民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

「大嘗祭の本義」再考ー4

2019-07-14 16:30:57 | 民俗学

前回落としたが、折口が「大嘗祭の本義」で取り上げていることが、もう一つある。大嘗祭を執行するにあたり厳重な物忌みをした天皇が廻立殿で湯あみして悠紀殿に入るのだが、湯あみすることで物忌みから解放され、性も解放されて中宮(律令以前は高級巫女とだろう)と聖なるセックスをするというのである。このことは、かなり詳しく折口は解説している。柳田なら絶対に書かない話題であるが、今回は詳しく立ちいらない。

さて、折口の大嘗祭の理解に対して、岡田荘司は文献史学から完全否定の立場をとる。「私の理解する大嘗(新嘗・月次の神今食を含めて)の祭儀の本旨は天皇親祭による神膳の御供進と共食にあり、いわゆる”真床覆衾”にくるまる秘儀はまったくなかったと考えている。秘儀とは前者のみをさしていう。」(岡田荘司『大嘗の祭り』 学生社 平成2年)と述べ、天皇家先祖の霊を祭り、共に食事をすることが大嘗祭だというのである。確かに文献上では、新天皇が寝具に包まるような所作は確認できないとしても、折口説を根も葉もない幻想だと言い切ることができるだろうか。

古いムラの地主クラスの通婚関係を調べると、共通していることがある。それは、村内婚は決してしないでかなり遠くのムラの、やはり地主クラスの家と婚姻を結んでいることである。村内で婚姻すると、その家と同程度の家格となってしまい、村内の秩序を保つ上で具合が悪かったのである。だから、村外の同程度の家格(価格は結局、所有する土地の広さによる)の家と婚姻を結ぶことになる。所有する土地が広くなるほどに、はるか遠くから嫁をもらう、あるいは嫁に行くことになる。人が天皇という絶対者になるとき、階段を順番に上るように天皇位につくことで、納得できるだろうか。AがなれなくてBがなる。あるいはCがなるかもしれない。ある範疇の中の有力者であるAとBとCとにはいかほどの違いがあるのか、という疑問がどうしても生じてしまう。だから、地主が村内では婚姻相手を選ばないように、天皇になろうとする者は、ある範疇の中でその位を争っても、力でねじ伏せることはできても説得力のある説明でその位につくことはできない。つまり、天皇を絶対者としたら、その力の源泉は人間界の外に求めないと、その地位の説明ができない事になってしまう。中国ではそれを天といったが、支配者が支配者たるにはそうした論理が必ず必要だと私は考える。祖先神である天照大神を自ら祀ることで、天皇で無い者が「天皇」になるというのは、いかにも近代以降の者が考える論理である。岡田が、「代替わりごとに、古代の形式のままに生活空間を再現して天皇親祭が斎行されてきたことは、ここに祖霊の来臨を仰ぐ農民の家の進行とも共通点が認められ、天皇祭祀の本源的形態は祖霊との結びつきを意識したものであった。」と結論づけるのは、王権についてあまりにも無知な考えである。家々で祖霊を祀るのと同じように、天皇家でも祖霊を祀るのであるとするなら、違いはどこにあるのか。天皇家の力の源泉はどこにあるというのか。

折口が「大嘗祭の本義」で次のように述べる。

天日に身体を当てると、魂が駄目になる、という信仰である。天子様となるための資格を完成するには、外の日に身体をさらしてはならない。先帝が崩御なされて、次帝が天子としての資格を得るためには、この物忌みをせねばならぬ。(中略)大嘗祭の時の、悠紀・主基両殿の中には、ちゃんと御寝所が設けられてあって、褥・衾がる。褥を置いて、掛け布団や、枕も備えられてある。これは、日の皇子となられる御方が、資格完成のために、この御寝所に引き籠って、深い御物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂の行事である。ここに設けられている衾は、魂が身体へはいるまで、引き籠っているためのものである。裳というのは、裾を長く引いたもので、今のような短いもののみをいうてはいない。敷裳などというて、着物の形に造って置いたのもある。この期間中を「裳」というのである。

大嘗祭で新天皇が寝具にくるまるような記録はなかったというので、民俗例から物忌みはどんなことか少しあげてみたい。長野県の中信地方では、新生児は初外出の日を定め、それまでは一定期間外出してはいけないといわれた。新生児の魂は不安定で、むやみに外出すると魂がどこかに行ってしまうのである。初外出は清吾33日前後に、産土神へのオミヤマイリだとしている所が多い。安曇野市梓川村下角では、「オミヤマイリまではヒノメに当たってはいけない」といい、太陽に当てることを避けた。それ以前に外出するときは、おしめを頭にかぶせたりして太陽の光を直接あてないようにしたという。折口のいう深い物忌みとは、これではないか。また、場所を忘れてしまったが確か南信地方で、葬列に参加する女性が嫁入りに着た白い着物を袖をはずし、物忌みの印として頭にかぶった。これも深い物忌みの印として、日光に当たることを避けたものだろう。大嘗祭に臨む天皇が、深い物忌みとして裳にくるまる事が、どうしてしなかったといえるだろうか。