民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

お伊勢参り

2016-04-25 17:29:51 | 民俗学

  

伊勢志摩サミットの下見かねて、ではありませんが伊勢参りにいってきました。サミット近しで、あちこちに幟がたち、店の人や車掌さんなどが特別警戒中とかいう腕章をまき、随所に警官が立っていました。神奈川県警というジャンバーを着た警官が多くいました。しかし、伊勢神宮には自由に入れますし警官が立っているものの、巡回しているわけではありません。茂みの奥や人通りの少ない場所は、何でも仕掛けられそうな感じで、大丈夫かなといった印象を逆に受けました。そんなことはどうでも、伊勢神宮です。

境内で感じるのは広いということと、空間を区切りたいという意思をすごく感じました。それは、塀であったり、鳥居であったり、玉砂利の白と黒の色だったりしました。繰り返し繰り返し清浄空間を作り上げていき、最後は人を入れない空間としています。内と外といってもいいと思います。神道には多分この原理しかないのではないかと思います。いかに清浄に保つかで汲々としているばかりでは、普遍宗教にはなりえません。時には世俗権力と対立してまでも、宗教原理を守るという姿勢は残念ながら神道にはありません。世俗権力におもねり、世俗権力と神道がもたれかかれあって互いを保ち続けてきたのがこの国の歴史ではないでしょうか。

だから、外宮に資料館がありますが、そこで強調されているのは宗教の原理ではなく、式年遷宮という行事が古式ゆかしく続いてきたという、神社の古さでした。古いこと=善なのです。現実と対立する余地はありません。その遷宮で新調される全ての調度品が、今では目にすることができない技術で作られているすばらしい物なのだということもわかりました。そして、強く感じたのは、古くなったらリセットして全てを新しくするという感性が、敗戦からも原発事故からも学ばないこの国の国民性を形作っているのかもしれないということです。木の文化はやさしいですが、時間がたつと朽ちていきますから、忘れられるのです。