昨日、アオウゼにて第2回シネマdeてつがくカフェが開催されました。
参加者は23名。
今回、鑑賞した作品映画はロコ・ベリッチ監督の『happy-しあわせを探すあなたへ』。
脳科学者や心理学者らの研究成果から、世界各国各地域に住む人々の幸せをめぐる悲喜交々のエピソードから構成されたドキュメンタリーです。
今回は映画上映にご協力いただきましたmusubiteの塩谷朋さんにもご参加いただき、この作品制作に関するお話などもご紹介いただけました。
さて、今回は定例より早い15:00より開始し、70分間の映画鑑賞の後に議論が開始されました。
映画は印象的な場面が次々と流れます。
まずは、およそ小屋ともいえない建物(?)に住む男性が、その住居の快適さに幸福を語る場面から始まり、
車に轢かれて顔面が崩れた女性の不幸が幸福へ変化するエピソード、
日本の過労死の問題は物質的豊かさと比例しない幸福度の問題を象徴的に描くのに対し、
それとは対照的に沖縄の長寿とゆったりした暮らしが幸福の象徴であるかのように描かれます。
この点は、アメリカ人の所得収入が数十年前の2倍に増えたのに対して、幸福感の伸び率が止まっているデータとも重なるでしょう。
一方、こうしたエピソードやドラマに科学の成果が重ね合わされます。
幸福感を得る瞬間は脳内ドーパミンが放出されており、これは子どもの頃から放出しやすくしておくとよいこと、
幸福度の研究から幸せを感じる要因の50%が遺伝であり10%が社会的な地位など外的要因にあるが、40%はまだ余白のように変化する余地が残されていることなどは、脳科学心理学の成果だそうです。
これには瞑想などの方法の有効性も語られます。
あるいは、北欧の福祉国家を紹介しながら社会制度による幸福の保障も描かれます。
その上で、名誉やカネではなく自分の中にそれ自体で満足できるゴールを見つけること、他者との協力やつながり、慈愛などの利他心、日常に慣れるのではなく変化をみつけること、本当の自分に気づくこと、好きなことをすること等など、幸せになるための条件が随所で示されていきます。
視聴後、10分間の休憩を挟み作品映画から浮き彫りにされる哲学的テーマを議論しあいます。
今回は作品名そのものが「happy」ですから、自ずと幸福を問う展開になります。
まずは感想を述べるところから始められました。
第一声は、日本の過労死を物質的豊かさと対照的に扱う場面に対し,いかにも日本社会=不幸な社会というステレオタイプな表現だとしながら「日本は幸福度は低いかもしれないけれど、それでも幸福な国ではないか」という意見が述べられました。
同様に、沖縄=ゆったりした雰囲気が長寿と共同社会の古きよき伝統が残る幸せな社会との描き方も同様であるとのことです。
事情をよく知らない異国の幸せな場面を見せられると、たしかに納得してしまうけれど、多少なりとも日本社会の光と影という現実を知っていると、一概に幸福/不幸という評価を下しにくいという声も上がりました。
さらにその背景には田舎暮らし=幸せ/都会暮らし=不幸というイメージが付着しているとの指摘もあります。
田舎には田舎の強い同調圧力やしがらみがあって、それを抜きに牧歌的な幸福のイメージを抱くのは片手落ちだというわけです。
イヤイヤ、そうは言ってもやっぱり都会生活を送る人間の疲れっぷりや人のつながりの薄さは否めないじゃないか。
田舎の同調圧力やしがらみだって、状況によって良し悪しが分かれるだろう。
そんな意見も出されました。
また、映画の中では幸せの条件に「変化」というキーワードが挙げられていましたが、それに注目したある参加者によれば、田舎と都会では「変化」の度合いが決定的に異なり、そのことが幸せの相違が関係するかもしれないといいます。
ところで、この「変化」というキーワードは、「差異」という別の言葉でも表せるでしょう。
つまり、他者やある状態との比較によって幸せは現れてくるというものです。
すると、幸せというのは一定の状態がずっと続くものではないのか?
