民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

内藤理恵子『現代日本の葬送文化』を読む

2013-05-29 09:47:39 | 民俗学

本書は、著者の博士論文「葬送文化の今日的変容ー現代日本における社会変動と新たな葬送文化の形ー」をベースにして刊行したものだそうです。先行研究を整理して問題点を洗い出し、仮説をたてて調査し、結論を導くというセオリーどおりの論旨であり、よくまとまっています。よくまとまっているのが曲者で、叙述が心に響かず、読み通すのにかなりの時間を要しました。若い人にとって、手っ取り早く実績を残すのは大事なことだと思われますが、そんなに簡単に自信たっぷりに結論を導いてしまって、よいものでしょうか。ともかく、目次を見てみましょう。

序章
第1章 伝統的な葬儀のあり方と死者儀礼の諸相
第2章 社会変動と葬送儀礼という問題提起
第3章 都市化状況における葬送儀礼の商品化
第4章 現代日本における納骨堂の変容
第5章 現代日本における墓石の形状変化
第6章 手元供養にみられる文化変容
第7章 インターネット供養
第8章 ペットの家族化と葬送文化の変容
補説 サブカルチャー世代における世俗化の進行
第9章 現代日本における葬送文化の変容の全体像と今後の課題
終章

著者は本書における研究の目的を、「葬送文化ということに焦点を当てて、それが今日の日本社会の変動とともにどのように変容してきているのか、その現在形を明らかにしたい」と述べる。研究内容は目次にみるように、3章までは葬儀の変化について、4章以降は遺骨の処理と供養について現代にみられる現象をとりあげ、その多くを過去の習俗が社会の変化に伴って形を変えたものだと結論付け、今後の変化をうらなっています。
先に、著者が簡単に自信たっぷりに結論を導くと書きましたが、たとえば以下のような記述があります。「現代日本では、死がタブー視されなくなり、穢れ意識も解体されつつある。穢れ意識の解体の理由は、科学技術の発展が挙げられるだろう。死体が朽ちていく様を人智を超えた現象とし、それを穢れとみなしていたが、それが科学的にどういった現象であるのか論理的に説明されることにより、畏れの意識もまた薄れていくのである。」科学技術の発展により、穢れ意識が解体したのでしょうか。本当に解体してしまっているのでしょうか。浅い表面だけを見た安易な結論ではないかと思うのです。むしろ深層の穢れ意識に触れないために、きたない物・恐ろしい物・見たくない物を隠して目に触れないようにし、きれいな物だけで世界は構成されているかのように偽装しているのが現在ではないかと、私には思われます。そうでなければ、現代にあっても葬儀場の建設反対運動がおこったり、ネット上でのひどい誹謗中傷など、ないはずのものです。また、次のような記述もあります。「興味深い点としては、葬儀が葬儀会館で行うものとなり、初七日が「繰り上げ初七日法要」へと変化した点である。かつての伝統習俗をそのままに、葬儀会館の都合優先で合理化した特異な事例であるといえる。現代日本では、このように消費文化によって儀礼が変容しながらも、意味自体は保つ行為も一般化しているのである。」民俗学に慣れ親しんだ者は、事例をあげる場合は地点名を記し、似た行為を複数地点示すことで一般化したものだと結論付けます。ところが、著者は地点名を示さず、身近な知見からいきなり一般化へと向かってしまいます。初七日の法要を繰り上げでおこなうのは、葬儀場での葬儀となる以前から当地ではおこなわれており、特異な事例とはいえません。このような書き急いだ記述には、違和感を感じますし、著者の意図に従って都合の良い事例だけを取り上げたのではないかといえます。著者の才気はわかるだけに、もっと慎重になるべきでしょう。

現代の民俗を取り上げるため、ネット上の言説やサブカルチャーを分析対象としている後半は、現状では評価の分かれるところだと思います。取り上げた事例がどれほど一般化されたもので、一般に流布し永続性があるのか。事例の取捨選択は筆者の「カン」以外にはありません。とはいっても、従来の民俗学においても、研究者の嗅覚がまずあって、それに都合のよい事例を探してきたのではないかといわれれば、そうですとしか言えない部分もありますから、今後の同様の研究動向に注目していきたいと思います。