民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

正月の風情

2014-01-07 15:48:36 | 民俗学

今日はもう7日です。七草、七日正月です。7日にはこのあたりでは、玄関など外に飾ってある注連縄を片付ける日です。昔なら、オヤスといってわっこに作ったシメの中にお供えした、つまり神様を養ったごはん餅などを粥と炊いて食べたりしました。子どもたちは、三九郎のための1回目の松集めをしました。ところが、今日の町内は多くの家で松飾は飾ったままでした。わずかに外した家は、玄関先の脇に松に注連縄をくるくると巻きつけて、集めに来る子どもたちのために置いてありました。しかし、おそらく今日は集めにきません。マンションの町会では、11日に三九郎をするので、松飾を出しておいてくれと掲示がありましたので、11日の1回でしょう。昔は、14日が小正月(ワカドシともいいました)で、内飾り、つまり神棚や台所等に供えた松飾をおろして代わりに繭玉を飾りました。そして、20日がハツカ正月でと、1週間ごとに正月が段々と遠のき、節分を迎えたのでした。それが、今はどうでしょう。7日に松を外さないのは、内飾りなどないから14日まで飾っておくのだけれど、14日が祝日ではなくなり三九郎に日取りがあいまいになって、小正月の行事も訳がわからなくなってしまいました。14日の休みをなくしたとき、民俗学会は何も抵抗しませんでした。自然になくなるものは仕方ないにしても、小正月は行政的に廃止されたも同然となってしまったのです。14日の固定した祝日を廃止した役人は、地方の民俗的生活を何もわかっていなかったのでしょう。そんな連中が、伝統文化だとか国を愛する心だのと大上段に振りかぶってとなえるのですから、文化など育つわけがありませんし、民俗学会も何にも分かっていないのでしょう。かくて、正月はいつ終わったのかはっきりしないままに、1月は過ぎてゆくのです。


渡辺京二著『逝きし世の面影』読了

2014-01-07 10:07:07 | 読書

隠れたベストセラーだという本書を新聞で知り、購入しました。内容は、近代化以前のこの国の人々の姿や感性を、幕末から明治初期にかけて来日した外国人の記録を通して明らかにしようとしたものです。外国人の感じた当時の日本各地の人々の姿といっても、肯定的なほめ言葉を集めたといってもよいでしょう。近世のこの国に暗い面があることは事実だが、多くの賛辞を贈られていることも事実なのだと著者は述べている。そこで、この本について評することはなかなか難しい。うっかりすると、日本賛辞、昔はよかった、だから近代化以前の心性に戻らなければならないとなってしまうからです。反対に、フェミニズム・オリエンタリズム・ヒューマニズムなどから見ると、にべもなく一刀両断されてしまうような内容です。
少し章を紹介すると、簡素とゆたかさ、親和と礼節、雑多と充溢、労働と身体、自由と身分、裸体と性、女の位相 、子どもの楽園、風景とコスモス、などです。こうした内容は、極めて民俗学あるいは人類学の視点に近いものですし、民俗学以上に民俗学的にエトノスを追求しているといっていいでしょう。中でも自分が興味をひかれたのは、「裸体と性」について書かれた章です。明治の初めに混浴が外国人に対して恥ずべき事と、法律で規制したことは、それほどに感性の落差があったととの例として、明治維新の学習で生徒に教えました。しかし、混浴が違和感なく受け入れられていた幕末の感性までは扱えませんでした。というか、何だかうまく説明できない違和感のようなものがありました。それは同時に、土間にスエブロを置いて家族中が入浴したことは、昔は暗くて見えなかったんだよ、といわれても、何だかすっきりしない思いと重なるものでした。今回これを読んで、裸体を見ても何とも思わない、たとえば入浴中の女性と顔をあわせても、普通に挨拶をかわしてむしろ淫らな妄想を考える自分(外国人)が恥ずかしいようなことが書かれています。もっとも、悪意のある外国人は恥を知らない野蛮人であると書いているのですが。幕末ころは、タヒチの人々と同じような感性をこの国の人々は持っていたことがわかるのです。