そんな疑問が提起されました。
さらにこの問いに対しては、昨日開催された第2回エチカ福島の会場での発言を引きながら「同じ人間が同じ意識でいられない」のと同様に、同じ人間の幸福に対する価値観は一定であるはずもないとの意見が出されました。
しかし、幸福の価値観が以前と変わったからといって、以前の自分が幸福だったと言う事実は変わりません。
その瞬間瞬間の幸せというのが幸せの在りようであり、したがって人生のトータルとしての幸福というのはあるのではないか。
こうした意見に対して、それを「人生の道筋」という言葉で表現した参加者がいました。
瞬間瞬間としての幸せは、どこか点在しながらも一続きのもので、「道筋」という概念は人生の幸せをトータルとしてみることが可能になるものといえるでしょう。
別の言い方では「めぐり合わせ」という言葉もつけ加えられました。
そして、この幸せの瞬間が持続的になることが「豊かさ」という概念になるのだとの意見も出されました。
また、幸せという概念には「幸福」のほかに「幸運」という意味合いがあることが指摘されます。
遇有性といってもいいでしょうか。
これを「出会うもの」と表現する参加者もいました。
すると、これらの言葉から幸せが自分でコントロールしたり作っていくことが可能であることの対極にあることが示唆されます。
ある参加者は、そのことを「受動性」という言葉で言い表しました。
幸せとは人が自ら生産的積極的に関与しながら得られるものであると言うよりは、受動的に偶然出会う形で生じるものではないか。
これは『happy』という映画作品が、どちらかといえば自分でチャレンジし、自分を変えていくことで幸せの獲得の可能性が広がることに主眼が込められていることからすれば、意外な反応だったかもしれません。
実際、映画の中に登場する脳科学者が、「幸せの50%とは遺伝、10%は外的要因(社会的地位や名誉、カネ)であり、残り40%の余白にこそ自分の「積極的行動」によって幸せを獲得できる可能性があるのだ」との主張には少なからぬ反発がありました。
遺伝で半分も自分の幸せが決定されているのか!
その数値は言ったどんな根拠で割り出されたものなのか!
そもそも幸せを数値的なもので表現しうるのか!
この科学的主張に反発を覚えた参加者たちの多くは、こうした幸せの主体的な獲得へ違和感を表明していたように思われます。
さらには、自己啓発的なこの主張には、個人の努力に幸せの責任を負わせるかのような印象もあったでしょう。
果たして、個人の選択だけで幸せは決定できるのか?
もっと社会制度的な原因を幸せや不幸の要因として追求する視点も必要ではないか。
そのような意見が複数者から提起されました。
しかし、こうした意見に対しては、やはり40%の余白を出来事の受け止め方のように個人のスキルで幸せになる点を否定できないという反論も出されました。
これをすべて外的要因に還元してしまったら、自分ではけっきょく幸せになれないということになってしまうではないか、というわけです。
さらにいえば、このスキルは自分とのつき合い方を獲得できるものであり、それによって平安な幸せが得られることもあるということにもなります。
別の参加者は、「感謝できる」ようになれば幸福度が増すことを述べましたが、それは当たり前のように思えることを当たり前ではないもの(有り難いこと!)として、自分の気づきや受け止め方を変えるように工夫すれば幸福の度合いが大きくなるということを意味します。
また別の参加者によれば、不幸についてはわりと客観的に捉えられるがゆえに、不幸を社会制度的に縮減していくことは可能だけれど、幸せかどうか主観的なものなのだから、それを社会制度的に実現していくのは難しいのではないかとの意見も挙げられました。
これは幸福は主観的であるがゆえに、むしろその多様性を保障していくことの大切さを示唆しているように思われます。
憲法13条の幸福追求権が社会権的であるよりは、むしろ自己決定権的に理解されることとも関係しているのかもしれません。
