てつがくカフェ@ふくしま

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対話と珈琲から始まる思考の場

第40回てつがくカフェ@ふくしま報告―「〈笑い〉はどこに生まれるのか?」

2016年10月31日 09時24分36秒 | 定例てつがくカフェ記録

(メキシコ国立人類学博物館のなかの所蔵品)

「笑いはどこに生まれるのか?」(参加者17名)

まず、東京からいらした学生さんからどうしてこのテーマになったのかの経緯を話していただきました。
前回の哲カフェ懇親会で、話をさせていただいたんですが、自分の研究は、震災後の福島の冗談や笑いをテーマにしています。自分は、東京で震災を経験し、その年の夏に福島に戻ってきました。帰るまでは、テレビやネットの情報ばかりで、暗くなり、すごく不安だった。帰ってきて家族などと話してみると、暗く沈んでいるばかりでなく、震災や放射能のことを明るく冗談を交えて話すのを知って、どうして、そういう風な会話が成り立つのか考えてみたいと思い研究に取り組んでいるのですが、哲カフェに集う皆さんの意見も聞いてみたと思い、テーマにしていただきました。

実際、あの頃は、「東京に出張に行った時など、福島は、大丈夫?」などほかの地域の人にしょっちゅう言われて嫌になったことがあり、「鼻血が出て止まらない。」なんて冗談を言った経験談から対話は、スタートしました。

ある人は、日本と海外の笑いの違いについて触れ、「日本の漫才では、ボケと突っ込みがある形で、他人を馬鹿にした感じで笑いをとる形式が多いが、海外だと、一人でパフォーマンスすることが多く、自分を笑ってもらう形式で、文化によって笑いが違うのではないか?との意見が挙げられた。
しかし、林家三平さんなどは、自分を下に見せる形で、誰も傷つけない笑いを作っていたと聞いたが、自分を笑いものにするという形式をとっていて、文化とも違うのではないかと、反対の意見もあった。
自分を笑いものにするのはいいが、他人を笑いものにするのは、ちょっと難しく、笑えない場合もあるので、文化というか、笑わせる手段・方法の違いではないか、との見方もあった。

また、ある人は、笑いが起きるのは、3つの種類に分類できるのではないかということで、以下の3つを挙げられた。
①楽しかったり嬉しかったりした時に、自然に出てくる笑い。
②人がつまずいて転んだりして、状況が一変した時に出る笑い。
③自分ではどうしようもなく勝手に出てくる笑い。

この方は、過去に自分が笑われたことが快感になったという経験を話された。子供が小さいころ、保育園で保護者が集まって廊下に並んでいた時に、廊下を歩いていておもいっきり転んだことがあり、それを見たある人が、「あなた何してんのよ~!」なんて、突っ込みを入れられ、大爆笑されたんだけど、この時、今までは嫌だと思っていたが、笑われることに快感を感じ、今までとちょっと考えが変わったことがあると話されました。笑いによって、心配や不安といった緊張がほぐれ、和やかな雰囲気を作り出せたことで、笑われたことよりも笑いを作り出したことに喜びを感じたそうです。そういった経験もあり、笑いは、緊張状態をほぐし、自分をナチュラルな状態に戻す力があるのではないか、との意見が挙げられた。

一日のうちの喜怒哀楽のうちで一番多いのは、静寂と笑いではないか?と日々幸せに生きておられる人の意見もありました。また、他人との関係において笑いが生じるということで、笑いには、相手が必要という意見が挙げられた。

笑うことで、自分自身の感情も盛り上げることができるのではと思う。ダンスの指導時も口角を上げて踊るように指導している。筋肉の話なのですが、口角を上げること、つまり笑顔を作ることと脳の楽しかった記憶がつながっているから、無理やり口角を上げるだけも、心も明るくなる、ポジティブになると聞いたので、生徒には、いつも指導しています、といった筋肉の働きから笑顔を作るといった今までとは逆の考え方もありました。

私の娘が小さい時、はしが転がってもわらうというけど、一時期ですが、娘の笑っているのを見て、本当だなと思ったことがありました。また、クリスタルボールヒーリングというのがあり、クリスタルボールをなでることでその振動を体で感じて笑顔が出てくるという経験がありました。そういった波動を感じて笑いが生まれるということも自分で感じたので、脳ではなく身体の振動によって笑いが生まれることはあると思うという、同じような意見も上げられました。

中学・高校のころに、くすぐったいわけではなく、床屋に行って顔をそってもらう時に、おかしくて笑えをこらえることが大変なことがありました。
お葬式とか、絶対笑ってはいけない場合に、笑いたくなってしまったりすることは、なぜ起こるのでしょう?といった疑問が挙げられた。それは、緊張や不安・はたまたギャップが関係しているのではないだろうか、と意見が上がった。