はじから書いていけばきりがないのですが、裸体に関する感性は1つの例なのですが、近代化以前の人々は、現在のわれわれとは異なる感性を持っていたといえるような気がします。労働をとってみますと、ありきたりの言葉で言えば労働から阻害されていない、お金のための労働ではなく、生きることと楽しむことと働くことが渾然一体としていたのです。外国人がみると、こんな怠け者はない、すぐ歌ったりどっかへ行ってしまったり人が来るといつまでも話しているというのです。そりゃそうです。働くことも生きていることのうちですから、この時間のうちは勤務でお金で労働時間を売っているなどという意識はないのです。それで、これは貧しくとも生活満足度が高いとひところ随分報道されたブータンの人々と同じだったと思ったのです。
ウルトラナショナリストの心をくすぐるような賛辞が並んでいます。解説で、石原慎太郎が本書を高く評価しているとありましたが、そうだろうと思います。分をわきまえて暮らせば人間は幸せであるし、男女同権が必ずしも女に幸せをもたらしたわけではないと、都合の良い部分だけとりだせば読めてしまうのです。 


渡辺京二著『逝きし世の面影』読了

2014-01-07 10:07:07 | 読書

隠れたベストセラーだという本書を新聞で知り、購入しました。内容は、近代化以前のこの国の人々の姿や感性を、幕末から明治初期にかけて来日した外国人の記録を通して明らかにしようとしたものです。外国人の感じた当時の日本各地の人々の姿といっても、肯定的なほめ言葉を集めたといってもよいでしょう。近世のこの国に暗い面があることは事実だが、多くの賛辞を贈られていることも事実なのだと著者は述べている。そこで、この本について評することはなかなか難しい。うっかりすると、日本賛辞、昔はよかった、だから近代化以前の心性に戻らなければならないとなってしまうからです。反対に、フェミニズム・オリエンタリズム・ヒューマニズムなどから見ると、にべもなく一刀両断されてしまうような内容です。
少し章を紹介すると、簡素とゆたかさ、親和と礼節、雑多と充溢、労働と身体、自由と身分、裸体と性、女の位相 、子どもの楽園、風景とコスモス、などです。こうした内容は、極めて民俗学あるいは人類学の視点に近いものですし、民俗学以上に民俗学的にエトノスを追求しているといっていいでしょう。中でも自分が興味をひかれたのは、「裸体と性」について書かれた章です。明治の初めに混浴が外国人に対して恥ずべき事と、法律で規制したことは、それほどに感性の落差があったととの例として、明治維新の学習で生徒に教えました。しかし、混浴が違和感なく受け入れられていた幕末の感性までは扱えませんでした。というか、何だかうまく説明できない違和感のようなものがありました。それは同時に、土間にスエブロを置いて家族中が入浴したことは、昔は暗くて見えなかったんだよ、といわれても、何だかすっきりしない思いと重なるものでした。今回これを読んで、裸体を見ても何とも思わない、たとえば入浴中の女性と顔をあわせても、普通に挨拶をかわしてむしろ淫らな妄想を考える自分(外国人)が恥ずかしいようなことが書かれています。もっとも、悪意のある外国人は恥を知らない野蛮人であると書いているのですが。幕末ころは、タヒチの人々と同じような感性をこの国の人々は持っていたことがわかるのです。

はじから書いていけばきりがないのですが、裸体に関する感性は1つの例なのですが、近代化以前の人々は、現在のわれわれとは異なる感性を持っていたといえるような気がします。労働をとってみますと、ありきたりの言葉で言えば労働から阻害されていない、お金のための労働ではなく、生きることと楽しむことと働くことが渾然一体としていたのです。外国人がみると、こんな怠け者はない、すぐ歌ったりどっかへ行ってしまったり人が来るといつまでも話しているというのです。そりゃそうです。働くことも生きていることのうちですから、この時間のうちは勤務でお金で労働時間を売っているなどという意識はないのです。それで、これは貧しくとも生活満足度が高いとひところ随分報道されたブータンの人々と同じだったと思ったのです。
ウルトラナショナリストの心をくすぐるような賛辞が並んでいます。解説で、石原慎太郎が本書を高く評価しているとありましたが、そうだろうと思います。分をわきまえて暮らせば人間は幸せであるし、男女同権が必ずしも女に幸せをもたらしたわけではないと、都合の良い部分だけとりだせば読めてしまうのです。