗教についての理解やコミュニケーションが遅れているというのが感じられる。ある一部のスポーツの事件でちょっと過熱して取り上げられて、時間が過ぎたら元に戻るということを繰り返しているというか。事なかれ主義というか反省や進歩がない国なのかなと思ってしまう。

 今のお話を聞いてまったくその通りだと思いました。今日の話に繋げてみると、グローバル化が必要で、グローバル化出来れば日本的な悪い習慣というのも無くなるのではと期待している。グローバル化している団体やプロリーグで言うと、サッカーであれば海外の監督や指導者の方に来てもらってコーチングしてもらう。言葉を変えて言えば、勝利至上主義は一番商業的な理由でもあるので、海外の方に来てもらって日本の遅れている部分を進歩させてもらったらといいなと思いました。もしかしたらオリンピックで商業利用はいけないという話もありますが、日本のスポーツに必要かもしれない。例えば、高校野球でも海外の監督を招聘して、甲子園で勝っていけばコーチングなどを日本でも取り入れていきましょうと、もっと日本のスポーツを良くしていきましょうという感じになるのではないかと思っています。

 高校野球の話ですが、真夏の炎天下で一人の投手が160球とか投げさせるのは十代の体が出来ていない子たちに対していかがなものかと思います。これを熱闘とか盛り上げて取り上げるのは非常に懐疑的です。本当にそれで潰れたり、怪我したりする子もいるわけですから、彼らの競技人生はその後もプロ野球に入ったり、社会人や草野球などもあったりするのに、ただ一時に費やしてしまう。それをエースが完投したとかで喜ぶのが非常に遺憾というか度し難いなと思います。ただ、今度は球数制限で一人の投手が60~70球までとかにすると今度はピッチャーを揃えられるチームが勝つ仕組みになる。例えば、140㎞投げるエースはいるが他にピッチャーできる選手がいないとなると、待球作戦で出来るだけ投げさせてエースが降板したらほぼ負けという感じになる。そうすると、結局は選手層の厚い強豪私立が勝っていくというのであれば、学校という単位で行うのではなく、地域など県選抜や東北選抜など選抜方式でやる方がいいのではないかと思いました。

 本当に今の意見のように、まず少子化の問題にあってスポーツを語っていくとその問題に当たると思う。結局子どもたちの人数が少なくなっていくと試合のメンバーすら揃えられなくなる。本当に近い将来無くなるかもしれない。今のうちに地域でやるとか連携というか抜本的に変えなければならないと思う。大枠を学校単位と言っても子供の数は減少しているわけですから。そもそも論になってくると、もう本当に何か変えなければまずいかもしれない。だから世界基準で戦うとなった時に、日本は選手がいなくて参加できないという時代が、もうあと何十年後に来てしまうかもしれない。

 今の話を聞いていて、あとメディアの成熟度も必要ということで言うと、経済界にも成熟度は必要かと思います。「スポーツは誰のために?」というと選手のためですけど、そこを考えられる成熟さが必要なのかなと思いました。

 学校でやっているスポーツだと上下関係があって、地域とかの集まりや学校とは別にやったらいいとかお話がありましたが、結局それでも上下関係はあるのかなと思いました。どうやったら上下関係やコーチや監督の教育の問題もあるかと思いますが、体育会系というくらいだから文科系とは違うわけで。日大のアメフト部を見ていると中学高校だけでなく大学でもあるとか。体を動かす部活の上下関係というのは、何か身体性というか体を鍛えることと関係があるのかなと疑問に思っていまして。皆さんどう思われますか?

 今の意見を聞いて思ったことが、以前てつがくカフェに来ていた方で、アメリカで生活していたという女性から聞いた話ですが、アメリカの場合アメフトが主流で、時期になるとアメフトをやるけれども、それ以外のシーズンは他のスポーツに自由に行っていいという話で。それはもう目から鱗でここだけではない多様性というか自由さというか。だから「このスポーツしかないから、ここに行け!」みたいなものは無いのかなと思いました。

 そうすると、先ほどあった怪我の話に戻ると別にアメフトだけではなくて、テニスやるのも何でもいいということになると、今回の日大みたいな「やるしかない」というところまで追いつめられることはないのかなと。ただそのように器用にできるものなのか、スポーツを分からないから言えませんが。一つのことをやっていると他のスポーツも結構こなせるものなのか分からないのですが、いろいろとやれるものなのでしょうか?。

