いつもながら哲カフェのテーマをどうするか思い悩んでいた時のことです。
ワタクシの書斎に掛けてあるP.ブリューゲルの『
狂女フリート』を、何気なくボーっと眺めていると「これだ
」と何かが降りてきたのです。
こんなわけのわからない絵、きっと皆もおもしろがってアレコレ謎解きに思考をめぐらすに違いない
何より、こんな素晴らしい絵に、みんな「いいね
」と思ってくれるはずだ、と我ながら独りほくそ笑んでいたのでした。
しかし、この絵画で哲カフェしようと小野原さんに提案すると、この絵を見ても「自分が何も思いつかなかったことにびっくり
」と微妙な反応…
まぁ、アート音痴を自称するくらいだから例外的な反応だろうということにして、若干の不安を抱きながらも、いざ決行
すると、当日はこの実験的な試みにもかかわらず18名の方々にお集まりいただきました。
が、カフェが始まってみると、
「この絵を見ても何も思いつきませんでした。」
「この絵が美術館にあったら素通りします。」
「好きじゃない。共感するところがない。」
「理解できない」
「陰惨で、イヤな感じがする。」
というネガティブなご感想のオンパレードです。
むーーー
内心「……(ヤバイ
この絵を書斎に飾っていますなんて口が裂けても言えない…)」と冷や汗を掻いていたものです。
まぁ、美的な判断は、まず「快/不快」という感性が先立って判定されるというカントの『判断力批判』の話に従えば、こうした感想から対話が切り開かれるのは、至極真っ当な展開です。
しかし、全体的に「この絵は不快である!」という空気が、その場を支配します。
そんな中、「この絵はおもしろい
と思いましたね」と言う意見が飛び出します。
その理由を、日本の絵巻物のような物語性がある点に見出せること、そして構図がきっちり計算されていることにあるとのことです。
特に、この絵は何を物語っているのかという点を考え始めていると切りがないし、日本でも地獄図があるけれど、それに近い。
ただ、これは人間社会の負の部分を描いているのではないか。
世の矛盾、ホンネ、風刺画。
陰惨に感じる絵でも、そうした意味があるのではないか、と言います。
さらに、
鳥獣戯画のように、見えないものを描きあらわしたのではないか、という意見も出されます。
「見えないものを描き表わす」とは、現実社会をひっくり返すとこうなっていませんか、と表面的には平穏に見える現実世界を陰惨な絵の表現で、象徴的に、寓意的に描くことを指すと言います。
その上で、やはりこの絵から想い起すことは原発事故のことで、周囲の混乱の中、中央の女性(フリート)が鎧をまとって逃げていくなどは、あの時の避難を思い出されてリアルな感じがすると言います。
もしかすると、この中央の女性には見えない敵が見えているのかもしれない。
この間、テーマも作者も年代も明かさないまま対話を続けたわけですが、参加者の中には、なんとなくこれは中世ヨーロッパあたりではないかとの推測される方もいらっしゃいました。
けれど、そうした時代の違いなど関係なしに、現代の自分たちの状況に重ね合わせてこの絵から感じることが述べられたわけです。
これに関しては、映画作品もそうだけれど、絵画もまひとたび発表されれば、それは作者の意図から離れて、受け手や見る側のものになるのだから、そうした見方はもっともであるとの意見も挙げられます。
すると、一見、陰惨な絵だけれど、中央の女性は「
民衆を導く自由の女神」に似ていて、周りは地獄だけれど、その視線の先をしっかり見据えているという点で、むしろ明るさを与える絵だと感じたという意見が挙げられました。
それは「未来を見据えている」と言い換えてもいいのかもしれません。
実は、ワタクシもこの絵を暗いと感じたことはなく、むしろ、ユニークなキャラが多様に描かれており、一見深刻な状況に見えますが、その中に滑稽さが含まれているように思われるのです。
それに、それぞれの行為や場面、キャラの意味がわけがわからないということは、かなりの程度、それを見る側の想像や解釈に自由が委ねられているということなのだと思います。
「人間の愚かしさを表していて、そこからは永遠に脱出することはできないことを表している」という意見も、そのような自由な解釈一つでしょう。
また、この絵は何に対して闘っているのか、何が原因で争っているのか、この絵に描かれる人々はどういう関係なのか、それが容易に整理して理解できない構図になっていることが、この絵に惹きつけられる理由ではないかという意見が挙げられます。
さらに、女性がやたらと多いことも気になる点だと言います。
たしかに、女性たちが闘っている場面などばかりで、人間の男の存在はほとんど確認できません。
それに関して、作品左側に描かれる巨大な目玉を持つ城壁は「権力」=「男性」を意味しており、その視線の先には、その権力に翻弄される女性たちの姿が対照的に描かれているという意見が出されます。
