てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

社会的立場を解除できるのか? 【世話人のつぶやき】

2012年11月29日 08時21分09秒 | 世話人のつぶやき
世話人の小野原です。
渡部さんのつぶやきに触発されて初めてつぶやきます。
私たちは2010年に 「てつがくカフェ@せんだい」 の取り組みに触れ、
これはぜひ福島でも開催したいと思い、年末だったか年明けだったかぐらいに、
「てつがくカフェ@せんだい」 を主宰している西村高宏さんに来福いただき、
「地歴公民学習研究会」 で哲学カフェについて発表してもらったことがありました。
そのときに 「てつがくカフェ@せんだい」 の 「活動趣旨」 のなかの文言が、
議論のタネとなりました。

「『哲学カフェ』 は、参加者間での会話がより促進されるように、先生や生徒、上司と部下などといった社会における役割関係をいったん解除し、フラットで気楽な対人関係のもとで進められる哲学的対話の試みのことです。」

「【哲学カフェの流れ】
社会における役割関係を解除し (自分の属性を軽視するわけではない)、会話が促進されるようなフラットな対人関係 (そこに集う誰もが平等な立場で考えて語ることが可能な場) にする。」

ここでいう 「社会における役割関係を解除する」 とはどういうことなのか、
そもそも社会における役割関係を解除することはできるのか、
カッコのなかで言われている 「自分の属性を軽視するわけではない」 とは何か、
その両者の関係はどうなっているのか、
といったようなことが問題とされました。
これはロールズが言うように、
私たちは 「無知のヴェール」 で覆われた 「原初状態における個人」 として考えるべきなのか、
それともコミュニタリアンが言うように、属性をぬきにした 「負荷なき自己」 など存在せず、
それぞれが背負っている社会的立場からしかものを考えることはできないのか、
という現代倫理学における大問題にも通じる難しい問題だと思います。

私はどちらかというとロールズ派なんですが、
しかし、社会における役割関係を解除したり、社会的立場を解除してものを考えるのは、
そうとう高度な思考実験であり、かなりの知的訓練が必要な営みだと思っています。
難しいから誰にもできないと言う必要はないと思いますが、
まず自分がそもそもどういう社会的役割を担い、どういう社会的立場に立っているのか、
これは1つだけではなく気づかないまま無数の役割や立場を背負わされてしまっていますので、
それらを自分自身で自覚することだけでもけっこうたいへんな作業です。
しかも自覚した上で、さらにこれらをいったんカッコに入れて、
その役割や立場から離れて不偏不党な観点から自由に考えてみようというのですから、
これはムチャクチャ難しい試みなのです。
ホッブズやロックやカントの社会契約論というのは、こういう思考実験を経て打ち立てられましたが、
のちにマルクスによって、あんなものブルジョワジーのイデオロギーにすぎない、
つまり、彼らは近代市民という立場にどっぷり浸かって考えていたにすぎないと批判されました。
ロールズもまたこうした批判を免れえないでしょう。
思考のプロですらそうなのですから、一般市民が自らの社会的立場を解除して考えるというのは、
そうとう困難な要求になるのではないでしょうか。

私はそのときの議論を聞いていて、自分の属性を軽視するわけではないけれど、
社会における役割関係は解除する、という要求が一般にはわかりにくいだろうなと感じました。
それと同時に、実はそこにはあまり力点は置かれていないのではないかとも思ったのです。
要するに大事なのは、フラットで気楽な、対等な関係の下に議論が進められることでしょう。
それを言うために 「役割関係を解除する」 とか 「社会的立場を解除する」 という表現を、
わざわざ使わなくてもいいのではないでしょうか。
たまたま参加者のなかに、職場で上下関係にあるような人がいた場合に、
今日だけはその上下関係のことは忘れて、対等な市民として話し合ってくださいね、
というだけのことでいいのではないでしょうか。
ある会社の社長さんと平社員が参加していたとして、
社長さんは資本家という立場でいろいろ考えるでしょうし、
平社員のほうは労働者という立場で考えるでしょうから、それはそれでかまわない、
ただ社長に遠慮して思ったことを言えないとか、社員なんだからオレの言うことに賛成しろ、
なんていうことは絶対にあってはならない、それだけでいいのではないでしょうか。

