民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

教育改革とは何か

2006-10-07 21:14:48 | 教育
 教育改革とは何だ。改革とは、そもそも現状がいけないから作り直すというものだろう。現政権は、そもそも今の教育の何に問題があり、改革しなければいけないというのだろう。初めに改革ありきで、問題が後からこじつけされていないだろうか。そもそも、社会現象としてある問題点を、これまでもそうであるが、教育という狭い土俵の中に囲いこみ、その中だけの責任と問題として処理しようとしていることが、教育現場に携わる者としては我慢がならんのである。定職につかない若者の増加を教育の責任と言う前に、魅力ある正規就業と企業に正規就業を促す努力を政治がしてきたかを問いたい。目先に都合のよい政策を執行しておきながら、そこから生じた矛盾を教育の責任に帰するのは、あまりのご都合主義ではないでしょうか。勝つ見込みのない戦争を始めながら、「欲しがりません勝つまでは」というスローガンを国民に押し付けた輩となんら変わりない姿を、政治家はさらしている。
 教員を能力給にして学校間で競わせるという発想は、都市の似たような条件の学校間では成立するかもしれないが、山間僻地を多くかかえる地域ではどうなるだろう。好んで通勤に時間のかかる山間地へは教員は行かなくなるのが当然である。さらに、教育困難な生徒を多数かかえる学校へも、教員は好んで移動するだろうか。そうすると、自然淘汰されるのは、山間地及びいわゆる荒れやすい地域の学校となる。(もう少し説明すれば、能力給にするための地ならしとして、今は、山間地手当てなど一律に与えられていた手当ては、廃止ないしは大幅に減少されている。しからば、能力給で高い給料をもらったからといって、山間地へ行かなければならないことはないから、誰も行きたがらない。そうすると、言い方は悪いが、欲しがり手のない教員がそうした学校へいきおい集まることとなる。そうすると、保護者も満足しなくなって、ゆとりのある家庭は他地域に学校を求めるだろう。この悪循環のスパイラルが、学校を淘汰する。それがねらいというなら、返す言葉もない)そうした地域に住む保護者は、多くの通学時間をかけて遠くの学校へ子どもたちを通学させざるをえなくなる。義務教育がこれでよいのか。教育の機会均等は、税金を支払う代価として保障しなくてよいのか。
 多くの政治家はとうの昔に義務教育は見限り、自らの子弟は私立学校へ通わせているという。残念なことに安倍さんにはお子さんがなく、どこまで本当の庶民の親の気持ちがわかっているのか、私には疑問である。