くすぐられて笑ってしまうのは、ほ乳類の多くにあると聞いたことがあるので、おそらく本能が関係しているのではないか?との意見が挙げられ、それに対して、でも、それは、笑いではなく快・不快の快の反応として表に出てくる笑いであって、本能とは違うのではないかといった意見も上げられた。

先ほども出てきましたが、ギャップが笑いに関係していると思います。普段とは違う新しいことや変わったことが起きたりすると笑いが生まれるので、そういったギャップが笑いを生んでいるとの意見が挙げられ、先に上がった本能からの笑いと人間の創造的な活動による笑いということで、まったく逆の意見がそれぞれに挙げられた。

楽しくて笑う、面白くて笑う以外にも、変なことを言ってる人に対して笑ってしまうことがあり、考えが違うこと、つまり自分とのギャップ対して笑ってしまうことがあるから、本能とはちょっと違う気がするとの意見も。

くすぐられる快感によっての笑いは、人間だけではなく動物もあると思うので、本能に関係していると思われるが、人間は、動物と違って知性があるので、クリエイティブなことによる笑いというのもありうると思うので、どちらも、同じ笑いの中にあるものであって違うものではないと思うとの意見が挙げられました。

笑いには、個人的な笑いと社会的な笑いがあると思います。個人的な笑いは、本能に近いもので、人それぞれ感受性が違うので、人によって笑いのツボが違うということで、社会的な笑いは、社交的な人間関係の中で生まれるものだと思います。どういったものを面白いと思うかは、個人差があって笑いのツボというのは、人それぞれ違っていると思う。「地味にすごい」という番組があって、自分の業界に近いので、笑いが止まらなくなってしまった、と経験を話されました。面白いから笑うので、くすぐられて笑うのとは違うと思う、と。

笑いは、個人的なものだと思う、子供の運動会のときに、強い風が吹いていて砂が舞って、子供の演技が見れない状況だった。そんな時、どういようもなく笑ってしまう自分がいて、今思うと、それは個人的な笑いだったと思う。どうしようもない諦めのときに私は、笑いが出てしまいます、と。

笑いはとても文化的なものだと思う。アメリカンホームコメディに私は馴染みがあり、私はすごく面白いのに、一緒に見てる人は全然笑っていなかった経験から、文化の違いによって笑いのツボも違うと感じた。落語を初めて聞く人は、本当に、面白いと感じるのかとても疑問です。何を面白いと思うのかは、すごく文化の影響を受けていると思います。

面白いとかおかしいと感じるものには、文化的な違いがあると思うが、しかし、共通に面白いと思うことはあると思う。例えば、普段とは違ったおかしな言動、おかしな服装のようなことをする道化師などは、文化の違いを超えて、共通の笑いが生まれると思う。落語などもおかしな行動を取り上げていると思います。

おかしいと面白いの違いは、理由がわかっているのとわかっていないのとの違いではないかとの意見が挙げられ、「ラッスンゴレライ」は、理由がわからないけども、おかしいのかな。と。

文化の違いが挙げられましたが、翻訳をしてる時に、ジョークなどを翻訳するが、全然笑えないことがあり、文化の違いを感じる。日本で、お笑いが流行っているが、人を笑いものにするようなものが多く、笑えないことが多い。漫才やコントは、落語が辿ってきたのとはまた違う笑いだと思う。「ラッスンゴレライ」なんか、今まで想像できないようなものが生まれてきたのは、やはりそれは、ギャップという言葉が通底するのかと思う。。

お笑い芸人の変な行動や話芸によって、いつもちゃんとしていないといけないと思っている普段の緊張した生活をほぐしたり、和らげる働きがあり、そこに笑いが生まれるのではないかと思います、との意見が挙げられ、笑いには、深刻さや心配から解きほぐす効果があると。

面白いなと思えるのは、その背景(ストーリー性)を想像できるかだと思う。女友達が、旅行のことを面白く話しても、いまいち笑えないのは、その友人との関係や旅行の背景等をきちんとわかっていないから、そういうことが生じるので、背景を理解していないと笑えないことがある。

変な服装だと笑えるかというとそうではなく、カズレーサー(芸人)は、最初金髪に赤い服の人で、最初は全然笑えず、怖いと思った。が、彼がどういう人かわかってくると、だんだん笑えるようになった。

オフィスの給湯室での女性同士の会話とか、そういう状況を自分でも経験しているので、そういった場面を映像で見ると笑うことができると思う。自分が知っている状況の中で、何かが起こると笑ってしまうのは、そのシチュエーションを理解できているからだと思う。

