前回書き落としたが、折口自身は『古代研究』民俗学篇2の「追い書き」で、『古代研究』に入れた論文には、「口だての筆記文が大分ゐる」と書いている。次々と類似の連想が浮かぶ折口にの思考に、自分で文字化する時間が追い付かなかったと思われる。そのために、実証を緻密に積み上げて結論を導くような論文ではない。いきなり結論が提示されたり、根拠が示されなかったりする。口述で連想の赴くままに問題について語ったものが、論文となる。だから、「大嘗祭の本義」にも、数字で項立てがあるだけで項目の表題はなく、どう読み込むか読者の力量に任されている。そうした点では、文学作品あるいは評論といってもよいかもしれない。(こんなことは既にいいふるされているが)
そして、筆記者について「近いところでは、袖山富吉さん・小池元男さん・小林謹一さん・向山武男さん・岡本佐氐さん等の講演のうとも貸して貰うた。」と書いているが、個別に誰かは不明である。
さて、「大嘗祭の本義」の内容の分析に入ろう。知りたいのは、「大嘗祭の本義」の核心部分とは何かである。安藤礼二は、大著『折口信夫』において、「そのポイントは二つに絞られる。一つは天皇の権威の源とされた「天皇霊」という存在であり、もう一つは、その「天皇霊」を身体に受け入れ、新たな天皇として死から復活してくるための装置となる、つまりは王権が更新されるための装置となる「眞床襲衾」という存在である。「大嘗祭の本義」は霊魂論にして王権論だった。」(安藤礼二『折口信夫』258頁 講談社 2014)と述べる。いきなりそこに行く前に、全体を少し見通したい。
「大嘗祭の本義」は、15の項からなっている。番号ばかりであるので、内容が知れない。そこで、全く私の個人的な感覚で、キーワードと思しきものを以下のように抜き出してみた。
まつりごと、御言持、大嘗祭、新嘗、神嘗祭、秋祭り、冬祭り、まなあ、天皇霊、たまふり、すめみまの命、真床襲衾、高御座、中天皇、寿詞、風俗歌、東歌、みそぎとはらえ、廻立殿、物忌みの褌、直会、五節の舞い |
これでは、かえってわからないかもしれない。安藤礼二に倣っていうなら、この中でも重要なのは「天皇霊」と「眞床襲衾」である。折口がいつからこれらの用語を使い始めたか、『國學院雑誌』掲載の論文から拾ってみると、「眞床襲衾」は昭和2年10月号の「貴種誕生と産湯の信仰と」であり、「天皇霊」については『古代研究』の「大嘗祭の本義」まで使われず、それ以前は、「外来魂」とか「まなあ」と呼んでいる。外来魂とそれを身体に憑けるタマフリとは、昭和3年8月号の「大嘗祭の風俗歌」から使われる。王権の源泉として、外来魂つまりマレビトを想定したのは、師である柳田から離反する論理である。柳田にいわせれば、天皇の力の源泉は祖先神とそれを祀ることができる権利だから。昭和の初めに、天皇の力は血統ではなく外来魂を身体に憑けることだといった折口は、かなりな勇気がいったことと思われる。ミコトモチ、つまり神の言葉を伝える人は、それができるならば、誰でもいいことになるのだから。