権力に翻弄される生活に敏感なのは女性であり、中央の女性が鎧をまとい剣を握りしめながら、鍋や食料、フライパン、貴重品箱を抱えている姿は、生き残ることや、種の保存ということに関しては女性は男性より敏感で、判断力があるという意見が少なからず挙げられました。
一方、この作品の中に描かれる世界を、当時や現在の外的状況に重ね合わせて解釈する意見が多い中、自分の心のカオスと向き合わせられる鏡のような作品として位置付ける意見も挙げられました。
それによれば、作品中の女性本人たちも何が何だかわからないまま混乱しているのだけれど、それは夢の中でよく見る無秩序と重なるし、異形の怪物たちは、それを陰惨だとしてみたくないともう人がいる一方、それを(ワタクシのように)魅力を感じるような人もいるわけですが、それは人間の心の汚い部分を掻き毟られるかのような感覚に魅力を覚えるからではないか、というのです。
自分の嫌な部分、黒い部分を見つめることは、決して心地よいものではない、にもかかわらず、それにあえて向き合わせる絵だという解釈は、とても新鮮で個人的にはかなり共感的に頷けるものでした。
次第に、対話は絵の場面と行きつ戻りつしながら、色々な場面に目がいきわたるようになっていきます。
すると、画面中央下にある橋に注目する意見が出されます。
それによれば、中央の女性が渡りきった橋の此岸と彼岸が、ある種の境界線を意味していないかというのです。
すなわち、に囲まれた向こう側は、城壁に囲まれた「文明の世界」だとして、こちら側は怪物たちが蔓延する「自然の世界」であり、中央の女性はその境界を一方踏み出して、こちら側=自然の世界へ渡ろうとしている。
つまり、彼女はその境界線上のあいだにある「両義的」な存在であり、ある種「曖昧な」存在なのかもしれないということです。
そういわれると、彼女は女性でありながら男装をまとっているという点でも両義的であるともいえるし、自然/文明という区分は、さらに正気/狂気のあいだにある存在だとも言えるでしょう。
しかし、仮にその解釈の通りだとすれば、なぜ彼女は自然=狂気の方へ向かい歩くのか?
対話の冒頭では、未来を見据えているかのような明るさを見出す意見が挙げられていましたが、しかし、果たして彼女は正気で見据えているのか?
不思議なことに、こうした対話を重ねるうちに、彼女の表情、眼を見ると正気にみえるようで、どこか虚ろな表情のようにも見えてきます。
いやいや、正気ではないから狂気だということなどと、どうして言えるのか?
向こうから狂気に見える此岸も、こちらから見れば正常な世界だともいえるではないか。
あるいは、文明=正常な世界に浸食し始める怪物を必死でくい止める場面を見ると、どうしようもなく街に侵入してくるペストにも見えるという意見も挙げられます。
この意見を出した方が、果たしてこの絵が「狂女フリート」というタイトルであることを知っていたのかどうか、ということは確認しませんでしたが、図らずもタイトルと関連する「狂気」が論点になったのは驚きです。
ここで、タイトルを明かすかどうか迷ったのですが、対話の流れで明かした方がより論点が明確になると考え、ファシリテーターの方から『狂女フリート』であることを告げさせていただきました。
カフェ終盤、この絵を見ても全く何も考えを思い浮かべられなかったという小野原から、この絵に関する文字情報を知った上でないと絵画というのは解釈してはいけないのか。少なくとも、そうした情報がなければ、作者の意図から外れた恣意的な解釈になってしまわないか、といった「アートdeてつがくカフェ」の在り方、方法の根幹を問う質問が投げかけられました。
よく、美術館などの先品展示の脇には、解説がついている場合がありますが、これを読んで作品の背景を理解した上で鑑賞してきた方々からすれば、やはり絵画そのもので考えるということには抵抗があるようです。
ただ、西洋の宗教画がそもそも文字を読めない人々に対して宗教的意義を理解させる役割を果たしてきたことからすれば、文字情報なしに解釈することは必ずしも不当ではないように思われます。
もちろん、作者の意図を完全に誤解したままで得手勝手に解釈することでよいのだ、と言い切るわけにはいきませんが、すでに冒頭で作品は公開された後では作者から離れて観衆の自由に任されるという意見も挙げられており、とりあえず予備知識なしで考え抜くスタイルでよいのではないか、ということが確認されました。
ただし、これはなお、映画作品や文学作品同様に、今後の方法論的な課題として考えなければならない問題であるでしょう。
その点を確認したうえで、この絵にタイトルをつけるとすれば、それは『
小さき声のカノン』であると言います。
これは、3月にフォーラム福島で上映された鎌仲ひとみ監督の映画作品のタイトルです。
被曝を避けるために脱出する母親たちの姿は、まさに放射能という目に見えない「怪物」たちと戦う姿であるというわけです。
これに対して、基本的にその解釈に同意しつつも、ワタクシの方からは若干それとは異なる解釈を挙げさせていただきました。
