民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

大量死と供養

2013-10-17 08:49:48 | 民俗学

病院の火災で多くの人が亡くなったと思ったら、今度は土石流で多くの人が亡くなり行方不明者もまだ多数いる。長く戦争がなく、一度に多数の人命が奪われるというできごとを忘れていたこの国は、3.11以後災害による大量死の時代を迎えたのかもしれない。福島のような晩発性の死については、今回は置いておくとして、「一度に」「多数の人命」が失われると何が起こるだろうか。
伊豆大島の被災後の写真を見ると、根こそぎなぎ倒された津波後の被災地を思わせられる。きっと家族全員がなくなってしまった方々もいるだろう。いったい、誰が供養をしてくれるのだろうか。戦後無縁仏がでることを心配した柳田ではないが、津波の被災地でも今回の土石流でも、家族丸ごと持っていかれてしまったら、後に残る人がいない。 新盆・一周忌・彼岸などと亡くなった当初は、供養のための儀礼がいくつもあるが、担い手がなければ行うことはできない。大川小学校裏にあった、地域で亡くなった方の名前を全て刻んだ石、仙台市荒浜の同様の供養塔、古くは日清戦争、日露戦争、太平洋戦争での戦没者の忠魂碑などが思い起こされる。死者を供養するというのは、生きているものの務めであり、個別に供養できない場合は、集団で供養する。中世以来この国の人々は、そうやって死者を弔ってきた。今また、大量死の時代を迎えたと書いたが、そうでなくとも個別の供養が難しい時代である。どういうことかというと、妻方夫方の2軒の家が合体して1軒になっていく人口減少社会である。2軒が1軒になるならよいが、1軒が0にもなっているのである。無縁仏が続出する世の中で、供養が人として誰もがなすべきことだとしたら、集団としての供養しかないだろうし、供養などある時代相にみられる現象で普遍的な人としての行為ではないとするなら、全てが火葬するだけ、つまり直葬の一般化が進むことになるだろう。悩み多いのは、被災地の当事者である。