というような思考を経て、「てつがくカフェ@ふくしまの進め方」 を決める際には、
文言をだいぶ簡素化することにいたしました。

「1.お互いに対等な立場で話し合ってください。

1-1.参加者の中に例えば上司と部下、教員と教え子等がいたとしても、この場では上下関係は忘れて、対等な参加者として話し合ってください。
1-2.そのために 「○○先生」 など敬称をつけて呼ぶのはやめ、お互いに 「○○さん」 とかニックネームなどで呼び合ってください。
1-3.哲学その他に関する専門知識があるかないか、多いか少ないかということを争う場でもありません。知識の多寡ではなく、論拠の正しさによって議論を交わすようにしましょう。」

これだけです。
社会的立場や役割関係の解除といった表現は一切排除しました。
はたしてそれが正統な 「哲学カフェ」 の流儀に適っているのかどうか自信ありませんが、
一般市民に上述したような高度な思考操作を強いるよりは、
気楽に対等に話し合ってね、というぐらいのノリのほうが、
哲学カフェの本来の趣旨に沿っているのではないだろうかと判断したのです。
というわけで、渡部さんの問題提起はわたし的にはたいへん面白いのですが、
それはそれとしてまた別の機会に2人で話すか、てつカフェのテーマに取り上げるとして、
参加者の皆さんはそんなこと気になさらずお気軽に参加いただければと思います。
私としては、いまだにてつカフェの場で私のことを 「先生」 と呼んでしまう学生がいるので、
日頃の上下関係のあり方を少し見直してみたいと思います。

第14回カフェ報告

2012年11月26日 07時47分11秒 | 定例てつがくカフェ記録
 



第14回てつがくカフェ@ふくしまはA・O・Z(アオウゼ)の大活動室4にて、17名にご参加いただいて開催されました。
ここは中学校の技術室のような空間で、いつもと雰囲気の異なる空間です。
テーマは「わたしの身体はわたしのものか?」。
わりと身近で具体的な話題にもなるかと思いましたが、抽象的な議論が中心に展開されていきました。

まず「自分の身体は自分のものか」という点について、自分のものではない気がするという意見が出されます。
そのことを自分を越えた何ものかからの「預かりもの」、「借りもの」と表現された参加者がいました。
「自分を超えたもの」とは、宗教的に言えば「神」と言い切れるかもしれませんが、そう言い切ってしまっていいのか。
そんな逡巡を交えながら、自分を超えた存在から借りたものであり、それを用いて自己を表現する、いわば楽器のようなものが身体ではないかというわけです。
あるいは「自然」と言い換える考え方も示されましたが、いずれにせよそのような自己超越的な存在を想定して議論を進めるべきかどうか歯切れの悪いまま議論は進行します
それについては、スピリチュアルな観点から、わたしの身体は生まれる以前にわたし自身が選んだものであるという意見も出されました。
この二つの意見には「わたしの身体はわたしのものだけれど、同時に全体のものである」という理屈が含まれています。
これらの意見のように、いきなり身体論が超越的な存在との関係で論じられるとは予想外でした。

しかし、こうした意見に対しては「恵まれたものの論理」ではないかという意見が出されました。
世の中には、生まれながらにして苦痛を抑えることのできない難病を負って生まれてくる人々が無数に存在します。
あるいは紛争に巻き込まれて、身体を損傷する人々も無数に存在します。
そのような人たちに向かって、「神からの預かりもの」や「わたしが選んだもの」という論理は果たして通用するのか。
厳しくも考えさせられる意見です。

一方、やはり自分の身体は自分のものであるという意見も出されます。
病気になったり生命を脅かされないために、自分で自分の身体のケアに努めるのはやはり自分です。
それが自分のものでなかったとしたら、ではいったいこの身体は誰のものなのか?
たしかに、この身体を他人に勝手に侵されたのではたまったものではありません。
その意味でわたしの身体は不可侵のものです。
そのことを人権や権利という概念と関係しているのではないかという意見も出されました。
では、果たして、この理屈によって、自分のあらゆる身体を自由に処理できることは可能なのでしょうか

これについては、「自分の生命に危険を及ぼさない限り認められる」という意見が出されました。
なるほど、生体肝移植や骨髄移植は生命に影響はない上で合法的に認められています。
とはいえ、それらには体調が不調になる恐れや身体的苦痛を伴うでしょう。
いくら我が子のためとはいえ、それらの理由で移植を拒むケースは当然ありえます。
すると、けっきょくその選択を分ける基準は、その人の価値観によるということになるのでしょうか。