たしかに、画面やや右側で怪物たちと戦う女性たちの姿は、放射能と戦う母親たちの姿に重ねられます。
では、この「狂女フリート」はその中の一人か、というとそういう存在には見えません。
つまり彼女は子どもを守ろうとしているわけでもなく、守るべき城壁に囲まれた街を守ろうともせず、単に自分自身を生き延びさせるために前方を凝視して、生き残れるかどうかわからないけれど、このまま滅亡する街に残ることは間違いなく死を意味するとばかりに、一か八かで「自然=狂気=怪物」の世界に飛び込もうとしている姿ではないでしょうか。
そして、その彼女が「狂気」と名指されるのは、実は脱出の理由として「自分自身の身を守る」ということが暗黙に正当化されない社会の側から見るからではないでしょうか。
誤解を恐れずに言えば、たしかに子どもを被曝から守るために避難している母親たちには、もちろん正当性が与えられているのですが、そこで闘わず、単に「自分自身の身を守る」ためだけの避難=脱出は、意外にも暗黙のうちに「わがまま」として不問にされてこなかったでしょうか。
だから権力の側からも、それに抵抗する側からも「狂気」と名指される存在、つまりその両方の世界から正当な位置づけを与えにくい象徴が、「フリート」ではないか、ということです。
しかし、くりかえすように、それは果たして「狂気」なのか、という問いは依然として残るわけです。
それに関して、既存の社会から抜け出して「新政府」をつくろうと考え出した
坂口恭平氏を想い起したという意見も挙げられました。
たしかに、自給自足を目指して既存の社会と切り離した原始共同体を作ろうという試みは、日本でもいくつか例が挙げられますが、やはりどこか狂気じみていると受け取られる側面があることは否定できないでしょう。
こうした対話を続けて行くうちに、この絵自体が、「狂女」の主観的な心像風景ではないかと思えてきという意見が挙げられました。
つまり、周囲は平穏で何事もない世界であるにもかかわらず、彼女自身の主観的な心的世界では、こうした混乱に満ち満ちているというわけです。
しかし、この意見に対しては、いや、そうではなく、「狂気」はあくまで外的世界のそこかしこに偏在するものであり、これが一個人の内面世界であるのではないという意見が挙げられます。
むしろ、この「フリート」には、その遍在する狂気の世界を軽やかに渡り歩く身軽さが示されているのではないか、というのです。
最後に、戦争体験のある世代から、戦争当時の群馬の家のことを色々と思い出したという意見が挙げられました。
この絵の背景を覆う赤い炎は、当時の伊勢崎を襲った空襲の炎を想い起させる、とても恐ろしい情景だというのです。
だから戦争はあってはいけない。
にもかかわらず、戦争の話題がこの絵から出てこなかったことは、やっぱり戦争を知らない世代の方々が多いのだなぁという感想を持たれたというのです。
様々な世代が集う哲学カフェならではの締めくくりでした。
さて、この第1回アートdeてつがくカフェは成功したのでしょうか?
かなり微妙な感じです。
それは、
参加者感想にもあるように、やはり入り込みにくいという感想が少なからず挙げられたことから、なんとなくそのビミョーさが伝わってきました。
そもそも、今回は「イヴのもり」さんのお計らいで、プロジェクターでウィキペディアから引っ張ってきたデジタル画像を映し出して、対話を行ったのですが、「これ、本物の作品を見ずにやっていいの?」という、根本的な疑問も最後に投げかけられたのでした。
これは、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』が投げかける美学における根本的な問題でもありますし、その点からしても、この試みにはまだまだそうした課題と同時に、魅力的な問いが含まれていると、個人的には思うのです。
そして、その課題を考えるために、ぜひ美術館で本物の作品を前にして、もう一度チャレンジしてみたいのです
参加者感想にもそれを望む声が数多く記載されておりました。
実は、畏れ多くも、今回の哲カフェでは、美術館にお勤めされる参加者の前でファシリテーさせていただいてしまったのですが、ぜひAさんにおかれましては、美術館+哲カフェのコラボを前向きにご検討いただければ、一同、これ以上の幸せはありません
市民に開かれた美術館/哲学の可能性を追求してみたいという欲望に駆られたという点で、やっぱり今回は意義深い会だったのではないか、と自画自賛することに致しました。
ついでにお知らせしておきますと、7月11日の開沼博さんを招いての本deてつがくカフェは、高校生も巻き込みながら、福島高校図書館を会場として開催させてただけることになっています。
街場の哲学カフェは、ずんずん
地域のハブとして様々な領域に浸食していきたいと思っておりますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。