共有するというのは、一つのキーワードかなと思う。映画館などで、誰も笑っていないと笑いづらくて、周りが笑いだすと自分も笑いやすくなるということがあると思います。また、笑われるのと笑わせるというのは、違うと思っていて、笑われるというのは、場というかその状況を共有できていないから起きるのであって、笑わせるというのは、その場というか、状況をコントロールできているというか、共有できていることによると思う。その場を共有できていなくて、笑われるのは、残酷だと思うとの意見が挙げられた。

笑う、笑われるという話を受けて、ある参加者は、自分のブログに書いた内容について話した。女子高生が常識のない会話をしていて、それを外から見ている人が笑ってしまったという内容。女子高生は、まじめな内容を話しているが、それは、いわゆる常識から外れていて、それを常識のある人が外から見て笑ってしまったという内容。女子高生は、笑わせるために話しているのではないが、笑われているのです。

笑われるのは嫌だという意識は人間だれしもが持つかもしれません。でも、初めの方に発言された方は、笑われたのではなく、笑ってもらった、笑わせれたというポジティブなとらえ方をしていたので、もう一度話してもらいました。

笑われたくないと思っていたが、転んで笑われたのだが、自分のこんなことで笑ってくれるんだ、笑ってもらえるんだ、だったら、もっと笑ってもらいたいなと思った。でも、笑われてるのかな~私。と感じてしまう人もいるのもわかります、と話してくれました。

その発言者の話を聞いて、昔の話を思い出した別の参加者が、最初のデートで彼女が思い切りすっ転んでケツを打った時、大爆笑したら、怒られたという話をした。普段しゃんとしていた彼女だったので、そんなことになったので思わず笑ってしまった。彼女に、大丈夫?という言葉もなく笑ってしまったので、すごく怒られた。その時、彼女は、笑われたと思ってしまったと思う。自然に笑いが出てしまったので、あれを笑うなと言われてもすごく難しかったと思う。

失敗したことを笑われる。例えば、「あ、失敗しちゃった!?」という感じに自虐的にふるまえる能力を関西の方では、強く求められると思います。そういう人間は、高く評価される。コミュニケーションの能力なのか、そういう風にとらえられていると思います。

ここで、震災後の笑いについて、少し話を進めていけたらとファシリテーターが話した。今まで上げられた緊張とか、深刻さ、心配がある中で自分たちが笑いのネタとして笑わせることはできるが、外の人たちが笑いのネタにするのは、自分たちが笑われることになるのは嫌か、その辺を話していけたらどうでしょうか?

自虐を受け入れるということと関連すると思うのですが、震災直後に、避難所を運営していた時、笑うしかないという経験がよくありました。例えば、原子炉に自衛隊がヘリで水を撒いていたのを見るとどうしてもドリフとしか見えなくて、笑うしかなかった。でも、彼らはまじめにやっていたのでしょう。また、放射能の雨が降っている中、避難所にプールの水をバケツリレーをしている人たちは、笑いながらやっていた。自分は、まじめにやれよ、と突っ込みを入れたいところだったが、ああいうどうしようもない状況を彼らが受け入れるには、笑うしかないのではなかったかと今では思う。

被災地外の人が、「セシウムさん」のような形で笑いをとるというのは、被災地の人たちの怒りをかったと思うのですが、被災地内の人が自分を笑いにするのと何が違うのか、その辺はどうなのでしょうか。

先日、サンドイッチを買ったときに、嫌いな刻んだキュウリが入っていて、そのブログを書いた時に、自分は、最初「除染」と書いていたが、アップする前に検討して、自分だけならいいが、これはまずいだろうと判断して、撤去という風に書き直した。自分としては、除染レベルなのだが、それを使ってしまうと不謹慎ととられかねないと思って、訂正して載せました。

震災後、あまりに深刻な状況になってしまっていて、もぅどうしようもないから笑うしかないという状況に今置かれていると思います。賠償金が入ってきたことにより、笑いがゆがみはじめた気がする。一方では、家族が沢山いて、沢山もらっていて、一方では、金銭的にも苦しい状況に置かれていたりする。

フラダンスは、4月1日から再開していた。妊婦はやめたが、ほとんどの人は、楽しみがなきゃやってられない、ということで止める人が居なかった。
震災復興のイベント等で、他県に行って踊ったときに、向うでは、つらく大変だった話をしてほしい、笑いはいっさいいりません。と、お願いされてすごく驚いた。
福島の中にいる人たちは、笑いを求めているが、福島以外の人は、笑いを求めていないのだと、驚いた。