とはいえ、やはり議論全体の中で参加者の多くが躓きを覚えたのは「50%の遺伝的決定説」のようです。
これを「遺伝子」ではなく別のものとして仮説を提示すれば、視聴者の印象も変わったのかもしれないと塩谷さんはおっしゃっていました。
そのことを「主観と客観とのあいだにある何か」と表現した参加者がいました。
個人ではどうにもできないもの、それが出会いや遇有性と言い換えてもいいかもしれませんし、ひょっとしたら遺伝子とは別の決定論である運命と言い換えられるかもしれません。
しかし、いずれにせよ幸せとは事後的に知りうるものなのかもしれません。
映画の中にはドーパミン物質を多量に出すことやフロー状態が幸福感と相関していることが示されますが、しかしある参加者が発言したように「ドーパミンを出すためにボランティアをするわけではない」のだし、ひょっとすると幸せや幸福は目的になり得ないものなのかもしれません。
行為の目的は別にあって、しかしその結果、意図せず幸せを感じるものなのではないでしょうか。
いや、それでもボランティアのような利他的行為も、けっきょくは自分が幸せになることがなければやらないじゃないか。
だから幸せが主観性にあることは否定できないという意見も出されます。
しかし、別の参加者によれば、幸せはたしかに主観的に見えるものだけれども、その見え方や風景は外部からやってきたものによって多重に見えてくるものであって、決して主観的につり出されているわけではないという意見が対置されます。
つまり出来事や経験の受け止め方は、自分で幸福を生み出すスキルのみで完結するわけではなく、外側の多様性にふれることによって変化させられているのだから、それが主観性に留まるという言い方はできないのではないか、というわけです。
この堂々巡りは以前のてつがくカフェで取り上げた「幸せってなんだろう?」でもくり返された論点です。
ただし、この堂々巡りを繰り返しながらも、どこか深まっていく感覚を覚えたのは筆者だけでしょうか。
皆様の評価を待ちたいと思います。
さて、以上では幸せをめぐる構築的な意見を整理しましたが、実は前半にはこの映画によって幸せ何かわからなくなったとの発言が出されました。
それによれば、映画に示される幸せの条件はシンプルなものばかりなのに、なぜ実現が難しいのだろうとのことです。
たしかに、幸せの条件である人との交流や協調、家族のあたたかさは、一般にも言われることです。
自分の好きなことをすること、それに気づくこと、自分を知ること。
たしかにシンプルなのですが、でも実はこれってけっこうハードルが高いのではないでしょうか。
人づき合いの苦手な人にとって交流が幸せな条件であることはシビアです。
「自分にとって最もよいことは自分がもっともよく知っている」とは、自己決定権の大原則ですが、しかし、自分の好きなことや利益になること、幸せになることを知っている人ってどれだけいるのでしょう。
むしろ、人は別な目的を通じて何かをしていくなかで、結果的に自分に気づかされたり、幸せをもたらされたりするものなのかもしれません。
しかも、多様であるがゆえにそれが外側の評価でも決定しえないものでしょう。
その意味で、議論の最後に塩谷さんがおっしゃった一言が印象的でした。
塩谷さんによれば、幸福感の高さは多様性を肯定する社会に共通しているのことです。
そして、@ふくしまへの初参加の感想として、そのような多様性にあふれる場であったという最高の賛辞をいただいて第2回のシネマてつがくカフェを終えることができました。
ご来場いただきました皆様には感謝申し上げます。
次回は7月20日(土)アオウゼで16:00より定例のてつがくカフェが行われます。
テーマは後ほどブログでご案内させていただきますが、次回も多様な参加者に多くご参加いただけることを期待いたしております。
今回の上映に際しましては、塩谷様にご協力いただけましたこと、あらためて御礼申し上げます。