今回の善光寺道は、広丘から松本までです。まず、左の写真は、村井町のはずれから少し西に入った場所にある「ブリ場」。ここまで飛騨からブリが運ばれて、市がたったという。そこは墓地に近い、あるいは墓地の一角でした。墓場に市がたつという、網野さんが喜びそうな取り合わせでした。町はずれの墓地にもなる原野で、暮れになると市がたつとは、何とも趣があります。商いと異界との結びつきを視覚として実感できる場所でした。真中は、善光寺街道が薄川をこえて松本町に入る場所、出川の川の傍にある念仏供養塔とここで処刑された貞享義民の供養碑です。出川は松本藩の刑場でした。以前から碑があるとはきいていましたが、どこか探せなくていました。今回この碑を目にできたのは収穫でした。四条河原が刑場としては有名ですが、松本でも河原が刑場だったのです。刑場をまじかに見ながら松本の町に入る旅人は、いったい何を思ったことでしょう。川を渡ってさらに町に近づくと、今では家がつながっていますが、江戸時代には博労町という町に入る口に、十王堂がありました。今はその跡地に多くの石仏が並んでいます。十王は閻魔様で知られるように、この世とあの世の境で人の行く末を判断する神です。町の牢屋から引き立てられてきた刑を受けるひとは、どんな思いで十王堂の前を通ったことでしょう。町の人々は十王堂から刑場へとつながる薄川にかかる橋を、「がったら橋」と呼んでいたそうです。刑を受ける人が泣き叫び、がたがたいわせながら橋を渡っていったので、がったら橋といいならわしたと聞きました。