内御玉殿に並ぶように建つのは、十間廊です。間口3間奥行10間あるところから名づけられたといいます。板敷の床は3段になり最上段には大祝、まんなかに神職、下段に雅楽隊が座るのだといいます。ここでは祭事と神政一致のころには政治もなされたといいますが、最もおおきなものは、3月酉の日の神事大頭祭でした。当日は鹿の頭75頭をはじめ、鳥獣魚といった狩りの獲物をお供えし、諸郷の役人が参列したといいます。一般的には禁じられている獣肉を供え神人供食することから、諏訪の神は肉食を許してくれるとされ、本宮では今も鹿食免の箸が売られています。面白いことに、箸を求めて付随するパンフには、諏訪周辺のいわゆるジビエ料理店で鹿肉が食べられるところの地図がのっていました。今こそ御頭祭を復活して、鹿狩りをしなければいけないかもしれません。しかし、75頭も鹿の頭が並ぶと圧巻だったと思われます。この御頭祭は、明治以降は4月15日に行われ、本宮で例大祭をすませてから行列を整えて御神輿を渡御し、十間廊上段の間に安置して神事を行っているといいます。
前宮の説明はこれで終わりにして、下社も見なければなりません。しかし、下社の大祝だった金刺氏が滅んでしまったことから、こちらには古い伝承は残っていないのです。とはいえ、農耕神としてはまるで民俗学の教科書のような祭りを行っているのが、下社なのです。下社の例大祭は8月1日に秋宮で遷座祭とともにおこなわれます。遷座祭は2月1日にその年の農耕のために秋宮から春宮に迎えた神を、(これを神は七島八島のある御射山から流れて春宮にくるともいいます)秋宮にお返しする祭りです。お舟祭りといわれ、遷座の行列に次いで芝で作った大きな船に翁と媼の人形を載せてひきます。秋宮に神(翁と媼)は戻ったといいますが、秋宮でのオタキアゲで山へ帰ったといいます。つまり、山から下った山の神が春宮で稲の神となり、秋宮にやってきた神は山の神となってやまへ戻るというのです。少しできすぎています。
上記のような信仰的な側面よりも、下社はすばらしい神社建築として知られています。秋宮は江戸中期の名工立川和四郎の作品、春宮は柴宮長左衛門の作として知られています。
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