被災地外の人は、笑いにしてはいけないという気持ちがすごくて、震災後の復興イベントで、オリンピックのバドミントン選手が、県北の学校に来た時に、すごく大変だったですよね、私は笑いにはしません。というスタンスが明らかだった。被災現場から距離が遠くなると笑いにすることがより難しくなるのだと感じた。

私たちの年代では、他人を笑ってはいけないという価値観があるので、3.11のことを他地域の人が見ると笑いにできないのではないか。でも、笑いヨガというのがあって、笑いで悩みを吹き飛ばそうという取り組みが3.11以降、身近なところであった。

笑いは、解放効果があって、当事者には、必要なことだったと思う。原発から距離がある人が見ると福島がすべて危険ととらえてしまって、笑いにできなかったのだと思う。でも、実際は、福島と言っても限りなくグラデーションがあって、どこからが危険なとこで、どこからがそうでもないと明確に区別できないので、外部の人にはわからない。でも、当事者は笑いを必要としていた。自主避難をしている人は、自分が福島人だと名乗ると、嫌がらせを受けたりもあり、そそくさとその場から逃げることもあった。それは、笑いにできなかったということもあったからではないか。

出張で東京に行ったときに、向こうの人間は、かわいそうだと思っていたから、福島では、思いっきり空気をすえないんだと自虐的に言ったら、本気にされて驚いたことがあった。

震災でも福島市ないと浜通りの津波被災地では、違いがあるのか、どうなのかファシリテーターから話がふられた。

浜通りに住んでいて、自分は大きな被災はなかったのですが、自分の姉の嫁ぎ先が被災し、泥や大洲海岸の松が家の周りや家の中に流れ着いていました。当時、お店で買い物することも難しい状況だったため、被災した家の中の冷蔵校の食材を松を乗り越えて取りに行ったのですが、その食材は、袋がドロドロだったため、川で洗って食べれるようにしてましたからね。その光景は、ほんと笑える状況でしたよね。

でも、それは、被災したお姉さんたち自身は笑いとして話せたのだろうか?本人が、笑って話せるかどうかではないか?

しかも、当時火力発電所に勤めていた兄が、津波で建物にとどまることを強制されていたが、家族が心配で、周りが真っ暗な中、その辺にあった自転車で先を探りながら、親戚の家まで夜中に帰ってきたと聞いて、すごく大変なことだと思うんだけど、それを本人が笑って話せるかどうかじゃないかな?と、近くにいてもその助かった当事者が笑いにできたかどうかではない?

しかし、中には「笑い」として扱うにはシビアすぎると被災事故もあったでしょう。

笑いにできるかどうかは、当事者だけの特権ではないでしょうか。当事者以外には、難しいかと。

笑いは、悲惨な現実を受け入れるとかという話できたけれども、笑いは、コミュニケーションとしても使えるのではないかと思います。放射能の話などでは、正しさと正しさのぶつかりあいで、どちらも譲らない状況が生まれているが、茶化しながら、「なんでやねん!?」といった関西的なノリで、伝えるということが笑いにはできるのではないかと思います。日本では、ザ・ニューズペーパーのような集団が政治のネタを笑いにして伝えるということができているように。

先程の方の彼女が転んで笑ってしまったという話からは、あ、そういう時は、笑っちゃダメなんだな、って学べたけど、ちょっと厳しい被災事故のケースもあるのではないかと思う。程度の差っていうのはあるかと。。

やはり、当事者の特権というのはあって、先程の発言者も、話す前まではトラウマがあって話せなかった時期があると思うけど、こうして笑い話として話せるようになったというのはあるでしょうね。その出来事を対象化できるかということも関係しているのでは。その経験と距離をとれるとか。

神聖喜劇というのを最近読んでいて、これは、ダンテの神曲の日本語訳なんです。つまり、人間のどんな出来事も神の目から見れば、喜劇だと言えるということかと思ってます。

「人生はすべて笑いになる」という本を読んだことがあります。

シビアな被災事故などの話が笑えないのは、死がかかわっていることが大きいと思います。死んでしまったら、笑いにならないですよね。距離があれば笑えるというが、横浜で、ヘリの水かけを見ていたが、皆さんと違って全然笑えなかった。福島にいた皆さんと違って、真剣に成功を願っていた。距離があったので、笑いがなく見ていた。福島にいなかったから、笑いには至らなかった。それは、地理的な距離ではなく、確実に身の安全が確保できていれば、原発から近いかどうかは関係なく、気持ちが原発の問題に近くて真っただ中にいて、真剣に考えていた。