てつがくカフェでは議論に行き詰まると、「最終的にはその人の価値観である」という点に帰着するケースがしばしば見受けられます。
今回もまた、ピアスや刺青などの身体加工についても、自分の生命に危機を及ぼしたり他人に迷惑をかけない限り、その人の身体をどう処分するかは、その人の価値観であるという意見が出されました。
いわゆる自由主義に立つ正当な考え方でしょう。
しかし、けっきょくその基準は相対的ですし、いわゆる許容される基準を決めるといった「線引き」論は法律論としては通用しても、根本的な問いに向かい合う哲学的思考にはふさわしくないように思われます。
「状況や目的によってその許容基準は異なる」という答えも同様でしょう。
会場からは、まさにそのような無限後退的な思考法の限界を指摘する意見も出されました。
たとえば、議論の中ではどこまで身体を切り刻んでいけば「わたし」ではなくなるのかという問いも投げかけられましたが、その結論が無限後退していくだけで根本的な解明に向かわないのではないかという疑問です。
「どこからどこまで」がという、ある種、空間的な幅で問おうとする方法の適用の仕方の誤りといえばよいでしょうか。

では、どのように問うべきなのか。
これに対して、あらためて「そもそもなぜ生命が大事だといえるのか? 自殺はなぜいけないのか?」という問いが投げかけられます。
身体は生命そのものを保つために必要なものならば、生命そのものを失わせるのでは身体にとって本末転倒ということになります。
しかし、なぜ生命そのものが優先される価値を持つのか、そのことを考えてみたいという問いです。

また、「わたしのものである」とは、いかなる権利をもってそういえるのか、そのことを考えるためには「所有とは何か?」について考える必要があるだろうとの問いも投げかけられます。
そもそも「わたしの身体はわたしのものである」という命題は、この「所有」という制度を前提にして成り立つ問いであって、「所有」そのものの観念がなければそのような問いは成立しないのではないか、というわけです。
なるほど、「所有」は近代社会の勃興とともに整備されてきた概念です。
先述の身体に対する権利や人権が関係するのではないかとの意見も、こうした所有権という制度の成立と不可分であるともいえそうです。
では、所有の対象とは何かといえば、たとえばそれは働いて稼いだおカネで入手できるものとか、自分の努力の成果として正当に獲得しうるものを指すのではないでしょうか。
さらに、自分のものにするということは自分の支配権が及ぶものとなり、その点でコントロール可能なものが所有物ということになります。

しかし、なぜかそれら「所有」の理屈が身体に関してはしっくりきません。
そもそも生まれながらの自分の身体は親につくられた(与えられた)ものであって、自分で選んで獲得したものとはいえないでしょう(スピリチュアルな意見ではそうではないのですが)。
だからといって、自分の身体は自分以外のものだという理屈もしっくりこないでしょう。
健康管理の主体はあくまで自分の責任においてなされるものだ、という意見はそのことを言い当てています。
ところが、その当の発言者もまた、その直後に「高熱に浮かされているときは、まるで自分の身体ではない感じがしますが…」と身体が自分のコントロールの利かない事態があることも指摘していました。
たしかに、内臓などは自分の意志でコントロールできるものではありません。
その意味で、内臓などは自分の内なる他者、外部と言いうるかもしれません(はじめて胃カメラを飲み込んで自分の胃袋を見たときの衝撃!)。
にもかかわらず、わたしの生命維持にとっては必要不可欠ものです。
それを自由処分しうるのは、いかなる根拠があってのことなのでしょう。
その疑問については、そもそも所有というのは自分の外部にあるものを対象とする概念であるのに対し、身体論の場合は自分の内部に向かって用いようとすることに、その問いの難しさがあるという指摘が挙げられました。

校則を例に身体を加工の問題を考えれば、自分の身体は自分のものなのだから、ピアスだろうが茶髪だろうが自由でいいじゃないかといいたくなる一方、しかし何かしっくりしない答えの気持ち悪さが、しばしカフェの時間に漂います。
ある参加者によれば、教員などやってしまうと、生徒に示しがつかないなどの理由から茶髪はおろかピアスすら断念せざるを得ないという声さえ出されました。
公務員のタトゥーが解雇問題につながるような時代です。
こうなってしまうと、「わたしの身体は世間のものである」とも言いたくなるでしょう。
たしかに、身体が社会的側面をもつことは否定しようがありませんが、だからといってそう割り切る論理が支配的な社会になるのも、ずいぶんと息苦しくはないでしょうか・・・・・・。