 経験から言うと、自分の競技以外にも夏は水泳、冬は陸上と合同練習をさせてもらったこともありました。あとは相撲の四股を練習に取り入れていましたが、下半身や体幹の強化につながるということでトレーニングのメニューに入っていました。同じ動きを続けていると疲労もするし、筋肉の偏りも出てくるのでいろいろなスポーツをやるのはいいことかと思いますが、ただ帰結するのは自分の競技というか、自分の主軸としているスポーツの向上のためなのでシーズン事にいろいろな部活に入れるシステムは面白いとは思います。ただし、所属している部活の監督が兼部を認めてくれるのかどうか、人数によってできる練習も違うので当然メニューも変わりますし、練習できるスペースの確保や時間の制限など場所の問題、ボールやラケット、スパイクにシューズなど人数分揃えられて、かつ自分の体のサイズに合ったものを用意するなど用具の問題もあって、現実的ではないというか運用するのは難しいのかなと思います。

 その彼女が言うには、アメリカは部活ではなくて地域のクラブと言っていました。アメリカではアメフトが人気なので、シーズンになるとほとんどアメフトばかりやるらしいですけれども。自分の行きたいクラブに地域で好きに選べるというようなことを言っていました。

 上下関係の問題は、身体性から生まれるというのはまたちょっと別の話のような気もしています。多分組織の作り方次第なのかなという気がしなくもないですけれども。日本はずっとそれをやってきたからというのがあるのだけれども。先ほども実力とは別の問題という話もありましたが、実力の上下は当然出てくるとは思うのですけれども、そこに学年という話はまた別にあって。やはり、やる人のためのスポーツになってほしいなと。スポーツすることで心身が健康になるとか、上手くなるとかということがあった上での話なのだと思うのですけれども、その一番大事なところがすっぽ抜けている気がしていて。そろそろ時間になってまいりましたが、最後に何かありましたら。

 For the選手であるならば、最初に私が話したいなと思っていた「ステークホルダーとは誰か?」という話と関連して。出てきたのはまず競技者で、その競技者が所属している組織体、それをマネージメントしている人たち、行政なり商業主義の関係で企業体というのが出てきたわけですけど。最も欠けているのは我々自身というステークホルダーを見失っているというところが、最後に指摘したいなと思っていて。スポーツと直接関係ない、興味ないという方が仰っていましたが、確かにスポーツに対してのステークホルダーではないという見方もできますが、間接的に商業利用と言いますか、スポーツを支えている側の企業の商品を私たちは購入している。サービスを提供されている。その受け渡しの可能性がゼロではないと見ると、私たちは何かしらのステークホルダーであり続けているわけだと思うのです。例えば、女性だからスポーツ新聞を読まない、興味がないといってもその新聞社にどこかの企業の広告が打ってあるわけで。その広告と我々は新聞を買っていなければ直接的ではないけれども、間接的にはやはり影響がある。つまり私たちがどういうふうなスポーツ像を持っているかによって、このスポーツがどうしていくべきか?これでいいのか?と思考し、どうすればいいのか?というふうなものの答えというのが、我々自身にあると思うわけです。今度どこにその答えや意志を伝えていくかというところでは、ステークホルダーたり得るはずなので。東京オリンピックがあまり好きではないという話であれば、スポンサーにお金を回すようなことは個人でも避けられることなので。それにお金を出すような人に対して、自分はこう思っていると、その企業が応援している〇〇についてどう思う?というような形というのも思い浮かぶのかなと。朝日新聞などが甲子園のあの熱闘や感動の一戦というふうに伝えていて、それが嫌だと思うのであれば買わないという手段だって一つにステークホルダーとの関わりではあるし。要するに朝日新聞も高校野球だけやっているわけではないので、その一面だけで評価をできるものではないのですけれども。というようなところを、自分たち一人ひとりがどう考えるか?という視点を、やはり持つ必要があるなと思いました。スポーツの好き嫌いに関わらず、関係しているはずなので。

 はい、ありがとうございました。時間が過ぎてしまいましたが、取り敢えず本日のてつがくカフェはこれぐらいにしたいと思います。どうもありがとうございました。