笑いは、心の余裕の度合いによって違うと思います。原発の爆発の瞬間は、驚くけど、だんだんその状況に慣れてきて、心の余裕が生まれて、水をかけている状況も笑いが生まれたのでは。

余裕・ゆとり・距離・ギャップというのがポイントとして挙げられました。

横浜で仕事をしていた時、銀行の担当者が富岡の出身だった。その人の母親が富岡に残っていた。その人と原発の話をしましたが、その人も笑えてなかったです。自分は、半年後に福島に戻り、不幸コミュニティに一度入ってから、横浜にもどったら、「靴の裏に放射能ついてるよ」と笑いにできた。不幸コミュニティに一度参加すると、笑いにできました。職場の同僚も、その笑いにのってくれて、普通に笑ってくれました。

生きているから笑える。死んでしまうと笑えない。死んでしまうと当事者が居なくなるから笑いにできなくなりますね。

「触って、話して、見て楽しむ美術鑑賞ワークショップ」のご案内

2016年10月30日 15時33分07秒 | 開催予定
「触って、話して、見て楽しむ美術鑑賞ワークショップ」のお誘い

このたび、福島県立美術館が主催する、視覚障がい者の方と美術作品を鑑賞するワークショップにてつがくカフェ@ふくしまが協力させていただくことになりました。なんと、あのロダンの作品を触りながらですよ!!
以下、哲カフェ常連であり、主催者の荒木康子さんからのご案内です。



※写真はイメージであり、実際に触れる作品とは関係ありません。
もっとも、皆さんでこんな感じで考え合いましょう!

このたび、福島県立美術館は、てつがくカフェ@ふくしまさんとともに、視覚障がい者の方と美術作品を鑑賞するワークショップを開催いたします。
美術館では2011年から毎年1回、「視覚障がい者のための鑑賞ワークショップ」を開催してきました。
それは学芸員にとっても刺激的な体験でした。
見えない人の鑑賞をサポートするために、見える私たちは、ひとつひとつの「言葉」の意味や使い方を吟味し、想像力をフル活動させることを要求されます。
そして見えない人との対話を通じて作品についても多くの発見をし、普段私たちが当たり前にやっている「見る」とはどういうことなのか、あらためて考えることになりました。
それは視覚に寄らない世界の把握の仕方に思いを馳せるきっかけにもなりました。

視覚、触覚、聴覚、そして時には嗅覚、それぞれ得意とする感覚が違う人たちが集まって、お互いに補いながら鑑賞をしてみたらどうだろう。
そんな考えからこのワークショップの準備が始まりました。
福島県立美術館の作品を、見える人見えない人の区別なく、地域の皆さんと一緒に楽しんでいただくことがこのワークショップの目的です。

視覚中心の美術館ですから、「見えない人が鑑賞する」ことに比重が置かれることにはなります。
見えない人の鑑賞(触察)の傍らに立ち、サポートし、そして言葉を重ねることから、いつもとは違った美術作品の楽しみ方を味わっていただきたいと考えています。
ちなみに、今回鑑賞するのは、昨年度寄贈されたロダンの彫刻作品です。
そして鑑賞が終わったら、参加者みんなでてつがくカフェをやり、鑑賞体験を共有し深めましょう。

皆さまのご参加をお待ちしております。 (福島県立美術館学芸員 荒木康子)

日 時:2016年11月3日(木・休)①10:30-12:00、②14:00-15:30
※おかげさまで①②の部はいずれも定員に達しました。
鑑賞作品:.オーギュスト・ロダン作品
 (1)彫刻 《影》の頭部 制作年不詳 ブロンズ
(2)彫刻 髪をすく女 1900年以前の制作 ブロンズ 

場 所:福島県立美術館 講義室・常設展示室B

講 師:真下弥生氏(ルーテル大学非常勤講師)
半田こづえ氏(筑波大学人間系障害科学域助教)

参加者:視覚障がい者(定員・各回6名、同伴者を除く)
てつがくカフェ@ふくしま参加者(定員・各回5-6名)

参加費:無料

参加申込:下記の【 】内の内容をご記入の上、fukushimacafe@mail.goo.ne.jpへメールでお申込み下さい。
【ご氏名】
【参加希望時間】①か②をお書き下さい。
※定員に達した時点で申込受付を終了させていただきます。
※参加希望を受け付けましたら、メールにて返信させていただきますので、パソコンからのメールを受信できるメルアドをお知らせください。特にパソコンからのメールを受信しない設定でなければ、そのまま返信させていただきます。


主催:福島県立美術館
協力:てつがくカフェ@ふくしま、福島県点字図書館、福島県立美術館協力会