平凡社の『長野県の地名』の「諏訪大社下社」の項によると、「(諏訪大社下社は)上社とは同一の神社で、諏訪湖を挟んで並び立っており、諏訪湖の御神渡も上社の男神が下社の女神を訪ねると解されている。祠官については上社と若干の違いがあり、上社の神長官にあたる五官祝の筆頭は武居祝とよぶ。上社本宮と前宮との関係とは異なり、春宮と秋宮は全く同格で、両宮に神が半年ずつとどまるものとされている。」という。さらに、「諏訪大社上社前宮神殿跡」の項には、「なお、現前宮本殿は内御玉殿と十間廊の中間の道を約200メートルほど登った所にあり、明治29年に諏訪大社上社の前宮として引き直されたのであるが、それ以前は上社の境外摂社の筆頭の前宮社として扱われている。中世の記録をみると、「諸神勧請段」には、「前宮ワ廿ノ御社宮神」とあるという。(赤字については何だわからないと思いますが、後で説明します)
これらによれば、春宮と秋宮は全く同等な神社が、1年を分けて神の居ます時を指定したものなのです。つまり、一見2つの神社が併存するかに思われますが、ある時をとってみれば実は神はどちらか一方にしかいないのです。また、上社の本宮・前宮については、前宮は以前は本宮の摂社であったというのです。一説には、下社に春宮・秋宮の2社があるのだから、それに負けられないと本宮・前宮の2つの神社として祀ったというのです。してみると、上社・下社のレベルでは2社がありますが、その下のレベルがあたかも2つに分かれているかにみえるのは、後世の意図的な作為によるものだといえます。よって、まずは双分制によるシステムでは?という予想は外れたのです。
しかし、実際に見て調べる中で色々興味深い事柄がありました。『長野県の地名』によれば「永正15年(1518)には下社大祝金刺昌春は上社総領家頼満に敗れた。以後金刺氏は衰運をたどり、昌春の孫金刺堯存は他国へ去り、以後は武居祝から大祝をたてるようになった。」とあります。下社大祝であった金刺氏は滅んでしまったため、下社の古い伝承は残らず古代にまで遡れるような伝承や文書は上社に残ることになったのです。そこで、次回は、明治の初めまで「生き神様」が生存した(チベットではなく日本の諏訪の話ですよ)上社前宮について説明します。