民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

諏訪信仰4-上社前宮

2015-10-09 18:23:31 | 民俗学

 上社前宮は本宮から2キロほど東、行政区域では茅野市にある。室町時代までは大祝の館や大祝にまつわる建物やゆかりの地があり、荘厳な雰囲気が漂っています。ただ、本殿は昭和7年に伊勢神宮の払い下げ材で建てられたといい、一般的な神社建築の様式となってしまっています。在地の神が伊勢の神に屈服した形で、残念です。ただ、本殿左側の石の玉垣で囲まれた小高い場所は、いかな悪童でも罰が当たると決して中へ入らなかった、諏訪大神の陵だといいます。また、この地へ来た諏訪の神が最初に住みついた場所だともいいます。

 先に書いた大祝とは何か説明しなくてはなりません。大祝(おおほうり)とは、建御名方神の後裔の現人神をいい諏訪氏もしくは諏方氏を名乗りました。大祝には五官が仕えました。そのトップは神長官(じんちょうがん)で、守矢氏が務めました。以下の職名と務めた氏をあげます。禰宜太夫-小出氏後に守屋氏 権祝(ごんほうり)-矢島氏 擬祝(まがいのほうり)-小出氏後に伊藤氏 副祝(そえのほうり)守矢氏後に長坂氏

 神長官は大祝に仕える者ですが、大祝を即位の儀式は神長官が取り仕切るので、大祝は現人神であっても実権は神長官が握っていたのです。

 さて、前宮や大祝が住んでいた神殿(こうどの)のあったあたりを、「神原(ごうばら)」といいます。神原の一帯が上社にとって由緒ある地であり、この世に神が住まう場所だったのです。しかし大祝の居館は今はなく、土塁だけが残されています。土塁だけとしても、天皇家以外で神として人が暮らしていたというのはすごいことです。現人神を目にしている諏訪人にとって、天皇家とはいかなるものだったか、ちょっと想像できません。神原といい神殿といい、神が本当に身近にいたことは確かです。

 さて、神殿から道を挟んだ西方100メートルばかりの所に、鶏冠社があります。今は石の小さな祠があるだけですが、ここで大祝の即位儀礼がおこなわれたといいます。大祝は8歳ほどの幼童がなり、成人すると退位したといいます。即位儀礼には、鶏冠社に今はありませんが、かつてあった大きな石の周りを幕でおおい、その中で幼童が神長官から梶の葉のついた紫の袴と山鳩色の狩衣を着せられて即位の儀式をあげたといいます。そして、即位した大祝は、内御玉殿という神宝を祀る社から、神宝の真澄の鏡を胸にかけ、八栄の鈴を鳴らして姿を現したのだといいます。この内御玉殿の横にあるのが十間廊(じゅっけんろう)です。ここで例大祭がおこなわれるのです。