そのことを身体は「アイデンティティ」とつながっていると表現する意見も出されました。
あるいは「自己表現」の手段や媒体との意見も同様でしょう。
とはいえ、これは必ずしもアイデンティティの手段や道具と位置づけることを割り切れないようです。
それはまさしく「所有」という概念ではなく、暫定的でも「所属」という言葉の方が言い当てているように思われるとの意見が出されました。
「所有」が身体を手段としてみなしているのに対し、「所属」とは自分のアイデンティティと一体不可分であること言い表しているように理解できるのではないか、というわけです。
あるいは、その言葉の意味を先述の「神」や「自然」からの預かりものという考え方に即して言えば、自分を超えた存在に属すものという見方にもつながるかもしれません。
ともかく、身体について自分の内部に向かって捉えようとする限り、所有概念ではつかめ切れない事だけは浮かび上がってきました。

この問題は、ふつう「心身二元論」と言われる身体に対する見方に対しても、異なる視角が提示できそうです。
つまり、心身は分かれず、その人の存在そのものである、と。
いや、それでも身体は精神を根拠とする「わたし」=自己が入り込む「箱」や「器」ではないかという意見も出され、心身二元論から離れて考えることの難しさを示しています。
終盤、この問題を考えるためには、やはり「わたし」とは何か突き詰めないところでは答えが出ないのではないかという問題提起が為されましたが、残念ながらそれは次回以降のテーマへ譲ることになりました。

さて、今回の議論は、どんどん遡行的に問いが根源へ向かっていき、そこへ向かえば向かうほど抽象的な議論となってしまい、なかなか対話に参入しにくい難しさがあったかもしれません。
時として対話が途絶え、「あれいま何議論してるんだっけ?」という瞬間も多々ありました。
そういう沈黙のストップモーションは、実はファシリテータにとって、とっても重苦しい瞬間であるのですが、しかし今回のカフェは訥々とでも、すごく哲学的な、つまり遡行的な思考へ登りつめていく感触がありました。
その理由を今考えると、今回ほど問題状況をどの言葉で言い当てればよいのかはっきりしない、ものすごく気持ち悪い感覚が参加者の皆さんに共有できていたからではないかと思います。
その意味で、今回のカフェでの議論は、いつも以上に言語の限界を突き抜けようと足掻く参加者の皆さんの姿が見受けられたようの思われます。
ひょっとすると、自分の身体を言葉でつかもうとするのは、言葉の限界を突き抜けている事態なのかもしれません。自分の生の顔を一生見ることができないのと同じように。

このような時間をさらに皆さんと深めながら共有していきたいと思います。
ご参加いただいた皆様、また次回以降もお会いできることを楽しみにしています。
そして、少しでもこのてつがくカフェ@ふくしまにご関心をお持ちの皆さま、まったく自由に誰でもこの場は開かれています。
多様な人が集まれば集まるほど、この空間はおもしろさを増します。
多くの方々にお越しいただけることを、心よりお待ち申し上げます。

第14回てつがくカフェ@ふくしま開催のご案内

2012年11月04日 09時10分18秒 | 開催予定
すっかり寒くなって参りました。
あの夏の猛暑がウソのようです。

さて、今度のてつがくカフェ@ふくしまのお題は、
「わたしの身体はわたしのものか?」です。
「あなた一人の体じゃないのよ!」とは、よく健康への気遣いのために用いられる台詞です。
ところが、一方で「わたしの体はわたしのものなのだから、どう使おうとわたしの自由でしょ!」という声もしばしば耳にします。
もちろん、その延長線上には臓器売買や脳死臓器移植、売買春などの生命倫理の問題があります。
また、タトゥーやピアスといった身体加工の是非といった問題にも展開できるでしょう。
とりわけ、昨今話題のタトゥーが公務員にふさわしくないのかという問題は職業倫理との関係で論じることも可能です。
果たして、わたしの身体は誰のものなのでしょうか?
みんなで大いに哲学的に考えあいましょう!

テーマ:「わたしの身体はわたしのものか?」

日 時 : 2012年11月23日 (金・祝) 開催時間 16:00~18:00

場 所 : A・O・Z(アオウゼMAXふくしま4階・大活動室4(福島市曽根田町1番18号)

費 用 : 100円 (珈琲などドリンク飲み放題)

事前申し込み : 不要(直接会場にお越しください)

ご不明な点は下記の問い合わせ先までご連絡下さい。

問い合わせ先 : fukushimacafe@mail.goo.ne.jp


お茶を飲みながら聞いているだけでもけっこうです。
飲まずに聞いているだけでもけっこうです。
通りすがりに一言発して立ち去るのもけっこうです。
わかりきっているようで実はよくわからないことがたくさんあります。
ぜひみんなで額を寄せあい語りあってみましょう。

≪はじめて哲学カフェに参加される方へ≫

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