民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

諏訪信仰2

2015-10-05 14:11:57 | 民俗学

 平凡社の『長野県の地名』の「諏訪大社下社」の項によると、「(諏訪大社下社は)上社とは同一の神社で、諏訪湖を挟んで並び立っており、諏訪湖の御神渡も上社の男神が下社の女神を訪ねると解されている。祠官については上社と若干の違いがあり、上社の神長官にあたる五官祝の筆頭は武居祝とよぶ。上社本宮と前宮との関係とは異なり、春宮と秋宮は全く同格で、両宮に神が半年ずつとどまるものとされている。」という。さらに、「諏訪大社上社前宮神殿跡」の項には、「なお、現前宮本殿は内御玉殿十間廊の中間の道を約200メートルほど登った所にあり、明治29年に諏訪大社上社の前宮として引き直されたのであるが、それ以前は上社の境外摂社の筆頭の前宮社として扱われている。中世の記録をみると、「諸神勧請段」には、「前宮ワ廿ノ御社宮神」とあるという。(赤字については何だわからないと思いますが、後で説明します)

 これらによれば、春宮と秋宮は全く同等な神社が、1年を分けて神の居ます時を指定したものなのです。つまり、一見2つの神社が併存するかに思われますが、ある時をとってみれば実は神はどちらか一方にしかいないのです。また、上社の本宮・前宮については、前宮は以前は本宮の摂社であったというのです。一説には、下社に春宮・秋宮の2社があるのだから、それに負けられないと本宮・前宮の2つの神社として祀ったというのです。してみると、上社・下社のレベルでは2社がありますが、その下のレベルがあたかも2つに分かれているかにみえるのは、後世の意図的な作為によるものだといえます。よって、まずは双分制によるシステムでは?という予想は外れたのです。

 しかし、実際に見て調べる中で色々興味深い事柄がありました。『長野県の地名』によれば「永正15年(1518)には下社大祝金刺昌春は上社総領家頼満に敗れた。以後金刺氏は衰運をたどり、昌春の孫金刺堯存は他国へ去り、以後は武居祝から大祝をたてるようになった。」とあります。下社大祝であった金刺氏は滅んでしまったため、下社の古い伝承は残らず古代にまで遡れるような伝承や文書は上社に残ることになったのです。そこで、次回は、明治の初めまで「生き神様」が生存した(チベットではなく日本の諏訪の話ですよ)上社前宮について説明します。


諏訪信仰1

2015-10-03 08:35:48 | 民俗学

  ずっと気になり、ポツポツと諏訪信仰の文献を読んできました。諏訪大社といえば何といっても、7年に1度の御柱で知られています。全国に諏訪社はたくさん祀られています。その諏訪大社は上社と下社に分かれ、それぞれは本宮と前宮、春宮と秋宮で構成されています。こうかくと、諏訪信仰にさして興味のない方も、2つずつで構成されるということに興味がひかれるのではないでしょうか。そうです、自分もこれって双分制のなごり?と思ってしまい、その構造や空間配置を知りたいという思いになりました。

 この諏訪4社を全て見て説明してもらえるという教員OBのある会が主催する視察研修がありまして、楽しみに参加してきました。学んできたことが多すぎて簡単にはまとめられず、確認してみなければいけないことも多いのですが、現時点では双分制かのようにきれいに見えるしくみは、長い歴史のうえで段々形成されてきたもので、簡単には論じられないことがわかりました。しかし、現代人も上社が男で下社が女、上社が狩猟神で下社が農耕神など2項対立で考えたがっていることは事実です。

 そもそも上社・下社、上諏訪・下諏訪という時の上と下ですが、地元では当たり前のように呼びならわしていますが、どうして上と下なのか、どこを起点として上下なのか人々は意識していません。また、下諏訪があって上諏訪という呼び名が後からできたとも?諏訪湖を挟んで南が上、北が下です。政治的中心となっていたのは南で交通の要地、商業都市、温泉街としては北側が栄えたようです。その北と南を結ぶのが御神渡なのです。

 4社見学してこんなものが今もあるのと思ったのは、上社前宮の諸史跡です。それについては追って書きます。拝殿で健康祈願の御はらいをしてもらいましたが、御幣に続いて鈴の音で諸厄を祓ってもらったのが印象的でした。